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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第177話 戻った反応を見るなら、強さより先にいつ戻ったのかを確かめる


 翌朝、生活観測区画の窓には薄い雲の影が流れていた。


 夜の間に吹いていた風は弱まり、庭の木々も今朝はほとんど揺れていない。空は明るいものの陽射しは柔らかく、室内へ差し込む光にも昨日のような強さはなかった。窓を少し開けると、乾いた草の匂いに混じって、遠くの厨房から焼きたてのパンの香りが微かに流れてくる。


 アリシアは目を覚ましてから、すぐには胸へ手を置かなかった。


 昨日の試験では、滑らかな十呼吸条件へごく小さな変化を一度だけ加え、その直後から一呼吸以内に違和感が現れた。その後、胸の中央に約〇・五の冷感が出て、東方向らしさはあったものの確信度は低く、震えもなかった。


 身体そのものは夜まで安定していた。


 今朝も冷感の残りはなく、息苦しさ、頭痛、腕の重さ、震えもない。寝起きの身体は静かで、昨日の刺激を引きずっている感覚もなかった。


 それでも、昨日とは違う意味で胸を確かめたくなっている。


「探したい、三」


 窓辺で前足を伸ばしていたノアが、眠そうに片目だけを開けた。


『昨日の朝も三じゃなかった?』


「うん。でも今日は理由が違う」


『何を探したいの』


「昨日の冷たさが残ってないかじゃなくて、昨日みたいな感じを思い出せるか」


『思い出せても、それは今の感覚じゃないでしょう』


「分かってる」


 アリシアは右手を胸へ置いたが、しばらくしてすぐ下ろした。


 今は何もない。


 昨日感じたものを、今朝の身体の中から引っ張り出す必要もない。


「昨日の結果をもう一回見たい気持ちは九」


『試験じゃなくて記録を?』


「うん。いつ感じたか、もっと細かく見たい」


『珍しく新しい刺激より紙が上』


「次の刺激は六くらい」


『昨日より下がったわね』


「だって、昨日の時刻が気になる」


 アリシア自身、その変化を少し不思議に感じていた。


 以前なら、反応が戻った翌朝には「次も試したい」が真っ先に来たはずだ。今日は違う。


 昨日の弱い冷感が、意図的に入れた小変動の直後から一呼吸以内に始まっていた。その時間の近さが気になって仕方がない。


 反応の強さは〇・五程度だった。


 けれど今は、その数字よりも「いつ」が重い。


 隣の寝台から子供が身体を起こした。


「今日は揺らさない?」


「たぶんね」


「たぶん?」


「先生たちと話すけど、私は今日は昨日の記録を見たい」


「感じたから?」


「感じた時間が気になるから」


 子供は布団を畳みながら、少し考えるようにアリシアを見る。


「昨日、揺れのあと?」


「うん。すごく近かった」


「分かってた?」


「入れることは知ってたけど、いつ入るかは知らなかった」


「じゃあ、待ってたけど、場所は知らなかった」


「そう」


 子供は納得したように小さく頷いた。


「今日、箱も時間見る?」


「箱?」


「光当てるやつ。線のどっちが先か見る」


「ああ」


 昨日、エルデン教師から教わった方法だ。


 布も暗色物体も動かさず、今見えている交差候補へ浅い角度から光を当て、線の縁にできる影を比べる。それで刻まれた順番の手がかりが得られる可能性がある。


「やりたい?」


「九」


「昨日は十だったね」


「寝たら九」


『一個下がったからって十分高いけどね』


 ノアが言う。


 子供は気にせず続けた。


「開けたい七。怖さ二。触りたい三」


「次にやること覚えてる?」


「箱開ける。布動かさない。黒いの触らない。交差のところに浅く光当てる。見るだけ」


「うん」


 昨日の時点で次の観察条件は決まっている。


 だから今日は、見たい気持ちが高いからといって、それだけを理由に止める必要はない。


 昨日止まったのは、見たい気持ちが十へ上がった直後だったからだ。


 今朝は一晩置いた。


 身体も気持ちも落ち着いている。


 それでも、実際に開けるかどうかは朝食のあとに決める。


     ◇


 顔のない存在は、今朝は寝台の上へ横になったままだった。


 子供はいつものように近づきすぎず、最初に胸の十一の光を確認する。


「一つ明るい。二つ弱い」


 昨日の朝は明るい一つ、弱い三つだった。


 けれど子供は昨日の記録を先に見なかった。


「今日の場所を書く」


 紙を引き寄せ、明るい一つと弱い二つの位置を慎重に写していく。弱い二つのうち一つはかなり淡く、見る角度によって消えそうになるため、「弱い・見えにくい」と横へ小さく書き足した。


