第160話 一つだけ条件を変えたなら、その違いを一つだけで説明できるか確かめなければならない
翌朝、アリシアが目を覚ましたとき、窓の外には昨日より濃い青空が広がっていた。
夜半まで残っていた薄い雲はいつの間にか消え、まだ朝早い時間だというのに、庭の石畳にははっきりとした木々の影が落ちている。開けられた細い窓からは、少し湿り気を含んだ風と、離れた場所で鳴く鳥の声が入ってきていた。
寝台の上で身体を起こしながら、アリシアは今日も胸へ右手を置いた。
痛みはない。
苦しさもない。
冷たさも、震えもない。
昨夜、眠っているあいだに何かを感じた記憶もなかった。
「今はゼロ」
『何が?』
足元近くで丸くなっていたノアが、片目を開ける。
「冷たさ」
『聞いてないわよ』
「習慣」
『そのうち朝の挨拶より先に数字を言うようになるわね』
「もう言ってるかも」
『自覚あるのね』
アリシアは小さく笑いながら寝台を降りた。
足を床へつける。
身体に重さはない。
昨日一日、生活観測区画で過ごしていたため、地下へ接近した翌日に残りやすい疲れもほとんどなかった。
机を見る。
今朝も報告書が置かれている。
ただし、一番上には昨日と同じ比較表ではなく、夜間記録を抜き出した一枚があった。
「夜、何かあった?」
紙を手に取る。
ノアも身体を起こした。
『あなたには何もなかったでしょう』
「私には?」
少し嫌な予感がする。
アリシアは紙へ目を落とした。
午前零時を少し過ぎた頃。
東側奥部新反応。
微弱な低下。
継続時間、短。
低下速度、緩やか。
低下幅、小。
小空洞、変化なし。
名前のない光、位置・輪郭光量ともに変化なし。
西側補助連絡線、変化なし。
そして。
生活観測区画にいたアリシア側。
睡眠中。
自覚申告なし。
身体観測値にも明確な変化なし。
「……あったんだ」
『東ではね』
「私は寝てた」
『ぐっすりだったわ』
「ノア起きてた?」
『途中で一回、水を飲んだだけ』
「じゃあノアも知らなかった?」
『朝聞いたわ』
アリシアは夜間記録を机へ置いた。
昨日の午後。
奥側新反応がゆっくり変わり始め、その途中から胸部冷感〇・五。
変化速度が上がった頃に一。
夜。
奥側側には、さらに弱く、短く、ゆっくりした変化。
自分は何も感じなかった。
「感じなかったの増えた」
『そうね』
「昨日午前も感じなかった」
『ええ』
「どっちも弱くて、ゆっくり?」
「昨夜の方がさらに小さいみたい」
『なら、“弱い変化は感じない”って言いたくなってる顔ね』
アリシアは一瞬黙った。
「……少し」
『昨日何て書いたの?』
「境目を先に決めない」
『なら朝から破らない』
「分かってるよ」
アリシアは紙を裏返し、昨日自分で書いた練習帳の一文を思い出した。
感じた側。
感じなかった側。
その間へ、まだ線は引かない。
「でも、並んできたね」
『何が?』
「小さくて緩やかなのは感じなかった。途中で速くなったときは感じた。大きくて長かったときも感じた」
『今の言い方なら、まあいいんじゃない?』
「褒めてる?」
『四割』
「低い」
『残り六割は、今日第三地点へ行けるかしか考えてないでしょう』
アリシアは目を逸らした。
『図星』
「だって……」
『行きたい九?』
「今は八」
『下がったのね』
「朝だから」
『意味分からないわ』
「起きたばっかりだし」
『数字って便利なようで雑よね』
その言葉に、アリシアは少し笑った。
ちょうどその頃、隣の寝台から布の動く音がした。
「数字?」
子供が目を覚ましていた。
「おはよう」
「おはよう」
子供は半分だけ起き上がり、アリシアの手にある紙を見る。
「東?」
「うん。夜に少し変化あったみたい」
「アリシア寝てた?」
「寝てた」
「冷たかった?」
「何も感じなかった」
「東は動いた?」
「少しだけ反応が弱くなった」
「小さい?」
「うん。昨日私が感じたときより小さくて、短くて、ゆっくりだったみたい」
子供はしばらく考えた。
「じゃあ、小さいと分からない?」
アリシアは一度答えかけて、止まる。
「そうかもしれない。でも、まだそう決めない」
