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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第161話 感じなかったことまで残したなら、次は何が違ったのかを比べればいい


 翌朝、生活観測区画へ差し込む陽射しは、昨日よりわずかに強かった。


 窓枠の向こうでは、庭の木々が朝の風に揺れている。石畳には夜露が薄く残っていたが、それも陽の当たる場所から少しずつ乾き始めており、低い植え込みの葉先では小さな水滴が光を受けて白く瞬いていた。


 アリシアは寝台の中で目を覚ますと、すぐには起き上がらなかった。


 天井を見る。


 呼吸をする。


 それから、自分の胸へ右手を置いた。


 冷たくない。


 震えていない。


 痛みもない。


 昨日、東側地下区画の第三地点へ立ったときにも、同じだった。


 何も感じなかった。


 けれど、その時間帯に東側奥部の新反応は確かに低下していた。


「……やっぱり、何もない」


『朝から何かあってほしいみたいな言い方ね』


 すぐ近くからノアの声がした。


 黒猫は枕元ではなく、寝台の足元に近い位置で丸くなっていた。夜中に移動したらしく、半分だけ開いた金色の目でアリシアを見ている。


「違うよ」


『じゃあ何よ』


「確認しただけ」


『昨日も一日中確認してたでしょう』


「昨日は地下で」


『地下でも帰ってからでも寝る前でも確認してたわ』


「……そんなに?」


『そんなに』


 アリシアは少しだけ気まずくなり、胸から手を離した。


「だって、第三地点で何も感じなかったから」


『ええ』


「そのあと夜にも何もなかったし」


『ええ』


「もしかしたら、昨日の反応で何か変わって、今朝になったら違う感覚があるかもって」


『期待してたの?』


「少し」


 ノアの耳がぴくりと動いた。


『反応してほしいのね』


「……うん」


 今度は誤魔化さなかった。


 昨日の第三地点。


 そこへ行けば、第二地点よりも奥へ近づく。


 前日より強い何かを感じるかもしれない。


 そう思っていた。


 実際には、東側奥部の反応は低下した。


 けれど、アリシア自身には何もなかった。


 胸の冷たさも。


 震えも。


 方向感覚らしきものさえも。


 だからこそ、あの結果には意味がある。


 分かっている。


 近づけば必ず感じるわけではないと分かった。


 距離だけでは説明できないと分かった。


 それなのに。


「……何かあった方が、嬉しかった」


『でしょうね』


「否定しないんだ」


『否定する意味がないもの』


 ノアは身体を起こし、前足を伸ばした。


『答えが欲しいから調べてるんでしょう? 反応してほしいと思うくらい普通よ』


「でも、結果を歪めたら駄目」


『それとこれは別』


 アリシアは黙った。


『反応してほしいと思う。反応しなかったらがっかりする。それでも「反応したことにしよう」とはしない。なら問題ないでしょう』


「……うん」


『むしろ、がっかりしたことまで残しておけば?』


「記録に?」


『あなたの練習帳に』


 アリシアは少しだけ笑った。


「ノア、最近ほんとに子供みたいなこと言う」


『失礼ね』


「褒めてる」


『褒め方を学びなさい』


 似たような言葉をサーラが若い観測員へ言っていたのを思い出し、アリシアの笑いが少し大きくなった。


 その声に反応したのか、隣の寝台から布の擦れる音がした。


「……朝?」


「うん。おはよう」


「おはよう」


 子供は布団を胸元まで掛けたまま、しばらく天井を見ていた。


 それから窓。


 今朝は鳥が二羽いる。


 一羽は石畳の端。


 もう一羽は植え込みの近く。


「二羽」


「うん」


「昨日は一羽見えた」


「そうだね」


「同じ鳥?」


「分からない」


「じゃあ、今日の二羽」


「うん」


 子供はそれだけで窓から視線を外した。


 次に、顔のない存在の寝台を見る。


「おはよう」


 胸の十一の光。


 すぐには変わらない。


 数呼吸。


 一つ。


 さらに少し待つと、もう一つ。


 そこで止まる。


「今は二つ」


 子供はそう言って、しばらく眺めた。


「昨日の朝は?」


「何個だったっけ」


 アリシアが尋ねると、子供は眉を寄せた。


「三だった……かも」


「記録を見れば分かるね」


「見る?」


「子供が見たいなら」


 少し考え、首を横へ振る。


「今はいい」


 子供は布団から出る。


 足裏を確認。


 赤みなし。


 痛みなし。


 足首を回す。


「大丈夫」


「あとでセレナにも?」


「うん。見るだけ」


 いつもの確認を終えたあと、子供はまっすぐ木箱へ向かった。


 留め具は外れたまま。


 蓋は閉じている。


 昨日、これまでより少しだけ大きく開けたことで、中に「茶色い布のようなもの」があることまで分かった。


 けれど、それが本当に布なのか。


 布だとして、何かを包んでいるのか。


 箱の底までそれが続いているのか。


 まだ何も分かっていない。


 子供は箱の前へしゃがむ。


「昨日、茶色いの見えた」


「うん」


「今日もある?」


「開けないと見えないね」


「勝手に変わってるかも?」


「可能性はあるけど、夜の記録では箱の外側に変化はないみたい」


「中は?」


「分からない」


 子供は蓋の縁へ手を置いた。


「見たい」


「うん」


「今、六」


「開けたい気持ち?」


「うん」


「怖さは?」


「三」


 少し迷いがある。


 けれど、昨日より開けたい気持ちは強い。


「開ける?」


 アリシアは尋ねない。


 子供自身が決める。


「……朝ごはんのあと」


「うん」


「今開けたら、ごはん食べながらずっと箱考えそう」


 思いがけない理由だった。


 アリシアが少し目を丸くすると、子供が振り返る。


「変?」


「ううん」


『ずいぶん生活に根ざした判断するようになったじゃない』


「ノア何て?」


「朝ごはんは大事って」


『また雑に訳したわね』


 子供が笑った。


     ◇


 朝食の途中。


 学院長が生活観測区画の扉の外へ来た。


 足音に気づいた子供が先に声をかける。


「学院長?」


「いるぞ」


「今日も寝た?」


「今日は昨日より寝た」


「何時間?」


「聞かないって昨日決めなかったか」


「昨日の話」


「今日も同じでいいだろ」


「今日の学院長は違う学院長?」


 扉の向こうで沈黙が落ちた。


 アリシアは麦粥を口へ運びながら、笑いを堪えた。


 ノアは遠慮なく尻尾をぱたぱたさせている。


「……そこを使うのか」


「今日の二羽と同じ」


「俺は昨日から同じ人間だ」


「でも今日」


「分かった。五時間半だ」


「寝た」


