第168話 次に試したいことが見えたからといって、今日すぐ試す必要があるわけではない
翌朝、生活観測区画の窓を揺らしていたのは雨ではなく、庭を渡る少し強めの風だった。
空はよく晴れている。昨夜まで石畳の隅へ細く残っていた雨水もほとんど乾き、植え込みの葉に残った雫だけが朝日を受けて白く光っていた。開けた換気窓から入る空気には、数日前までまとわりついていた湿った重さがなく、乾き始めた土と若い葉の匂いが混じっている。
薄いカーテンが風を受け、数呼吸おきにふわりと持ち上がった。
アリシアは目を覚ますと、すぐには身体を起こさなかった。
天井を見ながら、一度呼吸を整える。
右手が自然と胸へ向かいかけた。
六つ目の神器がある場所。
ここ数日、朝になれば真っ先に確認するようになった位置だ。
けれど今日は、触れる直前で指が止まった。
確認したいのか。
反応してほしいのか。
それとも、もう癖になっているだけなのか。
昨夜までなら、全部まとめて「気になる」で終わらせていたかもしれない。
今は少しだけ分けられる。
「……全部、少しずつある」
『朝から一人で会話を完結させないでくれる?』
寝台の足元から、眠気の残ったノアの声がした。
黒猫は丸めていた身体を少しだけ伸ばし、片目だけ開けてこちらを見ている。
「起きてたの?」
『あなたが起きる前から』
「じゃあ、なんで黙ってたの」
『面白そうだったから』
「ひどい」
『自分で自分に問いかけて、自分で答えを出そうとしてる人間へ途中から割って入るのも失礼でしょう』
「そんなに変なことしてないよ」
『声に出てたわよ』
「……全部?」
『最後の“全部少しずつある”だけ』
アリシアは少しだけ安心し、今度こそ胸の中央へ右手を置いた。
冷たさはない。
震えもない。
痛みも苦しさもない。
闇の神器がいつもそこにあるときの、言葉にしにくい静かな存在感だけが胸の内側にある。
昨日の午後。
東側奥部へ、持続型に近いゆっくりした変化が起きた。
そのときも、アリシアには自覚できる神器反応が最後まで出なかった。
それ以前にも、似た形の緩やかな変化では何も感じなかった記録がある。
一方。
急に低下したとき。
短い時間で変化幅が大きくなったとき。
そういう場面では、胸の冷たさや震えを感じた例が複数あった。
だから次に見たいものは、以前よりずっとはっきりしている。
変化の大きさをできるだけ揃えたまま、立ち上がる速さだけを変える。
あるいは逆に、速さを揃えたまま変化幅だけを変える。
昨夜、眠る直前まで考えていた。
「今日、速度の試験やりたい」
『でしょうね』
「何点か聞かないの?」
『聞かなくても顔に八って書いてあるもの』
「書いてない」
『じゃあ何点?』
アリシアは少しだけ考え、自分の胸へ問い直す。
「……八」
『ほら』
「偶然」
『知りたい気持ちは九』
「九」
『怖さ二』
「二」
『身体は?』
「今は平気」
『なら、今日やる?』
反射的に「やりたい」と答えかけた。
けれど、そこで止まった。
ノアの耳がわずかに前へ向く。
『今、何を考えたの?』
「昨日まで、続けて試験してたなって」
『ええ』
「学院長、一日空けることもあるって言ってた」
『ええ』
「私がやりたい八だからって、それだけで今日やるって決めるわけじゃない」
ノアは少しだけ目を細めた。
『ずいぶん先回りできるようになったじゃない』
「いっぱい言われたから」
『でも、やりたい気持ちは?』
「八のまま」
『そこは下げないのね』
「下げなくてもいいでしょ」
『それでいいのよ』
ノアは満足したように前足を舐め始めた。
アリシアは机の上を見る。
今朝も報告書が置かれている。
東側。
西側。
夜間の生活観測。
以前なら、目を覚ますとすぐに手を伸ばした。
何か起きていないか。
今日、自分は何をするのか。
早く知りたかった。
けれど今日は、紙に書かれた内容を読む前から一つだけ分かっている。
自分は速度条件を試したい。
その気持ちは、報告書の内容によって消す必要がない。
ただし。
「やりたい」と「今日やるべき」は、同じではない。
そう考えながら一枚目へ指をかけた、そのとき。
「……八?」
隣の寝台から小さな声がした。
アリシアの手が止まる。
「また聞いてた?」
「今起きた」
「本当に?」
「八って聞こえた」
『そこだけ拾うの、もう才能ね』
「ノア何て?」
「おはようって」
『一言も言ってないでしょう』
子供は眠そうな目のまま、少しだけ笑った。
「おはよう」
「おはよう」
布団を胸元へ残したまま、子供が尋ねる。
「何が八?」
「今日、次の試験をしたい気持ち」
「昨日、感じなかったのに?」
「だから、かな」
口にしてから、アリシア自身が少し驚いた。
感じなかった。
以前なら、それは期待外れだった。
今でも、がっかりはする。
けれど。
感じなかったからこそ、次に何を変えて比べればいいかが見えてきた。
「昨日感じなかったから、次に何を見るといいか、前より分かったんだ」
「速度?」
「うん」
「急に変わるのと、ゆっくり変わるの?」
「そう」
「今日やる?」
「まだ分からない」
「やりたい八なのに?」
