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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第176話 反応を戻したいからといって、昨日減らした揺れをそのまま足せばいいわけではない



 翌朝の生活観測区画には、少し冷たい風が入っていた。


 夜の間に空気が入れ替わったらしく、昨日よりも窓辺の空気が乾いている。庭では低い草の先にだけ朝露が残り、まだ斜めの陽射しを受けて細く光っていた。遠くの訓練場からは、朝早くから木剣を打ち合わせる乾いた音が何度か届いている。


 アリシアは目を覚ますと、すぐに起き上がらず、布団の中で身体の状態を確かめた。


 昨日の滑らかな十呼吸試験では、確かな冷感は出なかった。方向感覚も震えもなく、途中で一瞬「何かあるような気がした」ものの、本人が感覚として確信できなかったため、冷感には数えなかった。


 その夜も胸部違和感はなく、寝つきも悪くなかった。


 今朝も、胸の内側に残る冷たさはない。息苦しさや頭痛、腕の重さもなく、身体のだるさは寝起きらしい程度に留まっていた。


 それでもアリシアは右手を胸へ置く前に少し迷った。


 何も感じなかった翌朝なのに、昨日の「何もなさ」をもう一度確かめたくなっている。


「探したい、三」


 窓辺で丸くなっていたノアが、片方の耳を動かした。


『昨日は確かな反応がなかったのに、上がるのね』


「だからかも」


『ないことを探す?』


「昨日、本当に何もなかったのかなって」


『それを今朝の胸で確かめても、昨日の試験の答えにはならないでしょう』


「分かってる」


 アリシアは少し苦笑し、それでも胸へ手を置いた。


 今は冷たくない。


 ただ、それだけだ。


 昨日のことは昨日の記録に残っている。今朝の身体が静かなことと、昨日の刺激中に何も感じなかったことは、似ているようで別の情報だった。


『次をやりたい気持ちは?』


 ノアに聞かれ、アリシアは今度は少し長く考えた。


「揺れを戻すやつなら、七」


『昨日の夜は六だったわよね』


「一個上がった」


『滑らかな十をもう一回は?』


「五」


『十二とか十四』


「五」


『珍しく並んだ』


「今は、どれが一番いいか自分でも決めきれない」


『その状態で“これやりたい九”にならなくなっただけでも十分じゃない?』


「それ褒めてる?」


『たぶん』


 アリシアが小さく笑ったところで、隣の寝台から子供が身体を起こした。


「今日は揺らす?」


「まだ分からないよ」


「昨日、揺れ減らしたら感じなかった」


「うん」


「じゃあ戻したら感じる?」


「それを見る案はある。でも、そのまま戻すだけじゃ危ないかもしれない」


 子供は少し首を傾げた。


「どうして?」


「前に揺れを大きくしたとき、私は冷たさ二まで上がって、怖さも五になったことがあるから。昨日までの弱い揺れとは違うけど、わざと加えるなら先生たちが安全を考えないと駄目なの」


 子供はしばらく黙ってから、アリシアの胸を見た。


「今日は平気?」


「今は平気」


「じゃあ今日やる?」


「平気だからやる、にはしない」


 そう答えると、子供はすぐに頷いた。


「昨日の授業と同じ」


「覚えてた?」


「身体が平気でも、まだやれるって決めない」


「うん」


 アリシアは少し驚いてから笑った。


 自分が授業で聞いたことを、その日の夜にはほとんど話していなかった。それでも、以前から学院側が繰り返してきた考え方と同じだったため、子供の中にも自然に残っていたらしい。


     ◇


 顔のない存在は、今朝は寝台の端へ腰掛けた状態で目を覚ましていた。


 顔がないため表情は分からない。それでも、背中の角度や両手の置き方を見る限り、身体を支えるのに大きく苦労している様子はなかった。


 子供はまず胸の十一の光を確認した。


 今日見えているのは、明るいものが一つ、弱いものが三つだった。


「昨日の夜とは違う」


 子供はそう言いかけて、手元の紙を見ずに鉛筆を持ち直した。


「先に今日を書く」


「うん」


 アリシアも近くへ椅子を運び、邪魔にならない距離から見守る。


 子供は明るい一つの位置を先に描き、そのあと弱い三つを一つずつ記録した。弱いもののうち二つはかなり淡く、光っていると断定するまで少し時間がかかったようで、子供も何度か目を細めている。


