第162話 強くすれば分かるとは限らないから、一つだけ変えて確かめる
翌朝、生活観測区画の窓には薄い雲がかかっていた。
雨が降りそうなほど重い空ではない。けれど昨日までの強い朝日はいくらか和らぎ、庭の石畳には窓枠をくっきり映す影ができていなかった。風も弱く、植え込みの葉は時折思い出したように揺れる程度で、部屋の中には換気術式の低い音と、まだ眠っている子供の呼吸が静かに重なっている。
アリシアは寝台の上で目を覚ますと、昨日と同じように胸へ手を置いた。
冷たさはない。
震えもない。
痛みも、息苦しさもない。
昨夜は東側奥部にも大きな自然変動が起きなかったと、夜勤担当から簡単な報告が入っている。つまり、アリシアが眠っているあいだにも、比較に使えそうな新しい反応は増えなかった。
「……何もない」
『今日は残念そうじゃないわね』
寝台の足元で丸くなっていたノアが、前足へ顎を乗せたまま言った。
「昨日、何もない時間も使えるって分かったから」
『随分殊勝になったじゃない』
「前から分かってたよ」
『分かっていたのと、納得していたのは別でしょう』
「それは……まあ」
アリシアは否定しきれず、ゆっくり身体を起こした。
机の上には、今朝も報告書が並んでいる。
東側奥部新反応。
名前のない光。
小空洞。
東西補助連絡線。
それから、昨日の刺激試験の暫定解析。
一番上の紙には、刺激開始から各反応が起きるまでの時間が細かく書かれていた。
東側補助連絡線へ単発の短い低出力刺激。
刺激開始から十四呼吸後。
奥側新反応、低下開始。
その約一呼吸後。
アリシア、胸部冷感〇・五。
奥側の低下幅が一段大きくなった直後、アリシア側の冷感も一へ上昇。
その後、アリシアの冷感が消失し、二呼吸ほど遅れて奥側新反応が基準値へ復帰。
西側補助連絡線には、さらに遅れて弱い対応波形。
その時間帯、アリシア側の自覚反応なし。
昨日の終わりまでに、かなり何度も見た記録だった。
それでもアリシアは、今朝は最初から最後まで一度だけ読み、紙を戻した。
『二周目は?』
「しない」
『本当に?』
「しないってば」
『昨日なら三回は読んでたわね』
「昨日の私と今日の私は同じ人だけど、同じ状態じゃないから」
ノアの耳がぴくりと動いた。
『それ、誰の言葉?』
「ノア」
『覚えていたのね』
「便利だったから」
『使い方が雑なのよ』
アリシアが少し笑ったところで、隣の寝台から布の擦れる音がした。
子供が目を覚ましたらしい。
「……雲?」
「うん。今日は少し曇ってる」
子供は布団の中から窓を見る。
鳥はいなかった。
昨日までなら「いない」と言っていたかもしれない。
今朝は少し考えてから口を開く。
「今は、見えない」
「うん」
「声も聞こえない」
「そうだね」
「今日の鳥は、まだ分からない」
「うん」
それで窓の確認を終え、次は顔のない存在へ視線を向ける。
「おはよう」
今朝も返事はない。
けれど、胸にある十一の光のうち、一つが少し遅れて明るくなった。
さらに数呼吸。
二つ目。
そこで止まる。
「二つ」
「うん」
「昨日の夜は三つだった」
子供がそう言ってから、少しだけ眉を寄せる。
「でも、朝は朝」
「うん」
「今は二つ」
以前より、言い直すまでが早くなっていた。
アリシアはそれを褒めようとして、やめる。
正解として固定したくない。
子供自身が、今そう見たいと思っている。
それで十分だった。
◇
足の確認を終えた子供は、朝食より前に木箱へ向かった。
昨日、箱の中へ見えた茶色いもの。
布のようにも。
少し硬いもののようにも見えた。
まだ触れていない。
子供は箱の前へ座り、すぐには蓋へ手を伸ばさなかった。
「昨日、触りたい七だった」
「うん」
「寝る前」
「うん」
「今は……」
自分の両手を見る。
「六」
「怖さは?」
「三」
そこで少し間が空く。
「触る?」
アリシアは尋ねなかった。
子供は木箱と食卓を交互に見る。
「今日は……ごはん先」
「昨日もそうだったね」
「うん。でも理由違う」
「どう違うの?」
「昨日は、先に開けたらごはんの間ずっと箱考えそうだった」
「今日は?」
「今は、箱よりお腹すいた」
一拍置いて。
アリシアが笑った。
ノアも窓辺で尻尾を揺らす。
『とても健全ね』
「ノアが褒めてる」
「ほんと?」
『意訳が雑』
「でも褒めてるでしょ」
『まあね』
