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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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160/182

第160話 一つだけ条件を変えたなら、その違いを一つだけで説明できるか確かめなければならない

翌朝、アリシアが目を覚ましたとき、窓の外には昨日より濃い青空が広がっていた。


 夜半まで残っていた薄い雲はいつの間にか消え、まだ朝早い時間だというのに、庭の石畳にははっきりとした木々の影が落ちている。開けられた細い窓からは、少し湿り気を含んだ風と、離れた場所で鳴く鳥の声が入ってきていた。


 寝台の上で身体を起こしながら、アリシアは今日も胸へ右手を置いた。


 痛みはない。


 苦しさもない。


 冷たさも、震えもない。


 昨夜、眠っているあいだに何かを感じた記憶もなかった。


「今はゼロ」


『何が?』


 足元近くで丸くなっていたノアが、片目を開ける。


「冷たさ」


『聞いてないわよ』


「習慣」


『そのうち朝の挨拶より先に数字を言うようになるわね』


「もう言ってるかも」


『自覚あるのね』


 アリシアは小さく笑いながら寝台を降りた。


 足を床へつける。


 身体に重さはない。


 昨日一日、生活観測区画で過ごしていたため、地下へ接近した翌日に残りやすい疲れもほとんどなかった。


 机を見る。


 今朝も報告書が置かれている。


 ただし、一番上には昨日と同じ比較表ではなく、夜間記録を抜き出した一枚があった。


「夜、何かあった?」


 紙を手に取る。


 ノアも身体を起こした。


『あなたには何もなかったでしょう』


「私には?」


 少し嫌な予感がする。


 アリシアは紙へ目を落とした。


 午前零時を少し過ぎた頃。


 東側奥部新反応。


 微弱な低下。


 継続時間、短。


 低下速度、緩やか。


 低下幅、小。


 小空洞、変化なし。


 名前のない光、位置・輪郭光量ともに変化なし。


 西側補助連絡線、変化なし。


 そして。


 生活観測区画にいたアリシア側。


 睡眠中。


 自覚申告なし。


 身体観測値にも明確な変化なし。


「……あったんだ」


『東ではね』


「私は寝てた」


『ぐっすりだったわ』


「ノア起きてた?」


『途中で一回、水を飲んだだけ』


「じゃあノアも知らなかった?」


『朝聞いたわ』


 アリシアは夜間記録を机へ置いた。


 昨日の午後。


 奥側新反応がゆっくり変わり始め、その途中から胸部冷感〇・五。


 変化速度が上がった頃に一。


 夜。


 奥側側には、さらに弱く、短く、ゆっくりした変化。


 自分は何も感じなかった。


「感じなかったの増えた」


『そうね』


「昨日午前も感じなかった」


『ええ』


「どっちも弱くて、ゆっくり?」


「昨夜の方がさらに小さいみたい」


『なら、“弱い変化は感じない”って言いたくなってる顔ね』


 アリシアは一瞬黙った。


「……少し」


『昨日何て書いたの?』


「境目を先に決めない」


『なら朝から破らない』


「分かってるよ」


 アリシアは紙を裏返し、昨日自分で書いた練習帳の一文を思い出した。


 感じた側。


 感じなかった側。


 その間へ、まだ線は引かない。


「でも、並んできたね」


『何が?』


「小さくて緩やかなのは感じなかった。途中で速くなったときは感じた。大きくて長かったときも感じた」


『今の言い方なら、まあいいんじゃない?』


「褒めてる?」


『四割』


「低い」


『残り六割は、今日第三地点へ行けるかしか考えてないでしょう』


 アリシアは目を逸らした。


『図星』


「だって……」


『行きたい九?』


「今は八」


『下がったのね』


「朝だから」


『意味分からないわ』


「起きたばっかりだし」


『数字って便利なようで雑よね』


 その言葉に、アリシアは少し笑った。


 ちょうどその頃、隣の寝台から布の動く音がした。


「数字?」


 子供が目を覚ましていた。


「おはよう」


「おはよう」


 子供は半分だけ起き上がり、アリシアの手にある紙を見る。


「東?」


「うん。夜に少し変化あったみたい」


「アリシア寝てた?」


「寝てた」


「冷たかった?」


「何も感じなかった」


「東は動いた?」


「少しだけ反応が弱くなった」


「小さい?」


「うん。昨日私が感じたときより小さくて、短くて、ゆっくりだったみたい」