「何で?」
「小さい以外にも違うところがあるから」
「短い?」
「うん」
「ゆっくり?」
「うん」
「寝てた?」
思わぬ四つ目に、アリシアが目を瞬いた。
「……あ」
『そこ抜けてたわね』
ノアの尻尾が楽しそうに揺れる。
「寝てたから感じなかった?」
「それもある?」
「可能性としてはね」
子供は少し得意そうに頷いた。
「いっぱいある」
「増えた……」
『朝から順調ね』
「何が」
『分からないこと』
子供が笑った。
そのあと、隣の寝台へ向き直る。
「おはよう」
顔のない存在は、今朝も静かに横になっていた。
胸の十一の光。
子供は待つ。
一つ。
それから二つ。
少し遅れて。
三つ目が淡く明るくなった。
「今は三つ」
子供は昨日の二つと比べなかった。
アリシアも口を挟まない。
ただ、その日の三つとして見る。
◇
朝食を終える少し前、学院長が生活観測区画の扉の外へ来た。
いつもの足音に気づいた子供が、匙を持ったまま顔を上げる。
「学院長」
「いるぞ」
「第三?」
扉の向こうから、短い笑いが返ってきた。
「朝の挨拶より先にそれか」
「おはよう」
「おはよう」
「第三?」
「順番は守ったな」
子供が少し笑う。
アリシアは麦粥を飲み込みながら、無意識に姿勢を正していた。
「行けそう?」
「今朝の東側は安定している。夜半に弱い変化が一度あったが、それ以降は基準範囲だ」
「私側も何もなし」
「記録は見たか」
「うん」
「身体は?」
「痛みゼロ。苦しさゼロ。疲労一。怖さ二。冷感なし」
「行きたい気持ち」
「八」
「昨日夜は九だったな」
「今日の八」
「分かった」
学院長の声は、すぐに決定を告げるものではなかった。
「サーラたちが最終確認している。朝食後、もう一度意思確認をして、それで問題がなければ第三地点までの接近試験を実施する」
アリシアの目が少し大きくなる。
「本当に?」
「候補から、実施予定へ一段上がった」
「嬉しい」
「数字は?」
子供が先に聞いた。
アリシアが笑う。
「八」
『行きたい八、嬉しい八。分ける意味ある?』
「あるよ」
『どう違うの?』
「……今は説明できない」
『ほら』
子供が笑いながら果実を一つ口へ入れた。
◇
正式な確認は、昨日までと同じ生活観測区画で行われた。
サーラ。
安全管理担当。
治療教師。
学院長は扉の外。
ノアはアリシアの椅子の背。
子供は少し離れた机で、自分の朝の記録を書いている。
「本日の変更条件を確認します」
サーラが記録板を開く。
「東側の測定方法は昨日と同じです」
「うん」
「奥側新反応に対して、新しい刺激は加えません」
「うん」
「観測装置の出力変更も行いません」
「うん」
「名前のない光、小空洞、西側補助連絡線についても、通常観測を継続します」
「うん」
「今日変える条件は、原則一つだけです」
アリシアが答える。
「私の位置」
「はい」
第二地点。
そこで一度状態確認。
問題がなく、本人が継続を希望した場合。
そこから第三地点へ進む。
第三地点で三分間。
自然状態の定点観測。
神器へ意図的な魔力流入は禁止。
奥側へ人為的刺激も加えない。
第三地点で神器反応が出た場合、前進は当然そこで終了。
第三地点より奥へは行かない。
「何も起きなかった場合も?」
アリシアが確認する。
「今日は第三地点で終了です」
「その先は行かない」
「はい」
「反応出るまで待たない」
「三分で切ります」
アリシアは頷いた。
昨日の第一地点と同じ。
何も起きないから延ばす、はしない。
「身体状態を」
「痛みゼロ。苦しさゼロ。頭痛ゼロ。腕の重さゼロ。疲労一」
「怖さ」
「二」
「参加意思」
「八」
「第三地点へ行きたい気持ち」
少し考える。
「九」
『また分けた』
「今日はこっち大事でしょ」
サーラが少し笑った。
「では九で記録します」
「本当に?」
「今の本人状態ですから」
「嬉しい」
「それは記録しなくていいです」
「そこはしないんだ」
周囲へ小さな笑いが広がった。
そのあと、安全管理担当がいつもの確認を続ける。