「うん」
子供は寝台の上で身体を起こし、しばらくアリシアを見た。
「今日の八?」
「今日の八」
「怖さは二?」
「うん」
「知りたい九?」
「うん」
「いっぱい数字あるのに、やるか決まらない」
「最近、ずっとそうだね」
「役に立ってる?」
「かなり」
「決まらないのに?」
アリシアは少し考える。
「数字は、行動を決める命令じゃないから」
子供の目が少し動いた。
「今の自分がどんな感じか、言いやすくするため?」
「うん」
「命令じゃない。でも、知らせる」
「そうだね」
子供は少し満足そうに頷き、隣の寝台へ顔を向けた。
「おはよう」
顔のない存在は、今朝も静かに横たわっている。
胸の十一の光。
少し明るいのは一つ。
子供は声を重ねずに待った。
数呼吸。
二つ目は来ない。
「今は一つ」
小さな記録紙へ印をつける。
昨夜は三つが明るかった。
その記録も残っている。
けれど、今朝はそれを取り出して比較しなかった。
「今日は一つから」
「うん」
子供は寝台から下りた。
左右の足裏を見る。
軽く押す。
赤みなし。
痛みなし。
足首を回し、何歩か床を歩く。
「大丈夫」
「あとでセレナにも?」
「うん。見るだけ」
それから、自然に木箱へ視線が向いた。
留め具はすでに外されている。
昨日までに、中を覆っていた茶色い布状のものを少しずらした。
その下にある黒い物体が、想像していたより大きいこと。
表面に、細い線のようなものがあること。
そこまでは分かっている。
けれど、黒い物体そのものにはまだ触れていない。
「今日、見たい」
「うん」
「九」
「高いね」
「昨日も九」
「怖さは?」
「二」
「触りたいは?」
「五」
「昨日より下がった?」
「一つ」
「どうして?」
子供は箱を眺めながら考えた。
「昨日、線あるって分かった。今は、触るより線を見たいが大きい」
「そっか」
「でも朝ごはん先」
『完全に生活の順番ができたわね』
「ノアも朝ごはん大事って」
少し間を置き、ノアが鼻を鳴らす。
『今日はその訳でいいわ』
◇
学院長が生活観測区画へ来たのは、朝食が半分ほど進んだ頃だった。
扉の外で止まった足音は、昨日より少しゆっくりしている。
最初に気づいたのは、やはり子供だった。
「学院長?」
「いるぞ」
「今日は何時間?」
扉の向こうで、小さな溜息が聞こえた。
「もう毎朝聞くつもりなのか?」
「記録?」
「俺の睡眠は観測対象じゃない」
「でも昨日七時間」
「……今日は六時間四十分だ」
言ってから、学院長本人が黙る。
アリシアは麦粥の匙を持ったまま肩を震わせた。
「答えるんだ」
「聞かれ続ける方が面倒だと学んだ」
『学習したわね』
「ノア褒めてる」
「それはどうも」
子供は指を折るように少し考えた。
「昨日より二十分少ない」
「だから何だ」
「今は、昨日より二十分少ない」
「……そのまま覚えておけ」
「うん」
学院長は何かを諦めたように一度息を吐き、それからアリシアへ声を向けた。
「今日の東側試験についてだが」
「速度?」
「早い」
「候補ではある?」
「候補だ」
アリシアの表情がすぐ明るくなる。
「やりたい八」
「朝から決めていたのか?」
「朝の今の八」
「怖さは」
「二」
「身体状態」
「痛みゼロ。苦しさゼロ。頭痛なし。腕の重さなし。疲労一」
「そうか」
一度、間が置かれた。
その間だけで、アリシアは少し嫌な予感がした。
「それでも、今日は刺激試験をしない案が第一候補になっている」
期待していた分だけ、顔から明るさが落ちた。
「……どうして?」
不満を隠そうとはしなかった。
学院長も、機嫌を取るようなことは言わない。
「ここ数日、条件を変えながら連続して刺激試験を行っている。お前の自覚疲労は低い。治療教師の確認でも異常はない」
「なら……」
「だが、六つ目の神器側に自覚できない蓄積や慣れがないとは、まだ言えない」
「昨日、何も感じなかったのに?」
「感じなかったことと、何の影響も受けていないことは同じではない」
アリシアは口を開きかけ、そのまま閉じた。
その言い方は、自分たちが何度も使ってきたものだった。
見えない。
だから、ない。
感じない。
だから、影響がない。
そうは決めない。
「……それだけ?」
「あとは、一日空けた状態そのものを比較条件として持っておきたい」
アリシアの眉が少し上がった。
「休むのも条件になる?」
「刺激を行わない日を一つ挟む、という条件だな」
「何もしない日?」
「違う。刺激試験をしない日だ。観測まで止めるわけじゃない」
「自然変動を見る?」
「ああ。それに、明日以降速度比較をすることになった場合、連日刺激したあとと一日空けたあとで何か違いが出るかも比較できる」
「慣れとか、疲れ?」
「神器側の感受性。本人側の疲労。期待や緊張。候補はいくつかある」
アリシアは匙を器へ戻した。
やりたい。
次に何を試したいかも分かっている。
身体も悪くない。
それでも。
「今日やらないことが、あとで使えるかもしれない」
「そうだ」
「今日しか取れない情報は?」
「今のところ確認されていない。東側奥部は安定している。名前のない光は移動なし。小空洞も静穏。西側にも急いで刺激を加える理由はない」