子供は少し嬉しそうに立ち上がり、食卓へ向かった。
箱は閉じたまま残る。
見たいもの。
知りたいもの。
触れたいもの。
それがあっても、朝食を先にしていい。
以前なら、それだけのことにも大きな不安が付きまとっていた。
◇
朝食の半ば。
学院長が扉の外へ来た。
「学院長?」
「いるぞ」
「今日は何時間?」
子供が即座に尋ねる。
扉の向こうに、明らかな沈黙が落ちた。
『もう逃げられないわね』
ノアが楽しそうに言う。
「昨日、五時間半」
「覚えてるのか」
「うん」
「今日は六時間だ」
「増えた」
「増えたな」
「いい?」
学院長は一瞬答えを止めた。
「……睡眠時間としては昨日よりましだ」
「いいじゃない?」
「そうだな。少なくとも増えた」
「じゃあ、今日六時間寝た」
「それでいい」
子供は満足そうに麦粥へ戻った。
「完全に記録されてるね」
アリシアが言う。
「誰のせいだと思ってる」
「子供?」
「お前ら全員だ」
『私は何もしてないわよ』
「ノアが一番面白がってる」
『失礼ね』
軽い空気が落ち着いてから、学院長の声が少しだけ真面目になる。
「昨日の刺激試験について、夜間記録まで含めた再整理が終わった」
アリシアの匙が止まる。
「何か変わった?」
「大きくは変わらない。ただし、今日次に何を試すかについて候補を絞った」
「強さ?」
アリシアがすぐに聞く。
「第一候補はそうだ」
胸が少し高鳴る。
「昨日、私が言ったやつ」
「ああ。ただし」
「分かってる。すぐ決定じゃない」
「覚えがよくて助かる」
「かなり聞いてるから」
「今日は昨日と同じ場所?」
「生活観測区画を候補にしている」
アリシアは少しだけ残念そうな顔をした。
学院長は見逃さなかった。
「地下へ行きたい?」
「今も七くらい」
「刺激試験への興味は?」
「八」
「どっちが大きい?」
「刺激」
「理由は?」
アリシアは少し考える。
「昨日、東側奥部の低下が大きくなったあと、私の冷たさも〇・五から一に上がった。だから、変化が強いほど私も強く感じるのか確かめたい」
「そこまでは昨日と同じだ」
「うん」
「ただし、今日の試験で一つ問題がある」
アリシアが眉を寄せる。
「何?」
「“強くする”という言葉だ」
「え?」
「人間は強くすると、分かりやすくなると思いやすい」
アリシアは少し黙る。
「……私も思ってた」
「だろうな」
「強くした方が、私も感じやすいって」
「その可能性はある」
「でも?」
「強くしたことで、昨日までとは別の反応が出る可能性もある」
アリシアは少し目を細めた。
「別の?」
「設備の別系統が動く。小空洞まで反応する。名前のない光が動く。西側へ伝わる形が変わる。安全域そのものが変わる。いろいろだ」
「じゃあ、強くしない?」
「そういう意味じゃない」
「一個だけ変える?」
「そうだ」
学院長の声に、アリシアは小さく頷いた。
「強さだけ」
「刺激時間、波形、場所、アリシアの位置は昨日と同じ。出力だけを一段階上げる案だ」
「一段階ってどのくらい?」
「昨日の一・二五倍」
「そんなに少ない?」
「少なく見えるか?」
「ちょっと」
「だからいい」
アリシアは少し口を尖らせた。
「もっと変えないと比べにくくない?」
「変えすぎると安全性と解釈の両方が悪くなる」
「……なるほど」
「強くすれば答えが出る、じゃない。強さだけを少し変えたとき、昨日と何が違うかを見る」
子供が横から聞いている。
「箱も?」
「何が?」
「少しだけ開けるのと、いっぱい開けるの違う?」
「そうだね」
「いっぱい開けた方が中見える」
「うん」
「でも、急にいっぱい開けたら怖いものいっぱい見えるかも」
「あるかもしれない」
子供は少し考える。
「じゃあ、一個だけ変える」
学院長が小さく笑う。
「最近、うちの研究者より理解が早いな」
「若い観測員に言わないであげて」
「聞こえたら落ち込むだろうな」
◇
午前中の正式会議は、昨日より短かった。
すでに見る項目も、刺激方式も、アリシア側の安全条件も決まっている。
今日変えるのは、刺激強度だけ。
それ以外は昨日とできるだけ揃える。
参加者は学院長、副学院長、サーラ、魔導具教師、土の神器継承者、安全管理担当、治療教師、アリシア。
そして若い観測員。
「今日は最初から緊張してます」
若い観測員が資料を並べながら言った。
「何で?」
アリシアが尋ねる。
