第17話 もう一度、黒い光を
再測定の朝は、静かだった。
窓の外では、中央学園の中庭が薄い朝靄に包まれている。
白い校舎も、石畳も、噴水も、まだ眠りから覚めきっていないように淡く霞んでいた。
アリシアは制服に袖を通し、鏡の前に立った。
リボンは、昨日より少しだけうまく結べた。
上着の襟も整えた。
木刀は腰に差す。
胸元には守り袋。
足元にはノア。
いつもと同じ朝の支度。
けれど、胸の奥だけが違っていた。
今日は再測定の日。
魔法演習棟、第二測定室。
黒い光を、もう一度見る日。
「顔」
ノアが言った。
「え?」
「逃げる前の小動物みたいな顔になってるわよ」
「う……」
アリシアは鏡の中の自分を見る。
確かに、目が少し揺れていた。
唇も固い。
頬の色も薄い。
怖い。
怖いのは変わらない。
昨夜、黒い光をちゃんと見ると決めた。
逃げるものとしてではなく、自分に繋がるものとして見ると決めた。
けれど、決めたからといって怖さが消えるわけではなかった。
「怖い?」
ノアが聞く。
「怖い」
「でしょうね」
「でも……行く」
「そう」
「黒い光を、見る」
声は小さかった。
けれど、アリシアは鏡の中の自分から目を逸らさなかった。
ノアは少しだけ目を細める。
「なら、今日はそれだけでいいわ」
「それだけ?」
「ええ。うまく測定しようとか、先生に変に思われないようにしようとか、余計なことを考えない」
ノアは尻尾を揺らした。
「黒い光が出たら、見る。それだけ」
「……うん」
その時、扉が叩かれた。
「アリシアちゃん、おはよう」
メリルの声。
アリシアは扉を開けた。
メリルはいつも通り制服姿で、杖を持って立っていた。
けれど表情は少し緊張している。
「おはよう、メリルさん」
「今日……だね」
「うん」
短い会話。
それだけで、胸の中の緊張が少し形を持った。
メリルは一歩近づき、優しく言った。
「朝ごはん、一緒に行こう。ガレス君とミランダさんも待ってると思う」
「うん……」
「終わった後も、食堂で待ってるから」
昨日の約束。
結果がどうでも、終わったら食堂で一緒に食べる。
その約束が、今日のアリシアにとっての灯りだった。
「ありがとう」
アリシアが言うと、メリルは首を横に振った。
「待ちたいから待つだけだよ」
その言葉に、アリシアは少し泣きそうになった。
けれど、泣かなかった。
今日は泣くより先に、行く日だ。
食堂では、ガレスとミランダがすでに席を取っていた。
ガレスは今日も山盛りの朝食を前にしていたが、アリシアを見ると、少しだけ声を抑えた。
「アリシア、来たな」
「うん……」
ミランダが席を叩く。
「ここ、座って!」
「ありがとう……」
アリシアは壁側の席に座った。
ノアは椅子の上。
今日は魚の小皿にはすぐ手をつけず、アリシアを見ている。
ガレスがパンを持ち上げた。
「食え」
「う、うん」
「緊張しても食え」
「うん……」
「食えないなら、少しでいいから食え」
その言い直しに、メリルが少し笑った。
「ガレス君、成長してる」
「そうか!」
ミランダも頷く。
「無理にいっぱい食べると気持ち悪くなるもんね!」
「そ、そうだね……」
アリシアは小さく笑った。
パンをちぎる。
今日は粉々にしないように気をつける。
スープを飲む。
温かい。
味は少し薄く感じたが、胃に落ちていく感覚はあった。
ガレスが真剣な顔で言う。
「俺は難しいことは分からん」
「うん……」
「でも、アリシアが悪いことをしてないのは分かる」
アリシアはガレスを見た。
ガレスはまっすぐだった。
「だから、胸を張れ」
「胸を……」
「いや、急に張るのが難しいなら、少しだけでもいい」
メリルがまた笑いそうになる。
ミランダは真剣に頷く。
「背筋だけでも伸ばそう!」
ノアが椅子の上でぼそりと言う。
「私と同じことを言ってるわね」
アリシアは思わず笑ってしまった。
小さく、本当に小さく。
でも、笑えた。
「うん……少しだけ、伸ばす」