 子供はしばらく考えた。


「じゃあ、小さいと分からない?」


 アリシアは一度答えかけて、止まる。


「そうかもしれない。でも、まだそう決めない」


「何で?」


「小さい以外にも違うところがあるから」


「短い?」


「うん」


「ゆっくり?」


「うん」


「寝てた?」


 思わぬ四つ目に、アリシアが目を瞬いた。


「……あ」


『そこ抜けてたわね』


 ノアの尻尾が楽しそうに揺れる。


「寝てたから感じなかった?」


「それもある?」


「可能性としてはね」


 子供は少し得意そうに頷いた。


「いっぱいある」


「増えた……」


『朝から順調ね』


「何が」


『分からないこと』


 子供が笑った。


 そのあと、隣の寝台へ向き直る。


「おはよう」


 顔のない存在は、今朝も静かに横になっていた。


 胸の十一の光。


 子供は待つ。


 一つ。


 それから二つ。


 少し遅れて。


 三つ目が淡く明るくなった。


「今は三つ」


 子供は昨日の二つと比べなかった。


 アリシアも口を挟まない。


 ただ、その日の三つとして見る。


     ◇


 朝食を終える少し前、学院長が生活観測区画の扉の外へ来た。


 いつもの足音に気づいた子供が、匙を持ったまま顔を上げる。


「学院長」


「いるぞ」


「第三?」


 扉の向こうから、短い笑いが返ってきた。


「朝の挨拶より先にそれか」


「おはよう」


「おはよう」


「第三?」


「順番は守ったな」


 子供が少し笑う。


 アリシアは麦粥を飲み込みながら、無意識に姿勢を正していた。


「行けそう?」


「今朝の東側は安定している。夜半に弱い変化が一度あったが、それ以降は基準範囲だ」


「私側も何もなし」


「記録は見たか」


「うん」


「身体は?」


「痛みゼロ。苦しさゼロ。疲労一。怖さ二。冷感なし」


「行きたい気持ち」


「八」


「昨日夜は九だったな」


「今日の八」


「分かった」


 学院長の声は、すぐに決定を告げるものではなかった。


「サーラたちが最終確認している。朝食後、もう一度意思確認をして、それで問題がなければ第三地点までの接近試験を実施する」


 アリシアの目が少し大きくなる。


「本当に?」


「候補から、実施予定へ一段上がった」


「嬉しい」


「数字は?」


 子供が先に聞いた。


 アリシアが笑う。


「八」


『行きたい八、嬉しい八。分ける意味ある?』


「あるよ」


『どう違うの?』


「……今は説明できない」


『ほら』


 子供が笑いながら果実を一つ口へ入れた。


     ◇


 正式な確認は、昨日までと同じ生活観測区画で行われた。


 サーラ。


 安全管理担当。


 治療教師。


 学院長は扉の外。


 ノアはアリシアの椅子の背。


 子供は少し離れた机で、自分の朝の記録を書いている。


「本日の変更条件を確認します」


 サーラが記録板を開く。


「東側の測定方法は昨日と同じです」


「うん」


「奥側新反応に対して、新しい刺激は加えません」


「うん」


「観測装置の出力変更も行いません」


「うん」


「名前のない光、小空洞、西側補助連絡線についても、通常観測を継続します」


「うん」


「今日変える条件は、原則一つだけです」


 アリシアが答える。


「私の位置」


「はい」


 第二地点。


 そこで一度状態確認。


 問題がなく、本人が継続を希望した場合。


 そこから第三地点へ進む。


 第三地点で三分間。


 自然状態の定点観測。


 神器へ意図的な魔力流入は禁止。


 奥側へ人為的刺激も加えない。


 第三地点で神器反応が出た場合、前進は当然そこで終了。


 第三地点より奥へは行かない。


「何も起きなかった場合も?」


 アリシアが確認する。


「今日は第三地点で終了です」


「その先は行かない」


「はい」


「反応出るまで待たない」


「三分で切ります」


 アリシアは頷いた。


 昨日の第一地点と同じ。


 何も起きないから延ばす、はしない。


「身体状態を」


「痛みゼロ。苦しさゼロ。頭痛ゼロ。腕の重さゼロ。疲労一」


「怖さ」


「二」


「参加意思」


「八」


「第三地点へ行きたい気持ち」


 少し考える。


「九」


『また分けた』


「今日はこっち大事でしょ」


 サーラが少し笑った。


「では九で記録します」


「本当に?」


「今の本人状態ですから」


「嬉しい」


「それは記録しなくていいです」


「そこはしないんだ」


 周囲へ小さな笑いが広がった。


