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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第167話 境目を知りたいなら、感じる方だけを強くするのではなく、感じない方にも近づけてみる


 翌朝、生活観測区画の窓には、夜のあいだに降ったらしい細かな雨粒が残っていた。


 空はもう明るい。雨そのものは止んでいるようで、庭の石畳には浅い水溜まりが幾つかでき、雲の切れ間から差し込む朝の光を鈍く映していた。濡れた土と葉の匂いが開けられた換気窓から入り込み、昨日までとは少し違う湿った空気が室内へ広がっている。


 アリシアは目を覚ましたあと、すぐに胸へ手を置かなかった。


 天井を見る。


 窓を見る。


 自分の指を軽く握って開く。


 それから、最後に胸の奥へ意識を向けた。


 冷たさはない。


 震えもない。


 痛みも、苦しさもない。


「……今は何もない」


 小さく言うと、寝台の足元から黒い耳が動いた。


『今日は手を当てる前に言えたわね』


「何が?」


『何もないって』


 ノアが身体を伸ばしながら起き上がる。


『昨日までは、胸を触って、待って、もう一回待って、それから「ない」って言ってたでしょう』


「今日は眠いから」


『成長を眠気で誤魔化さないの』


「褒めてる?」


『七割』


「また?」


『残り三割は、今から胸へ手を置こうとしてるから』


 言われて、アリシアは持ち上げかけていた右手を止めた。


「……確認したかっただけ」


『すればいいじゃない』


「今、止めたでしょ」


『止めてないわよ。今確認したいって思ったことに気づいたなら、そのまま確認すればいいでしょう』


 アリシアは少し眉を寄せる。


「最近のノア、言うこと難しくない?」


『あなたが何でも「するか、しないか」の二択にするからよ』


「してない」


『今したじゃない』


「……したかも」


 胸へ手を置く。


 やはり何もない。


 昨日の刺激試験では、東側奥部の変調幅が大きくなったあと、冷感が最大二まで上がった。怖さも五まで上がった。


 けれど、夜のあいだには新しい大きな変動は起きず、今朝の身体にも残りはない。


「昨日より平気」


『昨日も朝は平気だったでしょう』


「そうだけど」


『だから、今日の平気』


「子供みたい」


『学習したのよ』


「認めるんだ」


『良いものは使えばいいのよ』


 ノアは何事もなかったように前足を舐め始めた。


 アリシアは寝台から起き上がり、机の上に置かれた朝の報告書を見る。


 今日は通常報告のほかに、昨日の比較試験を一晩置いて再整理した資料が一枚追加されていた。


 変調型。


 持続型。


 短時間型。


 そして、アリシアが感じた例、感じなかった例。


 昨日の段階で、変調幅が大きいものほど自覚反応が出やすい可能性は上がった。


 だから次は、もっと変調幅を大きくしてみればいい。


 そう考えたくなる。


 けれど、昨夜寝る前に練習帳へ書いた一文が頭へ残っていた。


 ――感じなかった記録があるから、何が足りなかったのかを比べられる。


 アリシアは報告書を開く。


「……次、感じる方をもっと強くするだけじゃ駄目かも」


『朝から何か思いついた顔してるわね』


「感じなかった方」


『持続型?』


「うん」


 アリシアは昨夜の弱い自然変動の記録を指でなぞる。


「持続型は、今まで感じないことが多い」


『そうね』


「じゃあ、持続型を感じる方に近づけたらいいんじゃないかな」


『何をどう近づけるのよ』


「強さとか」


 言ってから、自分で少し考える。


「変調させないまま、強さだけ上げる」


『昨日、候補に出てたやつね』


「うん。昨日は変調幅を大きくした。今日は逆」


『今日やるって決めたの?』


「あ」


 アリシアは口を閉じた。


 ノアの金色の目が細くなる。


『朝から早いわね』


「今のは候補」


『本当に?』


「……やりたい候補」


『なら最初からそう言いなさい』


 アリシアは少し口を尖らせた。


「やりたい」


『何点?』


「今は七」


『昨日より低い』


「昨日、怖さ五まで上がったから」


『知りたいは?』


「九」


『そこは安定してるわね』


「悪い?」


『別に。あなたらしいだけ』


 その会話の途中で、隣の寝台から子供の声がした。


「……七と九?」


 まだ眠そうな声だった。


「起きてた?」


「今」


「おはよう」


「おはよう」


 子供は布団から顔だけ出したまま、アリシアを見る。


「何が七?」


「次の試験やりたい気持ち」


「九は?」


「知りたい気持ち」


「怖いは?」


「今は二」


 子供は少し考える。


「昨日五になった」


「うん」


「今日は二」


「うん」


「昨日怖かったの、なくなった?」


「なくなったっていうより……」


 アリシアは言葉を探す。


「昨日怖かったことは覚えてる。でも今、同じ強さで怖いわけじゃない」


「じゃあ昨日の五もある?」


「記録にはある」


「今の二もある」


「うん」


「どっちが本当?」


「どっちも」


 子供はしばらく考えた。


「違う時間だから?」


「そうだね」


 少し納得したように頷き、それから顔のない存在の寝台を見る。


「おはよう」


 胸の十一の光は、朝の薄暗さの中で二つだけ淡く明るかった。


