第175話 同じ十呼吸から小さな揺れを減らしたとき、残るものを確かめる
翌朝、生活観測区画の窓の向こうには、薄い青空が広がっていた。
昨日まで空を覆っていた雲は夜のうちにほとんど流れ、庭には朝の光が斜めに差し込んでいる。雨の名残はもう土の奥にしか残っていないらしく、風が通るたび、湿った匂いより乾き始めた草と木の香りの方が強く感じられた。室内も少し明るく、机の上に重ねた記録紙の線が、昨日よりはっきり見える。
アリシアは目を覚ましてから、しばらく天井を見上げていた。昨日の夜に練習帳へ書いたのは、新しい十二や十四を見るより先に、同じ十呼吸の中で違っていた微細な揺れを見たい、ということだった。眠る前には、その気持ちは九まで上がっていて、朝になっても考えそのものは変わっていない。
それでも、先に身体の状態を確かめた。胸の冷たさも震えもなく、息苦しさや頭痛、腕の重さも残っていない。疲労は一程度で、寝起きとして特別に身体が重い感じもなかった。
右手を胸へ置く前に、自分の気持ちも確かめる。昨日は人工刺激を行っていないものの、一昨日の十呼吸二回目で感じた弱い冷感を探したい気持ちは、完全には消えていなかった。
「探したい、二」
窓際で朝日を浴びていたノアが、目だけをこちらへ向ける。
『昨日の朝は三だったわね』
「うん。少し下がった」
『滑らかな十をやりたい気持ちは?』
アリシアは少し考えてから答えた。
「九」
『新しい十二とか十四は?』
「六」
『随分落ちたわね』
「今はそっちより、揺れを減らした方が気になる」
『昨日の夜からちゃんと続いてる』
「怖さは三」
『反応してほしい気持ちは?』
「四」
ノアは前足を揃え直し、今度は少し間を置いて尋ねた。
『感じなかったら嫌?』
その質問には、アリシアもすぐには答えなかった。窓の外へ視線を向け、朝日を受けて揺れている葉を眺めながら、自分の中にある期待と落胆の形を探してみる。
「……三かな。感じなかったら、滑らかにしたことが関係あるかもしれないから」
『感じたら?』
「速度の方が残るかもしれない」
『どっちでも嬉しい?』
「同じ嬉しいではないけど、どっちでも意味はあると思う」
そこまで言ってから、アリシアは自分でも少しだけ嬉しくなった。以前なら、感じる方が「当たり」に近く、何も感じない結果には少なからず失敗のような印象を持っていた。
今は、感じない結果も欲しいと思える。何も起きないことを望んでいるわけではないが、何が違うのかを見るためには、反応が消えることにも意味があると分かってきた。
隣の寝台から布団の擦れる音がして、子供がゆっくり起き上がった。
「今日は滑らか?」
「できればね」
「十?」
「十」
「昨日と同じ数字」
「でも、中身を少し変えるの」
子供は布団の中で首を傾げた。
「十なのに違う?」
「前の十は、途中に小さい揺れがあったの。今日は、その揺れをできるだけ減らして、十呼吸そのものに近づける」
「揺れなくしたら、感じないかも?」
「うん。でも感じるかもしれない。だから、それを見るの」
『朝から同じところをぐるぐる回ってるみたいな会話ね』
「ノアが分からなくなったって」
『分かってるわよ』
子供は少し笑い、それから顔のない存在の方へ視線を向けた。
◇
今朝の顔のない存在は、寝台の上で上半身を少し起こしていた。完全に座っているわけではなく、枕へ背中を預けるような姿勢で静かにしている。
子供は近づきすぎない位置へ椅子を置き、まず胸の十一の光を確認した。しばらく黙って一つずつ見比べてから、机に置いてあった紙を引き寄せる。
「今日は二つ明るい。二つ弱い」
「昨日は?」
アリシアが聞きかけると、子供は紙を取り出しながら首を振った。
「あとで見る。先に今日」
「うん。今見えてる方が先だね」