アリシアは背筋を伸ばした。
ガレスは満足そうに頷いた。
「よし!」
ミランダが拳を握る。
「終わったら甘いもの食べようね!」
「甘いもの……」
「食堂に果物の蜜煮があるって聞いた!」
メリルが微笑む。
「それ、楽しみだね」
明日のことではない。
今日の再測定の後。
そこに楽しみを置いてくれる。
アリシアは胸の奥が少し温かくなった。
「うん……楽しみにする」
朝食を終えた後、メリルたちは授業へ向かった。
アリシアは再測定の時間まで、少し早めに魔法演習棟へ向かうことにした。
約束通り、食堂でまた会う。
そう言って別れた。
中庭を歩く。
ノアが足元を歩いている。
風は涼しかった。
朝靄は少しずつ薄れ、校舎の白がはっきり見え始めている。
遠くの訓練場からは、早朝訓練をしている上級生たちの掛け声が聞こえた。
世界は、今日も普通に動いている。
その普通の中で、自分だけが特別な場所へ向かっているようだった。
「ノア」
「何?」
「もし……また変なことになったら」
「なるかもしれないわね」
「うん……」
「でも、前みたいに大勢の前ではない」
「うん」
「それに、今日はあんたが見ると決めている」
「……うん」
アリシアは胸元の守り袋に触れた。
「見る」
声に出す。
「逃げないで、見る」
ノアはそれ以上何も言わなかった。
ただ、歩幅を少しだけアリシアに合わせてくれた。
魔法演習棟は、朝の光の中で静かに立っていた。
円形の建物。
五つの属性石が入口の上に並んでいる。
赤、青、緑、黄、白。
やはり黒はない。
アリシアはその五色を見上げた。
胸が少し痛んだ。
けれど、昨日ほど沈まなかった。
五つの火は道を照らし、一つの影は足跡を消す。
火を讃えよ。
影を呼ぶな。
されど影なき道に、朝は来ず。
頭の中で、写し取った一文が静かに響く。
五つがある。
そして、一つが消されている。
ないのではなく、呼ばれていないだけかもしれない。
アリシアは入口をくぐった。
第二測定室は、前に全員で測定した大演習場とは違い、小さな部屋だった。
壁は厚く、窓は高い位置に一つだけ。
中央には、前より小型の水晶柱が置かれている。
その周囲には五つの属性石。
そして、今回は水晶柱の下に、銀色の円環のような魔導具が設置されていた。
部屋にはすでに三人がいた。
教務主任の女性教師。
測定担当らしきローブ姿の男性教師。
そして、昨日少し見かけた白髪の老教師。
アリシアは緊張で足を止めた。
教務主任が穏やかではあるが硬い声で言う。
「来ましたね、アリシアさん」
「は、はい……よろしくお願いします」
深く頭を下げかけて、途中で止める。
下げすぎない。
セリア先生の授業で学んだ。
教務主任は小さく頷いた。
「今日は再測定です。目的は、前回の未分類反応が測定具の不調によるものか、あなたの魔力特性によるものかを確認することです」
「はい……」
「危険なことはしません。こちらで抑制結界も張っています」
ローブ姿の男性教師が水晶柱の下の銀色の円環を指した。
「前回のように属性石が共振しても、反応を記録しつつ外へ漏らさないためのものです」
外へ漏らさない。
その言葉に、アリシアは少し安心した。
同時に、やはり危険視されているのだとも感じた。
胸が重くなる。
ノアが足元で尻尾を軽く叩いた。
事実と感情。
昨日のセリア先生の授業。
事実。
抑制結界がある。
感情。
危険だと思われている気がして怖い。
分ける。
アリシアは小さく呼吸を整えた。
白髪の老教師が静かに口を開く。
「怖がる必要はない。未知の反応を測る時は、通常より準備を厚くする。それだけだ」
アリシアは老教師を見た。
その声は落ち着いていた。
責める響きはない。
「あ……はい」
教務主任が続ける。
「また、あなたの従魔……ノアでしたね。室内待機を許可します。ただし測定中は水晶に近づけないように」
「分かりました」
ノアは普通の黒猫のふりをして、壁際の指定された布の上へ移動した。
ただの猫のように座る。
