第174話 似た反応が二度出たからこそ、三度目を急ぐより違いの残った場所を見直す
翌朝の生活観測区画には、薄い雲を透かした柔らかな光が広がっていた。前日のような強い日差しではなく、白く均された明るさが床や机の上へ静かに落ちている。窓の外では庭の草がほとんど乾き、風が通るたび、雨上がりの湿った匂いよりも葉と土の乾き始めた匂いの方が少し強く感じられた。
アリシアは目を覚ますと、昨日までと同じように、先に身体の状態を確かめた。
胸の冷たさはない。震えもない。呼吸も苦しくなく、頭痛や腕の重さも残っていなかった。疲労は少しあるものの、寝不足というほどではなく、身体のどこかが試験の影響を引きずっている感覚もない。
右手を胸へ置こうとして、今朝も一度だけ止める。
昨日の弱い冷感があった位置を、探したい気持ちはまだ残っている。
「探したい、三」
『昨日の朝は二だったわね』
ノアが窓辺で前足を舐めながら答えた。
「試験した次の日だから、ちょっと上がった」
『反応してほしい気持ちは?』
「四」
『十をもう一回やりたい気持ち』
アリシアは少し考えた。
「六」
『十二とか十四を見たい気持ちは?』
「八」
『出たわね』
「何が?」
『新しい数字ゲーム』
「違うって」
アリシアは少し頬を膨らませた。
「昨日、同じ十で似た時間に弱い反応候補が出た。でも強さは〇・五くらいと〇・三くらいで違ったし、方向も一回目は東っぽい、二回目は分からなかった。だから次に遅い方を見るのも意味あるでしょ」
『昨日の夜、自分で“再現したとも再現しなかったとも決めない”って書いたばかりでしょう』
「決めてないよ。だから違う点も欲しいの」
『欲張り』
「知りたい八」
『昨日九だったのに下がったのね』
「今日は八」
数字を答えてから、アリシアは少し笑った。
以前なら、知りたい気持ちが下がったことを悪いように感じたかもしれない。今は、八だから足りないとは思わない。
今日の八は、今日の八だ。
隣の寝台から布団が動いた。
「十二?」
子供が眠そうに顔を出す。
「まだ決まってないよ」
「十四?」
「それも決まってない」
「十?」
「それも」
『全部決まってない』
ノアが呆れたように言う。
子供はゆっくり身体を起こし、少し考えた。
「昨日、十を二回やった」
「うん」
「同じじゃなかった」
「似たところはあったけどね」
「じゃあ次は違う数字?」
「それも候補。でも先生たちがどう見るか聞いてから」
「アリシアは?」
「今は遅い方を見たい八。同じ十もう一回は六」
「怖さ?」
「二」
「昨日より低い」
「身体も平気だから」
『そこで“だからできる”へ飛ばない』
「分かってるって」
アリシアが笑うと、子供も小さく笑った。
◇
顔のない存在は、今朝はすでに身体を少し横向きにしていた。
起き上がってはいない。
けれど昨日までの仰向けとは違い、肩と腰がわずかに傾いている。
子供は近づきすぎず、胸の十一の光を確認した。
「今日は一つ明るい。三つ弱い」
「三つ?」
「うん」
昨日は二つ明るく、一つ弱かった。
子供は昨日の紙を見ずに、まず今日の位置だけを書き込む。
「弱いの、一個多い」
「そう見える?」
「うん。でも“増えた”はまだ書かない」
「今見えてるのが一つ明るくて三つ弱い、だね」
「うん」
子供は丸の中へ印をつけ、明るさの強いものと弱いものを分けた。
そのあとで昨日の記録と並べる。
「明るい一つは、昨日の明るい場所と違う」
「弱いのは?」
「一つだけ近い」
「意味は?」
「分からない」
「うん」
顔のない存在は、その間も動かなかった。
子供は歩数欄へ何も書かず、紙を机の端へ置いた。
「午前ゼロじゃないの?」
「まだ朝だから」
アリシアは少し笑った。
「昨日もそうだったね」
「後で歩くかも」
その言い方に、期待を押しつける感じはなかった。
ただ、まだ記録を閉じる時間ではないというだけだった。
◇
朝食が始まる頃、生活観測区画にはサーラと魔導具教師、それから若い観測員がやってきた。
