第173話 同じ十を確かめるなら、同じにならなかったときの方も先に考えておく
翌朝の生活観測区画には、久しぶりに乾いた光が差し込んでいた。昨日まで窓へ残っていた雨粒はほとんど消え、庭の土だけがまだ少し濃い色をしている。風は弱く、葉擦れの音も小さい。窓辺に置かれた記録紙の端が、時折ほんの少し浮き上がる程度だった。
アリシアは目を覚ますと、昨夜決めた通り、先に身体を確かめた。
胸の冷たさはない。震えもない。息苦しさも、頭痛も、腕の重さも残っていなかった。昨日は人工刺激を行っていないため、身体そのものには第171話の十呼吸試験直後よりも落ち着きがあるように感じたが、その「感じた」も数値とは別にしておく必要がある。
胸へ手を置こうとして、今朝も少しだけ止まった。
昨日の〇・五を探したい気持ちは、完全には消えていない。
「探したい、二」
『昨日の朝は三だったわね』
ノアは窓辺で身体を丸めたまま、耳だけこちらへ向けていた。
「一個下がった」
『反応してほしい気持ちは?』
「五」
『同じ十をやりたい気持ちは?』
アリシアは少し考えた。
「八」
『怖さ』
「三」
『途中の呼吸数を知らないやつ』
そこで少しだけ迷う。
「やってみたい、七」
『全部ひっくるめると?』
「やりたい八、怖さ三、知らない方法七」
『数字多いわね』
「昨日そうするって決めたから」
『決めたのは“明日の朝もう一回見る”でしょう』
「うん」
『なら今の数字で決めればいい』
アリシアは小さく頷いた。
昨日の自分が八だったから、今日も八でなければいけないわけではない。
今日の自分が、今日の試験を受けたいか。
それだけを見ればいい。
隣の寝台から布団が動いた。
「十?」
子供が眠そうな声で尋ねる。
「まだ決まってないよ」
「今日やる?」
「条件はかなり揃ってると思う。でも会議してから」
「知らない十?」
「途中の何呼吸目か教えてもらわないやつ」
子供は少し考えた。
「怖い?」
「ちょっと。でも昨日より、やってみたい方が上」
「どうして?」
「昨日は十呼吸になるのを待ってたから。その待ってたことが、〇・五を感じた理由に少し混ざってたかもしれない」
「今日は待てない?」
「十呼吸ってこと自体は知ってるから、完全に待たなくなるわけじゃないよ。でも、今何呼吸目か分からなければ少し違うと思う」
子供は布団から出ながら頷いた。
「同じ十。でも、見る方を少し変える」
「うん」
『それ、同じなのか違うのか本当にややこしいわね』
「研究だから」
『便利な言葉にし始めた』
◇
顔のない存在は、今朝も寝台へ横たわっていた。
子供はまず胸の十一の光を確認する。
昨日は朝に一つが明るく、二つが弱かった。今朝は、二つが明るく、一つが弱い。ただし位置は昨日と同じには見えなかった。
子供は昨日の紙を見ずに、先に今日の位置を書き込んだ。
「今日は二つ明るい。一つ弱い」
「昨日と違う?」
「今はまだ見ない」
「先に今日だけ?」
「うん」
アリシアはそのやり方を見て、少し笑った。
「私も今日それに近いことする」
「昨日の十、見ない?」
「記録は先生たちが持ってるから見るけど、試験中に十呼吸目を教えてもらわない」
「同じじゃない?」
「ちょっと違う」
『説明するたびに本人も迷ってる』
「迷ってない」
子供は今日の位置を書き終えてから、昨日の紙と並べた。
「一つは近い。でも、明るいのは違う場所」
「書く?」
「場所だけ書く。意味は書かない」
「うん」
顔のない存在は、その間も大きく動かなかった。
子供は歩数の欄を空欄のままにしておく。
朝のうちに歩くとは限らない。
まだ朝は終わっていないからだ。
◇
朝食の終わり頃、サーラと魔導具教師が生活観測区画へ来た。
今日は学院長ではない。
そのことに子供が気づいたが、特に何も聞かなかった。睡眠時間の質問も出ない。
アリシアは少し安心した。
同じやり取りを毎日続ける必要はない。
「おはようございます」
「おはよう」
サーラは昨日の夜間記録を机へ広げた。
「夜間、東側奥部は基準範囲で推移。西側補助連絡線も静穏です。名前のない光、小空洞にも新しい変化はありません」
「自然変動も?」
「ごく小さいものが一度ありましたが、比較対象にできる規模ではありません」