 そのあと、安全管理担当がいつもの確認を続ける。


「第三地点へ到達したあとでも、すぐ観測を始めず、本人状態を確認します」


「うん」


「歩いてみて違うと思ったら?」


「止まる」


「第二地点で嫌になったら?」


「そこで終わる」


「怖さ六でなくても?」


「終わる」


「第三地点へ到達して、痛みも怖さも問題なくても、今日は観測しないと思ったら?」


 アリシアは一瞬だけ迷った。


 せっかく行くのに。


 そんな気持ちが少しだけ出る。


 それでも。


「しなくていい」


「はい」


 子供が机の向こうから顔を上げた。


「行ったのに戻ってもいい」


「うん」


「箱、蓋持っただけで閉じることある」


「あるね」


「第三も同じ?」


「全部同じではないけど、途中でやめていいのは同じかな」


 子供は満足したように頷き、また紙へ戻った。


     ◇


 東側地下区画へ向かう道は、もう初めてではない。


 それでも今日のアリシアには、昨日までとは違う緊張があった。


 第二地点までは知っている。


 その先へ。


 今日は初めて、自分の意思で第三地点へ入るかもしれない。


 階段を下りる。


 魔導灯の白い光。


 湿った石の匂い。


 遠くで鳴る測定具の小さな作動音。


 昨日とほとんど同じはずなのに、一つ一つが少し強く意識へ入ってくる。


『怖さ?』


 ノアが肩の上から聞く。


「三」


『上がった』


「うん」


『嫌?』


「嫌じゃない。緊張」


『また別なのね』


「今は」


 安全管理担当も記録する。


「緊張度は?」


 アリシアが足を止めそうになる。


「それも数字にする?」


「無理にしなくて構いません」


「じゃあ……高め」


「言葉で記録します」


「よかった」


 同行している観測員の一人が小さく笑う。


「全部数字にしたら記録欄足りなくなりますよ」


「増やしたの私じゃないからね」


『半分くらいあなたよ』


「ノアうるさい」


 少し笑えた。


 その笑いのあとにも緊張は残っている。


 でも、なくす必要はない。


     ◇


 第一地点は、今日は通過確認のみだった。


 昨日すでに三分間の定点記録を取っている。


 ただし、通過時に何か起きればその時点で止まるため、白線手前で短く立ち止まる。


「痛みゼロ。苦しさゼロ。冷感なし。怖さ三」


「東側、変化なし」


「通過します」


 第一地点を越える。


 昨日なら、ここから第二へ進む前に休憩を入れた。


 今日は試験条件が違う。


 第一地点は観測対象ではない。


 アリシアはそのことを理解しながら歩く。


「昨日より早い」


「何が?」


 学院長が前から尋ねる。


「第一から第二まで」


「今日は第一で三分取ってないからな」


「そっか」


「身体は?」


「大丈夫……」


 言ってから止まる。


『禁止』


「痛みゼロ。苦しさゼロ。疲労一。怖さ三」


『よし』


「ノアが先生みたいになってる」


『あなたが覚えないからでしょう』


 第二地点の黄色い印が見えてくる。


 昨日。


 胸部冷感一。


 東側奥側新反応低下。


 そこから先へ行きたいまま止まった場所。


 アリシアの歩幅が少しだけ小さくなった。


「第二地点です」


 サーラの声。


 アリシアが黄色い印へ立つ。


 胸へ手を置かない。


 まず、自分の自然な感覚を確かめる。


 何もない。


「今、怖さ四」


「上がりましたね」


「昨日反応した場所って思ったら」


「それも記録します」


「冷感?」


「なし」


「方向感覚」


「東側を知識として意識してる。神器かは分からない」


「身体状態?」


「問題なし」


「第三地点へ進みたい?」


 アリシアは廊下の先を見る。


 曲がり角。


 昨日、何度も見た。


 あの先。


 今日は行ける。


 行かなければならない、ではない。


「行きたい九」


「怖さ四」


「うん」


「相談基準五未満」


「うん」


「継続しますか?」


 アリシアは一呼吸置いた。


「進む」


「確認しました」


     ◇


 曲がり角を越える。


 そこから先の景色は、驚くほど普通だった。


 もっと何かあると思っていた。


 古い紋様。


 強い魔力光。


 異様な空気。


 そういう「ここから先が特別だ」と分かるものを、どこかで期待していたのかもしれない。


 けれど、実際に続いていたのは灰色の石壁と、一定間隔の魔導灯。


 床には補修跡がある。


 右側の壁には、古い導線を通していたらしい細い溝が一部露出していた。


「普通……」


 アリシアが呟く。


