第164話 見えていなかったものを探すなら、まず見えていた記録の隙間から確かめる
翌朝、雨は上がっていた。
夜のあいだ窓硝子を細く叩き続けていた雨粒はなくなり、生活観測区画の庭には濡れた石畳と、葉先からときどき落ちる雫だけが残っている。雲はまだ厚く、朝日はほとんど差し込んでいなかったが、その分だけ室内の光は柔らかく、机や寝台の輪郭もいつもより淡く見えた。
アリシアは目を覚ますと、昨夜と同じように胸へ手を置いた。
冷たくない。
重くない。
震えもない。
痛みも苦しさもない。
昨日の昼、東側奥部が前日とかなり似た変化を示したにもかかわらず、自分が感じたものは「冷たさ」ではなく「胸の奥の重さ」だった。その感覚は短時間で消え、夜にも再発しなかった。
「……今日は何もない」
『昨日の朝より、随分普通の言い方になったわね』
ノアが寝台の足元から身体を起こした。
「昨日は何かあるかもって思ってたから」
『今日は思ってない?』
「少しは思ってる」
『どっちよ』
「何も感じないかもしれないっていう方も、前より分かる」
アリシアは手を離し、机へ目を向けた。
昨夜書いた練習帳が、そのまま置かれている。
自分のことを知るためでも、自分が一番前にいない方が分かることがある。
昨日最後に書いた一文だった。
それを思い出すと、今日の予定にも少し納得しやすかった。
「今日は刺激しないんだよね」
『今朝の会議で正式に決めるんでしょう?』
「たぶん」
『たぶん?』
「昨日の夜の時点では、過去記録の見直しを先にするって」
『なら、朝のあなたはどうしたいの?』
アリシアは少し考える。
「刺激をまたやりたいは……六」
『下がったわね』
「新しい観測項目を探したいは八」
『地下へ行きたいは?』
「五」
『知りたいは?』
「九」
「そこは変わらないね」
突然、隣の寝台から声がした。
子供が布団の中からこちらを見ている。
「起きてた?」
「知りたい九から」
「ほとんど最後じゃん」
「おはよう」
「おはよう」
子供はゆっくり身体を起こし、窓へ顔を向けた。
今日は鳥が見えない。
代わりに、濡れた石畳へ小さな葉が何枚も落ちている。
「鳥いない」
「今は見えないね」
「雨だったから?」
「それは分からない」
「うん」
子供はすぐに頷いた。
「雨のあと、今は見えない」
「そうだね」
次に、顔のない存在を見る。
「おはよう」
十一の光はすぐには変わらなかった。
一つ。
少し待つ。
二つ目。
さらに長く待っても、三つ目は来ない。
「今は二つ」
「うん」
「昨日朝三つだった」
「そうだったね」
「一つ少ない」
「明るい数はね」
「うん。今日の二つ」
それで終える。
子供は寝台を出ると、いつもの身体確認を済ませた。足裏に赤みはなく、痛みもない。足首を動かしても異常はなく、床を何歩か歩いてから「今日も大丈夫」と自分で言った。
そのあと。
今日は白い花へ向かった。
茎の先は、昨日よりさらに乾いて見える。
「小さい」
「昨日もそう言ってたね」
「今日はもっと?」
子供は昨日の絵を取ろうとして、手を止める。
「絵、大きさ違うから分からなかった」
「うん」
「今日、測る?」
アリシアは尋ねずに待つ。
子供は花と絵を何度か見比べた。
「……測りたい、四」
「怖さは?」
「ゼロ」
「じゃあ?」
「でも箱触りたい八」
「そっちの方が大きいんだ」
「うん」
子供は少し笑った。
「花、あとでもいい」
「変わるかもしれないよ」
「うん」
「それでも?」
「今、箱の方見たい」
「分かった」
すべてを残したい。
すべてを比べたい。
けれど、人の目も手も一つずつしかない。
子供は以前より、そのことを不安ではなく選択として受け止められるようになっていた。
◇
木箱の前へ座った子供は、昨日より迷いなく蓋へ手をかけた。
留め具は外れている。
木の蓋がゆっくり持ち上がる。
昨日と同じ程度。
茶色いものが見える。
折り重なっているような厚み。
そして昨日、子供が指先で見つけた「端」。
「ある」
「うん」
「昨日の端?」
「見た感じは同じ場所にあるね」
「同じ?」
「少なくとも位置は近く見える」
