第158話 感じ取れなかった変化があるからといって、感じ取れたものまで間違いになるわけではない
翌朝の生活観測区画には、前日のような緊張感はなかった。
東側地下区画へ向かう準備もなければ、青い確認票も机には置かれていない。窓の外には夏へ近づいた明るい朝が広がり、庭の植え込みでは細長い葉が風に揺れ、その向こうを小さな鳥が一羽だけ横切っていった。
アリシアは寝台の上で身体を起こし、胸へ手を当てる。
痛みはない。
苦しさもない。
冷たさも震えもなく、六つ目の神器は普段通り静かだった。
昨日、第二地点へ戻っても何も起こらなかった。
そのあと生活観測区画で子供と絵を描いていたとき、突然胸部冷感が出た。
照合すると、その少し前から東側奥部新反応が短時間低下していた。
距離が近ければ必ず反応する、という単純な見方は弱くなった。
代わりに、向こうで起きたことを六つ目が受け取っているのではないかという仮説が、ほんの少しだけ重くなった。
それでも。
「……今日、第三行かないんだよね」
『朝一番からまだ言ってるの?』
枕元にいたノアが呆れたように片目を開いた。
「確認しただけ」
『昨日の夜も確認したでしょう』
「寝たら変わるかもしれない」
『変わった?』
「第三へ行きたい、八」
『昨日の夜と同じじゃない』
「今日の八」
『便利に使い始めたわね、その言い方』
アリシアは少しだけ笑った。
けれど、本当にそうだった。
昨日の八と、今日の八は同じ数字でも同じ気持ちではない。
昨日は、第二地点で反応しなかった悔しさが強く残っていた。
今朝は、少し落ち着いている。
第三地点へ行きたい。
それ自体は変わらない。
でも昨日の午後に得られた記録を、もう少し見たいとも思っていた。
「知りたい九」
『そっちは下がらないのね』
「うん」
『怖さ』
「二」
『がっかり』
「昨日のは……今なら三くらい」
『随分下がったじゃない』
「寝たから」
『睡眠は大事ね』
「ノアも寝すぎだけど」
『猫は必要なだけ寝ているのよ』
「誰が決めたの?」
『私』
「ずるい」
そのやり取りが聞こえたのか、隣の寝台で布が少し動いた。
「……鳥いる?」
子供の第一声だった。
「さっき一羽飛んでいったよ」
「今は?」
二人で窓を見る。
鳥の姿はない。
「今は見えない」
「声は?」
少し待つ。
遠くから、小さな鳴き声が一度だけ届いた。
「あ」
「聞こえたね」
「見えない。でも声ある」
「うん」
子供は少し眠そうな目のまま、窓を眺めた。
「同じ鳥?」
「分からない」
「じゃあ、今聞こえた鳥」
「そうだね」
それ以上、鳥の姿を探そうとはしない。
次に顔のない存在へ向き直った。
「おはよう」
胸の十一の光。
すぐには変化なし。
子供は待つ。
一つ。
今日は比較的早く明るくなる。
さらに二つ目。
少し時間を置き、三つ目。
「今は三つ」
子供はそれだけを言った。
昨日の夜は一つだった。
けれど、「増えた」と評価する言葉は加えない。
少しして寝台を降りた子供は、自分の足裏を確認してから棚へ向かった。
白い花。
木箱。
二枚の絵。
今日はどれへ手を伸ばすのかと見ていると、子供はその全部の前を一度通り過ぎた。
「何もしない?」
アリシアが聞く。
「今は」
「気にならない?」
「気になる」
「箱は?」
「開けたい三」
「白い花は?」
「見たい四」
「絵は?」
「あとで」
「全部あるんだ」
「うん。でも朝ごはん六」
アリシアが思わず吹き出した。
『ついに食欲まで数字になったわよ』
「ノア何て?」
「朝ごはんが一番強いって」
『それは事実ね』
子供は楽しそうに笑いながら食卓へ向かった。
◇
朝食後。
学院長は昨日と同じように生活観測区画の扉の外へ来た。
ただし今日は、地下へ向かうためではない。
「今日の方針を伝える」
扉越しの声に、アリシアは椅子へ座り直した。
「第三地点?」
「行かない」
「やっぱり」
「不満か?」
「少し」
「数値」
「三」
「何の数値だ」
「行けない不満」
扉の向こうで学院長が少し笑う。
「便利になってきたな」
「昨日、記録項目いっぱい増えたから」
「今日も必要なら増やす」
『際限がないわね』
学院長は少し間を置いてから、本題へ入った。
「昨日、生活観測区画にいるアリシアへ冷感が出た時間帯と、東側奥部新反応の低下が重なった」
「うん」