「身体側は今朝も問題なし」
「はい。夜間確認でも異常なしです」
魔導具教師が別の紙を出した。
「十呼吸再現試験について、設備側も準備できます」
アリシアの背中が少し伸びる。
「やる?」
「最終確認次第です」
「条件は?」
「第171話と同じ目標です。立ち上がり十呼吸、最大低下幅は前回十呼吸条件へ可能な限り一致、維持十五呼吸、復帰速度も同程度。今日は開始時刻だけ知らせ、途中経過の呼吸数と維持移行時刻は本人へ知らせません」
「終わるときは?」
「復帰が終わったあとに知らせます」
「途中で怖くなったら?」
「いつでも申告してください。呼吸数を知らなくても中止できます」
アリシアは記録紙を見る。
「前回と違うのは、私が途中の数字を知らないこと?」
「大きな違いとしては、それです。ただし厳密には、それ以外も完全に同じではありません」
「東側の状態とか?」
「そうです。気温、体調、前日の過ごし方、自然変動の有無も完全には一致しません」
「じゃあ今日同じ〇・五が出ても、全部同じだから同じ結果ってことにはならない」
「はい」
「何も出なかったら?」
「それも重要です」
アリシアはそこで少し顔をしかめた。
「昨日の〇・五が、数えてたせいだった可能性が上がる?」
「可能性の一つとしては上がります。ただし、それだけで決まりません」
「今日一回で決めない」
「その通りです」
サーラがアリシアの表情を見る。
「怖さは?」
「三」
「参加意思」
「八」
「反応してほしい気持ち」
「五」
「昨日の感覚を探したい気持ち」
「二」
「途中経過を知らない方法への不安」
「四」
「途中経過を知らない方法を試したい気持ち」
「七」
サーラは一つずつ書き込む。
「では、午前中にもう一度身体確認をして、問題なければ午後実施候補とします」
「午前中は普通にしてていい?」
「はい。試験のことだけを考えて過ごさないでください」
『それが一番難しい課題ね』
「ノア」
『だって今から午後まで十のこと考えるでしょう』
「考えないようにする」
『それも考えてるのよ』
アリシアは少しむっとした。
◇
午前中は、生活観測区画で通常の課題を進めた。
今日は授業へ出る予定はない。
代わりに提出用の魔法史レポートを仕上げることになっていた。
机の上へ本を広げ、古代の共同防御施設に関する文章を読み直す。以前なら東側地下との共通点ばかり探したかもしれないが、今日は授業の課題として必要な部分だけをまとめる。
中央設備と補助設備。
遠隔警戒。
複数拠点間の情報共有。
似ている言葉はある。
でも、似ていることと同じことは違う。
アリシアはその一文をレポートへ書かなかった。
授業課題に必要ないからだ。
ノアが机の上を覗き込む。
『今日は地下って書かないのね』
「課題だから」
『成長したわ』
「普通だよ」
『前は全部つなげかけてたでしょう』
「今はしない」
『本当に?』
「……ちょっとだけ考えた」
『正直』
アリシアが苦笑する。
その隣では、子供が昨日エルデン教師へ見せた二枚の複写を並べていた。
今日は箱を開けない。
先に紙だけを見ると決めている。
「線の交差、どこ?」
子供が聞く。
「昨日先生が言ってたやつ?」
「うん」
「私には分からない」
「ここ、重なってるように見える」
子供が指差す。
アリシアは近づいて見るが、確信できない。
「分からない。曲がってるだけかも」
「じゃあ書かない」
「先生にまた聞く?」
「今日は聞かない」
「どうして?」
「昨日聞いたばっかりだから」
『それ理由なの?』
「今日は紙だけ見る」
子供は自分で決めた。
開けたい気持ちは七。
触りたい気持ちは四。
線をもっと見たい気持ちは八。
でも今日は開けない。
その数字も紙の端へ小さく残す。
◇
昼食前、顔のない存在がようやく起き上がった。
子供はすぐには声をかけない。
寝台から足を下ろすまで少し時間がかかる。
一歩目。
少し間。
二歩目。
三歩目。
そこで止まる。
今日は午前三歩。
子供はそれを記録した。
昨日午前はゼロだった。
けれど、「増えた」とは書かない。
「胸は?」
アリシアが尋ねる。
「二つ明るい。一つ弱い。朝と同じ数」
「位置は?」