「じゃあ今日の端」
「うん」
子供は右手を箱の中へ入れた。
表面へ触れる。
「冷たい」
「うん」
「昨日も冷たかった」
「うん」
「今日も冷たい」
「そうだね」
指先をゆっくり横へ滑らせる。
昨日見つけた端へ届く。
「ここ」
少しだけつまむ。
柔らかい。
けれど、完全に薄い布ではない。
「持てる」
「うん」
「持ち上げたい……八」
「怖さは?」
「三」
子供の指に少し力が入る。
茶色いものの端が、ごくわずかに浮いた。
「あ」
箱の中で、重なっていた部分がほんの少し動いた。
子供の肩が上がる。
アリシアは立ち上がらない。
魔力感知だけを、ごく弱く保っている。
危険反応なし。
急な魔力変化なし。
子供は茶色いものを数寸ほど持ち上げた。
「下……」
声が小さくなる。
「見える?」
「暗い」
持ち上げた下側へ、朝の弱い光が少しだけ入る。
何かがある。
ただし、それが何かまでは分からない。
黒い。
あるいは、暗い色。
平らではない。
「何かある」
「うん」
「茶色いのの下」
「そう見えるね」
「布?」
「茶色い方?」
「うん」
「持ち上げられるなら、布か袋みたいな柔らかいものの可能性は上がったと思う」
「袋?」
「まだ決めないよ」
「うん」
子供は茶色いものを持ち上げたまま、下の暗いものを見る。
「もっと上げたら見える」
「うん」
「見たい九」
アリシアは少し驚く。
「上がったね」
「うん」
「怖さは?」
「四」
呼吸が浅くなっている。
手も少し震えている。
「続ける?」
子供はすぐ答えなかった。
茶色いもの。
その下。
見えそうで見えないもの。
「……今日は、ここまで」
指を緩める。
茶色いものが元の位置へ戻る。
蓋もゆっくり閉じた。
子供は手を箱の上へ置いたまま、しばらく動かなかった。
「見たい九なのに?」
アリシアが静かに尋ねる。
「うん」
「怖さ四」
「うん」
「どうして止めた?」
子供は少し考える。
「下に何かあるって分かった」
「うん」
「今、見たいすごい大きい」
「うん」
「だから……今やったら、いっぱい開けそう」
アリシアの目が少し動いた。
「いっぱい開けたくなる?」
「うん」
「それが嫌?」
「嫌じゃない。でも、今日は端持ち上げるまでって、朝ちょっと思ってた」
「先に?」
「うん」
「言ってなかったね」
「自分の中だけ」
子供は木箱を見つめる。
「下に何か見えたから、もっとやりたいになった。でも、もっとやりたいになったから止めた」
アリシアは少しだけ息を止めた。
行きたいから進む。
知りたいからもっと見る。
その気持ちは悪くない。
けれど、強くなった気持ちそのものを、そのまま行動の命令にはしない。
「すごいね」
思わず言うと、子供が振り向いた。
「何が?」
「ううん」
『今、自分より上手だと思った顔したわね』
「ノア」
『当たってるでしょう』
「聞こえてる」
子供が笑った。
◇
朝食後。
学院長から、今日の正式な方針が伝えられた。
「今日は刺激を入れない」
アリシアは想定していたため、大きく驚かなかった。
「過去記録を見る?」
「ああ」
「私も参加できる?」
「できる範囲でな」
「何を見るの?」
子供が横から尋ねる。
学院長は少し考え、子供にも分かる言葉を選んだ。
「これまでアリシアが冷たい、震える、重いと感じた時間に、地下で何が起きていたかをもう一度調べる」
「前も見た?」
「見た。ただ、前は見ていなかった種類の変化まで探す」
「見てなかったもの?」
「そうだ」
「どうやって?」
「昔の記録には、普段使っていない測定具の値も一部残っている」
アリシアが首を傾げる。
「使ってないのに残ってる?」
「常設設備が自動で取っているものがある。普段は重要度が低いと判断して、毎回詳しく読んでいなかった」
「捨ててた?」
「捨ててはいない。残してある」
子供が少し目を丸くする。
「見てなかっただけ?」
「ああ」
「じゃあ、前からあった」
「そうだ」
「新しく見つけるけど、新しいものじゃない」
「その可能性がある」
子供は嬉しそうにアリシアを見る。
「前からあったもの」
