第163話 自分がいないときにどうなるかを知ることも、自分のことを確かめるために必要になる
翌朝、アリシアが目を覚ましたとき、窓の外には昨日より濃い雲が広がっていた。
雨はまだ降っていない。けれど空は全体に白く霞み、朝日も輪郭を失っている。庭の石畳は乾いたままだったが、風には少し湿った匂いが混じり、窓際に置かれた薄い布が時折ゆっくり膨らんでは戻っていた。
生活観測区画は静かだった。
隣の寝台では子供がまだ眠っている。
顔のない存在も動かない。
十一の光は朝の薄暗さの中でほとんど目立たず、そのうち一つだけが、呼吸しているようにごく弱く明滅していた。
アリシアは寝台の上で身体を起こし、自分の胸へ手を置いた。
冷感なし。
震えなし。
痛みなし。
苦しさなし。
昨日より一段階だけ強くした刺激試験では、東側奥部の変化量そのものは大きくなった。
けれど、アリシアが感じた冷たさは逆に弱かった。
その結果を思い出すと、今でも少し悔しい。
強く変化すれば、自分も強く感じる。
そうなれば分かりやすいと思っていた。
実際には、そうならなかった。
「……速度」
『起きて最初の言葉がそれ?』
寝台の足元からノアの呆れた声がした。
黒猫は前足を揃えて座り、まだ半分眠そうな金色の目でアリシアを見ている。
「違うよ」
『何が?』
「起きて最初は身体確認した」
『そういう問題じゃないわ』
「でも昨日、速度の可能性上がったでしょ」
『上がったわね』
「今日、設備側だけで同じ刺激やるかもしれない」
『ええ』
「それで昨日と同じ形になるなら……」
『はい、そこまで』
ノアが尻尾を一度だけ強めに床へ打った。
「何で?」
『まだ朝よ』
「関係ある?」
『ある。あなた、昨日の最後に“明日やるかどうかは明日の私が決める”って書いたでしょう』
「書いた」
『じゃあ、まず今日のあなたに聞きなさい』
アリシアは口を閉じた。
少し悔しい。
けれど正しい。
昨日の夜。
次は速度を見たいと思った。
けれど、その前に設備側の反応自体がどの程度再現するのか、人間側だけで確認した方がいいという話になった。
そして今日は、昨日とは違う今日だ。
「……今、速度を見たいは八」
『増えたわね』
「昨日七だった」
『怖さは?』
「二」
『設備だけで先に確認する納得は?』
「八」
『自分が観測対象から外れるのは嫌?』
アリシアは少し考えた。
「……ちょっと」
『数字』
「三」
『どうして?』
「私の六つ目のこと調べてるのに、私がいない条件見るから」
『いないわけじゃないでしょう。生活観測区画にはいる』
「でも、今日の目的は私じゃない」
『それが嫌?』
「嫌っていうより……」
アリシアは胸へ置いていた手をゆっくり離した。
「置いていかれる感じが、少しする」
言葉にしてから、自分でも少し驚いた。
ノアはすぐには茶化さなかった。
『それ、記録した方がいいわね』
「こんなのも?」
『こんなのも、よ』
アリシアは机の上にある練習帳を見る。
自分が関係するものだから。
自分自身の話だから。
だからこそ、全部自分が参加していなければいけない。
どこかで、そう思っていたのかもしれない。
「私のことを調べるのに、私を外す時間がある」
『ええ』
「変な感じ」
『でも必要なんでしょう?』
「うん」
『なら、その変な感じも持ったまま見ればいいじゃない』
「……うん」
アリシアが頷いたところで、隣の寝台から小さな声がした。
「置いてく?」
子供が目を開けていた。
まだ寝ぼけている。
「起きてたの?」
「最後だけ」
「おはよう」
「おはよう」
子供は布団の中からアリシアを見る。
「誰、置いてく?」
「私」
「どこに?」
「ここに」
子供がさらに分からない顔をした。
『そりゃそうなるわよ』
「ノア笑わないで」
アリシアは少し困りながら説明する。
「今日は、東側の設備だけで試験するかもしれないの」
「アリシアは?」
「生活観測区画にいる」
「じゃあ置いてかれない」
「そうなんだけど」
「地下行かない?」
「うん」
「行きたい?」
「今は六くらい」
「昨日七」
「一つ下がった」
「何で?」
「設備だけ見る意味も分かるから」
子供は数秒考えた。
「でも、アリシアの六つ目調べてるのに、アリシア使わない?」
「そう」
「変?」
「少し変な気持ち」
子供は布団から上体を起こした。
「箱も?」
「箱?」
「昨日、茶色いの触った」
「うん」
「今日、触らないで絵だけ見ることある」
「あるかもね」
「箱のこと知りたいのに、箱触らない」
アリシアは少し目を瞬いた。
「そうだね」
「昨日触ったの、書いた紙見る」
「うん」
「それでも箱のこと考えてる」
「……うん」
子供は納得したように頷く。
「じゃあアリシアも、触らない日」