「寝た」


 子供は満足したように頷いた。


『完全に負けてるわね』


「ノア笑ってる?」


「かなり」


「聞こえてるぞ」


 少しだけ空気が和らいだあと、学院長がアリシアへ声を向ける。


「昨日の第三地点試験の整理が終わった」


 アリシアの匙が止まった。


「もう?」


「夜間記録まで含めて、朝までに一度まとめた」


「夜は何かあった?」


「大きな変化はない」


 その言葉を聞いて、アリシアはほんの少し肩の力を抜いた。


 反応があってほしい。


 でも、自分が寝ている間に何か大きく進んでいたら、それはそれで落ち着かなかっただろう。


「今日、また東行く?」


「その話をしたい」


「行くの?」


「先に結果を聞け」


 アリシアは少し口を尖らせた。


「はい」


「第三地点へ位置を移した昨日の試験では、アリシア側に自覚反応なし。東側奥部新反応だけが、観測開始後一分五十呼吸ほどで低下した」


「うん」


「低下幅は、第二地点でアリシアが冷感一を感じたときより小さい」


「うん」


「夜半に生活観測区画でアリシアが寝ている間に起きた弱い低下よりは大きい」


「……中くらい?」


「単純に言えばな。ただし、変化の形が違う」


「形?」


「昨日の第三地点では、低下開始が比較的急だった。夜半の変化はもっと緩やかだった」


 アリシアは匙を置いた。


「強さだけじゃない?」


「そういう可能性が出ている」


「長さは?」


「第三地点は十九呼吸。第二地点で冷感が出た日は、アリシア側の冷感も東側変化もそれより少し長かった」


「じゃあ、長い方が感じる?」


「まだそうは言えない」


「速度?」


「それも候補」


「強さ?」


「候補」


「場所?」


「完全には外せない」


「起きてるか寝てるか?」


「候補」


 アリシアの眉が徐々に寄っていく。


「……いっぱい」


「そうだな」


「昨日、距離だけじゃないって分かったのに」


「距離だけでは説明できない、と分かった」


「代わりにいっぱい増えた」


「増えたな」


 子供が麦粥の匙を持ったまま、二人を見ている。


「アリシア、嫌そう」


「嫌だよ」


「何が?」


「分からないこと増えた」


「前より?」


「かなり」


「でも、前もいっぱいあった」


「うん」


「何が違う?」


 意外な問いだった。


 アリシアは少し考える。


「前は……何が分からないのかも、よく分からなかったかも」


「今は?」


「感じる条件が分からない」


「条件はいっぱい」


「うん」


「じゃあ、分からないの中身が分かった?」


 アリシアは目を瞬いた。


 学院長も扉の外で少し黙る。


『いいところ突くじゃない』


「ノア何て?」


「すごいって」


『今日はそのまま訳したわね』


「……そうかも」


 アリシアは自分でも少し驚いていた。


 以前は、六つ目が何なのか分からない。


 なぜ自分が選ばれたのか分からない。


 何に反応するのか分からない。


 全部が大きな一つの霧の中にあった。


 今は。


 少なくとも一部は、形のある問いになっている。


 距離なのか。


 変化の強さなのか。


 変化する速さなのか。


 続く長さなのか。


 自分が起きているかどうかなのか。


「……分からないところが、前より細かくなった」


「そうだな」


 学院長が答える。


「それは前進だ」


「でも、面倒」


「それもそうだ」


 アリシアは少し笑った。


「今日、何する?」


「そこが本題だ」


 学院長の声が少し引き締まる。


「候補は三つある」


『また三つね』


「ノアが多いって」


「俺も多いと思ってる」


 アリシアは続きを待つ。


「一つ目。今日は何もせず、生活観測区画で自然変動を待つ」


「昨日は第三地点へ行ったから、場所が違う」


「そうだ」


「二つ目は?」


「第二地点か第三地点で、昨日と同じ条件をもう一度取る」


「再現」


「そうだ」


「三つ目は?」


「東側補助連絡線へ、ごく弱い刺激を一種類だけ入れて、変化の立ち上がり方を人間側で作る」


 アリシアの表情が少し変わる。


「強さを変える?」


「いや」


「長さ?」


「それも固定する」


「じゃあ?」


「今まで使った刺激の中から一つだけ選ぶ。昨日までの自然変動と比べて、刺激開始時刻が分かっている状態を作る」


 アリシアはしばらく考えた。


「反応がいつ始まったか分かりやすい」


「そうだ」


「私が感じた時間と比べやすい」


「うん」


「でも、今日場所も変えたら駄目?」


「駄目とは言わないが、意味が薄くなる」


「一個ずつだから?」


「昨日は位置を変えた。今日、位置と刺激の両方を変えたら、何で差が出たのか分かりにくくなる」


 アリシアは頷きかけた。


 しかし、少しして別の疑問が浮かぶ。


「でも、刺激したら刺激したって条件増えるよね」


「増える」


「じゃあ自然のままの方がいい?」


「それも一つの考えだ」


「どれが一番いいの?」


「今日、何を確かめたいかによる」


 学院長は答えを渡さなかった。


 アリシアは少し困ったように眉を寄せる。


「……私が決める?」


「一人で決める必要はない。ただ、お前自身も観測対象であり当事者だ。何を知りたいかは聞きたい」


 アリシアは食卓へ視線を落とした。


 麦粥。


 果実。


 白い湯気。


 地下とは関係のない、ごく普通の朝食。


 それを見ながら考える。


 第三地点へもう一度行きたい。


 かなり。


 昨日、何も感じなかった場所で、もう一度試したい。


 もしかしたら今日は感じるかもしれない。


 そうすれば、昨日感じなかったのは偶然かもしれない。


 逆に、また感じなければ。


 第三地点では感じにくい、と言いやすくなるかもしれない。


 けれど。


「……それ、私が反応してほしいから第三行きたいだけかも」


 自分で言うと、少し胸が痛かった。


 学院長はすぐ否定しない。


「そう思う?」


「うん。昨日反応しなかったの、まだ悔しい」


「それは悪いことか?」


「悪くはないけど……今日の条件決める理由にしたら駄目な気がする」


 ノアが机の下から顔を上げる。


『別に駄目ではないでしょう』


「え?」


『反応してほしいから、同じ条件でもう一度確かめたい。そこまでは調査理由になり得るわよ』


「でも、期待が入る」


『期待は昨日も入ってたでしょう』


「うん」


『消せないものを、消えたふりしない方がいいわ』


 アリシアは黙った。


 学院長が尋ねる。


「ノアは何て?」


「反応してほしいから再現したい、でも理由にはなるって」


「そうだな」


「学院長も?」


「ああ。ただし、それだけで今日やる内容を決めるわけじゃない」


「ほかに何を見る?」


「安全性。情報量。比較可能性。それと、今しか取れないかどうか」


