第169話 比べたい違いが一つなら、ほかの違いまで一緒に動かさない
翌朝、アリシアが目を覚ましたとき、窓の外では昨日ほど強い風は吹いていなかった。
庭の木々は時折、思い出したように葉を揺らす程度で、薄い雲の隙間から差し込む朝日は、生活観測区画の床へ淡い長方形を作っている。昨日一日、刺激試験を行わなかったからといって、窓から見える庭も、棚の位置も、机の上へ積まれた記録紙も、目に見えて変わったわけではない。
けれど、アリシアの中には昨日までと少し違うものが残っていた。
寝台の中で天井を見上げ、ゆっくり一度呼吸をする。それから胸の中央へ右手を置き、自分の内側を確かめる。冷感も震えもなく、痛みも苦しさもなかった。
そこまで確認すると、今朝は長く探すようなことをせず、すぐに手を離した。
『短い』
寝台の足元で丸くなっていたノアが、片目だけを開いて言った。
「何が?」
『確認。昨日はもう少し長かったでしょう』
「昨日、長いって言ってたじゃん」
『だから今日は短くて感心したのよ』
「褒めてる?」
『六割くらい』
「また微妙」
『残り四割は、どうせ頭の中で速度試験のことを考えてるでしょうから』
アリシアは反射的に言い返しかけたが、口を開く前に思い直した。否定できないことくらい、自分でも分かっている。
『図星ね』
「……うん」
昨日は、立ち上がり速度を変えた試験を早く行いたいと思いながら、一日刺激を入れずに過ごした。朝の時点では、正直に言えば不満があり、たった一日でも待つ分だけ、六つ目の神器の正体から遠ざかるように感じていた。
ところが夕方、人工刺激を行っていない状態で東側奥部に緩やかな自然変動が起こり、その間、アリシア自身には何の自覚反応も出なかった。人工的に作った持続型寄りの変化でも感じず、自然に起きた持続型寄りの変化でも感じなかった。
一方で、これまで冷たさや震えを感じた複数の例では、比較的急な変化が起こっている。ただし、そのときは変化量まで大きい場合が多かったため、強さなのか速度なのか、あるいは両方なのかは、まだ切り分けられていない。
「速度、見たい」
アリシアがぽつりと言う。
『知ってる』
「今日の今は……九」
『昨日寝る前も九だったでしょう』
「でも、これは今日の九」
『怖さは?』
「二」
『疲労』
「一」
『今日も試験をやらないって言われたら?』
少し考えただけで、胸の奥に分かりやすい不満が浮かんだ。
「嫌は……五」
『昨日より上がってるじゃない』
「だって昨日、一日空けたから」
『一日空けたから今日は必ずできる、とは限らないわよ』
「分かってる」
『本当に?』
疑わしそうな金色の目を向けられ、アリシアは少し口を尖らせた。
「分かってるから、学院長が来るまで勝手に準備したりしないで待ってるんでしょ」
『偉い偉い』
「雑」
そのやり取りの途中で、隣の寝台から小さな寝返りの音がした。
「……九?」
布団から顔だけを出した子供が、眠そうな目をこちらへ向けている。
アリシアは思わず振り返った。
「またそこだけ聞いたの?」
「今起きた」
「本当に?」
「九って聞こえた」
『本当に数字だけ拾うのが上手いわね』
「おはよう」
「おはよう」
子供は目を擦り、それからアリシアの胸元を見る。
「今日は何もない?」
「今は何もないよ」
「速度やりたい?」
「九」
「怖さ二?」
「うん」
「今日やる?」
「まだ決まってない」
子供はしばらく考え、布団を押し下げながら首を傾げた。
「昨日休んだ」
「うん」
「だから今日はできる?」
「私はそう思いたいけど、それだけで決めない」
「身体?」
「それも見る」
「東は?」
「それも」
「夜、何かあった?」
アリシアは机の上に置かれた朝の報告書へ視線を向けた。
「まだ読んでない」
「先に自分見た?」
「うん」
「今日は早かった」
「ノアにも言われた」
『褒めたのよ』
「六割だけね」
子供が少し笑い、それから隣の寝台へ顔を向ける。
「おはよう」
顔のない存在は、今朝も横になったままだった。胸にある十一の光のうち、最初から二つがほんの少し明るい。
子供はすぐに記録へ手を伸ばさず、しばらく待った。三つ目は明るくならず、そこでようやく小さな記録紙へ印をつける。
「今は二つ」
昨夜も、明るい光は二つだった。
「昨日と同じ?」
アリシアが何気なく尋ねると、子供は少し眉を寄せた。
「数は二つ。でも、今の二つ」
「うん」
「昨日と同じ場所?」
十一の光をじっと見つめたものの、正確な位置まで覚えているわけではない。
「……分からない」
「なら?」
「今は二つ明るい」
それだけで終える。
寝台を下りた子供は、左右の足裏を確認した。赤みはなく、押しても痛くない。足首を回し、床を数歩歩いてから、小さく頷く。
「大丈夫」
「あとでセレナにも?」
「見るだけ」
「うん」
その確認を終えると、子供の視線は自然に木箱へ向かった。
昨日は一度も蓋を開けていない。その前の日までに、茶色い布状のものの下へ黒い物体があり、その表面へ文字か模様か分からない細い線が刻まれていることまで分かっていた。