「昨日、子供の方が理解早いって話がどこかから聞こえてきた気がして」
学院長が視線を逸らした。
「誰ですかね」
副学院長まで書類へ目を落とす。
「絶対聞こえてたじゃないですか」
サーラが笑いを堪えながら言う。
「では、今日こそ抜かれないよう頑張ってください」
「そこ励ますんですか?」
『無理ね』
「ノアが厳しい」
「猫にまで」
空気が少し緩む。
それから、魔導具教師が机中央の図へ手を置いた。
「刺激波形は昨日と同じ。単発。五呼吸。出力のみ一・二五倍です」
「安全域?」
「過去の設備試験で問題がなかった範囲の下側です。刺激線自体への負荷も低い」
「奥側新反応が昨日より強く下がる保証は?」
「ありません」
「じゃあ、刺激強くしても奥は同じかもしれない」
「はい」
「逆に、もっと弱いかも?」
「あります」
アリシアは少し驚いた。
「強くしたのに?」
「設備側の反応が単純比例とは限りません」
魔導具教師が答える。
「閾値があります。吸収されることもあります。古い経路の一部で減衰する可能性もある。昨日より出力を上げたからといって、奥側新反応も同じ割合で大きく動くとは限りません」
「……強くしたら強くなる、じゃない」
「そうです」
若い観測員が口を開く。
「じゃあ今日見るのは、“刺激強度を一段上げたとき、奥側新反応とアリシアさん側がどう変わるか”」
サーラが頷く。
「はい」
「奥側が昨日より大きく下がったのに、アリシアさんが同じなら?」
「強度だけで感覚強度が決まっている仮説は弱くなります」
「奥側もアリシアさんも大きくなったら?」
「支持材料が増えます」
「奥側が変わらなかったら?」
「アリシアさん側との強度比較には使いにくくなりますが、刺激強度と奥側応答の関係については材料になります」
「どの結果でも、何かは残る」
「そうですね」
若い観測員が少し得意そうにアリシアを見る。
「今日は子供より早かった気がします」
「競ってないよ」
「そうでした」
また少し笑いが起きた。
学院長がそれを見届けてから、アリシアへ向き直る。
「参加意思を確認する」
「うん」
「昨日と同じ生活観測区画で、出力のみ一・二五倍にした刺激試験へ参加したいか?」
アリシアは目を閉じず、自分の気持ちを確かめた。
怖さ。
知りたい気持ち。
地下へ行きたい気持ち。
昨日より刺激が強くなることへの不安。
「参加したい、八」
「怖さ」
「三・五」
「昨日の開始前より少し高い?」
「うん。強くするって聞いてるから」
「それでも参加したい?」
「うん」
「知りたい気持ち」
「九」
『安定の九ね』
「ノアがまた高いって」
「今日は翻訳合ってる」
『余計なこと言わなくていい』
安全管理担当が続ける。
「昨日と同じく、痛み一以上、苦しさ一以上で即終了。怖さ六で終了。五で相談。神器反応が昨日より強く、本人が不安を感じた場合は数値に関係なく中止できます」
「うん」
「刺激は一回のみ。反応が弱かったからと、その場でもう一度追加しません」
「……うん」
アリシアが少し残念そうに返事をしたため、学院長が眉を上げる。
「今、追加したかったな?」
「何も出なかったら、もう一回って思うかも」
「だから先に決める」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるってば」
ノアが鼻を鳴らした。
『怪しいわね』
「ノアも言わないで」
◇
会議が終わったあと。
昼までの時間を使って、子供は木箱へ触れることにした。
朝食前には、触りたい六。
怖さ三。
食事後も、気持ちは大きく変わっていなかった。
子供は箱の前へ座る。
アリシアも少し離れたところに座った。
今日は午後に刺激試験がある。
けれど、そのことを理由に子供の時間を急がせない。
「今、触りたい?」
「六」
「怖さは?」
「三」
「開ける?」
「うん」
子供は両手で蓋を持ち上げた。
昨日と同じくらい。
指二本分ほど。
そこから一度止まる。
茶色いものが見える。
「ある」
「うん」
「昨日と同じ?」
「見える範囲では似てるね」
「同じって言わない?」
「言わない方がいいと思う」
「うん」
子供は少し息を整える。
そして、昨日よりほんのわずかだけ蓋を持ち上げた。
隙間が広がる。
手を入れられる。
中の茶色いものも、少し形が分かるようになった。
折り重なっている。