若い観測員は扉を開けるなり、机の上へ三枚の記録板を置いた。
「昨日の十呼吸二回目、夜の間にもう一回比較してきました」
『朝から元気ね』
ノアが言う。
「寝ましたよ」
若い観測員は先回りした。
「聞いてない」
「最近聞かれそうな空気があるので」
子供が少し笑う。
サーラが記録板を一枚抜き取った。
「まず夜間記録から。東側奥部は基準範囲で推移しています。西側補助連絡線も大きな反応なし。名前のない光、小空洞にも新しい変化はありません」
「身体側も?」
「夜間確認では問題なしです」
「じゃあ今日、次いける?」
アリシアが聞く。
サーラはすぐには答えなかった。
「先に昨日の比較を見ましょう」
「やっぱりそこ」
「今日は、その方が大事です」
魔導具教師が二回分の十呼吸記録を並べた。
一回目。
立ち上がり十呼吸。
冷感約〇・五。
震えなし。
方向は東寄り候補。
感覚は途中から〇・五未満へ弱まり、「あるような、ないような」に変化。
二回目。
立ち上がり十呼吸。
途中経過の呼吸数は本人へ知らせない。
九・五から十呼吸付近で弱い冷感候補。
強さ〇・五未満。
震えなし。
方向不明。
途中で曖昧になり消失。
アリシアは表を見比べる。
「時間は似てる」
「はい」
「強さは違う」
「はい」
「方向も違う」
「一回目は候補、二回目は不明です」
「設備の波形は?」
魔導具教師が別の線を示した。
「ここです」
細かな揺れが描かれている。
「一回目は、立ち上がり後半に小さな揺れが二度あります。二回目は一度だけで、幅も少し小さい」
「昨日言ってたやつ」
「はい」
「冷感の強さと合ってる?」
「見かけ上は、一回目の方が微細揺れもやや大きく、冷感も強いです」
アリシアの目が少し大きくなる。
「じゃあ速さだけじゃなくて、細かい揺れも見てる?」
「候補の一つです」
若い観測員が身を乗り出す。
「これ、結構面白いですよ。立ち上がり時間だけでなく、同じ十呼吸の中での細かい揺れ方まで関係してるなら――」
「まだ二回です」
サーラがすぐ止めた。
「分かってます」
「顔が分かってません」
「昨日のアリシアさんと同じこと言われた」
アリシアが少し笑った。
「私も言われた」
『似た者同士』
「ノア」
サーラは記録板へ指を戻す。
「今日はここを整理したいです。五呼吸、十呼吸、十八呼吸という大きな立ち上がり速度だけでなく、十呼吸の中でも微細な変動が違いました」
「じゃあ、次に十二とか十四やったら駄目?」
「駄目とは言いません。ただ、その前に一つ考えたい」
「何?」
「次の速度を増やすより、今ある波形の中で“何が違っていたか”をもう少し分解できないか、です」
アリシアは少し黙った。
「今日は人工刺激なし?」
「第一案はそうです」
「また休むの?」
「休むというより分析日です」
『名前を変えただけ』
ノアが言う。
若い観測員が笑う。
「じゃあ“波形掘り返しの日”」
「もっと嫌」
アリシアが即答した。
サーラが小さく息を吐く。
「名称は要りません」
◇
朝食後の会議では、過去の反応記録がこれまでより細かく見直された。
単に「立ち上がり五」「十」「十八」と並べるのではなく、それぞれの立ち上がり途中にどれくらい小さな揺れがあったか、何呼吸目付近で揺れたか、東側奥部新反応の低下開始とどの程度近かったかを拾い直す。
アリシアは生活観測区画から参加し、子供は少し離れた机で十一の光の紙を整理していた。
魔導具教師が最初に五呼吸条件を示した。
『五呼吸条件では、立ち上がり三呼吸目から四呼吸目付近に小さな増幅が一度あります。目標幅到達直後に東側奥部の急低下が始まり、アリシアさんの冷感一と小震えがほぼ同時期』
「十の一回目は?」
『立ち上がり後半に二回、小さな揺れ。うち後半側が目標到達直前。冷感〇・五は到達直後』
「二回目」
『小さい揺れ一回。幅は前回十条件より弱い。冷感候補は〇・五未満』
「十八は?」
魔導具教師が十八呼吸条件を表示した。