 アリシアは昨日まで何度も聞いた基準を思い出した。


「第三地点の再現は、今日じゃなくてもできる?」


「可能性は高い」


「自然変動は?」


「いつ起きるか分からない」


「刺激は?」


「こちらで時刻を決められる」


「じゃあ、今日は刺激が一番情報取りやすい?」


「そう考える者は多い」


「学院長は?」


「俺も今は刺激案が第一候補だ」


「理由は?」


「位置だけで単純説明できないと分かった。なら次は、東側変化の開始時刻を人間側で揃えて、アリシアが何をどのタイミングで感じるかを比較したい」


「強くする?」


「しない。今まで安全性が確認できている最弱刺激だけだ」


「場所は?」


「アリシアは生活観測区画のまま」


 その言葉を聞いた瞬間。


 アリシアは少し残念だと思った。


 その感情があまりにも分かりやすく顔へ出たらしい。


『地下行きたかった顔ね』


「うるさい」


「行きたい?」


 学院長にも聞かれる。


「うん」


「何点?」


「……七」


「刺激試験をここでやることへの納得は?」


 少し考える。


「八」


「行きたいのに?」


「行きたいと、今日それをやる方がいいと思うは別だから」


 学院長がわずかに笑った気配がした。


「なら、午前中に正式会議をする。実施するとしても昼以降だ」


「分かった」


 子供が尋ねる。


「アリシア、今日東行かない?」


「今はその方がよさそう」


「行きたい七なのに?」


「うん」


「昨日も八で止まった」


「うん」


「数字、ほんと命令じゃない」


「そうだね」


     ◇


 朝食後。


 子供は、予定通り木箱の前へ戻った。


 アリシアは少し離れた椅子に座っている。


 ノアは窓辺。


 学院長たちは会議準備へ向かったため、生活観測区画は朝食前より静かだった。


 子供は木箱の蓋へ両手を添える。


「今、開けたい六」


「うん」


「怖さ三」


「うん」


「昨日見えた茶色いの、見たい」


「うん」


「今日は、昨日より開ける?」


 自分へ聞く。


 少し長い沈黙。


 その間、アリシアは何も言わない。


 子供は息を一つ吸った。


 蓋を持ち上げる。


 木の擦れる音。


 昨日より少し。


 さらに少し。


 隙間が指二本ほどになる。


 中の暗がりへ朝の光が細く差し込んだ。


「あ」


 子供の声が漏れる。


 アリシアも、自分から立ち上がらずに待つ。


「見えた?」


「茶色」


「うん」


「昨日よりいっぱい」


 蓋の隙間から見えるのは、確かに茶色いものだった。


 布のようにも見える。


 けれど、表面は少し厚く、折り重なっているようにも見える。


「布?」


「どう見える?」


「……布みたい」


「うん」


「でも、硬いかも」


「触らないと分からないね」


 子供の指が少し動く。


 蓋をもう少し開ければ、手を入れられる。


 そのことに気づいたらしい。


 呼吸が浅くなる。


「触りたい」


「うん」


「怖い、四」


「うん」


「開けたい、七」


 昨日より上がった。


 子供はしばらく箱の中を見ていた。


「触ったら分かる?」


「布かどうかは、少し分かるかもしれない」


「全部?」


「全部は難しいかも」


 子供の眉が寄る。


「また」


「うん」


「触ったら答え出ると思いたい」


「うん」


「でも出ないかも」


「うん」


 アリシアはその言葉を聞きながら、朝の自分を思い出す。


 第三地点へ行けば。


 もう一度同じ場所へ行けば。


 刺激を入れれば。


 答えに近づく。


 それは本当かもしれない。


 でも、一つ動けば全部分かるわけではない。


「今日は、触る?」


 子供が自分へ問いかける。


 右手が蓋から少し離れ、隙間の方へ伸びかける。


 そこで止まった。


「……今日は見ただけ」


 蓋をゆっくり戻す。


 閉じる。


「触らない?」


 アリシアが確認すると、子供は頷いた。


「うん」


「怖かった?」


「四」


「だから?」


「それもある。でも」


 子供は箱の上へ両手を置いた。


「今日は、茶色いのが昨日より見えた」


「うん」


「硬いかもって思った」


「うん」


「それで、今の知りたいは少し減った」


「どのくらい?」


「七から五」


「じゃあ止めた?」


「うん」


「怖さ四だからじゃなくて?」


「両方」


 子供は少し笑う。


「一個じゃない」


「そっか」


 アリシアも笑った。


     ◇


 午前の会議では、刺激試験案が正式に検討された。


 参加者は学院長、副学院長、サーラ、魔導具教師、土の神器継承者、安全管理担当、治療教師、アリシア。


 今回は若い観測員も最初から席にいた。


「今日は追い出されないんですね」


 資料を置きながら言う。


「記録比較をお前が担当したからな」


 副学院長が答える。


「ついに信用を」


「好奇心は置いてこい」


「まだそこは信用されてない」


「別枠だ」


 アリシアが少し笑う。


 若い観測員は座りながらノアを見る。


「猫は今日も参加者?」


『当然でしょう』


「参加者だって」


「今日は聞いただけです」


『学習したわね』


「褒められました?」


「たぶん」


「たぶんかあ」


 短い緩みのあと、学院長が会議を始める。


「今日の目的を先に確認する。昨日までの結果から、アリシアが東側奥部変化を感じる条件は、単純な距離だけでは説明できない」


 地図の横へ、時間軸を描いた紙が置かれていた。


 第二地点。


 第三地点。


 生活観測区画。


 三つの場所。


 それぞれで起きた東側奥部変化。


 アリシアが感じたもの。


 感じなかったもの。


「次に何を変えるか」


 学院長が言う。


「今日の第一候補は、アリシアの位置を生活観測区画へ固定したまま、東側補助連絡線へ一種類だけ微弱刺激を加えることだ」


 魔導具教師が続ける。


「刺激は第155話で使用した『短・短・長』ではありません」


 若い観測員が一瞬だけ変な顔をした。


「今、話数って……」


「何か?」


 サーラに見られ、首を横へ振る。


「いえ。何でもないです」


 アリシアは少し不思議そうにしたものの、話を戻す。


「何を使うの?」


「単発の短い低出力波です」


「一回だけ?」


「一回だけです」


「強さは?」


「過去に東側設備へ負荷が出なかった範囲の最弱値」


「長さ?」


「五呼吸」


「どうしてそれ?」


「開始時刻と終了時刻が明確で、長すぎず、過去記録とも比較できるからです」


 サーラが別紙を指す。


「見る項目は増やしません。アリシアさん側は、身体状態、胸部冷感、震え、方向感覚、怖さ、直前の意識状態。東側は奥側新反応、小空洞、名前のない光。西側補助連絡線も通常通り記録します」


