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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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165/180

第165話 同じように届くものでも、何を伝えているかまで同じとは限らない



 翌朝、生活観測区画の窓には薄い雲がかかっていた。


 雨は降っていない。昨日の夜に残っていた湿気も少しずつ抜け、庭の石畳はほとんど乾いている。ただ、雲越しの光は白く柔らかく、いつもの朝より影が薄かった。植え込みの葉も風に大きく揺れることはなく、窓を少し開けても、入ってくるのは湿り気をわずかに残した静かな空気だけだった。


 アリシアは目を覚ますと、すぐに胸へ手を当てた。


 もう癖になりかけている。


 冷たさなし。


 重さなし。


 震えなし。


 痛みも苦しさもない。


 そこまで確認してから、ようやく手を離した。


『今日は短かったわね』


 寝台の足元で丸くなっていたノアが言った。


「何が?」


『胸へ手を当ててる時間』


「測ってたの?」


『猫の体感で』


「それ適当でしょ」


『昨日より短かったことくらい分かるわよ』


 アリシアは少しだけ笑いながら身体を起こした。


 机の上には、自分の練習帳と学院から届いた朝の報告が置かれている。


 けれど今日は、起きてすぐには報告書へ手を伸ばさなかった。


 昨日の最後に自分で書いた一文が、まだ頭に残っている。


 ――六つ目も、ずっと前からあったのに見られなくなったものなのかもしれない。


 事実ではない。


 仮説とも呼べるほど形が整っていない。


 自分がそう思ったというだけの記録。


 それでも昨夜は、その一文を書いたあと、なかなか眠れなかった。


『また考えてる』


「うん」


『通信波?』


「それも」


『六つ目?』


「それも」


『全部一緒にし始めてないでしょうね』


 アリシアは一瞬だけ黙った。


「……少し」


『ほら』


「でも、今気づいたからいいでしょ」


『早く気づいた分は褒めてあげる』


「何割?」


『六割』


「微妙」


『残り四割は、昨日の夜から考えてた時間』


「厳しい」


 ノアが尻尾を一度動かした。


『あなた、通信って言葉に期待しすぎなのよ』


「分かってる」


『本当に?』


「期待八」


『数字にしたら許されると思ってる?』


「違うよ」


 アリシアは机へ視線を向けた。


「通信って聞くと、“つなぐ”に近い気がするから」


『ええ』


「だから六つ目と近いんじゃないかって思いたくなる」


『ええ』


「でも、通信波が出てるからって、その通信を六つ目が出してるとは限らない」


『そうね』


「六つ目が受け取ってるとも限らない」


『そうね』


「ただ同じ場所で別々に起きてるだけかもしれない」


『そこまで言えるなら、朝としては悪くないわ』


 少しだけ安心した。


 期待は消えない。


 むしろ、かなりある。


 でも、期待があることと、それに合わせて記録を読むことは同じではない。


 その違いを、昨日より少しだけ意識できている。


 そこで隣の寝台から布の動く音がした。


「……朝?」


「うん。おはよう」


「おはよう」


 子供はまだ眠そうな顔で天井を見た。


 次に窓。


 今日は鳥が一羽。


 昨日は見えなかった。


「一羽」


「うん」


「昨日は見えなかった」


「そうだね」


「今日の一羽」


「うん」


 それから顔のない存在の寝台へ向く。


「おはよう」


 胸の十一の光。


 すぐには変わらない。


 待つ。


 一つ。


 二つ。


 さらに少しして、三つ目が淡く明るくなった。


「今は三つ」


「うん」


「昨日の夜は?」


「三つだったと思う」


「同じ?」


「数はね」


「今日の三つ」


「うん」


 子供は納得すると、寝台から降りた。


 足裏。


 赤みなし。


 痛みなし。


 足首。


 違和感なし。


 床を四歩ほど歩く。


「大丈夫」


「あとでセレナにも?」


「うん。見るだけ」


 いつもの確認を済ませたあと、子供は迷わず木箱へ向かった。


 アリシアも少しだけ姿勢を変える。


 昨日。


 茶色いものの端を持ち上げた。