「うん」
学院長が続けた。
「優先して見る候補は四つだ」
「四つ……」
アリシアが少し嫌そうな顔をする。
『三つじゃなくなったわね』
「増えた」
「仕方ないだろ」
学院長も少し苦笑した。
「一つ目。通常の魔力量ではなく、魔力波形の位相差」
「位相?」
「簡単に言えば、同じように見える波が少しずつずれていないかを見る」
「二つ目は?」
「局所的な空間圧」
「空気の圧力?」
「それとは違う。魔術的な空間の歪みに近い」
「三つ目」
「古式術式が一瞬だけ起動しかけていないか」
「設備?」
「そうだ」
「四つ目」
「極弱い通信波」
アリシアは少し黙った。
「通信……」
「気になるか?」
「うん」
「『つなぐ』を思い出した?」
学院長に言われ、少し恥ずかしくなる。
「……ちょっと」
「それ自体は構わない。ただし、通信波があったから六つ目は通信の神器だ、とは決めない」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
『顔にはかなり期待って書いてあるわよ』
「ノアまで」
子供がアリシアを見上げる。
「期待、何?」
「八」
「高い」
「でも、通信だけじゃない」
「うん」
「四つ全部見る」
「全部同じ?」
「今は……通信が一番気になる」
「じゃあ同じじゃない」
「うん」
アリシアは少し笑った。
「気になる順番があっても、見るときは分ける」
◇
午前の再解析は、普段使っている会議室ではなく、東側中継観測室の隣にある記録保管室で行われた。
アリシアは生活観測区画を長時間離れないよう、一時間だけ参加する。
ノアも一緒。
サーラ。
若い観測員。
魔導具教師。
それから記録管理担当。
学院長は途中まで同席し、その後別の会議へ移る予定だった。
記録保管室は想像していたより地味だった。
棚。
記録板。
紙束。
魔力記録結晶。
年代別に整理された小箱。
「もっとすごい場所かと思ってた」
アリシアが小さく言う。
「何を想像していたんですか?」
若い観測員が聞く。
「光る記録とかいっぱい」
「奥にはあります」
「あるんだ」
「でも普段使うのは紙が多いです」
『夢がないわね』
「ノアが地味って」
「猫に言われたくないですね」
『私は黒一色でも完成されてるのよ』
「何て?」
「自信すごいって」
『合ってるけど腹立つわ』
サーラが記録台の前で小さく笑う。
「始めますよ」
「はい」
机の上には、アリシア側の反応履歴が並べられた。
最初の明確な冷たい震え。
夜の二回目。
第二地点での冷感。
第155話相当の誘導刺激時に出た胸部冷感。
生活観測区画での低出力刺激。
強度を一段階上げた際の弱い冷感。
そして昨日の胸部重感。
一方。
第三地点で何も感じなかった時刻。
夜半に東側が弱く変化したがアリシアが寝ていて何も申告しなかった時刻。
そうした「感じなかった記録」も並ぶ。
「感じた方だけじゃない」
アリシアが言う。
「当然です」
サーラが答える。
「感じたときだけ共通するものを探したいなら、感じなかったときに同じものが出ていないかも確認します」
「もし両方にあったら?」
「少なくとも、それ単独では説明しにくくなります」
「じゃあ四つ全部、感じた日と感じなかった日で比べる?」
「はい」
アリシアは少し身構えた。
「一時間で終わる?」
「終わりません」
「即答」
「今日は最初の見方だけ共有します。残りは観測班で進めます」
少し残念。
それが顔に出た。
「アリシアさん」
「はい」
「全部自分で見なくても、記録はなくなりません」
「あ……」
「あとで戻れます」
「うん」
昨日の「自分を一番前に置かない」が、ここでも続いていた。
◇
最初に見たのは、位相差だった。
普段の観測盤では「魔力量の上昇」「低下」として一つの線にまとめられている。しかし元データでは、その波の細かなずれまで残っている。
「見ても分からない」
アリシアが正直に言った。
透明な記録板へ幾つもの細い線が並んでいる。
「私も最初は分かりませんでした」
若い観測員が言う。
「今は?」
「少し分かります」
「少し」
「サーラさんならかなり」