『あなた、完全にあの子に教えられてるわね』
「聞こえてる」
アリシアは少し照れながら笑った。
◇
子供は寝台から降りると、いつものように足裏を確認した。
赤みなし。
押しても痛くない。
足首を回しても違和感なし。
床を数歩歩き、自分で「今日も大丈夫」と言う。
そのあと顔のない存在へ向き直った。
「おはよう」
十一の光は、すぐには大きく変わらなかった。
一つ。
少し遅れて二つ目。
さらに今朝は、かなり時間が空いてから三つ目が淡く明るくなった。
「今は三つ」
「うん」
「昨日の夜は二つだった」
「そうだね」
「増えた?」
言って。
子供は少し考える。
「明るい数は、一つ増えた」
「うん」
「でも昨日八歩歩いたからじゃない」
「うん」
「今日の三つ」
「そうだね」
それで確認を終える。
子供は次に木箱へ向かった。
昨日、中にある茶色いものへ初めて触れた。
布のように柔らかい。
けれど薄くはない。
少し厚い。
冷たい。
濡れてはいない。
それだけが、今分かっている。
子供は箱の前へ座ったものの、手を伸ばさなかった。
「触りたい?」
今度はアリシアが聞いた。
「七」
「怖さは?」
「二」
「じゃあ開ける?」
子供は少し考え、首を横へ振った。
「朝は、昨日の紙見る」
「紙?」
「触った記録」
机へ戻り、昨日書いた紙を持ってくる。
茶色い線。
その横に並ぶ短い言葉。
柔らかい。
厚い。
冷たい。
濡れていない。
子供はそれを読み直した。
「今日、触ったら違うかも」
「うん」
「昨日は冷たかった」
「うん」
「今日は?」
「触らないと分からないね」
「じゃあ、昨日のは昨日」
「うん」
「今日触らないなら、昨日の記録だけ」
「そうだね」
子供は紙を箱の近くへ置いた。
「朝は触らない」
「分かった」
「昼、触りたいかもしれない」
「うん」
その判断には、怖さはほとんど関係していない。
触りたい。
でも今は昨日の感触を見直したい。
それが今朝の子供の選択だった。
◇
朝食の頃には、空がもう少し暗くなっていた。
まだ雨粒は落ちてこない。
けれど風は止まり、外の木々まで少し静かになっている。
学院長が扉の外へ来ると、子供は今日は睡眠時間を聞かなかった。
代わりに。
「今日、アリシア使わない?」
いきなり尋ねた。
扉の向こうで学院長が少し黙る。
「使わない、という言い方はあまり好きじゃないな」
「じゃあ?」
「今日は、アリシアを主要な試験条件にしない案を考えている」
「同じ?」
「少し違う」
子供は麦粥を食べながら首を傾げる。
「アリシア、ここいる」
「ああ」
「何か感じたら?」
「記録する」
「それ、使ってる?」
学院長がまた黙る。
アリシアは笑いを堪えた。
『今日も負けてるわね』
「ノア楽しそう」
「聞こえてるぞ」
学院長が少し咳払いする。
「正確に言う。今日の試験目的は、アリシアの反応を確かめることではない。東側設備の反応がどこまで再現するかを確認することだ」
「でもアリシアが感じたら?」
「副次記録として残す」
「副次?」
「今日一番見たいものじゃない。でも起きたなら捨てない情報だ」
子供は少し考えた。
「二番?」
「そう思ってもいい」
「じゃあアリシア、二番」
「順位ではないんだが……」
アリシアがとうとう笑った。
「今日はそれでいいよ」
「いいのか?」
「朝はちょっと置いてかれる感じしたけど」
「したのか」
「うん。でも、必要なの分かったから」
学院長の声が少し柔らかくなる。
「そうか」
「今日、設備だけ見る理由もう一回聞いていい?」
「ああ」
学院長は、昨日の結果をなるべく簡潔に整理した。
昨日は刺激出力だけを一・二五倍へ上げた。
東側奥部の最大低下幅は大きくなった。
けれど、変化の立ち上がり方は前日より緩やかだった。
そして、アリシアの冷感は弱かった。
「だから」
学院長が続ける。
「昨日の奥側反応が、刺激を強くしたときにいつも起きる形なのか、それともたまたま昨日だけ違う形だったのかを、先に確認したい」
「今日も同じ刺激?」
「候補ではそうだ」
「私の場所も同じ」
「ああ」
「でも私が感じるかは、今日の一番じゃない」
「そうだ」
アリシアは少し考える。
「もし今日も奥側がゆっくり下がったら?」
「刺激強度を上げたことで波形形状が変わる可能性が少し高まる」
「今日だけ急に下がったら?」
「昨日の緩やかな変化は、刺激強度だけでは説明しにくくなる」
「私が感じたら?」
「記録する」
「感じなくても?」
「記録する」
「……やっぱり全部記録だ」
「それしかない」
子供が小さく笑った。
◇
午前の会議では、昨日と同じ一・二五倍出力の刺激を再度入れることが決まった。
ただし、今日の主目的はアリシアと東側奥部の対応を見ることではない。