「第三地点へ到達したあとでも、すぐ観測を始めず、本人状態を確認します」
「うん」
「歩いてみて違うと思ったら?」
「止まる」
「第二地点で嫌になったら?」
「そこで終わる」
「怖さ六でなくても?」
「終わる」
「第三地点へ到達して、痛みも怖さも問題なくても、今日は観測しないと思ったら?」
アリシアは一瞬だけ迷った。
せっかく行くのに。
そんな気持ちが少しだけ出る。
それでも。
「しなくていい」
「はい」
子供が机の向こうから顔を上げた。
「行ったのに戻ってもいい」
「うん」
「箱、蓋持っただけで閉じることある」
「あるね」
「第三も同じ?」
「全部同じではないけど、途中でやめていいのは同じかな」
子供は満足したように頷き、また紙へ戻った。
◇
東側地下区画へ向かう道は、もう初めてではない。
それでも今日のアリシアには、昨日までとは違う緊張があった。
第二地点までは知っている。
その先へ。
今日は初めて、自分の意思で第三地点へ入るかもしれない。
階段を下りる。
魔導灯の白い光。
湿った石の匂い。
遠くで鳴る測定具の小さな作動音。
昨日とほとんど同じはずなのに、一つ一つが少し強く意識へ入ってくる。
『怖さ?』
ノアが肩の上から聞く。
「三」
『上がった』
「うん」
『嫌?』
「嫌じゃない。緊張」
『また別なのね』
「今は」
安全管理担当も記録する。
「緊張度は?」
アリシアが足を止めそうになる。
「それも数字にする?」
「無理にしなくて構いません」
「じゃあ……高め」
「言葉で記録します」
「よかった」
同行している観測員の一人が小さく笑う。
「全部数字にしたら記録欄足りなくなりますよ」
「増やしたの私じゃないからね」
『半分くらいあなたよ』
「ノアうるさい」
少し笑えた。
その笑いのあとにも緊張は残っている。
でも、なくす必要はない。
◇
第一地点は、今日は通過確認のみだった。
昨日すでに三分間の定点記録を取っている。
ただし、通過時に何か起きればその時点で止まるため、白線手前で短く立ち止まる。
「痛みゼロ。苦しさゼロ。冷感なし。怖さ三」
「東側、変化なし」
「通過します」
第一地点を越える。
昨日なら、ここから第二へ進む前に休憩を入れた。
今日は試験条件が違う。
第一地点は観測対象ではない。
アリシアはそのことを理解しながら歩く。
「昨日より早い」
「何が?」
学院長が前から尋ねる。
「第一から第二まで」
「今日は第一で三分取ってないからな」
「そっか」
「身体は?」
「大丈夫……」
言ってから止まる。
『禁止』
「痛みゼロ。苦しさゼロ。疲労一。怖さ三」
『よし』
「ノアが先生みたいになってる」
『あなたが覚えないからでしょう』
第二地点の黄色い印が見えてくる。
昨日。
胸部冷感一。
東側奥側新反応低下。
そこから先へ行きたいまま止まった場所。
アリシアの歩幅が少しだけ小さくなった。
「第二地点です」
サーラの声。
アリシアが黄色い印へ立つ。
胸へ手を置かない。
まず、自分の自然な感覚を確かめる。
何もない。
「今、怖さ四」
「上がりましたね」
「昨日反応した場所って思ったら」
「それも記録します」
「冷感?」
「なし」
「方向感覚」
「東側を知識として意識してる。神器かは分からない」
「身体状態?」
「問題なし」
「第三地点へ進みたい?」
アリシアは廊下の先を見る。
曲がり角。
昨日、何度も見た。
あの先。
今日は行ける。
行かなければならない、ではない。
「行きたい九」
「怖さ四」
「うん」
「相談基準五未満」
「うん」
「継続しますか?」
アリシアは一呼吸置いた。
「進む」
「確認しました」
◇
曲がり角を越える。
そこから先の景色は、驚くほど普通だった。
もっと何かあると思っていた。
古い紋様。
強い魔力光。
異様な空気。
そういう「ここから先が特別だ」と分かるものを、どこかで期待していたのかもしれない。
けれど、実際に続いていたのは灰色の石壁と、一定間隔の魔導灯。
床には補修跡がある。
右側の壁には、古い導線を通していたらしい細い溝が一部露出していた。
「普通……」
アリシアが呟く。