見たい気持ちは、昨夜の時点で九だった。
「今は?」
アリシアが尋ねる。
子供は箱を見たまま答えた。
「九」
「怖さは?」
「二」
「黒いの、触りたい?」
「六」
「線をもっと見たい?」
「十」
アリシアが少し目を見開く。
「昨日の朝も十だったね」
「うん」
「今日は?」
「今日の十」
「どうする?」
子供は木箱と食卓を交互に見て、迷う様子もなく答えた。
「朝ごはん」
『そこだけは本当に揺るがないわね』
「お腹すいた」
「私も」
◇
朝食が半分ほど進んだ頃、学院長が生活観測区画の扉の外へやってきた。
今朝は、子供より先にアリシアが足音へ気づいた。
「学院長?」
「いる」
それでも先に尋ねたのは、やはり子供だった。
「何時間?」
「六時間五十分」
間髪を入れず答えが返ってくる。
生活観測区画が一瞬だけ静かになり、アリシアは匙を持ったまま目を瞬いた。
「早い」
「聞かれると分かっていたからな」
『もう“俺は観測対象じゃない”って抵抗するのを諦めたのね』
「ノアが成長したって」
「その訳は絶対に違うだろ」
子供は満足そうに頷いた。
「昨日より十分多い」
「そうだな」
「今は六時間五十分」
「そうだな」
「大丈夫?」
学院長は少しだけ間を置いた。
「眠気一。頭痛ゼロ。仕事したくなさは二」
アリシアが吹き出す。
「そこも数字にするの?」
「最近、お前たちに囲まれているとな」
『感染したわね』
「便利でしょ」
「便利な部分もある」
軽い笑いが落ち着くまで待ってから、学院長の声が少し真面目なものへ変わった。
「アリシア。夜間記録に大きな変化はなかった」
「東側も?」
「ああ。奥側新反応は基準範囲で、名前のない光も移動していない。小空洞の周期反応もなく、西側補助連絡線も静穏だ」
アリシアの背筋が少し伸びる。
「じゃあ、速度?」
「今日検討する条件としては第一候補だ」
表情が目に見えて明るくなる。
けれど、学院長はすぐ続きを告げた。
「ただし、昨日の時点から一つ修正案が出ている」
「何?」
「速い変化と遅い変化を、同じ日に両方試さない」
アリシアは瞬きをした。
「比べるのに?」
「ああ」
「二つやらないと比べられないんじゃない?」
「遅い側には、すでに過去の持続型寄り記録がある」
「昨日の自然変動もある」
「そうだ」
「じゃあ今日は、速い方だけ?」
「今の第一案ではな」
アリシアは匙を器へ置いた。
「どうして一個だけ?」
「比べたいのが速度だからだ」
「それなら同じ日に遅いのと速いの両方をやった方が、もっと分かりやすくない?」
「一見はな」
学院長はすぐ否定せず、一度言葉を選んだ。
「だが、一日に二回刺激を入れれば、一回目の影響が二回目へ残っていないと証明できない。速い方を先にしたか遅い方を先にしたかでも条件が変わるし、朝と昼ではアリシア自身の疲労も、期待も、緊張も変わる」
「だから一日一条件」
「今のところ、それが一番比較しやすいと考えている」
理屈は分かる。
それでもアリシアは少し残念そうな顔をした。
「遅い方はもうあるのに」
「あるからこそ、今日はそこへ一つだけ新しい記録を足す」
「速い方」
「ああ」
「強さは同じ?」
「そこが今回一番重要なところだ」
学院長の声が慎重になる。
「今までの急変例と持続例では、立ち上がり速度だけじゃなく、最大低下幅も違っていた。今日は、以前の持続型人工試験とできるだけ同じ最大低下幅になるよう調整し、立ち上がり時間だけを短くする」
「最大まで下がったあとの長さは?」
「そこも可能な限り揃える」
「じゃあ、変えるのは速さだけ?」
「完全に一項目だけにできる保証はない。地下設備は理想的な実験器具じゃないからな」
「でも、できるだけ」
「そうだ」
アリシアは数秒、黙って考えた。
昨日まで「速度を見たい」と言っていた。けれど、今日の案は、ただ速い刺激を入れるだけではない。強さをなるべく同じにし、維持時間も揃え、その上で立ち上がりだけを変える。
「これ、かなり見たい」
「知ってる」
「九・五」
「増えたな」
「だって、昨日までは強さと速度が混ざってたから」
「ああ」
「今日、強さを揃えて速度だけ急にして、それで私が感じたら……」
一度言葉を止め、答えを急がずに考える。
「速度が関係してる可能性が上がる」
「そうだ」
「感じなかったら?」
「速度だけでは説明できない可能性が上がる」
「どっちでも進む」
「そういうことだ」
子供も食事の手を止め、二人の話を聞いていた。
「一個だけ変える?」
「うん」
「箱も?」
アリシアは子供を見る。
「何?」
「今日、私も一個だけ?」
「それは子供が決めることだよ」
子供はすぐには答えなかった。
「あとで考える」
「うん」
学院長が話を戻す。
「正式実施は午前の会議で決める。それまでは通常通り過ごせ」
「普通の授業?」
「今日は午前に一時限だけ出る案もある」
「また?」
「昨日、問題なく参加できたからな」