平らではない。
布にしては厚い。
「……袋?」
子供が呟く。
「そう見える?」
「うん。でも分からない」
「うん」
右手が箱の中へ近づく。
指先。
あと少し。
そこで子供の呼吸が止まりかける。
「怖い四」
「うん」
「触りたい七」
「うん」
「止めたいは?」
アリシアが尋ねると、子供は少し考えた。
「二」
「続けたい?」
「六」
数字が複数並ぶ。
以前なら、一番大きいものを答えにしていたかもしれない。
今は違う。
「触る?」
子供自身が小さく尋ねる。
右手がゆっくり進む。
指先が茶色いものへ触れた。
「……っ」
肩が跳ねる。
すぐには手を引かない。
「硬い?」
「……柔らかい」
「布?」
子供は答えない。
指先を、ほんの少しだけ動かす。
「布、みたい」
「うん」
「でも厚い」
「うん」
「冷たい」
「うん」
「濡れてない」
「うん」
そこで手を引いた。
蓋はまだ開いている。
子供は自分の指を見る。
「触った」
「うん」
「壊れなかった」
「うん」
「手も痛くない」
「うん」
「もっと触りたい、六」
「怖さは?」
「三」
「続ける?」
子供は箱を見る。
少し迷ってから首を横へ振った。
「今日はここまで」
蓋を閉じる。
木の音。
留め具はかけない。
「触れたのに?」
「うん」
「もっと知りたい六あるよ?」
「ある」
「怖さ三」
「うん」
「どうして止めた?」
アリシアが尋ねると、子供は自分の指をもう一度見た。
「今日、触るって決めてたから」
「それができた?」
「うん」
「だから?」
「今、触った感覚覚えてる」
「うん」
「いっぱい触ったら、どれが最初か分からなくなるかも」
アリシアは少し驚いた。
子供はさらに続ける。
「最初は、柔らかい。でも厚い。冷たい。濡れてない」
「うん」
「今日はそれ残す」
「うん」
子供は机へ向かう。
自分の紙。
茶色い線の横へ、新しく言葉を足す。
――触った。
――柔らかい。
――厚い。
――冷たい。
――濡れていない。
アリシアはその記録を見ながら、午後の試験を思った。
変えるのは一つ。
強さだけ。
それ以外を増やさない。
子供も。
自分も。
やっていることは違うのに、少し似ていた。
◇
昼食後。
生活観測区画では、昨日とほとんど同じ配置が取られた。
アリシアは普段使っている椅子。
子供は少し離れた机。
ノアは窓辺。
治療教師とサーラだけが室内。
学院長と安全管理担当は扉の外。
東側と西側の各班は通信越しに待機している。
昨日と同じ。
違うのは刺激の強さだけ。
アリシアは、そのことを意識すると少し緊張した。
「開始前確認」
サーラが記録板へ目を落とす。
「痛み」
「ゼロ」
「苦しさ」
「ゼロ」
「胸部違和感」
「なし」
「神器関連感覚」
「なし」
「怖さ」
「四」
「朝より上がっていますね」
「うん。始まるって思ったら」
「参加意思」
「八」
「止めたい気持ち」
「二」
「期待」
アリシアは少しだけ口を結ぶ。
「九」
『正直ね』
「昨日も九だったから」
「昨日の九と今日の九は同じとは限りません」
サーラが淡々と記録する。
アリシアは思わず笑った。
「それ、子供みたい」
「皆さんから移るんですよ」
扉の外から学院長が言う。
「この区画の会話、最近そういうの多いな」
「学院長もです」
「俺もか」
小さな笑い。
それが落ち着く。
通信具が光る。
『東側、準備完了』
『西側、準備完了』
魔導具教師の声。
『刺激条件確認。昨日比一・二五倍。波形、継続時間、入力位置は同一です』
「了解」
サーラがアリシアを見る。
「今、止めたいですか?」
最後の確認。
アリシアは首を横へ振った。
「続けたい」
「分かりました」
「刺激開始まで十呼吸」
また、時間が細かくなる。
十。
九。
アリシアは胸へ手を置かない。
八。
七。
昨日と同じ姿勢。
六。
五。
心臓が少し速い。
「怖さ四・五」
「記録」
四。
三。
二。
一。
『刺激開始』
東側補助連絡線へ、一段だけ強くした短い波が入る。
一呼吸。
二。
アリシアには何もない。
三。
四。
五。
『刺激終了』
昨日と同じ。
ここまでは。
何も感じない。
アリシアは、自分の期待が一気に前へ出そうになるのを感じた。
「今、すごく気にしてる」
「記録します」
「昨日より気にしてるかも」
「それも」
六呼吸。
七。
『東側補助連絡線、減衰開始』