東側補助連絡線へ同一条件の刺激を二日続けて入れた場合、奥側新反応がどの程度似た応答を示すか。
そこだけを第一目的とする。
「刺激は一回」
魔導具教師が確認した。
「昨日と同じ五呼吸。同じ入力位置。同じ出力。前後の待機時間も揃えます」
「アリシアさん側は?」
若い観測員が尋ねる。
「通常記録は行いますが、こちらから胸部感覚へ注意を向けるよう指示しません」
サーラが答える。
「昨日までは申告項目確認してましたよね」
「今日は試験開始前だけです。刺激後は、アリシアさん本人が何か感じた場合に自発申告してもらいます」
「どうして?」
「“感じますか”“冷たくないですか”と繰り返し聞くこと自体が、注意の向け方を変えるからです」
アリシアが少し驚いた。
「今日は聞かない?」
「基本的には」
「感じたら自分で言う?」
「はい」
「言い忘れたら?」
「あとから思い出した場合も記録します」
「その時刻、ずれるよね」
「自覚時刻と申告時刻を分けます」
「難しい」
「観測ですから」
『便利な言葉になってきたわね』
ノアが机の端で呟く。
若い観測員が少し考える。
「つまり今日は、アリシアさん側の注目度も少し下げる」
「そうです」
「設備側の再現を見るのに、人間側が前のめりにならないように」
「それもあります」
学院長がアリシアを見る。
「本人としてはどうだ?」
「何が?」
「昨日みたいに細かく聞かれないこと」
アリシアは少し考えた。
「楽かもしれない」
「でも?」
「気づかなかったらどうしようって思う」
「それも記録します」
「サーラ、それ何でも記録する」
「仕事なので」
若い観測員が小さく笑った。
「アリシアさんもだいぶ分かってきましたね」
「何が?」
「サーラさん相手に何を言っても記録される」
「それは最初から分かってる」
「俺、覚えるまで時間かかった」
「子供にも負けてるって言われるよ」
「言わないでください」
会議室へ柔らかな笑いが広がった。
そのあと、安全管理担当が正式な意思確認へ移る。
「今日の設備再現試験中、生活観測区画に留まり、通常状態の記録を継続することに同意しますか?」
「はい」
「参加したい気持ち」
アリシアは少し迷った。
「……七」
「昨日より一つ低い」
「私が一番じゃないから」
「嫌ですか?」
「少しだけ」
「それでも?」
「必要なの分かるから、参加したい」
「怖さ」
「二」
「知りたい気持ち」
「九」
『安定してるわね』
「そこは変わらない」
学院長が小さく笑う。
「むしろ上がらないだけましだな」
「十にできるよ」
「するな」
「数字って命令じゃないんでしょ」
「そういう方向へ使うな」
皆が笑った。
◇
試験は昼食後に行う。
午前中は、昨日と同じように何もしない時間として記録された。
アリシアは魔法史の課題の残りへ取り組む。
昨日半分まで進めた。
今日は残り。
地下の資料が机の端へ置かれているため、気を抜くとすぐそちらへ視線が移ってしまう。
『三回目』
ノアが窓辺から言う。
「何が?」
『地下資料見た回数』
「数えてるの?」
『暇だから』
「課題手伝ってよ」
『猫に魔法史を書かせるつもり?』
「ノア知ってるでしょ」
『知ってても学生の課題は自分でやりなさい』
「こういうときだけまとも」
『こういうとき“も”よ』
少し離れた机では、子供が昨日の木箱記録と今日の白い花を見比べていた。
白い花は、もはや花弁をほとんど残していない。
茎の先には乾いた萼と、ごく小さな薄茶色の部分だけが残る。
「昨日より小さい?」
子供が呟く。
アリシアは課題から顔を上げる。
「どこが?」
「ここ」
子供が茎の先を指した。
「少し乾いたようには見えるね」
「昨日の絵見る?」
「子供が見たいなら」
子供は二枚目の絵を持ってくる。
今の花。
昨日まで。
紙の線と実物を見比べる。
「絵、大きい」
「実物が小さくなった?」
「絵を大きく描いたかも」
「どっち?」
「分からない」
子供は少し笑う。
「絵、同じ大きさじゃないから比べにくい」
「そうだね」
「次描くなら、大きさ決める?」
「そうしたい?」
「少し」
「じゃあ測る?」
子供は一瞬考えた。
「今日はしない」
「うん」
「今、箱の茶色いの考えたい」
「そっか」
白い花の絵を戻す。
全部を一度に精密にしなくてもいい。
必要になったとき。
知りたいと思ったとき。
その方法を増やせばいい。
◇
昼食前。
子供は木箱へもう一度近づいた。
朝は触らなかった。
今は触りたい気持ち八。
怖さ二。
「増えたね」
「うん」
「何で?」
「ずっと紙見てたら、昨日の触った感じ思い出した」
「それで触りたくなった?」
「うん」
箱を開ける。
昨日と同じ程度。
茶色いものが見える。
子供はすぐに手を入れない。
まず見る。
「昨日と似てる」
