第180話 何が来るか知らないまま、それでも同じ場所で感じるのか確かめる
翌朝の生活観測区画には、久しぶりに明るい陽射しが差し込んでいた。
ここ数日の雨で濡れていた庭の石畳も、窓に近い側から少しずつ乾き始めている。木々の葉にはまだ雫が残っていたが、風が通るたびにそれが細かな光となって落ち、朝の静かな庭へ小さな音を散らしていた。
アリシアは寝台の中で目を開けると、しばらく天井を見つめた。
今日の試験では、何が行われるか分からない。
滑らかな十呼吸かもしれない。
前半寄りへ小さな変動が入るかもしれない。
後半寄りへ戻されるかもしれない。
三つの条件すべてについて説明を受け、安全範囲にも同意している。それでも、そのうちどれが今日使われるのかは知らされない。
考えれば考えるほど、胸の奥にいつもとは違う緊張が生まれた。
昨日の夜は怖さ五だった。
今朝、身体そのものに異常はない。冷感も震えもなく、息苦しさや頭痛、腕の重さもない。疲労は寝起きとして一程度で、試験を避けなければならない身体的理由は見当たらなかった。
けれど、怖さは身体とは別に残っている。
「……怖さ、四」
声に出すと、窓辺で丸くなっていたノアが片目を開けた。
『下がったじゃない』
「一個だけ」
『昨日は五だった』
「寝たらちょっと下がった」
『やりたい気持ちは?』
アリシアはすぐには答えず、枕元の練習帳へ手を伸ばした。
昨日最後に書いた一文をもう一度読む。
『今度は、私が“戻した”と知らない形で確かめたい』
読み終えてから、ゆっくり口を開いた。
「八」
『まだ高い』
「うん」
『何が来るか知りたい気持ち』
「十」
『それは隠す意味なくなるから我慢しなさい』
「分かってる」
『本当に?』
「聞きたいけど、聞かない」
アリシアは少し笑った。
「昨日までなら、知りたい十って言ったら、たぶん聞こうとしてたかも」
『今も聞こうとしてる顔だけど』
「顔だけ」
『質が悪い』
「ノアの方が毒舌の質悪い」
そんなやり取りをしているうちに、隣の寝台から子供が起きた。
子供は眠そうに目をこすりながら、アリシアの方を見る。
「今日は何するか知らない日?」
「うん」
「アリシアも知らない?」
「知らない」
「先生たちは知ってる?」
「たぶん決めたら知ってる。でも私は教えてもらわない」
子供は少し考えた。
「怖い?」
「四」
「見たい?」
「八」
「知りたい?」
「十」
「一番高い」
「そこはどうしようもない」
子供は少し笑った。
「でも聞かない?」
「聞かない」
「すごい」
不意にそう言われ、アリシアは少しだけ目を瞬いた。
「何が?」
「前、知りたい九とか十だと、すぐ行きたかった」
「……そうだったね」
「今日は知りたい十なのに、知らないままやる」
「その方が分かることが増えるかもしれないから」
「じゃあ、知らないのも使える」
「たぶんね」
言いながら、アリシアは少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
知ることだけが前へ進む方法ではない。
知らない状態を残すことも、今は一つの方法になっている。
◇
朝の顔のない存在は、寝台の端へ腰掛け、両手を膝へ置いていた。
子供はいつも通り、昨日の記録を見ずに先に現在の胸の光を確認する。
「二つ明るい。二つ弱い」
十一のうち四つが見えている。
昨日の夕方も明るい二つ、弱い二つだったが、子供はそのことを口にする前に紙へ位置を書き込んだ。
明るい二つは少し離れた位置にあり、弱い二つのうち一つは端に近い。もう一つはかなり淡く、角度を変えると消えて見えるほどだった。
「こっち、弱いより見えにくい」
「横に書く?」
アリシアが聞く。
「うん。“かなり見えにくい”」
全部描き終えてから、昨日夕方の記録を並べる。
「数と明るさは同じ」
「位置は?」
「一個近い。三個違う」
「じゃあ、内訳は同じだけど配置は違って見える」
「うん」
子供はそのまま書いた。
顔のない存在はまだ立ち上がらない。
今日は歩数欄を空けたまま、朝の観察を終えた。
◇
朝食を終えた頃、サーラと魔導具教師が生活観測区画へやってきた。
今日は若い観測員の姿もある。
