第157話 同じ場所へ戻ったからといって、昨日と同じことが起きるとは限らない
翌朝、アリシアが最初に確かめたのは、東へ行きたい気持ちではなかった。
目を開ける。
天井。
窓から入る朝の光。
身体を起こす前に、一度ゆっくり呼吸する。
胸の奥に冷たさはない。昨夜眠る前にも確認した通り、六つ目の神器は静かだった。頭痛もなければ、腕の重さもなく、指先まで普段通り温かい。
そこまで確認してから、ようやく昨日の第三地点を思い出した。
曲がり角の先。
第二地点から見れば、本当にあと少しだった。
「……行きたい」
『起きて最初の一言にしては欲望が強いわね』
枕元で身体を丸めていたノアが、片耳だけを動かした。
「最初じゃないよ」
『口に出した最初よ』
「身体確認したし」
『それは立派。でも今の顔、完全に第三地点しか見えてないわ』
アリシアは反論しようとして、やめた。
たぶん、当たっている。
昨日、第二地点で六つ目の神器に弱い冷感が出た。同時刻帯に、東側奥部の新反応も短時間低下した。
第一地点では何も起きなかった。
第二地点では起きた。
なら、もう少し近い第三地点ならどうなるのか。
もっと強く感じるのか。
もっと長く続くのか。
それとも、何も起こらないのか。
知りたい。
「行きたい、九」
『昨日より増えてるじゃない』
「だって一日待ったから」
『待った時間を進む理由へ足さない』
「……それ、学院長みたい」
『最近みんな同じこと言うでしょう』
「うん」
アリシアは少し笑いながら上体を起こした。
「怖さは二」
『身体は?』
「痛みゼロ。苦しさゼロ。頭痛ゼロ。疲労……一かな」
『神器周辺』
「何もない」
『じゃあ第三?』
ノアの問いに、アリシアはすぐ頷かなかった。
昨日までなら、その条件なら行けると考えていたかもしれない。
けれど昨日、第二地点で終えたからこそ、夜の照合で分かったことがあった。
第一地点。
反応なし。
第二地点。
反応あり。
西側には対応変化なし。
それによって、「六つ目が東から西へ直接何かを中継している」という単純な形の仮説は少し弱くなった。
では今日、第三地点へ進めばいいのか。
そう考えかけたところで、隣の寝台から小さな声がした。
「九?」
子供が起きていた。
「聞いてた?」
「うん」
まだ眠そうな目のまま、布団から顔だけを出している。
「第三行きたい、九?」
「うん」
「昨日は八」
「そうだったね」
「増えた」
「増えた」
「だから行く?」
アリシアは少し考えた。
「それだけでは決めない」
子供が小さく頷く。
「昨日言った」
「うん」
「数字は命令じゃない」
「そうだね」
「でも九」
「かなり行きたい」
「十ある?」
「昨日作ったらノアに怒られた」
『記録の上限を勝手に変えるなと言ったのよ』
アリシアが訳すと、子供は少し笑った。
「じゃあ九まで?」
「今のところ」
「九より行きたいとき?」
「……九って言って、すごく行きたいって付ける?」
『雑ね』
「でも分かる」
子供は布団を押し下げ、身体を起こした。
次に隣の寝台を見る。
「おはよう」
顔のない存在は横たわったままだった。
胸の十一の光も、すぐには変わらない。
子供は待った。
何も起きない。
さらに待つ。
一つだけ、淡く明るさが増した。
「今は一つ」
昨日の夜は三つだった。
けれど子供は、それを口にしなかった。
「少ないって思った?」
アリシアが尋ねると、子供は少しだけ眉を寄せる。
「一瞬」
「うん」
「昨日三つだったから」
「うん」
「でも、今は一つ」
「そうだね」
「一つでも悪いじゃない」
「うん」
子供は寝台から降り、自分の足裏を確認する。
そのあと木箱へ行くのかと思ったが、今日は白い花の棚へ向かった。
もう花弁らしい形はほとんど残っていない。
乾いた茎。
小皿の中の茶色い花弁。
二枚の絵。
以前なら一つの「白い花」として見ていたものが、今では幾つもの形になって残っている。
「また小さいの落ちてる」
棚の上に細かな欠片があった。
「拾う?」
自分で聞く。
指を近づける。
少し止まった。
「今日は拾わない」
「うん」
「昨日拾わなかったの、まだある?」
子供が棚を覗く。
どれが昨日の欠片だったのか、もう分からない。
「分からないね」
「なくなったかも」
「うん」
「混ざったかも」
「うん」