「うん」
「折れてる」
「折り重なってるように見えるね」
「袋?」
「そう見える?」
「少し」
右手が中へ入る。
指先が茶色いものへ触れる。
「冷たい」
「うん」
「昨日も冷たい」
「うん」
「今日の冷たい」
「うん」
子供が少し笑った。
指をゆっくり動かす。
表面。
端。
そこで。
「あ」
「どうした?」
「端ある」
「布の?」
「うん……たぶん」
子供の指が、折り重なった茶色いものの一番上側の端らしき部分へ触れている。
「持ち上げる?」
自分へ尋ねる。
動きが止まる。
「怖さ三」
「うん」
「持ち上げたい七」
「うん」
「知りたい八」
さらに少し考える。
「……今日は、端だけ触る」
「持ち上げない?」
「うん」
「どうして?」
「昨日は上触った。今日は端分かった」
「それで十分?」
「今は」
手を引く。
蓋を閉じる。
「袋かは?」
「まだ分からない」
「持ち上げたら分かるかも」
「うん」
「でも今日はしない」
「うん」
子供は箱を見つめながら言った。
「次の一個にする」
アリシアは何も言わず、少しだけ笑った。
◇
昼食後。
生活観測区画には、試験のための特別な緊張が昨日より少なかった。
アリシアが主要観測対象ではない。
その違いは思っていたより大きかった。
室内には普段通り、子供もいる。
顔のない存在も寝台に横たわっている。
ノアは窓際。
治療教師も通常の位置。
サーラは机で記録を取っているが、昨日のようにアリシアだけへ身体を向けてはいなかった。
アリシアは魔法史の課題を開いていた。
「本当に課題やってていいの?」
「むしろ普段に近い行動をしてください」
サーラが答える。
「刺激始まるときは教える?」
「教えます。開始時刻を知っている条件は昨日と揃えます」
「そこは同じ」
「はい」
「でもそのあと細かく聞かない」
「はい」
アリシアは少し不安そうに胸を見る。
「気づけるかな」
「気づかなければ、“気づかなかった”という結果になります」
「あとで、実はあった気がするって思ったら?」
「後からの回想として分けます」
「……本当に何でも分けるね」
「混ぜるよりいいですから」
通信具が光る。
『東側、準備完了』
西側も続く。
『西側、記録同期完了』
サーラがアリシアへ一度だけ確認した。
「現在状態」
「痛みゼロ。苦しさゼロ。胸部違和感なし。怖さ二・五。参加意思七」
「了解しました」
そのあとは聞かない。
アリシアは課題へ視線を戻した。
けれど、文字が頭へ入りにくい。
『見てるふりね』
「うるさい」
『全然頁進んでないじゃない』
「今から」
「刺激開始まで十呼吸」
サーラの声。
アリシアの心臓が少し速くなる。
十。
九。
課題の文字を見る。
八。
七。
内容は入らない。
六。
五。
ペンを持つ。
四。
三。
二。
一。
『刺激開始』
昨日と同じ出力。
昨日と同じ長さ。
昨日と同じ場所。
アリシアは息を止めない。
わざと胸へ意識を集中もしない。
一呼吸。
二。
三。
何もない。
五呼吸。
『刺激終了』
アリシアは課題の一行を読む。
意味が頭へ入ってこない。
「……無理」
小さく呟く。
「何が?」
子供が聞く。
「勉強」
サーラの口元が少しだけ緩む。
「それは記録しなくていいですか?」
「しなくていい」
『集中できてない条件は残した方がいいんじゃない?』
「ノアまで」
「記録します」
「サーラ!」
少しだけ笑いが起きる。
その間にも、東側では波形が進んでいる。
『東側補助連絡線、減衰開始』
アリシアの胸には何もない。
刺激開始から十呼吸。
十一。
十二。
サーラはアリシアへ尋ねない。
十三。
『奥側新反応、低下開始』
アリシアはその報告を聞いた。
昨日と同じ十三呼吸。
胸。
まだ何もない。
けれど、自分から探しにいきそうになる。
やめる。
探したら駄目、ではない。
でも今日は、探すことを主目的にしていない。
「……今、探したくなった」
自分から申告した。
「記録します」
それだけ。
十四。
十五。
『奥側低下継続』
アリシアは課題へ目を戻す。
文字。
制御術式の歴史。
読めない。
十六。
十七。
『奥側低下幅、増加』
昨日。
このあたりでは、奥側の低下はなだらかだった。
今日も。
『傾き、昨日記録に近い』
観測班の声。
アリシアの胸は静か。
「……何もない」
自分から言った。
サーラが短く答える。
「記録します」
十八。
十九。
二十。
『奥側新反応、最大低下。昨日比、ほぼ同範囲』
会議で知りたかったこと。
同じ刺激。
近い反応形状。
再現した。
少なくとも今のところは。
アリシアは、その情報へ意識を向けた瞬間。
胸の奥に。
何か。
「……あれ」
サーラがすぐ顔を上げるが、質問はしない。
アリシアは自分で確認する。
冷たい?
