第171話 五と十八の間に置く数字は、答えではなく次の問いになる
翌朝、生活観測区画の窓には、夜のうちに降ったらしい細かな雨粒がまだ残っていた。空は明るい灰色で、厚い雲の向こうに朝日があることだけが分かる。庭の土はしっとりと濡れ、風が吹くたびに葉先へ溜まった水滴が細い音を立てて落ちていた。昨日までより空気は少し冷たく、寝台から出した指先にも、朝の湿り気が薄くまとわりついている。
アリシアは目を覚ますと、すぐには胸へ手を伸ばさなかった。昨日の朝なら、起きた直後から中間速度のことを考えていただろうし、実際、一日を人工刺激なしで過ごしたあとも、寝る前の時点で試したい気持ちは九のままだった。
けれど今朝は、その九を確かめるより先に、自分の身体を一つずつ確認しようと思った。呼吸は苦しくなく、頭痛も腕の重さもない。胸の奥にも、昨日の午後に起きた自然変動のあとから続いているような違和感は残っていなかった。
そこで初めて、右手を胸の中央へ置いた。冷たさはなく、震えもなく、どちらかの方向から何かが来ているような感覚もない。ただ、それでも一昨日に感じた場所をほんの少しだけ探したくなる気持ちは残っていて、アリシアはそれに気づくと、長く確かめる前に手を離した。
「探したい、二」
『朝一番にそれを言えるなら、かなり下がったわね』
寝台の足元で丸くなっていたノアが、前足をゆっくり伸ばしながら言った。アリシアも以前なら、その気持ちを「ないこと」にしようとしたかもしれないが、今は数字にして残すことへの抵抗がかなり減っている。
「昨日の朝は四くらいだったから」
『反応してほしい気持ちは?』
「今は……七」
『中間速度をやりたい気持ちは?』
アリシアは少しだけ迷ってから、正直に答えた。
「九」
『そこは下がらないのね』
「だって昨日一日空けたし」
『また“空けたから今日はできる”になってないでしょうね』
「違うよ」
少しむっとしながらも、アリシアは自分の考えを言葉にした。夜間に大きな変化がなく、昨日は人工刺激を行わず、今朝の身体状態にも問題がなければ、試験を実施できる条件が一つ増える。それだけで、今日必ず試験をやると決まったわけではない。
『合格』
「何点?」
『八』
「十じゃない」
『朝から十なんて出したら調子に乗るでしょう』
「出しても乗らない」
『もう九の時点で前のめりなのよ』
ノアの言葉へ反論しようとしたところで、隣の寝台から布団の擦れる音が聞こえた。アリシアが振り返ると、子供が布団から顔を出し、眠そうに何度か瞬きをしている。
「……九?」
「今日も?」
「今、中間九?」
「うん」
「探したい二?」
「そこまで聞こえてたの?」
「ちょっと」
『数字を聞き分ける精度だけ、どんどん上がってるわね』
子供はゆっくり身体を起こすと、まずアリシアの胸元を見た。
「今日は何もない?」
「今はないよ」
「昨日の八呼吸も何もなかった」
「うん。でも昨日のは強さも長さも違ったから、中間試験の答えには使わない」
「覚えてる」
「ほんと?」
「八だけ同じでも、同じ試験じゃない」
アリシアは少し笑った。
「そう。もし今日やるなら、ほかをできるだけ揃えて、本当に速さの途中だけを見る」
「何呼吸?」
「まだ決まってない」
「十?」
「候補にはなるかも」
『昨日から十に執着してる人、多すぎない?』
子供は首を傾げた。
「真ん中だから?」
「五と十八の真ん中は、十じゃないよ」
「じゃあ?」
アリシアも一瞬考え、十一と十二の間を思い浮かべる。
「十一・五くらい?」
『朝から計算で詰まらないで』
「じゃあ十一か十二」
「どっち?」
「だから、まだ決まってないって」
子供は少し笑い、それから顔のない存在の寝台へ目を向けた。今朝も人影は仰向けに横たわったままで、胸の十一の光だけが淡く灯っている。昨日からは単純な個数だけではなく、明るさと位置も分けて記録するようになっていた。
子供はしばらく観察してから、十一個の丸が描かれた紙へ印を入れた。
「今日は二つ明るい。一つ少し明るい」
「昨日の夕方と同じ?」
アリシアが尋ねると、子供はすぐには頷かなかった。