「一つ動いたように見える」
「動いた?」
アリシアが聞き返すと、子供はすぐに首を振った。
「違う。今の位置が朝と違う」
「うん」
「動いたところは見てない」
「うん。それ大事」
子供は言い直した。
「朝と今で、見えてる位置が違う」
アリシアはその修正を聞きながら、自分の昨日の〇・五を思い出す。
昨日と今日で違ったとき。
「変わった」と言う前に。
まず今日がどうだったかを書く。
◇
午後。
試験開始前の生活観測区画には、普段より少しだけ人が増えていた。
サーラ、治療教師、安全管理担当、魔導具教師。通信先には学院長と東側観測班が待機している。
アリシアはいつもの椅子へ座った。
昨日の十呼吸試験と同じ位置。
同じ姿勢。
ただし今日は途中の呼吸数を知らない。
その違いだけで、思ったより緊張した。
「最終確認します」
サーラが言う。
「痛み」
「ゼロ」
「苦しさ」
「ゼロ」
「頭痛、腕の重さ」
「ゼロ」
「疲労」
「一」
「胸部違和感」
「なし」
「神器関連感覚」
「なし」
「怖さ」
アリシアは少し迷った。
「四」
「参加意思」
「八」
「反応してほしい気持ち」
「五」
「探したい気持ち」
「二」
「途中の呼吸数を知らないことへの不安」
「四」
「止めたい気持ち」
「一」
「今日の目的をお願いします」
アリシアは一度だけ深く息を吸った。
「前回と同じ十呼吸条件を、できるだけ近い形でもう一回やる。でも今日は途中の数字を知らない」
「はい」
「同じような〇・五が出ても、十なら必ず〇・五って決めない。何も出なくても、昨日の〇・五が間違いだったって決めない」
「はい」
「今日は、同じ条件に近づけたとき、似た反応がもう一回出るかを見る」
「十分です」
サーラが頷いた。
アリシアは手を膝の上へ置いた。
「始まるときだけ教えて」
「分かりました」
子供は少し離れた場所にいる。
今日は「何もしないように頑張る?」とは聞かなかった。
代わりに。
「怖くなったら言う」
「うん」
「分からなくなっても言う」
「うん」
アリシアは少し笑った。
「それでいく」
◇
『刺激開始』
合図は、それだけだった。
アリシアは目を開けたまま、正面の壁を見る。
何呼吸目かは数えない。
数えたら意味が薄くなる。
呼吸そのものは普通に続ける。
最初は何もない。
胸の中央も、右側も、東方向も。
静か。
でも、「何もない」と確認しすぎないようにする。
外では風が窓枠へ少し当たり、乾いた葉が擦れる音がする。
サーラたちは何も言わない。
いつもなら途中で設備側から入る報告も、今日はアリシアに聞こえないように通信が切り分けられていた。
時間が長く感じる。
もう五呼吸を過ぎたのか。
まだ三なのか。
分からない。
その分、昨日より怖さが少し上がる。
「怖さ四・五」
「記録します。続けますか?」
「うん」
それだけ確認して、また静かになる。
アリシアは胸へ意識が吸い寄せられそうになる。
「探したい三」
「記録します」
さらに少し経った。
そのとき。
胸の中央へ。
ほんの薄い冷たさが触れた。
昨日より弱い。
気のせいかもしれない。
けれど、確かめるために追いかけない。
「……冷たい、かも」
サーラの声がすぐ返る。
「強さは?」
「〇・五より下。〇・三……くらい?」
「無理に数字をつけなくても構いません」
「じゃあ、弱い冷感候補」
「位置」
「真ん中」
「方向」
アリシアは少し待った。
「分からない」
「震え」
「なし」
「痛み、苦しさ」
「ゼロ」
「怖さ」
「四」
冷たさは続く。
ただし昨日ほど長くはっきりしていない。
数呼吸分ほど経った気がするが、実際には分からない。
「まだ少しある」
「強くなっていますか?」
「なってない」
さらに少し経つ。
薄い冷感が消えそうになる。
「今、分からなくなってきた」
「そのままで大丈夫です」
「あるような……ないような」
昨日と似た言葉。
それに気づいた瞬間、アリシアは少しだけ緊張した。
同じことを言っている。
でも。
同じだから正しいとは限らない。
昨日を思い出して同じ言葉を選んでいる可能性もある。
「今、昨日と同じって思っちゃった」
「それも記録します」
サーラの声は変わらない。
アリシアは少しだけ安心した。