けれど、金色の瞳は鋭く水晶を見ていた。
教務主任は記録用紙を手にする。
「では始めましょう。まずは通常測定と同じ手順です。水晶柱に手を置き、少量の魔力を流してください。無理に出力を上げる必要はありません」
「はい」
アリシアは水晶柱の前に立った。
前回より小さい。
それでも、水晶の透明な光が怖かった。
手を伸ばす。
指先が震える。
止まりそうになる。
ノアの声が、小さく届いた。
「見るのよ」
アリシアは目を閉じた。
逃げるものではなく。
自分に繋がるものとして。
目を開ける。
水晶に手を置いた。
冷たい。
前と同じ感触。
胸の奥が、静かに震えた。
アリシアは魔力を流そうとした。
いつもの五属性の魔法とは違う。
火でも、水でも、風でも、土でも、光でもない。
自分の内側にある、深い場所。
暗いのに、怖いだけではない場所。
そこへ、そっと意識を向ける。
水晶の中に、黒い点が生まれた。
前回より早かった。
ほんの小さな、夜の欠片。
教務主任の筆が止まる。
ローブの男性教師が息を飲む。
白髪の老教師が目を細める。
五つの属性石が、かすかに震え始めた。
赤。
青。
緑。
黄。
白。
しかし今回は、銀色の円環が淡く光り、震えを外へ逃がさず水晶の周囲に留めている。
アリシアは逃げなかった。
水晶の中を見た。
黒い点。
それは、前よりもはっきりしていた。
ただの黒ではない。
真っ暗な底に、小さな輪郭がある。
まるで、細い月のような形。
黒い月。
黒月。
アリシアの胸が大きく震えた。
その瞬間、水晶の中の黒い点が、ゆっくりと広がった。
闇が滲む。
でも、部屋を飲み込むようなものではない。
静かに、水晶の内側だけを満たしていく。
深い夜が、水の中に沈んでいくようだった。
アリシアは呼吸を忘れかける。
怖い。
でも、綺麗だった。
そう思った。
黒い光。
光なのに黒い。
闇なのに、形がある。
自分の中から流れたもの。
自分に繋がるもの。
アリシアの目に、涙が滲んだ。
恐怖だけではない。
やっと見た、という感覚。
ずっと背を向けていたものと、初めて目を合わせた感覚。
「……黒い、月」
小さく呟いてしまった。
教務主任が反応する。
「今、何と言いました?」
アリシアははっとした。
まずい。
黒月。
神器の名前。
祖父とノアしか知らないはずの言葉。
心臓が跳ねる。
けれど、ノアは壁際で鋭くこちらを見ていた。
慌てるな。
アリシアは息を吸った。
「水晶の中が……黒い月みたいに、見えて……」
完全な嘘ではない。
水晶の中の形が、本当にそう見えた。
教務主任は水晶を見る。
ローブの男性教師も記録を取る。
「形状反応あり。中心部に黒色の弧状魔力……」
白髪の老教師が低く呟く。
「属性石は共振しているが、吸収ではない。拒絶でもないな」
「では?」
教務主任が問う。
老教師は慎重に答えた。
「共鳴に近い」
共鳴。
アリシアの胸が震える。
五つの属性石が、黒い光を拒絶しているわけではない。
怯えているわけでもない。
共鳴している。
その言葉は、前回の恐怖を少しだけ塗り替えた。
ローブの男性教師が眉を寄せる。
「しかし、五属性のどれでもありません。既存分類に該当なし」
「未分類反応、再現」
教務主任が記録する。
「アリシアさん、苦しさはありますか?」
「……ありません」
「めまいは?」
「少し……でも、大丈夫です」
「無理はしないように。もう少しだけ維持できますか?」
維持。
黒い光をそのまま見る。
アリシアは水晶の中を見た。
黒い月のような弧。
その周りに、深い夜の膜。
怖い。
でも、逃げたくない。
「できます」
声は小さかったが、はっきりしていた。
教務主任が少し驚いたように見た。
前回の怯えた少女とは違ったからかもしれない。
アリシアは水晶に手を置いたまま、黒い光を見つめ続けた。
その時。
水晶の奥で、何かが揺れた。
影。
いや、形。
小さな獣の影のようなもの。
黒い猫。
アリシアの息が止まる。
ノア?