「数と明るさは似てる。でも場所は、一つは同じに見えるけど、ほかは分からない」
「じゃあ、どう書く?」
「分からないところは、分からないまま。今見える場所だけ描く」
子供は紙を見直し、位置を一つずつ書き込んでいく。
「今は二つ明るい。一つ少し明るい。昨日とつなげない」
「うん」
アリシアもそれ以上、関係づけるようなことは言わなかった。昨日は東側の自然変動と十一の光の変化が近い時間に見えた瞬間もあったが、それはただ時間が近かっただけで、それ以上のことはまだ分からない。
子供は足裏も確認し、赤みも痛みもないことを確かめてから床へ下りた。そのまま木箱へ向かうのかと思ったが、今朝は先に机の上へ置かれた三枚の紙を見る。自分で描いた線、記録用魔導具の複写、そして昨日エルデン教師が残した所見だった。
「箱、開けたい?」
アリシアが尋ねると、子供は少し考えてから答えた。
「今は七。怖さ二。黒いの触りたい五。先生にまた見せたい六」
「今日は何したい?」
子供は紙と木箱を交互に見た。
「まだ決めない」
『賢くなったわね』
「ノアが悔しいって」
『何で私が悔しがるのよ』
◇
朝食が始まってしばらくすると、扉の外から学院長の足音が聞こえた。今朝はアリシアも子供もほぼ同時に気づいたが、それでも扉が開くより先に、子供がいつもの質問を投げる。
「何時間?」
「七時間」
学院長の返事は、もう完全に準備されていた。
「昨日より十分少ない」
「十分くらいなら誤差にしてくれ」
「眠気?」
「一」
「頭痛?」
「ゼロ」
「仕事したくなさ?」
学院長は少しだけ天井を見てから答えた。
「今日は二」
「上がった」
「朝から中間速度会議があるからな」
アリシアが思わず笑う。
「それ、仕事したくないの?」
「責任ある仕事ほど、始まる前は少し嫌になることもある」
『大人っぽい言い訳ね』
「ノアが格好つけたって」
「もう好きに訳せ」
朝の軽いやり取りが落ち着いたところで、学院長は持ってきた記録板を開いた。
「夜間報告からいくぞ。東側奥部は基準範囲で推移し、新たな急変はなし。西側補助連絡線も静穏で、名前のない光に位置変化はなく、小空洞にも目立った周期反応は出ていない」
アリシアの匙が止まった。
「身体側は?」
「夜間巡回時の確認でも異常なし。今朝は?」
「痛みゼロ、苦しさゼロ、頭痛ゼロ、腕の重さゼロ、疲労一。冷感も震えもなし。探したい気持ち二」
「中間速度をやりたい気持ちは?」
「九」
「反応してほしい気持ち」
「七」
「昨日より一つ下がったか」
「うん。怖さは二」
学院長は一つずつ記録へ書き込んだ。アリシアはその筆先を見つめながら、聞きたい言葉が喉元まで出てくるのを感じる。
「今日、できる?」
「条件だけなら、昨日より実施しやすい」
「やる?」
「午前会議で決める」
「またそこ」
「またそこだ」
期待は少し膨らんだが、まだ決定ではないことも分かっている。アリシアはそれ以上急かさず、代わりに別の疑問を口にした。
「中間って、何呼吸にするの?」
「そこも会議事項だ」
「十?」
「候補の一つにはなっている」
「十一とか十二も?」
「それも候補だ」
『全部候補じゃない』
子供が食事の手を止めた。
「真ん中だから、一個に決めるんじゃないの?」
学院長は食卓の近くへ椅子を引き、少し考えてから答えた。
「真ん中という言い方をしているが、数学の真ん中を取れば正しいとは限らない。五呼吸と十八呼吸の間で、神器の反応が一直線に変わるとは限らないからだ」
「一直線?」
子供が首を傾げる。
アリシアは卓上を指でなぞりながら、自分なりに言い換えた。
「五では感じた。十八では感じなかった。でも六、七、八、九って少しずつ弱くなって、どこかでちょうどゼロになるとは限らないってこと?」
「そうだ。十でも感じて、十二で急に感じなくなるかもしれないし、逆に十で感じなかったのに別の日の十では感じることもあり得る」
「同じ十なのに?」
「身体も、設備も、東側の状態も、完全に同じにはできないからな」
アリシアの眉が少し寄った。
「じゃあ境目って、一本じゃないかも?」
「その可能性もある」