「これ、弱いよりもっと弱いかも」


「新しい分け方作る?」


 アリシアが聞くと、子供は迷った。


「増やしすぎると分からなくなる」


「じゃあ?」


「弱いの中に、“かなり弱い”って横に書く」


「いいと思う」


 光の分類を細かくすること自体が目的ではない。本人が見た違いを失わない範囲で残せればいい。


 記録を終えてから昨日の紙と並べると、位置が近いものは一つだけだった。明るい光の位置も昨日とは違って見える。


「今日の場所が違う」


 子供はもう「動いた」とは言わなかった。


 そのあと、顔のない存在はすぐには立ち上がらず、しばらく寝台へ腰掛けたまま窓の外を向いていた。顔がないため、何を見ているのか、そもそも景色を見ているのかさえ分からない。


 子供は歩数欄を空けたままにしておいた。


     ◇


 朝食が終わる頃、サーラと魔導具教師がやってきた。


 今日は若い観測員の姿はない。


 代わりに、設備調整を担当している別の教師が一人同行していた。灰色の作業着の袖口には細かな焦げ跡がいくつも残り、手には昨日まで使っていたものとは別の記録板を抱えている。


「夜間記録から確認します」


 サーラはいつも通り落ち着いた声で話し始めた。


「東側奥部新反応は基準範囲。西側補助連絡線も静穏。名前のない光、小空洞にも新しい変化はありません。アリシアさんの夜間身体確認にも異常はありませんでした」


「じゃあ、今日の候補は?」


 アリシアがすぐに尋ねると、魔導具教師は少しだけ笑った。


「先に設備の話をさせてください」


「揺れを戻すやつ?」


「それも含みます」


 新しく来た教師が記録板を机へ置いた。


「昨日の滑らかな十呼吸条件を基準にして、どの程度の微細揺れなら意図的に加えられるかを確認しました。ただし、単純に前回二回の波形を再現する方法は使いません」


「できない?」


「できない、というより、やらない方がいいです」


 アリシアは椅子へ座り直した。


「どうして?」


「前の十呼吸条件で出た揺れは、装置が自然に生じさせた過渡的な微変動です。どの位置で、どの幅で、どの向きに揺れるかを完全に制御していたわけではありません」


「じゃあ、それを真似すると?」


「見た目だけ似せても、中身まで同じとは限りません」


 アリシアは少し黙った。


「昨日まで、波形が似てるか見てたのに」


「似ていることは比較材料になります。ただ、意図的に再現するときは別です。自然に出た揺れを、そのまま人為的に作ろうとすると、装置側の負担や高い周波数の成分が増える可能性があります」