「今日は、同じ方法でもう少し記録を取る」
「東の今の値、私には言わない?」
「そうする」
「私が反応したら照合?」
「ああ」
「東が動いても、私が何も感じなかったときは?」
学院長はすぐに答えた。
「それも照合する」
アリシアは少しだけ目を瞬いた。
「私が何も言わなくても?」
「もちろんだ」
「どうやって?」
「東側班が全変化を独立して記録する。アリシアにはリアルタイムで知らせない。時間帯を分けてあとから重ねる」
「じゃあ……」
少し考える。
「東で十回変わって、私が一回しか感じなかったら、それも分かる?」
「分かる」
胸の奥が少しだけ緊張した。
「それ、ちょっと怖い」
「何が?」
「全然感じられてなかったら」
学院長は、すぐに安心させるようなことを言わなかった。
「そういう結果になる可能性はある」
「うん」
「嫌か?」
「嫌」
「それでもやる?」
アリシアは少し考えた。
六つ目が東側の変化を受け取っている。
そんな仮説に期待している自分がいる。
昨日の結果は、その期待に少し近かった。
だからこそ、反対の記録を見るのは怖い。
東が動いたのに、自分は何も感じない。
そんなことが何度もあれば。
昨日の冷たさも、ただの偶然だったように見えてしまうかもしれない。
「……やる」
「理由は?」
「感じたときだけ比べたら、ずるいから」
言ってから、自分の言葉を確かめる。
「冷たくなったときだけ『東も動いた』って見つけても、東が動いたのに私が何も感じてない時間を見なかったら、本当に対応してるのか分からない」
「そうだ」
「嫌な方も見る」
「うん」
「でも、もしいっぱい外れてたら、がっかりする」
「それも記録する」
「また?」
「大事だろ」
『そのうち「がっかり推移表」ができるわよ』
「嫌すぎる」
子供が食卓の向こうからこちらを見る。
「がっかりも残す?」
「うん」
「消したい?」
アリシアは少し考えた。
「そのときは消したいと思うかも」
「でも残す?」
「たぶん」
「何で?」
「本当にそう思ったなら」
子供は少し頷く。
「昨日九だった」
「今朝三」
「減ったのも残る」
「うん」
「じゃあ、がっかりしてもずっと九じゃない」
「そうだね」
その言葉で、少しだけ肩の力が抜けた。
◇
午前の生活観測区画は、意外なほど普段通りだった。
観測中だからといって、アリシアを椅子へ固定することはしない。
日常状態で起きる反応を見たい以上、できる範囲で普段と同じように過ごす。
東側の情報は伝えない。
壁際には治療教師。
扉の外に学院長。
別室でサーラが東側との時刻同期を確認している。
アリシア自身は、昨日途中になった絵を子供へ見せていた。
「これ、やっぱり魚」
「葉っぱ」
「ここ尾びれ」
「葉っぱの先」
「目ある」
「それは間違えて点打っただけ」
『魚でいいじゃない』
「ノアまで敵」
『芸術に正解はないわよ』
「そういう話じゃない」
子供が紙を回して横から見る。
「こっち向きなら鳥」
「どんどん違うものになる」
「残す?」
アリシアは少し迷い、頷いた。
「残す」
「失敗なのに?」
「失敗って決めた?」
「アリシアが葉っぱ描きたかった」
「うん」
「葉っぱには見えない」
「うん」
「じゃあ、葉っぱ描こうとして魚と鳥になった絵」
『ずいぶん長い題名ね』
「正式名称みたい」
アリシアは笑いながら紙の端へ日付を書いた。
そうしている間。
胸には何も起こらない。
神器も静か。
東側のことも、最初ほど強く意識しなくなっていた。
昼前になり。
子供が棚の白い花を見に行き。
アリシアは水を飲む。
ノアは窓辺で眠り始めた。
変化のない時間が続く。
やがて、サーラが生活観測区画へ戻ってきた。
「午前分、いったん区切ります」
アリシアの手が止まった。
「何かあった?」
「今から照合結果を共有します」
「私、何も感じてない」
「はい」
その一言だけで、胸が少し重くなる。
「東、動いた?」
サーラは記録板を開いた。
「一度だけ、奥側新反応に短い低下がありました」
アリシアは黙った。
分かっていた。
こういう可能性も見るための観測だ。
それでも。
「いつ?」
「午前十時二十三分頃。継続は九呼吸程度です」
「私、そのとき何してた?」
別記録を確認する。
「子供さんと絵を見ていました」
「胸、何もなかった」
「申告なしです」