『何を期待してたのよ』


「分からないけど、もっと……」


『六つ目の秘密はこちら、みたいな看板?』


「そこまでじゃない」


『半分くらい期待してた顔ね』


「してない」


 学院長が少し笑う。


「第三地点はもう少し先だ」


「うん」


 一歩。


 二歩。


 歩くほど、心臓は少し速くなる。


 身体に異常はない。


 胸もまだ静か。


 三歩。


 四歩。


 壁の溝が途切れる。


 そこに、小さな青い印が床へ付けられていた。


「ここ?」


「第三地点だ」


 アリシアは印の一歩前で止まった。


 すぐには乗らない。


 昨日までなら、到着した瞬間にそこへ立っていたかもしれない。


 今日は自分から待った。


「どうしました?」


 サーラが尋ねる。


「今、思ったより怖い」


「数字は?」


「四・五」


「五未満」


「でも近い」


「何に?」


 アリシアは胸へ手を置きかけ、やめた。


「分からない。場所が」


「第三地点が?」


「うん。昨日まで見てた曲がり角の向こうに本当に来たって感じ」


「戻りたい?」


 安全管理担当に尋ねられる。


 アリシアは正直に考える。


「まだ」


「立ちたい?」


「うん」


「では自分のタイミングで」


 誰も「どうぞ」と急かさない。


 アリシアは青い印を見る。


 ただの印。


 そこへ立ったから答えが出るわけではない。


 何も起きない可能性もある。


 起きても、距離のせいとは限らない。


 それでも。


 今日は位置という条件を一つ変えるために来た。


「行く」


 自分へ言うように呟く。


 一歩。


 青い印の上へ立った。


 その瞬間。


 ――何も起きなかった。


 アリシアは瞬きをする。


「……ない」


『何が?』


「何も」


 少し拍子抜けする。


 昨日の第二地点でも、反応は二分半ほど経ってからだった。


 分かっている。


 それなのに、第三地点へ立った瞬間、何か来ると思っていた自分がいる。


「今、がっかり二」


「記録しますか?」


 サーラが尋ねる。


「……する」


『正直ね』


「今日はそうするって決めたから」


「怖さ?」


「四」


「下がった?」


「立ったら少し」


「観測開始します」


 第三地点。


 三分間。


 自然状態。


 アリシアは何もしない。


     ◇


 最初の三十呼吸。


 変化なし。


 胸も静か。


 東側各値も、アリシアにはまだ伝えられない。


 ただし観測員たちは別の場所で同時記録を続けている。


 一分。


「今、奥が気になる」


「記録します」


「でも昨日より……」


 アリシアは少し首を傾げる。


「方向感覚は弱いかも」


「第二地点より?」


「昨日第二で、途中から東って感じたでしょう」


「はい」


「今日は、場所は近いのに、それより分からない」


 サーラの筆が止まらない。


「神器反応として?」


「うん。頭では奥が東って知ってる。でも胸の感覚としては……ない」


「記録します」


 アリシアは少し不満そうになる。


「近づいたのに」


『だから近ければ強くなるって決めない』


「分かってる」


『顔が納得してない』


「だって少しくらい……」


「強く感じると思ってた?」


 学院長が尋ねる。


「うん」


「それも今日の予想だ」


「外れるかも」


「もう外れ始めてるかもしれないな」


「まだ一分」


「そうだ」


 アリシアは口を閉じた。


 二分。


 何もない。


 身体状態良好。


 怖さ三・五。


 むしろ少し下がった。


「第二地点より何もない」


 アリシアの声へ、今度は焦りが混じった。


『反応を探さない』


「探してない」


『探してる』


「ちょっと」


『正直』


 アリシアは一度目を閉じた。


 胸。


 指先。


 肩。


 呼吸。


 冷たくない。


 震えない。


 方向も分からない。


「……本当にない」


 そのときだった。


 通信担当の観測員の手が、一瞬だけ止まった。


 アリシアは気づかなかった。


 サーラは気づいた。


 けれど、何も言わない。


 試験中。


 東側の値をアリシアへ先に伝えれば、本人の感覚へ影響する可能性がある。


 三分目。


 残り四十呼吸。


 アリシアは落ち着こうとしながら、かえって廊下の静けさを強く意識する。


「怖さ三」


「下がりましたね」


「うん」


「行きたいは?」


 安全管理担当が、試験終了後の気持ちを見越して聞く。


「奥へ?」