「探したい四」
「続けたいですか?」
「うん。でも追いかけない」
その後、感覚はほとんど消えた。
「今はない」
「記録します」
試験側はまだ終わりを告げない。
アリシアはそこで初めて、さっきの冷感が維持中だったのか、立ち上がり途中だったのかすら知らないことに気づいた。
不安が少し上がる。
「怖さ四・五」
「続けられますか?」
「うん」
しばらくして。
『刺激終了。復帰確認完了』
合図が入った。
アリシアは長く息を吐いた。
◇
誰もすぐ結果を言わなかった。
サーラがまず身体確認をする。
「今の冷感」
「ゼロ」
「震え」
「なし」
「痛み」
「ゼロ」
「苦しさ」
「ゼロ」
「方向感覚」
「なし」
「怖さ」
「三」
「疲労」
「二」
「探したい気持ち」
「三」
治療教師が魔力循環を確認する。
問題はない。
そこで初めて、魔導具教師が記録板を持って近づいてきた。
「時刻を照合します」
アリシアの肩に少し力が入る。
「いつだった?」
「あなたが最初に“冷たいかも”と申告したのは、立ち上がり九呼吸半から十呼吸付近です」
「十?」
「はい。目標幅到達の直前から直後にかかる時間帯です」
アリシアは目を見開いた。
「昨日も十くらいだった」
「昨日は目標到達直後。今日は到達直前から直後の範囲です」
「東側は?」
「東側奥部新反応の低下開始は七呼吸台。目標低下幅到達は十呼吸付近。今日も感覚申告との時間差は一呼吸以内です」
アリシアは胸へ手を置いた。
「でも今日は〇・三くらい」
「前回より弱いですね」
「方向も分からなかった」
「はい」
「でも何もなかったわけじゃない」
「そうです」
通信先の学院長が口を挟む。
『だから、今日は“再現した”とすぐ言わない』
「うん」
『だが、“昨日とはまったく違う結果だった”とも言えない』
「似てる?」
『似た部分がある』
魔導具教師が二枚の記録を並べた。
「前回。十呼吸到達直後、冷感約〇・五。途中で〇・五未満へ低下。震えなし。方向は東寄りの可能性あり、確信なし」
「今日。九・五から十呼吸付近で弱い冷感候補。〇・五未満。震えなし。方向不明。途中で曖昧になって消失」
「似てる」
「はい。ただし強さと方向感覚は一致していません」
「でも時間は近い」
「はい」
アリシアは、嬉しいような困るような顔になった。
「これ、嬉しい何だろう」
子供が聞く。
「決めない?」
「決めるなら……八」
「がっかりは?」
「二」
「どうして二?」
「昨日より弱かったから」
「でも似てた」
「うん。だから嬉しい八」
子供は少し笑う。
「両方ある」
「うん」
ノアが尻尾を揺らした。
『今日は綺麗な〇・五再現じゃなかったから、むしろ良かったんじゃない?』
「どうして?」
『また五で一、十で〇・五、十八でゼロって綺麗な線に飛びつかずに済むでしょう』
アリシアは少し黙る。
「今日〇・三くらいだったから?」
『十なら必ず〇・五じゃないって分かった』
「まだ今日一回だけだけど」
『ちゃんと覚えてるじゃない』
学院長の声が少し笑った。
『今のところ、十呼吸付近で弱い冷感候補が二回。強さは一致しない。方向も一致しない。ただし時間帯は近い』
「それだけ?」
『それだけで十分だ』
◇
午後の分析では、前回と今回の十呼吸条件が並べられた。
設備側の最大低下幅は、測定誤差範囲内で近い。
維持時間も十五呼吸。
復帰速度もほぼ同じ。
東側奥部新反応の低下開始時刻も、大きくずれていない。
ただし、微細揺れの形は完全には一致していなかった。
前回より今日の方が、立ち上がり後半の小さな揺れが少ない。
「これ、関係ある?」
アリシアが尋ねる。
「可能性はあります」
魔導具教師が答える。
「今日の冷感が弱かった理由?」
「一つの候補です。ただし、体調差、注意の向け方、自然変動、測定できていない要素もあります」
「途中の数字を知らなかったから弱くなった可能性も?」
「あります」
「でも完全に消えなかった」
「はい」
「じゃあ、昨日の〇・五が全部期待だけだったって説明もしにくくなった?」
サーラが頷いた。
「少ししにくくなりました」
アリシアはゆっくり息を吐く。
「同じ十で、似た時間に弱い冷感が二回。でも強さは違う」