子供は現在見えている位置を一つずつ紙へ写した。明るいものが二つ、弱いものが二つあり、そのうち明るい一つは胸の中央寄り、もう一つは少し外側に見える。弱い二つも互いに離れていたが、昨日と同じかどうかはまだ比べない。
「今は四つ見えるって書く?」
アリシアが尋ねると、子供は鉛筆を止めて考えた。
「書かない。二つ明るい、二つ弱いって書く」
「どうして?」
「弱いのと明るいの、同じ一個じゃないから」
アリシアは頷いた。
「昨日も、一つ明るい三つ弱いだったもんね」
「うん」
今日の記録を書き終えてから、子供は昨日の紙を横へ並べた。しばらく二枚を見比べ、指先を紙の上で動かす。
「位置、二つは近い。でも一つは違う」
「動いた?」
アリシアが尋ねると、子供はすぐに首を横へ振った。
「今の場所が違う。動いたところは見てない」
「そうだね。途中は見てないもんね」
その言い直しも、もう自然になってきていた。少し前なら、昨日と違う位置にあれば「動いた」と書いてしまっていたかもしれないが、今は見ていない過程を足さない。
顔のない存在は、そのあとも上半身を起こしたまましばらく動かなかった。アリシアが「歩くかな」と小さく呟くと、子供は人影を見ながら、「歩いたら書く。歩かなかったら、そのとき書く」と答えた。
『余計な意味を足さない力だけは、どんどん強くなってるわね』
「褒めてる?」
『珍しくね』
◇
朝食後、学院側から連絡が入った。
今日は設備調整に時間がかかるため、試験を行うとしても午後になる。それまでの午前中、アリシアは予定通り通常授業へ一つ参加することになっていた。
教室へ向かう道は、朝の光ですでに暖かくなり始めていた。廊下の窓は何か所か開け放たれ、外から生徒たちの話し声と、訓練場で木剣がぶつかる乾いた音が届いてくる。すれ違う生徒の中にはアリシアへ軽く手を上げる者もいて、以前のように一つ一つの視線を意識して肩を固くすることはなくなっていた。
今日の授業は基礎魔術理論だった。
最近は地下調査や比較試験とどこか似た内容の授業が続いたせいで、アリシア自身も無意識に「また研究と重なるかな」と考えていた。しかし今日の内容は、単純な魔力消費と休息時間の関係だった。
「今日、普通だ」
席へ着きながら呟くと、隣の女子生徒が振り返った。
「何が?」
「何でもない」
「また難しいこと考えてた?」
「考えてない」
「今の顔は考えてた」
『バレてる』
「ノアは黙って」
女子生徒は黒猫を見て笑った。
「相変わらず仲良いね」
「仲良くない」
『そうね』
「そこで合わせないで」
近くで教科書を開いていた生徒たちからも小さな笑い声が上がり、アリシアも少し遅れて笑った。以前なら自分の周囲で笑いが起こるだけで、「何か変なことをしただろうか」と不安になっていたのに、今はそれが自分を拒む笑いではないと分かる。
授業が始まると、先生は魔力を連続使用した場合の疲労について説明を始めた。使える魔力が残っていても、同じ術式を繰り返せば制御側の集中力が落ちることがあり、そのため残存魔力量だけを見て「まだ使える」と判断してはいけないという内容だった。
アリシアは聞きながら、少しだけ昨日までの試験を思い出した。それでもノートへ地下のことは書かず、今日の授業は今日の授業としてまとめることにした。
途中で先生が、「魔力量が十分残っているのに休息が必要な理由は?」と教室へ問いかける。何人かが手を挙げ、前の席の男子生徒が「魔力が残っていても、集中が切れれば制御に失敗するからです」と答えた。
「その通りです。身体に異常が出る前に休む必要があります」
先生の説明を聞きながら、アリシアはその一文をノートへ書き写した。身体に異常がないからといって、必ず試していいわけではないという考えは、昨日まで何度も言われてきたことと似ている。
けれど今日は、それ以上無理に結びつけなかった。
授業が終わると、隣の女子生徒が机へ肘をついた。
「今日、放課後残る?」
「午後ちょっと予定ある」
「また?」