『何を期待してたのよ』
「分からないけど、もっと……」
『六つ目の秘密はこちら、みたいな看板?』
「そこまでじゃない」
『半分くらい期待してた顔ね』
「してない」
学院長が少し笑う。
「第三地点はもう少し先だ」
「うん」
一歩。
二歩。
歩くほど、心臓は少し速くなる。
身体に異常はない。
胸もまだ静か。
三歩。
四歩。
壁の溝が途切れる。
そこに、小さな青い印が床へ付けられていた。
「ここ?」
「第三地点だ」
アリシアは印の一歩前で止まった。
すぐには乗らない。
昨日までなら、到着した瞬間にそこへ立っていたかもしれない。
今日は自分から待った。
「どうしました?」
サーラが尋ねる。
「今、思ったより怖い」
「数字は?」
「四・五」
「五未満」
「でも近い」
「何に?」
アリシアは胸へ手を置きかけ、やめた。
「分からない。場所が」
「第三地点が?」
「うん。昨日まで見てた曲がり角の向こうに本当に来たって感じ」
「戻りたい?」
安全管理担当に尋ねられる。
アリシアは正直に考える。
「まだ」
「立ちたい?」
「うん」
「では自分のタイミングで」
誰も「どうぞ」と急かさない。
アリシアは青い印を見る。
ただの印。
そこへ立ったから答えが出るわけではない。
何も起きない可能性もある。
起きても、距離のせいとは限らない。
それでも。
今日は位置という条件を一つ変えるために来た。
「行く」
自分へ言うように呟く。
一歩。
青い印の上へ立った。
その瞬間。
――何も起きなかった。
アリシアは瞬きをする。
「……ない」
『何が?』
「何も」
少し拍子抜けする。
昨日の第二地点でも、反応は二分半ほど経ってからだった。
分かっている。
それなのに、第三地点へ立った瞬間、何か来ると思っていた自分がいる。
「今、がっかり二」
「記録しますか?」
サーラが尋ねる。
「……する」
『正直ね』
「今日はそうするって決めたから」
「怖さ?」
「四」
「下がった?」
「立ったら少し」
「観測開始します」
第三地点。
三分間。
自然状態。
アリシアは何もしない。
◇
最初の三十呼吸。
変化なし。
胸も静か。
東側各値も、アリシアにはまだ伝えられない。
ただし観測員たちは別の場所で同時記録を続けている。
一分。
「今、奥が気になる」
「記録します」
「でも昨日より……」
アリシアは少し首を傾げる。
「方向感覚は弱いかも」
「第二地点より?」
「昨日第二で、途中から東って感じたでしょう」
「はい」
「今日は、場所は近いのに、それより分からない」
サーラの筆が止まらない。
「神器反応として?」
「うん。頭では奥が東って知ってる。でも胸の感覚としては……ない」
「記録します」
アリシアは少し不満そうになる。
「近づいたのに」
『だから近ければ強くなるって決めない』
「分かってる」
『顔が納得してない』
「だって少しくらい……」
「強く感じると思ってた?」
学院長が尋ねる。
「うん」
「それも今日の予想だ」
「外れるかも」
「もう外れ始めてるかもしれないな」
「まだ一分」
「そうだ」
アリシアは口を閉じた。
二分。
何もない。
身体状態良好。
怖さ三・五。
むしろ少し下がった。
「第二地点より何もない」
アリシアの声へ、今度は焦りが混じった。
『反応を探さない』
「探してない」
『探してる』
「ちょっと」
『正直』
アリシアは一度目を閉じた。
胸。
指先。
肩。
呼吸。
冷たくない。
震えない。
方向も分からない。
「……本当にない」
そのときだった。
通信担当の観測員の手が、一瞬だけ止まった。
アリシアは気づかなかった。
サーラは気づいた。
けれど、何も言わない。
試験中。
東側の値をアリシアへ先に伝えれば、本人の感覚へ影響する可能性がある。
三分目。
残り四十呼吸。
アリシアは落ち着こうとしながら、かえって廊下の静けさを強く意識する。
「怖さ三」
「下がりましたね」
「うん」
「行きたいは?」
安全管理担当が、試験終了後の気持ちを見越して聞く。
「奥へ?」
「今日の先へではなく、調査そのものを続けたい気持ち」
