第159話 境目らしいものが見えたとしても、そこへ先に線を引いてはいけない
翌朝、生活観測区画の窓には薄い雲がかかっていた。
雨が降りそうなほど重い空ではない。昨日までの強い陽射しを少し和らげるような白い雲が東の空へ広がり、ときおり隙間から差し込む光が、庭の石畳をゆっくり明るくしたり暗くしたりしている。
アリシアは寝台の上で目を覚ますと、今日も最初に胸の奥を確かめた。
痛みなし。
苦しさなし。
冷感なし。
震えなし。
昨日の午後、東側奥部新反応の低下と近い時間に感じた冷たさは、眠っているあいだに残ることもなかった。
「今は何もなし」
誰からも聞かれていないのに口へ出す。
『朝の自己申告が完全に習慣になったわね』
枕元からノアが顔を上げた。
「悪い?」
『悪くないわ。ただ、そのうち起きた瞬間に「痛みゼロ、怖さ一、空腹七」とか言い始めないか心配してるだけ』
「空腹まで?」
『昨日あの子が食欲六とか言い始めたでしょう』
「朝ごはん六だったね」
『妙なところだけ広がるのよ』
アリシアは小さく笑いながら布団を下ろした。
机の上へ視線を向ける。
今朝は青い接近試験票がない。
代わりに、昨日一日の比較結果を簡単にまとめた紙が一枚置かれていた。
午前。
東側奥部新反応、短時間低下。
継続約九呼吸。
低下幅、小。
アリシア側、自覚反応なし。
午後。
東側奥部新反応、低下。
継続約二十六呼吸。
低下幅、午前より大。
アリシア側、胸部冷感一。
開始時刻差三呼吸以内。
復帰時刻差二呼吸以内。
さらにその下には、まだ仮説欄として扱われている一文がある。
――六つ目の神器側で自覚可能な反応が生じる条件に、奥側新反応の継続時間、低下幅、変化速度、あるいは未確認の別条件が関与する可能性。
「増えた」
『何が?』
「候補」
『昨日から増えてるでしょう』
「強さだけじゃなくて、長さと、変化速度……」
アリシアは最後の言葉で止まった。
「変化速度って何?」
『私に聞かないで』
「ノア知らない?」
『大体は分かるけど、説明役を私に押し付けるのやめなさい』
「じゃあサーラに聞く」
『それが一番よ』
紙を戻したところで、隣の寝台から子供の声が聞こえた。
「何が速い?」
「起きてたの?」
「今起きた」
子供はまだ布団へ半分包まれたまま、こちらを見ている。
「東の反応の話」
「昨日の?」
「うん。昨日、私が感じたときと感じなかったときで、東側の変わり方に違いがあったでしょう?」
「小さいと感じなかった。大きいと感じた」
「今はそう見えるところがあるんだけど、それだけじゃないかもしれないって」
「速い?」
「それも候補みたい」
子供は少し考えてから、布団を胸元まで引き上げ直した。
「急に変わる?」
「たぶん、そういう意味」
「ゆっくり変わるのと違う?」
「うん」
「じゃあ、大きくてもゆっくりなら分からないかも?」
アリシアは少し目を見開いた。
「そういう可能性もあるのかな」
『すぐ仮説を増やさない』
「分かってるよ」
子供がノアを見る。
「怒った?」
「増やしすぎって」
『違う。増やすなら記録と照らし合わせなさいって言ってるの』
「ノア、長い」
『あなたまで雑に扱わないで』
子供が笑う。
そのまま隣の寝台へ顔を向けた。
「おはよう」
顔のない存在はまだ横になっている。
胸の十一の光は、朝の明るさの中ではかなり薄かった。
しばらく待つ。
一つ。
二つ。
そのあと三つ目は来ない。
「今は二つ」
子供はそれだけを確認した。
昨日の朝三つだったことも、夜二つだったことも口には出さない。
布団から出ると、まず自分の足を確かめる。
赤みなし。
痛みなし。
数歩歩いても違和感なし。
「今日も大丈夫」
「あとでセレナに?」
「見るだけ」
「うん」
それから棚へ向かった。
木箱の前。
昨日は指一本分ほどまで蓋を持ち上げた。
今日はすぐ触れず、少し離れた場所から見る。
「開けたい?」
アリシアが尋ねる。
子供は数秒だけ考えた。
「三」
「昨日より低い」
「今は」
「怖さ?」
「一」
「かなり低いね」
「うん。でも今、開けない」
「怖くないのに?」