その答えは、少しだけもどかしかった。五と十八の間に一本の線があり、それを見つければ一つ答えが出るような気がしていたからだ。しかし六つ目の反応が、生き物の感覚に近い揺らぎを持つものなら、毎回同じ数字でまったく同じ反応が出るとは限らない。
「じゃあ今日一回で、“ここが境目”って決めない」
「それが大事だ」
「今日増えるのは、一つの答えじゃなくて?」
「一つの点だ」
アリシアは、その言葉を少し気に入った。
「一つの点。まだ線じゃない」
「ああ。点が増えて、同じ傾向が何度も出るようになれば、そこで初めて線らしいものを考えられる」
子供も話を聞いていた。
「点いっぱいで線になる?」
「うまくいけばな」
『研究って地味ね』
「ノアが嫌になったって」
『別に嫌じゃないわよ。地味って言っただけ』
◇
午前の会議では、予想していた通り、中間速度をどこへ置くかで少し時間がかかった。会議室には学院長、サーラ、魔導具教師、治療教師、安全管理担当、若い観測員が集まり、アリシアは生活観測区画から通信で参加していた。子供は少し離れた机で絵を描いていたが、ときどき顔を上げては、こちらの会話へ耳を傾けている。
『単純な中央値なら十一から十二呼吸付近です』
魔導具教師が記録板を示した。
『ただし、五呼吸条件と十八呼吸条件の差が十三呼吸あるため、最初の中間として十呼吸に置く案もあります。やや反応側へ寄せる形です』
「どうして反応側?」
アリシアが尋ねる。
『安全と情報量の両方です。五呼吸条件では冷感一と小さな震えが出ましたが、身体異常はありませんでした。まず十呼吸程度で反応が残るかを見ると、その次にどちら側へ寄せるか判断しやすくなります』
若い観測員も説明を引き継いだ。
『もし十で感じたなら、次は十と十八の間。十で感じなかったなら、次は五と十の間を見る、という考え方です』
「半分ずつ狭くする?」
『そういう考え方ですね』
アリシアは少し考えた。
「じゃあ十一じゃなくて十?」
サーラがすぐに口を挟む。
『まだ決定ではありません。五呼吸条件と十八呼吸条件を、単純な二分探索として扱ってよいかも含めて検討しています』
「二分探索?」
『範囲を半分ずつ狭める方法です』
『名前が固い』
ノアが言う。
「ノアがもっと可愛い名前にしろって」
『そこまで言ってない』
通信の向こうで若い観測員が笑った。
『真ん中探し作戦とか?』
「それはちょっと」
『即否定ですか』
サーラが小さく咳払いする。
『名称はどうでもいいです』
「非刺激観測日より?」
『その話に戻さないでください』
少しだけ張りつめていた会議の空気が緩んだところで、魔導具教師が改めて条件表へ視線を落とした。
『最大低下幅は第169話の五呼吸条件と、比較元の十八呼吸条件の範囲へ可能な限り合わせます。維持時間は十五呼吸、復帰速度も同程度とし、立ち上がりだけ十呼吸を第一案にします』
「昨日の自然変動、八呼吸くらいだったのは?」
『比較対象には入れません。最大低下幅も維持時間も違うため、別記録のままです』
「じゃあ今日十で感じなかったとしても、昨日の八と合わせて“十より速くないと感じない”とは言えない」
『はい』
「分かってて聞いた」
『確認は大事です』
学院長の声が続く。
『今日の目的は、境目を決めることじゃない。五と十八の間へ、比較可能な条件を一つ増やすことだ』
「一つの点」
『そうだ』
「十呼吸」
『実施するならな』
「まだ?」
『安全確認と機器調整が残っている』
アリシアは深く息を吐いた。やりたい気持ちは九のままだが、決まるまで待つことへの苛立ちは、以前よりずっと小さくなっている。
『嫌は?』
サーラに聞かれ、少し考える。
「二。やりすぎそうな気持ちは五」
『昨日より低いですね』
「やる可能性が上がったから、逆に落ち着いたのかも」
『それも記録します』
◇
安全確認と機器調整が終わったのは、昼前だった。正式に決まったのは立ち上がり十呼吸で、最大低下幅は第169話の五呼吸条件と同程度を目標にし、維持時間は十五呼吸、復帰速度も同程度へ揃える。一日一条件のみとし、アリシアに反応が出ても、その強さを確かめるための追加刺激は行わない。