「でも、そのあと試験もする?」
「授業から戻ってすぐ刺激、という流れにはしない。十分以上休ませて、状態を取り直す」
「教室で緊張したら変わるかも」
「だから記録する」
アリシアは少し考えた。
昨日は久しぶりの教室が怖くて、最初の怖さが四を超えていた。それでも授業の終わりには二まで下がった。
「授業、今日は行きたい六」
「昨日より上がったな」
「昨日、最後は平気だったから」
「今考えたときの怖さは?」
「三」
「行きたい?」
「うん」
「なら午前一時限だけ参加しよう」
子供が嬉しそうに笑う。
「アリシア、学生も今日ある」
「うん」
昨日と同じ言葉なのに、今日も少し嬉しかった。
◇
朝食を終えたあと、子供は木箱の前へ座った。
今朝は、蓋そのものを開けることにはほとんど迷いが見られなかった。だからといって雑になったわけではなく、手順は以前と同じように一つずつ確かめていく。
蓋を持ち上げると木が擦れる音がして、朝の光が中へ入った。茶色い布状のもの、その下にある黒い物体、昨日描いた線の記録と、今見えている形を順番に見比べる。
「昨日と同じ?」
子供が自分へ聞く。
「外から見えるところは?」
アリシアが尋ねると、子供は少し身を寄せた。
「似てる」
「線は?」
「ある」
茶色い布を、以前とほぼ同じ位置まで動かす。
黒い表面が現れ、細い直線や途中で曲がる線、そのさらに奥へ続く浅い刻みが見えた。子供は身体を少し横へ移し、違う角度から箱の中を覗く。
「あ」
「何か見えた?」
「線、丸いところある」
「丸?」
「完全な丸じゃない。曲がってる」
「文字っぽい?」
子供はしばらく答えず、そのまま見続けた。
「……分からない。でも、線を見たい十」
「うん」
「黒いの触りたい六」
「怖さは?」
「二」
「今日は何をしたい?」
子供の指先が茶色い布へ触れる。
「布を、もう少しだけ動かす」
「黒いものは?」
「触らない」
「どうして?」
「今日は線を見る」
アリシアはほんの少し目を見開いた。
「一個だけ?」
「うん」
黒い物体へ直接手を触れないよう、子供は布の端だけをつまんだ。指一本分ほど、本当に少しだけ横へ動かすと、それだけで黒い面がさらに広く見えた。
「……あ」
子供の呼吸が止まりかける。
刻まれた線が増えた。
ただの傷が偶然いくつも並んでいる、と考えるには、少し規則的すぎる。短い線と長い線、曲線や折れがあり、一部はまとまりを持って並んでいるようにも見えた。
「文字?」
「どう見える?」
「文字っぽい」
「読める?」
子供は首を横へ振る。
「知らない文字」
アリシアも椅子へ座ったまま目を凝らした。
これまで学院地下で確認してきた古い刻印とは、少し形が違って見える。ただし距離があり、今の段階で断言できるほどではない。
「私も今は読めない」
「先生呼ぶ?」
子供の声が少し弾んだが、次の瞬間、その顔が変わった。
「……今日、先生呼ぶ?」
自分で止まったのだと分かったので、アリシアは答えを与えなかった。
「子供はどうしたい?」
子供は黒い線を見る。
「読んでほしい」
「うん」
「今すぐ?」
長い沈黙が落ちた。
線を見たい気持ちは十で、読んでほしい気持ちも強い。それでも、少し考えたあと、子供は首を横へ振った。
「……今すぐじゃなくていい」
「どうして?」
「今日は、布を少し動かして線を見るにした。先生呼んだら、先生が見て、文字かもって調べるから、また一個増える」
アリシアはゆっくり頷いた。
「じゃあ?」
「今日は、文字みたいに見える線が増えた、まで」
「分かった」
子供は少し考え、別のことを口にする。
「写真みたいに残す?」
「複写記録?」
「うん」
「子供が残したいなら」
「残したい」
黒い物体へ触れない距離から、記録用魔導具で外観だけを写し取る。
解析はしない。
誰かに読ませるためでもない。
今日見えた状態を、そのまま残すためだけの複写だった。
記録が終わると、次に布を元へ戻すかどうかを子供自身が考えた。
「今日は、この位置」
「戻さない?」
「うん。私が動かした位置を残す」
「蓋は?」
「閉じる」
子供はゆっくり木箱を閉じた。蓋が下り、黒い物体は再び見えなくなる。
「今、見たいは?」
「八」
「下がったね」
「線いっぱい見えたから」
「怖さは?」
「二」
「先生に読んでほしい気持ちは?」
「七」
「今日見せたい?」
「四」
子供は少し笑った。
「今すぐじゃない」
「うん」
アリシアも笑う。
「私の速度試験と似てるね」
「何が?」
「次に見たいものは分かった。でも、その次まで一緒にはやらない」
「一個だけ」
「うん」
◇
午前の授業は、昨日より少しだけ楽だった。
校舎へ向かう途中、アリシアは昨日声をかけてきた女子生徒とまた顔を合わせた。今度は相手も、昨日のように廊下へ響くほど大きな声を出さなかった。
「おはよう」
「お、おはよう」
アリシアの肩も、昨日ほど大きくは跳ねない。
『怖さ?』
足元を歩くノアが、小さく尋ねる。
「三」
『昨日の最初は四・五』