聞いてから、アリシア自身が少し笑う。
「昨日も同じ話したね」
「うん」
子供も笑った。
「朝は白い花見る」
木箱の横を通り過ぎ、棚の上へ手を伸ばす。
白い花。
もう花弁はほとんどなく、乾いた茎と、かつて花だった部分だけが残っている。
小皿には落ちた花弁。
隣には二枚の絵。
子供はその三つをしばらく眺めた。
「前の白い花、紙にある」
「うん」
「今の白い花、こっちにもある」
「うん」
「本物はまた変わった」
「そうだね」
「三つ違う」
「うん」
子供は新しい紙へ手を伸ばしかける。
途中で止まった。
「また描く?」
「どうしたい?」
「少し描きたい。でも毎日描いたらいっぱいになる」
「そうだね」
「じゃあ今日は描かない」
「いいの?」
「見たのは覚えてる」
「忘れたら?」
「前の二枚はある」
「今の姿は残らないかも」
子供の眉が少し下がる。
けれど、すぐには紙を取らなかった。
「……全部残さなくてもいい?」
「子供はどう思う?」
「残したいものは残したい」
「うん」
「でも、全部残そうとしたら、ずっと見て描かなきゃになる」
「そうかもね」
「疲れる」
「うん」
「じゃあ今日は、見ただけ」
「分かった」
子供は白い花から離れた。
アリシアはその背中を見ながら、机の上の比較表を思い出した。
全部を見る。
全部を残す。
全部を感じ取る。
それが必ずしも正しいわけではない。
必要なものを残すために、何をどう見るかを選ぶ。
東側の調査も、少しずつそこへ近づいているような気がした。
◇
朝食後、サーラが生活観測区画へ来た。
昨日と同じように、アリシアへ東側の現在値を直接伝えない観測を続ける予定だった。
ただし、その前に説明がある。
「昨日の結果をもう少し細かく比較しました」
「変化速度?」
アリシアがすぐ尋ねると、サーラが少し目を瞬いた。
「もう読んだんですね」
「朝の紙に書いてあった」
「では、そこから説明しましょう」
サーラは小さな紙を机へ置いた。
そこには、昨日午前と午後に起きた奥側新反応の低下が、簡単な線で描かれている。
午前の線。
緩やかに少し下がり。
短い時間だけその位置にあり。
ゆっくり戻る。
午後。
午前より急に下がり。
低い状態が長く続き。
そのあと比較的短い時間で戻っている。
「大きさだけじゃない」
アリシアが言った。
「はい」
「下がり方も違う」
「そうです」
子供も机の反対側から紙を覗いている。
「こっち坂」
「午前?」
「うん。こっちは段差」
「午後ね」
「分かりやすい表現ですね」
サーラが少し笑った。
「昨日、アリシアさんが冷感を感じた午後の変化は、午前より低下幅が大きいだけでなく、基準値から低下するまでの時間も短かったんです」
「急に変わった?」
「はい」
「じゃあ、急だから感じた?」
「まだ分かりません」
「大きいから?」
「それも候補です」
「長いから?」
「候補です」
「全部?」
「それも候補です」
アリシアが額へ手を当てる。
「全然減ってない」
「少しは減っていますよ」
「どこが?」
「『東側が変われば必ず感じる』という単純な形は、昨日の午前でかなり使いにくくなりました」
「あ」
「だから今は、何らかの条件を満たした変化だけが対応する可能性を見ています」
「その条件が分からない」
「そうです」
アリシアは紙を見つめた。
「今日は何を見るの?」
「基本方針は昨日と同じです。ただし、今回はアリシアさんの自覚反応だけでなく、東側変化の四項目を分けて比較します」
「四?」
「低下幅、継続時間、低下開始時の変化速度、復帰時の変化速度です」
「……多い」
「全部をアリシアさんが覚える必要はありません」
「よかった」
『即答ね』
「だって覚えられない」
サーラは口元を少し緩めた。
「もう一つ、今日は少し重要な点があります」
「何?」
「第三地点へ進むかどうかについてです」
アリシアの姿勢が変わる。
「行ける?」
「まだ決めていません」
「……うん」
分かっていた。
それでも肩が少し落ちる。
「今日の自然変動から得られる情報が十分なら、無理に位置を変える必要はありません」
「自然に動かなかったら?」