言われた瞬間、アリシアはほんの少しだけ身構えた。しかし女子生徒は深く聞こうとはせず、すぐ肩をすくめる。
「じゃあ明日の課題だけ教えて」
「何で私に?」
「ちゃんと聞いてそうだから」
「聞いてたよ」
「私も聞いてた」
「じゃあ分かるでしょ」
「聞いたのと覚えたのは別」
『名言っぽく言っても駄目なものは駄目ね』
「ノアが駄目って」
「猫にまで言われた」
また周囲から笑いが起こり、アリシアも今度はすぐ一緒に笑えた。
ほんの短い会話だったが、授業へ来るたびに緊張しなくなってきていることを感じる。以前なら、人に見られているだけで胸が詰まり、急に名前を呼ばれれば返事をする前に身体が固まった。
今は、そうならない日が少しずつ増えている。
地下の研究とは別のところでも、自分は確かに変わっていた。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は木箱を開けていなかった。
机の上には、これまでの複写が四枚並んでいる。正面から光を当てた記録、横から光を当てた記録、自分で描いたもの、そしてエルデン教師の所見を書き取った紙だった。
「今日も紙を見るの?」
「うん」
「開けたい?」
「六」
「触りたい?」
「三」
「線の重なりを知りたい?」
「八」
「先生に聞きたい?」
「八」
アリシアが「同じになった」と言うと、子供は頷いた。
「紙だけで分かるか聞きたい」
「エルデン先生、今日は来ないかも」
「来なくていい。次でいい」
あまりにも普通に返されたので、アリシアは少し驚いた。
「見たいのに?」
「見たい八。でも、待ちたい七」
「近いね」
「両方ある」
『待てる力も強くなってきたわね』
ノアの言葉に、子供は少し考えてから紙へ視線を戻した。見たい気持ちが消えたわけではない。むしろ線の重なりについては昨日より知りたい。それでも、知りたいから今日すぐ何かをしなければならないとは思わなくなっていた。
◇
昼前、顔のない存在が寝台から立ち上がった。
朝から上半身を起こした状態が長く続いていたため、子供は紙を手元へ引き寄せながら静かに様子を見守った。人影は両足を床へ下ろした姿勢でしばらく止まり、それから一歩目、二歩目、三歩目とゆっくり進む。三歩目のあとで間を置き、四歩目を出したところで動きを止めると、近くの椅子へゆっくり腰を下ろした。
「午前四歩」
子供が紙へ書き込む。
「昨日午前二歩だったね」
アリシアが言うと、子供は紙へ目を落としたまま答えた。
「今日は四歩。昨日と比べるのはあと」
「うん。今は今日の四歩」
胸の光も確認すると、明るいものが二つ、弱いものが二つという数と明るさは朝と同じだった。ただし位置は一つ違って見える。
「途中で変わったところ、見た?」
「見てない。だから朝と今で位置が違うって書く」
「それでいいと思う」
今日も、それ以上の意味は足さなかった。
◇
午後一時を過ぎた頃、魔導具教師とサーラが生活観測区画へやってきた。その後ろには安全管理担当と治療教師もいて、人数を見た瞬間、アリシアの背筋が自然と少し伸びる。
「できる?」
期待を隠しきれずに尋ねると、魔導具教師はすぐには頷かず、先に机へ記録板を置いた。
「条件は作れました。ただし、“完全に揺れなし”ではありません」
「どれくらい?」
「前回二回の十呼吸より、立ち上がり途中の微細揺れをかなり小さく抑えられます。ただし装置の構造上、ゼロにはできません」
「十呼吸は同じ?」
「目標立ち上がり時間は十呼吸です。最大低下幅は前回十呼吸二条件と測定誤差範囲内へ近づけ、維持時間は十五呼吸、復帰も可能な限り同じ条件へ揃えます」
アリシアは一つずつ聞きながら、頭の中で昨日までの二回と並べていく。
「じゃあ、今日変えたいのは、十呼吸の途中の細かい揺れを減らすこと。でも完全にそれだけじゃない。設備も日も私も違うから」
「その理解で合っています」