そこまで決まると、アリシアの気持ちはむしろ静かになった。試験ができることへの嬉しさはあるが、十呼吸なら感じるのか、感じないのか、そのどちらかを望むより、まず結果そのものを見たいという気持ちの方が強くなっていた。
以前なら、「感じる方」が少し正解のように思えたかもしれない。今は、感じても一つの点で、感じなくても一つの点になる。それなら、どちらが出ても今日やった意味は消えない。
「ご飯、先?」
子供が尋ねる。
「うん。空腹のままやらない」
『そこは大事ね』
「箱は?」
アリシアが聞くと、子供は木箱を一度だけ見た。
「今、開けたい六」
「朝七だった」
「下がった」
「どうして?」
「中間気になる」
「私のせい?」
「ちょっと」
『箱より人の実験が勝った』
「悪い?」
「悪くない」
子供は少し考えてから、木箱へ向かうのをやめた。
「今日は箱、午後に考える」
「うん」
◇
昼食後は、食後すぐに刺激を入れないため、いつもより長く休息を取った。窓の外では朝からの雲が少し薄くなっていたものの、雨はまだ完全には止んでいない。屋根を叩く音はかなり弱くなり、遠くで鳥が一度だけ鳴いた。
アリシアは椅子へ深く座り、水を飲んだ。子供は机の向こうで昨日の複写記録と自分の絵を並べ、ノアは窓辺へ身体を丸めている。顔のない存在は寝台へ座ったまま、胸の光を弱く灯していた。
十分な休息を取ったあと、サーラが最終確認を始める。
「痛みは?」
「ゼロ」
「苦しさ、頭痛、腕の重さ」
「全部ゼロ。疲労一」
「胸部違和感と神器関連感覚は?」
「どっちもなし」
「怖さ」
「三」
「期待は?」
アリシアは少し考えた。
「八。反応してほしい気持ちは六で、中間速度を知りたい気持ちは九。昨日感じた場所を探したい気持ちは一で、やりすぎそうな気持ちは五。止めたい気持ちは一」
サーラが記録し終える。
「では、本日の目的をお願いします」
アリシアはすぐには答えず、一度だけ呼吸を整えて、自分の言葉を選んだ。
「五呼吸では感じた。十八呼吸では感じなかった。でも、その間のどこで変わるかは分からない。今日は十呼吸で、最大低下幅と維持時間と戻し方をできるだけ同じにする」
「はい」
「感じても、十が境目とは決めない。感じなくても、十が境目とは決めない。比較できる点を一個増やす」
サーラの表情が少し柔らかくなった。
「それで十分です」
アリシアも小さく息を吐く。
「今日は、それだけ」
◇
「試験開始まで十呼吸」
サーラの声が響くと、室内の空気がゆっくり張りつめていった。第169話の五呼吸試験ほど、アリシアの心臓は速くなっていない。期待八、怖さ三、反応してほしい気持ち六。それ以上に、どちらの結果が出ても記録になると分かっていることが、少しだけ気持ちを落ち着かせていた。
子供は少し離れた位置から見ている。
「頑張る?」
アリシアは小さく笑った。
「今日も、何もしないように頑張る」
「同じ」
「大事だから」
『今度は本当にそうね』
残り五呼吸の合図が入り、そこから四、三、二、一と数え終わる。室内に余計な物音はなく、アリシアも姿勢を変えないまま、ゆっくりした呼吸だけを続けた。
『東側、刺激開始』
立ち上がりは十呼吸。最初の三呼吸までは胸に何もなく、設備側からも「立ち上がり正常」と報告が入る。四呼吸目、五呼吸目と進んでも、冷感も震えもなかった。
五呼吸目は、第169話ならすでに目標幅へ到達していた時間だった。そのことを意識した瞬間、アリシアは自分が感覚を探しかけていることに気づく。
「今、探したい二」
「記録します」
サーラの声が落ち着いて返る。
六呼吸目にも胸の変化はなく、七呼吸目で東側班から「奥側新反応、低下開始。予定範囲内」と報告が入った。八呼吸目へ進んでも何も感じず、昨日の自然変動と同じ数字が一瞬だけ頭へ浮かんだが、アリシアはそこへ意味をつけず、呼吸だけを続けた。
九呼吸目に入る頃、少し緊張が戻ってくる。肩へ力が入りそうになったため、アリシアは意識して指を緩めた。
「怖さ三・五」
「続けたいですか?」
「うん」
そして十呼吸目を迎えた。
『目標変調幅へ到達。維持へ移行』