「高い周波数?」


「細かすぎて、通常の記録板では十分に拾えない揺れです」


「それ、六つ目が感じてるかもしれない?」


「可能性としてはあります。だからこそ、乱暴に揺らすわけにはいきません」


 サーラが横から補足する。


「第166話では変調幅を大きくした条件で冷感二、恐怖五まで上がっています。今回やりたいのは、反応を強くすることではありません」


「違いを見ること」


「はい」


 アリシアは視線を落とし、テーブルの木目を見ながら考えた。


 昨日は無反応だった。


 だから、揺れを少し戻せば反応も戻るかもしれない。


 考え方だけなら単純だ。


 でも、実際の装置では「少し戻す」という一言だけでは済まない。


「じゃあ今日はやらない?」


 問いかける声に、少しだけ残念さが混じった。


 魔導具教師は首を横へ振る。


「まだ決めていません。実施可能な案は一つあります」


 アリシアが顔を上げる。


「どんな?」


「滑らかな十呼吸を維持したまま、立ち上がり後半に一度だけ、ごく小さな変化を加える方法です」


「前の二回より小さい?」


「はい。昨日以前に自然に出ていた微細揺れの中でも、一番小さい部類よりさらに弱く設定します」


「一回だけ?」


「一回だけです。何度も揺らしません」


「どのくらいの時間?」


「一呼吸より短い変化にはしません。急すぎる入力は避けます」


 アリシアは少し安心した。


「じゃあ、十呼吸の途中で一回だけ、ちょっと揺れる」


「そう考えて構いません」


「でも、今日はそれをやるかまだ決めない」


「はい。まずアリシアさんの意思、身体状態、それから午前中の東側自然変動を見ます」


 ノアがテーブルの下から顔を出した。


『反応を戻したいから、揺れも戻す。簡単そうに見えて、全然簡単じゃないのね』


「研究だから」


『また便利な言葉』


「本当だもん」


 子供は二人のやり取りを聞きながら、パンを小さくちぎっていた。


「アリシア、感じたい?」


 突然そう聞かれ、アリシアは少し驚いた。


「感じたい気持ちは、今は四」


「昨日は?」


「昨日の試験前も四だった」


「同じ」


「数字はね」


「中身は?」


 その聞き方に、アリシアは一瞬答えを失った。


「……少し違うかも」


「どう違う?」


「昨日は、滑らかにしたらどうなるか知りたかった。今日は、昨日消えた反応が小さい揺れで戻るか知りたい」


「じゃあ四でも違う」


「うん」


 サーラがその会話を記録紙の端へ何か書き留めた。


「何書いたの?」


「同じ数値でも理由が違う、という本人申告です」


「そこも記録するの?」


「必要なときは」


『数字だけ見てたら分からないものね』


 ノアが言った。


     ◇


 午前中は、人工刺激を行わずに過ごすことになった。


 アリシアは学院へ行かず、生活観測区画で提出課題を進めた。昨日出された基礎魔術理論の追加問題を解きながら、ときどき窓の外へ視線を向ける。


 東側の観測結果が気になっている。


 でも、通信が来ない。


 何も起きていないからだろう。


 以前なら、静かな時間が長いほど落ち着かなかった。


 今は、少し違う。


 静かな時間そのものを待てるようになった。


「これ分からない」


 向かい側から子供の声がした。


「何?」


「線」


 子供は木箱そのものではなく、昨日までの複写を机へ広げていた。いくつかの交差候補へ小さな丸が付いている。


「この二本、どっちが先?」


「私には分からないよ」


「エルデン先生なら?」


「紙だけで分かるか聞くんでしょ?」


「うん」


 子供は少し考え、複写を一枚持ち上げた。


「今日来る?」


「予定聞いてない」


「呼ぶ?」


「今すぐ?」


「……呼びたい七」


「開けたいは?」


「五」


「触りたい?」


「三」


「線の重なり知りたい?」


「九」


 アリシアは数字を聞きながら、子供の顔を見る。


 以前なら、知りたい九まで上がれば、その勢いのまま箱へ手を伸ばしていたかもしれない。今は紙の方を見ている。


「エルデン先生に聞くだけなら、箱開けなくてもできるね」


「うん」


「じゃあ午後の予定聞いてみる?」


 子供はすぐ頷かなかった。


 少し時間を置いてから、紙を机へ戻す。


「昼まで待つ」


「どうして?」


「アリシアの試験あるか決まるから」


「私のせいで待たなくていいよ」


「せいじゃない。人いっぱい来ると、先生と話しにくい」


 アリシアは一瞬言葉を止めた。


 子供なりに、場の落ち着きまで考えている。


「じゃあ、午後に試験やるならエルデン先生は別の日でもいい?」


「うん」


「やらなかったら?」


「来れるか聞く」


『予定調整まで覚えたのね』


 ノアが感心したように言う。


     ◇


 昼前、顔のない存在が立ち上がった。


 朝から寝台へ腰掛けていた時間が長かったため、子供は少し離れた位置から見守っていた。人影は両手を膝へ置いたまま前屈みになり、身体を起こすまでにしばらく時間をかける。