「今はそこまでです」
「次は?」
学院長がすぐ止める。
『今日決めない』
「分かってる」
『顔が次の数字を探してる』
「ちょっとだけ」
『十の再現を見たばかりだぞ』
「だから次に十二とか十四を……」
『ほら』
ノアが笑う。
『新しい数字ゲームに戻った』
「戻ってない。候補を考えただけ」
サーラが記録紙を閉じた。
「次は、十呼吸条件をさらに再現するか、遅い側へ一つ増やすか、速い側へ一つ増やすか。今日の結果で三案すべて残ります」
「十をもう一回もまだある?」
「二回似た結果が出たからこそ、三回目を見る価値もあります」
「研究、地味」
『誰かさんが前に言ってたわね』
「ノアじゃん」
『そうだった』
◇
夕方、子供は木箱を開けなかった。
代わりに、エルデン教師の昨日の説明を見返しながら、線の交差候補を自分の紙へ丸で囲んだ。
「これ、交差してるか分からない」
「先生に聞く?」
「今度」
「いつ?」
「次に見せるとき」
「今日は?」
「今日は見せない」
「開けたい気持ち」
「七」
「触りたい」
「四」
「線見たい」
「八」
「先生に聞きたい」
「七」
アリシアが数字を書こうとすると、子供が少し笑った。
「アリシアの方が聞く」
「癖になった」
『完全に観測係ね』
「悪い?」
「悪くない」
子供は紙を閉じた。
「今日は十だったから」
「箱より気になった?」
「ちょっと」
「私のせい?」
「今日はかなり」
アリシアは少し笑った。
◇
顔のない存在は夕方、午前より長く歩いた。
最初の二歩はゆっくり。
そこから三、四、五。
一度止まり、六。
さらに少し時間を置いて七歩目まで進んだ。
子供は嬉しそうな顔をしたが、すぐ「七歩の日」と記録する。
「胸は?」
今度は子供から確認した。
「二つ明るい。一つ弱い」
朝と数は同じ。
ただし位置は違う。
「明るい一つ、午前と違う場所」
「動いた?」
アリシアが聞きかけて、自分で止めた。
「……今の位置が違う、だね」
「うん」
子供が頷いた。
「動いてるところは見てない」
その日の東側奥部は、午後の人工刺激後に基準へ戻ってから大きな自然変動を起こしていない。
十一の光との関係を示す材料はない。
だから、記録は別々に残された。
◇
夜。
アリシアは練習帳へ今日の記録を書いた。
前回十呼吸。
冷感約〇・五。
震えなし。
方向は東寄り候補。
今回十呼吸。
途中経過の呼吸数を本人へ知らせない。
九・五から十呼吸付近で弱い冷感候補。
強さは〇・五未満。
震えなし。
方向不明。
途中で曖昧になり消失。
アリシアはそこまで書いてから、少し笑った。
『今日は細かいわね』
ノアが机の端へ座る。
「大事だから」
『昨日より弱かったの、嫌じゃないの?』
「ちょっとは」
『二』
「子供に聞かれた」
『でも嬉しい八』
「うん」
『どうして?』
アリシアはすぐには答えなかった。
窓の外は静かだった。
庭の草はもう乾き始めていて、昨日までの雨音もない。
「同じ十で、同じ〇・五じゃなかったから」
『それが嬉しいの?』
「うん。もし本当に毎回ぴったり〇・五だったら、綺麗すぎて逆に怖いかも」
『学んだわね』
「でも、何もなかったわけでもなかった」
『ええ』
「呼吸数知らなくても、十くらいで冷たい候補が出た」
『それもまだ二回だけ』
「分かってる」
アリシアは練習帳へ最後の文章を書いた。
『同じ十を二回やって、同じ結果にはならなかった。でも、全然違う結果にもならなかった。だから“再現した”とも“再現しなかった”ともまだ決めない』
少し間を置いて、もう一行続ける。
『同じにならなかったところも、次に見るものになる』
ノアが横から覗く。
『今度は次の題名みたい』
「何の話?」
『気にしなくていい』
「またそれ」
アリシアは笑った。
明日。
また十を見るのか。
十二や十四へ進むのか。
七や八へ戻るのか。
まだ決まっていない。
でも今日は、昨日と同じ十をもう一度確かめた。
そして、同じ条件へ近づけても、人の感覚は完全には同じにならないことを知った。
それは答えを遠ざけたのではなく。
むしろ、六つ目が何を拾っているのかを考えるとき、単純な一つの数字だけを答えにしないための大切な一日になっていた。