「かなり?」
「魔導具教師なら怖いくらい」
「怖いくらいって何ですか」
教師が苦笑しながら前へ出た。
「ここを見てください」
一つの波形。
「これが、アリシアさんが最初に冷たい震えを感じた時刻帯」
「うん」
「奥側新反応が低下する直前に、この二本の波が少しずれています」
「どれ?」
「ここ」
指で示されても、アリシアにはほとんど同じに見える。
「……ちょっと?」
「それで十分です」
「これが大事?」
「まだ分かりません。次」
二回目の冷たい震え。
同じように。
低下直前。
ごく小さな位相差。
「ある」
今度はアリシアにも少し見えた。
「似てる」
「そうですね」
胸が高鳴る。
「じゃあ……」
「まだです」
「分かってる」
『口が早い』
「言ってないでしょ」
次。
第二地点の冷感。
ここにも。
低下開始付近に小さな位相差。
アリシアの目がさらに大きくなる。
「三回」
「はい」
「感じたとき、三回ある」
「今見た範囲では」
「じゃあ期待……」
「次、感じなかった第三地点」
魔導具教師が別の記録を出した。
アリシアは息を止めそうになる。
東側奥部は低下した。
自分は何も感じなかった。
位相差は。
「……ある」
同じくらい。
むしろ一部では少し大きい。
「あるね」
声が明らかに落ちた。
「はい」
「じゃあ違う?」
「位相差が存在するかどうかだけでは、感じる・感じないを分けられません」
「……そっか」
若い観測員が横から言う。
「でも、まだ位相差候補が消えたわけじゃないですよ」
アリシアが彼を見る。
「何で?」
「差の大きさ。出る時間。続く長さ。どの波同士がずれるか。見る場所はあります」
「増えた」
「俺も最初そう思いました」
「今も思ってるでしょ」
「思ってます」
少し笑えた。
「でも」
アリシアは第三地点の記録を見る。
「感じなかった記録見なかったら、今の三回だけで、位相って思ってたかもしれない」
「そうですね」
「感じなかった方、すごい邪魔」
記録室が一瞬静かになり。
サーラが少し笑った。
「調査にとっては、かなりありがたい邪魔です」
「うん」
◇
次に空間圧。
これはさらに地味だった。
数字。
ほとんど変化のない小数。
「本当に動いてる?」
「動いています」
「〇・〇〇二」
「はい」
「これ誤差じゃない?」
「だから複数回比べます」
最初の冷たい震え。
微小上昇。
二回目。
ほぼ変化なし。
第二地点。
わずかに低下。
第三地点の無感覚。
同程度の低下。
「バラバラ」
「今のところは」
「候補下がる?」
「単独条件としては、少し下がります」
「消さない?」
「測定地点が奥側反応源から遠いので、精度の問題が残ります」
「また残る」
『残すの嫌いになってきた?』
「ちょっと」
それでも。
以前よりは耐えられる。
候補が減らないことを、「何も進んでいない」とまでは思わない。
◇
三つ目。
古式術式の励起。
これはアリシアにも比較的分かりやすかった。
通常はほぼゼロ。
ただし東側地下は古い施設であり、現在使われていない術式の残留が点在している。
「これが起動しかけると?」
「数値が一瞬だけ上がります」
「光る?」
「現地では見えない程度です」
「最初の震えのときは?」
記録を開く。
変化なし。
二回目。
変化なし。
第二地点。
ごく微小。
第三地点。
同じ程度。
「……違いにくい」
「はい」
「じゃあ低い?」
「現時点では、位相差より優先度は低そうです」
候補に差が付いた。
アリシアは少しだけ嬉しかった。
「一個、少し下がった」
「そうですね」
「全部同じじゃない」
「はい」
分からないものの中にも。
濃いものと薄いものが出始める。
◇
最後。
極弱い通信波。
アリシアは、さっきまでより明らかに前のめりになった。
『分かりやすい』
「分かってる」
「期待はいくつですか?」
若い観測員が冗談半分で聞く。
「八」
「正式記録じゃないですよ」
「言わせたのそっちでしょ」
サーラが小さく笑った。
通信波記録は、普段の学院内魔導通信とは異なる。
古い周波数帯。
現代ではほとんど使われない微弱な魔力振動。