ただし、昨日までと違って机の上に波形図は置かれていない。
アリシアはそれを見ただけで少し緊張した。
「決めた?」
サーラへ聞く。
「学院側では決めています」
「教えない?」
「教えません」
「本当に?」
「昨日アリシアさん自身が希望しました」
「覚えてる」
『聞くだけ無駄ね』
ノアが横から言う。
「聞きたくなるのは別」
若い観測員が少し笑う。
「僕も知ってますけど言いませんよ」
「先生、顔に出さないでね」
「え」
「今ので怪しい」
「何も出してません」
『もう喋らない方がいいんじゃない?』
「猫にまで言われた」
緊張していた空気が少しだけ緩んだ。
そのあと、サーラが表情を戻す。
「まず夜間記録からです。東側奥部新反応は基準範囲内。西側補助連絡線も大きな変化なし。名前のない光、小空洞にも新しい反応はありません」
「身体は今朝も平気」
「治療教師の確認でも問題ありません」
「じゃあ実施できる?」
「条件上は可能です」
アリシアは一度、深く息を吸った。
ここから先は、自分で何が来るか決められない。
三つのどれでもいいと、昨日すでに同意している。
それでも、最後に参加するかどうかは今の自分が決める。
「参加意思、八」
「怖さは四のまま?」
「うん」
「何が来るか知りたい十」
「そこも記録します」
「反応してほしい気持ち、五」
「時刻一致が本物であってほしい気持ちは?」
アリシアは少し考えた。
「六」
「上がりましたね」
「昨日よりね」
「それでも条件を知らないまま実施したい?」
「したい」
サーラはゆっくり頷いた。
「では確認します。今日の試験は、事前に説明した三候補のいずれか一つです。滑らかな十呼吸、小変動を前半寄りへ一度加える十呼吸、小変動を後半寄りへ一度加える十呼吸。そのどれを使うかは、試験終了後まで本人へ伝えません」
「うん」
「安全基準はこれまでと同じです」
冷感二で相談し、二・五以上で即停止。恐怖五で相談、六で停止。痛みや息苦しさが一以上出た場合はその時点で刺激を終了する。
意図的な小変動が含まれる可能性があるため、冷感が一・五へ達した場合には継続意思を早めに確認する。
「分かった」
「なお、小変動が入る条件だったとしても、その時刻は知らせません」
「それも分かってる」
「途中の呼吸数も知らせません」
「うん」
アリシアはそこで少し黙った。
「一個だけ聞いていい?」
「内容によります」
「今日、本当に三つのどれか?」
「はい」
「途中で別のこと足したりしない?」
「しません」
「それならいい」
知りたい十のままでも、自分が同意した範囲から外れないことだけ確認できれば十分だった。
◇
午前中はすぐに試験へ入らず、少し時間を置くことになった。
その間、アリシアは生活観測区画で通常課題を進める。
今日は教室へ行かない予定だった。
試験前に外へ出て刺激を増やしすぎないためでもあるが、学院側から強制されたわけではない。本人も今日は静かな場所で過ごしたいと選んだ。
昨日の女子生徒から借りたノートはすでに返してある。
机へ向かい、基礎魔術史の課題を解いていると、子供が向かい側へ紙を広げた。
「これ、先生に持ってった?」
「エルデン先生の線刻の複写?」
「うん」
「昨日渡す分決めたよね」
「先生、今日持っていくって」
「じゃあ今頃見てるかも」
子供は少し落ち着かない様子で、昨日までの残りの複写を見た。
「似てるのあるかな」
「分からない」
「文字かな」
「それも分からない」
「道具の印かも」
「うん」
「飾りかも」
「うん」
アリシアが全部同じように返すと、子供が少し笑った。
「全部分からない」
「今はね」
『その言葉に慣れすぎじゃない?』
ノアが机の下で尻尾を動かす。
「悪い?」
『昔よりは良いんじゃない』
「褒めてる?」
『半分』
子供は複写の一枚を指で押さえた。
「私、黒いの何か知りたい七」
「線を知りたいのは?」
「九」
「どっち先?」
「線」
「変わったね」
「触らなくても見れるから」
暗色物体の正体へ直接近づくより、その表面へ残された線刻の規則性を知ることの方が、今は優先されている。
子供自身がそう選んでいる。
アリシアは少し嬉しくなった。