「危険が上がってるものも?」
「ない」
「……じゃあ」
アリシアは少し不満そうに口を尖らせた。
「今日はやらない方がいい?」
「俺はそう考えている」
「サーラは?」
「同意見だ」
「副学院長は?」
「同じ」
「魔導具教師は?」
「速度条件を早く試したそうだった」
「仲間いた」
「だが今日は空ける案へ賛成した」
「裏切られた」
学院長が笑った。
「仕事だからな」
『あなたも調査へ参加してる側なんだから、同じように考えなさい』
「分かってる」
子供は麦粥を食べながら、ずっと二人のやり取りを聞いていた。
「アリシア、嫌?」
「嫌」
「何点?」
「四」
「試験したい八」
「うん」
「休んだ方がいいと思う?」
今度の問いには、少し時間がかかった。
嫌だ。
やりたい。
早く速度を見たい。
答えへ近づきたい。
その全部が本当だ。
一方で。
一日空けること自体が記録になる。
東側に急ぐ変化はない。
自分で感じない蓄積の可能性も残る。
今日しかできない理由もない。
「……納得は六くらい」
「六?」
「休んだ方がいいと思う気持ち」
「嫌は四」
「うん」
子供が真面目な顔になる。
「足したら十?」
一拍。
アリシアが吹き出した。
「足さないよ」
「違う?」
「たぶん全然違う」
『勝手に新しい指標を作らないの』
扉の向こうから学院長の笑いも聞こえた。
「午前の会議で正式に決める。現状では刺激試験をしない案が第一候補だ」
「分かった」
「地下は?」
「今日は行く理由がない」
「……そっか」
また少しだけ声が落ちる。
「そんなに行きたいのか?」
「地下へ行きたいは六」
「刺激試験より低いんだな」
「だって、何しに行くか分からないのに行くのは違うでしょ」
扉の向こうで、一瞬だけ静かになる。
それから学院長が、少し柔らかな声で言った。
「その区別がつくなら十分だ」
◇
朝食後。
アリシアが会議へ向かう前に、子供は木箱を開けることにした。
窓から入る朝の光は、昨日より少し高い角度から棚の前へ落ちている。
「見たい九」
「うん」
「触りたい五」
「うん」
「怖さ二」
子供は自分で確かめてから、箱の前へ座った。
蓋を持ち上げる動作は、少し前までに比べればずっと滑らかになった。
それでも、完全に何でもない動作になったわけではない。
最初に木が軋む音を立てた瞬間だけ、肩へわずかに力が入る。
蓋が上がる。
朝の光が箱の内部へ細く差し込んだ。
茶色い布状のもの。
その下にある黒い物体。
「ある」
「うん」
「線も」
「見える?」
「少し」
子供が身体を前へ寄せる。
ただし、以前のように勢いで顔を近づけたりはしない。
昨日見えていた細い線。
朝の角度の違う光が当たったことで、その少し横にも短い線があることに気づいた。
「あ」
声が少し高くなる。
「もう一個ある」
「昨日は見えなかった?」
「うん」
「昨日なかった?」
言った直後。
子供自身が眉を寄せた。
「……昨日は見えなかった、まで」
「そうだね」
「昨日からあったかも」
「うん」
「今は二本見える」
子供は茶色い布の端へ手を伸ばした。
昨日ずらした位置から、さらにほんの少しだけ横へ移動させる。
黒い面が広がった。
細い線は二本だけではなかった。
さらに先へ続いている。
途中で曲がり。
短く途切れ。
別の細い線へつながっているようにも見える。
「……文字?」
子供が顔を近づけすぎない範囲で、目を細める。
アリシアも少し離れた位置から見た。
「文字っぽく見えるところはある」
「読める?」
「今の角度だと、私には無理」
「もっと布動かしたら?」
「見えるところは増えると思う」
子供の呼吸が、ほんの少し速くなる。
「見たい十」
アリシアの表情がわずかに変わった。
「初めて?」
「たぶん」
「怖さは?」
「三」
「黒いのに触りたいは?」
「六」
数字だけを並べれば、進みたい気持ちの方が圧倒的に大きい。
茶色い布はまだ動かせる。
もう少しずらせば、線が文字なのか模様なのか、判断できる範囲が増えるかもしれない。
黒い物体へ直接触れなくても、見られる。
子供の指は布をつまんだまま止まっていた。
「……十、ちょっと嫌」
「見たい気持ちが?」
「うん」
「どうして?」
「全部見たくなる」
子供は箱の奥を見つめた。
「昨日は九だった」
「うん」
「今日は十」
「うん」
「もっと布動かしたら、次も見たいってなる。黒いの触りたいも上がるかも。線全部見たくなるかも」
「そう思ったんだね」
「うん」
指が布から離れる。
ただし、蓋はすぐには閉じなかった。
開いたままの箱を前に、自分へ問いかける。
「見たい十だから、もう少し見る?」
長い間。
やがて、子供は首を横へ振った。
「今日はここまで」
「十なのに?」
「うん」
「どうして?」
「昨日九で止まれた。今日十でも止まれるか……」
途中で声が止まった。
子供の眉が強く寄る。
「違う」
「何が?」
「止まれるか試すために、止まるんじゃない」
アリシアは何も言わず続きを待つ。
「今、いっぱい見たい。でも、このまま動かしたら、次に何をするか決めてない」