そう思った瞬間、壁際のノアの体がびくりと動いた。
水晶の中の黒い影は、一瞬だけ金色の目を開いたように見えた。
そして、すぐに消えた。
アリシアは思わず手を離しかける。
しかし、ノアの声が飛ぶ。
「離さない」
普通の教師には、猫の鳴き声にしか聞こえなかったかもしれない。
だがアリシアには届いた。
アリシアは手を留めた。
水晶の黒い光は、ゆっくりと落ち着いていく。
教務主任が言う。
「十分です。手を離してください」
アリシアはゆっくり手を離した。
黒い光はすぐには消えなかった。
水晶の中で、一度だけ細い月の形を残し、それから静かに薄れていく。
五つの属性石の震えも止まった。
銀色の円環の光が消える。
部屋に沈黙が落ちた。
前回の沈黙とは違った。
大勢のざわめきがない。
恐怖に満ちた囁きもない。
ただ、教師たちが慎重に何かを考えている沈黙。
アリシアは手を胸元に戻した。
指先が冷たい。
でも、体は震えていなかった。
少なくとも、前回ほどではない。
教務主任が記録用紙を置いた。
「アリシアさん」
「はい」
「前回と同じく、五属性のいずれにも該当しない未分類反応が確認されました」
「……はい」
「ただし、今回は測定具の不調ではないことがはっきりしました。あなた自身の魔力、あるいは契約に由来する特性と見てよいでしょう」
契約。
その言葉に、アリシアの心臓が跳ねる。
ノアは壁際で普通の猫の顔をしている。
教務主任はノアを見なかった。
しかし、測定担当の男性教師はちらりとノアを見た。
「従魔契約との関連は?」
教務主任が少し考える。
「登録上の従魔反応は微弱でしたね」
「はい。ただ、測定中に水晶内で獣影のような揺らぎがありました」
見えていた。
アリシアは息を飲む。
ノアは動かない。
白髪の老教師が口を開いた。
「契約反応の投影かもしれん。強い絆を持つ従魔契約では、稀に魔力像が出ることがある」
「しかし、黒色反応そのものは?」
「未分類だ」
老教師ははっきり言った。
「少なくとも、既存五属性には入らん」
教務主任は頷く。
「アリシアさん。現時点で、あなたを通常の魔法基礎班へ入れるのは難しいと判断します」
アリシアの胸が少し沈んだ。
やっぱり。
みんなと同じ授業には行けない。
メリルたちの魔法基礎に参加できない。
寂しさが広がる。
けれど教務主任は続けた。
「ただし、これは処罰ではありません。あなたの魔力特性に合わない訓練をさせる方が危険だからです」
「……はい」
「当面、魔法基礎は個別指導とします」
「個別指導……」
「週に二回、測定担当のグラン先生と、必要に応じて私が見ます。まずは魔力の流れを安定させる訓練から始めましょう」
ローブの男性教師――グラン先生が静かに頷く。
「無理に属性魔法を使わせるつもりはありません。あなたの反応は特殊です。扱いを誤れば危険ですが、正しく観察すれば学べることも多い」
学べること。
危険だけではない。
異常だけではない。
アリシアは少しだけ顔を上げた。
白髪の老教師も言う。
「それと、この件は不用意に広めない方がよい。未分類という言葉は、人を不安にさせる」
それは、アリシア自身がよく知っている。
「学園側の記録では、現時点で『特殊魔力反応・個別指導対象』とする。よいですね、教務主任」
「はい」
特殊魔力反応。
未分類。
個別指導。
黒い光の正体は、まだ分からない。
でも、前回より少しだけ名前がついた。
魔族ではない。
危険物でもない。
特殊魔力反応。
その言葉に、アリシアは少しだけ救われた。
教務主任がアリシアを見る。
「今日の測定について、あなたから質問はありますか?」
質問。
聞きたいことは山ほどある。
黒い月とは何か。
獣影は何だったのか。
五属性石が共鳴した意味は。
でも、すべて聞けるわけではない。
アリシアは少し考えた。
セリア先生の授業を思い出す。
事実と感情。
確認。
相談。
アリシアは小さく息を吸った。
「あの……私は、危険なんでしょうか」
声は震えた。
でも、聞けた。
部屋に少し沈黙が落ちる。
教務主任はすぐに否定しなかった。
それが逆に、誠実に感じられた。
「現時点で、あなた自身が危険だと判断する根拠はありません」
ゆっくりとした答え。