◇
昼前、顔のない存在が立ち上がった。
朝から寝台の端へ座っていた時間は長かったが、動き始めると最初の二歩は続けて進んだ。その後は一度立ち止まり、少し身体を揺らすようにしてからもう二歩進み、近くの椅子へ腰を下ろした。
「午前四歩」
子供は今見たことだけを紙へ残した。
昨日午前は五歩だった。
それでも、減ったから悪いとは書かない。
「今日は四。二歩のあと止まって、二歩」
「うん」
胸の光は朝と同じく明るい二つ、弱い二つに見えた。
ただし朝にかなり見えにくかった弱い一つは、今は少し輪郭が分かりやすい。
「朝より今は見えやすい」
「強くなったとは書かない?」
「変わったところ見てないから」
「うん」
子供の言葉に迷いは少なかった。
◇
午後。
試験室へ移動する前に、アリシアはもう一度状態確認を受けた。
痛み、息苦しさ、頭痛、腕の重さはすべてなく、疲労一。胸の違和感も神器関連感覚もなかった。
本人側は、怖さ四、参加意思八、反応してほしい五、時刻一致を確かめたい気持ち九。知りたい気持ちは依然として十だった。
「探したい気持ちは?」
サーラに聞かれ、アリシアは少し時間を置いた。
「三」
「何を探したいですか」
「小変動が来るかもしれない場所」
「ただし、そもそも小変動がない可能性もあります」
「うん。それが一番難しい」
アリシアは正直に答えた。
「何か来ると思って待ってても、今日は滑らかな十かもしれない」
「はい」
「前半も後半も待ってたら、ずっと探しちゃう」
「その可能性があります」
「どうしよう」
サーラはすぐ解決策を押しつけなかった。
「昨日まで何をしていましたか」
「外の音聞いたり、窓見たりしてた」
「今日もそれでいいと思います。感覚を見ないのではなく、感覚だけを見続けない」
「うん」
ノアが椅子の近くへ座る。
『どこかで何か来るかもって分かってるのは、結局かなり面倒ね』
「そうなの」
『でも何も来ないかもしれない』
「それがもっと面倒」
『じゃあ全部面倒』
「まとめないで」
少し笑えたことで、肩の力が抜けた。
◇
『刺激開始』
合図が入り、アリシアは正面を見る。
今日も呼吸数は数えない。
前半かもしれない。
後半かもしれない。
何もないかもしれない。
頭の中で三つの可能性が浮かぶたび、それを一つずつ追いかけないようにした。
窓はない。
代わりに、室内の奥で記録装置が発する低い駆動音へ意識を少し向ける。
胸は静かだった。
冷感なし。
震えなし。
痛みも息苦しさもない。
それでも、何が来るか分からないこと自体が緊張を作っている。
「怖さ、五」
サーラがすぐ返す。
「相談基準です。続けますか」
アリシアは少し息を整えた。
「続ける。止めたい二。参加意思七」
「分かりました。恐怖が上がればすぐ申告してください」
「うん」
何も感じない時間が続く。
そのせいで、今度は「今日は滑らかな十かもしれない」という考えが強くなった。
アリシアはそれも口に出す。
「今、何も入ってない条件かもって思った」
「記録します」
「反応してほしい六」
「感覚は?」
「ゼロ」
さらに時間が進んだ。
胸の中央にも右側にも変化はない。
だんだん、滑らかな十だと思いたくなる。
そう思った直後だった。
胸の奥へ、ごく薄い冷たさとは違う違和感が触れた。
アリシアは反射的に言葉を出しかけ、そこで一度止めた。
探したから見つけたような気もする。
でも、さっきまでの「何もない」とは少し違う。
「……待って。何かあるかも」
室内の空気が静かに張る。
「位置は?」
「中央。少し右かも。でもまだ決めない」
「冷感ですか」
「まだ分からない」
「震え、痛み、息苦しさ」
「ない。怖さ五のまま」
アリシアはその感覚を追いかけすぎないようにした。
弱い違和感は、すぐ消えなかった。
呼吸を一度、二度と続ける間に、ほんの少しだけ冷たさとして輪郭が出る。
「冷たい。〇・四くらい」
サーラの声が返る。
「方向は?」
「東……かも。でも低い」
「震えは?」
「ない」
「続行意思」
「七」
冷感は〇・四前後から大きく上がらなかった。
少しだけ位置が中央へ寄ったようにも感じたが、それを方向変化とは記録しない。