「うん」
「布をどこまで動かすかも。黒いの触るかも。線、全部見るかも」
「うん」
「だから、次何するか決めてから」
アリシアは少しだけ目を見開いた。
朝。
自分と学院長が話していたことに、どこか似ている。
次に試したいことは分かっている。
見たいものもある。
だからこそ。
今すぐ全部やらなくていい。
「今日は、線がもっと続いてるかもしれないって分かった」
「うん」
「それで終わる」
「うん」
子供はゆっくり蓋を閉じた。
木が重なる低い音がする。
見たい気持ちは、蓋を閉じただけでは消えていないらしい。
両手を箱の上へ置いたまま、少し悔しそうな顔をしていた。
「まだ十?」
「九」
「少し下がった」
「閉じたから」
「嫌?」
「ちょっと」
「止めたこと、後悔してる?」
子供はすぐには答えなかった。
「……今は少し」
「そっか」
「でも、開け直さない」
「どうして?」
「後悔したから開ける、にしたくない」
アリシアは、その言葉をすぐ「偉いね」と褒めることができなかった。
それでは、今日止めることが正解だったと決めてしまう気がしたからだ。
見たい。
悔しい。
開け直したい。
それでも、つい今しがた自分が選んだ「ここまで」を、後悔が出た瞬間に無効にしない。
ただ我慢しているだけとも違う。
「あとで気持ち変わったら?」
「また考える」
「今日でも?」
「うん」
子供は箱から手を離した。
「でも、今すぐじゃない」
「分かった」
◇
午前の会議では、刺激試験を行わない方針が正式に決まった。
アリシアも最初から席についている。
大きな机の上には、ここ数日の試験記録と夜間観測が並べられ、その横へ今日の記録項目をまとめた紙が置かれていた。
「“休止日”だと何も記録しないように聞こえるので」
若い観測員が一枚の資料を持ち上げる。
「表題を“非刺激観測日”にしました」
「固い」
アリシアが間を置かずに言った。
「俺も思いました」
「じゃあ何でそれにしたの」
「サーラさんが候補に」
「私のせいにしないでください」
「いや、最初に出したのサーラさんですよ」
「採用したのはあなたでしょう」
「……俺だった」
副学院長が眉間を押さえた。
「朝から何の会議をしているんだ」
『平和でいいじゃない』
「ノアが平和だって」
「猫だけは気楽だな」
『失礼ね。私は常に真剣よ』
「真剣らしい」
「そこまで訳さなくていい」
少しだけ空気が緩んだところで、学院長が資料へ指を置いた。
「今日の目的は二つ」
「刺激なしで、東側の自然変動を見る」
アリシアが答える。
「一つ目はそれだ」
「二つ目は、連日試験したあと一日空けた状態を残す」
「そうだ」
「私の身体も見る?」
治療教師が頷く。
「朝、昼、夕、夜。普段の確認から大きく増やしすぎない範囲で、疲労、頭痛、腕の重さ、胸周辺の違和感、冷え、魔力循環を取ります。睡眠状態も記録します」
「睡眠も?」
「連日刺激の影響を見るなら必要です」
「今朝は全部なかった」
「記録済みです」
サーラが続ける。
「東側奥部に自然変動が起きた場合は、これまで通り時刻照合を行います。ただし、そのために一日中、反応を待ち構える必要はありません」
「それ、かなり大事?」
「かなりです」
「どうして?」
「刺激をしない日の通常状態を見たいのに、アリシアさんが朝から夜まで『今来るかもしれない』と意識し続ければ、それ自体が条件になります」
「でも、気になるものは気になる」
「気になっていることも記録できます」
「意識しないよう頑張るのも?」
「それも別の条件になります」
アリシアは眉を寄せた。
「普通に過ごすって難しい」
「地下調査が始まる前の状態へ戻る必要はない」
学院長が言った。
「今のアリシアの生活の中で、今日は刺激をしない。それでいい」
「普通の授業は?」
「それについても話がある」
「授業?」
「午後、一時限だけ通常授業へ戻る案が出ている」
アリシアの目が少し大きくなった。
「最近、お前は生活観測区画、地下、会議室の往復が多い。課題は続けているが、授業へほとんど出ていない」
「課題やってるよ」
「知っている」
「じゃあ?」
「六つ目の調査だけで一日を埋めない方がいい。それに、環境が変わったときにも自覚反応がないかという比較にもなる」
そこで学院長が少しだけ声を柔らかくする。
「何より、お前は学生だ」
『昨日、私が言ったことと同じじゃない』
「ノアが勝ったって」
『どうしてそうなるのよ』
学院長が笑った。
「本人が行きたいなら、午後の魔法史だけ参加してもいい。無理に行かせるつもりはない」
アリシアは少し考える。
教室。
同級生。
視線。
大勢の人間。
地下の試験とはまったく別の緊張がある。
「行きたい……五」
「微妙だな」
「嫌は三」
「怖さは?」
「今、教室を考えると四くらい」
「東側刺激より高いのか」
「人が多いから」
若い観測員が笑いかけ、サーラの視線を受けて咳払いした。
「でも」
アリシアは少しだけ考えたあと、顔を上げる。
「普通の授業、行ってみたい」
「どうして?」
「最近、地下のことばっかりだから」
「うん」
「六つ目を調べるのは大事。でも、それだけの人にはなりたくない」
