第165話 同じように届くものでも、何を伝えているかまで同じとは限らない
翌朝、生活観測区画の窓には薄い雲がかかっていた。
雨は降っていない。昨日の夜に残っていた湿気も少しずつ抜け、庭の石畳はほとんど乾いている。ただ、雲越しの光は白く柔らかく、いつもの朝より影が薄かった。植え込みの葉も風に大きく揺れることはなく、窓を少し開けても、入ってくるのは湿り気をわずかに残した静かな空気だけだった。
アリシアは目を覚ますと、すぐに胸へ手を当てた。
もう癖になりかけている。
冷たさなし。
重さなし。
震えなし。
痛みも苦しさもない。
そこまで確認してから、ようやく手を離した。
『今日は短かったわね』
寝台の足元で丸くなっていたノアが言った。
「何が?」
『胸へ手を当ててる時間』
「測ってたの?」
『猫の体感で』
「それ適当でしょ」
『昨日より短かったことくらい分かるわよ』
アリシアは少しだけ笑いながら身体を起こした。
机の上には、自分の練習帳と学院から届いた朝の報告が置かれている。
けれど今日は、起きてすぐには報告書へ手を伸ばさなかった。
昨日の最後に自分で書いた一文が、まだ頭に残っている。
――六つ目も、ずっと前からあったのに見られなくなったものなのかもしれない。
事実ではない。
仮説とも呼べるほど形が整っていない。
自分がそう思ったというだけの記録。
それでも昨夜は、その一文を書いたあと、なかなか眠れなかった。
『また考えてる』
「うん」
『通信波?』
「それも」
『六つ目?』
「それも」
『全部一緒にし始めてないでしょうね』
アリシアは一瞬だけ黙った。
「……少し」
『ほら』
「でも、今気づいたからいいでしょ」
『早く気づいた分は褒めてあげる』
「何割?」
『六割』
「微妙」
『残り四割は、昨日の夜から考えてた時間』
「厳しい」
ノアが尻尾を一度動かした。
『あなた、通信って言葉に期待しすぎなのよ』
「分かってる」
『本当に?』
「期待八」
『数字にしたら許されると思ってる?』
「違うよ」
アリシアは机へ視線を向けた。
「通信って聞くと、“つなぐ”に近い気がするから」
『ええ』
「だから六つ目と近いんじゃないかって思いたくなる」
『ええ』
「でも、通信波が出てるからって、その通信を六つ目が出してるとは限らない」
『そうね』
「六つ目が受け取ってるとも限らない」
『そうね』
「ただ同じ場所で別々に起きてるだけかもしれない」
『そこまで言えるなら、朝としては悪くないわ』
少しだけ安心した。
期待は消えない。
むしろ、かなりある。
でも、期待があることと、それに合わせて記録を読むことは同じではない。
その違いを、昨日より少しだけ意識できている。
そこで隣の寝台から布の動く音がした。
「……朝?」
「うん。おはよう」
「おはよう」
子供はまだ眠そうな顔で天井を見た。
次に窓。
今日は鳥が一羽。
昨日は見えなかった。
「一羽」
「うん」
「昨日は見えなかった」
「そうだね」
「今日の一羽」
「うん」
それから顔のない存在の寝台へ向く。
「おはよう」
胸の十一の光。
すぐには変わらない。
待つ。
一つ。
二つ。
さらに少しして、三つ目が淡く明るくなった。
「今は三つ」
「うん」
「昨日の夜は?」
「三つだったと思う」
「同じ?」
「数はね」
「今日の三つ」
「うん」
子供は納得すると、寝台から降りた。
足裏。
赤みなし。
痛みなし。
足首。
違和感なし。
床を四歩ほど歩く。
「大丈夫」
「あとでセレナにも?」
「うん。見るだけ」
いつもの確認を済ませたあと、子供は迷わず木箱へ向かった。
アリシアも少しだけ姿勢を変える。
昨日。
茶色いものの端を持ち上げた。
その下に暗い何かがあることまで見えた。
けれど、それ以上は進まなかった。
「今日、箱?」
「うん」
子供は箱の前へ座る。
「朝から?」
「昨日から見たい」
「今、どのくらい?」
