第179話 動いた時刻が二度続いたなら、次はもう一度同じ場所へ戻して確かめる
翌朝、生活観測区画の窓の向こうには、雨上がりの白い空が広がっていた。
雲はまだ厚く残っているものの、昨日のような雨粒はもう落ちていない。庭の石畳には浅い水たまりが点々と残り、風が吹くたびに木の葉から遅れて雫が落ち、そのたび小さな波紋が広がった。湿った土の匂いは強かったが、室内には朝食前の静けさがあり、遠くから聞こえる鳥の声もどこか柔らかい。
アリシアは目を覚ますと、布団の中でゆっくり両手を開いた。
指先に震えはない。
胸の冷たさも、息苦しさもない。頭痛や腕の重さもなく、昨日の小変動入り十呼吸試験を引きずっている感覚はなかった。
昨日は、前回より早い位置へ小変動を移した。
すると、自分の最初の違和感申告も前回より早くなった。
しかも、小変動開始から一呼吸以内。
それを思い出すだけで、胸の奥が少し浮く。
嬉しい。
かなり嬉しい。
だからこそ、今朝のアリシアはすぐに次の試験を口にしなかった。
枕元の練習帳を開き、昨夜の最後の一文を読み直す。
『小さな変化を前へ動かしたら、私の弱い感覚も前へ動いたように見える。次に必要なのは、この結果を急いで能力の名前へ変えることではなく、同じ関係がもう一度残るのか、それとも別の条件では崩れるのかを見ることだと思う』
そこまで読んで、アリシアは少しだけ眉を寄せた。
「今日、もう一回やりたい気持ち……七」
窓辺で毛づくろいをしていたノアが、顔だけこちらへ向ける。
『昨日の夜より低くない?』
「昨日の夜は、たぶん八くらいあった」
『下がった理由は?』
「朝になったら、昨日の結果が綺麗すぎるのがまた気になった」
『あら、珍しく自分から疑うのね』
「失礼」
ノアは前足を舐めたあと、しれっと続けた。
『じゃあ、何を疑ってるの?』
「私が期待してたこと。前より早い場所に揺れを入れるって知ってたから、最初の方に何か来るかもって待ってた」
『入力時刻は知らなかった』
「でも“前より早い”は知ってた」
『なるほど』
「それだけで、前半に意識が寄ってたかもしれない」
アリシアは胸へ手を置いた。
今は何もない。
昨日感じた場所を思い出すことはできるが、思い出せることと今そこに感覚があることは別だ。
「昨日の時刻一致が本物であってほしい気持ちは、今は五」
『上がってない?』
「昨日の朝四だったから、一個上がった」
『疑ってるのに?』
「疑ってるから、確かめたい」
そこまで言ったところで、隣から布団の擦れる音がした。
子供が身体を起こし、まだ眠そうな目でアリシアを見る。
「今日も時間見る?」
「たぶん。でも今日はすぐ試す日じゃないかも」
「昨日やったから?」
「それもある。あと、昨日の結果をもう一回よく見たい」
子供はゆっくり頷いた。
「紙?」
「うん」
「箱も紙見る」
「今日は開けない?」
「開けない」
返事が早かった。
「見たい気持ちは?」
「六」
「昨日より下がったね」
「昨日紙いっぱい見たから」
「エルデン先生には?」
「聞きたい八」
「二個目の交差?」
「うん」
子供は自分の机に置いてある複写を指した。
「昨日見たところと違う。こっちは交わってるか分からない」
「紙だけで聞くんだね」
「うん」
『今日は二人とも紙の日ね』
ノアが言う。
「ノアも紙見る?」
『私は昼寝する』
「知ってた」
◇
顔のない存在は、今朝は寝台の中央へ少し浅く腰掛けていた。
背中をまっすぐ伸ばしているわけではないが、枕へ寄りかかってもいない。両手は膝の上に置かれ、しばらくその姿勢のまま動かなかった。
子供はいつも通り、歩くかどうかより先に胸の十一の光を確認した。
「一つ明るい。三つ弱い」
昨日の夕方は、明るい一つと弱い三つだった。
内訳だけなら同じ。
しかし子供は「同じ」と言う前に、今日の位置を一つずつ紙へ写していく。
弱い三つのうち、一つはかなり中央寄り。残り二つは少し離れている。
「昨日の紙見ていい?」
全部書き終えてから子供が聞く。
「もう今日の方書いたからいいと思う」
アリシアが答えると、子供は昨日夕方の記録を隣へ並べた。
「一個近い。二個違う」