「私、気づかなかっただけ?」
「それは判断できません」
「本当はあったけど?」
「微弱すぎて自覚しなかった可能性もあります。そもそも神器側には何も起きていなかった可能性もあります」
アリシアは少し視線を落とした。
「昨日は分かったのに」
「はい」
「今日は東が動いたのに、分からなかった」
「今回の記録上は、そうです」
思っていたより嫌だった。
胸の奥に、小さな穴が開いたような感覚。
「がっかり……六」
自分から申告した。
サーラが記録する。
「怖さは?」
「三」
「何が怖い?」
アリシアは少し考えた。
「昨日のが偶然かもしれないって思った」
「うん」
「六つ目と東が本当は関係ないかもしれない」
「そう思いましたか」
「少し」
子供が棚の前から戻ってきた。
「一回感じなかったから?」
「うん」
「前は三回感じた?」
「近い時間で起きたのは三回」
「じゃあ三回消えた?」
アリシアはすぐに顔を上げた。
「消えてない」
「今日一回増えた」
「うん」
「感じなかった一回」
「……うん」
子供は少し考える。
「じゃあ、三回感じた。一回感じなかった」
「そうなるね」
「どっちが本当?」
「どっちも本当」
「じゃあ、偶然って決まった?」
「決まってない」
「関係あるも?」
「決まってない」
「増えた」
アリシアは苦笑した。
「増えたね」
『都合の悪い記録も一個増えたわけね』
「ノア言い方」
『でも大事でしょう』
「……うん」
ノアは窓辺から降り、アリシアの椅子の近くへ来た。
『感じ取れなかった一回があるからって、感じた三回を捨てる必要はないわ』
「うん」
『逆に三回感じたからって、今回を無視したら駄目』
「分かってる」
『なら今は、それでいいんじゃない?』
アリシアは少しだけ胸へ手を置いた。
何もない。
「がっかり、五」
「減った」
子供が言う。
「少し」
◇
午前の記録は、そのまま東側中継観測室へ送られた。
若い観測員は二種類の記録を並べながら、少し難しい顔をしていた。
「感じなかった」
「はい」
サーラが答える。
「これ、感知仮説には悪い材料?」
「単純な全件感知という仮説には合いません」
「全件感知?」
「東側奥部の変化を六つ目が必ず全て感知する、という形です」
「今日一回外れた」
「はい」
「じゃあ消す?」
「少なくとも『必ず全て』は使いにくくなります」
「でも昨日のは?」
「残ります」
「三回重なったのも」
「残ります」
若い観測員は午前中の奥側反応波形を拡大した。
「今日の低下、短いですね」
「九呼吸程度です」
「昨日アリシアさんが感じたときは?」
別紙を確認する。
「生活観測区画で出たものは、奥側低下が二十呼吸前後。第二地点で出たものも、それよりやや短いですが今日より長いです」
「強さは?」
「今日の午前変化は、低下幅も小さい」
若い観測員の目が少し動いた。
「……大きさ?」
「何がです?」
「六つ目が全部拾うんじゃなくて、ある程度大きい変化だけ拾う?」
「仮説にはできます」
「閾値?」
「その言葉を使うなら、まだ仮の閾値です」
「長さかもしれない」
「はい」
「強さかもしれない」
「はい」
「その両方」
「ありえます」
「別の条件」
「もちろん」
若い観測員は頭を掻いた。
「でも、今回感じなかったから少し絞れましたね」
「どういう意味ですか?」
「何でも全部感じる、は弱くなった」
「はい」
「もし感知なら、選ばれる条件があるかもしれない」
「そうですね」
「昨日の三回と、今日の一回を比べる」
「それが次です」
サーラは四つの波形を机へ並べた。
感じた三回。
感じなかった一回。
初めて、「対応あり」だけでなく「対応なし」を比較できる。
「これ、かなり大事じゃないですか?」
「大事です」
「また即答」
「都合の悪い記録ほど、仮説を整えるのに役立つことがあります」
若い観測員は少し笑った。
「アリシアさんには、今それ言わない方がいいかもしれないですね」
「なぜ?」
「がっかり六だったんですよね?」
「今は五です」
「細かく追ってるんだ……」
◇
昼食では、子供が午前の話を何度も考えていた。
「東動いた。でもアリシア何もなかった」
「うん」
「前は東動いた。アリシア冷たかった」
「うん」
「違う」
「違うね」
「どこが違う?」
アリシアは学院長から受け取った簡単な比較結果を思い出す。