「今日は今日」
『言うと思った』
女子生徒が少し不思議そうにこちらを見る。
「また数字?」
「うん。最近こうやって言うこと多くて」
「便利なの?」
聞かれ、アリシアは少し考えた。
「便利。自分でも分かりやすいから」
「じゃあ私もやろうかな」
「何を?」
「朝の授業行きたくなさ八」
アリシアが思わず笑った。
「高い」
「眠気七」
『学院長よりよっぽど観測対象に向いてるわね』
「ノアが仲間増えたって」
「猫も数字使うの?」
「ノアは採点する側」
『勝手に役割作らないで』
そんなくだらない話をしながら教室へ入る。
二日続けてアリシアが授業へ来たせいか、昨日ほど多くの視線は集まらなかった。何人かは顔を上げたが、それだけで、その変化だけでもアリシアにはかなり助かった。
今日の授業は制御術式基礎だった。
教師が黒板へ二種類の術式式を書き、複数の条件を同時に変更した場合、結果の原因を特定しづらくなるという基本的な実習理論を説明していく。
「術式の出力が変わったとき、魔力量と構成速度の両方を同時に変えていたら、どちらが原因か判断できるか?」
何人かの生徒が首を横へ振る。
「分かりません」
「そうだ。だから比較するなら、一度に動かす条件はできるだけ少なくする」
アリシアの筆が、そこで一度止まった。
『また地下に結びつけたでしょう』
「今のは仕方ないじゃん」
『授業内容そのものが今やってることと同じだものね』
アリシアはノートへ「一度に変える条件を減らす」と書き、その横へ少し小さな字で「今日の速度試験も同じ」と書き足した。
地下調査ばかりにならないために授業へ戻ってきたのに、授業で学んだことがまた地下調査へつながっている。それでも昨日ほど「これは分けなければいけない」とは感じなかった。
学生として学んだ知識が調査へ役立ってもいいし、調査で経験していることが教科書の意味を分かりやすくしてもいい。どちらかだけが本当の自分というわけではないのだと、今は少しずつ思えるようになっている。
一時限が終わる頃には、怖さは二まで下がっていた。胸部冷感も神器反応もなく、アリシアには昨日より少し周囲を見る余裕があった。
「また明日来る?」
斜め前の男子生徒が尋ねる。
「まだ分からない」
「調査?」
「うん」
「そっか。じゃあ来たら昨日の要約見せて」
「何で?」
「俺、自信ない」
「自分でやって」
「冷たい」
『闇の神器だけに』
「ノア」
「猫、何て?」
「何でもない!」
周囲から笑いが起きる。
アリシアの頬は熱くなった。
けれど、怖さは上がらなかった。
◇
生活観測区画へ戻ると、アリシアはすぐに試験へ入らず、予定通り十分以上の休息を取った。
水を飲み、椅子へ座り、子供へ授業中のことを少し話しながら、心拍が普段の感覚へ戻るまで待つ。それから胸の状態を確かめたが、冷感も震えも頭痛もなく、教室での緊張もほとんど残っていなかった。
そこで初めて、速度比較試験の最終意思確認が行われた。
室内にいる人数は最小限だ。
アリシアと子供、ノア、サーラ、治療教師が中へ入り、学院長と安全管理担当は扉の外へいる。東側と西側の観測班とは通信のみでつながっていた。
「現在の身体状態を確認します」
サーラが記録板を開く。
「痛み」
「ゼロ」
「苦しさ」
「ゼロ」
「頭痛」
「ゼロ」
「腕の重さ」
「ゼロ」
「疲労」
「二」
「胸部違和感」
「なし」
「神器に関係すると思われる感覚」
「なし」
「怖さ」
アリシアは一度、自分の呼吸へ意識を向けた。
「三」
「期待」
「九」
『下がらないわね』
「むしろ朝よりちょっと上がってる」
「参加意思」
「九」
「止めたい気持ち」
少し考える。
「一」
「授業で感じた緊張は残っていますか?」
「ほとんどない。思い出すとちょっと恥ずかしいくらい」
「その感覚と神器反応は区別できそうですか?」
「うん」
サーラが一度頷いた。
「では、本日の目的をアリシアさん自身の言葉でお願いします」
少しだけ緊張する。
けれど、もう他人から説明されたものを繰り返す必要はなかった。自分が何を見たいのかは、自分で分かっている。
「昨日まで、東側奥部が急に変わったときは私も感じることが多くて、ゆっくり変わったときは感じないことが多かった。でも、急なときの方が変化自体も大きいことがあったから、速度が理由なのか、強さが理由なのか分からなかった」
「はい」
「今日は前にやった持続型人工条件と、できるだけ同じ最大変化量にする。維持する長さも揃えて、その代わり、立ち上がる速さだけを早くする」
「その結果、何を確認しますか?」
「私が感じるかどうか。感じたら、東側奥部が変わった時刻とどのくらい近いか」
「西側は?」
「いつも通り見る。でも、西へ反応を出すための試験じゃない」
「名前のない光と小空洞は?」
「通常記録だけ」
「はい」
「今日は一条件だけ」
「その通りです」
アリシアは胸へ右手を置きかけたが、途中で止め、そのまま膝へ戻した。
「今は触らないで始めたい」
