第172話 同じ十をもう一度見るなら、昨日と同じつもりで始めない
翌朝、生活観測区画の窓から差し込む光は、昨日より少しだけ明るかった。夜半まで残っていた雲は東へ流れ、薄い青空の下では、濡れた庭の草葉が朝日に照らされて細かな光を返している。雨上がり特有の土と葉の匂いが、少し開けられた窓から静かに入り込み、まだ涼しい室内の空気へ混じっていた。
アリシアは目を覚ますと、枕元へ置いていた練習帳を一度だけ見た。
昨夜最後に書いたのは、次に新しい速度を見るのか、それとも同じ十呼吸をもう一度確かめるのかは、明日の自分が決めるという一文だった。寝る前には、その考えにそれなりの納得があったはずなのに、朝になって最初に浮かんだのは十二でも十四でもなく、昨日の十呼吸だった。
もう一度やったら、同じ〇・五が出るのだろうか。
それとも、今度は何も感じないのだろうか。
あるいは、昨日よりはっきり感じてしまうのだろうか。
考えが膨らみ始める前に、アリシアは一度目を閉じた。先に確かめるものがある。
身体を起こし、ゆっくり呼吸する。胸の奥に冷たさはなく、昨日のような曖昧な感覚も残っていない。頭痛もなく、腕の重さもなく、寝起き特有のだるさが少しあるだけだった。
右手を胸へ置こうとして、途中で止める。
昨日の冷感があった場所を、また探そうとしている。
それに気づいた。
「探したい、三」
寝台の足元で尻尾だけを揺らしていたノアが、片目を開けた。
『昨日の朝より上がったわね』
「昨日は二だった」
『試験した翌朝なんだから、まあ不思議じゃないでしょう』
「反応してほしい気持ちは……六」
『同じ十をもう一回やりたい気持ち』
アリシアは、少し迷った。
「八」
『新しい数字を見たい気持ちは?』
「七」
『あら』
「何?」
『てっきり十二だの十四だの言い出すと思ったから』
「言いたいよ。でも昨日の十が本当に十の反応だったのか気になる」
『少しだけ研究者っぽくなったわね』
「前から研究してた」
『前は新しい箱を次々開けたい子供寄りだったわ』
「ひどい」
『隣にもいるけど』
その言葉に、隣の寝台から布団が動く。
「箱?」
子供が顔を出した。
「誰が箱?」
『起きるところそこなのね』
子供はゆっくり身体を起こし、まず木箱ではなくアリシアを見た。
「今日、十?」
「まだ決まってない」
「やりたい?」
「八くらい」
「十二は?」
「七」
子供は少し考えた。
「十の方が上」
「うん」
「昨日、〇・五だったから?」
「それもある。同じ十でもう一回同じくらいになるなら、昨日の〇・五がたまたまじゃない可能性が少し上がるから」
「違ったら?」
「それも大事」
言ってから、アリシアは自分でも少し驚いた。
昨日までなら、同じ条件でも違う結果が出る可能性を考えたとき、どこかに「困る」という気持ちがあった。今日は、違えば違ったで何が違ったのかを考える材料になると思えている。
子供も頷いた。
「同じにして、同じになるか見る」
「うん。でも本当に全部同じにはできないよ」
「身体も?」
「身体も、東側も、その日の空気も」
『空気まで実験条件に入れ始めたら寝られなくなるわよ』
ノアの横槍に、アリシアは少し笑った。
「そういう意味じゃない」
◇
顔のない存在は、今朝も目を覚ましたような明確な動作を見せなかった。
ただ、胸の十一の光は静かに灯っている。子供は寝台の脇へ座り込み、昨日と同じ十一個の丸が描かれた記録紙を新しく用意した。
今朝は、一つが明るく、二つが弱い。
昨日朝の「二つ明るい、一つ少し明るい」とは数え方が違う。
子供はしばらく見比べたあと、昨日の紙をすぐ隣へ置こうとして、途中で手を止めた。
「先に今日だけ描く」
「うん」
アリシアが頷く。
「昨日見てから描くと、昨日と同じ場所にしたくなるかも」
「それ、私もありそう」
アリシアは、自分の胸へ手を置きたくなった理由を思い出した。
「昨日の〇・五があった場所を探しちゃうのと似てる」
子供は今見える位置だけを丸へ書き込み、そのあとで昨日の記録と並べた。
「一つは同じっぽい。でも弱い方は違うかも」
「“かも”は?」
「紙には書かない。今の位置だけ残す」
「うん」
顔のない存在は、その間も横たわったままだった。