「午前の東側の変化は、前より短くて小さかったみたい」
「小さいから聞こえなかった?」
「そうかもしれない」
「小さい声?」
「たとえるならね。でも本当に声じゃないよ」
「じゃあ小さい冷たい?」
「それも違うかな」
子供は難しい顔になる。
「難しい」
「うん」
「大きいのだけ分かる?」
「それもまだ分からない」
「次、大きいの出たら?」
「私が感じるか見る」
「小さいの出たら?」
「それも見る」
「いっぱい必要」
「そうなんだよね」
子供は果実を一つ口へ入れた。
今日は淡い赤。
噛むと少し酸っぱかったらしく、顔をしかめる。
「酸っぱい」
「何点?」
アリシアが聞く。
「七」
『何でも数値化するんじゃないわよ』
「ノア何て?」
「酸っぱい七は意味ないって」
「ある」
「あるんだ」
「次これ出たら分かる」
「酸っぱい七のやつ」
「うん」
『まあ、それなら多少意味あるわね』
アリシアが訳すと、子供は少し得意そうに笑った。
食事の途中。
顔のない存在が寝台から上体を起こした。
子供はすぐに気づいたが、匙を置いて立ち上がったりはしない。
人影がゆっくり足を床へ下ろす。
立つ。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
胸の十一の光。
今は二つが淡く明るい。
五歩。
人影が一度止まった。
子供は黙っている。
数呼吸。
さらに六歩目へ進む。
そこで座った。
「今日は六」
子供が座ったあとに言った。
「うん」
「朝は三つ光ってた。今二つ」
「うん」
「歩いたの六」
「うん」
「昨日は三歩」
「そうだね」
「昨日三だから今日も三じゃない」
「うん」
「今日六だから明日も六じゃない」
「うん」
子供は少し考えてから、アリシアを見る。
「東も?」
「そうかもね」
「昨日感じたから今日も感じるじゃない」
「うん」
「感じなかったから明日も感じないでもない」
「うん」
「面倒」
思いがけない言葉に、アリシアが笑う。
「本当にね」
◇
午後も、アリシアへ東側の現在値は伝えられなかった。
午前のように絵を描き続ける必要はない。
本を読む。
少し歩く。
子供と話す。
顔のない存在が座っている場所を遠くから眺める。
木箱へ子供が触れるかもしれないのを待つ。
普段通り過ごす。
ただし、普段通りを意識するほど普段ではなくなる。
「今、東のこと考えた」
アリシアが突然言う。
治療教師が記録板へ目を落とす。
「何時?」
「今」
「内容は?」
「今頃何か動いてるかなって」
「記録します」
「それも?」
「後で比較できますから」
「私が東を考えたときに反応出るか?」
「可能性の一つです」
「……私、何考えても記録される」
『全部喋るからでしょう』
「言わない方がいい?」
「観測中は言ってください」
「ほら」
『自業自得ね』
子供が笑う。
「アリシア、観測いっぱい」
「疲労二」
「朝一」
「増えた」
「休む?」
少し考える。
「まだ大丈夫。でも三になったら休憩する」
「分かった」
子供は自分の絵へ戻った。
その日の午後は、午前より風が強かった。
高窓から入った風で紙の端が捲れ、子供が小石を重し代わりに置く。アリシアは窓際へ行き、外の葉が一方向へ倒れるように揺れているのを見た。
「風強い」
『飛ばされないでよ』
「そこまで軽くない」
『知ってる』
「どういう意味?」
『そのままの意味よ』
アリシアがノアを睨みかけたとき。
胸の奥へ。
冷たい感覚が生まれた。
今度は、昨日の一・五より弱い。
「……来た」
笑っていた顔が止まる。
すぐに右手を胸へ置く。
「冷感?」
治療教師が立ち上がる。
「うん。〇・五……いや、一」
「痛み」
「ゼロ」
「苦しさ」
「ゼロ」
「怖さ」
「二」
「方向」
アリシアは目を閉じる。
地下の地図を思い出さないようにはしない。
感じるものだけを見る。
「東寄り」
「震え」
「なし」
「継続開始」
時刻が記録される。
子供は動かなかった。
ノアだけがアリシアの足元まで来る。
『今度は東のこと考えてた?』
「直前はノアに太いって言われた」
『言ってないわよ』
「軽くないって」
『全然違う』
アリシアは少しだけ笑う。
冷感は続いている。
「まだ一」
十呼吸。
十五。
二十。
午前に知らされた九呼吸より、明らかに長い。