 その下に暗い何かがあることまで見えた。


 けれど、それ以上は進まなかった。


「今日、箱?」


「うん」


 子供は箱の前へ座る。


「朝から?」


「昨日から見たい」


「今、どのくらい?」


「八」


「怖さは?」


「三」


 昨日より少し落ち着いている。


「下の暗いの見たい」


「うん」


「でも今日は、先に見るだけ」


「触らない?」


 アリシアが尋ねると、子供は少し考えた。


「まだ決めてない」


「うん」


「でも、最初は見る」


「分かった」


 蓋へ両手をかける。


 ゆっくり持ち上げる。


 木と木が擦れる音。


 朝の柔らかな光が箱の中へ差し込んだ。


 茶色いもの。


 昨日より見慣れた。


 端の位置も分かる。


 子供は右手を入れ、昨日と同じ場所をつまむ。


「ここ」


 少し持ち上げる。


 下側。


 暗いもの。


「ある」


「うん」


「昨日と同じ?」


 アリシアは魔力感知を弱く保ちながら答える。


「見える位置は近いね」


「大きさは?」


「まだ全体見えないから分からない」


「形」


「それも」


 子供は少し眉を寄せた。


「暗い」


「うん」


「黒?」


「黒っぽく見える」


「茶色じゃない?」


「少なくとも茶色いものより暗いね」


 子供は持ち上げる高さを変えず、その角度だけ少し変えた。


 すると。


「あ」


「何?」


「光」


 暗いものの一部へ朝の光が当たった。


 ほんの少しだけ。


「……光った?」


 アリシアも見えた。


 黒に近い表面の一部が、鈍く反射した。


「布じゃない?」


 子供が聞く。


「布でも光るものはあるけど」


「でも硬そう」


「そう見えるね」


「金属?」


「可能性はある」


 子供の目が大きくなる。


「箱の中に金属?」


「あるかもしれない」


「武器?」


 言ってから、子供自身が止まった。


「……分からない」


「うん」


「危ない?」


「今の魔力感知では、急な危険反応はないよ」


「触ったら?」


「それはまだ分からない」


「触りたい」


「うん」


「今、九」


 上がった。


「怖さは?」


「四」


 子供の呼吸が少し浅くなる。


 手は茶色いものを持ち上げたまま。


「どうする?」


 アリシアが聞く。


 子供はしばらく暗いものを見た。


「……今日は、まだ触らない」


「どうして?」


「金属かもしれないって分かった」


「うん」


「武器かもって思った」


「うん」


「それ考えたら、怖さちょっと上がった」


「どのくらい?」


「四から五に近い」


「相談する?」


「うん」


 子供は茶色いものをゆっくり戻した。


 蓋も閉じる。


 それから手を離し、少しだけ後ろへ下がった。


「今、怖さ四」


「下がった?」


「うん」


「見たいは?」


「八」


「まだ高いね」


「うん」


「でも今日は?」


「朝はここまで」


「朝は?」


「あとで変わるかも」


「分かった」


 子供は箱を見たまま言う。


「暗いの、金属かもしれない」


「うん」


「でも金属だから武器じゃない」


「そうだね」


「箱に入ってるから大事なものとも限らない」


「うん」


「でも、そう思いたくなる」


「どうして?」


「箱の中だったから」


 アリシアは少しだけ息を止めた。


 箱の中にある。


 隠されている。


 だから重要。


 だから危険。


 だから特別。


 そういう意味を足したくなる。


「今分かったのは?」


 子供が自分から言う。


「黒っぽい。少し光った。硬そうに見えた。金属かもしれない」


「うん」


「武器はまだ」


「うん」


 子供は少しだけ満足そうに頷いた。


     ◇


 朝食の頃には、東側の夜間再解析について最初の報告が届いていた。


 学院長が生活観測区画の扉の外へ来る。


「昨日より寝た?」


 子供がすぐに尋ねた。


「そこからか」


「大事」


「六時間」


「増えた」


「少しな」


「いい?」


「俺の睡眠時間を観測対象にするな」


「でも増えた」


「数字だけ見ればな」


 子供が少し笑う。


「昨日よりいいって決めない?」


「決めるな」


「学院長、自分で言えた」


「誰のせいだ」


 アリシアは朝食を食べながら笑いを堪えた。