サーラが一歩近づいた。
「今日は途中経過の呼吸数を知らせる方法と、知らせない方法のどちらを希望しますか」
アリシアは少し驚いた。
「選べるの?」
「前回二回目で、途中経過を知らせない方法も安全に実施できました。今日も同じ方法へ揃える方が比較しやすいですが、不安が上がるなら知らせる選択もあります」
「知らない方がいい」
答えは思ったより早く出た。
「怖さは?」
「今は三。二回目の十と比べるなら、私が途中の数字を知らない方も揃えたい」
「分かりました」
自分で選んだあとになって、胸の奥へ少し緊張が生まれた。
同じ十呼吸で、途中の数字は知らない。前回より滑らかな立ち上がりにして、もし何も感じなければ微細な揺れの関与が少し強くなり、もし感じれば速度そのものか、まだ分けられていない別の要素が残る。
どちらでも意味があると分かっている。
それでも、実際に試すとなれば少し怖い。
◇
試験前の休息は、いつも通り十分に取った。食事からも時間を空け、水分も摂り、治療教師の確認でも魔力循環や体温、呼吸に問題は見つからなかった。
アリシアは椅子へ深く腰掛け、両手を膝へ置く。窓から差し込む午後の光は朝より強くなっていたが、薄いカーテンを通しているため眩しさはなく、床の上へ淡い四角い光を作っていた。
サーラが最終確認を始める。
「痛み、苦しさ、頭痛、腕の重さは?」
「全部ゼロ。疲労は一」
「胸部違和感、神器関連感覚」
「どっちもなし」
「怖さは?」
「四」
「参加意思」
「八。今日の条件を知りたい気持ちは九で、反応してほしい気持ちは四。何も感じなかったら嫌な気持ちは三、昨日までの感覚を探したい気持ちは二、止めたい気持ちは一」
サーラが一つずつ記録へ残し、顔を上げた。
「では、今日の目的をお願いします」
アリシアは一度ゆっくり息を吸い、自分の中で整理した内容を確かめてから話し始める。
「前の十呼吸二回では、似た時間に弱い冷感候補が出た。でも二回で微細な揺れの大きさが少し違って、冷感の強さも違った。今日は立ち上がり十呼吸と最大低下幅、十五呼吸の維持と戻し方をできるだけ前と揃えて、その上で途中の小さい揺れをできるだけ減らす」
「はい」
「感じなかったら、揺れが関係している可能性が少し上がる。でも感じても、揺れが関係ないって決めない。途中の呼吸数は教えない」
「十分です」
アリシアは少し離れたところにいる子供を見る。今日は何も声をかけず、両手を膝へ置いたまま静かにこちらを見守っていた。
目が合うと、子供がほんの少しだけ頷いた。
アリシアも小さく頷き返した。
それだけで、今は十分だった。
◇
『刺激開始』
合図が響くと、生活観測区画から余計な音が消えたように感じられた。
アリシアは正面へ視線を向け、意識して呼吸を数えないようにする。前回二回目と同じ条件へ近づけるため、今が何呼吸目なのかは知らないまま観察を続けることになっている。
ただ、「数えないようにしよう」と考えた時点で、少しだけ数字を意識してしまった。そのことに気づいたアリシアは、胸の感覚へ集中しすぎないよう、窓の外から聞こえる鳥の声や風の音、机の上で記録紙がかすかに擦れる音へ意識を散らした。
しばらく待っても、胸には何の変化もなかった。冷たさも震えもなく、どちらかの方向から何かが近づいてくるような感覚もない。
時間が少し長く感じられ始める。
今が何呼吸目なのか分からないため、昨日より早く不安が出るかもしれないと思っていたが、同じ方法を経験しているせいか、怖さは大きく上がらなかった。
「怖さ四。今のところ、感覚なし」
「記録します」
サーラの落ち着いた声だけが返ってくる。
アリシアはそのまま呼吸を続けた。胸の中央にも右側にも、冷たさとして確信できるものはなく、方向感覚も現れない。
それでも、何もない状態が続くほど、今度は自分から何かを探したくなる気持ちが少し強くなってきた。