「明るいのは?」
「昨日より少し上に見える」
「位置が違って見える、だね」
「うん」
子供は比較欄へ短く書き足す。
「今の明るさは?」
「明るい一つ、弱い三つ。昨日夕方と数は同じ」
「でも位置は違う」
「うん」
顔のない存在は、その間も動かない。
だから歩数欄はまだ空いたままだ。
子供はそれを気にせず、鉛筆を置いた。
◇
朝食後、サーラたちが生活観測区画へ来た。
今日は魔導具教師と設備調整担当のほか、若い観測員も直接顔を出した。手には昨日までの記録を何枚も挟んだ厚い板を抱えていて、部屋へ入るなり机を見回す。
「寝ましたからね」
誰も聞いていないのに先に言った。
アリシアが目を瞬く。
「誰も聞いてないよ」
「先回りしました」
「最近、その話してないのに」
「油断すると聞かれるので」
『自意識過剰ね』
「ノアが自意識過剰だって」
「猫に刺された」
若い観測員が肩を落とし、サーラが小さく息を吐く。
「本題へ入りましょう」
「はい」
机の上には、第176話と第178話の記録が並べられた。
どちらも目標立ち上がり十呼吸。
どちらも途中呼吸数は本人へ知らせていない。
どちらも滑らかな十呼吸を基礎に、ごく小さな意図的変動を一度だけ加えている。
第176話では立ち上がり後半。
第178話では前半寄り。
そしてアリシアの最初の違和感申告も、それぞれの小変動の近くへ現れた。
「今日、人工刺激は?」
アリシアが尋ねる。
サーラはすぐ首を横へ振った。
「第一案はなしです」
「嫌は二」
「納得は?」
「九」
若い観測員が少し驚いた顔をする。
「昨日の結果、あれだけ喜んでたのに」
「だから見るの」
「またすぐ試したいかと思いました」
「前ならそうだったかも」
『自覚あるんじゃない』
「ノアは黙って」
魔導具教師が二枚の記録を重ねる。
「昨日の結果は重要です。ただし、今朝アリシアさん自身が言った通り、“前回より早い位置へ入れる”という情報は本人が知っていました」
「うん」
「入力時刻そのものは隠していましたが、期待の時間帯は狭まっています」
「前半に来るって思ってた」
「それは完全に排除できません」
「じゃあ昨日の結果、弱くなる?」
「価値がなくなるわけではありません」
サーラが言葉を選びながら続ける。
「入力時刻を正確には知らない状態で、前回と今日の違和感申告がそれぞれ一呼吸以内へ入った。この事実は残ります。ただし、“本人の予測範囲そのものが動いた”ことも残ります」
「両方書く」
「はい」
アリシアは記録紙へ目を落とした。
「じゃあ次、もっと隠す?」
「その案はあります」
「前か後ろかも教えない」
「はい」
「同じ場所をもう一回やるの?」
その問いには、魔導具教師が少し間を置いた。
「今のところ、候補は三つです」
アリシアも若い観測員も、同時に記録板を見る。
「一つは、第178話と同じ前半寄りの小変動を再現する。二つ目は、第176話の後半寄りへ戻す。三つ目は、滑らかな十呼吸へ戻して無反応側をもう一度確認する」
「どれが一番いい?」
「まだ決めません」
アリシアは少し笑った。
「言うと思った」
「ただし、今日は比較の優先順位を整理します」
設備調整担当が三つの条件を紙へ並べた。
「同じ前半寄りをもう一度やれば、再現性を見られます。ただし、本人が“前半条件だ”と知っていれば期待の時間帯はまた狭まります」
「場所も隠せば?」
「改善します」
「後半へ戻すなら?」
「入力位置を往復させたとき、違和感申告時刻も戻るかを見られます」
アリシアの目が少し大きくなる。
「前に戻す?」
「そうです」
「第176話と同じ後ろの方へ」
「可能な限り」
「私は前か後ろか知らない」
「その方が良いでしょう」
若い観測員が記録板の端へ指を置いた。
「僕はこれ、結構いいと思います」
サーラが横目を向ける。
「理由は?」
「前回後半、昨日前半。次に場所を隠した上で後半へ戻して、本人の最初の違和感もまた後ろへ戻ったら、期待だけでは説明しにくくなります」
「ただし本人は、“前か後ろのどちらか”という候補自体を知っている可能性があります」
「そこも隠せません?」