「刺激で何も起きなかったら?」


 アリシアが尋ねる。


「それも結果です」


「私だけ感じたら?」


「記録します」


「東だけ変わったら?」


「記録します」


「西も出たら?」


「記録します」


「……全部それだね」


 若い観測員が小さく笑う。


「観測ってそういう仕事です」


「言うようになったわね」


 サーラの返しに、周囲から笑いが漏れた。


 学院長がアリシアを見る。


「本人の意思を確認する」


「うん」


「生活観測区画に留まったまま、この刺激試験へ参加したいか?」


 アリシアはすぐには答えなかった。


 地下へ行きたい気持ちは、まだある。


 第三地点で感じなかったことを、もう一度確かめたい。


 それでも。


 今日の目的は違う。


「参加したい」


「数字は?」


「八」


「地下へ行きたいは?」


「七」


「両方ある」


「うん」


「刺激試験への怖さは?」


「三」


「もし刺激開始前に、自然な冷感が出たら?」


「その試験は止める?」


 アリシアが逆に尋ねる。


 サーラが頷く。


「少なくとも一度中断します。自然変動と刺激由来を混ぜたくないので」


「じゃあ、私が何も感じてない状態から始める」


「はい」


「刺激中に痛み一以上、苦しさ一以上、怖さ六で終了?」


「それに加えて、本人が止めたいと思ったら終了」


「ゼロでも」


「ゼロでも」


 アリシアは頷いた。


「分かった」


     ◇


 刺激試験は昼食後に行うことになった。


 午前中は何もせず、通常状態を記録する。


 その「何もしない時間」に、アリシアは思っていたより落ち着かなかった。


 練習帳を開く。


 閉じる。


 窓を見る。


 顔のない存在を見る。


 子供の木箱を見る。


 また机へ戻る。


『落ち着きないわね』


「分かってる」


『刺激待ち?』


「うん」


『まだ二時間近くあるわよ』


「言わないで」


 ノアは窓辺で尻尾を揺らした。


『何かしてれば?』


「何かって?」


『勉強』


「今?」


『学生でしょうが』


「そうだけど」


『最近地下の話ばっかりで、普通の課題を忘れてるんじゃない?』


 その指摘に、アリシアは目を逸らした。


『図星ね』


「忘れてはない」


『何が残ってる?』


「魔法史の要約と、制御術式の計算」


『今日提出?』


「明日」


『やりなさい』


「今、集中できない」


『やり始めればするでしょう』


 アリシアは不満そうな顔をしながらも、鞄から教本を出した。


 子供が横から見る。


「勉強?」


「うん」


「地下じゃない?」


「地下じゃない」


「普通の?」


「普通の」


「アリシア、学生だった」


「知ってたでしょ」


「最近忘れてた」


「私も少し忘れそうだった」


『駄目じゃない』


 子供が笑う。


 そのあとしばらく。


 生活観測区画には、紙をめくる音と筆記具の音が続いた。


 子供は白い花の絵を見直し、少し離れた紙へ新しい線を描いている。


 アリシアは魔法史の課題を進める。


 ノアは寝る。


 顔のない存在は寝台から動かない。


 何も起きない。


 東側からも報告なし。


 胸の冷たさもない。


 時間だけが過ぎていく。


 昼食前。


 アリシアは課題の半分ほどを終えた。


「できた」


『全部?』


「半分」


『じゃあ途中でしょう』


「今は達成感あるの」


『甘いわね』


「ノア寝てただけじゃん」


『監督してたのよ』


「目閉じてた」


『心の目よ』


「ずるい」


 子供が笑いながら言う。


「ノア、何でもある」


「便利だよね」


『もっと敬いなさい』


 その何でもない会話が、思っていたよりアリシアを落ち着かせた。


 試験だけを待っている時間ではなくなった。


     ◇


 昼食後。


 生活観測区画の空気が、少しだけ変わった。


 大勢は入らない。


 室内にはアリシア、子供、ノア、治療教師、サーラだけ。


 学院長と安全管理担当は扉の外。


 東側班、西側班とは通信でつながっている。


 アリシアは普段使っている椅子へ座った。


 特別な装置へ固定されることもない。


 両手は膝の上。


 胸へ手を当てない。


 普段に近い姿勢。


「開始前確認」


 サーラが記録板を見る。


「痛み」


「ゼロ」


「苦しさ」


「ゼロ」


「胸部違和感」


「なし」


「神器関連感覚」


「なし」


「怖さ」


「三」


「刺激試験へ参加したい気持ち」


「八」


「止めたい気持ち」


 少し考える。


「一」


「一ある?」


 子供が聞いた。


「少し緊張してるから」


「やめたい?」


「今は違う。逃げたいっていうより、何も起きなかったら嫌だなって思ってる」


 サーラがそれも記録する。


「期待は?」


「九」


 ノアが目を細める。


『高いわね』


「分かってる」


「では、期待九も記録します」


「それも?」


「はい」


 アリシアは少し恥ずかしくなった。


「……お願いします」


 通信具が光る。


『東側、準備完了』


『西側、準備完了』


 室内の音が少なくなる。


 換気術式。


 外から微かに聞こえる風。


 子供の呼吸。


 ノアの尻尾が布へ触れる音。


 サーラが時刻を確認した。


「刺激開始まで十呼吸」


 アリシアの心臓が少し速くなる。


「怖さ三・五」


「記録」


「期待九のまま」


『そこは律儀ね』


「分かりやすいから」


 五呼吸。


 四。


 三。


 二。


 一。


『刺激開始』


 東側で、ごく弱い一波が補助連絡線へ入る。