その直後、アリシアは反射的に息を止めた。胸の中央に、何かがある。はっきり冷たいと言い切るには弱いのに、何もないと言うには少し違う。
「……待って」
サーラはすぐに聞き返さなかった。
「申告できるまで待ちます」
アリシアは目を閉じ、胸へ手を置かずに感覚だけを確かめた。自分から探しにいけば、薄い感覚を作ってしまうかもしれない。そう考えながら数秒待ち、それでも残っているものだけを言葉にする。
「冷感……〇・五くらい」
室内の空気が少し変わった。子供も動かず、ノアも窓辺からこちらへ目だけを向けている。
「位置は?」
「真ん中。右寄りかどうかは……分からない」
「方向感覚」
アリシアは数秒待った。
「東……かも。でも弱い。確信はない」
「不明として記録しますか?」
「うん。東っぽい気はするけど、分からないにして」
「震え、痛み、苦しさ」
「全部なし。怖さは四」
ほぼ同じ頃、東側班から通信が入った。
『奥側新反応、目標低下幅へ到達。時刻記録』
「アリシアさん側との時刻差は?」
『最初の申告との時刻差は一呼吸以内です。ただし“待って”という申告から冷感確定まで、一呼吸弱あります』
サーラがすぐに確認する。
「最初に何かを感じたのは?」
「十呼吸くらい。目標到達のすぐあと」
「そのまま記録します」
冷感〇・五程度の感覚は、消えそうで消えずに続いた。維持に入って三呼吸、五呼吸と過ぎても強くなることはなく、薄いまま胸の中央へ残っている。
「まだ〇・五くらい」
七呼吸ほど経つと、アリシアは少し眉を寄せた。
「ちょっと弱くなったかも。〇・五より下だけど、まだゼロじゃないと思う」
「分かりました」
さらに時間が過ぎ、維持開始から十呼吸ほど経つ頃には、その感覚自体が曖昧になってきた。アリシアは何度も確かめようとする代わりに、自分が今どこまで確信できるのかだけを申告する。
「今、分からなくなった。あるような、ないような感じ」
「無理に数字をつけなくて大丈夫です。そのまま記録します」
十五呼吸の維持時間が終わり、復帰へ移行する。
『維持終了。復帰開始』
東側奥部の値が戻り始めると、アリシアは胸の感覚を追いかけたくなった。消えていくものを最後まで捕まえたくなる気持ちはあったが、それに気づいた時点で自分から申告する。
「探したい三」
「記録します。そのまま観察を続けてください」
数呼吸後、アリシアは静かに首を横へ振った。
「今は、ない」
「消失時刻記録」
東側はそのあと数呼吸遅れて基準へ戻った。西側補助連絡線はしばらく静かなままだったが、十呼吸、二十呼吸と経過した頃、非常に弱い対応波形が一度だけ現れる。
「西は何もない。胸部感覚ゼロで、方向感覚もなし」
アリシアはすぐに申告した。
名前のない光にも変化はなく、小空洞も反応を示していない。追加刺激を入れる理由もなかったため、そこで本日の試験は終了となった。
◇
誰もすぐに「感じた」と結論づけなかった。そこが、第169話の五呼吸試験とは一番違っていた。
冷感は〇・五程度で、しかも途中から「あるような、ないような」に変わった。東方向感覚にも確信がなく、震えもない。反応と呼ぶには弱いが、完全な無反応とも言い切りにくかった。
アリシア自身が、一番その曖昧さに困っていた。
「これ……どっち?」
思わず尋ねる。
サーラはすぐ答えを与えず、少しだけ表情を柔らかくした。
「アリシアさん自身は、どう記録したいですか?」
「感じた気はする。でも、五呼吸のときみたいにはっきりじゃないし、途中から分からなくなった」
「はい」
「だから……弱い反応候補?」
通信の向こうから、若い観測員の声が届いた。
『俺も、それが一番近いと思います』
学院長がすぐ補足する。
『“反応あり”と“反応なし”の二つだけに分けない方がいい』
「二値で処理しないってこと?」
『そうだ』
「じゃあ五呼吸は明確な反応。十八呼吸は無反応。十呼吸は……弱い反応候補で、確信度は低い」
『それが今のところ一番正確だ』
アリシアは、ゆっくりその言葉を繰り返した。
「弱い反応候補」
「嫌?」
子供が尋ねる。
アリシアは少し迷ってから、正直に頷いた。