「まだあるかも」
「そうだね」
子供は少し寂しそうな顔をした。
「同じところ見ても、昨日と同じじゃない」
その言葉に、アリシアの目が止まった。
「何?」
子供が振り返る。
「ううん」
「第三?」
「……ちょっと思った」
「昨日第二で出た。今日第二行っても?」
「同じとは限らないね」
「じゃあ第三?」
「それも、まだ決めない」
子供は少し不思議そうにした。
「行きたい九なのに?」
「九だからこそ、ちゃんと決めないと走りそうだから」
『自覚があるなら大丈夫そうね』
「ノア褒めてる?」
「半分」
『勝手に減らさないで』
朝の生活観測区画へ、小さな笑いが広がった。
◇
朝食後に届いた東側の記録には、夜間の大きな変化はなかった。
名前のない光は位置をほぼ維持。
小空洞に新しい周期反応なし。
奥側新反応も通常範囲。
東西補助連絡線にも、夜間の明確な対応波形は確認されていない。
そして、アリシア自身にも夜間の神器反応はなかった。
その記録を前にして開かれた小会議で、学院長は最初から第三地点の話をしなかった。
「今日は、昨日の結果をどう使うかを決める」
地図の上には、第一、第二、第三地点がそれぞれ印で示されている。
アリシアは当然のように第三地点を見てしまう。
隣でノアの尻尾が揺れた。
『見すぎ』
「見てない」
『地図に穴が開くわよ』
学院長が少し笑い、それからサーラへ顔を向けた。
「提案は?」
「私は、第二地点の再確認を先にしたいです」
アリシアの顔が、分かりやすく曇った。
「第三じゃない?」
「はい」
「どうして?」
「昨日、第二地点で反応が出たからです」
「出たなら、次じゃないの?」
「一度出たからこそ、同じ場所で同じ条件に近づけた場合に再び出るのかを確かめたいんです」
アリシアは地図を見た。
「再現するか」
「はい」
「昨日と同じ時間?」
「完全に同じにはできません。時刻も違いますし、アリシアさんの心理状態も昨日とは違います」
「今日は第三行きたい九」
「それも昨日と違う条件ですね」
「……記録する?」
「もちろん」
副学院長が腕を組みながら言う。
「第三地点へ進んで反応が強くなれば、距離との関係を考える材料にはなる」
「うん」
「だが、第二地点で昨日と同じ反応が再現するかどうかを一度も見ずに進めば、『第二だから出たのか』『昨日だったから出たのか』が余計分かりにくくなる」
「昨日だったから」
「時刻、東側内部の状態、名前のない光の状態、アリシアの状態。全部が昨日と完全に同じではない」
「でも、全部同じにするの無理だよね」
「無理だ」
「じゃあ再現ってできる?」
サーラが答える。
「完全再現ではありません。同じ位置、同じ観測時間、意図的な魔力操作なし、という一部の条件を合わせます」
「違うところも残す?」
「はい。違うものは違うまま記録します」
アリシアは少し黙った。
「もし今日、第二で何も出なかったら?」
「それも重要です」
「昨日は出たのに?」
「だからです」
サーラは二日分の空欄が並んだ記録用紙を見せた。
「同じ位置に立てば必ず反応するなら、位置条件の重要性は上がります。でも同じ地点で出ないことがあるなら、距離だけでは説明できなくなります」
「第三に行く前に、それ知った方がいい?」
「私はそう考えます」
アリシアは学院長を見る。
「学院長も?」
「俺も第二再確認に賛成だ」
「副学院長も?」
「賛成」
「ノア」
『私はあなたが納得して決めなさい派』
「ずるい」
『猫だから』
いつもの返答だった。
アリシアは少し頬を膨らませた。
行きたい。
第三地点へ。
昨日、自分で残した一歩。
すぐそこにある。
しかも今日は、身体状態にも問題がない。
怖さも低い。
だからこそ、第二へもう一度戻ることが、少し遠回りに感じる。
「……私、第三行きたい」
「うん」
学院長は否定しない。
「かなり」
「九だな」
「うん」
「第二再確認は嫌か?」
アリシアはすぐに「嫌」とは言えなかった。
「嫌じゃない。でも……もったいない感じする」
「何が?」
「一日使って、昨日と同じところまでしか行かないのが」
言葉にすると、自分でも少し分かった。
前へ進むことを、距離で測っている。
「同じところに行ったら、同じ?」
子供が生活観測区画で言った言葉を思い出した。
同じ場所を見ても、昨日と同じではない。