若い観測員がアリシアを見る。
「何を?」
「次の試験では、入力位置について何も言わない」
「前か後ろかも?」
「はい」
「入れるかどうかも?」
その問いに、部屋の空気が少し変わった。
魔導具教師が考えるように眉を寄せる。
「そこまで隠す案もあります」
「小変動を入れる日か、滑らかな十の日かも分からない?」
「安全上必要な情報をどう扱うか、検討は必要です」
「私は意図的な変動を入れる可能性があるって知ってた方がいい?」
サーラが答える。
「本人の同意として、試験で起こり得る条件は事前に説明する必要があります。ただし、その日の実施内容を本人が選択肢のどれかまで絞れない形にはできるかもしれません」
「三つの候補全部に同意して、その日どれかは知らない?」
「その方式なら検討できます」
アリシアは少し黙った。
面白い。
かなり面白い。
だからこそ、すぐ「やりたい」と言わない。
「怖さ、今四」
「上がりましたね」
「何やるか分からない方が怖い」
「当然です」
「でもやりたい気持ちも八」
「両方記録します」
ノアが椅子の背から尻尾を垂らす。
『何をされるか分からない試験を面白がるあたり、だいぶ研究者っぽくなってきたわね』
「研究者じゃない」
『学生?』
「学生」
『昨日も言ってた』
「大事だから」
サーラが少し笑った。
「だから今日は試験を入れません。本人へどこまで条件を隠しても安全と同意を損なわないか、先に設計します」
アリシアは頷いた。
◇
午前中は、そのまま記録比較に使われた。
第176話の後半小変動。
第178話の前半小変動。
二条件を単純に並べるだけでなく、アリシアがその時点で持っていた期待も横へ置く。
第176話では、小変動を入れることは知っていたが時刻は知らなかった。前半か後半かも伝えられていない。
第178話では、前回より明確に早い位置へ移すと知っていた。
その違いは大きい。
「じゃあ、第176話の方が期待の時刻は広かった」
「はい」
「第176話でも小変動直後に違和感出てる」
「はい」
「昨日は期待範囲狭かったけど、それでも直後」
「はい」
アリシアは二枚の記録を見比べた。
「なら、完全に期待だけって決める必要もない」
「もちろんです」
「でも期待じゃないとも決めない」
「その通りです」
若い観測員が別の紙を出す。
「ちなみに、昨日の試験中、アリシアさんが“期待七”って申告したのは、小変動入力の前です」
「そうだった」
「で、そのあと違和感。つまり期待が上がったこと自体は入力と別に先に出てます」
「それ重要?」
「少し」
魔導具教師が横から説明する。
「期待が高いから感覚が出た、という単純な説明なら、期待七へ上がった直後に何か申告してもおかしくない。でも実際には、その時点では感覚なしで、その後の入力近くで初めて違和感が出ています」
「でも、私がずっと待ってたらたまたまそこだったかもしれない」
「はい」
「だからまだ二回」
「はい」
アリシアは少し笑う。
「今日の先生たち、はい多い」
『あなたが先回りするからでしょう』
ノアが返した。
◇
昼前、顔のない存在が立ち上がった。
今朝は長く寝台へ座っていたが、立ち上がる動作そのものは比較的滑らかだった。両手を膝から外し、上体を前へ倒してから腰を上げ、その姿勢で少しだけ止まる。
そのあと、ゆっくり歩き始めた。
二歩進んだところで一度止まり、さらに二歩進む。
しばらくその場に立ったあと、もう一歩だけ進んで椅子へ座った。
「午前五歩」
子供が記録する。
「昨日も午前五歩だったね」
アリシアが言うと、子供は紙を見た。
「数は同じ」
「動き方は?」
「今日は二歩、二歩、一歩。昨日は三歩、止まって、二歩」
「よく覚えてる」
「紙に書いてある」
子供は昨日の記録を指した。
胸の光は、明るい一つ、弱い三つ。
朝と同じ内訳だった。
位置も確認すると、二つは朝と近く、一つは少し違い、一つはかなり見えにくくなっていた。
「今は見えにくい」
「朝は?」
「朝はもう少し見えた」
「じゃあ、それだけ書こう」
子供は頷く。
今日も東側奥部には大きな自然変動はない。
人工刺激もしていない。