「理由は?」
「普段座ってるときに近い姿勢の方がいいから」
「分かりました」
学院長が扉の外から補足する。
「刺激そのものの最大値は、安全確認済みの範囲内だ。前回より強くする試験ではなく、変えるのは立ち上がり時間だけになる」
「どのくらい?」
魔導具教師の声が通信から届いた。
『前回の持続型条件では、目標とする変化量まで約十八呼吸かけています。今日は五呼吸程度まで短くします』
「かなり急になるね」
『ただし瞬間的には変えません。設備側の安全を考えると、五呼吸程度が今回の下限です』
「そのあと維持するのは?」
『前回と同じ十五呼吸』
「戻す速さは?」
『そこも前回と可能な限り揃えます』
アリシアは頷いた。
「分かった」
安全管理担当が最後に確認する。
「本人の最終意思は?」
「やりたいです」
「途中で止めても?」
「大丈夫」
「反応が出ても?」
「痛み一、苦しさ一、怖さ六なら終了。それより低くても、止めたいと思ったら言う」
「確認しました」
◇
「試験開始まで十呼吸」
サーラの声が響いた瞬間、生活観測区画の空気が静かに変わった。
昨日、一日空けたからといって、今日必ず何かが起きるわけではない。頭では分かっているのに、アリシアの心臓は少し速くなる。
「怖さ三・五。期待九」
聞かれる前に申告すると、子供が少し声を潜めた。
「頑張る?」
アリシアは一瞬考え、それから小さく笑った。
「何もしないように頑張る」
「変」
「そうだね」
残り五呼吸。
四、三、二、一。
『東側、刺激開始』
アリシアには何も見えず、何も聞こえない。遠く離れた地下の補助連絡線へ、管理された弱い刺激が入っているだけだ。
一呼吸、二呼吸。
『立ち上がり正常』
三呼吸目でも、胸には何もない。
四呼吸。
『目標変調幅へ接近』
そして五呼吸目。
『目標到達。維持へ移行』
その直後だった。
胸の奥へ、これまでの冷感より少し鋭い冷たさが触れた。
「……来た」
思わず声が出る。
サーラがすぐ顔を上げた。
「申告を」
「冷たい。胸の真ん中……少し右寄り。強さ一」
「痛み」
「ゼロ」
「苦しさ」
「ゼロ」
「怖さ」
「四」
「震えは?」
「少し……待って」
アリシアは目を閉じた。
冷たい感覚の奥で、本当に一瞬だけ細い震えが走った気がした。
「一回だけ、小さい震えがあった」
「方向感覚」
「東」
「時刻記録」
ほぼ同時に、東側班から通信が入る。
『奥側新反応、急低下を確認。目標変調幅へ到達しています』
「アリシアさん側との時刻差は?」
『記録上、一呼吸以内です』
アリシアの喉が小さく動いた。
「近い……」
「そのまま観測を続けます」
サーラの声は平静を保っている。
冷感一の状態がそのまま続く。
五呼吸。
七呼吸。
十呼吸。
『東側奥部、目標低下幅を維持』
「私も変わらない。冷たさ一」
「怖さ」
「四」
「続けたいですか?」
「うん」
十五呼吸が経過した。
『維持終了。復帰へ移行します』
東側の値が、ゆっくり基準へ戻り始める。それと同じように、アリシアの胸の冷たさも少しずつ薄くなった。
「〇・五」
数呼吸後には、その感覚も消える。
「……消えた」
「時刻記録」
『奥側新反応、基準復帰まで残りわずか』
三呼吸後。
『基準値へ復帰しました』
室内へ短い沈黙が落ちた。
アリシアはまだ胸へ手を置かなかった。触れば何か確かめられるような気もしたが、今はもう冷たさがないことを、自分で分かっている。
「終わった?」
「刺激後観測を続けます」
「うん」
名前のない光は位置変化なし。輪郭光量にも目立った差はなく、小空洞にも反応は出ていない。
西側補助連絡線も、現時点では基準範囲だった。
さらに十呼吸。
二十呼吸。
それから。
『西側、弱い対応波形を確認』
アリシアの表情が変わった。
「私、何もない」
「現在の胸部感覚」
「ゼロ」
「方向感覚」
「なし」
西側の波形は弱く、これまでにも確認された、遅れて現れる対応波形と似た形だった。それでもアリシアの胸は静かなままだ。
「また西は感じない」
「今回の条件では、ですね」
「うん。今回の条件では」
自分で言い直してから、アリシアは少しずつ笑った。
「速くしたら、感じた」
サーラはすぐに同意せず、東側から届く数値を改めて確かめる。
「最大変調幅は?」
『前回の持続型人工条件との差は、測定誤差範囲内です』
「維持時間」
『予定通り十五呼吸』
「復帰速度」
『前回との差は小さく、比較上の許容範囲です』
「最も大きい相違は?」
『立ち上がりです。前回十八呼吸。今回五呼吸』
サーラがアリシアへ視線を戻した。
「少なくとも、今回比較した二条件では、最大低下幅と維持時間を大きく変えず、立ち上がりを速くした条件で、アリシアさん側へ明確な自覚反応が出ました」
胸が熱くなる。
「じゃあ、速度」
「立ち上がり速度が関与している可能性は、かなり上がりました」
「かなり?」
「はい」
アリシアの目が少し大きくなる。
「今まで、“少し上がった”ばっかりだったのに」