「第三地点を使った位置条件の試験に価値が出る可能性があります」
「つまり」
アリシアは少し考える。
「第三地点へ行く理由を、『行きたいから』じゃなくて、『位置を変えないと取れない情報があるから』にする?」
「そうです」
アリシアの胸が少しだけ動いた。
それは、昨日まで何度も聞いてきたことだった。
自分が行きたい。
それは大事。
けれど、それだけで試験条件は決めない。
「私の行きたいは?」
「消えません」
「記録にも?」
「もちろん」
「今は八」
「昨日から変わりませんね」
「今日の八」
サーラが少し笑う。
「はい。今日の八として残します」
「怖さ二」
「それも」
「不満……今三」
『ちゃっかり全部残すのね』
「だって私の状態でしょ」
『昨日より図太くなったわね』
「褒めてる?」
『半分』
子供が笑った。
◇
午前の観測は、昨日以上に何も起きなかった。
アリシアは生活観測区画で普通に過ごす。
朝の食器を片付けるのを少し手伝い。
練習帳を読み返し。
子供と、白い花を今日は描かないと決めたことについて少し話す。
ノアは窓辺で眠る。
顔のない存在も寝台から動かない。
東側の状況は、アリシアには伝えられない。
だから、ときどき気になる。
「今、東考えた」
アリシアが申告する。
治療教師が時刻を取る。
「何を考えました?」
「何も起きてなかったら、今日第三行けるかなって」
『結局そこなのね』
「しょうがないじゃん」
「期待度は?」
治療教師が尋ねる。
「第三へ行ける期待?」
「はい」
「六」
「さっきの参加意思八とは別?」
「別」
「なるほど」
『また項目増やしてる』
「私は悪くない」
そのまま午前が過ぎる。
胸部反応なし。
冷感なし。
震えなし。
方向感覚として確信できるものもない。
昼前になり、サーラが一度戻ってきた。
「午前分を区切ります」
アリシアはすぐ顔を上げた。
「東は?」
「大きな変化なしです」
「本当に何も?」
「奥側新反応に、基準範囲を超える明確な低下はありませんでした」
「じゃあ私は感じなくて合ってた?」
言ってから、自分で眉を寄せる。
「違う。何も起きてないなら感じないのは当然?」
「それもまだ断言はしませんが」
「……もう」
サーラが少し笑う。
「少なくとも今日は、午前中の時間帯に東側奥部の明確な変化も、アリシアさん側の明確な反応も確認されなかった。比較上は『双方なし』です」
「それも記録」
「はい」
「昨日は東あり、私なし」
「はい」
「昨日午後は東あり、私あり」
「はい」
「今日は東なし、私なし」
「そうです」
アリシアは指を一本ずつ立てそうになったが、途中でやめた。
「あと足りないのは」
『言わない方がいいんじゃない?』
ノアが止める。
「何で?」
『東なし、あなたあり、でしょう』
アリシアが黙った。
「……それ、嫌」
『だから言わなかったのに』
サーラは否定しなかった。
「もし起きたなら、それも重要です」
「東が何もしてないのに私だけ冷たくなる」
「はい」
「それが何回もあったら?」
「奥側新反応だけが原因ではない可能性が上がります」
「……嫌だな」
「嫌でも見ますか?」
昨日も似た問いを受けた。
アリシアは数秒考えてから頷く。
「見る」
「分かりました」
「でも起きてほしくはない」
「それも記録しておきます」
「また?」
「今のアリシアさんの気持ちなので」
少し離れたところで聞いていた子供が、ぽつりと言った。
「箱も、怖いの入ってほしくない。でも開けたら見る」
アリシアは子供を見る。
「うん」
「入ってほしくないって思ってても、中身変わらない」
「そうだね」
「東も?」
「私がそう思っても変わらないね」
「じゃあ見る」
「うん」
アリシアは胸へ手を置いた。
怖さは二。
嫌さは四くらい。
それでも。
知りたい気持ちは九のままだった。
◇
昼食のあと。
生活観測区画で、小さな変化があった。
東側ではない。
顔のない存在だった。
寝台の上で横になっていた人影が、ゆっくり上体を起こす。
子供は食後の淡い黄色の果実を一つ持っていたが、その手を止めた。
声は出さない。
人影が立つ。
一歩。
二歩。