『完全に教育されてるわね』


「ノアもだよ」


『私は違う』


「昨日自分で言ってたじゃん」


『あれは確認』


「ずるい」


 学院長が咳払いする。


「そろそろ本題に入っていいか?」


「うん」


「はい」


 アリシアも姿勢を少し正した。


「昨夜、追加で十二時刻帯を再解析した」


「十二?」


「ああ」


「多い」


「観測班が頑張った」


「寝た?」


「俺じゃない」


「観測員」


「交代でな」


 そこまで確認してから、学院長が続ける。


「微弱通信波候補について、昨日までより少し分類が進んだ」


 アリシアの匙が止まった。


「分類?」


「全部同じ波形ではなかった」


「え?」


 胸の中にあった期待が、少しだけ形を変える。


「違う通信?」


「そう見える」


「何種類?」


「今のところ、大きく三つへ分けられそうだ」


『また三つ』


「ノアがまた三つって」


「俺も今それを言われる気がした」


 学院長の声に少し疲れが混じる。


「一つ目。短く立ち上がって、すぐ消える波形」


「うん」


「二つ目。弱いまま少し長く続く波形」


「うん」


「三つ目。最初は弱いが、奥側新反応の低下に合わせて少し強くなる波形」


 アリシアは眉を寄せた。


「昨日見たのはどれ?」


「アリシアが冷感を感じた四例のうち、三例が三つ目」


「強くなるやつ」


「そうだ」


「残り一個は?」


「一つ目に近い短い波形」


「じゃあ、全部同じじゃない」


「そうだ」


「感じなかったときの通信波候補は?」


「昨日話した一例は、二つ目に近い」


「弱く長い」


「ああ」


 アリシアは少し考える。


「じゃあ、通信波があるかないかじゃなくて、形が違う?」


「その可能性が上がった」


「私が感じるのは三つ目?」


「今の記録では、それが一番多い」


「強くなるやつ」


「そうだ」


「でも一つ目でも感じた」


「ああ」


「じゃあ、三つ目だけじゃない」


「そういうことだ」


 アリシアは少しだけ口を尖らせた。


「もうちょっと簡単になったと思ったのに」


「簡単にはなってないな」


「でも」


 学院長が続ける。


「昨日までより、問いは細かくなった」


 子供がすぐ反応する。


「分からないの中身?」


「そうだ」


「通信あるかじゃない?」


「今は、どの通信波ならアリシア側の感覚と重なりやすいか、まで進んだ」


 アリシアも小さく頷いた。


「同じ通信波じゃない」


「少なくとも、今の分類ではな」


「じゃあ、何伝えてるかも違う?」


 思わず尋ねる。


 学院長はすぐには答えなかった。


「そこはまだ分からない」


「でも波形違う」


「違う」


「なら内容も違うかもしれない」


「可能性はある」


「同じでも形だけ違うかも?」


「ある」


「設備の状態で変わる?」


「ある」


「送り先で変わる?」


「それも候補だ」


「……いっぱい」


「戻ったな」


 アリシアは少し笑った。


     ◇


 午前の正式会議では、「通信波」という呼び方そのものも見直された。


 会議室の机には、昨日再解析した記録が新しく分類されている。


 短時間型。


 持続型。


 変調型。


 魔導具教師が暫定的に付けた名称だった。


「通信と呼ぶのも、まだ仮です」


 教師が最初に言った。


 アリシアは少し残念そうな顔になる。


「通信じゃないかもしれない?」


「通信に使われていた可能性はあります。ただ、現時点で『情報を伝えている』と断定できる根拠は足りません」


「でも古い設備同士で出る」


「はい」


「波形も違う」


「はい」


「じゃあ何?」


「だから調べます」


 アリシアが少し沈む。


 若い観測員が横から笑った。


「サーラさんみたいな答えになってきましたね」


「何か?」


 サーラが見る。


「何でもないです」


「続けます」


 魔導具教師が三種類を順番に示す。


「短時間型は、数呼吸以内で立ち上がり、短く消える。持続型は、極めて弱い状態で長く続く。変調型は、弱く始まり、その後に振幅が変化する」


「変調型が一番、私が感じるとき多い」


「現時点では」


「どのくらい?」


「確認できた自覚反応七例中、五例で変調型または変調型に近い波形があります」


「五」


「一例は短時間型。一例は記録欠損」


「感じなかったときは?」


 サーラが別紙を出す。