「今、〇・三くらい」
「探したい気持ちは?」
「三。変わらない」
それからしばらくして、冷たさは薄くなった。
「〇・二より下。あるかないか」
さらに少し後。
「今はゼロ」
アリシアはそこで深く息を吐いた。
刺激はまだ終わっていない。
その事実に気づいた瞬間、頭の中へ新しい疑問が浮かぶ。
もし今の感覚が小変動の近くだったなら、今日は後半寄りだったのか。
それとも前半条件で、その後まだ刺激が続いているだけなのか。
あるいは、滑らかな十なのに自分の期待で出たのか。
「今、条件当てたくなってる」
「どのくらい?」
「九」
「試験終了まで考えないことはできますか」
「できる。たぶん」
『たぶん』
ノアの声が少し離れた場所から聞こえた。
「うるさい」
思わず返したことで、また少し緊張が抜ける。
その後、追加の冷感は出なかった。
『刺激本体終了。復帰確認へ移行します』
アリシアは思わず目を見開いた。
「終わった」
「はい」
「……後ろの方だった気がする」
サーラは答えない。
「言わない?」
「身体確認が先です」
「分かってる」
◇
治療教師の確認が終わるまで、今日の条件は伏せられたままだった。
冷感は消えている。
痛み、息苦しさ、頭痛、腕の重さはすべてゼロ。疲労は二、怖さは三まで下がり、震えや魔力循環の乱れも残っていない。
「もういい?」
アリシアが尋ねる。
「身体側は問題ありません」
「じゃあ教えて」
サーラが魔導具教師を見る。
教師が記録板を表へ向けた。
「今日の条件は――」
アリシアは思わず身体を少し前へ出す。
「第176話と同じ、立ち上がり後半寄りにごく小さな変動を一度加える条件でした」
数秒、アリシアは何も言わなかった。
それから記録板へ視線を落とす。
「後半……」
「はい」
「私が“何かあるかも”って言ったのは?」
教師が波形の一点を示す。
「小変動開始から一呼吸以内です」
アリシアの指先が僅かに動いた。
「また?」
「はい」
「〇・四って言ったのは?」
「入力終了後、一呼吸程度です」
「第176話と似てる」
「時刻関係はかなり近いです」
サーラが慎重に言葉を選ぶ。
「今回は本人に、滑らかな十、前半寄り、後半寄りのどれかを知らせていませんでした」
「うん」
「そして最初の違和感は、実際に行われた後半寄り小変動の近くへ出ています」
「私、途中で滑らかな十かもって思った」
「その申告も記録されています」
「そのあと感じた」
「はい」
アリシアは胸へ手を置いた。
今は何もない。
でも試験中は、確かに弱い冷感があった。
「嬉しい……九」
『十じゃないの?』
ノアが聞く。
「十にしたいけど、九」
『何で』
「まだ怖いから」
「何が怖いですか」
サーラが尋ねる。
アリシアは少し考えた。
「綺麗すぎる」
その答えに、若い観測員が頷いた。
「分かります」
「第176話は後半で近い。第178話は前半に動かしたら前へ動いた。今日は何が来るか知らないのに、後半へ戻したらまた後ろで感じた」
「はい」
「三回」
「はい」
「全部一呼吸以内」
「現時点の記録では」
アリシアは少しだけ笑った。
「先生も慎重」
「ここで急いだら今までの意味がないので」
若い観測員が横から記録板を見る。
「でも、これはかなり強くなりましたよね」
魔導具教師も否定しなかった。
「“小変動が入った時間帯と、アリシアさんの最初の違和感申告が近い”という関係については、以前より信頼度が上がっています」
「時刻を知らなくても?」
「今回はそうです」
「滑らかな十じゃなかったって、私途中で知らなかった」
「はい」
「前か後ろかも知らなかった」
「はい」
「それでも後ろの揺れの近くで感じた」
「はい」
アリシアは両手を膝の上へ置いた。
嬉しさが胸いっぱいに広がっている。
けれど、以前のようにその勢いだけで答えへ飛びつきたくはなかった。
「じゃあ、六つ目が小変動の時刻を感じてるって言っていい?」
少しの沈黙。
サーラが答える。
「“その可能性がかなり高まった”までです」
「やっぱり」
「小変動そのものを感じているのか、小変動によって東側奥部に生じた別の変化を感じているのか、まだ分けられていません」
「東側奥部は?」
