第170話 境目を知りたいからこそ、真ん中を急いで試す前に昨日の反応が残っていないか確かめる
翌朝、生活観測区画の窓には薄い雲を通した柔らかな光が差し込んでいた。
昨日より空気は少し冷えている。庭の植え込みには朝露が残り、風が通るたびに濡れた葉が擦れ合う小さな音が聞こえた。窓辺へ置かれた練習帳の表紙にも淡い光が落ちていたが、アリシアは目を覚ましてすぐにはそちらを見なかった。
昨日の冷たさを、まだ覚えている。
五呼吸で立ち上げた東側の変化。
目標幅へ到達した直後、胸の中央より少し右へ触れた冷感。
一度だけ走った、ごく小さな震え。
そして東という方向感覚。
思い返すだけで、嬉しさが少し戻ってくる。
けれど今朝。
実際の胸には何もなかった。
アリシアは寝台の中でゆっくり呼吸を整え、それから胸へ右手を置いた。冷感も震えもなく、痛みや苦しさもない。腕の重さもなく、頭痛もない。
それでも、手を離す前に少しだけ考えた。
昨日感じた場所を、探していないか。
今朝も何か残っていてほしいと思っていないか。
「……ちょっと探してた」
『自己申告が早くなったわね』
足元で丸くなっていたノアが、尻尾だけを一度動かした。
「起きてた?」
『あなたが胸を触るより前から』
「また見てたの」
『昨日“嬉しい十”とか言ってた人が、今朝どんな顔で起きるのかは少し興味があったもの』
「観測対象みたいに言わないで」
『学院長よりは面白いわ』
「学院長に聞かせたい」
『やめなさい』
アリシアは少し笑ってから、胸から手を離した。
「今は全部ゼロ。疲労一」
『中間速度をやりたい気持ちは?』
答える前から分かっている。
「九」
『怖さ』
「二」
『今日また空けるって言われたら?』
少しだけ眉が寄る。
「嫌は……四」
『昨日より一つ低い』
「昨日、五で感じたから」
『だから余計にやりたくなりそうなのに?』
「やりたいは九のまま。でも」
アリシアは昨日の試験記録を思い浮かべた。
五呼吸。
十八呼吸。
その間。
例えば十呼吸。
九かもしれない。
十二かもしれない。
どこかに、自分が感じる側と感じない側の境目があるかもしれない。
それを早く見たい。
けれど。
「昨日、明確に反応したから」
『ええ』
「今日すぐ真ん中やったら、昨日の影響が残ってるかもしれない」
『自分で言えた』
「学院長にも言われたから」
『それでも昨日ならもっと嫌がってたでしょう』
「昨日、休んでも自然変動取れたし」
『学習してるじゃない』
「六割?」
『今日は八割』
「増えた」
そこで隣の寝台から、布団が擦れる音が聞こえた。
「……九?」
アリシアは笑いながら振り返る。
「今日はちゃんと起きてた?」
「今起きた」
「また九だけ?」
「中間も聞こえた」
『進歩したわね』
子供は眠そうな目で身体を起こした。
「今日は中間?」
「まだ分からない」
「やりたい九」
「うん」
「怖さ二」
「うん」
「昨日感じた」
「うん」
「だから今日やる?」
「だからこそ、今日はやらないかもしれない」
子供の眉が少し寄った。
「逆?」
「ちょっとね」
「どうして?」
「昨日の反応が、今日まで残ってるかもしれないから」
「今ないのに?」
「私が感じてないだけで、六つ目の方に何か残ってるかもしれない」
「昨日もそれ言った?」
「前にも似たこと言った」
子供は少し考え込んだ。
「感じないと、ないは違う」
「うん」
「でも、いっぱい違う」
「何が?」
「感じないとないは違う。今ないと昨日なかったも違う。明日も同じか分からない」
「そうだね」
『この区画、朝から哲学みたいになってきたわね』
「ノア何て?」
「難しいって」
『言ってない』
子供が少し笑ったあと、隣の寝台へ顔を向けた。
「おはよう」