違う。
痛くない。
震えない。
でも。
「……何か、ある気がする」
「申告内容をそのままお願いします」
「冷たいじゃない。胸の奥が……少し重い?」
ノアが耳を立てる。
「重さの強さ」
「〇・五くらい」
「痛み」
「ゼロ」
「苦しさ」
「ゼロ」
「方向」
アリシアは少し迷う。
「分からない」
「開始時刻」
記録。
刺激開始から二十一呼吸前後。
奥側新反応が最大低下へ達した直後だった。
「昨日、重いなかった」
アリシアが言う。
「ありません」
「冷たいは?」
「今日は現時点で申告なしです」
「違う感じ」
「はい」
胸の重さは長く続かなかった。
十呼吸ほど。
「薄くなった」
さらに数呼吸。
「消えた」
奥側新反応は。
『復帰開始』
少し遅れて基準へ戻る。
アリシアは眉を寄せた。
「何これ」
誰も答えない。
答えられない。
西側からは、さらに遅れて。
『微小対応波形、確認』
アリシア側。
何もない。
「西のときはゼロ」
自分から申告する。
そのまま刺激後観測が終了した。
◇
「昨日と同じだった?」
試験終了後、子供が最初に尋ねた。
アリシアは少し困った。
「東側は、かなり似てたみたい」
「アリシアは?」
「違った」
「冷たくない?」
「今日は冷たくなかった」
「何?」
「重い感じ」
「痛い?」
「痛くない」
「苦しい?」
「それもない」
「じゃあ違う」
「うん」
子供が首を傾げる。
「同じ東なのに?」
「そうなんだよね」
「変」
「変」
アリシアは少し笑ったものの、頭の中は混乱していた。
設備側は再現した。
昨日と同じ刺激。
昨日に近い奥側反応。
それなのに、自分の感覚は昨日とは違った。
「じゃあ、設備同じならアリシアも同じ、じゃない」
子供が言う。
「そうなる」
「速度同じ?」
「かなり近かったみたい」
「でも冷たくない」
「うん」
「じゃあ速度答えじゃない?」
アリシアは口を開き。
少し考える。
「速度だけじゃない、かもしれない」
「まただけじゃない」
「増えるね……」
アリシアは額へ手を置いた。
『頭痛?』
「違う。考えすぎ」
『ならいいわ』
「よくないよ」
『答えが簡単じゃないってだけでしょう』
「昨日、速度かなって結構思ってた」
『また当てたかった?』
「……少し」
『今日違った』
「うん」
『じゃあ、また直す』
「分かってる」
アリシアは少しふてくされた声になった。
それを見て子供が笑う。
「がっかり?」
「五」
「知りたい?」
「九」
「ずっと九」
「下がらないんだよ」
◇
午後の照合会議では、まず東側設備側の再現性だけが確認された。
刺激条件。
昨日と同一。
東側補助連絡線の初期応答。
ほぼ同一範囲。
奥側新反応の低下開始。
刺激開始から十三呼吸。
昨日も十三呼吸。
最大低下幅。
昨日との差はごく小さい。
継続時間。
誤差数呼吸。
低下の傾斜。
昨日に近い。
「設備側は、かなり再現した」
若い観測員が資料を見ながら言う。
「少なくとも二回では」
サーラが補足する。
「はい。二回では」
「そこ大事です」
「もう分かってます」
若い観測員は少し笑った。
「でも、昨日のなだらかな低下が全く偶然だった可能性は下がった」
「そうですね」
「同じ出力で、似た波形が二回」
「はい」
「じゃあ、速度条件を次に変えるための基準にしやすくなった」
「その可能性は上がりました」
アリシアもそこまでは嬉しかった。
「じゃあ設備だけ見る意味あった」
「かなり」
学院長が答える。
「アリシアを主対象から外したのも?」
「ああ」
アリシアは少し照れながら頷いた。
「朝、置いてかれる感じしたけど」
「今は?」
「一」
「減ったな」
「必要だったから」
「そうか」
しかし。
問題はその次だった。
「アリシアさん側」
サーラが別紙を開く。
「昨日は、奥側新反応低下開始から六呼吸前後で胸部冷感〇・二程度。今日は、低下開始からおよそ八呼吸前後で胸部の重さ〇・五程度」
「冷感なし」
「はい」
「重さは過去に?」
若い観測員が尋ねる。
サーラが過去資料を確認する。
「闇を広げた後の疲労として腕や身体の重さを申告した記録はありますが、今回のような“胸の奥だけの短時間の重さ”は、同型として扱える記録がありません」
「初めて?」
「少なくとも詳細記録上は」
アリシアが胸へ手を置く。
「今はないよ」