「八」
「怖さは?」
「三」
昨日より少し落ち着いている。
「下の暗いの見たい」
「うん」
「でも今日は、先に見るだけ」
「触らない?」
アリシアが尋ねると、子供は少し考えた。
「まだ決めてない」
「うん」
「でも、最初は見る」
「分かった」
蓋へ両手をかける。
ゆっくり持ち上げる。
木と木が擦れる音。
朝の柔らかな光が箱の中へ差し込んだ。
茶色いもの。
昨日より見慣れた。
端の位置も分かる。
子供は右手を入れ、昨日と同じ場所をつまむ。
「ここ」
少し持ち上げる。
下側。
暗いもの。
「ある」
「うん」
「昨日と同じ?」
アリシアは魔力感知を弱く保ちながら答える。
「見える位置は近いね」
「大きさは?」
「まだ全体見えないから分からない」
「形」
「それも」
子供は少し眉を寄せた。
「暗い」
「うん」
「黒?」
「黒っぽく見える」
「茶色じゃない?」
「少なくとも茶色いものより暗いね」
子供は持ち上げる高さを変えず、その角度だけ少し変えた。
すると。
「あ」
「何?」
「光」
暗いものの一部へ朝の光が当たった。
ほんの少しだけ。
「……光った?」
アリシアも見えた。
黒に近い表面の一部が、鈍く反射した。
「布じゃない?」
子供が聞く。
「布でも光るものはあるけど」
「でも硬そう」
「そう見えるね」
「金属?」
「可能性はある」
子供の目が大きくなる。
「箱の中に金属?」
「あるかもしれない」
「武器?」
言ってから、子供自身が止まった。
「……分からない」
「うん」
「危ない?」
「今の魔力感知では、急な危険反応はないよ」
「触ったら?」
「それはまだ分からない」
「触りたい」
「うん」
「今、九」
上がった。
「怖さは?」
「四」
子供の呼吸が少し浅くなる。
手は茶色いものを持ち上げたまま。
「どうする?」
アリシアが聞く。
子供はしばらく暗いものを見た。
「……今日は、まだ触らない」
「どうして?」
「金属かもしれないって分かった」
「うん」
「武器かもって思った」
「うん」
「それ考えたら、怖さちょっと上がった」
「どのくらい?」
「四から五に近い」
「相談する?」
「うん」
子供は茶色いものをゆっくり戻した。
蓋も閉じる。
それから手を離し、少しだけ後ろへ下がった。
「今、怖さ四」
「下がった?」
「うん」
「見たいは?」
「八」
「まだ高いね」
「うん」
「でも今日は?」
「朝はここまで」
「朝は?」
「あとで変わるかも」
「分かった」
子供は箱を見たまま言う。
「暗いの、金属かもしれない」
「うん」
「でも金属だから武器じゃない」
「そうだね」
「箱に入ってるから大事なものとも限らない」
「うん」
「でも、そう思いたくなる」
「どうして?」
「箱の中だったから」
アリシアは少しだけ息を止めた。
箱の中にある。
隠されている。
だから重要。
だから危険。
だから特別。
そういう意味を足したくなる。
「今分かったのは?」
子供が自分から言う。
「黒っぽい。少し光った。硬そうに見えた。金属かもしれない」
「うん」
「武器はまだ」
「うん」
子供は少しだけ満足そうに頷いた。
◇
朝食の頃には、東側の夜間再解析について最初の報告が届いていた。
学院長が生活観測区画の扉の外へ来る。
「昨日より寝た?」
子供がすぐに尋ねた。
「そこからか」
「大事」
「六時間」
「増えた」
「少しな」
「いい?」
「俺の睡眠時間を観測対象にするな」
「でも増えた」
「数字だけ見ればな」
子供が少し笑う。
「昨日よりいいって決めない?」
「決めるな」
「学院長、自分で言えた」
「誰のせいだ」
アリシアは朝食を食べながら笑いを堪えた。
『完全に教育されてるわね』
「ノアもだよ」
『私は違う』
「昨日自分で言ってたじゃん」
『あれは確認』
「ずるい」
学院長が咳払いする。
「そろそろ本題に入っていいか?」
「うん」
「はい」