歩数を記録するようになってから、動かなかった朝も何度かある。それでも子供は、以前のように「今日は悪いのかな」とすぐには言わなくなった。動かなければ、今は動かなかったとだけ記録する。
アリシアは、その姿を見ながら、自分の十呼吸も同じなのかもしれないと思った。
一回目が〇・五だった。
だから二回目も〇・五になってほしいと考えるのは簡単だ。
けれど、本当に見るべきなのは。
今日、同じ条件に近づけたとき。
自分に何が起こるか。
◇
朝食の途中で学院側から連絡が入った。
今日は学院長本人ではなく、サーラが生活観測区画へ来た。扉を開けた彼女の手には二枚の記録板があり、一枚は昨夜の地下観測、もう一枚はアリシアの試験後経過をまとめたものだった。
「おはようございます」
「おはよう」
アリシアは椅子を少し引き、サーラが座れる場所を作る。
「夜は何かあった?」
「大きな変化はありません。東側奥部は基準範囲、西側補助連絡線も静穏。名前のない光と小空洞にも、新しい反応は記録されていません」
アリシアの肩から、少しだけ力が抜けた。
「身体は?」
「夜間確認では問題なしです。ただし、今日は昨日と同じ十呼吸をすぐ再現する前に、先に相談したいことがあります」
その言い方に、アリシアは匙を止める。
「今日はやらない?」
「まだ、そう決めたわけではありません」
サーラは一枚目の記録板を机へ置いた。
「昨日の十呼吸条件で出た冷感〇・五を、本当に再現性のある反応候補として確かめたいなら、“同じ十をもう一度やる”だけでは足りないかもしれません」
「どういうこと?」
「昨日試験をした翌日に、また同じ十呼吸を入れると、“昨日の十呼吸の翌日”という条件が追加されます」
アリシアは少し黙った。
言われてみれば、そうだ。
「昨日の影響が残ってるかもしれない?」
「身体検査では異常はありません。でも、神器側や東側奥部側に、測れていない持ち越しがないとは言えません」
ノアが食卓の端から尻尾を揺らす。
『同じ十を見るために、同じじゃない日にやったら意味が薄くなるわけね』
「でも昨日とまったく同じ日は作れないよ」
「はい。だから、“できるだけ比較しやすい状態”を作ります」
アリシアは少し口を尖らせた。
「つまり今日は休み?」
「人工刺激を使わない方が、再現試験としては綺麗になります」
「うう」
思わず漏れた声に、子供が顔を上げる。
「嫌?」
「三……いや、四」
「朝、十やりたい八だった」
「だから」
サーラは少しだけ笑みを浮かべた。
「反応を確かめたいからこそ、急がないという選択肢です」
「分かってる」
「納得は?」
アリシアは少し考えた。
「七」
「嫌四で納得七」
「両方ある」
「問題ありません」
サーラは二枚目の記録板を開く。
「それと、昨日の十呼吸で一つ新しく確認したいことがあります。アリシアさんは、五呼吸目で“第169話ならもう目標幅に達している時間だ”と意識しましたよね」
「うん」
「そのあと、探したい気持ちが二へ上がった」
「うん」
「十呼吸目で冷感が出る直前にも、かなり注意を胸へ向けていました」
アリシアの表情が少し固くなる。
「じゃあ、私が探したから〇・五になったってこと?」
「そうは言っていません」
サーラはすぐに否定した。
「ただ、次に同じ十呼吸を再現するなら、時間経過を本人へどこまで知らせるかも条件として考える必要があります」
「数えない?」
「その案があります」
アリシアは少し目を見開いた。
「でも十呼吸って分からなくなる」
「試験側は分かっています。アリシアさんには開始だけ伝え、途中の五、七、八、十という数を知らせない」
「怖いかも」
「だから今日は、その方法を使ってよいか相談する日でもあります」
アリシアはすぐには答えなかった。
これまでは、自分が何呼吸目にいるのか知ることで、安心していた部分もある。いつ始まり、いつ維持へ入り、いつ終わるのかを知っているから、怖さを数字にしながら耐えられた。
けれど昨日は、五呼吸目になった瞬間に第169話を思い出した。
八呼吸目では自然変動を思い出した。
十呼吸目を待っていた。
それが感覚へ影響していないとは、確かに言えない。
「全部隠すのは嫌」
アリシアが言った。
「分かりました」
「始まるのと、終わるのは教えてほしい。あと、怖さが上がったら止められるって分かるようにしてほしい」