八。
九。
十。
胸は静か。
十一。
十二。
アリシアの眉が少し寄る。
昨日は十四呼吸で奥側が動いた。
それを覚えている。
だから、そこへ近づくほど待ってしまう。
「今、十四を待ってる」
「記録します」
『数を意識するのやめようとしても無理ね』
「うん」
十三。
そして。
『奥側新反応、低下開始』
昨日より、一呼吸早い。
アリシアの胸。
まだ何もない。
「……来ない」
十四。
十五。
奥側は低下している。
アリシアは感じない。
期待が少し焦りへ変わる。
「怖さ五」
安全管理担当がすぐに声を返す。
「相談します。続けたいですか?」
アリシアは迷う。
痛くない。
苦しくない。
神器反応もない。
けれど、怖さが五になった理由は危険ではなく、反応しないことへの焦りだった。
「続けたい」
「理由は?」
「まだ観測時間内だから」
「反応するまで待つ、ではない?」
「違う。予定時間まで」
「確認しました」
十六。
十七。
『奥側低下幅、昨日比一・三倍』
アリシアの目が少し大きくなる。
「昨日より大きい?」
「はい」
サーラの返事。
「でも私、何もない」
「そのままです」
十八。
十九。
胸は静か。
奥側は昨日より強く変化している。
なのに。
アリシアには冷たさがない。
そこへ。
ほんの少し。
「……待って」
全員が静かになる。
アリシアは目を閉じた。
「冷たい……?」
自信がない。
「強さは?」
「〇・二……くらい。分からない」
「場所」
「胸の真ん中」
「昨日と同じ?」
「似てる。でも、すごく弱い」
「方向」
アリシアは少し迷う。
「東……かも。でも昨日より自信ない」
「痛み」
「ゼロ」
「苦しさ」
「ゼロ」
「怖さ」
「五」
「続けたい?」
アリシアは一度唇を結んだ。
「予定時間まで」
記録が続く。
『奥側新反応、低下最大』
昨日より明確に大きい。
アリシア側。
「〇・二のまま」
上がらない。
昨日は奥側低下が増したとき、冷感も〇・五から一へ上がった。
今日は違う。
奥側はより大きく下がった。
それでも、アリシアの感覚は弱い。
「……強くない」
その声に、残念と困惑が混じる。
サーラは何も評価せず記録した。
『奥側、復帰開始』
アリシアの冷感は。
「今……消えた」
記録。
その数呼吸後。
『奥側新反応、基準値へ復帰』
昨日と大きく違わない時間差。
けれど。
強度の対応は、昨日と同じではなかった。
さらに待つ。
西側補助連絡線。
『微小対応波形、確認』
「開始時刻」
『奥側低下開始から十七呼吸後』
昨日と近い。
「アリシア側?」
「何もない」
今度は迷わない。
「ゼロ」
名前のない光。
変化なし。
小空洞。
変化なし。
そのまま予定観測時間が終了した。
「試験終了」
サーラがはっきり言う。
アリシアは椅子に座ったまま、少し俯いた。
「……強くしたのに」
誰もすぐに返事をしなかった。
「奥側は昨日より大きく変わったんだよね?」
「はい」
「なのに、私は昨日より弱かった」
「現時点の記録では、そうです」
アリシアの顔に悔しさが出る。
「じゃあ、強さじゃない?」
サーラは一度間を置く。
「“奥側の変化量が大きいほど、アリシアさんの冷感も必ず強くなる”という単純な形には、今日の結果は合いません」
胸の奥が少し沈んだ。
昨日。
かなり絞れたと思った。
強度。
速度。
継続時間。
その中でも、まず強さを見たいと自分で言った。
だから。
強くすれば、昨日より明確な反応が出るかもしれない。
そう期待していた。
「……外れた?」
子供が机の向こうから聞く。
アリシアはすぐ答えられなかった。
「強さだけ、は……違うかも」
口にすると、少し悔しい。
ノアが窓辺から降りてくる。
『がっかりしてる?』
「うん」
『かなり?』
「七くらい」
『怖さは?』
「今は三」
『知りたいは?』
「……九」
『そこ下がらないのね』
「だって」
アリシアは顔を上げた。
「じゃあ何で昨日は一まで冷たくなったのか、もっと知りたくなった」
学院長が扉の外で小さく笑った。
「それなら試験は終わりだ。今は休め」
「うん」
◇
安全確認では異常はなかった。
痛みゼロ。
苦しさゼロ。
頭痛なし。
腕の重さなし。
魔力循環の乱れもない。
ただし、疲労は昨日より少し高い三。
怖さは二・五まで下がった。
がっかりは、まだ六。
「がっかりも記録する?」