顔のない存在は今朝も横になっていた。
胸の十一の光のうち、今朝は一つがはっきり明るく、もう一つがそれより弱く光っている。
子供はすぐに「二つ」と言わなかった。
しばらく見ている。
「一つ?」
アリシアが尋ねると、子供は首を傾げた。
「一つは明るい。もう一つは少し」
「昨日までなら二つって書いてた?」
「うん。でも今日は違って見える」
「じゃあ?」
「一つ明るい。一つ少し明るい」
子供は十一の丸が描かれた紙を取り出し、位置と明るさを分けて印をつけた。
「数だけじゃなくしたんだ」
「昨日、三つでも同じ三つか分からなかったから」
「そっか」
「今は一つと、少し一つ」
それ以上の意味はつけない。
子供は足裏を確認し、痛みも赤みもないことを確かめてから床へ下りた。
そして。
今朝は真っ先に木箱へは行かなかった。
先に机の上へ置いた二枚の紙を見る。
一枚は自分で描いた線。
もう一枚は、記録用魔導具で複写した黒い物体表面の線。
「先生に見せたい?」
アリシアが尋ねる。
「今は八」
「怖さは?」
「二」
「今日見せたい?」
子供は少し考えた。
「六」
「昨日は四だったね」
「上がった」
「どうして?」
「一晩見ても、まだ読んでほしいから」
「そっか」
「でも箱は開けない」
「今日は?」
「今は」
子供は複写紙を見た。
「先生に紙見せるだけなら、黒いの動かさない」
アリシアの目が少し動いた。
「一個だけ?」
「うん」
『完全に昨日の影響受けてるじゃない』
「ノアが真似したって」
「真似?」
「悪い意味じゃないよ」
『勝手に修正しないで』
◇
朝食の途中で学院長が来ると、子供は今朝も迷わず尋ねた。
「何時間?」
「七時間十分」
即答だった。
今度はアリシアの方が先に笑った。
「もう準備してきてるでしょ」
「聞かれる前提で寝た時間を覚えてるだけだ」
『完全に観測対象になったわね』
「ノアが負けを認めろって」
「誰に負けたんだ俺は」
子供は少し考えた。
「昨日より二十分多い」
「そうだな」
「眠気?」
「一」
「頭痛?」
「ゼロ」
「仕事したくなさ?」
学院長が少し黙った。
「……一」
アリシアが笑いを堪えきれず、匙を置いた。
「下がってる」
「今日は話が進んでいるからな」
「仕事したくなさも研究結果で変わる?」
「人間だからな」
『便利な逃げ方覚えたわね』
しばらく朝の軽いやり取りが続いたあと、学院長が本題へ移った。
「アリシア。夜間記録だが、身体側には異常なし。東側奥部も大きな自然変動はなかった」
「西も?」
「静穏だ。名前のない光も位置変化なし。小空洞も目立った周期反応なし」
「じゃあ」
アリシアが言いかける。
「中間速度はできる?」
「できるかどうかなら、設備上はできる」
学院長の返答は早かった。
「やるかどうかは別?」
「そうだ」
「今日の第一案は?」
「刺激なし」
やはり少しだけ胸が沈む。
けれど、昨日の朝ほどではない。
「理由は、昨日感じたから?」
「大きい理由の一つだ」
「身体は今平気」
「それも分かっている」
「でも六つ目側に残ってるかも」
「そうだ。さらに言えば、昨日の反応でアリシア自身の期待がかなり上がっている」
「期待?」
「昨日、嬉しい十だったそうだな」
アリシアの顔が赤くなる。
「誰から聞いたの」
『私じゃないわよ』
「記録に残しただろ」
「……残した」
「今朝、中間速度への参加意思は?」
「九」
「反応してほしい気持ちは?」
少し答えに詰まった。
「……ある」
「どのくらい」
「八くらい」
「高いな」
「だって境目見たい」
「その期待自体が悪いわけじゃない。だが、中間速度を試すなら、本人が“来るかもしれない”と強く探している状態も記録条件になる」
アリシアは少し眉を寄せる。