アリシアも姿勢を少し正した。
「昨夜、追加で十二時刻帯を再解析した」
「十二?」
「ああ」
「多い」
「観測班が頑張った」
「寝た?」
「俺じゃない」
「観測員」
「交代でな」
そこまで確認してから、学院長が続ける。
「微弱通信波候補について、昨日までより少し分類が進んだ」
アリシアの匙が止まった。
「分類?」
「全部同じ波形ではなかった」
「え?」
胸の中にあった期待が、少しだけ形を変える。
「違う通信?」
「そう見える」
「何種類?」
「今のところ、大きく三つへ分けられそうだ」
『また三つ』
「ノアがまた三つって」
「俺も今それを言われる気がした」
学院長の声に少し疲れが混じる。
「一つ目。短く立ち上がって、すぐ消える波形」
「うん」
「二つ目。弱いまま少し長く続く波形」
「うん」
「三つ目。最初は弱いが、奥側新反応の低下に合わせて少し強くなる波形」
アリシアは眉を寄せた。
「昨日見たのはどれ?」
「アリシアが冷感を感じた四例のうち、三例が三つ目」
「強くなるやつ」
「そうだ」
「残り一個は?」
「一つ目に近い短い波形」
「じゃあ、全部同じじゃない」
「そうだ」
「感じなかったときの通信波候補は?」
「昨日話した一例は、二つ目に近い」
「弱く長い」
「ああ」
アリシアは少し考える。
「じゃあ、通信波があるかないかじゃなくて、形が違う?」
「その可能性が上がった」
「私が感じるのは三つ目?」
「今の記録では、それが一番多い」
「強くなるやつ」
「そうだ」
「でも一つ目でも感じた」
「ああ」
「じゃあ、三つ目だけじゃない」
「そういうことだ」
アリシアは少しだけ口を尖らせた。
「もうちょっと簡単になったと思ったのに」
「簡単にはなってないな」
「でも」
学院長が続ける。
「昨日までより、問いは細かくなった」
子供がすぐ反応する。
「分からないの中身?」
「そうだ」
「通信あるかじゃない?」
「今は、どの通信波ならアリシア側の感覚と重なりやすいか、まで進んだ」
アリシアも小さく頷いた。
「同じ通信波じゃない」
「少なくとも、今の分類ではな」
「じゃあ、何伝えてるかも違う?」
思わず尋ねる。
学院長はすぐには答えなかった。
「そこはまだ分からない」
「でも波形違う」
「違う」
「なら内容も違うかもしれない」
「可能性はある」
「同じでも形だけ違うかも?」
「ある」
「設備の状態で変わる?」
「ある」
「送り先で変わる?」
「それも候補だ」
「……いっぱい」
「戻ったな」
アリシアは少し笑った。
◇
午前の正式会議では、「通信波」という呼び方そのものも見直された。
会議室の机には、昨日再解析した記録が新しく分類されている。
短時間型。
持続型。
変調型。
魔導具教師が暫定的に付けた名称だった。
「通信と呼ぶのも、まだ仮です」
教師が最初に言った。
アリシアは少し残念そうな顔になる。
「通信じゃないかもしれない?」
「通信に使われていた可能性はあります。ただ、現時点で『情報を伝えている』と断定できる根拠は足りません」
「でも古い設備同士で出る」
「はい」
「波形も違う」
「はい」
「じゃあ何?」
「だから調べます」
アリシアが少し沈む。
若い観測員が横から笑った。
「サーラさんみたいな答えになってきましたね」
「何か?」
サーラが見る。
「何でもないです」
「続けます」
魔導具教師が三種類を順番に示す。
「短時間型は、数呼吸以内で立ち上がり、短く消える。持続型は、極めて弱い状態で長く続く。変調型は、弱く始まり、その後に振幅が変化する」
「変調型が一番、私が感じるとき多い」
「現時点では」
「どのくらい?」
「確認できた自覚反応七例中、五例で変調型または変調型に近い波形があります」
「五」
「一例は短時間型。一例は記録欠損」
「感じなかったときは?」
サーラが別紙を出す。
「東側奥部に何らかの変動があったものの、アリシアさん側で自覚反応がなかった九例。そのうち変調型は一例」