通信向こうから若い観測員の声が割り込んだ。
『俺も今、同じこと思いました』
「そっち聞いてたの?」
『観測班なので当然ですよ』
サーラが少し呆れたような顔をする。
「ただし」
「答えじゃない」
今度はアリシアが先に言った。
「はい」
「でも、速度が関係してる可能性はかなり上がった」
「はい」
「強さだけじゃ説明しにくくなった」
「少なくとも、最大低下幅が近い二例で自覚反応の有無が分かれましたからね」
「立ち上がり……」
「有力な条件の一つです」
そこでアリシアは、ようやく胸へ右手を置いた。
もう冷たくも、震えてもいない。それでも今まで大きな霧の中へ埋もれていた六つ目の性質へ、一つ輪郭が現れたような気がした。
「私……何かが変わったこと全部を感じてるんじゃなくて、急に変わったことを感じてる?」
「その可能性があります」
「危険な変化だから?」
「そこまではまだ言えません」
「大きい変化だから?」
「それも今後、強度条件を分けて確認する必要があります」
「でも、変化の速さを拾ってるかもしれない」
「はい」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ震えたような気がした。
今度は神器ではない。
嬉しさを押さえきれない、自分自身の感情だった。
◇
試験終了後の身体確認では、大きな異常は見つからなかった。
痛みも苦しさもなく、頭痛や腕の重さもない。疲労は二、怖さも二まで下がり、胸部違和感も消えていた。治療教師が魔力循環も確認したが、普段から外れる乱れは見つからない。
「成功?」
子供が尋ねた。
アリシアはすぐ答えず、一度考えた。
「今日は……速度が関係してるかもしれないっていう考えが、前よりかなり強くなった日」
「長い」
「また?」
「でも分かる」
「ならいいじゃん」
「答え?」
「まだ」
子供は少し口を尖らせた。
「かなりなのに」
「かなりでも、まだ答えじゃないよ」
「厳しい」
『あなたもすっかり言うようになったわね』
子供は少し考え、それからアリシアを見る。
「でも嬉しい?」
「かなり」
「九?」
アリシアは胸の奥へ残る熱を確かめた。
「……十かも」
『初十ね』
「そうかも」
今度は隠さず、アリシアは笑った。
◇
午後の照合会議では、今日の試験と以前の持続型人工条件が、できるだけ同じ形式で並べられた。
前回は、最大低下幅が今日とほぼ同程度で、立ち上がり十八呼吸、維持十五呼吸。アリシア側には自覚反応がなかった。
対して今日は、最大低下幅が前回との差で測定誤差範囲内、立ち上がり五呼吸、維持十五呼吸。アリシア側には冷感一と一度だけ弱い震えがあり、方向感覚は東。開始時刻は奥側新反応の急低下と一呼吸以内で、復帰についても三呼吸以内に収まっている。
「かなり綺麗な比較になりましたね」
若い観測員が珍しく冗談を入れずに言った。
「比較としては、ですね」
魔導具教師も記録紙を見ながら頷く。
「設備で完全に同一の波形を作ることはできませんが、少なくとも最大変調幅と維持時間は相当近づけられています」
「違いは立ち上がり」
アリシアが言う。
「主な違いは、です」
サーラが補足した。
「完全に速度だけとは断言しません。急速に立ち上げたことで、現在の測定器では拾えていない微細な揺れや副反応が生じた可能性は残ります」
「それも調べる?」
「必要なら」
「次は?」
アリシアがすぐ尋ねる。
学院長が横目で見た。
「早い」
「だって、次に見ること分かるじゃん」
「何をやりたい?」
アリシアはすぐ答えず、五と十八という数字を思い浮かべた。速い方と遅い方、そのちょうど間にある速度。
「……中間の速度?」
サーラの目が少し動いた。
「理由は?」
「十八呼吸では感じなかった。五呼吸では感じた。なら、その間を試したら、どの辺りから感じやすくなるのか少し分かるかもしれない」
「境目を探したい?」
「うん」
アリシアは胸へ手を置いた。
「六つ目が、どのくらい急な変化から拾うのか」
「悪くない案です」
若い観測員が思わず口を挟む。
「俺も同じです」
「また真似」
「今回はアリシアさんが先です」
「認めた」
「事実ですから」
会議室に小さな笑いが起きる。
学院長も少し笑ったが、すぐに釘を刺した。
「ただし、中間速度を明日行うとは決めない」
「分かってる」
「今日は明確な神器反応が出ている」
「身体は平気」
「今はな」
アリシアは少し考える。
「一日空ける?」
「候補だ」
やはり少し不満はある。
けれど昨日ほど強くない。
「今日、速い方をやった。明日すぐ中間やったら、今日の影響が残ってるかもしれない」
「そういうことだ」
「じゃあ、また非刺激観測日?」
若い観測員が口にする。
アリシアがすぐ反応した。
「その名前、まだ使うの?」
「正式資料に入っちゃったんですよ」
「消せない?」
「消せますけど、代案あります?」
「休みつつ見る日」
「もっと嫌です」
「何で」
「資料名ですよ?」
サーラが額へ手を当てた。