「期待があると、感じた気になるかもしれない?」
「可能性の一つだ」
「昨日も期待九だった」
「そうだな」
「じゃあ今日も同じ九なら近い?」
「数値だけならな」
「でも反応してほしい気持ちは昨日より強いかも」
「そこだ」
アリシアは黙った。
昨日。
五呼吸の試験を始める前は、感じるかもしれないと思っていた。
けれど、実際に感じたあと。
今度は「中間でも来てほしい」という気持ちがある。
境目が知りたい。
どこまでなら感じるのか知りたい。
それは、単に情報を知りたいだけではなく、少し結果を期待する気持ちへ変わっている。
「じゃあ今日は、期待を下げる日?」
「違う」
学院長はすぐ否定した。
「期待を下げるために一日使う必要はない。今の期待が八なら八として残す。明日も八かもしれないし、九になるかもしれない」
「じゃあ何するの?」
「昨日の反応後、刺激なしでどう推移するかを見る。自然変動が起これば照合する。身体と神器周辺の状態も通常記録する」
「また非刺激観測日」
「名前はそのままだ」
「休みつつ見る日の方がいい」
「正式資料にその名前は入れん」
『まだ争ってるの?』
子供が朝食を食べながら聞いていた。
「今日は中間やらない?」
「今の第一案ではな」
「アリシア嫌?」
アリシアは自分へ問いかける。
昨日なら。
ここですぐ不満を言ったかもしれない。
今日も不満はある。
中間速度を試したい。
五と十八の間を見たい。
けれど。
「嫌は四」
「でも納得?」
「七」
「足したら十一」
「だから足さないって」
子供が笑った。
学院長も少し笑う。
「午前会議で正式決定する。ただ、今日はもう一つ別のことを進めてもいい」
「何?」
学院長の声が少し変わった。
「木箱の複写記録を、古文字担当へ見せる案が出ている」
子供の手が止まった。
「紙だけ?」
「ああ。箱本体には触れない。中身もこれ以上動かさない」
「先生来る?」
「この区画へ一人だけ来てもらうことはできる」
「誰?」
「古代文字と遺物記録を扱っている教師だ」
「知ってる?」
アリシアが尋ねる。
「顔は見たことある。話したことは少ない」
「怖い?」
「多分、怖くない」
「多分」
「先生だいたい怖くない」
『学院長は?』
「学院長も今は怖くない」
「今は、が余計だ」
子供が少し笑った。
「見せたい六」
「今?」
「うん」
「じゃあ午前会議で、それも決めよう」
◇
刺激試験を行わない方針は、午前の会議で正式に決まった。
アリシアは少しだけ肩を落としたが、昨日のように長く引きずることはなかった。
「中間速度は次の第一候補のまま?」
「はい」
サーラが答える。
「昨日の五呼吸条件と、十八呼吸条件の中間をどこへ置くかも含めて検討します」
「十呼吸?」
「まだ決めません」
「九?」
「だから決めません」
「十二?」
「アリシアさん」
「分かった」
若い観測員が横で笑いを堪えている。
「何」
「いや、昨日より境目探しに前のめりだなと思って」
「そっちもでしょ」
「俺は十呼吸派です」
「決めてるじゃん」
サーラが二人を見る。
「二人とも、今日は速度を決める会議ではありません」
『似た者同士ね』
「ノアが褒めてる」
『褒めてない』
会議の後半では、昨日の反応後に何を観測するかが整理された。
身体状態は朝、昼、夕方、夜。
胸部冷感。
震え。
痛み。
苦しさ。
腕の重さ。
魔力循環。
加えて今日は、何も起きていないときに「昨日感じた場所を探したくなる気持ち」も簡単に記録することになった。
「それも?」
アリシアが少し嫌そうな顔をする。
「意識の偏りを見るためです」
「今は?」
「どのくらい探したいですか?」
アリシアは胸を見下ろした。
「三」
「朝より下がった?」