「一個ある」
「あります」
「持続型は?」
「四例」
「短時間型」
「二例」
「なし」
「二例」
アリシアは紙を見つめる。
「じゃあ変調型、かなり多い」
「自覚反応あり側では」
「でも無反応にも一個ある」
「はい」
「それ、強さは?」
「自覚反応あり側よりかなり弱い」
「じゃあ、変調型で、ある程度強いと感じる?」
「仮説としては立てられます」
アリシアの目が少し明るくなる。
「次、それ調べたい」
「今日は刺激しません」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてあります」
『本当に分かりやすいわね』
「ノアまで」
副学院長が資料を見ながら口を挟む。
「刺激をするにしても、次は波形を意図的に変えられるかの確認が必要だ」
「人間側で?」
「そうだ。今までは補助連絡線へ刺激を入れた結果、奥側で何が起きるかを見ていた。次に“変調型だけを作る”と言っても、こちらが直接奥側へ同じ波を送れるわけではない」
「じゃあどうするの?」
「まず、どんな刺激を入れたときに、どの波形が出たかを過去記録で照合する」
アリシアが少しだけ肩を落とす。
「また過去記録」
「嫌か?」
「嫌じゃない」
少し考える。
「でも、早く試したい」
「それも記録します?」
若い観測員が冗談っぽく聞く。
「九」
「高い」
「期待は八」
「怖さは?」
「三」
「地下へ行きたい?」
「五」
「質問多いな」
「そっちが聞いたんでしょ」
周囲に少し笑いが起こった。
◇
会議では、今日の調査目的が二つに絞られた。
一つ目。
三種類の微弱波形が、どんな条件で出やすいかを過去記録から確認する。
二つ目。
それぞれの波形が、東側だけで完結しているのか、それとも西側補助連絡線や名前のない光、小空洞など、別の場所にも対応変化を伴っているかを調べる。
「同じ通信波でも、行き先違うかもしれない?」
アリシアが尋ねる。
「そもそも行き先があるかもまだ分かりません」
サーラが答える。
「また通信じゃないって言われた」
「暫定的に通信波候補です」
「長い」
「正確です」
「若い観測員が好きそう」
「俺ですか?」
「いつも言い直してるから」
「最近は俺よりアリシアさんの方が早いですよ」
「勝負してない」
「そうでした」
少し笑いが広がる。
そのあと、サーラが表情を戻した。
「特に見るのは、波形が出た順序です」
「順序?」
「例えば、奥側新反応が先に変わってから通信波候補が出るのか。通信波候補が先に出てから奥側が変わるのか」
アリシアの目が少し大きくなる。
「昨日見たの、通信が先のときあった」
「はい」
「最初の冷たい震えとか」
「二呼吸ほど前でした」
「じゃあ通信が合図?」
「可能性の一つです」
「奥側が返事?」
「可能性の一つ」
「逆もある?」
「あります」
別の記録。
奥側低下開始。
その後に短時間型の波形。
「こっちは奥が先」
「はい」
「じゃあ同じじゃない」
「そうです」
「通信って言っても、送ったのか返したのか分からない」
「そもそも送受信という構造かどうかも未確定です」
アリシアは頭を抱えたくなった。
「どんどん慎重になる」
「進んでいる証拠ですよ」
「そう?」
「以前は、何が起きているか分からないから一括りでした。今は、違う可能性が見えたから分けています」
「……うん」
分けられるようになった。
だから面倒になった。
でも、それは悪いことではない。
◇
昼前。
生活観測区画へ戻ると、子供は木箱ではなく顔のない存在の近くに座っていた。
人影は寝台から起き上がり、今日はまだ二歩しか歩いていない。
そこで床へ座っている。
「今日は二」
子供が言った。
「うん」
「昨日は四」
「うん」
「半分」
少し止まる。
「歩数は半分」
「そうだね」
「だから悪い?」