施設内で設備同士が状態を伝えるために用いられていた可能性がある。
「東西補助連絡線で見てる対応波形とは違う?」
アリシアが聞く。
「違います」
魔導具教師が答える。
「補助連絡線の対応波形は、線そのものを伝う比較的大きな変化。こちらはもっと弱く、周囲へ漏れるようなものです」
「声みたい?」
「比喩なら」
「第四の声とは?」
「波形が違います」
「じゃあ別」
「今はそう見えます」
最初の冷たい震え。
記録を開く。
通信波。
微弱。
でも。
「ある?」
「あります」
アリシアの背筋が伸びる。
「いつ?」
「奥側新反応の低下開始より、二呼吸ほど前」
「私が感じたのは?」
「低下開始付近」
「じゃあ通信波が先?」
「この記録では」
胸が高鳴る。
二回目。
同じ。
弱い通信波。
奥側低下の少し前。
「また」
「はい」
第二地点。
今度は。
「……ある」
「あります」
アリシアの指先が少し冷たくなる。
期待。
怖さ。
両方が上がる。
「三回」
「はい」
「次」
自分から言った。
第三地点。
感じなかった日。
通信波は。
「……ない?」
記録板の線はほとんど平らだった。
奥側新反応は低下している。
けれど、その直前にあったはずの微弱通信波が、明確には出ていない。
アリシアは息を止めた。
「ないの?」
「測定限界以下です」
「第三地点で私は感じなかった」
「はい」
「通信波も出てない」
「はい」
「じゃあ……」
口を閉じる。
急がない。
でも。
心臓は速い。
「次の、寝てたとき」
アリシアが言う。
夜半。
東側奥部が弱く緩やかに低下した。
アリシアは眠っており、感覚申告なし。
通信波。
「……ほとんどない」
「ごく微小ですが、明確な立ち上がりとしては取れていません」
アリシアの手が、無意識に胸へ移る。
「感じなかったとき、二回ともない」
「現時点で見た二例では」
サーラが慎重に補足した。
「感じたときは?」
「今確認した三例では、いずれも直前から近接時刻帯に微弱通信波があります」
若い観測員の表情も変わっていた。
「これ、かなり……」
自分で止まる。
「……候補として強くないですか?」
「強くなります」
サーラは否定しなかった。
アリシアの胸が熱くなる。
「通信」
「まだ、そう呼べる波形が出ている、という段階です」
「でも、私が感じたときにある」
「今見た範囲では」
「感じなかったときにはない」
「今見た範囲では」
何度も限定される。
けれど。
今回は、それが嫌ではなかった。
むしろ。
そこまで言っても残るものがある。
「……もっと見る」
アリシアが言った。
「残り全部」
「今日は一時間です」
「あと何分?」
「十五分」
「十五分で何回見れる?」
「急いで見るものではありません」
「分かってるけど」
『顔が完全に地下へ走るときのやつよ』
「走らない」
「怖さは?」
サーラが尋ねる。
アリシアは自分の身体を確かめた。
「四」
「期待」
「九」
「疲労」
「二」
「続けたい?」
「九」
「だからこそ」
サーラが穏やかに言う。
「予定通りあと十五分で終えます」
「……はい」
悔しい。
でも。
理解できる。
今の状態で一気に全部を見れば、通信波がある記録だけを探したくなるかもしれない。
ないものを見落とすかもしれない。
「じゃあ、あと十五分は?」
「次の一例だけ確認します」
「一例だけ?」
「丁寧に」
「……分かった」
◇
次に選ばれたのは、第155話の誘導刺激時だった。
東側補助連絡線へ「短・短・長」の刺激を入れた日。
その後、西側へ対応波形。
アリシアには長波開始からおよそ五呼吸後に、胸部冷感一。
通信波記録。
魔導具教師がゆっくり時間軸を進める。
短。
一回目。
通信波なし。
短。
二回目。
ごく弱い揺れ。
長。
開始。
「……出た」
アリシアが呟く。
長波開始直後。
奥側新反応付近から。
これまで見たものに似た極弱い通信波。
その数呼吸後。
アリシアの胸部冷感記録。
「これも」
「はい」
「感じたとき四例」
「はい」
「通信波あり四例」
「今確認した範囲では」
アリシアは唇を噛みそうになり、やめた。