アリシアは少し息を吐いた。
「……第二にもう一回行く」
学院長がすぐには頷かなかった。
「納得した?」
「全部じゃない」
「なら話そう」
「でも、第三行きたいから第二嫌っていうのは、ちょっと違うと思った」
「うん」
「昨日の第二と今日の第二が同じか見るのも、前に進むこと?」
サーラが静かに答える。
「私はそう思います」
アリシアはもう一度第三地点の印を見る。
「じゃあ今日は、第二を確かめたい」
少し悔しい。
けれど、今度は「行かせてもらえなかった」のではない。
自分の中で、知りたいものの順番を変えた。
「参加意思は?」
安全管理担当が尋ねる。
「第二再確認なら……七」
「第三への希望は?」
「九」
「分けて記録します」
アリシアが少し笑った。
「そんな記録ある?」
「今日からあります」
『どんどん項目が増えるわね』
「誰のせいだと思ってるの?」
『あなたでしょう』
「そうだった」
◇
同じ東側地下区画へ向かう道でも、昨日とは少し違って見えた。
魔導灯の白い明かり。
冷たい石壁。
地下特有の湿った匂い。
景色自体はほとんど変わっていない。
それでもアリシアの中には、昨日通った道だという感覚がある。
階段の段数を意識しなくても、次に少し床が傾く場所が分かる。
右側の壁に細い補修線があることも。
中継観測室の少し手前だけ、空気がわずかに温かいことも。
「昨日と同じ」
アリシアが言う。
サーラが振り返る。
「何がです?」
「道」
「はい」
「でも私が違う」
「どう違いますか?」
「昨日は初めてだった。今日は知ってる」
「怖さは?」
「二」
「昨日この辺では三前後でした」
「じゃあ、それも違う」
「記録します」
第二地点だけを再確認する方針になったため、第一地点で三分停止する試験は行わない。
ただし通過時に神器変化がないかは記録する。
白線の手前。
昨日、第一地点だった場所。
アリシアは自然と歩みを少し遅くした。
「止まる?」
学院長が尋ねる。
アリシアは白線を見る。
「今日は止まらない条件だった」
「そうだ」
「でも止まりたいなら?」
「止まっていい」
「……止まらない」
一歩。
白線を越える。
昨日は越えなかった線だ。
けれど今日は、その線を越えること自体が試験ではない。
胸部変化なし。
神器反応なし。
怖さ二。
「今、昨日より先に行った」
アリシアが言う。
「でも今日の目的地は昨日と同じ第二」
学院長が返す。
「変な感じ」
「何が?」
「距離では前に進んでる。でも目的としては戻ってるみたい」
「戻ってると思うか?」
アリシアは少し考えた。
「……同じところを見直しに行ってる」
「それを戻ると呼ぶか?」
「分からない」
『別に名前を決めなくていいでしょう』
「ノアが珍しく正論」
『いつも正論よ』
笑いながら歩く。
昨日より肩の力は抜けていた。
それでも、第二地点へ近づくにつれ、アリシアの意識は自然と胸へ集まり始める。
昨日。
この少し先。
黄色い印の上。
三分目へ入った頃。
冷たい針先のような感覚。
今日も来るのか。
「今、期待が強い」
アリシアは自分から申告した。
「どの程度ですか?」
「八くらい」
「参加意思とは別?」
「別。来てほしい気持ち」
「記録します」
ノアが呆れた声を出す。
『ついに期待値まで増えた』
「必要?」
観測員がサーラを見る。
「今日は残しましょう」
「増えた」
「あなたが言ったからですよ」
「はい」
黄色い印が見える。
第二地点。
昨日と同じ場所。
けれど。
今日の自分が立つ。
「開始前確認」
安全管理担当の声に、アリシアは一度目を閉じた。
「痛みゼロ。苦しさゼロ。疲労一。怖さ……三。神器違和感なし。第二地点を見たい七。反応してほしい八」
『数字だらけね』
「ノア黙って」
「では開始します」
アリシアが黄色い印の上へ立つ。
サーラが時刻を取った。
「第二地点再確認、観測開始」
昨日と同じ。
三分間。
意図的な魔力操作はしない。
その場から動かない。
けれど、昨日と違うところもある。
今日は何が起きたか知っている。
冷たさを待っている。
反応を期待している。
アリシア自身、その違いを強く意識していた。
最初の十呼吸。
何もない。
二十。
何もない。
アリシアは胸へ手を置きたくなった。
昨日は途中から触れていた。
今日は?