「もちろんです」
「何呼吸目かだけ分からなくするなら……怖さ四くらい」
「参加したい気持ちは?」
「七」
「試してみたい?」
「六」
サーラは記録する。
「今日はそれを決めなくても構いません」
「うん」
アリシアは少しだけ息を吐いた。
同じ十をもう一度見る。
単純なことだと思っていた。
けれど、本当に同じ条件へ近づけようとすると、昨日自分が知っていた数字まで条件になる。
「同じって難しいね」
「だから再現確認に意味があります」
◇
午前は、人工刺激を行わないことが正式に決まった。
ただし、第170話のように一日中地下の変化を待つ観測日にはしない。今日はアリシアの通常授業への参加予定が元から一つ入っていたため、それをそのまま残すことになった。
授業は魔法史でも制御式でもなく、一般教養の文章読解だった。
生活観測区画から学院棟へ向かう途中、雨上がりの石畳にはまだ小さな水たまりが残っていた。学生たちがそれを避けながら行き交い、廊下の開いた窓からは湿った庭の匂いと、昼前の少し暖かくなった風が入ってくる。
「アリシア」
教室の前で、以前から声をかけてくれる女子生徒が手を振った。
「おはよう」
「今日は来ると思ってなかった」
「なんで?」
「昨日、なんか試験だったって聞いたから」
アリシアの足が少し止まる。
「どこまで聞いたの?」
「詳しくは知らないよ。先生が“体調次第で欠席するかも”って言ってただけ」
「あ、そっち」
「何だと思ったの?」
「何でもない」
女子生徒は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。代わりに、アリシアの隣を歩きながら小さな声で言う。
「今日の課題、私かなり危ない」
「読解?」
「先生の文章、何言ってるのか分からない」
「それ先生に言ったら怒られるよ」
「だからアリシアにだけ言ってる」
その後ろから男子生徒が追いつく。
「安心しろ。俺も分からない」
「安心できない」
「三人分からなければ先生の説明が悪い」
「それは違う」
アリシアが思わず笑うと、二人も笑った。
教室へ入る頃には、今朝から頭のどこかに居座っていた「十呼吸をもう一度」という考えが、少し遠くなっていた。
授業では、古い随筆文を読み、書き手が同じ出来事を朝と夜で違う言葉で表現している理由を考える問題が出た。
先生が黒板へ二つの文章を書き出す。
「同じ景色なのに、どうしてこんなに違って見えると思う?」
何人かの生徒が視線を逸らした。
女子生徒が小声で「来た」と呟く。
アリシアも最初は答えるつもりがなかった。
けれど、朝のサーラとの話を思い出した。
同じ十呼吸。
でも昨日と今日では、同じ十呼吸ではない。
「見る人の状態が違うから……?」
口に出してから、思ったより教室が静かだったことに気づく。
先生がこちらを見る。
「もう少し」
逃げたくなるほどではない。
怖さは三。
アリシアは教科書へ視線を落としながら続ける。
「朝は先に何が起きるか分からないけど、夜は一日あったことを知ったあとに同じ場所を見るから。同じ景色でも、見る前に持ってるものが違うと思います」
先生は少し頷いた。
「いいですね。同じ対象を見ていても、観察する側は同じとは限らない。文章では、それが言葉の選び方に出ています」
女子生徒が隣で小さく肘をつつく。
「めっちゃ分かってるじゃん」
「たまたま」
「さっきまで先生の文章分からない仲間だったのに」
「それ言ったのそっちでしょ」
小さな笑いが周囲へ広がった。
アリシアも笑いながら、ふと気づく。
授業の内容を研究へ無理に結びつけようとしたわけではない。
でも、今の自分が経験していることがあるから、この文章が少し分かりやすかった。
以前なら、それを研究に頭を占領されているようで嫌だと思ったかもしれない。
今は、そこまで嫌ではなかった。
◇
昼前に生活観測区画へ戻ると、子供は木箱を開けていなかった。
机の上には昨日の横照明の複写と、以前の正面照明の複写が並べられている。
「何してたの?」
「比べてた」
「何か違う?」
「深い線、横だと見やすい」
「先生に見せたい?」
「八」
「朝より上がった?」
「うん」
「開けたいは?」
「六」
「触りたい?」
「四」
「下がったんだ」