 少し待つ。


 三つ目は来ない。


「今は二つ」


 子供は小さな記録紙を手に取り、十一個の丸のうち二つへ印をつけた。


 昨日の夜は三つだった。


 それを確かめるための紙はすぐ隣にある。


 けれど、今朝はまだ見比べない。


「今日は二つから」


「うん」


 子供は寝台を降り、足裏を確認する。


 それが終わってから、木箱へ視線を向けた。


 黒いもの。


 茶色い布状のもの。


 昨日は触らず、見ることを選んだ。


 箱は閉じたままになっている。


「今日、動かす?」


 子供が呟く。


 アリシアは答えず、見守った。


「茶色いの」


 子供は自分で続ける。


「少し動かしたい」


「うん」


「黒いの見たい」


「うん」


「触りたいは?」


 今度はアリシアが尋ねる。


「黒いの?」


「うん」


「今は四」


「昨日より低い?」


「昨日、見ただけで少し分かったから」


「怖さは?」


「二」


「じゃあ動かす?」


 子供はすぐには頷かなかった。


「朝ごはんのあと」


 アリシアが少し笑う。


「最近そこちゃんとしてるね」


「お腹すいた」


『一番強い理由じゃない』


「ノア何て?」


「正しいって」


『まあ正しいけど』


     ◇


 朝食の途中で学院長が来た。


 最近では、扉の外へ足音が止まるより先に子供が気づくこともある。


「学院長」


「いるぞ」


「六時間?」


 扉の向こうで一拍置かれる。


「今日は七時間だ」


 子供の目が少し大きくなる。


「いっぱい」


「いっぱいではない」


「昨日六」


「今日は七」


「増えた」


「増えた」


「いい?」


「睡眠時間については、昨日よりいい」


 子供は満足したように頷いた。


「今日は七時間の学院長」


「その呼び方はやめろ」


 アリシアが吹き出す。


『数字は命令じゃないけど呼び名にはなるのね』


「ノア、面白がってるでしょ」


『かなり』


「聞こえてるぞ」


 学院長の声にも少し笑いが混じった。


 そのあと、アリシアが先に尋ねる。


「今日の試験、持続型を強くする案ある?」


 扉の外が一瞬静かになった。


「朝から早いな」


「やっぱりある?」


「候補にはある」


「変調させない?」


「できるだけな」


「強さだけ上げる?」


「その案を検討している」


 アリシアの表情が明るくなる。


「やりたい」


「まだ内容聞いてないだろ」


「聞く」


「順番が逆だ」


「でも知りたい」


「それも知ってる」


 子供が二人を見比べる。


「今日、感じない方やる?」


 学院長が少し驚く。


「誰から聞いた?」


「アリシア」


「朝考えてた」


「なるほど」


「昨日、変調幅大きくしたら私の冷たさも強くなったでしょう」


「ああ」


「だから次、もっと変調幅大きくしたら……って思ったけど、それだと感じる方ばっかり強くなる」


「うん」


「持続型は感じないこと多い。だったら、持続型を少し強くして、それでも感じないか見た方が境目分かるかもしれない」


 学院長はすぐには答えなかった。


「サーラともほぼ同じ案が出ている」


「本当?」


「ああ」


「じゃあやる?」


「だから早い」


『先走るのは治らないわね』


「前より止まってる」


『止まる位置が一歩前になっただけよ』


「進歩じゃん」


『そうとも言うわ』


 学院長が軽く咳払いする。


「午前の会議で条件を詰める。昨日の最大刺激を超えることはしない」


「うん」


「持続型を強くするといっても、単純に出力を上げ続けるわけじゃない」


「どうする?」


「昨日の前半と同程度の強度から始めて、そこから緩やかに一段上げ、その強さを一定時間維持する案が第一候補だ」


「途中で上げるなら変調じゃない?」


「そうなる」


 アリシアの眉が寄った。


「じゃあ持続型じゃない」


「完全な持続型を人間側で作るには、最初から高い出力を入れる必要がある。その立ち上がり自体が急変になる」


「あ」


「だから、人間側から再現できるのは“持続型に近い条件”だ」


「難しい」


「そうだな」


「じゃあ何を見るの?」


「立ち上がりをできるだけ緩やかにして、変調幅を小さく抑えたまま、昨日より高い水準を一定時間保つ。そのときアリシアが感じるかどうかを見る」


 アリシアは少し考える。


「強いけど、急に変わらない」


「それに近い」


「感じたら?」


「強度条件の可能性が上がる」


「感じなかったら?」


「変化幅や速度の重要性がさらに上がる」


「どっちでも使える」


「そうだ」


 アリシアは麦粥を一口食べる。


「やりたい」


「数字」


「八」


「上がったな」


「何するか分かったから」


「怖さ」


「三」


「昨日五まで上がった記憶は?」


「ある」


「それでも?」


「うん。でも昨日と同じ強さにはしないんでしょ?」


「総負荷は昨日以下にする予定だ」


「なら今は八」


 学院長が少し黙る。


「会議で正式に決める」


「うん」


     ◇


 朝食後、子供は木箱の前へ座った。


 今朝は食事が終わるまで本当に触らなかった。


 箱の蓋へ両手を置く。


「開けたい七」


「怖さは?」


「二」


「茶色いの動かしたい?」


「六」


「黒いの触りたい?」


「四」


 子供自身が少し笑う。