三歩。
昨日は六歩だった。
けれど子供は比較を口へ出さない。
四歩。
五歩。
六歩。
そこで一度止まる。
窓まではまだ距離がある。
アリシアは子供を見る。
子供の視線は、人影の足元から胸の十一の光へ上がっていた。
今、明るいのは二つ。
数呼吸。
人影がさらに進む。
七歩。
止まる。
そして、その場へ座った。
「今日は七」
子供が座ったあとに言った。
「うん」
「昨日六」
「うん」
「一つ多い」
「そうだね」
「嬉しい」
「うん」
「でも、いい日?」
子供は自分で首を横へ振った。
「七歩歩いた日」
「うん」
「嬉しいもある」
「うん」
胸の十一の光。
座ったあと、一つが少し弱くなる。
「今は一つ明るい」
子供は少しだけ眉を寄せる。
「歩いたの七。光は一つ」
「うん」
「歩いたのに減った」
アリシアは答えず待つ。
子供もすぐに意味を足さなかった。
「……両方ある」
「うん」
「歩いたから光増えるじゃない」
「そうだね」
「昨日も歩いたあと変わったけど、同じじゃない」
「うん」
子供は少し考える。
「六つ目みたい」
「どこが?」
「東動いたら必ず冷たいじゃない」
「ああ」
「一緒に起きるときある。でも毎回じゃない」
「そうだね」
「だから、一緒に起きたから同じって決めない」
「うん」
子供は人影を見た。
「でも、同じときあったのも消さない」
アリシアは少しだけ笑った。
「うん」
◇
午後二時を少し過ぎた頃。
アリシアは練習帳へ、昨日までの冷感記録を自分なりに並べていた。
一回目。
生活観測区画。
冷たい震え。
東寄り。
二回目。
夜。
生活観測区画。
同型。
三回目。
第二地点。
冷感一。
四回目。
昨日午後。
生活観測区画。
冷感一。
その間に。
東側で変化したが、アリシアが何も感じなかった一回。
紙へ並べていると、どれも同じ「冷たい」ではないことが分かる。
「これ、最初の二回は震えもあった」
『そうね』
「第二地点は冷たいだけ」
『ええ』
「昨日午後も冷たいだけ」
『それが?』
「同じにしていいのかな」
ノアが少し目を細める。
『ようやく気になったの?』
「ノア気づいてた?」
『私は記録係じゃないもの』
「ずるい」
『それでも、最初から完全に同じとは思ってなかったわよ』
アリシアは記録を見直す。
「同型って言ってたけど」
『大まかにはでしょう』
「違い、残した方がいいよね」
『もう残ってるんじゃない?』
「学院側には」
『なら、自分の記録にも書けば?』
「うん」
アリシアが筆を取る。
最初の二回。
冷感+小さな震え。
その後。
冷感のみ。
もしかすると位置。
もしかすると変化の種類。
もしかすると、その日の身体状態。
書きかけて。
やめる。
「候補増やしすぎ?」
『仮説欄ならいいんじゃない?』
「全部?」
『全部を同じ重さにしなければね』
「重さ?」
『思いついただけのものと、記録から少し支持されてるものを同列にしないってこと』
「……難しい」
『今さらでしょう』
そのときだった。
胸の奥に、何かが触れた。
「……ん?」
昨日までの冷たさとは、少し違った。
冷たい。
確かに冷たい。
けれど、細い。
広がらない。
「来た?」
自分でも迷う声だった。
治療教師がすぐ顔を上げる。
「何かありますか?」
「待って」
アリシアは筆を置き、胸へ手を当てる。
「冷たい……と思う」
「強さは?」
「〇・五」
「痛み」
「ゼロ」
「苦しさ」
「ゼロ」
「震え」
「ない」
「方向」
目を閉じる。
今までのように「東」とすぐには来ない。
「……分からない」
「東寄りとも感じませんか?」
「今は、分からない」
「怖さは?」
「二」
「開始時刻を取ります」
記録。
アリシアは呼吸を続ける。
冷感は〇・五。
弱い。
十呼吸。
十五。
消えそうで消えない。
「まだある」
二十。
「少し広がった?」
「強くなりましたか?」
「強さは……〇・五のまま。でも点じゃなくなった感じ」
自分でも説明しにくい。
「位置は胸中央?」
「うん」
さらに数呼吸。
そこで。
冷たさが一段だけ強くなる。
「一になった」
「時刻」
記録。
「方向は?」