子供は頷いた。
「今は線の方が知りたい」
アリシアは、その言葉を聞いて少し嬉しくなった。
「エルデン先生、呼ぶ?」
「今日なら呼びたい」
「箱は?」
「閉じたまま。紙だけ」
「うん」
午後、都合がついたエルデン教師が生活観測区画を訪れた。
昨日と同じように、彼は木箱へ近づく前に確認する。
「今日は箱そのものは見ない、で合っていますか」
「うん」
「見るのは、この二枚?」
「正面の光と、横の光」
子供が二枚の複写を差し出す。
エルデン教師はまず条件の書き込みを確認した。
「露出範囲は同じ?」
「同じ」
「布も動かしていない?」
「動かしてない」
「照明方向だけ違う?」
「うん」
彼はそこで初めて紙へ視線を落とした。
しばらく無言が続く。
子供は以前なら、その沈黙に耐えられず何度も「分かる?」と聞いていたかもしれない。今日は椅子の上で両手を膝へ置き、エルデン教師が顔を上げるのを待っていた。
「深さの差は、ありそうです」
やがて彼が言う。
子供の目が少し大きくなる。
「ほんと?」
「ただし、この複写だけで“意図的に深さを変えて刻んだ”とは言えません。材質の硬さや、刻んだときの工具の角度でも差は出ます」
「文字なら?」
「文字でも出ます。装飾でも出ます。識別のための刻印でも出ます」
子供は少しだけ唇を尖らせる。
「またいっぱい」
「今はその方が正しいです」
エルデン教師は二枚を並べ替えた。
「でも、昨日より一つ増えたことはあります」
「何?」
「同じ線刻でも、照明条件によって見える情報が変わる。だから、次に私が比べるなら、文字の形そのものだけではなく、線の深さや重なり方も見る価値があります」
アリシアが横から尋ねる。
「重なり方?」
「線と線が交差している場所があるなら、どちらが先に刻まれたか分かることがあります」
子供がすぐ木箱を見る。
「開ける?」
自分で言ってから、止まった。
エルデン教師も答えない。
数秒の沈黙のあと、子供は視線を紙へ戻した。
「今、開けたい八になった」
「怖さは?」
「二」
「触りたい?」
「四」
「今日開ける?」
子供は少し考えた。
「今日は開けない」
「どうして?」
「先生の話聞いて、見たいが上がったから」
エルデン教師の口元がわずかに緩む。
「良い判断だと思います。ただし、私がそう決めたのではなく、あなたが決めたという形で残してください」
「うん」
子供は自分の紙へ書き込む。
『先生の話のあと、開けたい八。だから今日は開けない。次に何を見るか先に決める』
アリシアはその文字を横から見ていた。
自分も同じだ。
十呼吸をもう一度見たい気持ちが上がったからといって、今日やる必要はない。
◇
午後遅く、顔のない存在が立ち上がった。
午前中は寝台の上で身体を起こしただけで、歩いてはいなかった。子供は「午前ゼロ」とだけ記録してある。
夕方は、一歩目を踏み出したあと、少し長く止まった。
子供は声をかけない。
アリシアもノアも見ているだけだった。
やがて二歩目。
三歩目。
そのあと、さらに間を置いて四歩目まで進み、そこで座り込んだ。
「夕方四歩」
子供は紙へ記録する。
昨日は六歩だった。
けれど、昨日より少ないとは言わない。
「胸は?」
アリシアが尋ねる。
子供は少し身体を傾けて確認する。
「一つ明るい。二つ弱い」
「朝と同じ?」
「数は同じ。でも位置は……一つ違う」
「分かる?」
「明るいのが朝と違う場所」
子供は現在位置を記録した。
その間、東側奥部には小さな自然変動が一度だけ出たが、立ち上がりも幅もごく小さく、アリシアに自覚反応はなかった。
以前なら誰かが十一の光との時間差を気にしたかもしれない。
今日は、誰もすぐには口にしない。
東側は東側。
十一の光は十一の光。
記録だけが、それぞれの紙へ残った。
◇
夕食後の小会議で、明日の再現試験案が整理された。
学院長、サーラ、魔導具教師、治療教師、安全管理担当が通信で参加し、アリシアはソファへ腰を下ろしている。ノアは肘掛けの上、子供は少し離れた机で木箱の記録を書いていた。
「明日、十やる?」
アリシアが先に聞く。
『まだ最終決定ではない』
学院長が答える。
「分かってる。でも候補一番?」
『今のところは一番だ』
アリシアの背筋が少し伸びる。
魔導具教師が条件案を読み上げる。