 アリシアには何も見えない。


 何も聞こえない。


 ただ、時刻だけは分かっている。


 一呼吸。


 二。


 三。


 何もない。


 四。


 五。


『刺激終了』


 アリシアは胸の奥へ意識を向けすぎないようにしようとして。


 それをやめた。


 意識しているなら、それでいい。


「気にしてる」


「記録します」


 六呼吸。


 七。


 八。


『東側補助連絡線、波形減衰開始』


 通信の声。


 アリシアには変化なし。


 九。


 十。


 十一。


 胸の奥。


 何もない。


「……来ない」


 声に落胆が混じる。


『まだ終わってないわよ』


 ノアが小さく言う。


 十二。


 十三。


 十四。


『奥側新反応、微小低下開始』


 その報告とほぼ同時。


 アリシアの胸の奥へ。


 ごく薄い冷たさが触れた。


「……あ」


 サーラが即座に顔を上げる。


「申告を」


「冷たい。すごく弱い」


「強さ」


「〇・五……くらい」


「痛み」


「ゼロ」


「苦しさ」


「ゼロ」


「方向」


 アリシアは目を閉じる。


「東……寄り。たぶん」


「怖さ」


「四」


「震え」


「なし」


「開始時刻記録」


 東側から声が来る。


『奥側低下、継続』


 西側班。


『西側補助連絡線、現時点変化なし』


 アリシアの胸の冷たさは、まだ弱い。


「〇・五のまま」


 十数呼吸。


『奥側新反応、低下幅一段上昇』


 その直後。


 アリシアの冷たさも少し強くなった。


「……一」


 サーラの筆が止まらない。


「上がった?」


「うん。今、一くらい」


「痛みは?」


「ゼロ」


「怖さ」


「四のまま」


「続けたい?」


「うん」


 刺激自体はもう終わっている。


 今見ているのは、残った反応の推移だった。


 アリシアは、自分の感覚を探しすぎないようにしながら、それでも逃さないようにする。


 矛盾している。


 でも今は、それでいい。


 さらに数呼吸。


『奥側新反応、低下最大。復帰へ移行します』


 アリシアの胸の冷たさは、一のまま。


 そのあと。


 少しずつ薄くなる。


「〇・五」


 さらに。


「……消えた」


 時刻記録。


 東側。


『奥側新反応、基準へ復帰』


 差。


 二呼吸。


 サーラが一度だけ深く息を吐いた。


 アリシアも、胸から手を離した。


 いつの間にか右手を当てていたことに今さら気づく。


「終わった?」


「刺激後観測は、あと一分続けます」


「うん」


 その一分。


 新しい冷感なし。


 小空洞変化なし。


 名前のない光、位置・輪郭光量とも変化なし。


 西側補助連絡線。


 そして。


『西側、微小変化を確認』


 全員の表情が変わった。


「時刻」


 サーラの声が少し低くなる。


『東側刺激開始から……三十二呼吸後。奥側新反応の低下開始から十八呼吸後です』


「波形は?」


『かなり弱いですが、先日の対応波形と形状は一部一致』


 アリシアが思わず身を乗り出す。


「今?」


『現在、減衰中です』


「私、何も感じない」


「今は?」


 サーラが尋ねる。


「ゼロ。冷たさなし」


 若干の沈黙。


「西が出ても、私にはない」


「はい」


 アリシアは自分で続ける。


「じゃあ、六つ目が西も必ず感じるわけじゃない」


「少なくとも今回の条件では、そうです」


「東が変わったときは感じた」


「はい」


「西が遅れて変わったときは感じなかった」


「はい」


 アリシアの目が少し大きくなる。


「……じゃあ、東側奥部の変化に反応してる?」


 サーラはすぐ答えなかった。


 それでも、以前より少しだけ言葉を進める。


「今までの記録では、その対応が最も多いです」


「一番?」


「はい」


 アリシアの胸が、今度は冷たさではなく期待で少し熱くなった。


「じゃあ、近づいたからじゃなくて……」


「まだ結論にはしません」


「分かってる」


「でも」


 サーラは記録板へ視線を落とす。


「『六つ目が東側奥部新反応の変化そのもの、あるいはその変化と共有されている何かを感知している』という仮説は、今日の結果で昨日より強くなりました」


 アリシアは息を止めた。


 否定されなかった。


 仮説として。


 少し強くなった。


「……強くなった」


「仮説が、です」


「うん」


「答えではありません」


「うん」


「そこ大事ですよ」


「分かってるってば」


 思わず口元が緩む。


 ノアが横から言う。


『顔は完全に答え見つけた人みたいだけど』


「そこまでじゃない」


『かなり近いわよ』


「だって」


 アリシアは胸へ手を置く。


「昨日、第三地点で何も感じなかったから、ちょっと自信なくなってた」


『何の自信よ』


「六つ目が、東の何かと関係あるかもっていう」


『仮説に自信持つ必要ある?』


「ないけど……」


 子供がそっと口を挟む。


「嬉しい?」


「うん」


「答えじゃないのに?」


「うん」


「なんで?」


 アリシアは少し考えた。


「昨日感じなかったのと、今日感じたのを並べたら、場所だけじゃないって分かったでしょう?」


「うん」


「今日、人間側から変化が始まる時間をそろえて、それで東の奥が変わったあとに私も冷たくなった」


「うん」


「西はあとから変わったけど、私は何も感じなかった」


「うん」


「だから……」


 言葉を選ぶ。


「前より、『何を感じてるのか』が少し狭くなった気がする」


 子供はしばらく考えた。