「数字いっぱい」


「分けた方が分かる?」


「うん」


 ゆっくり蓋を持ち上げる。


 以前より、もうその動作自体には大きな震えが出なくなった。


 木が擦れる低い音。


 隙間が広がる。


 茶色いものが見える。


 その下の黒っぽい部分も。


「ある」


「うん」


「昨日と似てる」


「うん」


 子供は少し長く見たあと、右手を箱の内側へ近づけた。


 まず茶色いものの端。


 指先で触れる。


「布?」


 アリシアが尋ねる。


「……やわらかい」


 子供が目を見開く。


「前、硬いかもって思った」


「うん」


「茶色いのは、やわらかい」


 指で少し押す。


 沈む。


「布っぽい?」


「うん。でも厚い」


「動かす?」


 子供は一度手を止める。


「動かしたい七」


「怖さ?」


「三」


「黒いの触るかも」


「うん」


 子供はゆっくり布の端をつまんだ。


 少し。


 本当に少しだけ、横へ動かす。


 茶色い布が擦れた。


 その下。


 黒いものが、昨日より広く見えた。


「……長い」


 子供の声が小さくなる。


 アリシアは座ったまま、身を乗り出さない。


「どんな?」


「横に長い」


「うん」


「黒い」


「うん」


「金属?」


「触らないと分からないね」


 黒っぽいものは、箱の内側に沿って横へ伸びている。


 表面の一部には、わずかに光を返すところもあった。


 けれど、それだけで金属とは決められない。


 子供の呼吸が少し速くなる。


「怖さ四」


「うん」


「見たい八」


「うん」


「触りたい……六」


 右手が伸びる。


 黒いものの手前。


 そこで止まる。


「触ったら、また何か分かる」


「うん」


「でも今、見えるの増えた」


「うん」


「もっと布動かしたいもある」


「うん」


「一個ずつ?」


 アリシアは少し考えた。


「子供はどうしたい?」


 子供はしばらく黒いものを見た。


「今日は、布もう少しだけ」


「うん」


「黒いの触るはあと」


 茶色い布を、さらに指一本分だけ動かす。


 黒い部分が広がる。


 細いと思っていたものは、どうやら少なくとも子供の手のひらより幅がある。


 長さは、箱の半分以上。


 その一端が布の下へまだ隠れている。


「あ」


 子供が目を細めた。


「何かある」


「黒いのに?」


「うん」


 表面。


 薄い線。


 傷なのか。


 模様なのか。


 文字なのか。


 今の角度では分からない。


「線」


「うん」


「見たい」


「うん」


「怖さ四」


「うん」


「もっと動かしたら見える」


「そうかも」


 子供は唇を少し噛んだ。


 そして。


「今日は、ここまで」


 布から指を離した。


「線、途中なのに?」


「うん」


「気になる?」


「九」


 アリシアが思わず笑う。


「すごく気になるじゃん」


「うん」


「でも止める?」


「うん」


「どうして?」


 子供は箱の中を見る。


「今日、茶色いのがやわらかいって分かった」


「うん」


「黒いのが思ってたより大きいって分かった」


「うん」


「線もあるって分かった」


「うん」


「もういっぱい」


「そっか」


「気になる九だから、今もっとやったら、全部見たくなる」


 その言葉に、アリシアは少しだけ目を見開いた。


「だから止める?」


「うん」


「怖いからじゃなくて?」


「怖い四もある。でも、気になる九が大きすぎる」


 子供はゆっくり蓋を閉じた。


「今日は、気になるが大きいから止める」


『それもあるのね』


 ノアが窓辺から言う。


「ノア何て?」


「新しい止まり方だって」


『それはまあ合ってる』


 子供は箱の蓋へ両手を置いた。


「止まるの、怖いときだけじゃない」


「うん」


「やりたすぎるときも?」


「……あるのかもね」


 アリシアは自分自身へ言うように答えた。


     ◇


 午前の会議では、持続型に近い刺激をどう作るかについて、思った以上に長い話し合いになった。


「完全な持続型の再現は難しい」


 魔導具教師が、波形を描いた紙を机へ置く。


「自然発生する持続型は、最初からじわじわ上がる。人間側から刺激を入れる場合、どうしても開始点が明確になります」


「開始した瞬間が変調になる?」


 アリシアが尋ねる。


「厳密にはそうです」


「じゃあ比較できない?」


「比較できないわけではありません。開始時の傾きを十分に緩くすれば、これまでアリシアさんが反応した急な変調型とは区別できます」


 サーラが別の図を示す。


「今日の案は、十五呼吸かけて少しずつ出力を上げ、その後十呼吸だけ一定値で維持するものです」


「昨日より長い」


「長いです」


「総負荷は?」


「昨日より低い」


「長いのに?」


「最大出力をかなり抑えるからです」


 若い観測員が補足する。


「昨日は途中で一段上がった分、短時間でも最大が高かった。今日は低い坂をゆっくり登って、少しだけ平らなところにいる感じです」


 アリシアは彼を見る。


「分かりやすい」


「でしょう?」


「珍しく」


「余計です」


 副学院長が小さく笑う。


「今日見るのは三つだ」


 学院長が言う。


「一つ。緩やかな立ち上がりの最中に、アリシアが反応するか」


「うん」