「今日の先へではなく、調査そのものを続けたい気持ち」


「八」


「下がった?」


「ちょっとがっかりしてるから」


『反応してないってまだ決まってないでしょう』


「私には何もない」


『あなた側はね』


 その言葉に、アリシアの目が動く。


「ノア」


『あ』


 ノアが口を閉じた。


 サーラが小さく息を吐く。


「まだ東側の情報は出しません」


「何かあった?」


「今は観測終了まで待ってください」


「……あるんだ」


「それも断言しません」


「今の言い方で分かるよ」


『私のせいね』


「ノアのせい」


『ごめんなさい』


 珍しく素直に謝られ、アリシアは逆に少し笑った。


 その笑いの直後。


 三分。


「終了」


 サーラが言った。


「第三地点、予定観測時間終了です。これ以上は延長しません」


 アリシアはすぐ聞く。


「東、何かあった?」


「まず本人側の終了確認を先に」


「……うん」


「痛み」


「ゼロ」


「苦しさ」


「ゼロ」


「冷感」


「ゼロ」


「震え」


「ゼロ」


「方向感覚」


「神器由来としては分からない」


「怖さ」


「三」


「疲労」


「二」


「第三地点より先へ進みたい?」


 一瞬。


 アリシアの目が廊下の奥へ向く。


「行きたい。でも今日は行かない」


「確認しました」


 そこで初めて。


 サーラが通信担当へ顔を向けた。


「東側結果を」


『はい』


 アリシアの身体が少し固くなる。


『第三地点観測開始から約一分五十呼吸後。奥側新反応に短時間低下を確認しています』


 アリシアは目を見開いた。


「……え」


『低下幅は昨日午後より小。昨夜夜半よりは大。継続時間は約十九呼吸』


「私は?」


 自分で聞いてから答えが分かっている。


「感じてない」


「はい」


 サーラが静かに言う。


「今回は、奥側に明確な変化がありましたが、アリシアさん側の自覚反応はありませんでした」


 アリシアは何も言えなかった。


 第三地点。


 第二地点より奥。


 距離は近い。


 それなのに。


 昨日第二地点で感じた冷たさは、今日は出なかった。


「強さは?」


「昨日第二地点で対応した低下と比べて、少し小さいです」


「速度は?」


「開始時はやや急です。ただし昨日午後に冷感一へ上がったときほどではありません」


「長さ?」


「十九呼吸」


「昨日、私が第二で感じたときは?」


「奥側側の低下継続はそれより少し長いです」


「じゃあ……」


 アリシアは言葉を探す。


「近くても、感じない」


「今日の第三地点では、そうでした」


「距離だけじゃない」


「その可能性はかなり高くなりました」


 アリシアの胸の奥へ。


 反応ではない。


 がっかりが落ちる。


「……嬉しくない」


 ぽつりと言った。


 学院長がすぐ否定しない。


「そうか」


「第三行ったら、もっと分かると思ってた」


「うん」


「何か強くなるとか。方向がはっきりするとか」


「そう思ってたんだな」


「うん」


「でも何も感じなかった」


「うん」


 アリシアは青い印を見る。


「意味なかった?」


 口に出してから、自分でその言葉が嫌になる。


 けれど、言ってしまったものは消さない。


 サーラが答える。


「かなり意味があります」


「どうして?」


「第二地点より近い第三地点で、奥側新反応の低下が起きても、アリシアさん側へ自覚反応が出なかった」


「うん」


「距離だけで反応強度が決まるなら、説明しにくい結果です」


「近づけば感じやすい、だけじゃない」


「はい」


「じゃあ今日、外れた?」


「何が?」


「私の予想」


「一部は」


 アリシアは少し悔しそうに唇を結んだ。


「やっぱり嫌」


『でも本当の方が知りたいんでしょう』


 ノアの声は、今度は柔らかかった。


「うん」


『なら持って帰りなさい』


「がっかりも?」


『それも』


 アリシアは少し時間を置いてから頷いた。


「持って帰る」


     ◇


 第三地点から戻る途中。


 第二地点の黄色い印を通る。


 アリシアはそこで思わず足を止めた。


「どうしました?」


「昨日ここで感じた」


「はい」


「今日は奥まで行って、感じなかった」


「はい」


「今ここに戻ってきてる」


「はい」


 少し期待する。


 戻った途端に冷たくなったら。


 第二地点が何か特別だと考えられるかもしれない。


 けれど。


 何もない。


「……やっぱりない」


『残念そうね』


「少し」


「ここで観測時間を追加しますか?」