それを知っているから、期待が膨らむ。
「期待七」
「怖さは?」
「二」
「冷感」
「一のまま」
さらに十呼吸ほど。
「薄くなった」
「〇・五?」
「うん」
そして消える。
「今、ゼロ」
時刻記録。
治療教師が通信具を起動した。
アリシアはその場で待つ。
今度は午前より少しだけ怖かった。
もし東に何も起きていなかったら。
午前とは逆になる。
東が動いても感じない。
自分が感じても東は動かない。
そうなれば、三回の対応がさらに曖昧に見えるかもしれない。
「怖さ三」
自分から言う。
「結果待ち?」
「うん」
『結果に感情を預けすぎない』
「分かってる」
『分かってても怖いのね』
「うん」
通信具が光った。
『東側中継観測室です』
サーラの声。
「照合お願いします」
『該当時間帯、奥側新反応に低下あり』
アリシアの肩が少しだけ緩んだ。
「長さは?」
『二十六呼吸程度。午前中の変化より長く、低下幅も大きいです』
「開始は?」
『アリシアさんの申告より記録上三呼吸前』
「復帰は?」
『冷感消失申告と二呼吸以内です』
アリシアは胸へ置いた手を見た。
「小空洞?」
『変化なし』
「名前のない光?」
『位置変化なし。輪郭光量に有意な変動なし』
「西は?」
少し待つ。
『西側補助連絡線、該当時間帯は基準範囲です』
「……また東だけ」
『今回確認できた対応変化は、そうです』
アリシアの中に、安心と興奮が同時に広がった。
「午前は短い東変化、私は感じなかった」
『はい』
「午後は長くて少し大きい。私は感じた」
『はい』
「じゃあ、強さ?」
言ったあと、すぐ自分から続ける。
「かもしれない」
『その通りです』
「長さかもしれない」
『はい』
「両方」
『はい』
「別の何か」
『もちろん残ります』
アリシアは少し笑った。
「またいっぱい」
『でも、午前の記録があったから比較できます』
その言葉で。
アリシアは午前中のがっかりを思い出した。
感じられなかった。
六つ目が使えないような気がした。
昨日のことまで偶然に見えそうで怖かった。
けれど。
感じなかった一回があるから。
感じた午後との差を比べられる。
「午前の、嫌だったけど」
『はい』
「必要だった」
『かなり』
「都合悪い記録、大事なんだ」
『とても』
「……そっか」
アリシアは窓の外を見る。
風はまだ強い。
葉が揺れている。
同じ日の午前と午後。
同じ生活観測区画。
同じアリシア。
けれど。
東側の変化は同じではなかった。
六つ目の反応も同じではなかった。
◇
夕方の中継観測室では、今日一日の記録が大きな紙へ並べられていた。
午前。
東側奥部低下。
継続約九呼吸。
低下幅、小。
アリシア側反応なし。
午後。
東側奥部低下。
継続約二十六呼吸。
午前より低下幅大。
アリシア側胸部冷感一。
方向感覚、東寄り。
冷感と奥側反応の復帰時刻も近い。
「きれいですね」
若い観測員が言った。
サーラがすぐに顔を向ける。
「何が?」
「あ、違う。関係がきれいって意味じゃなくて、比較条件が分かりやすいって意味です」
「ならいいです」
「危なかった」
隣の記録係が笑う。
若い観測員は二つの波形を何度も見比べる。
「午前は小さく短い。午後は大きく長い」
「はい」
「午後はアリシアさんが感じた」
「はい」
「これ、閾値かなあ」
「候補ですね」
「どのくらいから感じるか」
「今の二点だけでは決められません」
「ですよね」
「ただ、『東側奥部で何か変化すれば必ず感じる』という形より、『特定条件を満たした変化だけ対応する』という考え方の方が、今日の結果には合いやすい」
「条件が、強さか長さか」
「あるいは波形の形そのものかもしれません」
「波形?」
「低下の始まり方。戻り方。内部で別の値が動いている可能性もあります」
「奥側新反応の正体が分からないの、ここで効いてくる」
「そうですね」
若い観測員は地図の奥側新反応へ目を向けた。
「何が変わってるか分からないものを、アリシアさんが何かの形で感じてるかもしれない」
「はい」
「……六つ目、観測器?」
「その言葉はまだ狭すぎると思います」
「何で?」
「感知しているだけなら、過去に確認された影や遮断、保護との性質をどう説明するかが残るからです」
「ああ」