 アリシアは少し離れて見守る。


「昨日の夕方は二つ明るかったね」


「あとで比べる」


「うん」


 記録を終えてから昨日の紙を並べると、位置が近いものは一つだけだった。


「明るいの、昨日の夕方と違う場所に見える」


「今そう見える、だね」


「うん」


 子供はもう一度現在の位置だけを確認し、比較欄には「夕方記録と位置が違って見える」とだけ書いた。


 顔のない存在は、その間も動かなかった。


「午前ゼロって書く?」


 アリシアが尋ねる。


「まだ朝」


「昨日も聞いた気がする」


『そろそろ学びなさい』


「ノアに言われたくない」


     ◇


 朝食後、サーラたちが生活観測区画へ来た。


 今日は魔導具教師のほか、昨日と同じ設備調整担当も同行している。若い観測員は少し遅れて通信だけ参加した。


 机には、昨日の試験記録が三種類に分けて並べられた。


 一つ目は設備側の入力波形。


 二つ目は東側奥部新反応の変化。


 三つ目はアリシアの申告時刻。


 アリシアは席へ着くと、すぐ三枚を見比べた。


「今日は試験しない?」


 サーラは少し口元を緩める。


「先に聞くと思いました」


「昨日の時刻見たい」


「その点は私たちも同じです。第一案は人工刺激なしです」


「やっぱり」


「昨日は意図的な変動を追加しています。身体側に問題がなくても、一日空けた方が比較しやすいでしょう」


「嫌は二」


「納得は?」


「九」


 ノアが机の下から顔を出す。


『珍しく即納得』


「だって今日やるより昨日の記録見たいもん」


「では、そこから始めましょう」


 魔導具教師が三枚の記録を重ねる。


 まず、昨日の滑らかな十呼吸条件を基準にした立ち上がりが始まる。


 その後半、計画した位置でごく小さな変動を一度だけ加えた。


 変動自体は一呼吸より短くならないように調整され、急激な跳ね上がりにはしていない。


「ここが入力です」


 教師が波形の一か所を指す。


 アリシアは身を乗り出した。


「私が“待って”って言ったのは?」


「ここです」


 別の印がそのすぐ後ろへ重なる。


「近い」


「実測では、入力開始から最初の違和感申告まで一呼吸未満です」


「〇・五って言ったのは?」


「さらに少し後。入力終了から一呼吸前後です」


「東側奥部の追加低下は?」


「入力直後に始まっています」


 三つの線を重ねると、確かに時刻が近い。


 意図的な小変動。


 東側奥部新反応のごく小さな追加低下。


 アリシアの最初の違和感。


 その三つが、広い時間幅の中ではほとんど同じ場所に集まっていた。


「西側は?」


 昨日の追加解析が表示される。


「西側の遅延波形は、そのあとです。東側とアリシアさんの申告より遅れています」


「私は西感じてない」


「はい」


 若い観測員の声が通信越しに入る。


『昨日の面白いところ、やっぱりここだと思うんですよね。冷感の最大値が〇・五だったことより、最初の“何かある”が入力直後に出てる』


 アリシアは頷いた。


「私もそこが気になった」


『ですよね』


「でも、昨日はいつか揺れが入るって知ってた」


『そうなんですよ』


 若い観測員の声が少し落ち着く。


『だから完全には期待を消せない。でも、入力時刻は知らない。もし純粋に待ってただけなら、毎回どこかで“来たかも”って言っててもおかしくないのに、昨日は一回だけだった』