『立ち上がり十呼吸。最大低下幅、維持十五呼吸、復帰速度は第171話条件へ可能な限り一致。刺激開始と終了はアリシアさんへ通知しますが、途中経過の呼吸数は伝えない案です』
「十に達したっていうのも?」
『伝えません』
「維持に入ったのも?」
『原則伝えない案です』
アリシアは少し不安そうに眉を寄せる。
「終わるまで、今どこか分からない?」
『はい。ただし、いつでも本人申告で中止できます。安全担当側では全経過を把握しています』
サーラが続ける。
『昨日は五呼吸、八呼吸、十呼吸という数字そのものがアリシアさんの注意へ影響した可能性があります。次回は、その影響を少し減らしたい』
「完全には減らないよ。十やるって知ってるから」
『その通りです。完全な盲検にはできません』
「盲検?」
『条件の一部を本人へ知らせずに行う比較方法です』
『また名前が固い』
ノアが言う。
若い観測員が今日は会議にいなかったため、代わりの妙な呼び名は飛んでこなかった。
「私は十って知ってる。でも何呼吸目か分からない」
『そこまでです』
「怖さは……四」
「参加意思は?」
サーラに聞かれる。
「八」
「止めたい気持ちは?」
「二」
「反応してほしい気持ちは?」
「五」
「少し下がりましたね」
「同じになるかの方が気になるから」
学院長が一呼吸置いてから言った。
『それが明日まで同じとは限らない』
「うん。明日の朝また見る」
『よし』
アリシアはそこまで答えてから、少しだけ笑った。
「今なら、明日の私って言っても怒られない?」
『誰も怒ってないでしょう』
「ノアが丸投げって言う」
『未来の自分へ必要な判断を残すのは丸投げじゃないわ。何も考えず押しつけるのが丸投げよ』
「今日はまとも」
『いつもまともよ』
◇
夜。
生活観測区画が静かになったあと、アリシアは練習帳を開いた。
今日は人工刺激をしなかった。
昨日なら、その一文を書くときに少し悔しかったかもしれない。
今日は違った。
『十呼吸をもう一度やりたいから、今日やらなかった』
最初にそう書いた。
その下へ、今日考えたことを続ける。
『同じ十をもう一回やるなら、数字だけ同じにすればいいわけじゃない。昨日の次の日にやること、私が何呼吸目か知っていること、昨日の〇・五を探したくなることも、昨日とは違う条件になる』
筆を少し止める。
授業で扱った文章を思い出す。
朝と夜で同じ景色が違って見える。
景色が変わっていなくても、見る側が変わっている。
『私も同じ十を二回見るけど、一回目の十を知らなかった私には戻れない』
そこまで書いたところで、ノアが机へ飛び乗った。
『急に文学っぽいわね』
「今日、文章読解だったから」
『影響されやすい』
「悪い?」
『別に。前は研究のことばかり考える自分を嫌がってたのに、今は授業のことを研究へ持って帰ってるのね』
アリシアは少し考えた。
「逆かも」
『何が?』
「研究してるから、今日の授業がちょっと分かった」
『同じでしょう』
「違うよ。どっちが邪魔してるんじゃなくて、両方ある感じ」
ノアはしばらく何も言わなかった。
『なら、いいんじゃない』
「うん」
アリシアは練習帳へ視線を戻す。
最後に、明日へ残す条件を書いた。
朝の身体状態。
夜間の東側記録。
探したい気持ち。
反応してほしい気持ち。
怖さ。
参加意思。
そして、途中の呼吸数を知らない十呼吸再現試験を本当に受けたいか。
以前なら、項目が増えるほど「早く答えがほしい」と思った。
今は、増えた項目一つ一つが、答えを曖昧にしないためのものだと分かる。
窓の外では、雨の名残を含んだ夜風が木々を揺らしていた。顔のない存在は寝台で静かに横たわり、胸には一つの明るい光と二つの弱い光が残っている。木箱は今日は一度も開かれず、正面照明と横照明の二枚の複写だけが机へ重ねて置かれていた。
東側奥部も静かだった。
十呼吸の再現試験は、まだ始まっていない。
けれどアリシアには、今日が何もしなかった日には思えなかった。
同じものを見るためには、自分が昨日と同じではないことも考えなければならない。
同じ十をもう一度見るなら、昨日と同じつもりで始めない。
それを分かっただけでも。
明日の十呼吸は、昨日の十呼吸より少しだけ、確かめたいものがはっきりしていた。