アリシアは目を閉じたまま待つ。
ほんの一瞬。
「……東、かも」
「確信度は?」
「低い。三くらい」
「分かりました」
冷感一は十呼吸ほど続いたあと、また〇・五へ落ちる。
そして消えた。
「ゼロ」
「終了時刻」
治療教師が通信具へ手を伸ばした。
アリシアの胸が少し速くなる。
昨日の午前に感じなかった記録。
今度は逆かもしれない。
東側に何も起きていないのに、自分だけ感じた。
嫌だと、ついさっき言ったばかりだった。
「怖さ三」
「結果待ちですね」
「うん」
ノアが足元へ来る。
『外れても死なないわよ』
「分かってる」
『今までの四回も消えない』
「分かってる」
『それでも嫌』
「うん」
子供もこちらを見ている。
「嫌五?」
「今は四」
「朝より下?」
「うん」
「何で?」
「一回違っても、もう全部違うって決めないって分かったから」
子供は頷いた。
「でも嫌」
「うん」
通信具が光った。
『中継観測室です』
サーラの声。
「照合お願いします」
『該当時間帯、奥側新反応に変化を確認しています』
アリシアの肩から、力が少し抜けた。
「どんな?」
『今回は少し複雑です』
「複雑?」
『低下開始そのものは、アリシアさんの最初の〇・五申告より約十二呼吸前です。ただし、非常に緩やかな低下でした』
アリシアが目を瞬く。
「十二呼吸前から?」
『はい。その後、低下速度が途中で上昇しています』
「急になった?」
『そうです。その時刻が、アリシアさんの冷感が一へ上がった時刻と二呼吸以内で一致しています』
部屋が静かになった。
「最初、私は分からなかった?」
『奥側側では既に緩やかな変化が始まっていました』
「私が〇・五感じたときは?」
『低下開始から約十二呼吸後。まだ変化速度は低い状態です』
「それから速くなって、私も一になった」
『はい』
「戻ったのは?」
『奥側新反応が基準へ戻り始めた時刻と、アリシアさん側の冷感低下も近いです。完全復帰差は四呼吸以内』
「低下幅は?」
『昨日午後より小さいです』
「長さ?」
『全体では昨日午後より長いです。ただし、急な低下部分だけを見ると短い』
アリシアは混乱した。
「……大きくない。でも感じた」
『はい』
「長いから?」
『可能性はあります』
「途中で速くなったから?」
『それも候補です』
「最初ゆっくりのとき、私はほぼ分からなかった」
『最初の十二呼吸は申告なしです』
「〇・五になったあとも、まだゆっくり?」
『はい』
「それから急に下がったとき一になった」
『記録上はそうです』
アリシアは自分の練習帳を見る。
今朝。
大きさ。
長さ。
変化速度。
どれが条件なのか分からない。
そして、午後になった今。
少なくとも、「大きさだけ」では説明しにくい例が増えた。
「小空洞は?」
『変化なし』
「名前のない光」
『位置変化なし。輪郭光量も基準範囲』
「西側」
『対応変化なしです』
「また奥側だけ」
『現時点では』
アリシアは胸から手を離した。
「……第三地点」
サーラが通信の向こうで少し間を置く。
『今、この結果だけで行くことは決めませんよ』
「分かってる」
『かなり行きたそうな声ですが』
「今、九」
『上がりましたね』
「だって、距離じゃないなら、位置変えたら何が変わるかもっと見たい」
『それは、位置条件を試す理由にはなり得ます』
「じゃあ」
『ただし今日ではありません』
「……うん」
がっかり四。
でも。
以前ほど「また止められた」とは感じなかった。
今日だけで、すでに新しい条件が一つ取れた。
◇
午後の照合会議には、アリシアも途中から参加した。
生活観測区画近くの小会議室。
東側の記録とアリシア側の記録が、机いっぱいに並んでいる。
若い観測員は、今日午後の波形を見たまま難しい顔をしていた。
「閾値、強さだけじゃなさそうですね」
「そうですね」
サーラが答える。
「昨日午前より低下幅は大きいですが、昨日午後より小さい。それでもアリシアさん側には反応が出ています」
「継続時間が長いから?」
「ありえます」
「でも最初十二呼吸は感じてない」
「はい」
「途中から〇・五」
「はい」