顔のない存在の記録は、それ自体として積み重なっていく。
◇
昼食後、エルデン教師がやってきた。
子供は朝から木箱を開けず、二つ目の交差候補を紙だけで見ていた。
昨日の記録と正面照明の複写、横照明の複写を机へ並べる。
「今日はこれ」
子供が指差す。
「前に見たのは、本当に線が重なってるかもしれなかった。こっちは、交わってるのか曲がってるだけなのか分からない」
エルデンは三枚の紙を順番に見た。
「箱は開けたい?」
「今日は開けない」
「見たい気持ちは?」
「六」
「先生に聞きたい気持ちは?」
「八」
「分かった」
エルデンは椅子へ座り、複写を少し傾ける。
しばらくは何も言わない。
子供も急かさず待った。
アリシアは少し離れた机で通常授業の課題を進めながら、ときどきそちらへ視線を向ける。
「これは、前回の交差候補とは少し違うかもしれない」
やがてエルデンが言った。
子供が身を乗り出す。
「交差じゃない?」
「その可能性もある」
「曲がってる?」
「一本の線が曲がって、別の線へ近づいているだけにも見える。ただし、この複写だけでは完全には分からない」
「光当てたら?」
「前回と同じ浅い角度の光で、少しは見えやすくなるかもしれない。でも、前回ほど“見る意味が高い”とはまだ言えない」
子供は少し考えた。
「どうして?」
「前回は二本が明らかに近い角度で交わって見えていた。今回は、一方が曲線で近づいているようにも見えるから」
「じゃあ箱開けなくてもいい?」
「今のところは、紙だけでもう少し比較してからでいいと思う」
「先生、他の字と比べられる?」
その質問に、エルデンの表情が少し変わった。
「“字”と決めない方がいいね」
「あ」
「線刻だと思って比べるならできる」
「線刻」
「うん。学院が持っている古い管理札や工具刻印、装飾片の複写と比べることはできる。ただし、同じものが見つかる保証はない」
「やっていい?」
「これは君の記録だから、許可をもらえれば」
子供はすぐに頷きかけ、途中で止まった。
「何を持ってく?」
「箱は持っていかない。複写だけ」
「紙だけ?」
「紙だけ」
「誰が見る?」
「私と、必要なら古文書資料室の担当者。ただし、君が嫌なら人数は増やさない」
子供は少し考えた。
「先生と、一人まで」
「分かった」
「箱の場所言う?」
「必要ない」
「じゃあいい」
エルデンは頷いた。
「では、線刻の形だけ比較してみる。文字だと決めずにね」
「分かった」
子供は少し安心したように息を吐いた。
箱そのものを見せなくてもいい。
物体の正体を言わなくてもいい。
複写だけで、似た線の作り方が過去にあるかを見てもらえる。
「嬉しい?」
アリシアが聞くと、子供は少し笑った。
「七」
「開けたいは?」
「四」
「下がった」
「紙でできること増えたから」
『箱に触らず進む技術だけ異様に上達してるわね』
ノアの言葉に、子供が笑った。
◇
午後は、人工刺激の代わりに次回試験の設計会議が続いた。
アリシアも最初は参加していたが、途中で一度席を外した。
全部聞いていると、どの候補が実施されるか予想できてしまうからだ。
「私、聞かない方がいいところある?」
そう自分から聞いた。
サーラが少し驚く。
「あります」
「じゃあそこから出る」
「嫌ではないですか?」
「嫌は四。でも、次に何するか分からない方が見たいもの見られるかもしれない」
「では、候補の安全範囲だけ共有して、その後の選択順は学院側で決めます」
「何が起こる可能性あるかは教えて」
「もちろんです」
アリシアが同意する候補は三つ。
一つ目は、滑らかな十呼吸で小変動なし。
二つ目は、立ち上がり前半寄りへ第178話相当の小変動を一回。
三つ目は、立ち上がり後半寄りへ第176話相当の小変動を一回。
どれも最大低下幅、維持十五呼吸、復帰速度を可能な限り近づける。
小変動を入れる場合も、これまでの安全範囲を超えない。
本人には、その日の試験で三候補のどれを使うか知らせない。
ただし、試験前の最終同意時に「この三つのどれか」と再確認する。
「それならやれる」
「怖さは?」
「考えるだけなら五」
「今までより高い」