「期待十」
若い観測員が笑いを堪えきれなかった。
「上がった」
「だって」
「数字は命令じゃないんですよね?」
「分かってる」
「じゃあ今日は終わりですね」
「それとこれは……」
サーラを見る。
サーラは記録板を閉じていた。
「終了です」
「……はい」
『偉い偉い』
「ノア、雑」
『期待十でも帰れるじゃない』
「帰るよ」
それでも。
立ち上がるまでに少し時間がかかった。
まだ見たい。
もっと。
あと一例。
あと二例。
全部見たい。
けれど。
今日はここまで。
それを自分で選べる。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は木箱ではなく白い花の前にいた。
「測ってる?」
アリシアが尋ねる。
「うん」
机の上には短い定規のような木片が置かれている。
治療教師に頼み、安全な長さだけ借りたらしい。
「朝は箱だった」
「昼は花」
「変わった?」
「うん」
「どうして?」
「箱、今日はもう端持ち上げたから」
「うん」
「花、あとでって言った」
「戻ってきたんだ」
「うん」
子供は白い花の茎の高さを測っている。
「昨日の絵、大きさ違うから比べられなかった」
「うん」
「今日、数字残す」
「どのくらい?」
「茎、ここからここまで」
数字を読み上げる。
子供は紙へ書いた。
「明日変わったら比べる?」
「見たいなら」
「うん」
そのあと、アリシアの顔を見る。
「嬉しい?」
「分かる?」
「顔」
『やっぱり分かりやすいのよ』
「ノアうるさい」
「何あった?」
アリシアは子供の隣へ座った。
「昔の記録見たの」
「六つ目?」
「うん」
「見てなかったもの?」
「うん」
「何かあった?」
アリシアは少し息を吸う。
「私が冷たいって感じたときに、東の奥で、すごく弱い通信みたいな波が出てたかもしれない」
「通信?」
「何かを伝えるときに出るみたいな弱い波」
「声?」
「第四の声とは違う」
「じゃあ別」
「うん」
「感じたとき全部?」
「今日見た四回では、全部あった」
子供の目が大きくなる。
「感じなかったときは?」
「今日見た二回では、はっきりしたのはなかった」
「じゃあ、それ?」
アリシアは一瞬だけ言いたくなった。
そうかもしれない。
六つ目は通信を感じる神器なのかもしれない。
つなぐ。
送る。
伝える。
全部が一つの言葉へ集まりそうになる。
けれど。
「……かもしれない、が前より強くなった」
「答えじゃない?」
「まだ」
「でも嬉しい」
「すごく」
「期待?」
「十になった」
子供が目を丸くする。
「十あるんだ」
「ある」
「怖さは?」
「今は三」
「知りたい?」
「九……いや」
少し考える。
「十かも」
「二個十」
『上限突破しそうね』
「ノア何て?」
「落ち着けって」
『珍しく正しい翻訳ね』
子供が笑った。
◇
午後。
アリシアが戻ったあとも、観測班では再解析が続けられた。
すべての記録をアリシア本人の前で見る必要はない。
むしろ、本人が通信波へ期待を強く持った今だからこそ、別班で独立して確認する意味がある。
「アリシアさんがいない状態で確認」
若い観測員が言う。
「はい」
サーラが答える。
「通信波があると期待して探さないこと」
「もう聞いちゃったから難しくないですか?」
「難しいです。だから、波形担当と時刻担当を分けます」
「どうやって?」
「一人はアリシアさんの反応時刻を知らない状態で、通信波候補を抽出する」
「もう一人は?」
「抽出された時刻とアリシア側記録を後から照合する」
若い観測員が感心した。
「期待入ってるなら、期待入ってない形を作る」
「完全には無理でも、減らします」
「俺、どっち?」
「時刻を知っているでしょう」
「知ってます」
「照合側です」
「残念」
「何が?」
「波形探したかった」
「好奇心を置いてこいと言われたでしょう」
「まだ引っ張るんですか」
記録係が笑った。
◇
夕方。
東側の再解析から最初の途中報告が届いた。
学院長が生活観測区画の扉の外へ来る。
アリシアは待っていた。
かなり。