 サーラがすぐ補足する。


「それも慎重に扱います。昨日の本人申告では、刺激開始後に“反応してほしい気持ち六”まで上がっていました。期待は明確にあります」


「うん」


「ただし、その期待だけで入力時刻との近さを説明できるかは、現時点では不明です」


「じゃあ、時刻一致は残す」


「はい」


「原因とはまだ言わない」


「はい」


 アリシアは記録紙へ自分で書き込む。


 冷感〇・五という数字より、その前の「待って」という言葉の方が重要なのかもしれない。


 最初の違和感が現れた時点では、まだ冷たいと確定していなかった。


 それでも、その時刻が設備入力と近い。


「前の十呼吸二回も、最初の違和感の時刻もう一回見たい」


「準備しています」


 魔導具教師が別の記録を出した。


 第171話の十呼吸一回目。


 このときは途中の呼吸数を本人へ知らせていた。


 東側奥部が目標低下へ近づく頃、アリシアは「待って」と申告し、その後約〇・五の冷感候補を報告している。


 第173話の十呼吸二回目。


 途中の呼吸数を知らせない条件。


 実際の九・五から十呼吸付近で弱い冷感候補が出た。


 第175話の滑らかな十呼吸。


 途中呼吸数は非通知。


 確定冷感なし。


 第176話の小変動一回入り十呼吸。


 途中呼吸数も小変動時刻も非通知。


 小変動直後から一呼吸以内に違和感、その後冷感約〇・五。


「十呼吸に着いたから感じるんじゃなくて、何か変わった時に感じてる?」


 アリシアが呟く。


 魔導具教師はすぐには頷かなかった。


「その仮説は強くなっています」


「でも、第171話と173話は目標到達付近で出た」


「はい。そこでも設備側、東側奥部側の変化が大きくなる時間帯でした」


「滑らかな十は?」


「目標到達そのものはありましたが、途中の微細変化を抑えていました」


「それでゼロ」


「はい」


 アリシアは椅子へ背中を預けた。


 少しずつ輪郭が出てきたような気がする。


 でも、その感覚こそ危ないとも思う。


「今、“分かってきた”って思った」


 正直に言うと、サーラが僅かに笑った。


「どのくらい?」


「七」


「断定したい気持ちは?」


「五」


『高いじゃない』


「だって見た目は結構揃ってるもん」


「だからこそ今日は試験をしません」


 サーラの言葉に、アリシアは頷いた。


「頭冷やす日?」


「記録を冷静に見る日です」


『同じことじゃない?』


「ノア」


     ◇


 午前の残りは、学院側の過去記録を見直す時間になった。


 アリシアはすべてのデータを読むのではなく、以前に「感じた」と記録された七例のうち、最初の違和感や冷感が始まった時刻まで残っているものだけを見る。


 古い記録の中には、刺激の開始と終了しか正確に残っておらず、何呼吸目に本人が何を言ったかまでは不十分なものもあった。


「これ使えない?」


「使えないではなく、時刻比較には弱いです」


 サーラが答える。


「反応した事実自体は残せます。でも、“いつ”を見るなら精度が足りません」


「昔の私、もっと細かく言えばよかった」


『当時のあなたに今の記録方法を求めるのは酷でしょう』


「分かってる」


 アリシアは苦笑した。


 最初の頃は、冷たいかどうかを言うだけで精いっぱいだった。


 方向や強さを数字で伝えることさえ、今ほど自然にはできなかった。


 まして、「最初に何となく違和感があった瞬間」と「冷たいと確定した瞬間」を分けるなんて考えてもいなかった。


「これからは分ける?」


「安全を損なわない範囲で」


 サーラが答える。


「最初の違和感、冷感として確定した時刻、強さが最大になった時刻。この三つが別なら、それぞれ残す価値があります」


「でも申告に集中しすぎて身体探すようになったら駄目」


「その通りです」


「難しい」


「難しいから、全部を一度に完璧にやろうとしないことです」


 アリシアは頷いた。


 記録が細かくなるほど、観測する自分自身が変わってしまう。


 第172話で学んだことが、また別の形で戻ってきた。


 精密に見たい。


 でも、見ようとしすぎれば、感じ方そのものへ影響する。


 その矛盾を消すことはできない。


 だから、矛盾があることも記録するしかない。


     ◇


 昼食前、顔のない存在が寝台から起き上がった。


 今日は朝から横になっている時間が長かったため、子供は少し離れたところで絵を描きながら様子を見ていた。人影が身体を起こすと、鉛筆を置いて静かに観察へ切り替える。


 立ち上がるまでには少し時間がかかった。


 床へ両足をつけ、その姿勢でしばらく止まってから、ゆっくり前へ進む。最初の二歩は続けて出たが、三歩目の前で長く止まり、もう一歩進んだところで近くの椅子へ腰を下ろした。