今度は自分で首を横へ振る。
「違う」
「うん」
「今日は二歩の日」
「うん」
胸の十一の光。
明るいのは四つ。
「歩数二。光四」
「うん」
「昨日は歩数四。光三」
「うん」
「逆?」
「数字だけなら」
「じゃあ、歩くと光減る?」
言ったあと。
子供の口が止まる。
「……二日だけ」
「うん」
「しかも昨日夜と今日昼」
「うん」
「時間も違う」
「うん」
「じゃあ分からない」
「そうだね」
子供は少し考える。
「アリシアの通信も、同じみたいなのに違う?」
「うん。三種類あるかもしれないって」
「三つ?」
「今のところ」
「どれ感じる?」
「一番多いのは、途中で強さが変わるやつ」
「同じ通信じゃない?」
「そうみたい」
「何言ってるか違う?」
「それはまだ分からない」
子供は人影の胸を見る。
「十一の光も、全部同じ光?」
不意の問いだった。
アリシアも少し黙る。
「今は、十一個あるって見てるだけだね」
「全部同じ?」
「分からない」
「場所違う」
「うん」
「明るくなる順番も違う」
「うん」
「じゃあ、一個ずつ違うかも」
アリシアの胸が少しだけざわつく。
「……そうかもしれないね」
顔のない存在。
十一の光。
今まで数ばかり見ていた。
どれが明るいかについては一部記録がある。
けれど、十一それぞれの位置や順序を、東側の微弱波形と細かく照合したことはない。
頭の中で線が伸びそうになる。
子供。
顔のない存在。
十一の光。
六つ目。
通信波。
アリシアは自分で止めた。
「……今は別」
「何が?」
「十一の光と通信」
「関係ない?」
「関係あるかもしれない。でも、まだ一緒にする理由がない」
「うん」
「今思いついたってだけ」
「記録する?」
子供に聞かれる。
アリシアは少し考えた。
「自分の練習帳には」
「学院には?」
「今はまだ、思いついたって伝えるくらいかな」
子供は頷いた。
「思ったと事実、別」
「うん」
◇
昼食のあと。
子供はもう一度木箱の前へ座った。
朝は黒っぽく光るものを見て、金属かもしれないと分かったところで止めている。
「今、見たい?」
アリシアが尋ねる。
「七」
「朝八だった」
「うん」
「下がった?」
「顔のない人見てたから」
「忘れた?」
「忘れてない。でもずっと考えてない」
「そっか」
「怖さは?」
「三」
「触りたい?」
子供は少し考える。
「五」
「見るだけは?」
「七」
「今日はどうする?」
「もう一回見る」
蓋を開ける。
茶色いもの。
端を持ち上げる。
暗いもの。
光を少し当てる。
「光る」
「うん」
「朝と同じところ?」
「近いね」
「形……」
子供が首を傾げる。
「丸くない」
「うん」
「長い?」
「一部は細長く見える」
「板?」
「かもしれない」
「剣?」
また出る。
けれど今回はすぐ続ける。
「みたいに見えるかもしれない。でも剣って分からない」
「うん」
「持つところ見えない」
「そうだね」
「刃も分からない」
「うん」
子供は箱の中をじっと見る。
「金属の板かも」
「うん」
「道具かも」
「うん」
「何かの箱の中身かも」
「うん」
「いっぱい」
「そうだね」
「触ったら少し分かる?」
「材質や硬さは」
「取り出したら?」
「形はもっと分かると思う」
「全部?」
「全部じゃないかも」
子供は少し笑った。
「もう分かる」
「何が?」
「一個やっても全部じゃない」
「うん」
右手が少し伸びる。
暗いものへ。
あと少し。
指先が近づく。
そこで止まる。
「……触りたい六」
「上がった」
「うん」
「怖さは?」
「四」
子供の指はそのままだ。
「触る?」
アリシアは答えを渡さない。
子供自身が考える。
「朝は触らなかった」
「うん」
「今も怖い」
「うん」
「でも、朝より形見た」
「うん」
「触ったら、硬いか分かる」
「うん」
「今日は……」
指先がゆっくり前へ進んだ。
暗いものへ触れる。
ほんの一瞬。