「名称会議は別でやってください」
『そもそもやる必要ある?』
ノアの一言を聞き、アリシアが笑う。
今日の会議には、昨日より少しだけ余裕があった。
◇
夕方。
生活観測区画では、子供が朝に複写した黒い物体の表面図を眺めていた。
線は、遠目に見てもただの傷とは少し違っている。短い線や曲線、途中で折れる線があり、一定の間隔で並んで見える部分もある。
まだ読めない。
古い文字なのか、装飾なのか、識別用の記号なのか、それすら分からない。
「先生に見せたい?」
アリシアが尋ねる。
「今は八」
「今日見せる?」
子供は少し考えた。
「今日は見せない」
「どうして?」
「朝、今日は線を見るって決めた」
「でも、朝のあとで気持ちが変わってもいいんだよ」
「うん」
「今も見せない?」
「今は、私がもう一回描きたい」
「複写あるのに?」
「うん」
「どうして?」
子供は魔導具が写し取った線を見る。
「魔導具のは正確かもしれない。でも、私がどこ見たか残したい」
アリシアは少し驚いた。
「違う記録?」
「うん」
「同じ黒いものなのに?」
「同じ黒いの。でも、私が見えたのと、魔導具が見えたのは違う」
「そっか」
子供は自分の紙へ線を描き始める。
正確さでは、魔導具の複写にかなわない。曲がる位置も少し違えば、長さも揃っていない。それでも、それは今日、子供自身が何を見たと思ったのかを残す記録だった。
その途中、顔のない存在の寝台が小さく軋んだ。
子供は筆を止める。
人影が立ち上がり、一歩、二歩、三歩、四歩と進む。そこで少し間を置き、さらに五歩、六歩まで歩いたところで、今日は腰を下ろした。
「今日は六」
子供が胸の十一の光を見る。
三つが明るい。
「今は三つ」
子供の顔へ少し嬉しさが出る。
「昨日三歩で、今日は六歩」
「うん」
「倍」
「歩数だけならね」
「うん。でも今日は六歩の日」
「そうだね」
「嬉しいは?」
アリシアが聞く。
子供は少し考えた。
「八」
「高いね」
「昨日三で、ちょっとがっかりしたから。今日は六で嬉しい」
「うん」
「でも明日三でも、今日六はなくならない」
「そうだね」
子供は記録紙へ、今日の六歩を書き込んだ。
◇
夕食後。
学院長が、今日の暫定的な整理を伝えに来た。
「速度、かなり?」
子供が先に尋ねる。
「速度条件が関係している可能性は、今日の比較でかなり高くなった」
「答え?」
「まだ」
「大人も厳しい」
「調査だからな」
アリシアは少し笑った。
「でも今日は、今までより進んだ感じがする」
「そうだな」
「距離が近づいたからじゃなくて、変化の速さが関係してる可能性が上がった」
「有力候補だ」
アリシアは少し黙った。
それから。
「六つ目って、急に何かが変わったときに知らせる神器?」
その言葉を口へした瞬間、自分自身が少し息を止めた。
知らせる。
危険を。
状態の変化を。
遠く離れた場所で起きた何かを。
学院長は慎重に答える。
「それも仮説にはできる」
「警報みたいな?」
「そこまでは絞らない」
「つなぐじゃない?」
「両立する可能性もある」
アリシアの目が少し大きくなる。
「どうやって?」
「離れた場所の状態が共有され、その変化を感じ取れる。そういう仕組みを“つなぐ”と考えるならな」
「……状態をつなぐ?」
「仮説だ」
「うん」
アリシアは胸元へ手を置いた。
「私、最初は東から西へ何かを送る神器なのかと思ってた。でも今は、場所と場所を直接つなぐんじゃなくて……何かが変わったことを感じられる形でつながってるのかもしれない」
「ありえる」
「じゃあ、六つ目は……」
言葉が止まる。
名前を付けたくなる。
一言で役割を呼びたくなる。
ここまで来たなら、何か言えるのではないかという気持ちが湧いた。
けれど。
アリシアは自分で少し笑った。
「……まだ名前つけない」
学院長も少し笑う。
「そうしてくれ」
『珍しく自制したわね』
「ノアが偉いって」
『だから、その訳やめなさい』
◇
夜。
子供は木箱を開けなかった。
代わりに、朝に見た黒い線を自分の手でもう一度描き、それを魔導具で取った複写記録の横へ置いた。
「明日、先生に見せる?」
アリシアが尋ねる。
「今は八」
「見せたい?」
「うん」
「じゃあ明日?」
「明日の私」
「そうだね」
「アリシア、中間速度?」
「今は九」
「怖さ?」
「二」
「明日?」
「明日の私」
子供が笑う。
「また同じ」
「似てるね」
「今日、速いのだけ?」
「うん」
「遅いのは一緒にやらなかった」
「前の記録と比べた」
「一個だけ変えた」
「うん」
「私も布だけ動かした。黒いのは触らなかったし、先生も呼ばなかった」
「うん」
子供は少し考えた。
「一個だけだと遅い」
「そう感じる?」
「うん」
「嫌?」
「少し。でも、何が違ったか分かりやすい」
アリシアは笑った。
「私も今日、それ思った」
「速度だけ違う」
「うん」
「感じた」
「うん」
「じゃあ速度?」
「かなり」
「答え?」
「まだ」