「はい」
「何だったんだろう」
「それを考えます」
若い観測員が腕を組む。
「同じ奥側反応なのに、アリシアさんの感覚が違った」
「はい」
「じゃあ、アリシアさんが奥側反応そのものをそのまま感じてるわけじゃない?」
会議室が少し静かになる。
サーラは慎重に答えた。
「その可能性は上がります」
アリシアの目が動く。
「え?」
「もし奥側新反応の数値変化を、そのまま同じ感覚へ変換して受け取っているのであれば、設備側の応答がかなり似た二回で、アリシアさん側の感覚だけが冷感と重さに分かれたことは説明しにくいです」
「じゃあ何を感じてる?」
「まだ分かりません」
「また」
「ただ」
サーラが少しだけ言葉を進めた。
「六つ目が拾っているものは、私たちの観測盤に出ている“奥側新反応の数値そのもの”ではない可能性があります」
アリシアは黙った。
若い観測員も資料へ目を落とす。
「観測盤に出てないもの?」
「ありえます」
「別の状態?」
「はい」
「奥側新反応と同時に変わってる何か」
「その可能性です」
アリシアの胸が少し高鳴る。
「じゃあ、私と観測盤が違うもの見てる?」
「仮説としては」
「六つ目にしか分からないもの?」
「そこまではまだ言えません」
「他の魔導具で取れてないだけかもしれない」
「そうです」
「でも」
アリシアは地図へ視線を落とした。
東側奥部。
そこにある新反応。
名前のない光。
小空洞。
補助連絡線。
そして自分。
「同じ変化を見てるんじゃなくて、同じところで起きてる別の変化を感じてるかもしれない」
「はい」
その言葉は。
少し怖かった。
観測盤に出ていないもの。
自分だけが拾っているかもしれないもの。
それは、六つ目の神器が持つ役割へ近づいているようにも聞こえる。
同時に。
自分にしか感じられないものを、自分が間違えたらどうするのか。
そんな不安も出る。
「怖さ」
サーラに聞かれる前に、アリシアが言った。
「四」
学院長が顔を上げる。
「何が怖い?」
「私にしか分からないものだったら」
「うん」
「私が間違えたら?」
会議室の空気が柔らかく静まった。
学院長はすぐに「間違えない」とは言わなかった。
「だから、一人で答えにしない」
アリシアが顔を上げる。
「感じたことはお前が言う」
「うん」
「時間や身体状態は周りが記録する」
「うん」
「地下側は別班が取る」
「うん」
「後から並べる」
「……うん」
「お前一人の感覚だけで、全体を決めるわけじゃない」
胸に溜まっていたものが、少しだけ軽くなる。
「私しか感じなくても?」
「感じた本人の報告は必要だ。でも、意味を決めるのは一人じゃない」
ノアが机の端から鼻を鳴らした。
『そもそもあなた、自分だけで決めない練習を百話くらいやってるでしょう』
「そんなに?」
『体感よ』
「適当じゃん」
少し笑いが戻った。
◇
そのあと、今後の候補が整理された。
一つ。
同じ設備刺激をもう一度行い、アリシア側の感覚が再び冷感、重さ、あるいは何もなしになるか確認する。
二つ。
刺激の立ち上がり速度だけを変え、設備側とアリシア側の双方を比較する。
三つ。
奥側新反応付近で、現在観測していない別種の変化を拾えるよう、観測項目や魔導具を追加する。
「三つ目、大事じゃない?」
アリシアがすぐに言った。
「私もそう思います」
サーラが頷く。
「もし六つ目が、現在の測定盤に出ていない何かへ反応している可能性を考えるなら、こちら側の観測範囲を増やす必要があります」
「何を増やす?」
魔導具教師が資料をめくる。
「魔力総量以外。位相差。微細な温度変化。空間圧。古式術式の励起。極弱い通信波。候補はいくつかあります」
「全部一気に?」
「しません」
アリシアが少し笑った。
「分かってた」
「優先順位を決めます」
「何から?」
「過去記録と重ね、六つ目の反応時だけに変化していた可能性がある項目を洗います」
若い観測員が息を吐く。
「昔の記録、また全部見るんですか」
「全部ではありません。該当時刻帯を中心に」
「何回分?」
「アリシアさん側の同型候補全回」
「……結構ある」
「頑張ってください」
「サーラさんもやりますよね?」
「もちろん」
「よかった」
少しだけ笑いが起きた。
アリシアは、そのやり取りを聞きながら胸へ手を置いた。