子供の肩が跳ねる。
「冷たい」
「うん」
「硬い」
「うん」
「金属……っぽい」
「そう感じる?」
「うん」
すぐに手を引いた。
箱から離れる。
呼吸が少し速い。
「怖さ」
「五」
「相談する?」
「うん」
「何が怖かった?」
「硬かった」
「うん」
「金属って思った」
「うん」
「何か分からない」
「うん」
「触れたら、もっと分からない感じした」
「どういうこと?」
子供は自分の指先を見る。
「触ったら答え増えると思った。でも、硬いって分かっただけだった」
「うん」
「金属かも。でも何の金属か分からない。何に使うか分からない。どうして箱にあるか分からない」
「うん」
「いっぱい増えた」
「怖い?」
「五」
「今日は?」
子供は箱を見る。
「閉じる」
茶色いものを戻し。
蓋を閉じる。
少し離れる。
「今、怖さ四」
「触りたいは?」
「二」
「下がったね」
「分かったことあったから」
「うん」
「でも分からないことも増えた」
「うん」
「……アリシアと同じ?」
「かなり」
思わず笑ってしまった。
◇
午後の再解析では、微弱波形の発生順序に明確な違いが見つかり始めた。
短時間型。
奥側変化より先に出る例。
ほぼ同時の例。
奥側変化よりあとに出る例。
持続型。
多くは奥側変化の前からすでに弱く存在し、変化後もしばらく残る。
変調型。
奥側変化の直前から現れ、低下幅に合わせるように振幅が変わる例が多い。
「変調型が一番、連動っぽい」
若い観測員が言う。
「“連動しているように見える”です」
サーラが訂正する。
「はい」
「でも?」
「奥側新反応の低下が大きいと、変調型の振幅も大きくなる例が多い」
「今のところは」
「はい」
「アリシアさんが感じた強さも?」
「一致例があります」
若い観測員が三枚の記録を並べる。
冷感〇・五。
変調型弱。
冷感一。
変調型中。
初回の冷たい震え。
変調型は中程度。
「これ、かなり関係ありそう」
「そうですね」
「でも無反応一例」
「あります」
「弱い変調型」
「はい」
「じゃあ閾値?」
サーラが少しだけ目を細める。
「可能性は上がっています」
「閾値って、一定の強さ超えたら感じる?」
「そういう考えです。ただし、強さだけとは限りません」
「速度も?」
「はい」
「長さも?」
「はい」
「また三つ」
「増やさないでください」
「俺が増やしたんじゃないですよ」
記録係が笑う。
◇
その日の夕方。
学院長から途中結果を聞いたアリシアは、少し長く黙った。
「変調型」
「ああ」
「一番重なる」
「今のところはな」
「しかも強い方が私も感じやすい」
「その傾向はある」
「じゃあ次、強さ変える?」
「まだ決めない」
「分かってる」
言いながら少し口を尖らせる。
「でも、次に見たいのはそれ」
「何を?」
「変調型の強さ」
「速度じゃなく?」
「それも気になる」
「長さは?」
「それも」
「三つあるぞ」
「一個ずつ!」
アリシアが少し強めに言う。
扉の向こうで学院長が笑った。
「なら、どれから?」
アリシアは考える。
強さ。
速度。
長さ。
どれも気になる。
でも。
「強さ」
「理由は?」
「今の記録で、一番分かりやすく違いがあるから」
「うん」
「弱い変調型のとき、感じなかった例がある」
「そうだな」
「中くらい以上で感じた例が多い」
「ああ」
「なら、強さが違うと私が感じるかを比べたい」
「納得できる」
「明日?」
「まだ」
「分かってるってば」
『顔が分かってない』
「ノア黙って」
少し笑いが広がる。
◇
夜。
顔のない存在は、夕方からそれ以上歩かなかった。
今日は二歩。
胸の十一の光は、寝る前には三つ。
昼は四つだった。
「一つ暗くなった」
子供が言う。
「うん」
「どれ?」
アリシアも見る。
昼に四つ明るかったうち、一つが弱くなっている。
「場所、残す?」
子供が尋ねる。
「どうしたい?」