「探したい三」
「記録します」
そこからさらに時間が過ぎる。
何も感じないまま待っているうちに、「まだ何もない」と思った瞬間、反応を待ち望んでいる自分にも気づいた。
「反応してほしい気持ち、五に上がった。でも続ける」
「記録します。そのまま観察してください」
また室内が静かになる。
これまでの十呼吸条件なら、そろそろ何かを感じた頃なのだろうか。けれど今は途中経過を知らされていないため、そう考えても確かめようがない。
そのとき、胸の中央に薄い冷たさがあるような気がした。
アリシアは一瞬だけ眉を寄せる。
しかし、それを追いかけようとした途端、感覚は形を失った。最初から何かがあったのか、それとも自分が探したことでそう思っただけなのか判断できない。
「今、一瞬だけ探した。でも冷感とは言わない。分からない」
「そのまま記録します」
アリシアは深く追いかけなかった。
もしここで〇・二や〇・三という数字を無理につければ、自分の期待から数字を作ってしまう気がした。確信できないなら、「分からない」で残す方がいい。
さらに時間が過ぎるうちに、胸のことばかり考えていた意識も少しずつ散っていった。
やがて、サーラの声が静かな室内へ届く。
『刺激終了。復帰確認へ移行しています』
アリシアは思わず目を瞬いた。
「もう終わったの?」
「はい。刺激本体は終了しています」
「私、何も感じてない」
「今もですか?」
「うん。今もゼロ」
怖さは三まで下がっており、痛みや息苦しさもなかった。そのまま復帰確認が続き、数呼吸後には設備側からも終了の報告が届いた。
『復帰確認完了。本日の刺激終了です』
アリシアはそこで初めて肩の力を抜き、長く息を吐いた。
◇
最初に浮かんだ感情は、意外にも落胆ではなかった。
驚きの方が強い。
二回続けて同じ十呼吸付近で弱い冷感候補が出ていたから、今日もほんの少しくらいは何かを感じるのではないかと、どこかで思っていた。
「本当に十だった?」
アリシアが尋ねると、魔導具教師が頷いた。
「目標は十呼吸です。実測も許容範囲内でした。最大低下幅も前回の十呼吸二条件との比較で測定誤差範囲内、維持時間も十五呼吸です」
「東側奥部は?」
サーラが通信先へ確認すると、少しして東側班から返答が届いた。
『奥側新反応は立ち上がり後半から低下を開始。目標低下幅への到達は十呼吸付近で、前二回の十呼吸条件と大きく外れていません』
「でも、私は何も感じなかった」
「はい」
アリシアは右手を胸へ置いた。今も冷たさはなく、何かが残っている感じもしない。
「途中で一瞬、分からないって言ったけど」
「冷感としての申告はしていません」
「うん。あれは探しただけだと思う」
「その記録は別に残します」
魔導具教師が新しい波形を表示する。
「設備側の微細揺れは、予定通り前二回より小さく抑えられています」
アリシアは画面を覗き込んだ。
完全な直線ではない。それでも、前の十呼吸二回で見えていた小さな上下はかなり薄くなっている。
「ほぼ滑らか?」
「“かなり滑らか”くらいにしておきましょう。ゼロではありません」
「うん」
机へ飛び乗ったノアが、記録板を横から眺める。
『同じ十呼吸なのに、今日はゼロ』
「うん」
『嬉しい?』
アリシアはすぐには答えなかった。胸の奥には少しだけ悔しさがあるが、何も感じなかったことそのものが嫌なのではない。二回続けて弱い感覚候補が出ていたため、三回目にも何かあるだろうと期待していた自分がいたからだ。
「嬉しい……七かな」
「がっかり?」
子供が尋ねる。
「三。でも、意味はかなりあると思う」
「揺れ少なくしたから?」
「それが理由かもしれない。でもまだ分からない」
サーラが静かに頷いた。
「意味はあります。ただし、結論はまだ先です」
「分かってる。滑らかな十で感じなかったから、微細揺れが関係してる可能性は上がる。でも今日一回だけだし、別の日でもあるから、揺れだけが原因とは決めない」