 立ち上がってからも、すぐには歩かなかった。


 床を確かめるように片足を前へ出し、そのあとゆっくりと歩き始める。二歩目までは続けて進んだが、三歩目の前で長く止まり、そこからもう一歩だけ動いた。


「午前三歩」


 子供は現在の数字だけを書いた。


 昨日の午前は四歩だったが、横へ比較は並べない。


 胸の光は、朝と同じく明るいもの一つと弱いもの三つ。ただし、「かなり弱い」と書いた二つのうち一つは、朝よりさらに見えにくくなっていた。


「消えた?」


 アリシアが尋ねると、子供は少し目を細めた。


「分からない。今は見えにくい」


「じゃあ、それで書く?」


「うん」


 子供は「朝より見えにくい。消えたかは分からない」と記録へ加えた。


 その頃、東側奥部からは大きな自然変動は報告されていなかった。


 当然、十一の光との関係も何も分からない。


     ◇


 昼食後、学院側から実施可否の最終連絡が届いた。


 東側奥部は午前を通して基準範囲で安定し、西側補助連絡線にも新しい波形は出ていない。名前のない光、小空洞も静かなままだった。


 治療教師の確認でも、アリシアの身体状態に問題はない。


 条件だけを見れば、試験は可能だった。


 それでも、サーラは最終決定をすぐには出さなかった。


「アリシアさん。午前から今までで、やりたい気持ちは変わりましたか」


 生活観測区画の机には、試験用の記録紙がまだ伏せたまま置かれている。


 アリシアは少し考え、胸へ手を置かずに答えた。


「一回だけ小さい揺れを入れるやつ、八」


「怖さ」


「四」


「反応してほしい気持ち」


「五」


「昨日の無反応が間違いだったと思いたい気持ちは?」


 予想していなかった質問に、アリシアは黙った。


 窓の外では、昼の光が少し傾き始めている。午前より風が強くなり、木の葉が何度か裏返って白っぽく見えた。


「……二かな」


「ゼロではない?」


「うん」


「どうして二?」


「昨日何も感じなかったの、ちゃんと意味あるって思ってる。でも、前の二回で少し感じたのが消えたから、ちょっとだけ“昨日だけ違ったのかな”って思う」


「それを消したくて今日反応を戻したい?」


「それだけじゃない」


「どのくらい?」


 アリシアは少し苦笑する。


「そのためだけなら二。知りたいのは八」


 サーラは頷いた。


「では、参加意思は?」


「八」


「止めたい気持ち」


「一」


「途中の呼吸数は?」


「今日も知らない方がいい」


「理由は?」


「昨日と比べたいから。途中の数字を知る条件をまた変えたくない」


 魔導具教師が記録へ視線を落とす。


「分かりました。ただし、今日は昨日と違い、一度だけ小さな変化を意図的に入れます。アリシアさんには、その変化を入れる時刻も知らせません」


「うん」


「開始と終了、中止判断に必要な情報だけ伝えます」


「それでいい」


 安全管理担当が確認する。


「冷感二で相談。二・五以上で即停止。恐怖五で相談、六で停止。痛み・息苦しさが一以上なら即申告し、その時点で刺激は停止します」


「分かってる」


「今回は意図的な変化を加えるので、冷感が一・五に達した時点でもこちらから継続意思を確認します」


「いつもより早い?」


「はい」


「分かった」


 アリシアは少し肩を動かし、緊張を抜いた。


 昨日とは違う。


 滑らかな十呼吸へ、小さな揺れを一度だけ加える。


 それで反応が戻れば、微細な変化の関与は少し強くなる。


 戻らなければ、昨日の無反応と合わせて別の見方が必要になる。


 どちらでもいい。


 そう思いたい。


 けれど、心のどこかでは少しだけ、反応が戻ることを期待していた。


     ◇


 試験開始前の確認は、数値を一つずつ機械的に読み上げる形にはしなかった。


 治療教師の確認では痛みや息苦しさ、頭痛、腕の重さはなく、疲労は一。胸部違和感も神器関連感覚もなく、身体側に試験を避ける理由は見つからなかった。


 本人側は、怖さ四、参加意思八、反応してほしい気持ち五、昨日の結果を否定したい気持ち二、条件を知りたい気持ち九。自分から感覚を探したい気持ちは朝の三から二へ下がっていた。