「東側奥部に何らかの変動があったものの、アリシアさん側で自覚反応がなかった九例。そのうち変調型は一例」


「一個ある」


「あります」


「持続型は?」


「四例」


「短時間型」


「二例」


「なし」


「二例」


 アリシアは紙を見つめる。


「じゃあ変調型、かなり多い」


「自覚反応あり側では」


「でも無反応にも一個ある」


「はい」


「それ、強さは?」


「自覚反応あり側よりかなり弱い」


「じゃあ、変調型で、ある程度強いと感じる?」


「仮説としては立てられます」


 アリシアの目が少し明るくなる。


「次、それ調べたい」


「今日は刺激しません」


「まだ何も言ってない」


「顔に書いてあります」


『本当に分かりやすいわね』


「ノアまで」


 副学院長が資料を見ながら口を挟む。


「刺激をするにしても、次は波形を意図的に変えられるかの確認が必要だ」


「人間側で?」


「そうだ。今までは補助連絡線へ刺激を入れた結果、奥側で何が起きるかを見ていた。次に“変調型だけを作る”と言っても、こちらが直接奥側へ同じ波を送れるわけではない」


「じゃあどうするの?」


「まず、どんな刺激を入れたときに、どの波形が出たかを過去記録で照合する」


 アリシアが少しだけ肩を落とす。


「また過去記録」


「嫌か?」


「嫌じゃない」


 少し考える。


「でも、早く試したい」


「それも記録します?」


 若い観測員が冗談っぽく聞く。


「九」


「高い」


「期待は八」


「怖さは?」


「三」


「地下へ行きたい?」


「五」


「質問多いな」


「そっちが聞いたんでしょ」


 周囲に少し笑いが起こった。


     ◇


 会議では、今日の調査目的が二つに絞られた。


 一つ目。


 三種類の微弱波形が、どんな条件で出やすいかを過去記録から確認する。


 二つ目。


 それぞれの波形が、東側だけで完結しているのか、それとも西側補助連絡線や名前のない光、小空洞など、別の場所にも対応変化を伴っているかを調べる。


「同じ通信波でも、行き先違うかもしれない?」


 アリシアが尋ねる。


「そもそも行き先があるかもまだ分かりません」


 サーラが答える。


「また通信じゃないって言われた」


「暫定的に通信波候補です」


「長い」


「正確です」


「若い観測員が好きそう」


「俺ですか?」


「いつも言い直してるから」


「最近は俺よりアリシアさんの方が早いですよ」


「勝負してない」


「そうでした」


 少し笑いが広がる。


 そのあと、サーラが表情を戻した。


「特に見るのは、波形が出た順序です」


「順序?」


「例えば、奥側新反応が先に変わってから通信波候補が出るのか。通信波候補が先に出てから奥側が変わるのか」


 アリシアの目が少し大きくなる。


「昨日見たの、通信が先のときあった」


「はい」


「最初の冷たい震えとか」


「二呼吸ほど前でした」


「じゃあ通信が合図?」


「可能性の一つです」


「奥側が返事?」


「可能性の一つ」


「逆もある?」


「あります」


 別の記録。


 奥側低下開始。


 その後に短時間型の波形。


「こっちは奥が先」


「はい」


「じゃあ同じじゃない」


「そうです」


「通信って言っても、送ったのか返したのか分からない」


「そもそも送受信という構造かどうかも未確定です」


 アリシアは頭を抱えたくなった。


「どんどん慎重になる」


「進んでいる証拠ですよ」


「そう?」


「以前は、何が起きているか分からないから一括りでした。今は、違う可能性が見えたから分けています」


「……うん」


 分けられるようになった。


 だから面倒になった。


 でも、それは悪いことではない。


     ◇


 昼前。


 生活観測区画へ戻ると、子供は木箱ではなく顔のない存在の近くに座っていた。


 人影は寝台から起き上がり、今日はまだ二歩しか歩いていない。


 そこで床へ座っている。


「今日は二」


 子供が言った。


「うん」


「昨日は四」


「うん」


「半分」


 少し止まる。


「歩数は半分」


「そうだね」


「だから悪い?」


 今度は自分で首を横へ振る。


「違う」


「うん」


「今日は二歩の日」


「うん」


 胸の十一の光。


 明るいのは四つ。


「歩数二。光四」


「うん」