「二つ。昨日より最大出力は低いが、一定値で維持したときに反応するか」


「うん」


「三つ。東側奥部そのものがどういう波形を返すか」


 アリシアは少し考える。


「人間側で持続っぽくしても、奥側が変調型になるかもしれない」


「その通り」


「もしそうなったら?」


「アリシアが感じたとしても、人間側刺激の形ではなく、奥側で生じた変化に対応した可能性が出る」


「じゃあ、一番見るのは奥側?」


「お前の感覚と一緒にな」


 サーラが続ける。


「今日も西側は通常記録だけです。西への伝達確認を主目的にはしません」


「名前のない光と小空洞は?」


「通常観測のみ」


「十一の光も?」


「通常記録だけ」


 アリシアが頷く。


「一個ずつ」


「そうです」


 安全管理担当が確認票を開く。


「昨日、冷感二、怖さ五まで上がっています。今日は最大刺激が低いとはいえ、継続時間は長くなります」


「うん」


「停止条件は少し厳しくします」


「どう変わる?」


「冷感強度二へ到達した時点で継続相談。二・五以上で即終了。怖さ五で相談、六で終了。痛み、苦しさは一以上で即終了」


「前は冷感の停止なかった」


「昨日の記録が増えたため追加します」


 アリシアは少しだけ複雑な顔になる。


「二・五、見てみたい」


 口から出た。


 全員が黙る。


「……って思った」


 アリシアはすぐ続けた。


「でも、止める条件にするのは分かる」


 学院長が尋ねる。


「残念か?」


「うん。ちょっと」


「どうして?」


「どこまで感じるか知りたいから」


「うん」


「でも、それを知るために限界までやる試験じゃない」


「そうだ」


「今日は持続型に近い条件で感じるかを見る」


「そういうことだ」


 アリシアは確認票へ視線を落とす。


「分かった」


「参加意思は?」


「八」


「怖さ」


「三」


「知りたい」


「九」


「やりすぎそうな気持ち」


 予想外の項目に、アリシアが顔を上げた。


「それ記録するの?」


「今朝、子供が“気になる九だから止めた”と聞いた」


「学院長、聞いてたの?」


「扉の外にいた」


「じゃあ……」


 アリシアは少し考える。


「六」


「高いな」


「昨日、結果嬉しかったから」


「うん」


「今日も何か出てほしい」


「うん」


「もし出たら、もっと見たくなると思う」


「なら記録しよう」


「分かった」


『いい項目できたわね』


「ノア何て?」


「私を信用してないって」


『違う。自分を知る項目が増えたって言ったの』


「だいたい近い」


『全然違うわよ』


 会議室に小さな笑いが起きた。


     ◇


 試験は午後に行われた。


 午前中は、昨日と同じように自然状態を記録する。


 アリシアは魔法史の残りの課題を終わらせ、制御術式の計算問題にも手をつけた。


 途中、何度も時計を見そうになる。


 そのたびにノアが何も言わず尻尾で机を叩いた。


「見てない」


『今見ようとしたでしょう』


「まだ見てない」


『そういう問題じゃない』


「でも課題進んだ」


『それは偉い』


「珍しく素直」


『昨日のあなたじゃないんだから、毎回同じ反応しないわよ』


 近くで絵を描いていた子供が顔を上げる。


「今日のノア」


「そういうことらしい」


『便利に使わないで』


 顔のない存在は午前中、一度だけ寝台から起き上がった。


 四歩。


 そこで座った。


 胸の十一の光は、朝と同じ二つ。


 子供は「今日は四歩。今は二つ」と記録しただけで、試験の予定とは結びつけなかった。


 昼食前になっても、東側奥部に自然な大きな変動は出ない。


 予定通り、午後の試験は実施可能となった。


     ◇


「開始前確認」


 いつもの椅子。


 いつもの位置。


 アリシアは両手を膝へ置いた。


 昨日の記憶があるせいか、開始前から少し胸が落ち着かない。


「痛みゼロ。苦しさゼロ。冷感なし。疲労一。怖さ三」


「参加意思」


「八」


「知りたい」


「九」


「やりすぎそうな気持ち」


 アリシアは少し笑った。


「七になった」


『上がってるじゃない』


「始まるから」


 子供が心配そうに見る。


「止められる?」


「うん」


「九になったら?」


 アリシアは少し考える。


「相談する」


「条件に追加しますか?」


 安全管理担当が尋ねる。


「うん」


「では、本人申告“やりすぎそうな気持ち”九で継続相談。十相当、または本人が自分で止まりにくいと感じた場合は終了」


「分かった」


「怖さや身体症状とは別項目です」


「うん」


 学院長の声が扉の外から届く。


「止まりにくいと思ったこと自体を、失敗扱いするなよ」


「分かってる」


「本当に?」


「……今は」


「それでいい」


 サーラが通信確認へ移る。


「東側」


『準備完了』


「西側」


『準備完了』


「奥側新反応、基準値」


『確認』


「小空洞」


『静穏』


「名前のない光」


『位置変化なし』


「開始まで十呼吸」


 室内が静かになる。


 アリシアは目を閉じなかった。


 窓際。


 雨上がりの薄い光。


 机。


 子供。


 ノア。


 いつもの生活観測区画。


 その中で、地下の見えない場所だけが、通信の向こうでこれから変わる。


「五呼吸」


 心臓が少し速くなる。