『立ち上がりは滑らかです。完全に揺れがないわけではありませんが、五・十の反応側条件より小さく、散っています』
アリシアは少し考えた。
「立ち上がりが速いほど揺れが大きくなってるだけじゃないの?」
『その可能性があります』
「じゃあ速さと揺れ、分けられてない」
『今の装置では完全には分け切れていません』
アリシアは口を尖らせた。
「せっかく速度だけ変えたと思ってたのに」
『“できるだけ”です』
サーラが言う。
「第169話の時点でも、完全に一変数ではないと説明しました」
「覚えてる」
「今、それが実際の次の問題として見えてきたんです」
「速度が関係してる可能性は消えた?」
「いいえ」
「むしろ?」
「速度が速いことで微細揺れが生じ、その揺れを感じている可能性。速度そのものを感じている可能性。速度と揺れの両方が必要な可能性。まだ複数あります」
「増えた」
アリシアは思わず言った。
『知れば知るほど分からないことが増える。研究の正しい姿よ』
「ノア、何でそんな偉そうなの」
『雰囲気』
若い観測員が笑いを堪えている。
アリシアは記録板へ視線を戻した。
「じゃあ次にやるなら、速度だけ変えるより、揺れを揃える方?」
魔導具教師は少し考えた。
『可能なら、そういう試験に価値があります』
「できる?」
『完全には難しいです』
「またそれ」
『でも近づける方法は検討できます。例えば、十呼吸立ち上がりで微細揺れを意図的に抑える条件と、同じ十呼吸で小さな揺れを一度だけ入れる条件を比較する』
サーラがすぐ補足する。
『ただし一日に二条件はしません』
「分かってる」
『強度も安全範囲で十分低くする必要があります』
「今日やる?」
『今日はしません』
アリシアは少しだけ残念そうな顔をした。
「嫌は?」
サーラが尋ねる。
「三」
「納得」
「八」
「新しい速度を見たい気持ち」
「七」
「揺れを分けたい気持ち」
アリシアは少し考えた。
「八」
『抜いた』
ノアが言う。
「だって気になる」
◇
会議が終わったあと、アリシアはしばらく窓辺でぼんやり庭を見ていた。
十二か十四へ進めば、五、十、十八の間にまた一つ点を増やせると思っていた。
でも今は、その三つの点自体が一つの数字だけでできていないことが分かってきた。
五呼吸。
十呼吸。
十八呼吸。
それぞれの中に、細かい揺れがある。
同じ十呼吸でも違う。
そう考えると、今まで「一つの条件」と呼んでいたものの中にも、まだ分けていないものがいくつもある。
「面倒?」
子供が隣へ来た。
「ちょっと」
「嫌?」
「三」
「知りたい?」
「八」
「じゃあ嫌より知りたい方が上」
「うん」
子供は少し考えてから、自分の紙を見せた。
「これも似てる?」
「何が?」
「十一の光。二つとか三つとかだけじゃなくて、明るさと場所も見るようになった」
アリシアは紙を見る。
「数だけじゃ足りなかったってこと?」
「うん」
「似てるかも」
子供は少し嬉しそうにする。
「箱も、線だけじゃなくて深さあった」
「それも」
「いっぱいある」
『何でも一個の数字で済めば世の中楽なんだけどね』
ノアが言う。
「ノアは?」
『何が?』
「毒舌の強さ」
『常に十』
「揺れない」
『安定性抜群よ』
アリシアと子供が同時に笑った。
◇
昼前、子供は木箱の記録を見直した。
箱そのものは開けない。
昨日までの正面照明と横照明の複写、手描き記録、それからエルデン教師が話した「線の重なり方」のメモだけを並べる。
「これ、交差?」
子供が一か所を指差す。
アリシアも見る。
二本の浅い線が重なって見える。
けれど、どちらが上か下かは分からない。
「私には分からない」
「先生なら?」
「分かるかも。でも複写だけだと無理かもしれない」
「箱見ないと?」
「それも先生が決めるんじゃなくて、まず聞いてみたら?」
子供は少し考えた。
「次に先生来たら、“紙だけで分かる?”って聞く」
「うん」
「分からなかったら?」
「そのとき次を考える」
「開けるかも?」
「それもそのとき」