口にしたあと、急に恥ずかしくなる。
会議室が少し静かになった。
学院長が急かさず尋ねる。
「学生の自分も残したい?」
子供が自分へ言ってくれた言葉が浮かぶ。
アリシアも、自分を残す。
「うん」
「なら、一時限だけ行こう。観測員は教室の外。治療教師も近くにはいるが、授業中は入らない」
「ノアは?」
『当然行くわよ』
「今さら聞く必要あったか?」
「なかったかも」
◇
昼まで、東側奥部にまとまった自然変動は起きなかった。
アリシアは生活観測区画で残っていた課題を進め、子供は朝に見た黒い物体の線を新しい紙へ描いていた。
昨日の絵へ書き足さない。
今日見えたものは、今日の紙へ。
「昨日の黒いのと同じだよね?」
アリシアが尋ねる。
「うん」
「でも紙は別?」
「昨日は線一個見えた」
「今日は続いてるかもしれないところまで見えた」
「うん」
「同じものだけど、違うとき」
「そうだね」
子供はそれで満足したように筆を動かした。
午前中、顔のない存在は寝台から起きなかった。
胸の十一の光も、朝から一つが淡く明るいままだ。
子供はそれを何度も確認せず、「今は一つ」と一度だけ残している。
昼食後。
アリシアは久しぶりに制服の襟を整えた。
鏡を見る。
普段着でも地下用の上着でもない。
学院へ入った頃から着ている制服。
「変じゃない?」
『いつも通り』
「本当に?」
『地下用の上着を着てないだけでしょう。あなたは元々学生よ』
「最近、教室行ってなかったから」
『緊張してる?』
「四」
『刺激試験より高い』
「言わないで」
少し離れた机から、子供がこちらを見る。
「帰ってくる?」
「一時限だけだから」
「何する?」
「魔法史」
「地下?」
「今日は地下じゃない歴史」
「普通の?」
「普通の」
子供は少しだけ笑った。
「頑張って」
その一言が、思った以上に胸へ沁みた。
「うん。行ってくる」
◇
生活観測区画を出て校舎側へ入ると、音の量が一気に増えた。
廊下を歩く生徒たちの足音。
教室から流れてくる笑い声。
椅子を引く音。
本を閉じる音。
窓の外、訓練場から響く掛け声。
以前なら日常の一部だったはずなのに、今のアリシアには一つ一つが妙に近く感じられた。
「人、多い」
『学院なんだから当然でしょう』
「分かってる」
曲がり角を越えたところで、前方を歩いていた女子生徒がこちらへ気づいた。
「あ、アリシア!」
思っていたより大きな声。
肩がびくりと跳ねる。
「ひっ」
足元のノアが呆れたように息を吐いた。
『地下の未知反応よりクラスメイトの挨拶の方が効いてるじゃない』
「急だったから」
声をかけた女子生徒も慌てて近づき、すぐ声量を落とした。
「ご、ごめん。久しぶりだったから」
「ううん……大丈夫」
「最近ずっと調査の方にいるんでしょ? 今日は授業?」
「一時限だけ」
「体調は平気?」
「今は平気。痛みゼロ、苦しさゼロ、怖さ……四」
相手が目を瞬いた。
「そこまでは聞いてないけど」
「あ」
アリシアの頬が少し熱くなる。
「最近、数字で言う癖ついてて」
「何の癖?」
「説明すると長い」
「ああ……なら今度でいいよ」
相手は無理に聞こうとしなかった。
「席、前のままだよ」
「ありがとう」
教室へ入る。
何人かが顔を上げた。
その視線だけで、足が一瞬止まりそうになる。
胸の奥が少し強くなる。
でも。
これは冷感ではない。
神器でもない。
大勢の視線を意識したときの、いつもの緊張だ。
「怖さ、四・五」
『地下より上がった』
「ノア、今は言わないで」
『事実でしょう』
「分かってる」
戻ろうとは思わなかった。
自分の席。
机に残った細かな傷。
窓の向こうの中庭。
久しぶりに見る同級生たち。
そこには地下図面も測定盤もない。
けれど、ここも自分がいる場所だった。
アリシアが椅子へ座ると、斜め前の男子生徒が少しだけ身体を向けた。
「久しぶり」
「うん」
「課題やった?」
「やった」
「え」
「何その反応」
「最近大変そうだったし、免除されてるかと思った」
「明日提出だから」
「偉い」
「普通でしょ」
『昨夜まで忘れかけてたけどね』
「ノア静かにして」
「猫、何て?」
「何でもない」
教室へ小さな笑いが落ちたところで、授業開始の鐘が鳴った。
魔法史教師が入ってくる。
教師はアリシアの姿を一度確認した。
けれど「久しぶりだな」と皆の前で声をかけることも、調査について触れることもなく、普段と変わらない調子で授業を始めた。
そのことが、アリシアにはありがたかった。
今日の内容は、古代都市圏における複数学院の共同防衛術式。
教師が黒板へ図を描いていく。
中央制御。
複数の補助塔。
遠隔警報。
地域ごとに分かれた防衛点。
一つの中央装置がすべてを直接動かすのではなく、複数地点が情報を共有し、必要に応じて別系統へ伝える古い仕組み。
アリシアの筆が一瞬止まった。
『顔』
「分かってる」
『地下と結びつけたわね』
「……少し」
『今は授業』
「聞いてるよ」
似ている。
東側。
西側。
補助連絡線。
六つ目。
頭の中で線を引きたくなる。
けれど。