「何か来るか分からないから」
「参加したい気持ちは?」
「八」
「怖さ五なら相談基準です」
「今は試験中じゃないけど、相談する」
「どうしたいですか」
アリシアは少し考えた。
「やりたい。でも、明日の朝まだ五ならもう一回考える」
「分かりました」
サーラはそれをそのまま記録した。
「候補の実施順も知らない?」
「はい」
「明日、本当に試験あるかも?」
「身体状態と夜間記録次第です。実施可能でも、学院側が見送る選択はあります」
「そこも分からない」
「はい」
アリシアは少し緊張しながらも頷いた。
これまで、自分は「何を試すのか」を一緒に決める側だった。
今回は、候補と安全条件には同意する。
でも、その日の中身までは知らない。
参加者としての意思を残しながら、自分の期待が入り込む隙を少し狭くする。
それは、思っていたより怖い。
同時に、かなり興味深かった。
◇
会議を途中で抜けたアリシアは、学院の小さな談話室へ向かった。
今日は通常授業へ出ていなかったため、昨日の女子生徒に借りた課題ノートを返す約束だけしていた。
談話室には数人の生徒がいて、窓際の長机で宿題を広げている。
アリシアが入ると、女子生徒がすぐ手を上げた。
「こっち」
「声大きい」
「聞こえないよりいい」
「みんな見るよ」
「前より気にしなくなったじゃん」
そう言われて、アリシアは周囲を見た。
確かに、何人かはこちらを見た。
でもそれだけだ。
すぐ自分たちの話へ戻る。
「……ちょっとは気にする」
「じゃあ普通」
「普通って何」
「知らない」
女子生徒が笑う。
アリシアはノートを返した。
「三問目できた?」
「できた」
「本当に?」
「疑う?」
「昨日二行だったから」
「昨日から成長した」
『一日で大層な』
「ノアが大層だって」
「この猫、私に厳しくない?」
「みんなに厳しい」
『あなたには特別でもいいわよ』
「聞かなかったことにする」
談話室の空気は穏やかだった。
誰かが菓子袋を開ける音がして、別の机から笑い声が上がる。
アリシアは少しだけここに座りたいと思った。
以前なら、用事が終わればすぐ生活観測区画へ戻っていただろう。
「……少しここいていい?」
女子生徒が一瞬だけ驚いたあと、すぐ隣の椅子を引いた。
「どうぞ」
「課題あるから」
「私はお菓子ある」
「関係ない」
「大事」
アリシアは座った。
十五分ほど。
ただ課題を解いて、たまに話すだけだった。
それでも、その時間は地下研究とは全く別の意味で心地よかった。
◇
夕方、生活観測区画へ戻ると、顔のない存在がちょうど立ち上がるところだった。
子供はすでに記録紙を手元へ置いている。
人影は最初の一歩をゆっくり出し、そのまま二歩目へ進んだ。三歩目の前で止まり、少し長く立ってからもう二歩進む。
合計四歩で椅子へ座った。
「夕方四歩」
子供が書く。
「午前五歩」
「うん」
「今日は午前五、夕方四」
それだけだ。
胸の光は、明るい二つ、弱い二つに見えた。
朝と午前は明るい一つ、弱い三つ。
内訳は変わっている。
「今は二つ明るい、二つ弱い」
「位置は?」
「朝と近いの一つ。午前と近いの一つ。二つは違う」
子供は一つずつ描いた。
「朝から今まで、いつ変わったかは?」
「見てない」
「じゃあ書かない」
「うん」
今日は人工刺激がない。
東側奥部にも大きな自然変動は報告されていない。
だから顔のない存在の記録は、今日も独立したままだった。
◇
夕食後、学院側から夜間前の報告が届いた。
東側奥部は一日を通して大きな自然変化なし。
西側補助連絡線も静穏。
名前のない光、小空洞にも新しい反応はなかった。
次回試験候補の安全確認は進んでいるが、実施可否は明朝まで決定しない。
「順番決めた?」
アリシアが通信越しに聞く。
『それは教えません』
魔導具教師が答える。
「もう?」
『もうです』
「三つのどれか?」
『そこまでは説明済みです』
「聞きたい九」
『知っています』
「教えてほしい七」
『教えません』
「固い」
『今回はそれが目的です』
ノアが横で笑うように喉を鳴らした。
『自分で隠してって言ったのに』
「言ったけど、知りたいものは知りたい」