「今日の目的を、自分の言葉で確認しておきますか」


 サーラに言われ、アリシアは頷いた。


「昨日は、できるだけ滑らかな十呼吸で何も感じなかった。今日は同じ十呼吸に近づけたまま、途中で一回だけ、すごく小さい揺れを入れる」


「はい」


「感じたら、揺れが関係してる可能性は上がる。でも一回じゃ決めない。感じなくても、昨日と今日で“揺れを足しても駄目だった”って一回分増えるだけ」


「十分です」


「反応を強くする試験じゃない」


「そこも大事です」


 アリシアは深く息を吐いた。


 少し離れたところでは、子供が今日は木箱の紙を閉じている。


 ノアは椅子の下に伏せたまま、尻尾の先だけをゆっくり動かしていた。


『怖かったら、格好つけないで言いなさいよ』


「分かってる」


『昨日ゼロだったからって、今日も低いとは限らないから』


「うん」


 短いやり取りだったが、その言葉が思ったより胸へ残った。


 同じ十呼吸でも、昨日と今日は違う。


 それを確かめるための試験なのだから、結果も同じとは限らない。


     ◇


『刺激開始』


 合図のあと、アリシアは正面へ視線を固定しすぎないよう、少しだけ窓の方へ意識を散らした。


 途中の呼吸数も、小さな揺れが入る時刻も知らない。


 何も知らないまま、自分に起こる感覚だけを申告する。


 最初のうちは、昨日とよく似ていた。


 胸の中央にも右側にも冷たさはなく、震えもない。呼吸は自然に続き、身体のどこかへ力が入りすぎている感じもなかった。


 それでも、今日は「どこかで揺れが入る」と知っている。


 時刻を知らなくても、来ること自体は知っている。


 その事実だけで、昨日より少し待っている感じが強い。


「反応してほしい、六に上がった」


「記録します」


 サーラの返答は短い。


 アリシアはそれ以上意味を考えず、また外の音へ耳を向けた。


 しばらくして、胸の中央へごく薄い違和感が触れた。


 冷たいと断定するには弱い。


 しかし、昨日の「探したから何かあるように思った」感覚とは少し違う。


「……待って」


 室内の空気がわずかに張る。


「感覚がありますか」


「まだ分からない。でも、昨日よりは何かある」


「位置は?」


「真ん中」


「強さは?」


「まだ数字つけない」


「分かりました」


 アリシアは追いかけすぎないようにした。


 違和感は一度薄れかけ、そのあと、ほんの少しだけ輪郭を持った。


「冷たい。〇・五くらい」


 サーラの声がすぐ返る。


「震えは?」


「ない」


「方向」


 アリシアは目を閉じず、正面の壁を見たまま少し待った。


「……東かも。でも弱い」


「確信度は?」


「低い」


「痛み、息苦しさ」


「ゼロ。怖さ四」


 そのあと、冷感は強くならなかった。


 〇・五程度のまま短く続き、少しずつ薄くなっていく。


「下がってる」


「どの程度ですか」


「〇・五より下。今は、あるかないか分からないくらい」


 アリシアはそこで、一昨日までの二回の十呼吸試験を思い出しかけた。


 似ている。


 同じように弱くなっていく。


 その考えが浮かんだこと自体を隠さない。


「今、前の十と似てるって思った」


「記録します」


「探したい三」


「続けますか?」


「うん」


 少しして、感覚は消えた。


「今はゼロ」


 試験はまだ続いていたが、その後は新しい冷感も震えも出なかった。


 やがて刺激終了の合図が入り、復帰確認へ移る。


 アリシアは長く息を吐いた。


 怖さは三まで下がっていた。


     ◇


 試験直後、サーラたちはまず身体側の確認を優先した。


 痛みや息苦しさはなく、頭痛や腕の重さもない。冷感は消失しており、震えも残っていない。疲労は二、怖さは二まで下がり、治療教師の確認でも魔力循環に大きな乱れは見つからなかった。