「六つ目の神器は、既に複数の性質を示しています。今見えているものだけを正式な役割へしないでください」
「『感じる神器』って決めるのも早い」
「はい」
「でも、状態共有の仮説は少し強くなる」
「そうですね」
「『つなぐ』も残る?」
「残します」
「受け取るだけでも、つながってるとは言える」
「可能性としては」
若い観測員は記録板へ一つ書き込み、すぐ消した。
「何を書いたんです?」
「『六つ目=遠隔感知』って」
「消して正解です」
「危なかった」
また小さな笑いが起きる。
それでも、今日得られた記録の意味は小さくなかった。
感じた。
感じなかった。
両方が初めて同じ日に揃った。
それによって、六つ目が「何でも感じる」ものではない可能性が増した。
逆に。
何らかの条件を満たした変化だけを拾っている可能性も見えてきた。
◇
生活観測区画では、その頃、子供がようやく木箱の前へ座っていた。
「今日、触る?」
アリシアが聞く。
「うん」
「開けたい?」
「今は四」
「怖さは?」
「二」
子供は蓋の縁へ指を置いた。
けれど、すぐに持ち上げない。
「午前、三だった」
「開けたい気持ち?」
「うん」
「今四」
「増えた」
「どうして?」
「朝より箱見たくなった」
「それでいいんじゃない?」
「午前三だったから、午後も三じゃない」
「うん」
「アリシアも午前感じない。午後感じた」
「そうだね」
「同じ日でも違う」
子供は少しだけ蓋を持ち上げた。
細い隙間。
前と同じくらい。
中はまだ暗い。
見えない。
そこから少しだけ、もう一段持ち上げる。
アリシアの息が自然に止まりかける。
隙間が指一本分ほどになった。
中の暗さ。
木箱の内側。
ただし、中身そのものはまだよく見えない。
何かがあるようにも。
何もないようにも見える。
子供の肩へ力が入った。
「怖さ三」
「うん」
「見たい五」
「うん」
「もう少し?」
自分へ尋ねる。
長い沈黙。
そのまま蓋を維持する。
けれど、上げなかった。
「今日はここ」
ゆっくり閉じる。
木と木が触れる柔らかな音。
「前より開いた」
「うん」
「でも中身分からない」
「うん」
「前より見えた?」
「箱の中側は少し」
「中身は?」
「分からない」
子供は少しだけ不満そうにする。
「見えそうだった」
「うん」
「でも止めた」
「うん」
「がっかり二」
アリシアが笑った。
「私より小さい」
「午後、アリシア何点?」
「反応が重なって分かったとき、嬉しい七くらい」
「がっかりは?」
「午前のがっかりは今一」
「いっぱい変わる」
「本当にね」
子供は閉じた箱を見た。
「でも、午前がっかり一になっても、午前感じなかったのは残る」
「うん」
「今日箱中身見えなかったも残る」
「うん」
「次もっと開けたら?」
「そのときまた比べられる」
「うん」
子供は箱から手を離した。
「今日は昨日より少し開いた日」
「そうだね」
◇
夕食後。
学院長から今日の比較結果を聞いたアリシアは、練習帳を開く前にかなり長い時間考えていた。
「閾値かもしれない?」
「候補だ」
「強さとか長さ?」
「そうだ」
「でも、それだけじゃないかも」
「うん」
「私、全部の東側変化を感じるわけじゃない」
「少なくとも、今日の午前中の変化は自覚しなかった」
「……ちょっと安心した」
学院長が少し意外そうにする。
「朝はがっかりしてたのに?」
「うん」
「なぜ安心?」
「何でも全部感じる神器だったら、大変そうだから」
学院長が一瞬黙り、それから笑った。
「確かに」
「東でちょっと何か動くたび冷たくなってたら、寝られない」
『ようやく性能より生活を考えたわね』
「大事でしょ」
『非常に』
「でも」
アリシアは胸へ手を置く。
「感じなかったのが、失敗じゃなくなった」
「最初から失敗ではない」
「頭ではね」
「今は?」
「午前の感じなかった記録があったから、午後と比べられた」
「うん」
「感じた方だけ集めたら、何でも関係ありそうに見えちゃう」
「そうだ」
「感じなかった方も必要」
「そういうことだ」
アリシアは少しだけ笑った。
「子供の歩数みたい」
「どういうところが?」
「五歩の日だけ記録して、一歩の日をなかったことにしたら、いっぱい歩けるようになったって見えちゃう」
「なるほど」
「今日六歩。昨日三歩。でも、一歩の日もゼロの日もあった」
「うん」