「怖さ三・五」


「記録」


「やりすぎそう七」


『そこまで律儀に報告するのね』


「決めたから」


 三。


 二。


 一。


『刺激開始』


 東側補助連絡線へ、ごく弱い刺激が入る。


 昨日までのような短い一波ではない。


 ゆっくり。


 十五呼吸かけて出力が上がっていく。


 一呼吸。


 二。


 三。


 アリシアには何もない。


 四。


 五。


『出力第一段階』


 胸は静か。


「なし」


 六。


 七。


 八。


『奥側新反応、現時点変化なし』


 アリシアは少し肩の力を抜く。


 九。


 十。


 まだ何もない。


「期待八」


「下がった?」


 子供が小さく聞く。


「少し」


 十一。


 十二。


 十三。


『出力第二段階。立ち上がり継続』


 胸の奥。


 何もない。


「……感じない」


「記録」


 十四。


 十五。


『予定出力到達。ここから一定維持へ』


 最大出力は昨日より低い。


 でも、持続する。


 一呼吸。


 二。


 三。


 アリシアは自分がまた感覚を探し始めていることに気づく。


「探してる」


「記録します」


 四。


 五。


 胸。


 何もない。


「期待六」


『すごい勢いで下がるわね』


「だって」


 六。


『東側奥部、微小低下開始』


 サーラの表情が引き締まる。


「アリシアさん?」


「なし」


 七。


 八。


『奥側低下、継続。波形は持続型寄り』


「何もない」


 九。


 十。


『一定維持終了。刺激減衰へ』


 アリシアは胸へ手を当てた。


 冷たさゼロ。


 震えゼロ。


 方向感覚も特にない。


「感じない」


 声には、かなりはっきりとした落胆が混じった。


「怖さは?」


「二」


「やりすぎそうな気持ち」


 アリシアは少し驚く。


 さっきまで七だった。


 今は。


「三」


「下がった?」


「うん」


「どうして?」


 自分でも少し考える。


「感じなかったから……もっとやりたい、じゃなくて」


 アリシアは目の前の机を見る。


「今日はこれが結果なんだって思った」


 サーラが静かに記録する。


「東側奥部は?」


『低下幅、小。持続状態継続中』


「変調は?」


『目立った変調なし』


「アリシアさん側?」


「ゼロ」


 さらに数呼吸。


 奥側は弱い低下を維持する。


 アリシアには何もない。


 その後、刺激が完全に減衰すると、東側奥部もゆっくり基準へ戻り始めた。


「戻ってる?」


『はい』


「私?」


「なし」


 西側。


 少し遅れて、非常に弱い反応が出た。


『西側補助連絡線、微小対応候補』


「アリシアさん?」


「なし」


 東側奥部が完全に基準へ戻る。


 アリシアの胸は、最初から最後まで何も感じなかった。


「……終わり?」


「刺激後観測を一分」


「うん」


 一分。


 新しい変化なし。


 冷感なし。


 痛みも苦しさもない。


 試験終了が宣言された。


     ◇


「……何もなかった」


 安全確認が終わったあと、アリシアは椅子の背へ少し身体を預けた。


「アリシア側には、ですね」


 サーラが言う。


「東は変わった」


「はい」


「奥側も下がった」


「はい」


「でも私、何も感じなかった」


「はい」


 アリシアの表情は、昨日とはまるで違った。


 昨日は、期待した方向へ結果が出た。


 今日は、期待していたような反応は出なかった。


 それでも。


「……嬉しくない」


 アリシアは素直に言った。


「うん」


 子供が頷く。


「がっかり?」


「かなり」


「期待は?」


「今三」


「知りたいは?」


「九」


「そこは下がらない」


「うん」


 ノアが机の上で尻尾を揺らす。


『じゃあいいじゃない』


「何が?」


『がっかりしてるのに、もう結果見ようとしてる顔してるわよ』


 アリシアは机の上の記録板を見る。


「……だって」


『何?』


「これ、結構大事じゃない?」


 サーラが少しだけ口元を緩めた。


「どうしてそう思いますか?」


「昨日より強い部分もある」


「最大出力は昨日より低いです」


「でも持続時間は長かった」


「はい」


「奥側もちゃんと変化した」


「はい」


「でも私は感じなかった」


「はい」


 アリシアは指で昨日と今日の二つの記録を交互に示す。


「昨日は変調幅が大きくなったら、私の冷たさも強くなった」


「はい」


「今日は、奥側が弱く下がったまま、あまり変わらなかった」


「はい」


「それで私はゼロ」


「はい」


「じゃあ」


 声が少し速くなる。


「強い状態が続くことより、途中で変わることの方が大事かもしれない」


 サーラはすぐには頷かなかった。


 けれど否定もしない。


「その仮説は、今日の結果でかなり扱いやすくなりました」


「かなり?」


「昨日は、“変調幅を大きくしたらアリシアさんの冷感も強くなった”という一方向の比較でした」


「うん」


「今日は、“奥側に変化自体は起きたが、変調幅が小さい持続型寄りではアリシアさんに自覚反応が出なかった”という反対側の比較が取れました」


 アリシアの目が少し大きくなる。


「両方ある」


「はい」


「感じた方と、感じなかった方」