 サーラが尋ねる。


 アリシアは一瞬迷う。


 第二地点。


 昨日反応した。


 今日戻ってきた。


 今少し見れば。


 でも。


「しない」


「理由は?」


「今日変えるのは、第三地点へ行くことだけって決めたから」


「はい」


「帰り道で第二をもう一回三分見たら、別の条件増える」


「その通りです」


「気になるけど」


「記録できます」


「今、第二で見たい気持ち六」


「残します」


 アリシアは黄色い印から離れた。


 昨日より。


 さらに少しだけ。


 止まる理由を自分で選べるようになっていた。


     ◇


 生活観測区画へ戻ったアリシアを見て、子供は最初に顔ではなく胸元を見た。


「冷たかった?」


「今日は、ならなかった」


「第三行った?」


「行った」


「東は?」


「変化した」


 子供が瞬きをする。


「でもアリシア分からなかった?」


「うん」


「近いのに?」


「近いのに」


 子供はしばらく考える。


「じゃあ、近いほど分かるじゃない」


「そうみたい」


「残念?」


「かなり」


「何点?」


「五」


『結構高いわね』


「ノア何て?」


「がっかりしすぎって」


『言ってない』


 子供はアリシアの顔を見た。


「でも、分かった?」


「うん」


「何が?」


「距離だけじゃないかもしれないって」


「昨日より?」


「かなり」


「第三行った意味あった」


「うん」


 そう言われると、少しだけ胸が軽くなる。


 子供は木箱へ視線を移した。


「私、今日まだ箱開けてない」


「うん」


「近くにいる」


「うん」


「近いから中身分かるじゃない」


「そうだね」


「触っても、閉じてたら分からない」


「うん」


「アリシア、第三にいた。でも六つ目分からなかった」


「似てるところあるね」


「でも東は動いた」


「うん」


「箱は中で動いてるか分からない」


「そこは違うね」


「同じじゃない」


「うん」


 子供は少し満足そうに頷く。


「近いだけじゃ分からないことある」


「あるね」


「じゃあ、今日開ける?」


 アリシアは思わず聞いた。


 子供は木箱を見た。


「……今、開けたい六」


「怖さ?」


「二」


「どうする?」


「少しだけ開ける」


 子供は箱の前へ座った。


 留め具は外れたまま。


 蓋へ指をかける。


 ゆっくり持ち上げる。


 これまでと同じ細い隙間。


 止まる。


 呼吸をする。


 それから。


 もうほんの少しだけ。


 前より一段高く、蓋を上げた。


 中へ光が差し込む。


 まだ全部は見えない。


 けれど。


「……何かある」


 子供の声が小さくなる。


 アリシアの身体が反応しそうになる。


 近づきたい。


 見たい。


 けれど動かない。


「何が見える?」


「色……暗い」


「黒?」


「黒じゃない。茶色?」


 箱の中。


 布のようなものが見えている。


 折り畳まれているのか。


 何かを包んでいるのか。


 まだ判断できない。


 子供の呼吸が少し速くなる。


「怖さ?」


 アリシアが尋ねる。


「三」


「開けたい?」


「七」


「どうする?」


 子供は隙間を見る。


 今まで。


 何も見えないところまでで閉じてきた。


 今日は初めて。


 中に何かあることだけが分かった。


「もっと見たい」


「うん」


「でも……」


 手が少し震える。


「今日、一個見えた」


「うん」


「中、空じゃない」


 アリシアは黙って待つ。


 子供は蓋をさらに上げなかった。


「今日はここまで」


 ゆっくり閉じる。


 木が重なる音。


 子供は手を離した。


「開けたいまだ六」


「怖さは?」


「二」


「それでも閉じた?」


「うん」


「どうして?」


 子供は少し考える。


「中に何かあるって分かったから」


「もっと知りたいのに?」


「うん。でも今日、空じゃないって分かった」


「そっか」


「次、布みたいなの何か見る」


「うん」


 子供は少しだけ笑う。


「アリシアも今日、一個分かった」


「距離だけじゃない?」


「うん」


「でも正体は分からない」


「箱も」


「中に何かある。でも何かは分からない」


「同じ日」


「また?」


「うん」


 二人で少し笑った。


     ◇


 午後。


 第三地点試験の詳細照合が始まった。


 会議室の机には、昨日の第二地点と、今日の第三地点の記録が横に並べられている。


 昨日。