「全部並べるから、本当の変化に近づける」
「そうだな」
顔のない存在は、夕方以降は再び寝台へ戻っている。
胸の十一の光は、今は二つだけ淡く明るい。
「六つ目も全部並べる」
「うん」
「感じた三回」
「今日午後を入れれば四回だ」
「あ、四回」
「感じなかった対応変化が一回」
「それも残す」
「もちろん」
「第三地点は?」
学院長が苦笑した。
「結局そこへ戻るのか」
「行きたいから」
「明日はまだ決めない」
「また?」
「今日の午前と午後をもう少し比較する」
「一日待つ?」
「可能性はある」
アリシアは少し頬を膨らませた。
「不満は?」
「四」
「高いな」
「昨日からずっと行きたい」
「来たい気持ちは記録しておく」
「それ、行ける理由になる?」
「理由の一つにはなる」
「決定じゃない」
「そうだ」
「難しい」
『でも、だいぶ慣れたでしょう』
「慣れたけど好きではない」
『それでいいのよ』
アリシアは少し笑った。
◇
夜。
子供は寝台へ入る前、今日の出来事を自分なりに並べていた。
「朝、顔のない人三つ光」
「うん」
「昼、六歩」
「うん」
「夜、二つ光」
「うん」
「箱、前より少し開いた」
「うん」
「中身まだ分からない」
「うん」
「アリシア、午前感じなかった」
「うん」
「午後感じた」
「うん」
「東、午前小さい。午後大きい?」
「今の記録では、午後の方が長くて低下幅も大きかったって」
「じゃあ、大きいと分かる?」
「かもしれない」
「小さいと分からない?」
「かもしれない」
「どこから?」
「まだ分からない」
子供は少し考える。
「私、廊下の遠い声、小さいと聞こえない」
「うん」
「大きいと聞こえる」
「そうだね」
「六つ目も耳?」
アリシアは少し笑った。
「耳とはまだ呼ばない」
「じゃあ?」
「六つ目」
「そのまま」
「今はね」
子供は納得したように頷く。
「全部聞こえないと、駄目?」
「何が?」
「耳」
「聞こえない音もあるよ」
「じゃあ、感じなかったから六つ目失敗じゃない」
その言葉に、アリシアは少しだけ目を見開いた。
「……うん」
「アリシア、午前ちょっと失敗って思った?」
「かなり」
「今は?」
「思ってない」
「どうして?」
「感じること自体が目的じゃないって分かったから」
「何が目的?」
「六つ目が何をしてるのか知ること」
「感じなかったのも知るために使える」
「うん」
子供は布団へ入る。
「じゃあ良かった」
「感じなかったことが?」
「うん」
「午前は嫌だったけどね」
「嫌でも良かったになる?」
「あとからなら、なることもある」
「そのとき嫌だったの消えない?」
「消えない」
「両方?」
「うん」
「便利」
「便利かな」
「嫌だった。でもあとで役に立った。両方ある」
「そうだね」
子供は少し笑った。
「じゃあ、箱も今日中身見えなくて嫌一」
「二じゃなかった?」
「今一」
「下がったんだ」
「うん。でも、前より開いたから次比べられる」
「うん」
「明日もっと?」
「どうしたい?」
「明日決める」
「そうだね」
「アリシア第三?」
唐突に返され、アリシアが言葉に詰まる。
「……明日決める」
「同じ」
「同じだね」
『綺麗に返されたわね』
「ノアうるさい」
子供が楽しそうに笑い、そのまま目を閉じた。
◇
子供が眠ったあと。
アリシアは机へ向かった。
練習帳。
今日のページ。
最初に書いたのは、東側の変化ではなかった。
――第三地点へ行きたい八。
その下。
――今日は行かなかった。不満三から四。
『そこ上がってるじゃない』
「夕方聞いたら明日も行けないかもしれないって言われたから」
『正直ね』
「自分の記録だから」
続きを書く。
午前。
東側奥部で短く小さい低下。
自分には冷感なし。
あとから聞いた。
がっかり六。
怖さ三。
昨日までの対応が偶然かもしれないと思った。
そこまで書き、少し手を止める。
嫌な記録だった。
今読み返しても、午前の胸の重さを少し思い出す。
それでも消さない。
午後。
胸部冷感一。
方向は東寄り。
東側奥部新反応の低下は午前より長く、低下幅も大きかった。
開始と復帰の時間帯は近い。
西側、小空洞、名前のない光に対応変化なし。
その下に、一行。
――全部感じられないから失敗、ではない。感じたときと感じなかったときの違いを比べられる。