子供が尋ねる。
「練習帳には」
「学院のは?」
サーラが答える。
「アリシアさんが反応を期待していたことと、結果に落胆したことは、観測条件へ影響する可能性があるので残します」
「恥ずかしい」
「消しますか?」
アリシアは少し迷った。
「……残して」
「分かりました」
「本当に?」
子供が聞く。
「うん。昨日も期待九だったけど、今日は昨日より“強く感じるはず”って思ってたから」
「違った」
「うん」
「嫌?」
「ちょっとどころじゃない」
「六?」
「がっかり六」
子供は少し笑った。
「でも知りたい九」
「うん」
「がっかりしても知りたい減らない」
「今はね」
「明日減るかも?」
「あるかも」
「今日の九」
「そうだね」
◇
午後。
照合会議は、昨日以上に慎重なものになった。
結果が分かりやすくなかったからだ。
「まず刺激条件」
魔導具教師が確認する。
「昨日比一・二五倍。波形、継続五呼吸、入力位置は同一」
「東側補助連絡線の初期波形は?」
「昨日より約一・二三倍。想定範囲内」
「奥側新反応」
若い観測員が資料を読む。
「低下開始は刺激開始から十三呼吸。昨日は十四呼吸。最大低下幅は昨日比一・三倍」
「継続時間」
「昨日より四呼吸長い」
「アリシアさん側」
「自覚可能な冷感申告は、奥側低下開始から六呼吸前後。強度〇・二程度。昨日は奥側低下開始から一呼吸前後で〇・五、途中で一へ上昇」
若い観測員が顔をしかめる。
「……合わないですね」
「何と?」
サーラが尋ねる。
「単純な強さ説」
「はい」
「奥側は昨日より大きく変わってる。でもアリシアさんは昨日より弱い」
「そうです」
「だから強度は無関係?」
言った直後、自分で止まる。
「……までは言えない」
「理由は?」
サーラに聞かれ、若い観測員は資料を見直す。
「強度以外にも差がある可能性があるから」
「今日は刺激強度以外を揃えましたよ」
「人間側は」
「はい」
「でも奥側の反応形状は、昨日と完全には同じじゃない」
サーラの目が少し柔らかくなる。
「続けてください」
「今日の方が低下開始が少し早い。最大低下は大きい。継続時間も長い。でも……立ち上がり方は?」
記録係が別の紙を出す。
「今日の方が、低下開始後の傾きが緩いです」
若い観測員が目を見開いた。
「速度」
「はい」
「昨日は小さく始まったあと、途中から比較的早く一段落ちた。今日は大きく下がったけど、全体としてなだらか」
アリシアも資料へ身を寄せる。
「昨日、冷たさが〇・五から一になったの、その急に下がったところのあと?」
「二呼吸以内です」
「今日は?」
「同じような急な段差がありません」
アリシアの胸が少し高鳴る。
「じゃあ……」
サーラがすぐに止めない。
アリシア自身が言葉を選ぶ。
「強さじゃなくて、変わる速さに反応してる可能性?」
「上がりました」
「強さは?」
「完全に外れたとは言いません。ただ、今日の結果で“最大変化量だけ”を主要条件とする仮説は弱くなりました」
若い観測員が深く頷く。
「昨日は強度と速度が一緒に動いてたから、どっちが効いたか分からなかった」
「そうです」
「今日は強度を上げたのに、速度はむしろ緩くなった」
「はい」
「そしてアリシアさんの感覚も弱かった」
「そうです」
アリシアは、少し前までの落胆がゆっくり別の感情へ変わっていくのを感じた。
「……外れたんじゃなくて」
「何が?」
学院長が尋ねる。
「強さだけじゃないって分かった」
「ああ」
「昨日より、速度の方が怪しくなった」
「そうだな」
「じゃあ今日、ちゃんと進んだ」
「そういう見方はできる」
アリシアは少し笑った。
「がっかり六、今四」
『減るの早いわね』
「新しいの見つかったから」
「知りたいは?」
子供のような問いを、若い観測員が面白そうに聞く。
「九」
「そこは本当に下がらない」
会議室に小さな笑いが広がった。
◇
サーラは笑いが収まるのを待ってから、資料の次の欄へ指を移した。
「ただし、ここで明日すぐ立ち上がり速度だけを変える試験へ進むとは決めません」
アリシアが少し肩を落とす。
「やっぱり?」
「今日、刺激強度を変えました。設備側の反応形状が想定と少し違った。まず、その理由を確認したいです」
「刺激強くしたから形が変わった?」
「可能性があります」
「経路?」
「それも」
「毎回同じ設備状態じゃない?」