「分からないの中身、もっと小さくなった?」


 朝の言葉だった。


 アリシアは笑う。


「うん。たぶん」


     ◇


 試験終了後。


 安全確認では、アリシアに異常はなかった。


 痛みゼロ。


 苦しさゼロ。


 胸部冷感ゼロ。


 怖さ二。


 疲労二。


 頭痛なし。


 腕の重さなし。


 治療教師も、普段と違う魔力循環の乱れを確認しなかった。


「じゃあ、成功?」


 子供が尋ねた。


 アリシアは答えようとして、少し考える。


「成功って何?」


「知りたいの増えた?」


「増えた」


「じゃあ成功?」


「でも答えはまだ」


「失敗?」


「それも違う」


 子供は難しい顔になる。


「じゃあ何?」


 アリシアは少し笑った。


「今日は、比べられるものが増えた日」


「長い」


『あなたの日記みたいね』


「ノアうるさい」


 子供が笑う。


     ◇


 午後の照合会議は、想定より長くなった。


 今回の刺激波形。


 東側補助連絡線。


 奥側新反応。


 アリシアの冷感。


 西側補助連絡線。


 それぞれの開始時刻と終了時刻を、まず別々に確認する。


 最初から一本の線で結ばない。


 それから、時刻だけを重ねる。


「刺激開始」


 若い観測員が指す。


「五呼吸で終了。東側補助連絡線内の減衰波形。その九呼吸後に奥側新反応の低下開始」


「正確には?」


「刺激開始から十四呼吸」


「はい」


「アリシアさんの冷感申告は?」


「刺激開始から十五呼吸目」


「誤差一呼吸」


「うん」


 アリシアが自分でも呟く。


 サーラが続ける。


「その後、奥側新反応の低下幅が増加。ほぼ同時にアリシアさんの冷感も〇・五から一へ上昇」


「最大は?」


「東側奥部の最大低下が先。アリシア側の冷感強度一は、その後二呼吸以内」


「復帰は?」


「アリシア側消失が先。その二呼吸後に奥側基準復帰」


 若い観測員が腕を組む。


「かなり近い」


「はい」


「西は?」


「奥側低下開始から十八呼吸後」


「遅い」


「はい」


「アリシアさんは西の変化中、何もなし」


「はい」


 若い観測員はしばらく資料を見る。


「これ……」


 全員が少し身構える。


 以前なら、ここから仮説を事実のように言ったかもしれない。


 本人も分かっているらしく、一度息を吸う。


「少なくとも今回だけ見るなら、アリシアさんの感覚は西側の対応波形より、東側奥側新反応の方が時間的に近い」


「そうです」


「しかも、強さが少し増えたとき、アリシアさん側も〇・五から一に上がった」


「はい」


「じゃあ、変化の強さを感じてる?」


 サーラは少し考える。


「候補としては上がります」


「昨日第三地点で感じなかったのは、東側低下幅が今日より小さかったから?」


「説明候補にはなります」


「夜中に寝てて感じなかったときは?」


「低下幅も小さく、変化も緩やかでした」


「じゃあ、強さか速度」


「あるいは両方」


「長さは?」


「今日と第二地点で感じたときは比較的長い。第三地点の十九呼吸は短すぎるほどではありませんが、最大低下幅が小さかった」


「……かなり絞れてきた?」


 若い観測員の声に期待が混じる。


 サーラは否定せず、しかし頷きすぎもしなかった。


「以前よりは」


「おお」


「ただし、ここからが難しいです」


「やっぱり」


 会議室に小さな笑いが起こる。


「強度と速度を分けて試すなら、刺激条件を変えなければなりません」


 魔導具教師が言う。


「強度だけ変える。あるいは立ち上がり速度だけ変える。それぞれ一条件ずつ」


 アリシアがすぐ尋ねる。


「明日?」


 学院長が横目で見る。


「早いな」


「だって、今なら何を見たいか分かる」


「何を?」


「強さ」


 アリシアは資料を指した。


「今日、奥側の低下が大きくなったあと、私の冷たさも少し強くなった」


「うん」


「だから、強い変化ほど感じやすいのか確かめたい」


「速度は?」


「そっちも気になる。でも一個ずつ」


 学院長が少しだけ笑う。


「随分こちらの言い方が移ったな」


「いっぱい聞いてるから」


 サーラが答える。


「ただし、明日すぐ強度変更を行うかは未定です」


「分かってる」


 アリシアは少し残念そうにしながらも、自分から続けた。


「今日の結果を整理してから」


「はい」


「身体も見る」


「はい」


「自然変動が夜に出たら、それも入れる」


「その通りです」


 若い観測員が小さく感心する。


「もう俺より早くないですか?」


「何が?」


「言い直すの」


「勝負してないよ」


『私はずっと前からそう言ってるわ』


「ノア何て?」


「勝ってるって」


『誰に!?』


 会議室に少し大きめの笑いが起きた。


     ◇


 夕方。


 生活観測区画では、顔のない存在が寝台から起き上がった。


 子供は白い花の絵の横へ、小さな茶色い線を描いていた。


 木箱の中に見えたものを描いているらしい。


 まだ「布」とは書かない。


 ただ、茶色いものが見えた記録。


 その途中で寝台の軋む音に気づき、顔を上げる。


「あ」


 顔のない存在が立つ。


 子供は筆を置いた。


 数えないわけではない。


 目だけで追う。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 四歩。


 今日は少しだけ歩幅が小さい。


 五歩。


 そこで止まる。


 子供は黙っている。


 人影はさらに一歩。


 六歩。


 そのまま、しばらく立つ。


 胸の十一の光。


 明るいのは朝より多い。


 三つ。