「昨日は歩数四。光三」


「うん」


「逆?」


「数字だけなら」


「じゃあ、歩くと光減る?」


 言ったあと。


 子供の口が止まる。


「……二日だけ」


「うん」


「しかも昨日夜と今日昼」


「うん」


「時間も違う」


「うん」


「じゃあ分からない」


「そうだね」


 子供は少し考える。


「アリシアの通信も、同じみたいなのに違う?」


「うん。三種類あるかもしれないって」


「三つ?」


「今のところ」


「どれ感じる?」


「一番多いのは、途中で強さが変わるやつ」


「同じ通信じゃない?」


「そうみたい」


「何言ってるか違う?」


「それはまだ分からない」


 子供は人影の胸を見る。


「十一の光も、全部同じ光?」


 不意の問いだった。


 アリシアも少し黙る。


「今は、十一個あるって見てるだけだね」


「全部同じ?」


「分からない」


「場所違う」


「うん」


「明るくなる順番も違う」


「うん」


「じゃあ、一個ずつ違うかも」


 アリシアの胸が少しだけざわつく。


「……そうかもしれないね」


 顔のない存在。


 十一の光。


 今まで数ばかり見ていた。


 どれが明るいかについては一部記録がある。


 けれど、十一それぞれの位置や順序を、東側の微弱波形と細かく照合したことはない。


 頭の中で線が伸びそうになる。


 子供。


 顔のない存在。


 十一の光。


 六つ目。


 通信波。


 アリシアは自分で止めた。


「……今は別」


「何が?」


「十一の光と通信」


「関係ない?」


「関係あるかもしれない。でも、まだ一緒にする理由がない」


「うん」


「今思いついたってだけ」


「記録する?」


 子供に聞かれる。


 アリシアは少し考えた。


「自分の練習帳には」


「学院には?」


「今はまだ、思いついたって伝えるくらいかな」


 子供は頷いた。


「思ったと事実、別」


「うん」


     ◇


 昼食のあと。


 子供はもう一度木箱の前へ座った。


 朝は黒っぽく光るものを見て、金属かもしれないと分かったところで止めている。


「今、見たい?」


 アリシアが尋ねる。


「七」


「朝八だった」


「うん」


「下がった?」


「顔のない人見てたから」


「忘れた?」


「忘れてない。でもずっと考えてない」


「そっか」


「怖さは?」


「三」


「触りたい?」


 子供は少し考える。


「五」


「見るだけは?」


「七」


「今日はどうする?」


「もう一回見る」


 蓋を開ける。


 茶色いもの。


 端を持ち上げる。


 暗いもの。


 光を少し当てる。


「光る」


「うん」


「朝と同じところ?」


「近いね」


「形……」


 子供が首を傾げる。


「丸くない」


「うん」


「長い?」


「一部は細長く見える」


「板?」


「かもしれない」


「剣?」


 また出る。


 けれど今回はすぐ続ける。


「みたいに見えるかもしれない。でも剣って分からない」


「うん」


「持つところ見えない」


「そうだね」


「刃も分からない」


「うん」


 子供は箱の中をじっと見る。


「金属の板かも」


「うん」


「道具かも」


「うん」


「何かの箱の中身かも」


「うん」


「いっぱい」


「そうだね」


「触ったら少し分かる?」


「材質や硬さは」


「取り出したら?」


「形はもっと分かると思う」


「全部?」


「全部じゃないかも」


 子供は少し笑った。


「もう分かる」


「何が?」


「一個やっても全部じゃない」


「うん」


 右手が少し伸びる。


 暗いものへ。


 あと少し。


 指先が近づく。


 そこで止まる。


「……触りたい六」


「上がった」


「うん」


「怖さは?」


「四」


 子供の指はそのままだ。


「触る?」


 アリシアは答えを渡さない。


 子供自身が考える。


「朝は触らなかった」


「うん」


「今も怖い」


「うん」


「でも、朝より形見た」


「うん」


「触ったら、硬いか分かる」


「うん」


「今日は……」


 指先がゆっくり前へ進んだ。


 暗いものへ触れる。


 ほんの一瞬。


 子供の肩が跳ねる。


「冷たい」


「うん」


「硬い」


「うん」