「八」
「下がった?」
「ちょっとがっかりしてるから」
『反応してないってまだ決まってないでしょう』
「私には何もない」
『あなた側はね』
その言葉に、アリシアの目が動く。
「ノア」
『あ』
ノアが口を閉じた。
サーラが小さく息を吐く。
「まだ東側の情報は出しません」
「何かあった?」
「今は観測終了まで待ってください」
「……あるんだ」
「それも断言しません」
「今の言い方で分かるよ」
『私のせいね』
「ノアのせい」
『ごめんなさい』
珍しく素直に謝られ、アリシアは逆に少し笑った。
その笑いの直後。
三分。
「終了」
サーラが言った。
「第三地点、予定観測時間終了です。これ以上は延長しません」
アリシアはすぐ聞く。
「東、何かあった?」
「まず本人側の終了確認を先に」
「……うん」
「痛み」
「ゼロ」
「苦しさ」
「ゼロ」
「冷感」
「ゼロ」
「震え」
「ゼロ」
「方向感覚」
「神器由来としては分からない」
「怖さ」
「三」
「疲労」
「二」
「第三地点より先へ進みたい?」
一瞬。
アリシアの目が廊下の奥へ向く。
「行きたい。でも今日は行かない」
「確認しました」
そこで初めて。
サーラが通信担当へ顔を向けた。
「東側結果を」
『はい』
アリシアの身体が少し固くなる。
『第三地点観測開始から約一分五十呼吸後。奥側新反応に短時間低下を確認しています』
アリシアは目を見開いた。
「……え」
『低下幅は昨日午後より小。昨夜夜半よりは大。継続時間は約十九呼吸』
「私は?」
自分で聞いてから答えが分かっている。
「感じてない」
「はい」
サーラが静かに言う。
「今回は、奥側に明確な変化がありましたが、アリシアさん側の自覚反応はありませんでした」
アリシアは何も言えなかった。
第三地点。
第二地点より奥。
距離は近い。
それなのに。
昨日第二地点で感じた冷たさは、今日は出なかった。
「強さは?」
「昨日第二地点で対応した低下と比べて、少し小さいです」
「速度は?」
「開始時はやや急です。ただし昨日午後に冷感一へ上がったときほどではありません」
「長さ?」
「十九呼吸」
「昨日、私が第二で感じたときは?」
「奥側側の低下継続はそれより少し長いです」
「じゃあ……」
アリシアは言葉を探す。
「近くても、感じない」
「今日の第三地点では、そうでした」
「距離だけじゃない」
「その可能性はかなり高くなりました」
アリシアの胸の奥へ。
反応ではない。
がっかりが落ちる。
「……嬉しくない」
ぽつりと言った。
学院長がすぐ否定しない。
「そうか」
「第三行ったら、もっと分かると思ってた」
「うん」
「何か強くなるとか。方向がはっきりするとか」
「そう思ってたんだな」
「うん」
「でも何も感じなかった」
「うん」
アリシアは青い印を見る。
「意味なかった?」
口に出してから、自分でその言葉が嫌になる。
けれど、言ってしまったものは消さない。
サーラが答える。
「かなり意味があります」
「どうして?」
「第二地点より近い第三地点で、奥側新反応の低下が起きても、アリシアさん側へ自覚反応が出なかった」
「うん」
「距離だけで反応強度が決まるなら、説明しにくい結果です」
「近づけば感じやすい、だけじゃない」
「はい」
「じゃあ今日、外れた?」
「何が?」
「私の予想」
「一部は」
アリシアは少し悔しそうに唇を結んだ。
「やっぱり嫌」
『でも本当の方が知りたいんでしょう』
ノアの声は、今度は柔らかかった。
「うん」
『なら持って帰りなさい』
「がっかりも?」
『それも』
アリシアは少し時間を置いてから頷いた。
「持って帰る」
◇
第三地点から戻る途中。
第二地点の黄色い印を通る。
アリシアはそこで思わず足を止めた。
「どうしました?」
「昨日ここで感じた」
「はい」
「今日は奥まで行って、感じなかった」
「はい」
「今ここに戻ってきてる」
「はい」
少し期待する。
戻った途端に冷たくなったら。
第二地点が何か特別だと考えられるかもしれない。
けれど。
何もない。
「……やっぱりない」
『残念そうね』