 そこまで終わってから、魔導具教師が設備記録を開く。


「感覚申告の時刻を照合します」


 アリシアは無意識に身を乗り出した。


「最初の“待って”は?」


「立ち上がり後半。意図的な微細変動を加えた直後から、一呼吸以内です」


 アリシアの目が少し大きくなる。


「直後?」


「はい」


「冷たい〇・五って言ったのは?」


「その少しあと。微細変動が収束してから一呼吸程度の範囲です」


「東側奥部は?」


 通信先から東側観測班の返事が入った。


『小変動入力のあと、奥側新反応に一時的な追加低下を確認。その後は予定した十呼吸条件の目標幅へ戻っています』


「追加低下?」


「大きい?」


『かなり小さいです。昨日までの明確な変調条件とは比べられません』


「西側は?」


『今の時点では判定待ちです』


 アリシアは胸へ手を置いた。


 今は何もない。


「昨日は滑らかな十でゼロ。今日は小さい揺れ一回足したら〇・五くらい」


「現時点の記録はそうです」


 魔導具教師は慎重に答えた。


「微細揺れが関係してる?」


「可能性は、昨日より上がりました」


「かなり?」


「“かなり”と付けるには、まだ早いです」


 アリシアは少し口を尖らせた。


「でも直後だった」


「はい。そこは重要です」


「本人は時刻知らなかった」


「はい」


「反応出ることは知ってたけど」


「正確には、“小さな変化を一度入れる”ことは知っていました。いつ入るかは知りませんでした」


「じゃあ期待だけで時刻合わせるのは少し難しい?」


「少し難しくなります。ただし、完全に除外はできません」


 ノアが机へ飛び乗った。


『嬉しい顔しすぎない方がいいわね』


「してない」


『してる』


 子供もこちらを見ていた。


「嬉しい?」


 アリシアは少し考えた。


「八」


「がっかりは?」


「一」


「怖かった?」


「四まで。でも今は二」


「感じてよかった?」


 その質問には、アリシアはすぐに答えなかった。


 昨日までなら、「うん」と答えていたかもしれない。


「結果が違ってよかった」


「感じたからじゃなくて?」


「感じたのも嬉しい。でも、昨日と違うところを一個変えたら、私の方も違った。そのことが嬉しい」


 子供は少し考え、それから頷いた。


     ◇


 午後の分析は、いつもより慎重に進められた。


 昨日の滑らかな十呼吸条件と、今日の小さな一回変動入り十呼吸条件を並べる。


 立ち上がり時間はどちらも十呼吸付近。


 最大低下幅も測定誤差範囲内へ近づけている。


 維持時間は十五呼吸で同じ。


 復帰速度も大きくは外れていない。


 本人への途中呼吸数非通知も同じ。


 大きな違いは、今日だけ立ち上がり後半に一度、ごく小さな意図的変動を加えたことだった。


 昨日は確定冷感なし。


 今日は、その小変動直後から一呼吸以内に違和感申告、その後冷感約〇・五。方向は東寄り候補だが確信度低く、震えなし。


「かなり比べやすい?」


 アリシアが尋ねる。


「これまでの中では比較しやすい組み合わせです」


 魔導具教師が答えた。


「でも完全じゃない」


「はい。同じ日ではありませんし、設備の基準値にも微差があります。本人側の期待も完全には同じではありません」


「今日の方が反応してほしい五から六に上がった」


「それも記録済みです」


「じゃあ、期待が一個高かったせいかもしれない」


「その可能性も残ります」


「でも、感じ始めた時間は揺れの直後」


「はい」


 サーラが少しだけ身を乗り出した。


「今の段階で言えるのは、“同じ十呼吸に近づけた条件で、滑らかなときは確定反応がなく、小さな変化を一度加えた今日は、その直後に弱い冷感候補が出た”ということです」