ノアが机の横へ跳び乗った。
『昨日より、かなり研究者っぽくなったじゃない』
「研究者じゃないよ」
『じゃあ何?』
アリシアは少し考えた。
「自分のこと調べてる人」
『それを研究者っていうんじゃない?』
「……嫌」
『なぜよ』
「白衣着て難しい顔してそう」
『偏見がひどいわ』
「サーラは白衣着てない」
『そういう話じゃない』
アリシアは笑いながら筆を置いた。
けれど、そのあともすぐ練習帳は閉じなかった。
「ノア」
『何?』
「もし六つ目が、東で起きたことを感じてるなら」
『うん』
「何で?」
ノアは答えない。
当然だ。
分からない。
「何で私に分からせるの?」
『六つ目が意図してるとは限らないでしょう』
「そうか」
『ただ性質として共有されてるだけかもしれない』
「うん」
『逆に、何か意味があって伝わってる可能性もある』
「うん」
『まだ分からない』
「ノアまでそれ言う」
『一番正確でしょう』
アリシアは胸へ手を当てる。
今は何もない。
「私が何に選ばれたのか、少し近づいた?」
『どうかしら』
「全然?」
『少なくとも、「近づけば反応するだけの神器」ではなさそうって分かったでしょう』
「うん」
『全部の変化を無差別に拾うわけでもなさそう』
「うん」
『なら昨日よりは、候補が少し減ったんじゃない?』
アリシアは考える。
分からないことは、まだ大量にある。
六つ目の正式な名前。
本質。
役割。
なぜ自分なのか。
東側奥部反応の正体。
東西補助連絡線との関係。
名前のない光との関係。
それでも今日。
感じ取れなかった変化が、一つあった。
最初は、それが怖かった。
今までの記録を壊すものに見えた。
けれど実際には。
感じた記録だけでは見えなかった差を作ってくれた。
短く小さい変化。
長く大きい変化。
もちろん、それが原因だとはまだ言えない。
けれど、次に比較すべきものは昨日より少し具体的になった。
「次は、どのくらいなら感じるか?」
『それも候補ね』
「でも人間側から奥側反応を勝手に大きくしたりしない」
『当然』
「自然に出るの待つ?」
『今のところはね』
「第三地点は?」
『しつこい』
「だって」
『必要になれば行くでしょう』
「必要じゃなくても行きたい」
『知ってるわよ』
ノアの尻尾がアリシアの腕へ軽く触れる。
『行きたいことは消さなくていい。でも、行きたいから今日の記録を雑に扱うのは駄目』
「しない」
『ならいいわ』
アリシアはようやく練習帳を閉じた。
東側の奥では、今夜も奥側新反応が弱い通常値を保っている。
名前のない光は大きく位置を変えていない。
小空洞も静か。
西側補助連絡線にも、新しい対応波形は出ていない。
今日は二度。
東側奥部新反応が変化した。
一度目。
短く、小さい。
アリシアは何も感じなかった。
二度目。
それより長く、大きい。
アリシアは冷たさを感じた。
まだ二つだけ。
それだけで境界線を引くことはできない。
それでも。
初めて「感じたもの」と「感じなかったもの」を同じ条件表の上へ置けるようになった。
六つ目が全てを知っているわけではないのかもしれない。
全てを伝える神器でもないのかもしれない。
何かを選んでいるのか。
一定以上の変化だけを拾うのか。
別の条件が存在するのか。
そもそも「拾う」という表現自体が間違っているのか。
答えはまだない。
けれど、感じ取れなかった一回があったからといって、感じ取れた四回まで間違いになるわけではない。
逆に、四回重なったからといって、感じなかった一回を邪魔な記録として捨てていいわけでもない。
都合のいいものも。
都合の悪いものも。
期待したものも。
がっかりしたものも。
全部を同じ机の上へ置く。
その上で。
どの違いに意味がありそうなのかを、次に確かめる。
アリシアは灯りを落とす前、もう一度だけ胸へ手を当てた。
何も感じない。
今夜の静けさもまた、一つの状態だった。
明日。
第三地点へ行くかもしれない。
まだ行かないかもしれない。
東側でまた小さな変化が起きるかもしれない。
今度は何も起きないかもしれない。
それでも。
感じたときだけを答え候補にしない。
感じられなかった時間も、自分の六つ目を知るための一部にする。
そう思えるようになったことだけは。
昨日の自分には、まだなかった新しい一歩だった。