「ちょっと。もっと、あるかないか分かると思ってた」
十呼吸なら感じるか、あるいは感じないか、どちらかがはっきり出ると思っていた。けれど実際には、その間にあるような結果になったことで、自分が期待していた「分かりやすさ」が得られなかったことの方が少し悔しかった。
『境目を探してるんだから、境目っぽく曖昧になるのは普通じゃない?』
ノアが言う。
アリシアは少し黙った。
「……そうなの?」
『知らないけど』
「分からないのに言ったの?」
『でも、五で一、十で〇・五候補、十八でゼロなら、雑に見れば少しずつ弱くなってるようには見えるでしょう』
学院長の声がすぐ入る。
『ノアの“雑に見れば”を消すなよ。一回ずつしか試していないし、十呼吸の〇・五も期待や微細揺れの影響を切れていない』
「うん」
『ただし、十呼吸条件で五呼吸より弱く、十八呼吸よりは反応らしい感覚が出た。この事実そのものは残る』
アリシアは胸へ右手を置いた。今は何もない。
「一つの点。でも、点がちょっとぼやけてる」
『それも含めて一つの点だ』
その言葉を聞くと、少しだけ気持ちが楽になった。
◇
試験後の身体確認では、異常は見つからなかった。痛みも苦しさもなく、頭痛や腕の重さもない。疲労は二、怖さは二まで下がり、胸部違和感も残っていなかった。治療教師が魔力循環も確認したが、基準範囲から外れる乱れは見つからない。
アリシアは椅子へ座ったまま、少しだけ唇を尖らせていた。
「嬉しい?」
子供が尋ねる。
「……七」
「昨日十だった」
「今日は曖昧だったから」
「がっかり?」
「四」
「両方ある?」
「うん。進んだ感じはかなりあるけど、気持ちまで十になるわけじゃない」
「今日の七」
「そう」
子供が少し笑い、アリシアもようやく表情を緩めた。
『その辺りは、もう完全に身についたわね』
◇
午後の照合会議では、三つの人工条件が初めて同じ表へ並べられた。
五呼吸条件では、最大低下幅は比較範囲内で、維持時間は十五呼吸だった。アリシアには胸部冷感一と小さな震えが一度あり、方向感覚も東で、明確な反応として記録されている。
十呼吸条件も、最大低下幅は五呼吸条件との差が測定誤差範囲内で、維持時間は十五呼吸だった。冷感は〇・五程度からそれ未満へ低下し、震えはなく、方向感覚は東寄りの可能性があるものの確信はない。そのため「弱い反応候補」とされた。
十八呼吸条件では、最大低下幅と維持時間は同程度だったが、自覚反応はなかった。
「並べると綺麗すぎない?」
若い観測員が言った。
アリシアも表を見る。
「五で一。十で〇・五候補。十八でゼロ」
「確かに綺麗に見えます」
サーラが頷いた。
「だからこそ、注意が必要です」
「一回ずつだから?」
「はい。それに十呼吸の〇・五が、本当に神器反応だったかどうかも、まだ完全には確定できません」
「でも時間は東側と近かったし、五呼吸のときも近かった。十八呼吸では何もなかった」
「その事実も残します」
魔導具教師が別の記録紙を出した。
「十呼吸条件では、設備側の微細揺れは五呼吸条件より少なかったです。ただしゼロではありません」
「じゃあ、微細揺れだけが原因っていう説明は?」
「少ししにくくなりました。ただし除外はできません」
「また少し進んだ」
「そう考えて構いません」
学院長が三条件の表へ目を落とした。
「次をどうするかは、今日決めない」
「分かってる」
アリシアが先に答える。
「でも候補はある?」
「ある。十と十八の間を見るか、五と十の間を見るか。それとも、同じ十呼吸をもう一度再現するかだ」
アリシアの眉が上がる。
「同じ十をもう一回?」
「同じ条件で似た反応が出るかを確かめる」
「それ、大事?」
「かなり」
若い観測員も頷いた。
「今の十呼吸が本当に中間的な反応なら、似た感覚が再現するか見たいです」
「でも同じ十をやったら、新しい速度は増えない」
「増えません」
「進んでない感じする」
「再現性が確認できれば、かなり進みます」
アリシアは少し口を尖らせる。
『新しい数字を増やすゲームじゃないのよ』
「分かってる」
『顔が分かってない』
「分かってるってば」