「それも考えられます」
若い観測員が机へ突っ伏しかける。
「また増える」
「でも」
サーラがいつもの一言を投げる。
若い観測員は少し考える。
「……強さを上げればアリシアさんの感覚も強くなる、っていう単純な予想は弱くなった」
「はい」
「代わりに、変化速度を見る理由が増えた」
「はい」
「ただ、速度を変える前に、今日の形が再現するか確認した方がいい可能性もある」
「そうです」
「一回で全部やらない」
「その通りです」
「最近、俺こればっかり言ってる気がする」
「ようやく身についてきたんでしょう」
「褒められた?」
「今日は普通に」
「また怖い」
記録係たちの笑いが重なった。
◇
夕方。
生活観測区画へ戻ったアリシアは、子供が木箱の記録へ新しい一行を書き足しているのを見つけた。
――触ったら、柔らかかった。
――でも厚かった。
――冷たかった。
――濡れていなかった。
その下へ。
――もっと触りたいと思ったけど、今日は終わりにした。
「残したんだ」
「うん」
「どうして最後も?」
「触ったことだけだと、なんで一回で終わったか分からなくなるかも」
「そっか」
「アリシアも?」
「何が?」
「強くしたけど、冷たさ弱かった」
「ああ」
「残す?」
「もちろん」
「がっかり六も?」
アリシアは少し恥ずかしくなった。
「……残す」
「今は?」
「四」
「減った」
「うん」
「何で?」
「強さじゃないかもしれないって分かったから」
「答え違った?」
「私が思ってたより単純じゃなかった」
「嫌?」
「少し」
「でも嬉しい?」
「それもある」
子供は不思議そうに笑った。
「両方」
「うん。両方」
そのとき、顔のない存在の寝台が小さく軋んだ。
子供の目がすぐそちらへ向く。
人影が起き上がる。
立つ。
子供は声に出さない。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
今日は昨日より歩幅が少し広い。
五歩。
六歩。
そこで止まる。
胸の十一の光。
今は三つ明るい。
少しして。
七歩目。
人影はさらに進んだ。
子供の目が少し大きくなる。
けれど、何も言わない。
八歩。
そこで床へ座った。
「今日は八」
子供が、座ったあとに言う。
「うん」
「今は三つ」
「うん」
「昨日は六歩だった」
「そうだね」
「今日八」
「うん」
「増えた」
「歩数はね」
「いい?」
子供は自分で少し考える。
「……嬉しい。でも、いいって決めない」
「うん」
「今、八歩歩いた」
「うん」
「光三つ」
「うん」
「それだけ」
「そうだね」
子供は少しだけ笑った。
「でも嬉しいは残す」
「うん」
アリシアは、その言葉を聞いて自分の胸へ手を置いた。
今日の試験。
強い刺激。
弱い冷感。
がっかり。
そこから見えた新しい可能性。
嬉しい。
悔しい。
知りたい。
どれも一つを消して、別の一つへ置き換える必要はなかった。
◇
夕食後。
学院長が今日の暫定整理を伝えに来た。
「明日、速度?」
アリシアが先に聞く。
「早い」
「聞くだけ」
「まだ決めていない」
「候補ではある?」
「ああ」
「ほかは?」
「今日と同条件でもう一度再現を見る。刺激をせず自然変動を待つ。あるいは、設備側の波形再現性を人なしで先に確認する」
「人なし?」
「アリシアを試験対象へ入れず、東側だけで今日と同じ刺激を入れて、奥側反応の形が毎回似るかを見る」
アリシアは少し考える。
「私いなくてもできる」
「そうだ」
「それ、必要?」
「俺はかなり必要だと思ってる」
「どうして?」
「今日の奥側反応が、刺激強度を上げたからなだらかになったのか。それとも単なる自然な揺れなのか、まだ分からないからだ」
「私がいたから変わった可能性は?」
「それも完全には外せない」
「じゃあ私なしでやったら比べられる」
「そういうことだ」
アリシアは少しだけ口を尖らせた。
「でも私、参加できない」
「見てはいい」
「感じるのは?」
「生活観測区画にいるなら、自然に何か感じる可能性はある」
「それだと参加してるじゃん」
学院長が少し黙った。
「……確かに」
『詰めが甘いわね』
「ノアが笑ってる」
「聞こえてる」
アリシアも少し笑う。
「じゃあ、私を観測対象にしないってだけ?」
「そうだ。刺激条件を決める要素としては外す。もし何か感じたら、別記録として残す」