『人間って面倒ね』
「猫も箱見たがるじゃん」
『箱は別』
「何が違うの」
『ロマン』
「意味分かんない」
◇
夜、生活観測区画は静かだった。
子供はエルデン教師へ渡す複写を一緒に整理し、どの紙までなら見せてよいか自分で決めた。
正面照明の複写。
横照明の複写。
浅角度照明で確認した最初の交差候補。
二つ目の候補に丸を付けた紙。
箱そのものの外観記録や、暗色物体全体の位置が分かる絵は渡さない。
「線だけでいい」
子供はそう決めた。
「理由は?」
アリシアが聞く。
「今聞きたいの、線だから」
「うん」
「黒いの何かは、まだ先生に調べてもらわない」
「分かった」
自分が何を知りたいのかを分けられるようになっている。
その姿を見てから、アリシアも自分の練習帳を開いた。
今日一日、人工刺激は行っていない。
それでも書くことは多かった。
第176話と第178話。
後半寄りと前半寄り。
どちらも小変動近くに最初の違和感が出た。
しかし第178話では、「前回より早い」という情報を本人が知っていた。
期待の時間帯が狭まっていた。
だから次は、候補そのものには同意しつつ、その日の実施条件を知らない形を検討する。
アリシアは筆をゆっくり動かす。
『二回続けて、小変動の近くで最初の違和感が出た。第176話では入力時刻を知らず、第178話では“前回より早い”ことだけ知っていた。二回とも一呼吸以内だったことは残るけれど、二回目は期待する時間帯も前へ動いていた』
そこで一度手を止めた。
今日の自分は、昨日より少しだけ慎重だった。
嬉しさが消えたわけではない。
むしろ結果を信じたい気持ちは強くなっている。
だから、その気持ちがどこへ入り込むかを見なければならない。
『次は、滑らかな十、小変動を前半寄り、小変動を後半寄りの三候補へ先に同意して、その日の条件は知らない方法を検討する。何が来るか分からない分、怖さは上がる。でも、期待が時間を作っているのかを見るには意味があると思う』
さらに、今日の感情も書き残す。
『試験がないのは嫌二、納得九。条件を隠す案への怖さ五、やりたい八。明日の朝も怖さ五なら、始める前にもう一度相談する』
数字を書き終え、アリシアは少しだけ笑った。
以前なら、怖さ五という数字を見た瞬間、「やめるべきかもしれない」と思っていた。
今は違う。
五は、相談するための数字だ。
やるかやらないかを自動で決める命令ではない。
怖い。
でも知りたい。
両方を持ったまま、明日の自分と相談すればいい。
『何笑ってるの』
ノアが机へ飛び乗った。
「怖さ五でも、前ほど怖くないなって」
『矛盾してない?』
「数字は五。でも扱い方が分かってるから」
『なるほど』
「怖いって言っても、そのまま止まるとは限らないし、やるとも限らない」
『随分面倒な使い方になったわね』
「細かくなったって言って」
『面倒で細かい』
「悪口増えた」
ノアは満足そうに尻尾を揺らした。
アリシアは最後に、今日の記録の下へ一文を加えた。
『小変動の時刻と感覚の時刻が二度近かったから、次は新しい場所へ進むより、一度動かしたものをもう一度戻してみたい。ただし、今度は私が“戻した”と知らない形で確かめたい』
書いてから、しばらくその文章を見つめる。
昨日までは、前へ動かした。
次は、後ろへ戻すかもしれない。
あるいは何も入れないかもしれない。
どれが来るか、自分には分からない。
それが少し怖い。
けれど、もし六つ目の弱い感覚が本当に小さな変化の時刻へ寄っているのなら、アリシアが知らなくても、その位置へ現れるはずだ。
逆に、自分の期待する時間へ現れるなら、見方を変えなければならない。
どちらでも、知る価値はある。
窓の外では雲が薄くなり、夜空の一部から星が見え始めていた。
庭に残った水たまりへ小さな光が映り、風が吹くたび形を崩す。
アリシアは練習帳を閉じた。
次の試験で何が起こるのかは、まだ知らない。
今度は、それでいい。
知らないまま受け取った感覚が、どの時刻へ現れるのか。
そこまで見て初めて、二度続いた時間の近さを、もう一段だけ確かな比較へ近づけられるのだから。