 もう一つ。


 四つ目が少しだけ明るくなった。


 子供の唇が動きかける。


 けれど、まだ声を出さない。


 顔のない存在は、そこでゆっくり床へ座った。


「今日は六」


 子供が言った。


「うん」


「今は四つ」


「うん」


「昨日は三歩」


「そうだったね」


「今日は六」


「うん」


 子供は少し考える。


「倍?」


「歩数だけなら」


「倍だから、いい?」


 自分で言って、自分で止まった。


「違う」


「うん」


「今日は六歩の日」


「そうだね」


「でも嬉しい」


「うん」


「光も四つ」


「うん」


「歩いたから四つ?」


 少し考えたあと、首を振る。


「分からない」


「うん」


「今日は、六歩歩いて、今は四つ明るい」


「うん」


 それ以上の意味を付けなかった。


 アリシアはそのやり取りを見ながら、今日の試験結果を思い出す。


 東側奥部が変わった。


 自分も感じた。


 西側はあとから変わった。


 自分は感じなかった。


 並んで起きたもの。


 だから関係があるように見えるもの。


 でも、一つずつ確かめる。


 子供も。


 自分も。


 いつの間にか、同じようなことを別々の場所でしている。


     ◇


 夕食後。


 学院長が生活観測区画へ、今日の暫定整理を伝えに来た。


「結論は出た?」


 子供が真っ先に聞く。


「まだだ」


「やっぱり」


「早いな」


「いつもそうだから」


 学院長が苦笑する。


 アリシアも少し笑った。


「でも、仮説は強くなった?」


「ああ」


「東側奥部の変化を感じてるかもしれないっていう?」


「現時点では、その方向が一番記録と合いやすい」


 アリシアの表情が少し明るくなる。


「一番」


「ただし」


「答えじゃない」


「分かってるな」


「何回も言われたから」


「ならいい」


「西は?」


「今日も東から遅れて弱い対応波形が出た。だから東西の補助連絡線に何らかの伝達性がある可能性は維持する」


「でも私には西のとき何もなかった」


「そうだ」


「じゃあ、六つ目は東だけ?」


「今の記録だけでそこまで言わない」


「うん」


「西側でも、条件次第で感じる可能性は残る」


「東の奥が、六つ目と一番近い?」


「時間的な対応は、今のところそうだ」


 アリシアは胸へ手を置いた。


「じゃあ、六つ目が東の奥とつながってる?」


 また、その言葉が出る。


 つながる。


 ずっと自分の中に残っている言葉。


 学院長はすぐ否定しなかった。


「可能性はある」


「つながるって、送るだけじゃない」


「そうだな」


「離れてる変化を感じるのも?」


「ありえる」


「状態を共有するのも?」


「ありえる」


「じゃあ、まだ言葉の中身が分からない」


「そういうことだ」


 アリシアは少し笑う。


「でも前より嫌じゃない」


「何が?」


「つなぐって思ったのと違う形かもしれないこと」


 少し前なら、自分の予想が外れることにもっと強く抵抗していた。


「今日、東の奥に近いっていう結果が出たのは嬉しい。でも、もし明日違う結果が出たら……たぶん悔しい」


「うん」


「でも、それも見たい」


「そうか」


 学院長の声が少しだけ柔らかくなる。


     ◇


 夜。


 子供は寝台へ入る前に、木箱をもう一度見た。


 今日は朝に一度だけ開けた。


 昨日より茶色いものが広く見えた。


 しかし、触ってはいない。


「アリシア」


「うん」


「今日、茶色いの、布かもしれない」


「うん」


「でも硬いかもしれない」


「うん」


「明日触りたい」


「うん」


「今、七」


「怖さは?」


「二」


「じゃあ明日触る?」


 子供は少し考える。


「明日の私に聞く」


「うん」


「アリシアも?」


「何が?」


「明日、強い刺激する?」


「まだ決めてないよ」


「したい?」


「今は七」


「怖い?」


「三」


「じゃあ明日?」


「明日の私にも聞く」


 子供が少し笑う。


「同じ」


「似てるね」


「でも箱と六つ目は違う」


「うん」


「私は布か触りたい。アリシアは強さ見たい」


「うん」


「両方、次の一個」


「そうだね」


 子供は布団を胸元まで引き上げる。


「今日、アリシア冷たくなった」


「うん」


「東も変わった」


「うん」


「西もあとで変わった」


「うん」


「でも西のときは感じなかった」


「うん」


「じゃあ、感じるの東?」


「今は、東の奥の変化と一番近そう」


「答え?」


「まだ」


「でも前より?」


「かなり」


 子供は満足したように頷いた。


「分からないの小さくなった」


 アリシアはその言葉を聞いて、少し考える。


「うん」


 今度は素直に認めた。


「少し小さくなった」


「じゃあよかった?」


「嬉しい」


「昨日は感じなくて残念だった」


「うん」


「今日感じたから嬉しい」


「うん」


「感じなかった昨日もいる?」


「いるよ」


「今日の答えに使った?」


「使った」


 子供は少し目を細めた。


「じゃあ、昨日の残念もなくならないけど、無駄じゃない」


「うん」


「箱も、今日触らなかったの、明日使える?」


「何に?」


「今日見ただけで、どのくらい怖かったかとか」


「使えると思う」


「じゃあいい」


 子供は目を閉じる。


「おやすみ」


「おやすみ」


 少しずつ、寝息が静かになっていく。


     ◇


 アリシアは自分の寝台へ行く前に、また練習帳を開いた。


 今日は書くことが多かった。