「なるほど」
「お前が何も感じなくても、東側設備側だけの再現性が見られる」
「それなら、速度試験の前にやる意味ある」
「ああ」
「でも私、速度見たい七」
「分かった」
「明日変わるかも」
「それも分かった」
「今の七」
「はいはい」
扉の外から、学院長の少し笑った声が返った。
◇
夜。
子供は木箱へ触れなかった。
朝に一度触れた。
今日はそれで終わり。
箱の中にある茶色いものは、以前より少しだけ具体的になった。
布のような感触。
厚い。
冷たい。
濡れてはいない。
それでも、まだ何なのかは分からない。
包みなのか。
ただの布なのか。
さらにその下に何かあるのか。
答えは先に残っている。
アリシアも寝台へ入る前、練習帳を開いた。
今日の欄。
昨日より刺激を一・二五倍へ上げた。
東側奥部の最大低下は大きくなった。
けれど、自分の冷感は昨日より弱かった。
最初は、かなりがっかりした。
そこまで書く。
少しだけ恥ずかしい。
けれど消さない。
その続きへ。
――強く変われば、私も強く感じると思っていた。でも、今日はそうならなかった。
さらに。
――代わりに、昨日より今日の方が変化がゆっくりだった。もしかしたら、私は「どれだけ大きく変わったか」だけではなく、「どう変わったか」を感じているのかもしれない。
筆が止まる。
『随分、進んだ感じの書き方ね』
ノアが横から覗き込んでいた。
「仮説って書いてないから大丈夫」
『そこじゃないわよ』
「何?」
『“強さじゃなかったから失敗”って書いてない』
アリシアは自分の文字を見る。
「……うん」
『最初は思ったでしょう?』
「ちょっと」
『かなりでしょう』
「がっかり六だった」
『なら、それも書いた』
「書いたよ」
『その上で、別の違いを見つけた』
「うん」
『いいんじゃない?』
「褒めてる?」
『八割』
「残り二割は?」
『明日の速度試験をもう頭の中で始めてそうだから』
図星だった。
アリシアは目を逸らす。
『ほら』
「まだやらないって分かってる」
『考えるのは止められない?』
「うん」
『なら、考えてるって書いて寝なさい』
「練習帳万能すぎない?」
『あなたが何でも抱えたまま寝ようとするからよ』
少し笑いながら、アリシアは最後に一行だけ付け足した。
――次は、変化する速さを見たい。でも、明日それをするかどうかは明日決める。
『よし』
「また採点?」
『終了の合図よ』
「はいはい」
アリシアは練習帳を閉じた。
隣の寝台では、子供がすでに眠り始めている。
顔のない存在の胸では、十一の光のうち二つが淡く明るい。
夕方は三つだった。
今は二つ。
人影は今日八歩歩いた。
そのことと、今二つだけ明るいことを結びつける理由はない。
木箱には、触った茶色いものが残っている。
東側奥部は、試験終了後に基準状態へ戻ったまま大きな自然変動を見せていない。
西側補助連絡線も静かだった。
名前のない光も動かない。
小空洞も反応しない。
今日、人間側が強くしたのは一つだけだった。
東側補助連絡線へ入れる刺激の強さ。
それでも、結果は単純に「全部が強くなった」ではなかった。
奥側の変化は大きくなった。
アリシアの感覚は弱くなった。
西側はまた遅れて応えた。
小空洞と名前のない光は変わらなかった。
一つだけ変えたからこそ。
同じように増えなかったものが見えた。
強くすれば分かりやすくなるとは限らない。
強くすれば、答えへ早く近づけるとも限らない。
むしろ、思っていた通りにならなかったところに。
次に比べるべき違いが残ることもある。
アリシアは寝台へ横になり、自分の胸へ一度だけ手を当てた。
今は冷たくない。
何も感じない。
それでいい。
今日は、感じる強さそのものよりも。
変化がどんな形で起きたとき、自分がそれを拾うのか。
その問いが、昨日より少しだけはっきりした。
答えを強引に近づけるために、刺激を強くするのではない。
違いを見つけるために、一つだけ条件を変える。
そして予想と違ったなら。
予想を守るのではなく。
違った理由を、次に確かめればいい。
窓の外では、朝から空を覆っていた薄い雲の隙間から月明かりが少しだけ差し始めていた。
生活観測区画の中へ落ちる淡い光の下で。
まだ名も役割も分からない六つ目の神器は、今夜もアリシアの胸の奥で静かに眠っていた。