課題を開いてはいたが、同じ行を三回読んだだけでほとんど進んでいない。
「結果?」
「まだ途中だ」
「途中でも聞きたい」
「だから来た」
アリシアは姿勢を正す。
「どうだった?」
「追加で六時刻帯を確認した」
「感じたとき?」
「三つがアリシア側に何らかの感覚申告あり。三つが東側変動ありだが、アリシア側自覚なし」
「通信波は?」
「感覚申告ありの三例中、二例で明確な微弱通信波候補。一例は測定記録自体が欠損していて判断不能」
「ないじゃなくて、分からない」
「そうだ」
「感じなかった三例は?」
「二例で通信波なし。一例に、ごく弱い候補がある」
アリシアの表情が少し止まる。
「感じなかったのに、ある?」
「候補だ。かなり弱く、波形も完全一致ではない」
「でもあるかもしれない」
「ああ」
期待十だったものが、少し揺れる。
「じゃあ駄目?」
「何が?」
「通信波」
「なぜ駄目になる?」
「感じなかったときにもあるかもしれないから」
「それだけで消す必要はない」
「でも、感じたときだけじゃない」
「そうだな」
「じゃあ条件違う?」
「強さかもしれない。波形の種類かもしれない。位置かもしれない。あるいはその一例だけ別のものを拾っている可能性もある」
アリシアは少しだけ頬を膨らませる。
「また増えた」
「でも」
学院長の声が続く。
「現時点で、通信波候補は他の三項目よりアリシア側感覚と一致率が高い」
アリシアが顔を上げる。
「一番?」
「今のところは」
「位相差より?」
「ああ」
「空間圧より?」
「ああ」
「古式術式より?」
「高い」
少しだけ笑顔が戻る。
「じゃあ、まだ強い」
「仮説としてはな」
「期待は……八」
「下がったな」
「十は高すぎた」
『自覚したのね』
「ノア静かにして」
◇
夕食時。
子供は学院長へ尋ねた。
「通信、答えじゃなかった?」
「答えではない」
「でも一番?」
「今見ている候補では、アリシアの感覚と重なることが多い」
「感じなかったのに通信あったのも?」
「一例、候補がある」
「じゃあ、通信あったら必ず感じるじゃない」
「そうだ」
「でも感じたときは、だいたいある?」
「今のところはな」
子供は少し考える。
「箱の茶色いのも、袋かも。でも袋じゃないかも」
「うん」
「端持てたから袋っぽくなった」
「うん」
「下に何かあったから、包んでるかも」
「うん」
「でもまだ開いてない」
「そうだね」
「アリシアの通信も、端持ったくらい?」
アリシアは思わず笑った。
「そんな感じかも」
「中身見えてない」
「うん」
「でも前より触った」
「そうだね」
学院長も小さく笑う。
「分かりやすい例えだな」
「箱の方が分かる」
「地下もそれくらい簡単なら助かるんだが」
子供が首を傾げる。
「箱も簡単じゃない」
「……そうだったな」
◇
夜。
顔のない存在は、今日は四歩だけ歩いた。
昨日は六。
一昨日は八。
子供は人影が座ったあとで「今日は四」とだけ言った。
胸の十一の光は、今は三つ。
朝は二つ。
「増えた」
子供が言う。
少しして。
「明るい数が一つ増えた」
自分で補足した。
「歩数は減った」
「うん」
「だから一緒じゃない」
「うん」
「歩くのと光、同じじゃないかも」
「そうかもしれないね」
「でも関係あるかも」
「うん」
「まだ」
「まだだね」
子供は少し笑った。
「アリシアの通信と同じ」
「何でも私にするのやめて」
「似てる」
「ちょっとだけね」
◇
寝る前。
アリシアは今日も練習帳を開いた。
朝。
通信波という候補を聞いたとき、期待が八。
記録室で四例続けて重なっているのを見て十。
追加解析で「感じなかったのに通信波候補あり」が一例出て、八。
「数字動きすぎ」
『気持ちは動くものよ』
「子供みたい」
『だからそれ褒めてるの?』
「今日は褒めてる」
『ならいいわ』
アリシアは筆を動かす。
――感じたときに通信波がある例が多かった。今まで見た候補では一番近そうに見える。
その下。
――でも、感じなかったのに通信波らしきものがある例も一つ出た。
少し止まり。
――だから「通信波があれば必ず感じる」ではない。