 第二地点。


 観測開始約二分半後。


 胸部冷感一。


 方向感覚、東寄り。


 東側奥部新反応低下。


 時間対応あり。


 今日。


 第三地点。


 観測開始約一分五十呼吸後。


 東側奥部新反応低下。


 アリシア側自覚反応なし。


 距離は今日の方が近い。


「これ、距離仮説はかなり弱くなりますよね」


 若い観測員が言う。


 サーラが頷いた。


「『奥側へ近づくほど、アリシアさんが必ず感じやすくなる』という単純な形は、今日の結果と合いません」


「消す?」


「その形は外します」


 若い観測員が少し驚く。


「本当に消えた」


「明確に合わない部分がありますから」


「でも距離が全く関係ない、までは?」


「言えません」


「やっぱり」


「距離が必要条件の一部である可能性。逆に、ある位置では感じにくい可能性。経路や壁構造が影響する可能性。まだ残ります」


「位置じゃなくて、変化の種類?」


「それも」


「強さ、長さ、速度?」


「はい」


「睡眠か覚醒か?」


「比較対象としては残します」


「神器側の状態?」


「当然」


 若い観測員が紙を見つめる。


「かなり多いですね」


「だから一個ずつです」


「明日は何を?」


 学院長が割って入る。


「まだ決めない」


「はい」


「今日、位置を変えた。それだけで一日分の情報は取れた」


「じゃあ刺激試験はしない?」


「今日はしない」


「測定出力も?」


「変えない」


「了解です」


 アリシアも会議へ参加していた。


 第三地点で何も感じなかったことへのがっかりは、まだ少し残っている。


「私、近づけば強くなると思ってた」


「うん」


 学院長が答える。


「かなり」


「うん」


「でも違った」


「少なくとも今日の結果では、単純には合わない」


「……悔しい」


「それも記録するか?」


「自分のには書く」


 若い観測員が少し笑う。


「アリシアさん、最近研究者みたいですね」


「違う」


「即答」


「自分のことだから見てるだけ」


 サーラが静かに言う。


「それで十分ですよ」


 アリシアは少しだけ照れた。


     ◇


 夕方。


 顔のない存在は、その日は寝台から三歩だけ歩いた。


 昨日七歩。


 今日は三歩。


 子供は途中で数えない。


 座ったあと。


「今日は三」


 それだけ。


 胸の十一の光は、歩く前には三つ明るかった。


 歩いたあと。


 二つ。


「昨日七。今日は三」


「うん」


「減った?」


 自分で首を横へ振る。


「歩いた数は少ない」


「うん」


「悪い?」


 少し考える。


「違う。今日は三歩の日」


「そうだね」


「光も三から二」


「うん」


「歩いたら減る?」


「どう思う?」


「前は増えた日もある」


「うん」


「じゃあ決まってない」


「そうだね」


 子供は少し得意そうに頷く。


「線ない」


 アリシアが思わず笑った。


「今日それ、私も言われた」


「何が?」


「境目」


「東?」


「うん。近づけば感じるって線、引けなかった」


「なくなった?」


「その簡単な線は、かなり使いにくくなった」


「じゃあ違う線?」


「あるかもしれない」


「また探す?」


「うん」


「疲れる?」


「少し」


「やめたい?」


 アリシアは少し考えた。


「今はやめたくない」


「行きたい?」


「調べたいは八くらい」


「怖い?」


「二」


「がっかり?」


「今は三」


「下がった」


「時間経ったから」


 子供は少し笑った。


     ◇


 夕食後。


 子供が、今日初めて見えた木箱の中について、自分の紙へ記録していた。


『中は空ではなかった』


 その下へ。


『茶色い布みたいなものが見えた。でも布かは分からない』


 アリシアは隣で練習帳を開く。


 今日の第三地点。


 怖さ四・五まで上がった。


 立ったあと三まで下がった。


 胸部反応なし。


 東側奥部変化あり。


 近かったのに感じなかった。


 少し悔しかった。


 第二地点へ戻ったときも何も感じなかった。


 追加観測はしなかった。


 そこまで書き。


 最後に一行。


 ――近づけば強く感じると思っていた。でも、今日の結果ではそうならなかった。第三地点へ行ったから、それを知れた。


 筆を止める。


『昨日より短い』


 ノアが覗く。


「何が?」


『最後の一行』


「短くてもいいでしょ」


『成長したわね』


「何の」


『文章』


「そこ?」


 アリシアは笑った。