「午前三歩」


 子供は紙へ書いた。


 昨日の午前も三歩だった。


 けれど、子供は「同じ」とは書かない。


「歩いた数は昨日の午前と同じ」


「でも動き方は?」


 アリシアが尋ねる。


「今日の方が立つまで長かった」


「そこも書く?」


「うん。でも時間は測ってない」


「じゃあ“長く感じた”?」


 子供は少し考えてから、首を横へ振った。


「“しばらく座ってから立った”にする」


「その方が見たことに近いね」


 胸の光は、朝と同じく明るい一つ、弱い二つだった。


 ただし、朝に「見えにくい」と書いた弱い一つは、昼には少し見えやすくなっている。


「強くなった?」


 アリシアが聞くと、子供は紙を見ながら答えた。


「今は朝より見えやすい」


「うん」


「強くなったところは見てない」


 また、過程を足さない。


 その頃も東側奥部には大きな自然変動は出ていなかった。


 今日の午前は人工刺激もない。


 顔のない存在の歩数や光に、地下側を結びつける材料はなかった。


     ◇


 昼食後、エルデン教師が生活観測区画へやってきた。


 昨日の約束通り、今日は木箱の交差候補を浅い角度の光で見る予定だった。


 子供は朝から箱を開けていない。


 観察前に、もう一度現在の気持ちを確認する。


「見たい九。怖さ二。開けたい七。触りたい三」


 エルデンが静かに尋ねる。


「今日やることは?」


「箱を開けて、布は動かさない。黒いのも触らない。線が重なって見えるところに、浅い角度から光を当てる」


「もし見えなかったら?」


「今日は光だけ。布は動かさない」


「もっと見たくなったら?」


 子供は少し考えた。


「九までなら、今日決めたところだけ見る。十になったら閉じる」


「分かった」


 アリシアは少し離れた位置へ座った。


 ノアも箱の近くへ行かず、窓辺から眺めている。


 子供はゆっくり蓋へ手を置いた。


 以前なら、この瞬間だけで呼吸が少し速くなっていた。今日は怖さが低いためか、動きに急ぎはない。


 蓋を開く。


 茶色の厚い布状物は、第169話で動かした位置のままだった。


 その下に見えている暗色の細長い物体も、露出範囲は変わっていない。


 表面には複数の浅い線があり、横から光を当てた記録で深さの違いが見えた場所もある。


 今日は、その中の交差候補一か所だけを見る。


 エルデンが小型の照明魔導具を取り出した。


「光を当てるだけで、何も動かさないよ」


「うん」


「角度を少しずつ変える。君が見えたと思ったら、その時点で教えて」


 照明が点く。


 最初は正面に近い角度から始めた。


 そこから徐々に光を寝かせていく。


 浅い刻みの縁に細い影が現れ始める。


 子供は身体を乗り出しかけたが、箱へ触れないよう椅子の位置で止まった。


「見える」


「どこ?」


「こっちの線の横」


 一本目の線の片側へ、細い影が出ている。


 もう一本の交差する線にも影がある。


 エルデンは光の角度を少し変えた。


「今は?」


「こっちが途中で切れてるように見える」


 アリシアも遠くから目を凝らす。


 確かに、二本が交わる中心で、一方の線の影が僅かに途切れているように見える。


「それ、先に彫った方?」


 子供が聞く。


 エルデンはすぐには答えなかった。


 別の角度からもう一度光を当てる。


 今度は反対側から浅く照らす。


 すると、先ほど途切れて見えた影が、別の方向からも同じ位置で変化している。


「一つ言えることはある」


 エルデンの声が静かに落ちた。


 子供の目が少し大きくなる。


「この交差候補は、ただ線が隣り合って見えているだけではなく、本当に二本が重なっている可能性が高い」


「どっちが先?」


「まだ断定はしない」


 子供の肩が少し下がったが、エルデンは続けた。


「ただし、今見えている影だけなら、こちらの線を先に刻み、その上からもう一方を横切らせた可能性がある」


「可能性?」


「うん。傷の縁が欠けた順番や光の反射でも似た見え方は出る。だから一か所だけでは決めない方がいい」


 子供は箱の中を見たまま、ゆっくり頷いた。


「ほかの交差も見る?」


 その問いを口にしたあと、子供は自分の胸へ手を置いた。


「見たい……十」


 生活観測区画が少し静かになった。