「朝は四くらいだったと思う」
「記録します」
「恥ずかしい」
「研究参加者の心理状態としては重要です」
『“反応してほしい八”も残ってるんだから今さらでしょう』
「ノアうるさい」
それから木箱の複写紙について、子供本人の意思確認が行われた。
「今日は箱を開けない」
子供が先に言う。
「はい」
「紙だけ見せる」
「はい」
「先生が読めるって言っても、すぐ箱をもっと開けない」
「はい」
「先生が見たいって言っても?」
古文字教師はまだ来ていない。
サーラが答える。
「その場では進めません。まず子供さんと相談します」
「先生だけ決めない?」
「決めません」
「じゃあ見せたい六」
「怖さは?」
「三」
「どうして朝より上がった?」
「知らない先生来るから」
「分かりました」
子供の意思が確認され、昼前に古文字担当教師が生活観測区画へ来ることになった。
◇
午前中、アリシアは通常授業へは行かなかった。
刺激試験こそないものの、昨日の反応後観測をできるだけ生活観測区画内で揃えたいという判断だった。
その代わり、教科書と課題を広げる。
「授業行きたかった?」
子供が尋ねる。
「今日は四くらい」
「昨日六」
「今日は先生来るし」
「箱の?」
「うん。ちょっと気になる」
「アリシアも?」
「六」
「私と同じ」
「そうだね」
『今度は他人の箱まで数値化し始めた』
「気になるだけ」
顔のない存在は午前中、寝台の上で身体を起こしたが、すぐには立たなかった。
胸の十一の光は、朝と同じく一つが明るく、もう一つが弱い。
子供は何度か見たあと、記録紙へ「朝と同じに見える」とだけ書いた。
しばらくして人影が立ち上がった。
一歩。
二歩。
そこで止まる。
今日は二歩だった。
子供は少し残念そうな顔をしたが、すぐ紙へ数字を書く。
「今日は今、二歩」
「嫌?」
「三」
「昨日六だったから?」
「うん。でも今日は二」
「うん」
「あとでまた歩くかも」
「あるね」
「歩かないかも」
「それもある」
子供は二という数字を囲まず、そのまま残した。
◇
古文字担当教師が来たのは、昼食より少し前だった。
扉の外で学院長が名前を告げる。
「エルデン先生だ。古代文字と遺物記録を担当している」
「入っていい?」
子供がアリシアへ聞いた。
「子供がいいなら」
少し考える。
「いい」
扉が開く。
入ってきたのは、白髪交じりの髪を後ろで束ねた細身の男性教師だった。厚い本を何冊も抱えてくるような人を想像していたが、手に持っているのは薄い記録板と拡大用の小さな魔導具だけだった。
「こんにちは」
声も大きくない。
子供の肩が少しだけ緩む。
「こんにちは」
「今日は箱を見ない、と聞いています」
「うん」
「複写した紙だけ」
「うん」
「私は、それを見せてもらいます。分からなければ、分からないと言います」
子供がアリシアを見る。
「分からないも言う先生」
「大事だね」
エルデン教師は少し笑った。
「調査をしていると、分からないと言う回数の方が多いですよ」
「学院長も?」
「学院長は特に多い」
扉の外から低い声が返ってくる。
「聞こえてるぞ」
「知っています」
子供が小さく笑った。
机の上へ複写記録が置かれる。
エルデン教師は、すぐに拡大魔導具を使わなかった。
まず肉眼で見る。
紙全体。
線の方向。
間隔。
子供が自分で描いた絵も並べる。
「こっちは?」
「私が見た」
「こちらは?」
「魔導具」
「別に残したんですね」
「うん」
「良いやり方だと思います」
褒められた子供は少し嬉しそうだったが、すぐに尋ねる。
「文字?」
エルデン教師は答える前に、もう一度複写を見る。
「文字の可能性はあります」
子供の顔が明るくなる。
「読める?」