 そのあと、少し真面目な顔になる。


「ノア」


『何?』


「今日、第三行ってよかった」


『昨日も似たこと言ってたわね』


「今日は反応しなかったのに」


『うん』


「でもよかった」


『ならいいんじゃない?』


「うん」


 アリシアは練習帳を閉じた。


     ◇


 夜。


 学院側では、次の調査条件を決めるための整理だけが行われた。


 明日、すぐ第四地点を作ることはしない。


 そもそも第四地点という名前すら、まだない。


 第三地点より奥へ進む理由も、現時点では不足している。


 東側奥部新反応のより詳細な測定を行う案。


 第二地点または第三地点で、同じ位置条件を再現する案。


 生活観測区画のまま、自然変動をさらに待つ案。


 微弱刺激を一種類だけ加え、反応速度を意図的に変える案。


 幾つもの候補が出た。


 けれど、今日は決めない。


 位置という条件を一つ変えた日だったから。


 その結果を、まず一日分として残す。


     ◇


 寝台へ入った子供が、灯りが落ちたあとも少しだけ起きていた。


「アリシア」


「うん」


「第三、答えじゃなかった」


「うん」


「何も感じなかった」


「うん」


「でも東は動いた」


「うん」


「近いのに」


「そうだね」


「じゃあ、遠くても感じるときある。近くても感じないときある」


「今までの記録だと、そういう例があるね」


「場所いらない?」


「そこまではまだ分からない」


「また」


「まただね」


 子供は少し笑う。


「箱、中に何かあった」


「うん」


「近くにずっといた。でも今日まで分からなかった」


「うん」


「蓋少し開けたから見えた」


「そうだね」


「じゃあ、近いだけじゃなくて、見える条件ある」


 アリシアは少し考えた。


「そういう言い方なら、似てるかも」


「六つ目も?」


「何か条件があるのかもしれない」


「強い?」


「かもしれない」


「長い?」


「かもしれない」


「速い?」


「かもしれない」


「起きてる?」


 アリシアが笑う。


「それも候補」


「いっぱい」


「いっぱい」


 子供は布団を胸元まで上げた。


「でも一個ずつ」


「うん」


「明日は?」


「まだ分からない」


「また明日のアリシア?」


「うん」


「じゃあ、明日聞く」


「うん」


「おやすみ」


「おやすみ」


 少しして、子供の呼吸が穏やかになっていく。


 隣の寝台では、顔のない存在の十一の光のうち二つが淡く明るい。


 アリシアは自分の胸へ手を置いた。


 今は何もない。


 第三地点へ立ったときも。


 東側奥部が変化したときも。


 何も感じなかった。


 それは、少し悔しかった。


 けれど。


 もし今日、第三地点へ行かなかったら。


 近づけばきっと強く感じる。


 その期待は、もっと長く残っていたかもしれない。


 自分が望んだ答えに近い形のまま。


 確かめずに。


 だから今日の「感じなかった」は。


 昨日の「感じた」と同じくらい大切だった。


     ◇


 夜半。


 東側奥部新反応は静かだった。


 名前のない光も移動しない。


 小空洞にも周期反応なし。


 西側補助連絡線も基準範囲。


 生活観測区画で眠るアリシアにも変化はなかった。


 今日。


 一つだけ条件を変えた。


 アリシアの位置。


 生活観測区画より近い。


 第二地点よりさらに近い。


 第三地点。


 そこで東側奥部新反応は変化した。


 けれど、アリシアは感じなかった。


 だから。


 近づけば感じる。


 近づくほど強くなる。


 その単純な説明には、初めて明確な疑問が置かれた。


 ただし。


 距離が無関係だと決まったわけでもない。


 位置。


 変化の強さ。


 継続時間。


 変化速度。


 覚醒状態。


 神器側の状態。


 まだ人間側が測れていない何か。


 候補は残っている。


 増えたものもある。


 減ったものもある。


 そして、今日はもう増やさない。


 一つだけ条件を変えたなら。


 その結果を一つのまま持ち帰る。


 次の日まで。


 次に何を変えるのかを決める前まで。


 アリシアは静かな寝息を立てていた。


 胸の奥にある六つ目の神器は、今夜も何も語らない。


 けれど。


 語らなかった時間も。


 感じなかった瞬間も。


 少しずつ。


 その正体を囲む記録の一部になり始めていた。

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