授業で扱っている古代都市と、学院地下の施設は同じ場所ではない。
似た仕組みがあったからといって、地下も同じだとは言えない。
アリシアはノートの端へ、小さく自分用の一文を書いた。
『地下と似て見えた。でも今は魔法史の別資料』
ノアが下から覗き込む。
『真面目ね』
「参考にはなるかもしれないから」
『結局あとで持っていくのね』
「答えじゃなくて資料として」
『ならいいわ』
一時限。
途中、教師に一度だけ名前を呼ばれた。
「では、遠隔警報と直接制御を同じ経路へ置く場合の欠点は?」
突然の指名に、アリシアの背筋が強張る。
胸が跳ねた。
「怖さ五」
小声で呟いたせいで、隣の生徒が不思議そうな顔をした。
それでも立ち上がる。
「一つの経路が止まったとき、警報と制御が同時に使えなくなる可能性が高くなります。だから……古い時代でも、重要系統は分離していた例があります」
「その通り。座っていい」
「はい」
座ったあと、手のひらに少し汗をかいていることに気づいた。
『地下より怖いじゃない』
「それは今言わないで」
けれど。
授業が終わる頃には、周囲の声にも視線にも少し慣れていた。
「今、怖さ二」
『最初四・五。指名で五』
「最後二」
『変わったわね』
「うん」
一時限を終えて教室を出るとき。
最初に声をかけてきた女子生徒が、今度は大きな声を出さず、小さく手を振った。
「またね」
アリシアは一瞬迷い、それから自分から返す。
「……うん。また」
廊下へ出たあと。
ほんの少しだけ、胸が温かかった。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供がすぐに顔を上げた。
「帰った」
「ただいま」
「授業?」
「ちゃんと行ってきた」
「怖さ?」
「最初四・五。先生に当てられたとき五。最後二」
子供の目が大きくなる。
「地下より怖い」
「人が多いから」
「先生に当てられた?」
「質問されたの」
「攻撃じゃない?」
「違うよ」
『この子の中の“当てる”が物騒すぎるわ』
「答えた?」
「答えた」
「合ってた?」
「うん」
「じゃあよかった」
子供は少し安心したように笑い、それから机の上の紙を見せた。
「私も描いた」
朝に見た黒い物体の線。
昨日の一本だけではなく、その先へ曲がる線が増えている。
「文字みたい?」
「まだ分からない」
「触ってない?」
「うん」
「見たいは?」
「今は七」
「朝九だった」
「絵描いたから」
「少し満足した?」
「うん」
アリシアは自分の椅子へ座った。
「今日、試験しないの嫌だったんだけど」
「うん」
「授業には行けた」
「うん」
「地下のこと考えなかった?」
「考えたよ。授業で似た図が出たから」
「いっぱい?」
「ちょっといっぱい」
「でも授業も聞いた?」
「うん」
「じゃあ両方」
「そうだね」
子供は少しだけ笑った。
「アリシア、学生もある」
その言葉を聞いた瞬間。
思っていたより強く、胸の奥へ嬉しさが広がった。
「うん」
アリシアは笑った。
「ちゃんと、まだある」
◇
夕方。
今日最初のまとまった東側奥部の自然変動が確認された。
そのとき、アリシアは生活観測区画の机で制御術式の課題を見直していた。
子供は白い花の昔の絵と、今の絵を並べている。
顔のない存在は、午前から変わらず寝台に横たわったままだ。
室内は静かだった。
そこへ、通信具が弱く光る。
『東側奥部新反応に自然変動を確認』
アリシアの筆が止まった。
反射的に胸へ手を伸ばしかける。
「そのままでいい」
扉の外から学院長の声が届いた。
「うん」
手を戻す。
何かあるか。
身体へ問いかける。
呼吸。
胸。
指先。
温度。
「……ない」
『冷感なし?』
通信越しにサーラが確認する。
「なし」
『震え』
「なし」
『方向感覚』
「今は特にない」
『怖さ』
「二」
『期待』
アリシアは少し目を瞬いた。
「今も取るの?」
『比較用です』
「……七」
『了解』
東側奥部の変化は、急には落ちなかった。
数呼吸かけて、ゆっくり値が下がる。
そのまま小さな低下状態を保つ。
アリシアには何も起きない。
「昨日の持続型に似てる?」
「今のところは」
学院長が答える。
十呼吸。
十五。
二十。
自覚反応なし。
胸の奥は静かなまま。
子供が少し声を落として尋ねる。
「感じない?」
「うん」
「残念?」
「少し」
「でも昨日と似てる?」
「そう見えるかも」
やがて東側奥部の値は、ゆっくりと基準へ戻り始めた。
最後まで、アリシアの胸に冷たさは来なかった。
『自然変動終了』
「長さは?」
『二十六呼吸。最大低下幅は昨日の人工持続条件より小さめです』
「立ち上がりは?」
『緩やかです。急変なし』
アリシアは小さく息を吐いた。
「また感じなかった」
「そうだな」
「今日は刺激してない」
「ああ」
「自然にゆっくり変わったときも、感じなかった例が増えた」
「今の記録ではそうだ」
朝から試したかった速度条件への興味が、また強くなる。
「明日……」
「まだ言うな」
学院長に先回りされた。
「何も言ってない」
「顔に出てる」
『九』
「八かも」
『さっき九の顔』
「顔に点数書いてないって」