「今の範囲では読めません」
明るさが少し下がる。
けれど、エルデン教師は急いで続けなかった。
「ただ、文字ではないとも言えません。装飾や識別記号の可能性も残っています」
「何で読めない?」
「見えている範囲が途中だからです。それと、この線の一部は、私が知っている学院地下の古い表記体系とは少し違う」
アリシアが反応した。
「違う?」
「少なくとも、今まで学院地下で記録された代表的な管理刻印とは一致しません」
「じゃあ別の時代?」
「それもまだ言えません」
「別の場所?」
「同じです。まだ言えません」
『慎重すぎて好感持てるわ』
「ノアが好きって」
『そこまで言ってない』
エルデン教師が少し首を傾げた。
「猫は何と?」
「気にしないでください」
「そうします」
子供は複写紙を見つめた。
「もっと見えたら?」
「判断できる情報は増えるでしょう」
「じゃあ布もっと動かす?」
その場の空気が少しだけ変わった。
けれど誰も「そうしよう」と言わなかった。
エルデン教師も、子供へ向かって答える。
「それを今日やるかは、私が決めることではありません」
「読めるかもしれないのに?」
「はい」
「見たい?」
「私は見たいですよ」
子供の目が少し大きくなる。
「先生も?」
「研究者なので」
「何点?」
エルデン教師が一瞬固まる。
アリシアが笑いを堪える。
「この区画、点数聞かれます」
「聞いてはいましたが」
「何点?」
逃げられないと悟ったのか、教師は少し考えた。
「八でしょうか」
「高い」
「でも、今日開けたいは?」
さらに聞かれた。
「……三」
子供の顔が少し明るくなる。
「違う」
「はい。見たい気持ちと、今日進めたい気持ちは別です」
アリシアが思わず子供を見る。
子供もこちらを見た。
「みんな同じ」
「そうだね」
エルデン教師は複写紙へ目を戻した。
「今の範囲で一つだけ言えるなら、線が偶然の傷だけでできている可能性は、以前より低く見えます。ただし、“文字だ”とはまだ記録しない方がいい」
「文字候補?」
「“規則性のある線刻候補”くらいでしょうか」
「固い」
アリシアが言う。
エルデン教師が少し笑った。
「学術用語は大体固いです」
『非刺激観測日と仲間ね』
「ノアが仲間だって」
「何の話ですか?」
「気にしないで」
◇
昼食後。
古文字教師が帰ったあとも、子供はすぐ木箱を開けなかった。
複写紙へ新しい一文を書き足す。
『先生も文字かもしれない。でもまだ読めない』
少し考えてから、「文字」の横へ小さく「かも」と付け足す。
「見たいは?」
アリシアが聞く。
「九」
「上がった」
「先生も見たい八だった」
「それ関係ある?」
「ちょっと」
「怖さは?」
「二」
「今日箱開けたい?」
「五」
「上がったね」
「うん」
「どうする?」
子供は箱を見る。
しばらく見ていたが、首を横へ振った。
「今日は紙だけって決めたから、今は開けない」
「気持ち変わったら開けてもいいんだよ?」
「うん。でも今は、開けない方がいい七」
「どうして?」
「先生来て、気持ち上がったから」
アリシアは少し驚いた。
「興奮してる?」
「たぶん」
「何点?」
「七」
『完全にあなたの“やりすぎそうな気持ち”が移ってるじゃない』
「悪くないでしょ」
『悪くはないけど、会話が全部数字になるのは勘弁して』
「ノア嫌は?」
『九』
子供とアリシアが同時に笑った。
◇
午後。
刺激を入れていない東側奥部に、小さな自然変動が起きた。
アリシアはそのとき、教科書を読んでいた。
通信具が弱く光る。
『東側奥部、自然変動を確認』
胸へ手を伸ばしたくなる。
けれど、手は膝の上に置いたまま。
「今、探したい気持ち四」
自分から言う。
サーラの声が返る。
『身体感覚は?』