「そうです」


「境目に近づいた?」


 サーラは少し考えた。


「昨日よりは」


 その返事だけで、アリシアの表情が少し明るくなった。


「……がっかりしてるのに嬉しい」


『忙しいわね』


「両方あるんだから仕方ない」


 子供が笑う。


「いっぱい一緒にある」


「うん」


「がっかり、嬉しい、知りたい九」


「そう」


「怖さは?」


「今一」


「やりすぎそう?」


「二」


「下がった」


「今日はもうやらないから」


「やりたい?」


 アリシアは少し考えた。


「次はやりたい」


「今日?」


「今日はしない」


「なんで?」


「今日の“感じなかった”をちゃんと見たい」


 子供の顔が少し柔らかくなる。


「昨日の残念と同じ」


「そうかも」


     ◇


 午後の照合会議では、昨日と今日の波形が大きな紙へ重ねずに並べられた。


 最初から重ねると、似ているところだけを探してしまう。


 だから昨日。


 今日。


 それぞれ別に。


 そのあと、必要な項目だけ比較する。


「昨日」


 若い観測員が読み上げる。


「東側刺激開始。五呼吸以内で短い変調。奥側新反応は十三呼吸前後で低下開始。その後、変調幅増加。アリシアさん冷感〇から一、一・五、最大二」


「はい」


「今日」


 別紙へ移る。


「東側刺激は十五呼吸かけて緩やかに上昇。その後十呼吸一定維持。奥側新反応は維持開始から六呼吸ほどで弱い低下。変調幅小。アリシアさん自覚反応なし」


「はい」


「最大低下幅は?」


「昨日より小さいです」


「でも持続時間は?」


「今日の方が長い」


「じゃあ、長さだけでは感じない」


「少なくとも今日の比較では」


「最大出力?」


「人間側刺激は今日の方が低い。ただし奥側の平均低下水準は、過去の無反応例よりやや高い」


「それでも感じなかった」


「はい」


 若い観測員が考える。


「変調幅が大きいと感じる。持続が長くても変調幅が小さいと感じない」


「現時点の記録には合います」


「じゃあ次、変調幅だけ同じにして速度変える?」


 魔導具教師が頷く。


「それが有力です」


 アリシアがすぐ顔を上げる。


「どうやる?」


「例えば、同じ最終差分へ到達する波形を二種類作る」


「急に上げるのと、ゆっくり上げる?」


「そうです」


「変調幅は同じ」


「はい」


「速度だけ違う」


「理想としては」


「それで急い方だけ感じたら、速度が大事」


「可能性が上がる」


「両方感じたら?」


「変調幅の方が重要かもしれない」


「どっちも感じなかったら?」


「条件設定を見直す」


「……やりたい」


 学院長が横目で見る。


「今日は終わりだぞ」


「分かってる」


「明日とも言ってない」


「それも分かってる」


「顔は?」


「明日やりたい顔」


 若い観測員が先に答えた。


 アリシアが睨む。


「何で分かるの」


「最近ずっと見てるから」


『観測されてるわね』


「ノアまで」


 会議室に笑いが広がる。


 それでも、アリシアはすぐに表情を戻した。


「今日の身体状態も見る」


「はい」


「夜の自然変動も」


「はい」


「今日感じなかったことも、ちゃんと記録する」


「はい」


「それから次」


 サーラが少しだけ笑う。


「その順番でいいと思います」


     ◇


 夕方。


 生活観測区画へ戻ったアリシアを待っていたのは、木箱の前に座る子供だった。


 ただし箱は閉じたままだ。


 机の上には、朝描いた絵と、昼に追加したらしい新しい紙がある。


「黒いの?」


 アリシアが尋ねる。


「うん」


 子供が紙を見せる。


 昨日より横に長く描かれた黒い形。


 その表面には、一本の線。


「線、増えた?」


「朝見えたの描いた」


「文字?」


「分からない」


「模様?」


「分からない」


「傷?」


「分からない」


 子供は少し笑う。


「三つある」


「候補?」


「うん」


「触る?」


「今は五」


「見たい?」


「九」


「怖さ?」


「三」


 アリシアが箱を見る。


「じゃあ開ける?」


 子供は少し迷った。


「今日はもう開けた」


「朝ね」


「うん」


「でも今また見たい?」


「うん」


「どうする?」


 子供は長く考えた。


「今日は、開けない」


「見たい九なのに?」


「うん」


「どうして?」


「朝見たの、まだ絵にしてる途中だから」


「うん」


「もう一回見たら、今の絵直したくなる」


「直してもいいんじゃない?」


「いい。でも、朝の私が見たのも残したい」


 アリシアは少し驚く。


「今見たら混ざる?」


「うん」


「なるほど」


「明日見たら、明日の紙にする」


「そっか」


 子供は自分の絵を机へ戻した。


「アリシアも今日感じなかったの、今日の紙?」


「うん」


「明日感じたら?」


「明日の記録」


「混ぜない?」


「比べるけど、同じにはしない」


「同じだね」


「似てるね」


 子供が少し嬉しそうに笑った。


     ◇


 夕食後、顔のない存在が寝台から起き上がった。


 子供はすぐに気づいたが、今日は筆を置くだけで声を出さなかった。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 四歩。