「その通りです」
学院長の声が通信越しに入る。
『それと、今日の無反応を使って、五で一、十で〇・五、十で〇・三、滑らかな十でゼロ、十八でゼロ、みたいな綺麗な線を作るなよ』
「作ろうとしてない」
『頭の中で一瞬並べただろう』
アリシアは少し黙った。
「……ちょっとだけ」
『ほら』
『顔に出るのよ』
ノアまで加わり、アリシアは頬を膨らませた。
「みんなうるさい」
それでも声には、試験前ほどの緊張は残っていなかった。
◇
試験後の身体確認では、異常は見つからなかった。
痛み、苦しさ、頭痛、腕の重さはすべてゼロで、疲労は二、怖さは二まで下がっている。胸部違和感も残らず、治療教師が魔力循環を確認しても、目立った乱れはなかった。
身体側の確認が終わると、そのまま簡単な照合が始まった。
三回の十呼吸条件を並べると、違いが少し見やすくなる。一回目は途中経過を本人へ知らせる通常条件で、設備側の微細揺れは比較的大きく、冷感は約〇・五、方向は東寄り候補、震えはなかった。
二回目は途中経過を知らせず、設備側の微細揺れは一回目より小さかった。そのときの冷感は〇・五未満の弱い候補で、方向は不明、震えもない。
そして三回目となる今日は、途中経過を知らせない点を二回目へ揃えたうえで、設備側の微細揺れを可能な限り抑えた。結果として、冷感の確定申告も方向感覚も震えもなかった。
アリシアは三つの記録をしばらく見比べた。
「見た目だけなら、揺れが小さくなるほど感覚も弱くなってる」
「そう見えます」
魔導具教師が答える。
「でも、まだ三回。一回目だけ途中の情報提示方法も違う」
「はい。二回目と三回目は、一回目より比較しやすいです」
「二回目は弱い冷感候補で、三回目はゼロ。微細揺れも二回目より三回目の方が小さい」
「その記録は残せます」
アリシアは顎へ指を当て、しばらく考え込んだ。
「じゃあ次は、同じ滑らかな十をもう一回?」
「一案です」
「それとも、滑らかなまま五とか十八?」
「それも将来的な候補です」
「わざと小さい揺れを入れた十は?」
魔導具教師の眉がわずかに上がる。
「その案もあります」
通信越しに、若い観測員の声が弾んだ。
『それ、かなり見たいです』
「今日はそっちにいるんだ」
『地下側です』
「顔見えなくても前のめりなの分かる」
『気のせいです』
サーラは二人のやり取りが長くなる前に、少し声を落として話を戻した。
「意図的に揺れを入れる場合は、安全評価を一段慎重にする必要があります。第166話では変調幅を上げた際、冷感二と怖さ五まで上がった例があります」
その記録を思い出し、アリシアの表情も少し引き締まった。
「強い揺れはやらない」
「はい。もし実施する場合も、前の十呼吸で自然に出ていた範囲以下から検討します」
「今日は決めない?」
「決めません」
アリシアは苦笑した。
「そこはもう分かってた」
◇
午後の残りは、分析を途中で切り上げた。
試験直後にそのまま何時間も記録へ張りつくのを避けるためでもあり、アリシア自身も、今は一度頭を休ませた方がいいと思えた。
生活観測区画へ戻ると、子供と一緒に少し遅いお茶を飲んだ。窓の外には昼の暖かさがまだ残っていたが、日差しは少しずつ傾き、庭の木々が床へ長い影を落としている。
「今日、感じなかったね」
子供がカップを両手で持ちながら言った。
「うん」
「嫌三だった?」
「今は二くらい」
「下がった」
「結果を見たら、ちょっと嬉しくなった」
「何で?」
「前の二回と、本当に違う結果になったから」
「揺れ少なかったから?」
「それが理由かもしれない。でもまだ分からない」
子供は少し笑った。
「先生みたい。すぐ分からないって言う」
「大事なんだよ」
『一番いい感染ね』
椅子の下からノアが口を挟む。
「ノアも言うじゃん」
『私は“知らないけど”よ』