「急に下がったところで一」
「はい」
若い観測員が紙へ指を置く。
「やっぱり変化速度?」
「今日の一例だけなら、対応しているように見えます」
「でもそれで決めない」
「はい」
「……言う前に分かりました」
「成長しましたね」
「普通に褒められた」
副学院長が呆れたように言う。
「そこを喜ぶ会議じゃない」
「すみません」
少しだけ空気が緩む。
学院長が記録を見ながら口を開いた。
「重要なのは、今まで考えていた『一定の強さを超えたら感じる』という単純な線を、まだ引けないことだ」
アリシアが頷く。
「昨日の午前が小さかったから、ここより大きければ感じるって思いそうだった」
「そうだ」
「でも今日の午後は、昨日午後ほど大きくないのに感じた」
「うん」
「長さかもしれない」
「うん」
「速さかもしれない」
「そうだ」
「組み合わせも」
「ある」
「……線引けない」
副学院長が少し笑う。
「まだな」
「でも、どこかには条件ある?」
魔導具教師が答える。
「あるかもしれない。あるいは、人間側が今測っている値とは別のものに反応している可能性もある」
「別のもの?」
「奥側新反応を、今は一つの数値として見ていますが、内部では複数の魔力成分が動いている可能性もあります」
「私が感じてるのは、その中の何か?」
「そういう可能性もあります」
「じゃあ、今の測定もっと細かくできる?」
「できます。ただし装置を追加すると、奥側へこちらから別の魔力を当てる必要が出る」
「刺激になる?」
「微弱ですが」
アリシアはすぐに答えなかった。
人間側から刺激する。
第155話までにも何度か行った。
ただし一日一条件。
自然発生と人為的変化を混ぜない。
「今日はやらない?」
「やらない」
学院長が即答する。
「今日の自然変動記録だけで十分だ」
「うん」
「明日以降の候補として、測定精度を上げるか、アリシアの位置を第三地点へ変えるか。その二つが出ている」
「両方一緒は?」
「やらない」
アリシアもすぐ頷いた。
「一日一条件」
「そうだ」
「じゃあ、どっち先?」
会議室に少し沈黙が落ちた。
サーラが今日の記録を見る。
「私は、第三地点を先にしてもいいと思います」
アリシアの顔が上がった。
「本当?」
「ただし、条件があります」
「何?」
「東側の測定方法は今のまま変えないこと。アリシアさん自身の位置だけを変える」
「位置だけ」
「はい」
「第三地点へ行って、自然に何か起きるか待つ?」
「短時間の定点観測です」
「何も起きなかったら?」
「それも記録」
「第二地点と比べる?」
「はい」
副学院長が尋ねる。
「理由は?」
「現時点で、アリシアさんの反応と奥側新反応の時間的対応は複数回確認できています。一方、距離との関係は第二地点一回と、生活観測区画での複数回しかありません」
「位置条件が粗い」
「そうです」
「第三地点を入れる価値がある」
「あります」
学院長がアリシアを見る。
「行きたい?」
「九」
「怖さ」
「今三」
「明日の朝変わるかもしれない」
「うん」
「だから今、実施決定にはしない」
「うん」
返事はできた。
けれど表情には期待が出ていたらしい。
『顔が完全に明日行く顔よ』
「まだ決まってないの分かってる」
『分かってる顔じゃない』
「知ってても嬉しいの」
アリシアは少し笑った。
「候補になっただけで嬉しい八」
若い観測員が思わず吹き出す。
「嬉しいまで数字になるんですね」
「最近何でも」
「便利そう」
安全管理担当が真顔で言った。
「便利ですが、数値が高いから正しい判断とは限りません」
「はい」
「すみません」
また小さな笑いが広がった。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は木箱を開けてはいなかった。
代わりに、その横へ座って蓋へ手を置いている。
「会議終わった?」
「うん」
「第三?」
アリシアは少し笑う。
「明日、行く候補になった」
「候補」
「朝の私の気持ちと身体を確認して、東側も問題なければ」
「嬉しい?」
「八」
「行きたい?」
「九」
「怖い?」
「三」