サーラが少し笑った。
「候補は三つです。より遅い側へ進むか、より速い側へ進むか、同じ十呼吸を再確認するか。今日の夜間記録と明日の身体状態を見てから考えましょう」
「また明日の私」
「はい」
横で聞いていた子供も顔を上げた。
「箱も明日の私」
「そうだね」
◇
夕方、子供は結局、木箱を開けた。ただし、今日やることは、昨日考えていたよりさらに小さかった。
「布、動かさない」
子供が先に言う。
「じゃあ何するの?」
「今の位置で見る。今日は光だけ変える」
アリシアが少し目を見開いた。
「見る角度じゃなくて?」
「うん。箱も黒いのも、そのまま」
『ちゃんと一条件ずつやってる』
子供は木箱の蓋を開けたが、茶色い布には触れなかった。黒い物体の見える範囲も、第169話から変わらない。
そこへ、記録用の弱い照明魔導具を横から当てる。正面からの光ではほとんど見えなかった浅い線が、横から光を受けることで細かな影を作った。
「あ」
「何か違う?」
「線、深さ違う」
子供は身体を近づけすぎず、同じ位置から観察を続ける。
「全部同じじゃない。細いのと、少し深いのがある」
「文字っぽさは変わった?」
「分からない。でも、太さだけじゃなくて深さも違う」
アリシアは、その言葉をすぐ記録した。
「エルデン先生に見せる?」
「今日は見せない」
「どうして?」
「今日は光を変えて見るだけ」
「複写は?」
子供は少し考える。
「残す。でも、横からの光って書く」
「うん」
同じ位置と同じ露出範囲を保ち、変えたのは照明の方向だけだった。その条件を書き添えた新しい複写が一枚増える。
見たい気持ちは七から八へ上がっていたが、それでも子供はそこで手を止めた。
「今日はここまで」
蓋を閉じてから、自分の気持ちも確認する。
「黒いの触りたい五。怖さ二。先生に見せたい七」
「明日は?」
「明日の私」
アリシアは笑った。
「今日、みんなそればっかり」
『未来の自分に丸投げしてるとも言う』
「ノアが賢いって」
『だから訳を変えるな』
◇
顔のない存在は、その日の夕方、寝台から立ち上がるまでに少し時間がかかった。午前中は一度も歩かなかったため、子供は「午前ゼロ」と記録したが、そこへ「悪い」や「減った」といった評価は足していない。
夕方になると、人影はゆっくり身体を起こした。最初の四歩までは大きく止まることなく進み、五歩目のあとで少しだけ間を置く。それからもう一歩だけ前へ出て、六歩目で止まった。
「今日は夕方六歩」
昨日の夕方と同じ数字だった。
子供は一瞬だけ嬉しそうな顔をしたが、すぐに胸の十一の光へ視線を移す。
「二つ明るい。一つ少し明るい」
「朝と同じ?」
アリシアが聞く。
「数と明るさは同じ。位置は、一つだけ同じに見えるけど、ほかは分からない」
「じゃあ?」
「今見えてる場所を描く」
子供はそのまま紙へ位置を残した。歩数は夕方六歩で、胸の光は二つ明るく、一つは弱い。今日の十呼吸試験とは時間がかなり離れているため、東側との関係を話題にする者はいなかった。
◇
夜、子供が眠ったあと、アリシアは練習帳を開いた。今日は書きたいことが多く、最初の頁だけでは収まりそうになかった。
朝の時点では、中間速度をやりたい気持ち九、怖さ二、反応してほしい気持ち七、昨日の反応を探したい気持ち二だった。昼の十呼吸条件では、最大低下幅と維持時間を五呼吸条件、十八呼吸条件へ可能な限り揃えた。
その結果、目標到達直後に冷感〇・五程度を感じたが、震えはなく、方向感覚も東寄りの可能性はあるものの確信できなかった。感覚は途中から「あるような、ないような」状態へ変わり、復帰中に消失した。西側には遅れて弱い対応波形が出たが、そのときアリシア側の自覚反応はなかった。
そこまで書いたところで、アリシアは筆を止めた。
五呼吸では一、十呼吸では〇・五候補、十八呼吸ではゼロ。並べるとあまりにも綺麗で、まるで速度が遅くなるほど感覚も少しずつ弱くなるように見える。
けれど、まだ一回ずつしか試していない。十呼吸の感覚も、自分自身で確信できなかった部分が残っている。だからこそ、見栄えの良い並び方へ引っ張られないよう、今日の記録には少し時間をかけた。