子供は頷いた。
開けたい気持ちは七。
怖さ二。
触りたい気持ちは三。
線の重なりを知りたい気持ちは八。
昨日より触りたい気持ちが一つ下がっている。
「どうして触りたい下がったの?」
アリシアが聞く。
「触らなくても見ることいっぱいある」
その答えに、アリシアは少しだけ驚いた。
「前は触りたかった?」
「うん」
「今もゼロじゃない」
「三」
「でも線の方が八」
「うん」
『好奇心の向きが変わってるのね』
ノアが言う。
子供は意味が分かったのか分からないのか、少しだけ首を傾げた。
◇
昼食後、アリシアは学院の小さな図書室へ行った。
今日は授業ではない。
魔導具教師が、昔の波形記録や遠隔警戒装置の記録に似た例がないか、一般公開されている資料だけでも見てみるよう勧めたからだ。
もちろん、地下施設と同じものを探すわけではない。
あくまで「速い変化の途中に小さな揺れが出る装置」の例を見る。
図書室は昼過ぎで人が少なく、窓際には数人の生徒が課題をしているだけだった。紙をめくる音と、棚の向こうで司書が本を戻す小さな音が時折響く。
アリシアは古い魔導具工学の入門書を開いた。
そこには、大型魔力炉の出力を急に上げたとき、魔力路の端で小さな振動が出ることがあると書かれている。
「これ?」
小声で呟く。
ノアが机の下から覗く。
『同じ装置なの?』
「違う」
『なら何で見るの』
「速く変えたら揺れることがあるって例」
『一般例を見るだけね』
「うん」
別の本には、遠隔警報装置で急激な信号変化を入れると、接続部の魔力が一度だけ跳ねることがあると書かれていた。
アリシアはそこへ印をつける。
ただし、地下施設へそのまま当てはめない。
似た現象が別の装置でも起きるなら、少なくとも「速く変えると細かい揺れが出る」という現象そのものは珍しくない可能性がある。
それだけ。
「面白い?」
向かいの席から声がした。
以前教室で話しかけてきた女子生徒だった。
「うん。ちょっと」
「魔導具?」
「今日はそれ」
「アリシア、最近いろんな本読んでるよね」
「必要になったから」
「大変じゃない?」
アリシアは少し考えた。
「大変。でも、分からなかったところが少し分かると嬉しい」
「それ勉強好きな人の言い方」
「違うよ」
「絶対そう」
女子生徒は笑った。
「私、今日の課題まだ半分」
「何の?」
「文章読解」
「昨日の?」
「昨日ので終わったと思ったら追加出た」
「知らなかった」
「欠席扱いじゃない人には出てる」
「私も出る?」
「多分」
アリシアの顔が少し固まる。
『研究より怖そうね』
「ノア、黙って」
「猫、何て?」
「何でもない」
女子生徒が笑う。
ほんの数分のやり取りだった。
それでも、地下と神器の話だけで一日が埋まらない時間は、アリシアにとって少しずつ普通になり始めていた。
◇
生活観測区画へ戻ったのは、夕方前だった。
顔のない存在は、午前中の後半に二歩だけ歩いたらしい。
子供の紙には、「午前二歩」と書かれている。
夕方になると、人影はもう一度起き上がった。
一歩目。
二歩目。
三歩目。
四歩目。
そこまで進んで少し止まり、五歩目を出す。
その後は動かず、ゆっくり座った。
「夕方五歩」
子供が記録する。
「昨日は七だった」
アリシアが言いかけて、少し止まった。
「……昨日は昨日」
「うん。今日は五歩」
子供が先に言った。
「胸は?」
「一つ明るい。三つ弱い」
「朝と同じ数」
「うん。でも場所は二つ違う」
「今見えてる場所だけ?」
「うん」
子供は位置を描いた。
その途中、アリシアの胸には何の反応もなかった。
東側奥部も静穏。
十一の光の変化と東側を結びつける材料はない。
だから、どちらも別々の記録として残った。
◇
夕方の小会議では、今日図書室で見つけた一般的な魔導具の例も共有された。
「大型魔力炉で急に出力上げると、端で振動が出ることがあるって」
アリシアが本の該当箇所を見せる。
魔導具教師が読む。
「一般的な過渡振動の記述ですね」