 五歩。


 そこで一度止まる。


 以前なら、ここで「五」と言っていた時期もある。


 今は待つ。


 人影は数呼吸立ち続けた。


 それから六歩目。


 七歩。


 そこでゆっくり床へ座る。


「今日は七」


 子供が言った。


 胸の十一の光。


 今は三つ。


 朝は二つだった。


「今は三つ」


 記録紙へ印を付ける。


「朝と違う」


「うん」


「今日、アリシアは刺激で感じなかった」


「うん」


「この人は七歩」


「うん」


「光三つ」


「うん」


「同じ日」


「そうだね」


「関係は?」


「分からない」


 子供は頷く。


「今は別に残す」


「うん」


 その一言が、今ではとても自然だった。


     ◇


 夜。


 学院長から今日の暫定整理が伝えられた。


「今日の試験は、予定通り“持続型に近い条件”として使える?」


 アリシアが最初に尋ねる。


「完全な持続型ではない。ただ、昨日の急な変調型と比較するには十分差がある」


「奥側は?」


「弱い低下が比較的長く続いた。途中の変調幅は小さい」


「私はゼロ」


「そうだ」


「昨日は最大二」


「そうだ」


「じゃあ、かなり違う」


「ああ」


「次、速度?」


「第一候補だ」


 アリシアの顔が明るくなる。


「明日?」


「未定」


「やっぱり」


「身体状態は問題ない。だが今日まで連日刺激試験をしている」


「休む?」


「その可能性もある」


「嫌?」


 子供が尋ねる。


 アリシアは少し考えた。


「嫌は三」


「やりたいは?」


「今は八」


「知りたい九?」


「九」


「でも休むかも」


「うん」


 学院長が続ける。


「連続実施そのものが条件へ影響している可能性も完全には切れない」


 アリシアが眉を寄せる。


「慣れる?」


「それもある」


「疲れ?」


「自覚上は低くても、神器側に何か積み重なっている可能性もある」


「じゃあ、一日空けた記録も必要」


「そういう考え方もできる」


「……やりたくないけど分かる」


「それでいい」


 アリシアは少し口を尖らせた。


「待つの、前よりできるようになったけど、好きになったわけじゃない」


「好きになる必要はない」


「学院長も?」


「俺も待つのは好きじゃない」


「そうなの?」


「かなり嫌いだ」


 アリシアが目を丸くする。


 子供も驚いた。


「学院長、待てるのに?」


「待てることと好きなことは別だ」


 子供が少し考える。


「アリシアと同じ」


「何が?」


「行きたい八でも行かない」


「そうだね」


「学院長、待ちたくないでも待つ」


「そうだな」


「大人も嫌なままやる?」


「やる」


 学院長の返事は短かった。


 けれど、その言葉にアリシアは少し安心した。


 待てる人は、待つことが苦ではないのだと思っていた。


 止まれる人は、進みたい気持ちが弱いのだと思っていた。


 そうではない。


 嫌でも。


 知りたくても。


 進みたくても。


 それとは別に、今何を選ぶかを決めている。


     ◇


 寝る前。


 子供は今夜、木箱を開けなかった。


 朝に見た黒いものの絵を机へ残し、白い花の古い絵と並べる。


「白い花、もっと変わった」


「うん」


 花弁はもうほとんど形を残していない。


 茎も少し乾き、以前より細く見える。


「明日、また描く?」


「分からない」


「残したい?」


「少し」


「怖い?」


「花は怖くない」


「じゃあ?」


「いっぱい絵ある」


「うん」


「全部残すと、どれ見ればいいか分からなくなる」


 アリシアは少し考えた。


「じゃあ、描かない日があってもいい?」


「うん」


「今日の白い花はなくなる?」


「今日見たのはある」


「記録しなくても?」


「私が忘れたら?」


「忘れることはあるね」


 子供の表情が少し曇る。


「嫌」


「うん」


「でも全部残せない」


「うん」


「どうする?」


 アリシアは答えを持っていなかった。


 代わりに言う。


「何を残したいか選ぶこともあるんじゃないかな」


「選んだら、選ばなかったのなくなる?」


「記録には残らないかもしれない」


「でもあった?」


「うん」


 子供は白い花を見る。


「じゃあ今日は描かない」


「うん」


「今日見たはある」


「うん」


「明日描きたくなったら描く」


「うん」


 子供は少し安心したように寝台へ入った。


「アリシア」


「うん」


「今日、感じなかった」


「うん」


「嫌だった」


「うん」


「でも大事?」


「かなり」


「何で?」


 アリシアは少し考える。


「昨日、変わり方が大きいときは感じた」


「うん」


「今日は、ある程度変化はあったけど、変わり方が小さくて長く続いた」


「うん」


「それで感じなかった」


「うん」


「だから、“ただ東が動けば感じる”じゃないって、前より分かった」


「感じるのに条件ある」


「そうだね」


「境目?」


「うん。そこを探してる」


 子供は少し笑う。


「箱も?」


「何の境目?」


「見るだけでいい日と、触りたい日の」


「それは子供の気持ちの境目?」


「うん」


「毎日変わるかも」


「うん」


「難しいね」


「でも数字ある」


「命令じゃないけどね」


「うん」


 子供は目を閉じる。


「今日、アリシア感じなかった日」


「うん」


「私は黒いの触らなかった日」


「うん」


「顔のない人は七歩の日」


「うん」


「学院長は七時間寝た日」


 アリシアが噴き出した。