「金属……っぽい」


「そう感じる?」


「うん」


 すぐに手を引いた。


 箱から離れる。


 呼吸が少し速い。


「怖さ」


「五」


「相談する?」


「うん」


「何が怖かった?」


「硬かった」


「うん」


「金属って思った」


「うん」


「何か分からない」


「うん」


「触れたら、もっと分からない感じした」


「どういうこと?」


 子供は自分の指先を見る。


「触ったら答え増えると思った。でも、硬いって分かっただけだった」


「うん」


「金属かも。でも何の金属か分からない。何に使うか分からない。どうして箱にあるか分からない」


「うん」


「いっぱい増えた」


「怖い?」


「五」


「今日は?」


 子供は箱を見る。


「閉じる」


 茶色いものを戻し。


 蓋を閉じる。


 少し離れる。


「今、怖さ四」


「触りたいは?」


「二」


「下がったね」


「分かったことあったから」


「うん」


「でも分からないことも増えた」


「うん」


「……アリシアと同じ?」


「かなり」


 思わず笑ってしまった。


     ◇


 午後の再解析では、微弱波形の発生順序に明確な違いが見つかり始めた。


 短時間型。


 奥側変化より先に出る例。


 ほぼ同時の例。


 奥側変化よりあとに出る例。


 持続型。


 多くは奥側変化の前からすでに弱く存在し、変化後もしばらく残る。


 変調型。


 奥側変化の直前から現れ、低下幅に合わせるように振幅が変わる例が多い。


「変調型が一番、連動っぽい」


 若い観測員が言う。


「“連動しているように見える”です」


 サーラが訂正する。


「はい」


「でも?」


「奥側新反応の低下が大きいと、変調型の振幅も大きくなる例が多い」


「今のところは」


「はい」


「アリシアさんが感じた強さも?」


「一致例があります」


 若い観測員が三枚の記録を並べる。


 冷感〇・五。


 変調型弱。


 冷感一。


 変調型中。


 初回の冷たい震え。


 変調型は中程度。


「これ、かなり関係ありそう」


「そうですね」


「でも無反応一例」


「あります」


「弱い変調型」


「はい」


「じゃあ閾値?」


 サーラが少しだけ目を細める。


「可能性は上がっています」


「閾値って、一定の強さ超えたら感じる?」


「そういう考えです。ただし、強さだけとは限りません」


「速度も?」


「はい」


「長さも?」


「はい」


「また三つ」


「増やさないでください」


「俺が増やしたんじゃないですよ」


 記録係が笑う。


     ◇


 その日の夕方。


 学院長から途中結果を聞いたアリシアは、少し長く黙った。


「変調型」


「ああ」


「一番重なる」


「今のところはな」


「しかも強い方が私も感じやすい」


「その傾向はある」


「じゃあ次、強さ変える?」


「まだ決めない」


「分かってる」


 言いながら少し口を尖らせる。


「でも、次に見たいのはそれ」


「何を?」


「変調型の強さ」


「速度じゃなく?」


「それも気になる」


「長さは?」


「それも」


「三つあるぞ」


「一個ずつ!」


 アリシアが少し強めに言う。


 扉の向こうで学院長が笑った。


「なら、どれから?」


 アリシアは考える。


 強さ。


 速度。


 長さ。


 どれも気になる。


 でも。


「強さ」


「理由は?」


「今の記録で、一番分かりやすく違いがあるから」


「うん」


「弱い変調型のとき、感じなかった例がある」


「そうだな」


「中くらい以上で感じた例が多い」


「ああ」


「なら、強さが違うと私が感じるかを比べたい」


「納得できる」


「明日?」


「まだ」


「分かってるってば」


『顔が分かってない』


「ノア黙って」


 少し笑いが広がる。


     ◇


 夜。


 顔のない存在は、夕方からそれ以上歩かなかった。


 今日は二歩。


 胸の十一の光は、寝る前には三つ。


 昼は四つだった。


「一つ暗くなった」


 子供が言う。


「うん」


「どれ?」


 アリシアも見る。


 昼に四つ明るかったうち、一つが弱くなっている。


「場所、残す?」


 子供が尋ねる。


「どうしたい?」


「今日は残したい」