今は何もない。
けれど。
冷たかった日。
震えた日。
何も感じなかった日。
今日のように重く感じた日。
全部が、同じではない。
だからこそ。
何が違っていたのかを探せる。
◇
夕方。
生活観測区画へ戻ると、子供は木箱ではなく顔のない存在のそばにいた。
寝台から人影が起き上がろうとしている。
子供は少し離れた場所へ座り、口を閉じて見ていた。
一歩。
二歩。
三歩。
顔のない存在は昨日よりゆっくり進む。
四歩。
そこで少し長く止まる。
子供の唇が動いた。
けれど、まだ声を出さない。
五歩。
六歩。
そこで座った。
「今日は六」
座ったあと、子供が言う。
「うん」
「昨日八」
「そうだね」
「減った」
「歩数はね」
子供は少し考える。
「でも、今日は六歩歩いた」
「うん」
「昨日より少ないから悪い、じゃない」
「うん」
「ちょっと残念はある」
「そっか」
「窓に近づいてほしいから」
「うん」
「でも、六歩歩いた嬉しいもある」
「うん」
胸の十一の光は、今は二つだけが少し明るい。
「朝三つ」
「うん」
「今二つ」
「うん」
「歩いたから減った?」
子供は自分で首を横へ振った。
「分からない」
「うん」
「今日は六歩。今二つ」
「そうだね」
アリシアは少し離れたところからその言葉を聞いていた。
「アリシア?」
子供が振り向く。
「今日、設備どうだった?」
「昨日とかなり似た動きした」
「アリシアは?」
「違った」
「冷たい?」
「今日は、重い感じ」
子供の目が大きくなる。
「同じじゃない」
「うん」
「東同じなのに?」
「かなり似てた」
「じゃあ何で?」
「分からない」
「また」
「まただね」
子供は少し考え、顔のない存在の胸を見る。
「この人、昨日八歩。今日は六歩」
「うん」
「光も昨日と今日違う」
「うん」
「でも、この人同じ人」
「うん」
「同じでも同じにならない」
アリシアは少し笑う。
「そうだね」
「設備も同じにしても、アリシア同じじゃなかった」
「うん」
「人だから?」
「分からない」
「神器だから?」
「それも分からない」
「難しい」
「かなり」
子供は少し笑った。
「でも、今日違ったの分かった」
「うん」
◇
夕食後。
空からついに細い雨が落ち始めた。
強くはない。
窓硝子へ小さな粒が当たり、時折細い筋を作って下へ流れていく。
子供はその雨をしばらく見たあと、木箱の前へ座った。
昼に茶色いものの「端」を確認した。
今夜は触りたい気持ちが五まで下がっている。
「朝八?」
「昼八」
「今五」
「うん」
「怖さは?」
「二」
「下がったのに触りたいも下がった」
「うん」
「疲れた?」
「少し」
「箱に?」
「箱じゃない。今日いっぱい考えた」
「そっか」
子供は箱を開けなかった。
「今日は終わり」
「うん」
「明日、端持ち上げたいかも」
「うん」
「でも明日決める」
「うん」
箱へ触れない日ではなかった。
昼に触った。
ただ夜は触らない。
朝と昼と夜。
同じ一日でも、気持ちは変わる。
◇
寝る前。
学院長が今日の暫定整理を伝えに来た。
「設備再現は?」
アリシアが聞く。
「二回目としては、かなり近い」
「じゃあ、昨日のなだらかな変化は刺激強度一・二五倍で出やすい?」
「可能性は上がった。ただ、まだ二回だ」
「うん」
「アリシア側は、同じ設備波形に対して同じ感覚ではなかった」
「うん」
「だから、次に速度だけ変える前に、過去のアリシア反応時刻帯を再解析する」
「私が冷たいとか震えとか感じたとき?」
「ああ」
「重いも今日追加」
「そうだ」
「観測盤に出てない変化探す?」
「そこを優先する」
アリシアの表情が少し明るくなる。
「それ、私も見たい」
「資料を?」
「うん」
「量多いぞ」
「手伝える分ある?」
「過去の自分の感覚記録なら」
「やる」
「無理はするな」
「学生の課題も?」
「当然やれ」
アリシアが露骨に嫌そうな顔をした。
「地下だけじゃ駄目?」
「学生だからな」
『私と同じこと言ってるわ』
「ノアが得意そう」
「珍しく正論だからな」
『珍しくは余計よ』
少し笑いが起きた。
「明日、刺激試験は?」
「未定だ」
「速度変えない?」
「今日の解析次第」
「行きたい……じゃなくて、やりたいは八」
「記録しておく」
「でも明日変わる」
「分かってる」