「それ以上は?」


「まだ言わない方がいいです」


 アリシアは少し息を吐いた。


「分かってる。でも、かなり気になる」


『それは止めなくていいでしょう』


 ノアが言う。


 魔導具教師は設備記録をさらに拡大した。


「もう一つあります」


「何?」


「今日加えた微細変動は、前の十呼吸一回目や二回目で自然に生じていた揺れより小さいです」


「小さいのに〇・五出た?」


「そう見えます」


「じゃあ揺れの大きさと冷感の強さ、単純には比例しない?」


「その可能性があります」


 アリシアは少し顔をしかめた。


「また増えた」


「何がです?」


「考えること」


 周囲から小さな笑いが漏れる。


 サーラも口元を緩めた。


「研究なので」


『便利な言葉を取られたわね』


「私が先に使ってた」


     ◇


 そこへ、西側から追加報告が入った。


 今日も、東側の人工刺激後にごく弱い遅延波形が確認された。


 ただし昨日の滑らかな十呼吸よりは少し大きく、前の自然な微細揺れを含んだ十呼吸条件よりは小さい。


 アリシアはすぐ記録へ目を向ける。


「西側も、昨日より戻った?」


「見かけ上はそうです」


「私の冷感も戻った」


「はい。ただし、同じ原因で戻ったとは限りません」


「分かってる」


 それでも、アリシアの声には少し熱が入った。


「東側の途中の形を変えたら、私と西側の両方が変わった」


「今日一回ではありますが、その記録は残せます」


「じゃあ、六つ目と西側が同じものを感じてる?」


「そこまでは言えません」


「同じじゃなくても、東側の変化の形に両方反応してる可能性は?」


「可能性としてはあります」


 アリシアはそれ以上言わなかった。


 以前なら、ここで一気に「つながっている」と言いたくなっていた。


 今は、言いたい言葉を一度喉の奥で止められる。


 似た変化が起きた。


 それだけでも十分に大きい。


     ◇


 分析が一段落したあと、子供は木箱の紙を持ってきた。


「今日、先生来れる?」


 試験が終わって生活観測区画が少し落ち着いたことを確認してから聞いている。


 サーラが予定を確認すると、エルデン教師は夕方前なら短時間来られるという返事だった。


「箱は開けない」


 子供が先に言った。


「紙だけですか」


「うん。交差、紙で分かるか聞く」


 アリシアは隣で頷いた。


 エルデン教師が来たのは、それから少ししてだった。


 白髪の混じった髪を後ろで束ねた細身の教師は、今回も箱へ視線を向ける前に、子供へ確認する。


「今日は、何を見てほしい?」


「この二枚」


 子供は正面照明と横照明の複写を差し出した。


「ここ、線が重なってるように見える。紙だけで、どっちが先に彫られたか分かる?」


 エルデンはすぐ答えず、二枚の紙を机の上へ置いた。光の当たり方を変えながら、何度も同じ箇所を見る。


 生活観測区画はしばらく静かになった。


 アリシアも少し離れた位置から見ていたが、自分にはやはり二本の線が交わっているようにしか見えない。


「紙だけだと難しい」


 やがてエルデンが言った。


 子供の肩がほんの少し下がった。


「分からない?」


「完全にはね。ただ、ここは交差している可能性が高いと思う」


「先は?」


「どちらが先に刻まれたかは、この複写だけでは決められない」


「もっと見る?」


「方法はある」


 子供が顔を上げる。


「箱開ける?」


「それを決めるのは君だよ」


 エルデンは前回と同じように、判断を子供へ返した。


「もし次に観察するなら、布を動かさず、今見えている交差部分へもっと浅い角度から光を当てる方法がある。線の縁にできる影を比べれば、どちらが上から切っているか分かる場合がある」