「そんなに違わないよ」
◇
木箱は、その日も開けなかった。
子供は紙だけを見ていたが、午後になると線の交差候補の一つへ新しく小さな印をつけた。
「これ、先生に聞きたい」
「八?」
「九」
「上がったね。開けたい方は?」
「六。触りたいは三」
「触りたいは変わらないんだ」
子供は頷いた。
「先生に、紙だけで分かるか聞く方が先」
「じゃあ次に来てもらえる日に聞こうか。そのあとで、箱をもう一度見る必要があるか考える?」
「うん」
アリシアは、箱へ向かおうとしない子供を見ながら少し考えた。
最初の頃は、見たいものが増えるたび、次は蓋を開ける、布を動かす、触るという方向へ進んでいた。今は同じ紙を見直したり、光を変えたり、専門家に聞いたりするだけでも増える情報があると分かってきている。
「今日、私とちょっと似てる」
「何が?」
「新しいことをしないで、前の違いを見るところ。箱は開けてないし、私も新しい速度には進まなかった」
「十」
「うん。同じ十の中を見た」
『今日は“同じものの中身を見る日”だったのね』
ノアが言うと、アリシアは少し考えてから頷いた。
「それは、ちょっと合ってるかも」
◇
顔のない存在は夕方、午前より短い距離だけ歩いた。
寝台から起き上がった人影は、一歩目と二歩目までは続けて進んだものの、三歩目の前で長く動きを止めた。それでもしばらくすると、もう一歩だけゆっくり前へ出て、そのまま近くの椅子へ座る。
「夕方三歩」
子供は午前四歩の記録の下へ、現在の数字を書き加えた。昨日が何歩だったかは横へ並べず、今日は午前四歩、夕方三歩だったという一日の記録だけを残す。
胸の光を確認すると、朝と同じく二つが明るく、二つが弱かった。ただし弱い一つの位置だけは、朝とは違って見える。
「朝と今で、一つ場所が違う」
子供はそれだけ言って、今見えている位置を紙へ描いた。
その時間帯、東側奥部は人工刺激後の復帰を終え、基準範囲へ戻っていた。西側補助連絡線にも追加の波形はなく、十一の光との時間的な対応を示す材料も見つからない。
だから今日も、別々の記録として残った。
◇
夕食後、学院側から簡単な追加報告が届いた。
今日の滑らかな十呼吸条件でも、西側補助連絡線にはごく弱い遅延波形が出ていた。ただし前回二回の十呼吸条件よりさらに弱く、アリシア側には西方向の感覚はもちろん、胸部冷感も出ていない。
「西も弱くなった?」
アリシアが尋ねると、魔導具教師が通信越しに答えた。
『今日の一回だけを見れば、そうです』
「微細揺れを減らしたのと関係ある?」
『候補には入ります』
「東側の奥部新反応そのものの最大低下幅は同じくらいなのに?」
『はい』
アリシアは少し考え、記録板に描かれた東側と西側の波形を交互に見た。
「じゃあ、東側の大きい変化だけじゃなくて、その途中の形が、西側へ伝わる強さにも関係してる可能性がある?」
『あります。ただし、ここも一回では決めません』
「分かってる」
以前なら、そこで「つながってるんだ」と一気に先へ進みたくなっていたかもしれない。今は可能性が増えたことと、答えが決まったことを、同じものとして扱わないようになっている。
今日の結果で増えたのは、六つ目の感覚についての候補だけではなかった。西側へ遅れて現れる弱い波形も、単純な最大低下幅だけではなく、東側で起きる変化の形に左右されている可能性がある。
それでも、今はまだ「可能性がある」としか書けない。
◇
夜が深くなり、生活観測区画が静かになる頃、アリシアは練習帳を開いた。
今日は書き始めるまでに、少し時間がかかった。
昨日までの記録なら、何を感じたかを書くところから始められた。今日は、感じなかったことをどう残すかを考えなければならない。
『滑らかな十呼吸。最大低下幅と維持十五呼吸と復帰速度は、前の十呼吸条件へできるだけ近づけた。途中の呼吸数は知らない状態で、微細揺れは前二回より小さくした』