通信先へ確認が飛ぶ。
少しして返事が来た。
『今日も小変動と同じ時間帯に、奥側新反応の追加低下を確認しています』
「第176話と同じ?」
『大きさは近いですが完全一致ではありません』
「西側は?」
『解析中です』
アリシアは小さく息を吐いた。
「やっぱり東側も一緒に動く」
「そこが次の問題です」
魔導具教師が言う。
「設備入力、小変動に伴う東側奥部の追加変化、アリシアさんの感覚。この三つが近い時刻へ集まる。どこが直接の原因なのかはまだ分かりません」
「設備を直接感じてる可能性も残る?」
「理論上は。ただし距離だけでは過去の記録を説明できません」
「東側奥部を感じてる可能性」
「あります」
「途中の何かを感じてる可能性」
「あります」
「多い」
『そこは減らないわね』
「少しは減ってほしい」
◇
午後の解析では、第176話、第178話、第180話の三条件を大きな一枚の記録へまとめた。
第176話は後半寄り小変動。
本人は小変動を入れることを知っていたが、時刻は知らない。
最初の違和感は入力開始から一呼吸以内。冷感約〇・五。
第178話は前半寄り小変動。
本人は「前回より早い」ということだけ知っていた。
最初の違和感は入力開始から一呼吸以内。冷感約〇・三。
第180話は三候補から当日条件を非通知。
本人は滑らかな十、前半、後半のどれかを知らない。
実際は後半寄り小変動。
最初の違和感は入力開始から一呼吸以内。冷感約〇・四。
「冷感の強さは〇・五、〇・三、〇・四」
アリシアが指で順に追う。
「綺麗には揃わない」
「はい」
「でも時刻は三回とも近い」
「はい」
「じゃあ今は強さより時間の方が再現してる」
「その言い方なら妥当です」
設備調整担当が補足する。
「ただし、入力波形自体も三回完全一致ではありません。前半条件は基礎出力値が低い位置へ乗っていますし、後半二回も微細な形状差があります」
「だから冷感の強さが違うのかもしれない」
「可能性はあります」
「でもそれ以外かもしれない」
「はい」
アリシアは記録を見つめた。
今まで何度も「可能性」という言葉を聞いてきた。
以前は、その曖昧さがもどかしかった。
今は少し違う。
可能性を残すことが、答えを遠ざけるとは限らない。
間違った答えへ急がないために必要な余白なのだと分かり始めている。
「滑らかな十をもう一回、条件隠して入れたら?」
アリシアが尋ねる。
若い観測員が反応する。
「僕も次候補に入れたいです」
「何も入ってないのに、私が同じ時間で何か感じるか見る」
「そうです」
「でもどの時間を待つか私は分からない」
「はい」
「それでゼロなら?」
サーラが答える。
「小変動あり条件との差がもう少し強くなります。ただし、一回では確定しません」
「感じたら?」
「期待や自然変動、設備に残る別成分などを再検討します」
「どっちでも大事」
「はい」
アリシアは少し笑った。
「じゃあ次それやりたい八」
『もう次』
「今日はやらないよ」
『そこは言われなくても分かるようになったのね』
「成長」
『自分で言う?』
◇
西側からの追加報告が来たのは、解析が一段落した頃だった。
今日も、ごく弱い遅延波形が確認された。
「前回の後半条件と同じくらい?」
アリシアが聞く。
『大きさは近い範囲です。ただし完全一致ではありません』
「開始の遅れは?」
『前回と近いですが、波形が弱いため一呼吸単位より細かくは比較できません』
「私の感覚より後?」
『はい。今回もアリシアさんの最初の違和感と東側奥部追加低下より後です』
「三回とも、西側は後」
魔導具教師が頷く。
「そこも今のところ共通しています」
「じゃあ、私が西側を感じてる可能性は下がる?」
「少なくとも、“西側で波形が出た瞬間を直接感じている”という説明は、現在の時間関係とは合いにくくなっています」
「でも西側と私が同じ東側の変化へ別々に反応してるかもしれない」
「はい」
「それか途中の何か」
「はい」
「また増えた」
『減ってないじゃない』
ノアの声に、周囲から小さな笑いが漏れた。
◇
その頃、子供の方にも新しい動きがあった。
エルデン教師が昼過ぎに戻ってきた。