「今日は残したい」
子供は簡単な人型の絵を紙へ描き。
胸の位置へ十一個の小さな点を置いた。
「十一、描く?」
「大変そう」
「うん」
それでも一つずつ描く。
少しずれながら。
正確な解剖図ではない。
でも、今見えている配置に近づけようとしている。
「昼の四つ、覚えてる?」
「二つは分かる」
「全部は?」
「分からない」
「じゃあ、今日夜の三つだけ描く」
「うん」
明るい三点へ丸を付ける。
「明日変わったら?」
「また描く」
「毎回?」
「したい日」
「うん」
アリシアはそれを見ながら、午後に浮かんだ考えを思い出した。
十一の光。
一つずつ違うかもしれない。
でも。
まだ、東側の通信波候補とは結び付けない。
ただ。
「子供」
「何?」
「今日の絵、学院の記録にも写していい?」
「どうして?」
「十一の光、どの位置が明るいかを今までより細かく残したい」
「通信と比べる?」
鋭い。
アリシアは少し黙ってから答えた。
「今は、比べるためって決めない」
「じゃあ?」
「今まで数しか見てない日が多かったから。位置も残せるなら残したいと思った」
「あとで使うかも?」
「うん」
「使わないかも?」
「うん」
子供は少し考えて。
「いいよ」
「ありがとう」
「でも私の絵も残す」
「もちろん」
◇
寝台へ入ったあと。
子供は今日触れた黒っぽいもののことを考えていた。
「硬かった」
「うん」
「冷たかった」
「うん」
「金属みたい」
「うん」
「でも何か分からない」
「うん」
「触ったら、分からない小さくなると思った」
「少しは?」
「金属かもって小さくなった」
「うん」
「でも何に使うかが増えた」
「そっか」
「剣かも」
「うん」
「板かも」
「うん」
「道具かも」
「うん」
「何か包んでるものかも」
「うん」
「いっぱい」
「いっぱいだね」
「でも、今は嫌じゃない」
「どうして?」
子供は少し考えた。
「触る前より、何が分からないか分かるから」
アリシアは微かに笑った。
「今日ずっとそれだね」
「アリシアも?」
「うん」
「通信、同じじゃなかった」
「三種類あるかもしれない」
「一番感じるの、途中で強くなるやつ」
「うん」
「でも全部じゃない」
「うん」
「じゃあ、何が分からない?」
子供に聞かれ。
アリシアは少し考えた。
「変調型っていう波が、何なのか」
「うん」
「どうして私が感じるのか」
「うん」
「どのくらい強いと感じるのか」
「うん」
「強さだけなのか」
「うん」
「あと……何を伝えてるのか」
最後の言葉を言うと。
胸の奥が少しざわついた。
「伝えてる?」
「通信なら、だけどね」
「何か言ってる?」
「分からない」
「誰に?」
「分からない」
「東から西?」
「それも分からない」
「六つ目に?」
アリシアは少し息を止めた。
「……それも、まだ分からない」
子供は天井を見る。
「じゃあ、いっぱい」
「うん」
「でも前より小さい?」
「かなり」
以前は。
六つ目とは何か。
その問いしかなかった。
今は。
どの波を感じるのか。
強さなのか。
形なのか。
順序なのか。
何を伝える波なのか。
問いの数は増えている。
なのに。
大きな霧は少し薄くなっていた。
「じゃあ明日」
子供が言う。
「強さ?」
「まだ決まってない」
「やりたい?」
「九」
「怖さ?」
「三」
「期待?」
「八」
「地下行きたい?」
「四」
「下がった」
「今は、場所より波を見たいから」
「変わった」
「うん」
「前、東行きたい八だった」
「そうだったね」
「今四」
「うん」
「行きたいなくなった?」
「なくなってないよ」
「でも今、一番じゃない」
「そうだね」
子供は少し笑った。
「いっぱい気持ちあっても、順番変わる」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
◇
アリシアはそのあとも少し起きていた。