 子供は簡単な人型の絵を紙へ描き。


 胸の位置へ十一個の小さな点を置いた。


「十一、描く?」


「大変そう」


「うん」


 それでも一つずつ描く。


 少しずれながら。


 正確な解剖図ではない。


 でも、今見えている配置に近づけようとしている。


「昼の四つ、覚えてる?」


「二つは分かる」


「全部は?」


「分からない」


「じゃあ、今日夜の三つだけ描く」


「うん」


 明るい三点へ丸を付ける。


「明日変わったら?」


「また描く」


「毎回?」


「したい日」


「うん」


 アリシアはそれを見ながら、午後に浮かんだ考えを思い出した。


 十一の光。


 一つずつ違うかもしれない。


 でも。


 まだ、東側の通信波候補とは結び付けない。


 ただ。


「子供」


「何?」


「今日の絵、学院の記録にも写していい?」


「どうして?」


「十一の光、どの位置が明るいかを今までより細かく残したい」


「通信と比べる?」


 鋭い。


 アリシアは少し黙ってから答えた。


「今は、比べるためって決めない」


「じゃあ?」


「今まで数しか見てない日が多かったから。位置も残せるなら残したいと思った」


「あとで使うかも?」


「うん」


「使わないかも?」


「うん」


 子供は少し考えて。


「いいよ」


「ありがとう」


「でも私の絵も残す」


「もちろん」


     ◇


 寝台へ入ったあと。


 子供は今日触れた黒っぽいもののことを考えていた。


「硬かった」


「うん」


「冷たかった」


「うん」


「金属みたい」


「うん」


「でも何か分からない」


「うん」


「触ったら、分からない小さくなると思った」


「少しは?」


「金属かもって小さくなった」


「うん」


「でも何に使うかが増えた」


「そっか」


「剣かも」


「うん」


「板かも」


「うん」


「道具かも」


「うん」


「何か包んでるものかも」


「うん」


「いっぱい」


「いっぱいだね」


「でも、今は嫌じゃない」


「どうして?」


 子供は少し考えた。


「触る前より、何が分からないか分かるから」


 アリシアは微かに笑った。


「今日ずっとそれだね」


「アリシアも?」


「うん」


「通信、同じじゃなかった」


「三種類あるかもしれない」


「一番感じるの、途中で強くなるやつ」


「うん」


「でも全部じゃない」


「うん」


「じゃあ、何が分からない?」


 子供に聞かれ。


 アリシアは少し考えた。


「変調型っていう波が、何なのか」


「うん」


「どうして私が感じるのか」


「うん」


「どのくらい強いと感じるのか」


「うん」


「強さだけなのか」


「うん」


「あと……何を伝えてるのか」


 最後の言葉を言うと。


 胸の奥が少しざわついた。


「伝えてる?」


「通信なら、だけどね」


「何か言ってる?」


「分からない」


「誰に?」


「分からない」


「東から西?」


「それも分からない」


「六つ目に?」


 アリシアは少し息を止めた。


「……それも、まだ分からない」


 子供は天井を見る。


「じゃあ、いっぱい」


「うん」


「でも前より小さい?」


「かなり」


 以前は。


 六つ目とは何か。


 その問いしかなかった。


 今は。


 どの波を感じるのか。


 強さなのか。


 形なのか。


 順序なのか。


 何を伝える波なのか。


 問いの数は増えている。


 なのに。


 大きな霧は少し薄くなっていた。


「じゃあ明日」


 子供が言う。


「強さ?」


「まだ決まってない」


「やりたい?」


「九」


「怖さ?」


「三」


「期待?」


「八」


「地下行きたい?」


「四」


「下がった」


「今は、場所より波を見たいから」


「変わった」


「うん」


「前、東行きたい八だった」


「そうだったね」


「今四」


「うん」


「行きたいなくなった?」


「なくなってないよ」


「でも今、一番じゃない」


「そうだね」


 子供は少し笑った。


「いっぱい気持ちあっても、順番変わる」


「うん」


「おやすみ」


「おやすみ」


     ◇


 アリシアはそのあとも少し起きていた。


 練習帳へ今日のことを書く。


 ――微弱通信波候補は一種類ではなかった。