「触らない?」


「触らない。物体も布も動かさない」


「今日やる?」


 子供はそう聞いてから、自分で少し黙った。


 さっきまで線の重なりを知りたい気持ちは九だった。


 今は、専門家から次の具体的な方法を聞いたことで、もっと上がっているかもしれない。


「見たい、十」


 子供が小さく言った。


 アリシアは何も口を挟まなかった。


「怖さ二。開けたい八。触りたい三」


 エルデンも急かさない。


「今日は?」


 子供は箱の方を見た。


 しばらく見てから、ゆっくり首を横へ振る。


「今日は開けない」


「どうして?」


「見たい十になったから」


 エルデンは静かに頷いた。


「分かった」


「次に、光だけ変えるって決めてから開ける」


「それがいいと思う」


 子供は少し名残惜しそうに木箱を見たが、手を伸ばさなかった。


 今日得たのは答えではなく、次の観察方法だった。


     ◇


 夕方、顔のない存在は再び立ち上がった。


 午前より動き出しは早かったものの、歩き方はゆっくりしている。数歩進む途中で一度止まり、また少し進んでから座った。


 子供は現在の動きだけを見て、「夕方五歩」と記録した。


 胸の光は、明るいもの二つ、弱いもの二つに見えた。朝は明るい一つ、弱い三つだったため数と明るさの内訳は違うが、どの瞬間に変わったのかは誰も見ていない。


「夕方は二つ明るい、二つ弱い」


 子供は位置も書き込む。


 朝に「かなり弱い」と記録した一つは、夕方には見えなくなっていた。


「消えた?」


 今度は子供自身がそう言いかけ、途中で止めた。


「夕方は見えない」


「うん」


「消えたところ見てない」


「その書き方でいいと思う」


 午後の人工刺激からは十分な時間が空いている。


 東側奥部もすでに基準範囲へ戻っていた。


 だから今日も、十一の光と東側の試験結果を結びつける理由はなかった。


     ◇


 夜。


 生活観測区画には、昼間より冷たい風が入っていた。


 アリシアは窓を少しだけ閉め、机へ戻る。練習帳には、今日一日の記録がすでに半分ほど書かれている。


 昨日は滑らかな十呼吸で確定反応なし。


 今日は同じ十呼吸へ可能な限り条件を近づけ、途中にごく小さな変化を一度だけ加えた。


 その直後から一呼吸以内に違和感を申告し、少し遅れて冷感約〇・五。震えなし。東方向は候補だが確信度低。


 西側の遅延波形も、昨日より少し大きかった。


 アリシアはそこまで書き、筆を止めた。


『嬉しい?』


 ノアが机の端へ飛び乗る。


「八」


『まだ八』


「うん」


『じゃあ“微細揺れが原因”って書きたい?』


「書きたい気持ちは……六」


『意外と高い』


「でも書かない」


『どうして?』


 アリシアは記録板を見た。


「今日一回だけだから。それに、揺れの大きさと冷感の強さも単純じゃないかもしれない」


『一番小さい揺れなのに〇・五だった』


「うん。前の二回目より設備の揺れは小さいのに、今日の冷感は同じくらい」


『じゃあ何を見る?』


「揺れの大きさだけじゃなくて、入った場所とか、形とか、東側がどう追加で下がったかとか」


『また増えた』


「本当に増える」


 アリシアは少し笑った。


 今朝までは、昨日消えた反応を小さな揺れで戻せるかどうかだけを見ていた。


 実際、今日は弱い冷感候補が戻った。


 でも、それで終わりではない。


 どれくらいの揺れなら反応するのか。


 揺れの大きさより、入る時刻や形が重要なのか。


 東側奥部の追加低下そのものを感じているのか。


 西側へ出る遅延波形と同じ成分が関係しているのか。


 まだ測れていないもっと細かな変化があるのか。


 どれも一つでは決められない。


 アリシアは練習帳へゆっくり書き足した。


『昨日は滑らかな十で感じなかった。今日は、小さい変化を一度だけ入れたあとに弱い冷感が出た。だから微細な変化が関係する可能性は昨日より上がった。でも、揺れの大きさだけで反応の強さが決まるようには見えない』


 さらに少し考え、もう一行続ける。


『反応を戻せたように見えても、同じやり方を強くすれば答えに近づくわけではない。次は、“どれくらい強くするか”より、“何を同じにして、何を一つだけ変えるか”を先に決める』


 ノアがその文章を読んで、尻尾を一度だけ机へ打ちつけた。


『今日はちゃんと止まったわね』


「何が?」


『反応が戻ったところで』


「前なら?」


『次はもっと揺らしたいって言ってた』


 アリシアは否定できず、少しだけ苦笑した。


「今も知りたいよ」


『でも?』


「強くしたいとは思わない」


『それなら十分』


 机の端には、子供の木箱記録も置かれている。


 今日は箱を開けなかった。


 複写だけで線の交差候補を確認し、エルデン先生から浅い角度の光で交差部の影を見る方法を教わった。聞いた直後、見たい気持ちは十まで上がった。


 だからこそ、今日は開けなかった。


 顔のない存在は午前三歩、夕方五歩。朝は明るい光一つと弱い光三つ、夕方は明るい二つと弱い二つ。朝にかなり弱く見えていた一つは、夕方には見えなかった。


 どれも、まだ意味は分からない。


 それでも、少しずつ観察の仕方だけは変わっている。


 アリシアは窓の外へ目を向けた。


 夜の庭では、昼より強くなった風に枝がゆっくり揺れている。空には薄い雲が流れ、月が見えたり隠れたりしていた。


 今日、六つ目の感覚は少しだけ戻った。


 けれど、それは「戻ったから正解だった」という意味ではない。


 昨日の無反応と、今日の弱い反応。その二つを並べられるようになったことで、初めて見えてきた違いがある。


 次に必要なのは、その違いを大きくすることではなかった。


 むしろ、余計なものを増やさず、どの小さな変化が本当にアリシアの胸と重なっているのかを、もう少し丁寧に見極めることだった。

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