手には、昨日子供から許可を得て持ち出した線刻複写と、古文書資料室から借りた数枚の資料がある。
子供はすぐに立ち上がったが、箱へは近づかなかった。
「似てた?」
最初の質問がそれだった。
エルデンは椅子へ座り、複写を机へ広げる。
「完全に同じものは見つからなかった」
子供の表情に少しだけ残念さが浮かぶ。
「ない?」
「今見た範囲ではね」
「文字じゃない?」
「それもまだ決められない」
エルデンは一枚の資料を横へ置いた。
「ただ、似ている“作り方”はいくつかあった」
「作り方?」
「線を一度で長く刻むのではなく、短い線をつないで形を作る方法。あと、交差部分で後から線を重ねているように見えるもの」
「同じ字?」
「字とは限らない。工具の識別印にも、古い保管札の記号にも似た作り方はある」
「学院地下のやつ?」
「代表的な地下管理文字とはやはり一致しない。でも、今まで見た資料より範囲を広げると、“線を重ねて情報を持たせる”例そのものは珍しくない」
子供は資料へ顔を近づけた。
「これ、似てる?」
「形そのものは違う」
「じゃあ何が似てる?」
「線をただ飾りとして並べるより、順番や重なりを意識して刻んだ可能性があるところ」
アリシアも少し離れたところから聞いていた。
「じゃあ木箱の中の線も、順番に意味あるかもしれない?」
エルデンは慎重に頷く。
「可能性は前より少し高くなった。でも、一つの交差候補しか直接確認していない。まだ“意味がある”とは言えない」
「二個目も見た方がいい?」
子供が聞く。
「その前に、複写だけで見られる場所をもう少し探したい」
「箱開けない?」
「今日は必要ない」
子供は少し嬉しそうに頷いた。
「開けたい三」
「下がったね」
アリシアが言う。
「紙でできる」
「触りたい?」
「二」
「線知りたい?」
「九」
「そこは高い」
「うん」
エルデンは複写の端へ、小さな印を二か所だけ付けた。
「次に確認するなら、この二つのうちどちらか。どちらも今見えている範囲だから、布を動かす必要はない」
「二つとも見る?」
「一日で両方見る必要はない」
子供はその言葉を聞き、少し笑った。
「分かってる」
◇
夕方、顔のない存在は午前より長く寝台へ座っていた。
それでも日が傾き始めた頃、自分から身体を起こし、ゆっくり床へ足を下ろす。
最初の一歩は小さかった。
そこから二歩続けて進み、しばらく立ち止まる。最後にもう一歩進み、椅子へ腰を下ろした。
「夕方四歩」
子供が記録する。
午前も四歩だった。
数だけなら同じ。
けれど歩き方は違う。
「午前は二歩、止まって、二歩。夕方は一歩、それから二歩、止まって、一歩」
「書く?」
アリシアが聞く。
「うん」
胸の光は、明るい一つと弱い二つに見えた。
朝と午前は明るい二つ、弱い二つだった。
「夕方は三つ見える」
「一つ減った?」
アリシアが言いかける。
子供が先に首を横へ振った。
「今は三つ見える」
「そうだった」
「消えたところ見てない」
「うん」
位置は三つとも朝と完全には一致しない。
そのことも紙へ残した。
今日の人工刺激が午後に行われたことは、子供も知っている。
それでも十一の光との関係は書かない。
光が変わった時間を観察していない以上、結びつける材料がないからだ。
◇
夜。
生活観測区画の窓辺には、夕方より柔らかな風が入っていた。
子供はエルデン教師が持ってきた資料の写しを見ながら、線の交差候補へ新しい印をつけている。
顔のない存在は寝台へ戻り、胸の光も今は遠目では見えにくい。
アリシアは自分の机で、今日の記録をまとめていた。
何が来るか知らないまま受けた十呼吸。
途中で一度、「今日は滑らかな十かもしれない」と思った。
そのあと、胸の中央へ弱い違和感が現れた。
後で照合すると、実際の条件は後半寄りの小変動入り。
最初の違和感は、小変動開始から一呼吸以内。
第176話の後半寄り。
第178話の前半寄り。
第180話の非通知後半寄り。
三回とも、最初の違和感は小変動の近くに出ている。
アリシアはそこまで書いて、筆を止めた。
『今日は何が来るか知らなかった。それでも小変動が後半に入ったあと、その近くで最初の違和感が出た。途中では滑らかな十かもしれないと思っていたので、少なくとも私が“後半に来る”と待っていたわけではない』