アリシアは、少しだけ笑った。
◇
夕方の整理では、今日刺激を入れなかったことが、早くも比較材料として意味を持ち始めていた。
「自然発生。持続型寄り」
若い観測員が記録を読み上げる。
「最大低下幅は昨日の人工持続条件より小。継続二十六呼吸。立ち上がり緩やか。アリシアさんの自覚反応なし」
「はい」
「刺激なし」
「はい」
「じゃあ昨日感じなかったのは、人工刺激だったからじゃない」
言った直後。
若い観測員は自分で止まった。
「……人工刺激だったかどうか“だけ”では説明しにくくなった」
サーラが頷く。
「その言い方が正確ですね」
「持続型寄りで、人工と自然の両方に自覚なしが取れた」
「そうですね。ただし、以前の自然記録にも類似例があります」
「じゃあ、自覚なしの持続型候補は複数」
「はい」
「感じた側は?」
「急な変調を伴う例が複数」
若い観測員は机の上の記録を見比べる。
「かなり分かれ始めてません?」
「傾向は以前より見えています」
「次、速度」
アリシアがほとんど同時に口を開いた。
「速度ですね」
若い観測員の声と重なる。
一瞬。
室内が静かになった。
二人が顔を見合わせる。
「真似した?」
「俺の方が先ですよ」
「同時だった」
『仲間ができたわね』
「何か嫌な仲間みたいに言わないでください」
若い観測員がノアへ向かって言い返し、学院長が額を押さえた。
「猫と張り合うな」
「聞こえるんだから仕方ないでしょう」
「俺には聞こえない」
「じゃあ俺だけ不利では?」
「何の勝負だ」
少し笑いが起きる。
そのあと、学院長が資料へ視線を戻した。
「速度比較は次の第一候補にする」
アリシアの身体が少し前へ出る。
「明日?」
「身体状態と夜間記録を見てから決める」
「今日は空けた」
「空けたから明日必ず、にはならない」
「分かってる」
「本当に?」
アリシアは少しだけ不満そうにしながらも、自分から続けた。
「今は速度やりたい九。でも明日の朝も九とは限らない」
学院長が一瞬黙った。
それから、小さく笑った気配がした。
「それを自分で言えるなら、今日は十分だ」
◇
夜。
顔のない存在が寝台から身体を起こしたのは、夕食を終えてしばらく経ってからだった。
今日は、立ち上がってもすぐには歩かなかった。
子供は声をかけずに待つ。
一歩。
二歩。
三歩。
そこで止まる。
しばらく立ったまま。
四歩目は来なかった。
やがて顔のない存在は、その位置へ静かに座った。
「今日は三」
子供が言う。
胸の十一の光。
今は二つだけが少し明るい。
「今は二つ」
昨日は七歩歩いた。
朝は一つ明るかった。
その記録は残っている。
「昨日より少ない」
「歩数はね」
「うん」
「嫌?」
「少し」
「どうして?」
「昨日七だったから、今日もいっぱい歩くかもって思った」
「そっか」
「今日は三だった」
「うん」
「でも三歩歩いた」
「うん」
「今二つ明るい」
「うん」
子供は少し考えた。
「がっかりするの、アリシアと似てる?」
「私が今日、東を感じなかったこと?」
「うん」
「似てるところはあるかも」
「がっかりしても、今日の三は三」
「うん」
「明日は七かもしれない」
「うん」
「一かも」
「あるね」
子供は記録紙へ三歩と書いた。
「じゃあ、今日の三」
「そうだね」
◇
寝る前。
子供は木箱を開けなかった。
朝に描いた黒い線の絵だけを、机の上でしばらく見ていた。
「明日、線の続き見る?」
アリシアが尋ねる。
「今は九」
「見たい?」
「うん」
「怖さは?」
「二」
「じゃあ明日?」
「明日の私に聞く」
「そうだった」
子供が少し笑う。
「アリシアは速度?」
「今は九」
「怖さ?」
「二」
「じゃあ明日?」
「明日の私に聞く」
「同じ」
「似てるね」
「でも箱と六つ目違う」
「うん」
「私は線見たい。アリシアは速度見たい」
「そうだね」
子供は布団へ入った。
「今日、試験しなかった」
「うん」
「朝、嫌だった?」
「少しね」
「でも授業行った」
「うん」
「東も自然に変わった」
「うん」
「アリシア、感じなかった」
「うん」
「じゃあ、何もしない日じゃなかった」
アリシアは少し考えた。
「刺激をしなかった日、かな」
「いっぱいあった」
「うん」
「授業も」
「うん」
「学院長は六時間四十分」
扉の外で、ちょうど紙をめくっていたらしい音が止まった。
「それはもう忘れろ」
「今日の記録」
「そこまで残さなくていい」
「何で?」
「必要性がない」
「気になる」
「気になるだけなら――」
学院長の声が途中で止まった。
自分が何度も使ってきた言葉だと気づいたらしい。
子供が笑う。
「答えなくていい」
「……そうだ」
アリシアとノアまで笑い出した。
「おやすみ、学院長」
「おやすみ。今度こそ寝ろ」
「うん」
◇
子供が眠ったあと。
アリシアは机の前へ座り、自分の練習帳を開いた。
今日の記録。
刺激試験なし。
速度条件を試したい気持ち八。
休止案への納得六。
やらないことへの嫌さ四。
午後。
一時限だけ通常授業へ参加。
教室の怖さ四・五。
教師に指名されたとき五。
授業終了時二。