練習帳へ今日のことを書く。
――微弱通信波候補は一種類ではなかった。
――短いもの、弱く長いもの、途中で強さが変わるもの。
――私が感じたときに多いのは、途中で強さが変わるもの。
――ただし、感じなかったときにも弱い例が一つある。
筆を止める。
そして、もう一行。
――同じように見えるものを、一つだと思わない。
昨日までは「通信波があるかどうか」だった。
今日は「どの通信波なのか」になった。
さらに。
その先には。
――同じように届くものでも、何を伝えているかまで同じとは限らない。
書いたあと、自分で少し眺めた。
『随分今日の題名みたいなこと書くじゃない』
「何それ」
『何でもない』
「ノアたまに変なこと言うよね」
『あなたほどじゃないわ』
アリシアは少し笑った。
「ノア」
『何?』
「通信波が、六つ目に何か伝えてる可能性ってあると思う?」
『あるかないかなら、あるんじゃない?』
「やっぱり?」
『期待で飛びつかない』
「分かってる」
『逆もあるでしょう』
「逆?」
『六つ目が何かを返してる可能性』
アリシアの手が止まった。
「返す……」
『通信なら、送る側と受ける側があるんでしょう?』
「うん」
『でも、今はどっちがどっちか分からない』
「……うん」
『そもそも通信じゃないかもしれない』
「うん」
『だから今日はそこまで』
アリシアは少し悔しそうな顔をした。
「ノアまで止める」
『今思いついたことを、今夜全部答えにしなくていいでしょう』
「分かってる」
練習帳へ、小さく一行だけ追加する。
――六つ目が受けているだけでなく、返している可能性もある。ただし今は思いついただけ。
囲まない。
強調もしない。
自分の考えとしてだけ残す。
◇
その夜。
東側地下区画では、自然な小変動が一度だけ起きた。
奥側新反応が、基準からほんのわずかに下がる。
変化は弱い。
継続も短い。
同時刻帯。
微弱波形。
持続型。
低い。
長くは続かない。
生活観測区画。
アリシアはすでに眠っている。
自覚申告なし。
胸部の外部計測にも目立った変化なし。
西側補助連絡線。
対応波形なし。
名前のない光。
変化なし。
小空洞。
静穏。
夜勤の観測員が記録する。
「持続型」
「はい」
「アリシアさん無反応」
「睡眠中」
「前にも似たのある?」
「あります」
「じゃあ、明日並べる」
「はい」
そこまで。
誰も結論を付けない。
新しく見つかった三分類。
そのうちの一つ。
持続型。
そして、アリシアは感じなかった。
また一例。
それだけ。
けれど、その一例も。
明日になれば。
変調型との違いを比べるための材料になる。
◇
生活観測区画では、誰もその変化を知らないまま眠っていた。
子供の木箱は閉じている。
中には茶色いもの。
その下には、硬く冷たい、黒っぽい何か。
今日初めて指先が触れた。
それでも正体はまだ分からない。
顔のない存在の胸では、十一の光のうち三つが淡く残っている。
今日はその位置も、子供の絵へ初めて細かく残された。
そしてアリシアの胸には。
何もない。
冷たさも。
重さも。
震えも。
今夜は、東側で弱い持続型の波が出ているにもかかわらず。
彼女は静かに眠り続けていた。
それが。
明日また一つ。
「感じる波」と「感じない波」の境目を考えるための材料になることも知らないまま。
同じ地下から届く弱い揺れでも。
全部が同じものとは限らない。
同じように見える光でも。
一つずつ違う可能性がある。
同じ箱の中に入っているものでも。
茶色いものと、その下の硬いものは別かもしれない。
分ける。
比べる。
似ているから一つにしない。
違って見えるから無関係とも決めない。
その繰り返しの先で。
忘れられた六つ目の神器が、本当に何を受け取り。
何を感じ。
あるいは。
何かを返しているのか。
ほんの少しずつ。
確かめるための形が、整い始めていた。