「少し」
「ここで観測時間を追加しますか?」
サーラが尋ねる。
アリシアは一瞬迷う。
第二地点。
昨日反応した。
今日戻ってきた。
今少し見れば。
でも。
「しない」
「理由は?」
「今日変えるのは、第三地点へ行くことだけって決めたから」
「はい」
「帰り道で第二をもう一回三分見たら、別の条件増える」
「その通りです」
「気になるけど」
「記録できます」
「今、第二で見たい気持ち六」
「残します」
アリシアは黄色い印から離れた。
昨日より。
さらに少しだけ。
止まる理由を自分で選べるようになっていた。
◇
生活観測区画へ戻ったアリシアを見て、子供は最初に顔ではなく胸元を見た。
「冷たかった?」
「今日は、ならなかった」
「第三行った?」
「行った」
「東は?」
「変化した」
子供が瞬きをする。
「でもアリシア分からなかった?」
「うん」
「近いのに?」
「近いのに」
子供はしばらく考える。
「じゃあ、近いほど分かるじゃない」
「そうみたい」
「残念?」
「かなり」
「何点?」
「五」
『結構高いわね』
「ノア何て?」
「がっかりしすぎって」
『言ってない』
子供はアリシアの顔を見た。
「でも、分かった?」
「うん」
「何が?」
「距離だけじゃないかもしれないって」
「昨日より?」
「かなり」
「第三行った意味あった」
「うん」
そう言われると、少しだけ胸が軽くなる。
子供は木箱へ視線を移した。
「私、今日まだ箱開けてない」
「うん」
「近くにいる」
「うん」
「近いから中身分かるじゃない」
「そうだね」
「触っても、閉じてたら分からない」
「うん」
「アリシア、第三にいた。でも六つ目分からなかった」
「似てるところあるね」
「でも東は動いた」
「うん」
「箱は中で動いてるか分からない」
「そこは違うね」
「同じじゃない」
「うん」
子供は少し満足そうに頷く。
「近いだけじゃ分からないことある」
「あるね」
「じゃあ、今日開ける?」
アリシアは思わず聞いた。
子供は木箱を見た。
「……今、開けたい六」
「怖さ?」
「二」
「どうする?」
「少しだけ開ける」
子供は箱の前へ座った。
留め具は外れたまま。
蓋へ指をかける。
ゆっくり持ち上げる。
これまでと同じ細い隙間。
止まる。
呼吸をする。
それから。
もうほんの少しだけ。
前より一段高く、蓋を上げた。
中へ光が差し込む。
まだ全部は見えない。
けれど。
「……何かある」
子供の声が小さくなる。
アリシアの身体が反応しそうになる。
近づきたい。
見たい。
けれど動かない。
「何が見える?」
「色……暗い」
「黒?」
「黒じゃない。茶色?」
箱の中。
布のようなものが見えている。
折り畳まれているのか。
何かを包んでいるのか。
まだ判断できない。
子供の呼吸が少し速くなる。
「怖さ?」
アリシアが尋ねる。
「三」
「開けたい?」
「七」
「どうする?」
子供は隙間を見る。
今まで。
何も見えないところまでで閉じてきた。
今日は初めて。
中に何かあることだけが分かった。
「もっと見たい」
「うん」
「でも……」
手が少し震える。
「今日、一個見えた」
「うん」
「中、空じゃない」
アリシアは黙って待つ。
子供は蓋をさらに上げなかった。
「今日はここまで」
ゆっくり閉じる。
木が重なる音。
子供は手を離した。
「開けたいまだ六」
「怖さは?」
「二」
「それでも閉じた?」
「うん」
「どうして?」
子供は少し考える。
「中に何かあるって分かったから」
「もっと知りたいのに?」
「うん。でも今日、空じゃないって分かった」
「そっか」
「次、布みたいなの何か見る」
「うん」
子供は少しだけ笑う。
「アリシアも今日、一個分かった」
「距離だけじゃない?」
「うん」
「でも正体は分からない」
「箱も」
「中に何かある。でも何かは分からない」
「同じ日」
「また?」
「うん」
二人で少し笑った。
◇
午後。
第三地点試験の詳細照合が始まった。
会議室の机には、昨日の第二地点と、今日の第三地点の記録が横に並べられている。
昨日。