 第三地点へ行かなかった。


 生活観測区画のまま刺激試験をした。


 刺激開始から十四呼吸後、東側奥部新反応が低下。


 その一呼吸ほどあとに胸部冷感〇・五。


 奥側低下が強くなったあと、自分の冷感も一へ上がった。


 東側が復帰する少し前に冷感が消えた。


 西側補助連絡線は、さらに遅れて弱い対応波形。


 そのとき、自分には何も感じなかった。


 筆を止める。


 数字だけなら、学院の正式記録にも残っている。


 自分の練習帳へ書きたいのは、もう少し違うことだった。


『昨日感じなかったことが、今日の比較に使えた。感じなかったときは残念だったけど、今日になったら必要だったと思えた』


 そこで少し考え、もう一行。


『私は、反応してほしいと思っている。だから嬉しいときも、がっかりするときもある。でも、その気持ちがあるままでも、記録は分けられる』


『今日はずいぶん真面目ね』


 ノアが机の下から顔を出した。


「自分のことだから」


『最近、自分の話ちゃんと見るようになったわね』


「うん」


 アリシアは少しだけ照れた。


「前は、六つ目のこと考えると怖かった」


『今も怖いでしょう』


「怖いよ。でも、前は怖いから早く答え欲しかった気がする」


『今は?』


「今も欲しい」


『変わってないじゃない』


「でも」


 アリシアは少し笑った。


「答えが遅くても、その途中が前より嫌じゃない」


 ノアは少し黙った。


『珍しく悪くないこと言うわね』


「珍しくいらない」


『褒めすぎると調子に乗るから』


「乗らないよ」


『本当に?』


「……たぶん」


『ほら』


 アリシアは笑いながら練習帳を閉じた。


     ◇


 その夜。


 東側奥部新反応に、大きな自然変動は起きなかった。


 名前のない光も移動しない。


 小空洞も静かなまま。


 西側補助連絡線にも新たな対応波形はない。


 静かな夜だった。


 けれど。


 今日得られたものは、昨日までとは少し違う。


 第三地点へ近づいたのに、感じなかった日。


 生活観測区画へ戻り、人間側から開始時刻の分かるごく弱い刺激を加えたところ、東側奥部新反応が変化し、それとほぼ同じ時間帯にアリシアの六つ目が冷たさを示した日。


 そのあと西側にも弱い対応が出たが、アリシアは何も感じなかった。


 位置だけではない。


 近ければ必ず感じるわけでもない。


 東西へ何かを直接送り続ける単純な中継でもなさそうだ。


 代わりに。


 東側奥部で起きた「変化そのもの」に、六つ目が反応している可能性が少しだけ強くなった。


 そして、その反応条件には。


 強さ。


 変化速度。


 継続時間。


 あるいは、それらを組み合わせた何かが関係しているかもしれない。


 まだ答えではない。


 六つ目の正式な名前も分からない。


 役割も。


 アリシアが選ばれた理由も。


 けれど、大きすぎて形のなかった「分からない」は、少しずつ輪郭を持ち始めていた。


 何を感じているのか。


 どんな変化なら感じるのか。


 どんな変化なら感じないのか。


 その境目を、一つずつ比べられるところまで来た。


 生活観測区画の灯りが夜間用へ落とされたあと、アリシアは寝台へ横になり、自分の胸へ手を置いた。


 今は何も感じない。


 冷たくない。


 震えもない。


 それでも、今日はその「何もない」を不安に思わなかった。


 感じなかった昨日が。


 感じた今日を理解するために必要だったように。


 今感じていない時間も、いつか何かと比べるための一つになるかもしれない。


 明日、強さを変えるのか。


 速度を見るのか。


 もう一度自然変動を待つのか。


 まだ決まっていない。


 だから今日は。


 答えを急いで一つ増やすのではなく。


 何が違ったのかを、一つ分だけ狭くできたところで終わる。


 アリシアは目を閉じた。


 隣の寝台では、顔のない存在の十一の光のうち、三つが淡く残っている。


 机の近くには、子供が今日描いた茶色い線。


 そのさらに奥には、中身をまだ隠した木箱。


 東には、見えない奥側反応。


 西には、遅れて応えた補助連絡線。


 そして胸の内側には。


 まだ名前の分からない、六つ目の神器が静かにあった。


 分からないものは、まだ多い。


 けれど。


 その中で、何を次に確かめるべきかは 昨日より少しだけ、見えるようになっていた。


 強さを見るのか。


 変化する速さを見るのか。


 それとも、もう一度何もしない時間を残すのか。


 どれを選んでも、すぐに六つ目の正体へ辿り着けるとは限らない。


 それでも、何を比べたいのかすら分からなかった頃とは違う。


 感じたこと。


 感じなかったこと。


 嬉しかったこと。


 残念だったこと。


 その全部を、都合のいいものだけ選ばずに並べていけばいい。


 そして、その中から。


 次に一つだけ、条件を変える。


 今夜のアリシアには、それで十分だった。


 窓の外では、昼間よりずっと弱くなった風が木々の葉を揺らしている。遠くの学院校舎から聞こえていた音も少しずつ消え、生活観測区画には換気術式の低い響きと、眠りについた子供の穏やかな呼吸だけが残っていた。


 アリシアは胸へ置いていた手をゆっくり布団の上へ戻した。


 六つ目は何も答えない。


 東側奥部も、今は動かない。


 だから。


 今日は、それ以上を求めなかった。


 感じなかったことまで残せたからこそ。


 次は、何が違えば感じるのかを確かめられる。


 その小さな順番を守りながら、アリシアは静かに眠りへ落ちていった。

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