子供が少し考える。
「嬉しい八と行きたい九、違う?」
「違う」
「どう違う?」
「第三地点へ行きたい気持ちは九。でも、行けるかもしれないって決まったことが嬉しい八」
「……難しい」
「私も言っててちょっと分からなくなった」
子供が笑う。
「数字いっぱい」
「増やしすぎたかも」
『今頃気づいたの?』
「必要なときだけにする」
アリシアは子供の隣へ座った。
「箱は?」
「今日はまだ開けてない」
「開けたい?」
「今四」
「怖さ?」
「一」
「どうする?」
子供は蓋へ置いていた手を見る。
「今日は開けないかも」
「どうして?」
「朝から触りたいあった。でも白い花見て、顔のない人歩いて、アリシアの東の話聞いた」
「うん」
「今、箱もしたらいっぱい」
アリシアは少し目を見開く。
「疲れた?」
「少し」
「何点?」
「二」
二人で顔を見合わせる。
そして同時に笑った。
「また数字」
「今のはアリシアが聞いた」
「そうだった」
子供は蓋から手を離す。
「今日は開けない」
「開けたい四だけど?」
「うん」
「怖さ一だけど?」
「うん」
「明日開ける?」
「明日の私に聞く」
アリシアが一瞬黙った。
「それ、今朝ノアに言われた」
『ほら、私が賢いでしょう』
「ノア得意そう」
「何て?」
「私のおかげって」
『そこまで言ってないわ』
子供は笑いながら木箱から離れた。
◇
夕方。
顔のない存在は七歩目の位置から自分で寝台へ戻った。
途中で一度止まったが、子供は声を出さなかった。
寝台へ横になったあと。
「戻った」
それだけ言う。
今日七歩進んだことと。
戻ったこと。
どちらか一方を「前進」「後退」という言葉にはしない。
胸の十一の光は、夕方には再び二つ明るくなっていた。
「昼一つ」
「うん」
「今二つ」
「うん」
「戻ったから増えた?」
子供が言い。
すぐに自分から首を横へ振る。
「分からない」
「うん」
「戻ったあと二つ」
「そうだね」
「それだけ」
子供は少し満足そうだった。
◇
夜。
アリシアは今日も練習帳を開いた。
最初に書いたのは、明日第三地点へ行けるかもしれないことではない。
午前。
アリシア側反応なし。
東側奥部、明確な変化なし。
双方なし。
午後。
胸部冷感。
最初〇・五。
途中から一。
方向感覚は途中から東寄り、確信度低。
奥側新反応は、冷感自覚より前から緩やかに低下。
その後、低下速度が上がった時刻と冷感一への上昇が近い。
低下幅は昨日午後より小さい。
全体継続時間は長い。
小空洞、名前のない光、西側補助連絡線に対応変化なし。
その下へ。
『大きい変化だけを感じる、とはまだ言えない』
さらに。
『長いから感じる、ともまだ言えない』
『急に変わったから感じる、もまだ仮説』
アリシアは筆を止めた。
「全部まだ言えない」
『いいじゃない』
「何が?」
『少なくとも、前みたいに一個見つけてすぐ名前を付けようとしてない』
「うん」
『不満?』
「少し」
『でも?』
「明日第三地点行けるかもしれない」
『そっちに全部持っていかれたわね』
アリシアは笑う。
少し考え。
最後にもう一行書いた。
『境目があるように見えても、どこが境目かを先に決めない。感じた側と感じなかった側を、もう少し並べる。』
『研究者』
「違う」
『自分のこと調べてる人』
「それ昨日私が言ったやつ」
『覚えてるわよ』
アリシアは練習帳を閉じる。
「ノア」
『何?』
「明日、第三行きたい」
『知ってる』
「でも、朝になって嫌だったら行かない」
『ええ』
「怖さ六じゃなくても」
『ええ』
「東が静かでも?」
『そこは明日の試験条件次第でしょう』
「そうだった」
『全部自分だけで決める話にしない』
「うん」
ノアがアリシアの膝へ飛び乗る。
『でも、自分の意思を抜くのも駄目』
「うん」
アリシアは黒い背中をゆっくり撫でた。
窓の外では、昼まで薄く広がっていた雲がだいぶ消えていた。
月明かりが庭へ落ちている。
明日。
第三地点。
第二地点より、さらに一つ奥。
行けば何か起きるとは限らない。
第二地点より強く感じるとも限らない。