第二地点。
観測開始約二分半後。
胸部冷感一。
方向感覚、東寄り。
東側奥部新反応低下。
時間対応あり。
今日。
第三地点。
観測開始約一分五十呼吸後。
東側奥部新反応低下。
アリシア側自覚反応なし。
距離は今日の方が近い。
「これ、距離仮説はかなり弱くなりますよね」
若い観測員が言う。
サーラが頷いた。
「『奥側へ近づくほど、アリシアさんが必ず感じやすくなる』という単純な形は、今日の結果と合いません」
「消す?」
「その形は外します」
若い観測員が少し驚く。
「本当に消えた」
「明確に合わない部分がありますから」
「でも距離が全く関係ない、までは?」
「言えません」
「やっぱり」
「距離が必要条件の一部である可能性。逆に、ある位置では感じにくい可能性。経路や壁構造が影響する可能性。まだ残ります」
「位置じゃなくて、変化の種類?」
「それも」
「強さ、長さ、速度?」
「はい」
「睡眠か覚醒か?」
「比較対象としては残します」
「神器側の状態?」
「当然」
若い観測員が紙を見つめる。
「かなり多いですね」
「だから一個ずつです」
「明日は何を?」
学院長が割って入る。
「まだ決めない」
「はい」
「今日、位置を変えた。それだけで一日分の情報は取れた」
「じゃあ刺激試験はしない?」
「今日はしない」
「測定出力も?」
「変えない」
「了解です」
アリシアも会議へ参加していた。
第三地点で何も感じなかったことへのがっかりは、まだ少し残っている。
「私、近づけば強くなると思ってた」
「うん」
学院長が答える。
「かなり」
「うん」
「でも違った」
「少なくとも今日の結果では、単純には合わない」
「……悔しい」
「それも記録するか?」
「自分のには書く」
若い観測員が少し笑う。
「アリシアさん、最近研究者みたいですね」
「違う」
「即答」
「自分のことだから見てるだけ」
サーラが静かに言う。
「それで十分ですよ」
アリシアは少しだけ照れた。
◇
夕方。
顔のない存在は、その日は寝台から三歩だけ歩いた。
昨日七歩。
今日は三歩。
子供は途中で数えない。
座ったあと。
「今日は三」
それだけ。
胸の十一の光は、歩く前には三つ明るかった。
歩いたあと。
二つ。
「昨日七。今日は三」
「うん」
「減った?」
自分で首を横へ振る。
「歩いた数は少ない」
「うん」
「悪い?」
少し考える。
「違う。今日は三歩の日」
「そうだね」
「光も三から二」
「うん」
「歩いたら減る?」
「どう思う?」
「前は増えた日もある」
「うん」
「じゃあ決まってない」
「そうだね」
子供は少し得意そうに頷く。
「線ない」
アリシアが思わず笑った。
「今日それ、私も言われた」
「何が?」
「境目」
「東?」
「うん。近づけば感じるって線、引けなかった」
「なくなった?」
「その簡単な線は、かなり使いにくくなった」
「じゃあ違う線?」
「あるかもしれない」
「また探す?」
「うん」
「疲れる?」
「少し」
「やめたい?」
アリシアは少し考えた。
「今はやめたくない」
「行きたい?」
「調べたいは八くらい」
「怖い?」
「二」
「がっかり?」
「今は三」
「下がった」
「時間経ったから」
子供は少し笑った。
◇
夕食後。
子供が、今日初めて見えた木箱の中について、自分の紙へ記録していた。
『中は空ではなかった』
その下へ。
『茶色い布みたいなものが見えた。でも布かは分からない』
アリシアは隣で練習帳を開く。
今日の第三地点。
怖さ四・五まで上がった。
立ったあと三まで下がった。
胸部反応なし。
東側奥部変化あり。
近かったのに感じなかった。
少し悔しかった。
第二地点へ戻ったときも何も感じなかった。
追加観測はしなかった。
そこまで書き。
最後に一行。
――近づけば強く感じると思っていた。でも、今日の結果ではそうならなかった。第三地点へ行ったから、それを知れた。
筆を止める。
『昨日より短い』
ノアが覗く。
「何が?」
『最後の一行』
「短くてもいいでしょ」
『成長したわね』
「何の」
『文章』
「そこ?」