 ――短いもの、弱く長いもの、途中で強さが変わるもの。


 ――私が感じたときに多いのは、途中で強さが変わるもの。


 ――ただし、感じなかったときにも弱い例が一つある。


 筆を止める。


 そして、もう一行。


 ――同じように見えるものを、一つだと思わない。


 昨日までは「通信波があるかどうか」だった。


 今日は「どの通信波なのか」になった。


 さらに。


 その先には。


 ――同じように届くものでも、何を伝えているかまで同じとは限らない。


 書いたあと、自分で少し眺めた。


『随分今日の題名みたいなこと書くじゃない』


「何それ」


『何でもない』


「ノアたまに変なこと言うよね」


『あなたほどじゃないわ』


 アリシアは少し笑った。


「ノア」


『何?』


「通信波が、六つ目に何か伝えてる可能性ってあると思う?」


『あるかないかなら、あるんじゃない?』


「やっぱり?」


『期待で飛びつかない』


「分かってる」


『逆もあるでしょう』


「逆?」


『六つ目が何かを返してる可能性』


 アリシアの手が止まった。


「返す……」


『通信なら、送る側と受ける側があるんでしょう?』


「うん」


『でも、今はどっちがどっちか分からない』


「……うん」


『そもそも通信じゃないかもしれない』


「うん」


『だから今日はそこまで』


 アリシアは少し悔しそうな顔をした。


「ノアまで止める」


『今思いついたことを、今夜全部答えにしなくていいでしょう』


「分かってる」


 練習帳へ、小さく一行だけ追加する。


 ――六つ目が受けているだけでなく、返している可能性もある。ただし今は思いついただけ。


 囲まない。


 強調もしない。


 自分の考えとしてだけ残す。


     ◇


 その夜。


 東側地下区画では、自然な小変動が一度だけ起きた。


 奥側新反応が、基準からほんのわずかに下がる。


 変化は弱い。


 継続も短い。


 同時刻帯。


 微弱波形。


 持続型。


 低い。


 長くは続かない。


 生活観測区画。


 アリシアはすでに眠っている。


 自覚申告なし。


 胸部の外部計測にも目立った変化なし。


 西側補助連絡線。


 対応波形なし。


 名前のない光。


 変化なし。


 小空洞。


 静穏。


 夜勤の観測員が記録する。


「持続型」


「はい」


「アリシアさん無反応」


「睡眠中」


「前にも似たのある?」


「あります」


「じゃあ、明日並べる」


「はい」


 そこまで。


 誰も結論を付けない。


 新しく見つかった三分類。


 そのうちの一つ。


 持続型。


 そして、アリシアは感じなかった。


 また一例。


 それだけ。


 けれど、その一例も。


 明日になれば。


 変調型との違いを比べるための材料になる。


     ◇


 生活観測区画では、誰もその変化を知らないまま眠っていた。


 子供の木箱は閉じている。


 中には茶色いもの。


 その下には、硬く冷たい、黒っぽい何か。


 今日初めて指先が触れた。


 それでも正体はまだ分からない。


 顔のない存在の胸では、十一の光のうち三つが淡く残っている。


 今日はその位置も、子供の絵へ初めて細かく残された。


 そしてアリシアの胸には。


 何もない。


 冷たさも。


 重さも。


 震えも。


 今夜は、東側で弱い持続型の波が出ているにもかかわらず。


 彼女は静かに眠り続けていた。


 それが。


 明日また一つ。


 「感じる波」と「感じない波」の境目を考えるための材料になることも知らないまま。


 同じ地下から届く弱い揺れでも。


 全部が同じものとは限らない。


 同じように見える光でも。


 一つずつ違う可能性がある。


 同じ箱の中に入っているものでも。


 茶色いものと、その下の硬いものは別かもしれない。


 分ける。


 比べる。


 似ているから一つにしない。


 違って見えるから無関係とも決めない。


 その繰り返しの先で。


 忘れられた六つ目の神器が、本当に何を受け取り。


 何を感じ。


 あるいは。


 何かを返しているのか。


 ほんの少しずつ。


 確かめるための形が、整い始めていた。

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