「過渡?」
「状態が変わる途中で一時的に出る揺れです」
「地下もそれ?」
「分かりません」
「すぐ否定する」
「そこは大事です」
若い観測員が横から覗く。
「でも、“速く変えたら細かい揺れが出る現象自体は珍しくない”って参考にはなりますね」
「うん」
サーラが頷く。
「今日の整理で、次の試験候補は少し変わります」
「十二とか十四は?」
「残っています」
「よかった」
「ただし優先順位は下がりました」
「ええ」
アリシアの顔が露骨に曇る。
「第一候補は?」
「十呼吸程度の立ち上がりを維持しながら、微細揺れをできるだけ抑える条件です」
「前回より滑らかな十?」
「そう考えてください」
「二回目も一回目より滑らかだったよね」
「はい。だから、さらに揺れを減らせる範囲を検討します」
「それで何も感じなかったら?」
「微細揺れ関与の可能性が上がります」
「感じたら?」
「速度そのもの、または別の要素の可能性が残ります」
「でも一回で決めない」
「はい」
「次の日は?」
「まだ決めません」
アリシアは笑った。
「分かってた」
『成長した』
「もう何回言うの」
学院長が通信越しに口を挟む。
『明日は設備側の調整が必要だ。実施できるとしても午後になる』
「午前は?」
『学生に戻れ』
「何その言い方」
『最近ちゃんと授業出てるだろう』
「うん」
『なら続けろ』
アリシアは少しだけ考えた。
「明日、授業一個入れる」
『それでいい』
◇
夜。
生活観測区画が静かになったあと、アリシアは練習帳を開いた。
今日は人工刺激をしていない。
それでも、昨日より分からないことが増えた。
十呼吸を二回やって、似た時間に弱い冷感候補が出た。
でも強さが違った。
方向も違った。
設備側の細かな揺れ方も違った。
だから、十呼吸という数字だけで結果を説明するのは難しい。
アリシアはその内容を、意味がつながるようにゆっくり書いていく。
『五、十、十八だけを見ていたときは、立ち上がり速度が一番大事に見えた。でも同じ十を二回やったら、その中の細かい揺れも同じじゃなかった。だから“十呼吸”という一つの数字の中にも、まだ分けていない違いがある』
少し筆を止める。
『速さを感じているのか、速さで出る揺れを感じているのか、両方なのかは分からない』
ノアが机へ上がった。
『候補が増えて嬉しい?』
「半分」
『残り半分は?』
「面倒」
『正直』
「だって十二見たい」
『まだ言う』
「でも今は、滑らかな十の方が知りたい九」
『朝は新しい数字八だったのに』
「変わった」
『今日の今は九』
「そう」
アリシアは少し笑った。
その横で、子供の木箱記録も机の端へ置かれている。
今日は箱を開けていない。
触りたい気持ちは三。
線の重なりを知りたい気持ちは八。
見たいものが、物体そのものから線の構造へ少しずつ移っている。
顔のない存在の記録には、朝一つ明るく三つ弱い、午前二歩、夕方五歩、夕方も一つ明るく三つ弱いと書かれている。
どれも、まだ意味は分からない。
それでも。
一つしか見ていなかったものを、二つに分けて見る。
数だけだった光を、明るさと位置に分ける。
線だけだった刻みを、深さや重なりへ分ける。
十呼吸だけだった試験を、その中の細かな揺れまで見る。
今日は、そういう日だった。
窓の外では、薄い雲の向こうに月が滲んでいた。風は弱く、庭の木々もほとんど動いていない。
アリシアは練習帳の最後へ一文だけ書き足した。
『似た反応が二度出たから、三度目を急ぐより、二回の中で違っていたところを先に見る』
明日、人工刺激を行えるかはまだ分からない。
設備側がどこまで滑らかな十呼吸を作れるかも分からない。
その条件で、自分が何かを感じるかも分からない。
でも今は。
新しい数字を増やすより先に、すでに持っている二つの十をもう少し丁寧に見たかった。
同じように見えるものの中にある、小さな違い。
その違いが、六つ目が何を拾っているのかを考える次の手がかりになるかもしれなかった。