『十呼吸では、五呼吸のときほどはっきりしなかった。でも何もなかったとも言い切れなかった。最初は困った。私は“感じた”か“感じなかった”のどちらかになると思っていたから』
そこで少しだけ筆を止めてから、続きを書く。
『でも、境目を探しているなら、途中が曖昧になることもあるのかもしれない。今日一回だけでそう決めることはできないけれど、“曖昧だった”こと自体も消さずに残す』
最後に、もう一行。
『五と十八の間に置いた十は、答えではなく、新しい問いになった』
机の下からノアが顔を出す。
『今日の題名みたいなこと書いてるわね』
「何の?」
『気にしなくていい』
「変なの」
アリシアは少し笑い、それから練習帳を閉じずにノアを見る。
「今日、試験直後は嬉しい七だった」
『ええ』
「でも今は八くらい」
『上がったの?』
「会議のときは曖昧で嫌だった。でも、同じ十をもう一回やるって案を聞いたら、曖昧なら曖昧なまま確かめればいいんだって少し思えた」
『新しい数字を増やすだけが前進じゃないって分かった?』
「ちょっと」
『ちょっとなのね』
「だって十二とかも見たい」
『欲張り』
「知りたい九だから」
『そこは本当に変わらないわね』
アリシアは練習帳を閉じる前に、最後の余白へ小さく書き足した。
『次に新しい数字を増やすか、同じ十をもう一度見るか。それは明日の私が決める』
『子供みたい』
「子供が先だったかも」
『悪い影響じゃなくてよかったわね』
◇
夜半には、朝から残っていた雨も完全に止んでいた。窓の外では雲の切れ間から月が少しだけ見え、濡れた庭の石が淡い白色に光っている。風が吹くたび、葉に残っていた最後の水滴が落ち、静かな夜の中へ小さな音を残した。
東側奥部は、午後の十呼吸試験を終えてから基準範囲へ戻ったまま静穏を保っていた。西側補助連絡線も、遅れて出た弱い対応波形以降、新しい反応はない。名前のない光にも、小空洞にも、大きな変化は起きていなかった。
今日、五と十八の間へ新しく加わった十呼吸という点は、明確な反応でも完全な無反応でもなかった。冷感は〇・五程度で、震えはなく、方向感覚も不確かだった。
けれど、その曖昧さは失敗ではない。六つ目の反応が単純な「感じる」「感じない」の二つだけではなく、変化の速さに応じて感覚そのものが弱くなる可能性を考えるための、新しい材料になった。
もちろん、まだ一度だけだ。十呼吸でもう一度同じ結果が出る保証はないし、五呼吸の一も、十八呼吸のゼロも、繰り返せば違う値になる可能性がある。だから今の段階では、三つの点をきれいな一本の線へつなぐことはできない。
それでも、二つしかなかった昨日よりは情報が増えた。
木箱についても、今日は布を動かさなかった代わりに照明の方向だけを変え、線刻には深さの違いがあることを新しく記録した。文字なのか、装飾なのか、識別記号なのかはまだ分からないが、見方を一つ変えるだけで、今まで見えなかった差が現れることも分かった。
顔のない存在の十一の光についても、数だけではなく、明るさと位置を分けて残している。六つ目の感覚も、木箱の線も、十一の光も、一つの数字や一度の観察だけでは決まらない。
アリシアは眠る前、胸へ一度だけ手を置いた。今は何もなく、今日感じた〇・五の冷たさも、もう残っていなかった。
けれど頭の中には、五では一、十では〇・五候補、十八ではゼロという三つの点が並んでいる。次は十二かもしれないし、十四かもしれない。七を見る可能性もあれば、もう一度十を確かめることになるかもしれない。
新しい場所へ進むことだけが、前へ進むことではない。同じ場所をもう一度見て、それでも同じものがあるのか確かめることも、きっと前進になる。
アリシアは目を閉じた。明日の朝に身体の状態を確かめ、東側の夜間記録を見て、自分が何を知りたいのかももう一度確かめる。その上で、次に置く点を決めればいい。
五と十八の間に置いた十は、答えではなかった。
けれど、答えではなかったからこそ、次に何を確かめればいいのかを、昨日より少しだけはっきり教えてくれていた。