さらに。
――それでも、通信波の種類や強さに違いがあるかもしれない。次はそこを比べたい。
『もう次考えてる』
「だって気になる」
『今日終わったでしょう』
「書くだけ」
『ならいいけど』
アリシアは最後に、もう一つ書いた。
――人間側が前から記録していたのに、見ていなかったものがあった。見えていないものは、新しく作るものだけじゃない。
書いてから。
今日、子供が言ったことを思い出す。
新しく見つけるけれど、新しいものではない。
ずっと前からそこにあり。
記録され。
ただ。
必要だと思われなかったから、深く見ていなかったもの。
「六つ目も?」
『何が?』
「忘れられた六つ目」
ノアが顔を上げる。
「新しい神器じゃない」
『ええ』
「前からあった」
『そうね』
「でも忘れられてた」
『……ええ』
アリシアは練習帳へ目を落とす。
「今日の通信波も、前から記録にあった」
『そうね』
「見てなかっただけ」
『何が言いたいの?』
「分からない」
少し笑う。
「でも、何か似てる気がした」
ノアはすぐに否定しなかった。
『なら、今はそれも記録しておけば?』
「事実じゃないよ」
『自分の練習帳でしょう』
「あ」
『思ったことを書く場所でもあるんじゃないの?』
アリシアは少し考え。
最後に小さく書き足した。
――六つ目も、ずっと前からあったのに見られなくなったものなのかもしれない。
その一文だけは。
線で囲まなかった。
大きくも書かなかった。
ただ。
今の自分がそう思ったという形で残した。
◇
その夜。
東側奥部では、大きな自然変動は起きなかった。
名前のない光も動かない。
小空洞も静か。
西側補助連絡線にも新しい対応波形なし。
けれど、記録保管室では夜勤の観測員たちが、過去の時刻帯を一つずつ洗い直していた。
アリシアが感じたとき。
感じなかったとき。
冷たかったとき。
震えたとき。
重かったとき。
同じ「六つ目の反応候補」としてまとめていたものを、もう一度分ける。
そして、その周囲で。
今までは主役ではなかった数値を拾う。
微弱な通信波。
位相差。
空間圧。
古式術式。
もっと別のものが必要なら、明日以降さらに増やす。
今のところ。
極弱い通信波は、六つ目の自覚感覚と最も重なる回数が多かった。
ただし完全ではない。
感じなかった時間にも、一例だけ似た波形がある。
だから。
まだ答えとは呼べない。
けれど。
昨日まで見えていなかった問いは、さらに一段だけ細くなった。
六つ目は。
東側奥部で起きている「魔力値の低下」そのものを感じているわけではないかもしれない。
その前後に発生する、別の信号。
別の状態。
誰か、あるいは何かへ情報を渡すための微弱な揺れ。
そこに反応している可能性がある。
そしてもし。
その波が本当に「伝えるためのもの」なのだとしたら。
東側と西側。
名前のない光。
小空洞。
顔のない存在。
子供。
六つ目。
これまで別々に残してきたものの間に。
いつか、まだ見えていない線が現れるかもしれない。
けれど今夜は。
その線を引かない。
似ているから。
期待しているから。
作品の中心に見えるから。
そんな理由で先に結ばない。
まず。
感じたときに通信波があったのか。
感じなかったときにはどうだったのか。
通信波そのものにも、どんな違いがあったのか。
一つずつ。
前から残されていた記録の中へ戻り。
今まで見落としていたものを拾い直す。
アリシアは眠る前、自分の胸へ手を置いた。
今夜も何もない。
冷たくない。
重くない。
震えていない。
でも。
その何もない静けさまで含めて。
明日になれば、また比べるための一つになる。
窓の外では、雲の隙間からほんの少しだけ月明かりが落ちていた。
昼まで濡れていた庭の石畳は、もう半分ほど乾いている。
変わったこと。
変わらなかったこと。
見ていたこと。
見ていなかったこと。
ずっと記録の中にはあったのに。
意味を持つとは思われていなかった、小さな揺れ。
それを今。
人間側は初めて、六つ目の神器へ近づくための候補として拾い上げようとしていた。