「今はなし。冷たさゼロ。震えゼロ。方向なし」
『期待』
「七」
自然変動は、昨日までの持続型よりさらに小さかった。
立ち上がりは緩やか。
最大低下幅も小さい。
八呼吸ほどで底へ届き、そのまま数呼吸だけ留まり、また戻る。
アリシアには何も起きない。
「八呼吸?」
数字だけを聞いて、胸が少し騒ぐ。
五では感じた。
十八では感じなかった。
八。
その間に近い。
「今のは速度比較になる?」
アリシアが尋ねる。
通信の向こうで少し間があった。
『なりません』
サーラの答えは明確だった。
「どうして?」
『最大低下幅が昨日の人工条件よりかなり小さいです。維持時間も違います』
「速度だけじゃない」
『はい』
アリシアは少し残念そうに息を吐いた。
「八なのに」
『数字が同じでも条件が違います』
「分かってる」
若い観測員の声が入る。
『でも参考記録にはなります。立ち上がり八呼吸程度、低下幅小、自覚反応なし』
「中間っぽいけど、中間試験じゃない」
『そうです』
「使えない?」
『使えないではなく、別の記録として使います』
アリシアは少しだけ笑った。
「何も捨てないね」
『捨てる必要がないものは』
自然変動が基準へ戻る。
最後まで冷感も震えもなかった。
反応してほしい気持ちは、少し下がっていた。
「今、六」
『期待?』
「うん」
『がっかり?』
「三。でも」
アリシアは教科書の端を指で撫でた。
「八呼吸だから感じなかった、とは言えない」
『はい』
「弱かったからかもしれない」
『はい』
「また条件混ざってる」
『その通りです』
「だから人工で揃える」
『そのための中間速度試験です』
試験をしなかった日に。
中間に近い時間の自然変動が来た。
それでも答えにはできない。
以前なら、もどかしさの方が強かったかもしれない。
今は少し違う。
「分けられない記録は、分けられないって残す」
『はい』
アリシアは自分の練習帳の端へ、そのまま書いた。
◇
夕方の整理では、今日の自然変動も正式に並べられた。
立ち上がり、およそ八呼吸。
最大低下幅は昨日の五呼吸人工条件より明確に小さい。
維持時間も短い。
アリシア自覚反応なし。
「一見すると、五で感じて八で感じなかった」
若い観測員が言う。
「でも比較できない」
アリシアが先に続ける。
「低下幅が違う」
「維持も違う」
「だから中間速度の答えにはしない」
「はい」
サーラが記録をまとめる。
「ただし、自然状態で八呼吸程度の緩やかな変化に無反応だった事実は残します」
「中間試験、やっぱり必要」
「必要性は高いです」
「明日?」
学院長がこちらを見る。
アリシアも、自分で笑った。
「聞くだけ」
「夜間記録と身体状態を見てからだ」
「今日刺激してない」
「そうだな」
「昨日の反応から一日空けた」
「そうだ」
「自然変動はあったけど人工刺激なし」
「ああ」
「じゃあ明日できる可能性は上がった?」
「上がった」
その言葉だけで、アリシアの顔が少し明るくなる。
「どのくらい?」
「数字にするな」
「六?」
「しない」
『学院長だけ数字文化から逃げようとしてる』
「仕事したくなさは言ったのに」
「それとこれは別だ」
若い観測員が小さく笑う。
「俺は明日七割くらいだと思います」
「言わなくていい」
「ほら七」
「学院長じゃなくてあいつの予想だ」
「でも七」
「決定ではない」
「分かってる」
アリシアは笑った。
今度は、本当に分かっていた。
◇
夕食前。
顔のない存在がもう一度立ち上がった。
午前は二歩。
今度は、子供が何も言わずに見守る。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
そこで少し止まり。