神器反応なし。
夕方。
東側奥部へ自然発生の持続型寄り変動。
継続二十六呼吸。
最大低下幅は小さめ。
立ち上がりは緩やか。
自覚反応なし。
そこまで書き、筆を止めた。
数字や時刻なら、正式記録にも残っている。
自分の練習帳へ残したいのは、そのとき自分がどう思ったかだった。
朝。
試験をやらないと聞いたとき。
嫌だった。
今日一日、答えから離れるように感じた。
せっかく次に何を試せばいいか見えてきたのに、なぜ止めるのかと思った。
でも実際には。
刺激を行わなかった状態で、自然発生の持続型寄り変動が起きた。
そこでも感じなかった。
人工刺激か自然変動かだけでは、反応の有無を説明しにくくなった。
教室へ戻った。
同級生に声をかけられ。
先生に当てられて緊張し。
それでも授業を一時間受けた。
自分が六つ目の神器を持つ調査対象である前に、学院の生徒でもあることを少し思い出した。
木箱の線も、朝より多く見えた。
顔のない存在は三歩だった。
どれも、朝の自分が「今日は試験しない」と聞いたときには想像していなかったことだ。
アリシアはゆっくり筆を動かした。
『次に試したいことが分かっていたから、今日は進まない日になると思った。でも、刺激しなかったから取れた自然な記録があった。授業にも行けた。やりたいことを今日やらないことと、今日が空白になることは同じじゃなかった』
書き終える。
少し長い。
自分でも分かる。
『また長いわね』
予想通り、机の下からノアの声がした。
「言うと思った」
『なら短くすれば?』
「嫌」
『自分の記録だから?』
「うん」
『便利な言葉覚えたわね』
「子供から」
『あなた、最近あの子から学びすぎじゃない?』
「ノアもでしょ」
『私は元々賢いの』
「またそれ」
アリシアは笑いながら筆を置いた。
「ノア」
『何?』
「明日、速度やりたい」
『知ってる』
「今は九」
『知ってる』
「でも」
アリシアは、自分が今書いた文章をもう一度見た。
「今日、やらなくてよかったかもしれない」
『今はそう思う?』
「うん」
『朝は嫌だった』
「うん」
『どっちが本当?』
以前なら、少し迷ったかもしれない。
今はすぐに答えられた。
「両方」
ノアの尻尾が一度だけ揺れた。
『なら両方残しておきなさい』
「もう残した」
『それならいいわ』
アリシアは練習帳を閉じた。
◇
夜半。
東側奥部は、夕方に起きた持続型寄りの自然変動を最後に、基準範囲へ戻っていた。
名前のない光は動かない。
小空洞にも新しい周期反応はない。
西側補助連絡線も静穏。
アリシアの胸にも、冷たさや震えは来なかった。
今日は速度条件の比較試験を行わなかった。
だから、変化幅を揃えたまま立ち上がり速度だけを変えたとき、六つ目がどう反応するのかは分からないままだ。
次に試したいものは見えている。
答えへ向かうための一手も、用意できそうなところまで来ている。
それでも。
今日すぐ試さなかったからこそ、拾えた記録があった。
人工的な持続型寄り変化では、自覚反応なし。
自然発生の持続型寄り変化でも、自覚反応なし。
一方。
急な変調を伴う複数の場面では、冷感や震えが確認されている。
まだ境目は見えない。
ただ。
「東側奥部が変化したときに感じる」という大きすぎた問いは、少しずつ細くなっていた。
どのくらい変わるのか。
どのくらい急に変わるのか。
どれだけ続くのか。
六つ目は、その何を拾っているのか。
次に比べたいものが具体的になったからこそ、一つ条件を空けることにも意味が生まれた。
連日試験の影響を減らすため。
自然状態を一例増やすため。
そして。
アリシア自身が、六つ目の神器を調べるためだけに存在しているわけではないことを、置き去りにしないため。
神器の持ち主である前に。
学院の生徒で。
友人に突然名前を呼ばれれば肩を跳ねさせ。
教師に当てられれば地下試験より怖さが上がり。
課題の提出を気にし。
黒猫にからかわれ。
生活観測区画へ帰れば、木箱を前にした子供へ「ただいま」と言う少女でもある。
それらのどれか一つだけが、本当のアリシアではない。
眠りにつく前。
アリシアは胸へそっと右手を置いた。
冷たさはない。
震えもない。
六つ目の神器は静かなままだ。
以前なら、その静けさを少し不安に思ったかもしれない。
答えが遠ざかったように感じたかもしれない。
今夜は違った。
明日。
本当に速度を見るのか。
身体状態によってもう一日空けるのか。
その前に、東側で別の自然変動が起きるのか。
まだ決まっていない。
だから、今決めなくていい。
やりたい九を、無理に下げる必要もない。
知りたい気持ちを抱えたまま眠ってもいい。
そして明日の自分が。
明日の記録と。
明日の身体と。
明日の気持ちを持って。
もう一度選べばいい。
アリシアは目を閉じた。
風が窓の外の葉を揺らしている。
生活観測区画には、子供の静かな寝息と換気術式の低い音が重なっていた。
今日試さなかった速度条件は、そのまま残っている。
消えたわけではない。
逃したわけでもない。
次に確かめるための問いとして。
明日以降へ、きちんと残されていた。