生活観測区画でも反応している以上、距離が主要条件ではない可能性も残っている。
それでも。
位置を一つ変えた記録は、まだ足りない。
第三地点へ進むことには、今日までとは少し違う理由が生まれた。
知りたいから。
行きたいから。
それだけではなく。
同じ測定方法のまま。
東側へ加える人為的刺激も変えず。
アリシア自身の位置だけを変える。
そうすれば、少なくとも「位置」という一つの条件を、今までより少し細かく比較できる。
そのための第三地点だった。
◇
子供は、寝台の中からまだ起きていた。
「アリシア」
「うん」
「明日第三?」
「行けるかもしれない」
「今日決めない?」
「朝の私に聞く」
「同じ」
「箱と?」
「うん」
「子供は明日箱開ける?」
「明日の私に聞く」
「同じだね」
子供は少し笑った。
「でもアリシア、明日行きたい九」
「今はね」
「朝十かも」
「上がるの?」
「一かも」
「急に下がるね」
「分からない」
「そうだね」
少し沈黙。
「アリシア」
「うん」
「東、どこから感じるか分かった?」
「まだ」
「昨日、小さい感じなかった」
「うん」
「今日、小さめでも感じた」
「うん」
「線、動いた?」
「線をまだ引かないことになった」
子供は少し考える。
「線ない?」
「あるかもしれない。でも今の私たちが、ここって決めてない」
「見つける?」
「見つかるかもしれない」
「見つからないかも?」
「うん」
「じゃあ、何見る?」
アリシアは少し考えた。
「どんなとき感じて、どんなとき感じないか」
「全部?」
「できる範囲で」
「白い花みたい」
「どうして?」
「毎日全部描かなくても、前と今の違う絵ある」
「ああ」
「見たいところ残す」
「うん」
「箱も全部一回で見なくていい」
「うん」
「東も?」
「うん」
子供は満足したように布団を上げる。
「じゃあ明日、一個」
「一個?」
「第三の場所」
「そうだね」
「いっぱい変えない」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
子供が目を閉じた。
隣の寝台では、顔のない存在の十一の光のうち二つが淡く残っている。
今夜も。
アリシアはそれを数え直さなかった。
◇
夜半。
東側奥部新反応には、小さな揺れが一度だけ出た。
基準値からの低下はわずか。
継続時間も短い。
低下速度も緩やかだった。
生活観測区画。
アリシアはすでに眠っていた。
胸部冷感の申告はない。
睡眠中の身体記録にも、目立った変化は出なかった。
翌朝まで、その事実は本人へ伝えられない。
それもまた。
感じなかった一件として記録へ残される。
これで。
東側奥部に変化があり、アリシアが自覚した例。
東側奥部に変化があり、アリシアが自覚しなかった例。
双方に大きな変化がなかった時間。
緩やかな変化の途中から、冷感が現れた例。
少しずつ違う条件が並び始めた。
けれど、どこからが感じる側で。
どこまでが感じない側なのか。
その間へ、まだ明確な線は引かれていない。
線らしいものが見えた瞬間ほど。
人は、そこへ名前を置きたくなる。
ここから上なら反応する。
ここから下なら反応しない。
これだけ近づけば分かる。
この距離なら安全。
この数なら良い。
けれど。
昨日の小さな変化を感じなかったアリシアは。
今日、それより単純には大きくない変化を感じた。
顔のない存在は七歩進んでも、胸の明るい光が一つへ減る時間があった。
子供は怖さ一でも、木箱を開けない日を選んだ。
数字も。
距離も。
強さも。
一つだけでは、人の行動や神器の性質を決める線にはならない。
だから。
明日。
もしアリシアが東側第三地点へ進むことを選べたなら。
その場所で何かが起きるかどうかだけを見る。
何か起きれば、近いからだと決めない。
何も起きなくても、行った意味がなかったとは決めない。
位置という条件を一つだけ変え。
そこで見えたものを。
これまで積み上げた記録の隣へ置く。
境目を作るためではなく。
本当に境目があるのかを確かめるために。
その夜、アリシアは第三地点へ行く夢を見ることもなく、静かに眠り続けていた。