五歩目は来なかった。
人影はその場へ座った。
「今は四」
子供が記録する。
胸の十一の光は、朝より少し変わっていた。
はっきり明るいものが二つ。
弱いものが一つ。
「二つ明るい。一つ少し」
以前なら「三つ」とだけ書いたかもしれない。
今は分けて残す。
「朝は?」
アリシアが聞く。
「一つ明るい。一つ少し」
「変わった?」
「見える範囲では」
「東の自然変動と近い?」
アリシアが言った瞬間、子供がこちらを見る。
「つなぐ?」
「あ」
自分で気づいた。
「今のは、まだつながない」
「時間近い?」
「少し近いかもしれない。でも」
「同じだからって関係あるとは分からない」
「うん」
『危なかったわね』
「ノアが止めたって」
『あなたが自分で止まったでしょう』
子供は十一の光の紙へ位置だけを記入し、東側の紙とは重ねなかった。
◇
夜。
子供は木箱を開けなかった。
昼の複写紙と、自分の絵と、エルデン教師が書いた短い所見を三枚並べていた。
『規則性のある線刻候補。文字、装飾、識別記号などの可能性。現時点では判読不能』
子供はその一文を何度も見た。
「難しい?」
「文字多い」
「読む?」
「うん」
アリシアがゆっくり読み上げると、子供は最後まで聞いた。
「分からないって書いてある」
「うん」
「でも、ちょっと分かった」
「そうだね」
「明日、箱開けたい?」
「今は七」
「先生にまた見せたい?」
「六」
「黒いの触りたい?」
「五」
「昨日より下がった」
「今日は紙いっぱい見たから」
子供は少し考えた。
「明日は、布もう少し動かすかも」
「決めた?」
「まだ」
「じゃあ?」
「明日の私」
アリシアが笑う。
「私も」
「中間?」
「今は九」
「怖さ?」
「二」
「明日?」
「明日の私」
子供は嬉しそうに笑った。
「でもできる可能性上がった」
「聞いてた?」
「七」
「学院長は七って言ってないよ」
「若い人」
「そっち覚えてたの」
『都合のいい数字だけ記憶する区画ね』
◇
子供が眠ったあと、アリシアは練習帳を開いた。
今日は刺激試験なし。
朝、中間速度を試したい九。
反応してほしい気持ち八。
昨日の反応を探したい気持ち、朝四。
身体異常なし。
昼前。
木箱の複写記録を古文字教師へ提示。
箱本体は開けず。
線は規則性のある線刻候補。
文字の可能性あり。
ただし判読不能。
午後。
東側奥部へ自然変動。
立ち上がり約八呼吸。
最大低下幅小。
維持短。
自覚反応なし。
中間速度の比較には使用できない。
そこまで書いたあと。
アリシアは少しだけ筆を止めた。
今日。
朝の自分は、中間速度を試したかった。
五と十八の間。
境目が見える気がしていた。
それなのに、試験はしなかった。
代わりに自然変動が来た。
しかも、立ち上がりだけ見れば八呼吸。
数字だけなら、まさに知りたかった範囲に近い。
けれど。
強さが違った。
維持時間も違った。
だから、答えには使わない。
アリシアは少し考えてから書いた。
『今日は、知りたかった数字に近い自然変動が来た。でも、速さ以外の条件が違うから、中間速度の答えにはしなかった。前なら“八で感じなかった”って急いで考えたかもしれない』
さらに続ける。
『境目を知りたいからこそ、境目っぽい数字が出たときに急いで答えにしない方がいい。五と十八の間を本当に比べるなら、ほかを揃えてから見る』
『長い』
ノアがいつもの場所から言う。
「今日は短い方」
『基準がおかしくなってるわ』
「ノア」
『何?』
「今日、中間やらなかったの」
『ええ』
「朝はちょっと嫌だったけど」
『ええ』
「今は、よかったかも」
『自然変動が来たから?』
「それも。でも」
アリシアは今日の記録を見る。