「ただし、あなたの魔力反応は未知です。未知のものは、扱い方が分かるまで慎重に向き合う必要があります」
「……はい」
「危険なのは、あなたではなく、知らないまま無理に扱うことです」
その言葉が、胸に落ちた。
自分が危険なのではない。
知らないまま扱うことが危険。
アリシアはゆっくり頷いた。
「分かりました」
白髪の老教師が静かに言う。
「恐れることと、慎重であることは違う」
アリシアは老教師を見る。
「君は恐れすぎていた。今日は、少し見ようとしていた。それはよい変化だ」
胸が熱くなった。
見ていた。
ちゃんと見ていた。
自分だけでなく、老教師にもそれが伝わっていた。
「あ、ありがとうございます」
アリシアは頭を下げた。
今度は、下げすぎなかった。
測定は終わった。
教務主任から今後の予定を書いた紙を受け取る。
魔法個別指導。
初回は二日後。
場所は第二測定室。
グラン先生担当。
アリシアは紙を両手で持った。
「今日は寮に戻って休みなさい。午後の戦闘基礎は体調に問題がなければ参加して構いませんが、無理はしないように」
「はい」
「何か変調があれば、すぐに医務室へ」
「分かりました」
ノアを抱き上げ、測定室を出る。
扉が閉まった瞬間、アリシアは長く息を吐いた。
膝から力が抜けそうになる。
ノアが腕の中で言う。
「床に座らない」
「……座りそうだった」
「でしょうね」
「終わった……」
「ええ」
「黒い光……見た」
「見たわね」
「怖かったけど……綺麗だった」
アリシアは小さく言った。
ノアは少し黙った。
そして、静かに答えた。
「それを覚えておきなさい」
廊下を歩く。
足は少しふわふわしていた。
でも、前回のように壊れそうではなかった。
黒い光は出た。
未分類だった。
個別指導になった。
でも、自分は危険だと決めつけられなかった。
教師たちは慎重だったが、拒絶しなかった。
そして、自分は黒い光を見た。
食堂に着くと、昼食の時間にはまだ少し早かった。
けれど壁際の席に、メリルがいた。
授業を早めに終えたのか、案内紙を広げながら待っていた。
アリシアを見ると、すぐに立ち上がる。
「アリシアちゃん」
その声を聞いた瞬間、胸が緩んだ。
「メリルさん……」
「終わった?」
「うん」
「大丈夫?」
アリシアは少し考えた。
大丈夫。
完全には言えない。
でも、前よりは言える。
「……少し、大丈夫」
メリルの表情が柔らかくなる。
「そっか」
すぐにガレスとミランダもやってきた。
「アリシア!」
ガレスの声が食堂に響く。
アリシアは少し肩を跳ねさせたが、今日は驚きすぎなかった。
ミランダが駆け寄ってくる。
「終わった? 終わったよね? 甘いもの食べよう!」
「う、うん……終わった」
ガレスが真剣に見る。
「どうだった?」
アリシアは言葉を選んだ。
全部は話せない。
でも、友達には少し伝えたい。
「また、黒い反応は出た」
三人が静かになる。
「でも……先生たちは、私が危険って決めつけなかった。特殊魔力反応って記録になって、魔法基礎は個別指導になるって」
メリルがほっと息を吐いた。
「そっか……」
ガレスは腕を組んで頷く。
「個別指導か。特別訓練みたいだな!」
「特別訓練……」
「強そう!」
ミランダが目を輝かせる。
「アリシア専用の魔法訓練ってことだよね?」
「そ、そうなのかな……」
不安だった個別指導が、二人の言葉で少し違って聞こえた。
隔離ではなく。
特別訓練。
専用の指導。
そう考えれば、少しだけ前向きになれるかもしれない。
メリルも微笑んだ。
「通常班に来られないのは寂しいけど……でも、アリシアちゃんに合ったやり方で学べるなら、その方がいいのかも」
「うん……」
「それに、魔法基礎で習ったことは私が話すよ」
「ありがとう」
ガレスが拳を握る。
「俺も火の扱いを話すぞ!」
「ガレス君のは参考になるかな……」
メリルが小声で言う。
ミランダも言う。
「私も土の話する!」
「うん……ありがとう」
食堂の職員が、果物の蜜煮を運んできた。
ミランダが頼んでくれていたらしい。
「約束の甘いもの!」
小さな器に入った蜜煮。
柔らかく煮た果物に、少し香草の香りがある。
アリシアは一口食べた。
甘い。