学院長の返事が、少し慣れたものになっている。
◇
部屋の灯りが夜間用へ落ちたあと、アリシアは自分の練習帳を開いた。
今日の記録。
朝。
自分のことを調べるのに、自分を主対象にしないことが少し寂しかった。
置いていかれるように感じた。
でも、設備側の再現を確かめる意味は分かった。
昼。
同じ刺激。
東側奥部は昨日とかなり似た形で変化した。
自分は昨日の冷感ではなく、胸の奥の重さを感じた。
西側が遅れて変化したときは、今日も何も感じなかった。
アリシアはそこまで書き、少し筆を止めた。
それから。
――設備が同じように動けば、私も同じように感じると思っていた。でも今日は違った。
次の一行。
――私は、観測盤に出ている数字そのものを感じているわけではないのかもしれない。
書いてから、少し怖くなる。
仮説だ。
まだ決めてはいけない。
なので、その下へ。
――そう考える理由が一つ増えた。でも、まだ分からない。
『慎重ね』
ノアが机の横へ来ていた。
「また当てたくなるから」
『今日は何を当てたいの?』
「……六つ目だけが感じる何かがある、とか」
『格好いいわね』
「茶化さないで」
『でも、そうだったら嬉しい?』
アリシアは少し考えた。
「嬉しい……かも」
『何で?』
「六つ目にしかできないことなら」
『自分が選ばれた理由に近そう?』
「うん」
言ったあと。
アリシアは自分の胸を見る。
「でも、怖い」
『何が?』
「私にしか分からないなら、間違えたらどうするんだろうって」
『学院長に何て言われた?』
「一人で答えにしない」
『なら?』
「感じたことだけ言う」
『それで?』
「みんなの記録と比べる」
『それでいいじゃない』
「うん」
少しだけ息を吐く。
「前なら、自分だけ分かるものがあるって聞いたら、私がちゃんとしなきゃって思ってたかも」
『今も少し思ってるでしょう』
「少し」
『数字』
「三」
『下がったわね』
「一人じゃないって分かってるから」
ノアは尻尾を一度だけアリシアの腕へ触れさせた。
『それなら、今日はそこまででいいんじゃない?』
「うん」
アリシアは最後に一行付け足した。
――自分のことを知るためでも、自分が一番前にいない方が分かることがある。
書き終える。
少し長い。
けれど消さなかった。
◇
その夜。
雨はしばらく静かに降り続いた。
東側奥部新反応に大きな自然変動は起きていない。
名前のない光も動かない。
小空洞も静かなまま。
西側補助連絡線にも新しい波形は出なかった。
生活観測区画では、子供が木箱の中にある茶色いものへ初めて「端がある」と気づいた。
持ち上げてはいない。
袋かどうかも、まだ分からない。
顔のない存在は今日は六歩。
昨日より少ない。
けれど、それを後退とは決めなかった。
そしてアリシアは。
自分自身を知るための調査で、自分を第一の観測対象にしない時間を初めて受け入れた。
その結果。
東側設備側の応答は、昨日とかなり近い形で再現された。
けれど、六つ目の神器を持つアリシアが感じたものは、昨日とは違った。
冷たさではなく。
ごく弱い、胸の奥の重さ。
同じように見える地下の変化。
違う自覚感覚。
それが意味するものは、まだ分からない。
ただ一つ。
人間側の測定盤が示す数字を、そのまま六つ目が感じているだけではない可能性が出てきた。
もしそうなら。
六つ目が拾っているものは、まだ人間側が測っていない別の状態かもしれない。
あるいは。
同じ場所で重なって起きている、別の何かなのかもしれない。
また、分からないことが増えた。
けれど今回は。
何が分からないのかも、前より少し具体的だった。
だから次は。
刺激を強くする前に。
速度を変える前に。
アリシアが感じた瞬間の周囲で、今まで測っていなかった何が動いていたのか。
そこを探せる。
自分を知りたいからといって。
自分だけを見続ける必要はない。
自分がいない条件。
自分が感じなかった時間。
自分では測れないもの。
それらを並べることで、初めて見える自分もある。
アリシアは雨音を聞きながら目を閉じた。
胸の奥は静かだった。
冷たくも。
重くもない。
それでも今夜は。
その静けさの向こう側に、自分だけではまだ見つけられていない何かがあるのかもしれないと。
以前より少しだけ、落ち着いて考えることができていた。