 エルデンは照明をそのまま止める。


 アリシアも何も言わない。


 子供はしばらく箱を見つめていた。


「今日は閉じる」


「分かった」


「でも一個分かったかもしれない」


「うん」


「本当に重なってるかも」


「そこまでは今の観察で前より強く言える」


 子供は少し嬉しそうだった。


 それでも、蓋を閉じる手は急がない。


 暗色物体にも布にも触れず、最初に決めた通り、一か所の交差候補を光だけで確認して終えた。


 蓋が閉じる。


 子供は小さく息を吐いた。


「嬉しい八」


「もっと見たかった?」


「九」


「見たい十から下がった?」


「閉じたら九」


 ノアが窓辺から呟く。


『好奇心って蓋と一緒に閉じないのね』


「ノアも見たかった?」


『私は猫だから、箱は全部好きよ』


「理由そこ?」


     ◇


 午後は人工刺激を行わなかった。


 学院側では昨日の記録をさらに細かく確認し、アリシアは途中からその作業を離れて、通常の課題へ戻った。


 今日は教室へ行かなかったが、夕方前に同じ女子生徒が生活観測区画の近くまでノートを届けに来た。


「昨日の追加課題、先生がまた増やした」


「えっ」


 アリシアの顔が露骨に嫌そうになり、女子生徒が笑う。


「私も同じ顔した」


「何で増えるの?」


「知らない。先生に聞いて」


「聞きたくない」


『研究の分からないは喜ぶくせに、宿題の分からないは嫌なのね』


「種類が違う」


 女子生徒はノアの声の意味までは分からないが、アリシアの反応で何となく察したらしく、また笑った。


「明日来る?」


「たぶん一時間は」


「じゃあ一緒に答え合わせしよう」


「自分でやってからね」


「厳しい」


「答え写す気だったでしょ」


「半分くらい」


「半分も駄目」


 短いやり取りのあと、女子生徒は「じゃあ明日」と軽く手を振って帰っていった。


 アリシアも自然に手を振り返した。


 以前なら、誰かが自分を訪ねてくるだけで生活観測区画の空気が変わったように感じていた。


 今は、その訪問が特別な事件ではなくなりつつある。


 地下の記録を見て、箱の観察をして、宿題の話で少し笑う。


 同じ一日の中に全部がある。


     ◇


 顔のない存在は、夕方になってからもう一度立ち上がった。


 午前より立ち上がるまでの時間は短かったが、その違いに意味をつける者はいない。人影はゆっくり歩き、途中で二度止まりながら四歩進んだところで椅子へ座った。


「夕方四歩」


 子供は記録する。


 午前三歩と並ぶが、増えたとも良くなったとも書かない。


 胸の光は、明るい二つと弱い一つに見えた。


 朝は明るい一つ、弱い二つ。


 昼も同じ内訳。


 夕方は内訳が変わっている。


「明るい二つ。弱い一つ」


「場所は?」


「一つ、朝と近い。二つは違う」


 子供は現在位置を書き込んだ。


 変化した瞬間は誰も見ていない。


 だから、「光が移った」「強くなった」という言葉は使わない。


 今日も地下側は静かだった。


 人工刺激をしていないため、時間的な比較材料すら少ない。


 十一の光は、十一の光として残る。


     ◇


 夕食後、学院側から最後の報告が届いた。


 昨日の小変動入力時刻と、アリシアの最初の違和感申告の差は、再計測しても一呼吸以内。


 東側奥部新反応の追加低下開始も、ほぼ同じ時間帯。


 西側の遅延波形はそれより明確に遅い。


 ただし、装置の記録精度と観測者の申告遅延を考えると、「どれが最初だったか」を細かく順序づけることはできない。


「私が先か、東側が先かは分からない?」


 アリシアが尋ねる。


『はい』


 魔導具教師が答える。


『一呼吸未満の範囲では、記録機器と本人申告の時差が無視できません』


「じゃあ、“同じくらいの時間”まで」


『その表現が安全です』


「もしもっと細かい記録機使ったら?」


『機器側は改善できます。ただし本人の感覚申告には言葉にするまでの遅れがあります』


「感じた瞬間に押すボタンとか?」


『将来的な案にはなります』


 アリシアは少し考えた。


「でも、ボタン待ってたらまた意識変わる」


『そうですね』


「難しい」


『はい』


 その答えが少し可笑しくて、アリシアは笑った。


 精度を上げれば、観測する本人へ新しい条件が増える。