書いてから、少しだけ手が震えそうなほど嬉しくなる。
でも身体の震えではない。
感情の方だ。
「嬉しい九、まだ」
ノアが机へ飛び乗る。
『落ちてない』
「うん」
『十にしない理由は?』
アリシアは少し考えた。
「これで六つ目の能力が決まったわけじゃないから」
『そこまで分かってるなら九でいいんじゃない』
「あと、怖さも少しある」
『何が?』
「本当に何かに近づいてる感じがする」
ノアはしばらく何も言わなかった。
アリシアも続けない。
分からないまま進んでいた頃とは違う。
今は、少しずつ同じ形が繰り返され始めている。
そのことが嬉しい。
同時に、怖い。
もしこの先、六つ目が本当に何かの変化を拾っていると分かったら、その「何か」がどれほど大きなものなのか。
東側奥部新反応の正体へ近づいたとき、今まで分からなかったものまで一緒に動き始めるのではないか。
そんな先のことまで、少しだけ考えてしまう。
『先まで行きすぎ』
ノアが静かに言った。
「分かってる」
『今日分かったのは三回目まで』
「うん」
『何の神器かはまだ分からない』
「うん」
『東の奥が何かも知らない』
「うん」
『じゃあ今日はそこまで』
アリシアは少し笑った。
「毒舌じゃない」
『毎回毒吐く義務ないわよ』
「そっか」
アリシアは練習帳へもう一度筆を置く。
『三回とも、小変動の近くで最初の違和感が出た。今回は、その日の条件を知らなかった。それでも時刻関係が残ったので、期待だけでは説明しにくくなったと思う』
その下へ、少し間を空けて書き足す。
『ただし、私が感じているのが設備の小変動そのものなのか、その結果として東側奥部に起きる追加低下なのか、もっと別の細かい変化なのかはまだ分からない。西側の遅延波形は今回も私の感覚より後だったため、西側波形そのものを直接感じている説明は今の記録とは合いにくい』
そこまで書くと、アリシアは筆を置いた。
今日は節目のように感じる。
でも、何かを発見したと大声で言える日ではない。
むしろ、一つの関係がようやく繰り返しとして見え始めた日だった。
「次、滑らかな十?」
『やりたい八って言ってた』
「うん」
『明日やるの?』
「分からない」
『珍しい返事』
「先生たちが決めるし、身体も見る。あと今日刺激したから、たぶん明日は休むかもしれない」
『自分からそれ言えるなら大丈夫そうね』
「何が?」
『前より』
アリシアは少しだけ考え、窓の外へ視線を向けた。
庭はすっかり乾き始めている。
数日前まで雨を受けていた枝も、夜風の中で静かに揺れていた。
机の向こうでは、子供が線刻の複写を見ながら、箱を開けずに次の観察候補を二つへ絞っている。
顔のない存在は、今日も歩数と光の内訳を変えた。
けれど、その意味は誰も決めなかった。
分からないものを、分からないまま残す。
その上で、見えた違いだけを積み重ねる。
アリシアはこの生活に、少しずつ慣れていた。
最初は、分からないことが苦しかった。
今は、分からないからこそ、次に何を見るかを選べる。
そして今日、自分は何が来るかさえ知らないまま椅子へ座った。
怖さはあった。
期待もあった。
途中では、何も起きない条件かもしれないとさえ思った。
それでも、実際に小さな変化が入った近くで、胸は弱く反応した。
三度目の一致。
まだ答えではない。
けれど、もう最初の偶然と同じ重さでは見られない。
アリシアは閉じた練習帳へ手を置き、少しだけ目を細めた。
六つ目が何を伝えようとしているのかは分からない。
そもそも、伝えようとしているのかさえ分からない。
それでも、何かが変わる時間と、自分の胸に生まれる小さな冷たさ。その二つの間には、無視できない近さが残り始めている。
次は、それが「変化があるときだけ残る関係」なのかを見なければならない。
何も足さない滑らかな十呼吸の中でも、同じように感じるのか。
それとも、また何も感じないのか。
今度確かめたいのは、反応を増やすことではなかった。
ここまで見え始めた関係が、変化を抜いたときにも残るのかどうか。
その一つだった。