 扉の向こうから、低い声が飛んでくる。


「最後のは記録しなくていい」


「今日あった」


「それはそうだが」


「じゃあ残る」


「……好きにしろ」


『諦めたわね』


「ノア何て?」


「学院長負けたって」


「聞こえてるぞ」


 子供の笑い声が、夜の生活観測区画へしばらく残った。


     ◇


 子供が眠ったあと、アリシアは自分の練習帳を開いた。


 今日の記録。


 昨夜。


 持続型の自然変動。


 自覚反応なし。


 今日午後。


 持続型に近い人為刺激。


 東側奥部へ弱い低下。


 比較的長く継続。


 変調幅小。


 自覚反応なし。


 西側へ微弱対応候補。


 そこでも反応なし。


 書いていて、少しだけ胸が重くなる。


 期待したものが出なかった日の記録は、やはり楽しくはない。


 昨日は最大冷感二。


 今日はゼロ。


 昨日の自分なら「近づいた」と思えた。


 今日だけ見れば、離れたようにも感じる。


 でも。


『今日は何書くの?』


 ノアが机の下から尋ねる。


「まだ考えてる」


『感じなかったこと?』


「うん」


 アリシアは筆先を紙へ置いた。


『今日は反応してほしかった。何も感じなくて、かなりがっかりした。でも、昨日より変調が小さい状態で感じなかったから、昨日感じた理由を考えるための反対側の記録が増えた』


 そこで一度止める。


 もう一行。


『感じる方へ近づくことだけが前進じゃない。感じない方を、感じる条件の近くまで持っていって、それでも感じなかったことも境目を探す材料になる』


『長いわね』


「昨日も言った」


『毎日長くなってない?』


「考えること増えてるから」


『分からないは小さくなってるのに?』


 アリシアは目を瞬いた。


「……そうだ」


『変ね』


「分からないの範囲は小さくなってるけど、その中を細かく見てるから書くこと増える」


『じゃあ、霧が薄くなった代わりに石ころが見えるようになった感じ?』


「何その例え」


『適当』


「でも、ちょっと分かる」


『でしょう』


 アリシアは少し笑った。


 筆を置く。


「ノア」


『何?』


「今日も、やってよかった」


『感じなかったのに?』


「うん」


『がっかりしたのに?』


「うん」


『変わったわね』


 アリシアは少し考える。


「前だったら、感じなかったら失敗って思ったかも」


『今は?』


「嬉しくはない」


『そこは変わらないのね』


「でも、使えるって分かる」


『なら十分じゃない』


「うん」


 練習帳を閉じる。


     ◇


 その夜。


 東側地下区画は静かだった。


 奥側新反応は、午後の刺激試験が終わって以降、大きな自然変動を示していない。


 名前のない光も、同じ位置に留まったまま。


 小空洞にも新しい周期反応はない。


 西側補助連絡線も静穏。


 生活観測区画では、子供が朝に一度だけ木箱を開け、茶色い布状のものを少し動かしたことで、その下の黒い物体がこれまで考えていたより大きく、表面に細い線のようなものがあることまで確認した。


 けれど、その線を確かめるためにさらに布を動かすことはしなかった。


 見たい気持ちは九。


 怖さは四。


 そして、気になる気持ちが大きすぎるからこそ、今日はそこで止まった。


 顔のない存在は七歩。


 胸の十一の光は夜に三つ。


 白い花はさらに形を変えたが、今日は新しい絵を描かなかった。


 何かを残さないことも。


 何かを触らないことも。


 何かを感じないことも。


 それだけで「何もなかった日」にはならない。


 アリシアが今日得たのも、まさにそういう記録だった。


 東側奥部は動いた。


 けれど、変調幅は小さかった。


 持続時間は長かった。


 それでも六つ目の神器に、自覚できる冷感は出なかった。


 昨日は違った。


 変調幅が大きくなった。


 冷感も〇・五、一、一・五、二と強くなった。


 そして今日。


 強さのある状態を長く見せても、途中の変わり方が小さければ感じなかった。


 もちろん、まだそれだけで答えではない。


 最大強度の差もある。


 立ち上がり速度も完全には同じでない。


 持続時間も違う。


 完全に一つの条件だけを切り離せてはいない。


 それでも、次に見るべきものは昨日より明確になった。


 同じ変調幅。


 違う速度。


 あるいは。


 同じ速度。


 違う変調幅。


 一つずつ近づけていけば。


 どこから六つ目が「変化」として拾い始めるのか。


 その境目へ手を伸ばせるかもしれない。


 アリシアは寝台へ横になり、胸へ手を置いた。


 今は何もない。


 今日一日、最後まで何も感じなかった。


 昨日なら、そこへ少し寂しさを覚えたかもしれない。


 今夜も、がっかりは残っている。


 けれど。


 その「感じなかった」は、もう空白ではない。


 感じる方だけを強くしていけば、どこまで感じるかは分かるかもしれない。


 けれど、何が必要なのかは分からない。


 感じない側を。


 感じる条件の近くまで一つずつ寄せて。


 それでも感じなかったものを残すからこそ。


 初めて、その間にある境目が見えてくる。


 忘れられた六つ目の神器が何を拾っているのか。


 強さなのか。


 速度なのか。


 変調幅なのか。


 それとも、まだ名前をつけられていない別の何かなのか。


 答えはまだない。


 けれど今夜。


 アリシアは「感じなかった」という結果を、昨日までより少しだけ嬉しくないまま、大切に持つことができていた。

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