子供は布団の中で大きく息を吐いた。
「ほんと厳しい」
「私もそう思う」
◇
子供が眠ったあと、アリシアは今日も自分の練習帳を開いた。
朝は速度試験をしたい気持ちが九、授業へ行きたい気持ちが六。教室の怖さは三から始まり、授業終了時には二まで下がった。
午後の速度比較では、以前の持続型人工条件とほぼ同じ最大変調幅と十五呼吸の維持時間を使い、立ち上がりだけを十八呼吸から五呼吸へ短縮した。その結果、東側奥部新反応の急低下とほぼ同時に胸部冷感一が生じ、小さな震えが一度だけあり、方向感覚は東だった。
東側が復帰する少し前に冷感は消え、西側には遅れて対応波形が出たものの、そのときアリシア自身には何の感覚もなかった。
数字を書き終える。
学院の正式記録なら、それで十分だった。
けれど、自分の練習帳へ残したいものは、それだけではない。
アリシアは少し迷ったあと、ゆっくり筆を動かした。
『昨日から速度を見たいと思っていた。今日は、本当に速度だけをできるだけ変えて試した。そして私は感じた。嬉しかった。自分で思っていたより、ずっと嬉しかった』
少し恥ずかしい。
それでも、消さない。
続きを書く。
『ただ、速度が答えそのものではない。急な変化の何を六つ目が拾っているのかは、まだ分からない。それでも「何かが変わったら感じる」から、「急に変わったときに感じる可能性が高い」まで、問いが少し狭くなった』
そこで一度筆を止め、最後にもう一行書き足した。
『一つだけ変えると、進み方は遅く感じる。でも、今日何が違ったのかは前よりずっと分かりやすかった』
『今日も長いわね』
机の下からノアの声がする。
「もう気にしない」
『開き直った』
「自分の記録だから」
『はいはい』
アリシアは少し笑った。
「ノア」
『何?』
「今日、すごく嬉しかった」
『見れば分かる』
「答えじゃないのに」
『答えに近づいた気がしたんでしょう』
「うん」
『なら嬉しがればいいじゃない』
「あとで外れたら?」
『そのときは悔しがればいい』
「簡単に言うね」
『感情まで実験条件みたいに固定しようとするから面倒なのよ』
アリシアは筆を机へ置いた。
「嬉しい十。でも、次に中間速度をやりたい気持ちは九」
『もう次を考えてる』
「一日空けるかもしれないけど」
『知ってる』
「嫌は三」
『昨日より慣れたわね』
「一日空けても、何もない日じゃないって分かったから」
ノアは少し黙ったあと、尻尾を一度だけ揺らした。
『それなら今日は十分でしょう』
「うん」
◇
夜半。
東側奥部は、午後の速度比較試験を終えたあと、基準範囲へ戻ったまま静かな状態を保っていた。名前のない光にも移動はなく、小空洞にも新しい周期反応はない。西側補助連絡線も、試験後に一度だけ弱い対応波形を示したあと、静穏へ戻っている。
今日、大きな扉は開かなかった。
六つ目の神器の正式な名も分からず、アリシアが何に選ばれたのかという問いにも、まだ答えは出ていない。
それでも、昨日まで候補として並んでいた変調幅、立ち上がり速度、継続時間、距離、起きているか眠っているかという複数の要素の中から、今日は立ち上がり速度だけを選んだ。
ほかの条件をできるだけ揃えたまま、そこだけを動かす。
緩やかな十八呼吸では自覚反応なし。
急な五呼吸では、胸部冷感と小さな震えが出た。
まだ二条件しかない。
地下設備を使った比較であり、完全に一条件だけを変えられたわけでもない。
それでも、立ち上がり速度が六つ目の反応条件へ関係している可能性は、昨日よりはっきり強くなった。
次に五と十八の間を見ることができれば、どの辺りからアリシアが反応し始めるのか、境目へ少し近づけるかもしれない。
ただし、その前に一日空ける可能性もあるし、夜のうちに別の自然変動が起こる可能性もある。
まだ決まっていない。
生活観測区画の木箱も同じだった。
今日は茶色い布を少しだけ動かし、黒い物体そのものには触れなかった。表面の線はただの傷とは違い、文字らしいまとまりを持ち始めていたが、そのまま教師を呼んで読めるか確かめるところまでは進めなかった。
子供自身の目で見た線と、魔導具が正確に写した線。
二種類の記録だけを残した。
一つ動かし、一つを見る。
その結果を残してから、次を決める。
遅く感じる。
もどかしくもなる。
一度にもっと知りたくなることもある。
それでも、何が違ったのかを知りたいのなら、違いそのものを増やしすぎない方がいい。
アリシアは眠る前、自分の胸へ一度だけ右手を置いた。
今は冷たさも震えもない。
けれど静かな胸の奥には、今日感じた一度の鋭い冷たさと、ごく小さな震えの記憶が残っている。
急に変わったとき、六つ目は何かを拾った。
何を拾ったのか。
どこから届いたものなのか。
何のために感じさせたのか。
そこまでは、まだ分からない。
それでも、大きすぎた問いはまた一つ細くなった。
明日、次に動かす条件を選ぶ前に。
今日動かした一つを、まず今日の記録として残しておく。
今は、それでよかった。