 装置を改善すれば全部解決するわけではない。


「次はどうする?」


 学院長が通信へ加わる。


『明日決める』


「また?」


『今日は何も刺激してない。だからこそ、明日の朝の身体と地下の夜間記録を見てからだ』


「候補は?」


『三つくらいある』


「何?」


『同じ小変動入り十呼吸の再現。入力時刻だけ変える比較。あるいは滑らかな十をもう一度やって無反応側を確認する』


 アリシアは目を細める。


「入力時刻変えるの面白い」


『食いつくと思った』


「だって、今“いつ”が気になってるから」


『だから明日まで考えろ』


「分かった」


 不満そうな声ではなかった。


     ◇


 夜の生活観測区画は静かだった。


 昼間に開けた木箱は閉じたまま、机の上には新しい観察記録が一枚増えている。


 交差候補は、実際に二本の線が重なっている可能性が以前より高まった。


 一方が先で、もう一方が後から横切って刻まれた可能性も出た。


 けれど一か所だけでは、順番は断定しない。


 子供はそのことを自分の紙にも書いた。


「次、別の交差見る?」


 アリシアが聞くと、子供は少し考えた。


「明日の私に聞く」


 口にしてから、自分で少し笑う。


「前、いっぱい言ってたやつ」


「最近言ってなかったのに」


『復活したわね』


「でも本当だから」


 子供は木箱から離れ、顔のない存在の今日の記録を整理し始めた。


 朝は明るい一つ、弱い二つ。


 午前三歩。


 昼も明るい一つ、弱い二つ。


 夕方四歩、明るい二つ、弱い一つ。


 それぞれの位置も違って見える。


 意味は書かない。


 今日見えたことだけを残す。


 アリシアも自分の練習帳を開いた。


 昨日の弱い反応について、一日の間ずっと考えていた。


 けれど、朝に思っていた「時刻が近い」という興奮は、夜には少し落ち着いている。


 代わりに、その近さをどう確かめればいいかという問題の方が大きくなった。


『昨日の小変動入力から最初の違和感申告までは一呼吸以内。東側奥部の追加低下も同じ時間帯。西側の遅延波形はその後。ただし、装置の記録精度と私が感じてから言葉にするまでの時間があるため、細かい順番は決められない』


 そこまで書いてから、アリシアは筆を止めた。


 以前なら、「ほぼ同時だった」と書いただけで満足していたかもしれない。


 今は、「ほぼ同時」の中にも分からないことがあると気づいてしまう。


 どちらが先だったのか。


 本当に同時なのか。


 自分の申告が遅れただけなのか。


 入力時刻を知らなかったことはどこまで期待の影響を減らせているのか。


 同じ小変動を別の時刻へ入れたら、またその直後に感覚が出るのか。


 同じ時刻で滑らかな条件なら何も出ないのか。


 ノアが机の端へ飛び乗った。


『今日は刺激してないのに、昨日より頭使ってる顔してる』


「疲労三」


『朝より増えた』


「身体じゃなくて頭」


『それも休みなさい』


「あとちょっと」


 アリシアは最後に、今日一番残ったことを書いた。


『昨日の反応は弱かった。でも今は、強さより、微細な変化のすぐ近くで最初の違和感が出たことの方が気になる。ただし、“近かった”と“原因だった”は同じではない』


 少し考えて、もう一行加える。


『次に見るなら、反応をもっと強くするより、同じ小さな変化を別の条件で入れても、その近くでまた感じるのかを確かめたい』


 そこで筆を置いた。


 窓の外では、薄い雲の切れ間から月が見えている。


 風はほとんどなく、庭の葉も静かだった。


 今日、六つ目は何も感じさせなかった。


 人工刺激そのものを行っていないのだから、それは当然かもしれない。


 それでも、何も感じなかった一日が無駄だったとは思わない。


 昨日の弱い反応を、強さの数字だけではなく、その前後の時間まで見直せた。


 反応が戻ったことを喜んで、すぐ次の刺激を重ねなかったからこそ、見えたものがある。


 そして今、アリシアが次に知りたいのは、「どれくらい強く感じるか」ではなかった。


 小さな変化が起きた、そのすぐそばで。


 六つ目は、本当に何かを拾っているのか。


 次に確かめるべきなのは、その時間の近さだった。

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