「八呼吸の自然変動が来て、感じなかった。でも条件違うって分かったから」
『うん』
「もし今日中間試験もやってたら、自然変動と近くなって、また分かりにくくなったかもしれない」
『そうね』
「休む日、二回目だけど」
『慣れてきた?』
「嫌は二」
『かなり下がったじゃない』
「やりたい九は変わらない」
『そこは立派に残るのね』
「明日できたら嬉しい」
『できなくても?』
アリシアは少し考えた。
「嫌は上がると思う」
『正直でよろしい』
「でも、今日みたいに何か取れるかもしれない」
『取れなくても一日は一日よ』
アリシアは少しだけ目を瞬いた。
「何も取れなくても?」
『あなた昨日、“調査だけの人になりたくない”って言ったでしょう』
「うん」
『なら記録が増えない日だって、別に失敗じゃない』
アリシアはしばらく黙った。
それから練習帳の最後へ、小さく一行だけ足した。
『何も起きない日まで、無理に役立つ日にしなくていい』
ノアが覗き込む。
『珍しく短い』
「強調」
『それなら許す』
◇
夜半。
東側奥部は、午後の小さな自然変動以降、静穏を保っていた。
名前のない光は位置を変えない。
小空洞にも新しい周期反応はなく、西側補助連絡線にも目立った対応波形は出ていない。
アリシアの身体にも、昨日の五呼吸条件で感じた冷たさや震えが再発することはなかった。
今日は、中間速度を試さなかった。
五呼吸で感じた。
十八呼吸では感じなかった。
その間にある境目は、まだ分からない。
午後には八呼吸程度で立ち上がる自然変動も起きたが、最大低下幅も維持時間も違っていたため、中間速度試験の代わりにはならなかった。
だから。
五で感じた。
八で感じなかった。
十八で感じなかった。
そんな簡単な並べ方はしない。
比べたいのは速度だ。
なら、速度以外をできるだけ揃えなければならない。
知りたい数字に近いものが現れたからといって、それを欲しかった答えへ無理に当てはめない。
それは昨日、一つの条件だけを動かしたからこそ分かるようになったことだった。
木箱もまた、今日は一段階だけ進んだ。
蓋は開けなかった。
黒い物体にも触れない。
代わりに、すでに得た複写記録を別の人へ見せた。
その結果、表面の線には規則性がある可能性が高まり、文字かもしれないという候補も残った。
それでも。
まだ読めない。
まだ何を意味するか分からない。
だから、黒い物体の正体も分からないままだ。
顔のない存在の十一の光は、数だけでなく明るさの違いまで記録され始めた。
朝は一つが明るく、一つが弱かった。
夕方は二つが明るく、一つが弱かった。
東側の自然変動と時間が近く見えた瞬間もあったが、それだけで関係があるとはしなかった。
どれも。
一歩進んでいるようで。
すぐ答えには届かない。
けれど、答えへ届かないからこそ。
何をまだ知らないのかが、少しずつはっきりしていく。
アリシアは眠りにつく前、自分の胸へ一度だけ右手を置いた。
今夜も静かだった。
明日の朝、身体状態が同じなら。
夜間記録に問題がなければ。
東側にも急ぐ変化がなければ。
今度こそ、五と十八の間にある速度を一つ選ぶことになるかもしれない。
中間。
境目。
六つ目が拾う変化の速さ。
考えるだけで、知りたい気持ちはまだ九だった。
それでも。
今夜のうちに答えを決める必要はない。
明日の身体。
明日の東側。
明日の気持ち。
それをもう一度見てから決めればいい。
窓の外では、弱い風が木の葉を揺らしていた。
アリシアは目を閉じる。
境目を知りたいという気持ちは、そのまま胸に残っている。
だからこそ。
境目らしく見えるものへ、急いで答えという名前を付けない。
その慎重さもまた。
昨日までには持っていなかった、新しい一つの力だった。