アリシアは笑った。
そのあと、少し真面目な顔になる。
「ノア」
『何?』
「今日、第三行ってよかった」
『昨日も似たこと言ってたわね』
「今日は反応しなかったのに」
『うん』
「でもよかった」
『ならいいんじゃない?』
「うん」
アリシアは練習帳を閉じた。
◇
夜。
学院側では、次の調査条件を決めるための整理だけが行われた。
明日、すぐ第四地点を作ることはしない。
そもそも第四地点という名前すら、まだない。
第三地点より奥へ進む理由も、現時点では不足している。
東側奥部新反応のより詳細な測定を行う案。
第二地点または第三地点で、同じ位置条件を再現する案。
生活観測区画のまま、自然変動をさらに待つ案。
微弱刺激を一種類だけ加え、反応速度を意図的に変える案。
幾つもの候補が出た。
けれど、今日は決めない。
位置という条件を一つ変えた日だったから。
その結果を、まず一日分として残す。
◇
寝台へ入った子供が、灯りが落ちたあとも少しだけ起きていた。
「アリシア」
「うん」
「第三、答えじゃなかった」
「うん」
「何も感じなかった」
「うん」
「でも東は動いた」
「うん」
「近いのに」
「そうだね」
「じゃあ、遠くても感じるときある。近くても感じないときある」
「今までの記録だと、そういう例があるね」
「場所いらない?」
「そこまではまだ分からない」
「また」
「まただね」
子供は少し笑う。
「箱、中に何かあった」
「うん」
「近くにずっといた。でも今日まで分からなかった」
「うん」
「蓋少し開けたから見えた」
「そうだね」
「じゃあ、近いだけじゃなくて、見える条件ある」
アリシアは少し考えた。
「そういう言い方なら、似てるかも」
「六つ目も?」
「何か条件があるのかもしれない」
「強い?」
「かもしれない」
「長い?」
「かもしれない」
「速い?」
「かもしれない」
「起きてる?」
アリシアが笑う。
「それも候補」
「いっぱい」
「いっぱい」
子供は布団を胸元まで上げた。
「でも一個ずつ」
「うん」
「明日は?」
「まだ分からない」
「また明日のアリシア?」
「うん」
「じゃあ、明日聞く」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
少しして、子供の呼吸が穏やかになっていく。
隣の寝台では、顔のない存在の十一の光のうち二つが淡く明るい。
アリシアは自分の胸へ手を置いた。
今は何もない。
第三地点へ立ったときも。
東側奥部が変化したときも。
何も感じなかった。
それは、少し悔しかった。
けれど。
もし今日、第三地点へ行かなかったら。
近づけばきっと強く感じる。
その期待は、もっと長く残っていたかもしれない。
自分が望んだ答えに近い形のまま。
確かめずに。
だから今日の「感じなかった」は。
昨日の「感じた」と同じくらい大切だった。
◇
夜半。
東側奥部新反応は静かだった。
名前のない光も移動しない。
小空洞にも周期反応なし。
西側補助連絡線も基準範囲。
生活観測区画で眠るアリシアにも変化はなかった。
今日。
一つだけ条件を変えた。
アリシアの位置。
生活観測区画より近い。
第二地点よりさらに近い。
第三地点。
そこで東側奥部新反応は変化した。
けれど、アリシアは感じなかった。
だから。
近づけば感じる。
近づくほど強くなる。
その単純な説明には、初めて明確な疑問が置かれた。
ただし。
距離が無関係だと決まったわけでもない。
位置。
変化の強さ。
継続時間。
変化速度。
覚醒状態。
神器側の状態。
まだ人間側が測れていない何か。
候補は残っている。
増えたものもある。
減ったものもある。
そして、今日はもう増やさない。
一つだけ条件を変えたなら。
その結果を一つのまま持ち帰る。
次の日まで。
次に何を変えるのかを決める前まで。
アリシアは静かな寝息を立てていた。
胸の奥にある六つ目の神器は、今夜も何も語らない。
けれど。
語らなかった時間も。
感じなかった瞬間も。
少しずつ。
その正体を囲む記録の一部になり始めていた。