緊張で固まっていた体に、ゆっくり染み込むような甘さだった。
「おいしい……」
「でしょ!」
ミランダが嬉しそうに笑う。
ガレスも大きく頷く。
「甘いものも大事だな!」
「ガレス君は何でも大事って言うね」
メリルが笑う。
アリシアも笑った。
再測定は終わった。
黒い光は消えていない。
謎はむしろ増えた。
でも、その後に甘いものを食べている。
友達と一緒に。
それが、不思議で、少し泣きそうなくらい嬉しかった。
午後、アリシアは無理をせず寮の部屋で休むことにした。
戦闘基礎に行きたい気持ちもあったが、教務主任に無理はしないようにと言われたこともあり、メリルたちに背中を押されて休むことにした。
二〇八号室に戻る。
扉を閉める。
部屋の静けさが、今日だけはありがたかった。
ノアは机の上に飛び乗り、首輪を外す。
「今日はよく見たわね」
アリシアは椅子に座った。
「うん……」
「黒い光、どうだった?」
「怖かった。でも……綺麗だった」
「そう」
「水晶の中に、黒い月みたいなのが見えた」
ノアは黙っている。
「それから……黒い猫の影も」
ノアの尻尾が止まった。
アリシアはノアを見る。
「ノアだったの?」
しばらく沈黙が落ちた。
ノアは窓の外を見た。
「契約の影よ」
「契約の影……前も言ってた」
「ええ。あんたと私の契約が、水晶に映ったの」
「じゃあ……ノアが苦しかったわけじゃない?」
「苦しくはないわ」
アリシアはほっとした。
「よかった……」
「心配するところがそこなのね」
「だって、ノアが震えた気がして」
ノアは少し黙った。
「……少し、驚いただけよ」
「ノアでも驚くの?」
「失礼ね。私だって驚くわよ」
いつもの返し。
それが嬉しかった。
アリシアは練習帳を開いた。
今日のことを書く。
『再測定が終わりました。黒い反応はまた出ました。でも、今度は逃げずに見ました。水晶の中に黒い月のような形が見えました。黒い猫の影も見えました。先生たちは、私を危険だとは決めつけませんでした。特殊魔力反応として、個別指導になるそうです』
ペンが止まる。
続けて書く。
『黒い光は怖かったけど、綺麗でした。私はそれを、初めてちゃんと見ました』
書いた瞬間、胸の奥が少し軽くなった。
事実。
感情。
両方を書けた。
ノアが机の上から覗き込む。
「今日の点数、聞きたい?」
「うん」
ノアは少し考えた。
「九十二点」
アリシアは目を丸くした。
「そんなに?」
「再測定に行った。逃げなかった。黒い光を見た。先生に質問できた。終わった後、食堂にも行った」
「減点は?」
「測定室に入る前、扉の前で固まりかけた。水晶に触る時、少し逃げかけた。あと、甘いものを食べて泣きそうになった」
「最後も減点?」
「泣くなら部屋で泣きなさい」
「うぅ……」
「でも」
ノアはアリシアを見た。
「今日はよく頑張ったわ」
その言葉を聞いた瞬間、アリシアの目に涙が浮かんだ。
今度は、止められなかった。
ぽろりと一粒落ちる。
ノアはため息をついた。
「部屋だから許す」
「ありがとう……」
「礼を言うところじゃないわ」
「でも……言いたいから」
アリシアは泣きながら笑った。
怖かった。
本当に怖かった。
でも、見た。
黒い光を。
自分に繋がるものを。
その夜、窓の外には静かな闇が広がっていた。
アリシアはノアと並んで、夜空を見上げる。
星は少ない。
でも、確かにある。
「ノア」
「何?」
「黒い光……また見ても、怖いと思う」
「でしょうね」
「でも、今日みたいに見られるなら……少しずつ、知れるかもしれない」
「ええ」
「私の闇が、何を守るものなのか」
ノアはアリシアを見た。
金色の瞳が、夜の中で静かに光る。
「その問いを持てたなら、今日は十分よ」
アリシアは頷いた。
黒い光は、まだ謎のまま。
黒月はまだ眠っている。
夜の守り手の意味も分からない。
でも、逃げるだけのものではなくなった。
アリシアは胸元の守り袋に触れる。
「おじいちゃん……私、見たよ」
声は小さかった。
けれど、まっすぐだった。
夜は何も答えない。
ただ、静かにそこにある。
黒い夜。
星を抱く色。
ノアの色。
そして、アリシアの中に眠る光の色。
アリシアはその夜を、初めて少しだけ怖くないと思った。