そこまで書いてから、試験中の自分の感覚を思い返す。
『冷感として確定できるものはなかった。方向感覚も震えもなし。途中で一瞬、探したことで何かあるように思ったけれど、自分で確信できなかったので冷感としては記録しなかった』
さらに、設備側についても書き足した。
『東側奥部新反応は、前の十呼吸条件と大きく外れない時間で低下した。西側には遅れてとても弱い波形が出たが、前二回より弱かった』
アリシアはそこで筆を止めた。
五呼吸と十八呼吸、二回の十呼吸、そして今日の滑らかな十呼吸。点が増えるほど、単純になるのではなく、一つの点の中にも見なければならないものが増えている。
立ち上がり速度、最大低下幅、維持時間、復帰速度、微細揺れ。さらに、自分が途中経過を知っているか、期待がどれくらいあるか、感覚を探したい気持ちがどれくらい強いかという本人側の状態も、無視はできない。
東側奥部の変化と、西側の遅延波形もある。
ノアが机へ飛び乗り、練習帳を横から覗き込んだ。
『随分増えたわね』
「うん。最初は速いか遅いかだけだと思ってた」
『嫌になった?』
「ちょっと面倒。でも嫌いじゃない」
『ならいいじゃない』
アリシアは少し笑った。
「今日、滑らかな十で何も感じなかったとき、最初はびっくりした」
『悔しくなかった?』
「少しは。でも、前の二回と違ったから嬉しかった」
『変わったわね』
「そう?」
『前なら反応が消えたら、失敗したみたいな顔してたでしょう』
アリシアは否定しなかった。
「今は、消えたなら何が違ったか見られる。でも次、わざと揺れを入れるのはちょっと怖い」
『怖さは?』
「考えるだけなら四」
『やりたい気持ちは?』
「六。知りたいから」
アリシアは最後の余白へ、今日一日の意味を短くまとめようとした。
最初に浮かんだ言葉は少し綺麗すぎる気がして、一度筆先を止める。今日分かったのは、滑らかな十呼吸で何も感じなかったことだけであり、それ以上を勝手に答えへしてはいけない。
それでも、その「何も感じなかった」は小さくなかった。
『同じ十呼吸でも、中の小さな揺れを減らした今日は何も感じなかった。だから次は、“十だから感じる”だけでは足りない。でも、“揺れだけを感じている”ともまだ決めない』
少し間を置き、もう一度筆を動かす。
『前と同じ数字を使っても、中身を一つ変えると違う結果になることがある。その違いを残していけば、六つ目が何を拾っているのか、少しずつ分けられるかもしれない』
窓の外では、夜風が庭の葉を静かに揺らしていた。東側奥部は基準へ戻り、西側も静かになっている。名前のない光と小空洞にも新しい変化はなく、木箱は今日も閉じたままだった。
顔のない存在についても、午前四歩と夕方三歩、二つの明るい光と二つの弱い光という今日の記録だけが残っている。それが昨日より良いのか悪いのか、東側と何か関係しているのかは、まだ誰にも分からない。
何一つ、大きな答えは出ていない。
それでも今日の十呼吸は、昨日までの十呼吸とは違うものを残した。同じ立ち上がり時間でも、その途中に含まれる小さな揺れを減らしたとき、アリシアの胸には確かな冷たさが現れなかった。
だから次に確かめるべきなのは、ただ新しい数字を増やすことではない。
同じ十呼吸の中へ、どの程度の揺れがあれば反応が戻るのか。それとも、今日の無反応が別の日には変わるのか。安全に比べられる条件を一つずつ作りながら、まだ混ざったままの違いを分けていく必要がある。
アリシアは練習帳を閉じ、胸へ手を置いた。
今夜も、そこに冷たさはない。
けれど今日に限っては、その何もなさが少しだけ頼もしかった。
感じなかったからこそ、昨日まで見えなかった違いが一つ見えた。その違いを答えへ急いで変えず、次に確かめるべき問いとして残しておくことが、今のアリシアにはできるようになっていた。