「胸触っていい?」
「身体確認のためなら」
「条件変わる?」
「昨日も触れていた時間があります。触れた時刻を記録します」
アリシアは右手を胸へ置いた。
何もない。
「冷たくない」
「はい」
三十呼吸。
四十。
東側各観測値も静か。
名前のない光。
動かない。
小空洞。
反応なし。
奥側新反応。
基準範囲。
西側補助連絡線。
変化なし。
一分。
「まだない」
声に、少し焦りが混じる。
『待ってる顔ね』
「待ってる」
『昨日は探してたら来た』
「うん」
『今日は?』
「もっと探してる」
アリシアは胸の奥へ意識を向ける。
冷たい?
違う。
今のは服の布が触れただけ。
指先?
普通。
呼吸?
少し速い。
それは期待。
「怖さ三・五」
「理由は?」
「反応しないから」
安全管理担当が少しだけ眉を動かす。
「反応しないことが怖い?」
「……六つ目と東が関係なかったらって」
口にした瞬間、自分の本音が見えた。
昨日は反応した。
今日も同じ場所で出ると思っていた。
いや。
出てほしいと思っていた。
ここで何も起きなかったら。
昨日の一回が偶然だったら。
ここまで積み上げてきたものが、少し遠くなる気がする。
「今、反応してほしい九」
サーラは記録する。
「それも残します」
「うん」
二分。
何も起きない。
昨日なら、もう少しで冷感が出た頃だ。
アリシアは黄色い印から一歩も動かない。
けれど心だけが、昨日へ戻ろうとする。
昨日は何を見ていた?
どこへ手を置いていた?
どんな呼吸だった?
何を考えていた?
「再現しようとしてる」
自分で気づいた。
学院長が尋ねる。
「何を?」
「昨日の自分」
「できそうか?」
「……無理」
「なぜ?」
「昨日は今日のこと知らなかった」
その答えを口にしたことで、少し肩の力が抜けた。
「同じ場所だけど、私が同じじゃない」
「うん」
「だから、完全に昨日と同じにはできない」
「その通りだ」
「でも、今日出なかったら?」
サーラが答える。
「今日の第二地点では出なかった、という記録になります」
「昨日のは消えない?」
「消えません」
生活観測区画で何度も繰り返してきた言葉だった。
新しい記録が増えても、前の記録は消えない。
逆も同じ。
昨日反応したからといって、今日も反応しなければならないわけではない。
アリシアは少し息を吐いた。
「分かった」
残り三十呼吸。
何もない。
十。
五。
「三分経過」
サーラの声。
「アリシアさん側、神器反応なし」
東側。
奥側新反応、基準範囲。
小空洞、変化なし。
名前のない光、変化なし。
西側補助連絡線、変化なし。
昨日と同じ第二地点。
同じ三分間。
今日は、何も起きなかった。
◇
観測終了の言葉が出ても、アリシアはすぐ黄色い印から動かなかった。
「……出なかった」
「はい」
サーラの声は変わらない。
「昨日は出た」
「はい」
「同じところなのに」
「そうですね」
アリシアは胸へ置いていた手を下ろした。
自分でも驚くほど、がっかりしていた。
期待していた。
今日も反応する。
それが確認できれば、第二地点という距離に意味があると一歩近づける。
そう思っていた。
「怖さは?」
「二」
「下がった?」
「うん」
「落胆は?」
アリシアは少しだけ笑った。
「九」
『そっちは九なのね』
「かなりがっかり」
記録員が少し迷いながらサーラを見る。
「……落胆九も?」
「残しましょう」
「本当に項目増えた」
「今日限りかもしれません」
「消える?」
「必要性を後で判断します」
そのやり取りに、アリシアは少しだけ笑えた。
黄色い印から一歩下がる。
「第三は?」
自分から聞いた。
学院長は即答しない。
「どうしたい?」
「行きたい」
「数字」
「九」
「今、第二で反応しなかったから第三へ行きたい?」
アリシアは黙った。
そこだった。
反応しなかった。
だから、もう少し近づけば出るかもしれない。
第三なら。
あと少しなら。
昨日と同じ衝動が、形を変えて戻ってきている。
「……今は、その理由もある」
「ほかは?」
「昨日から第三は行きたかった」
「うん」
「でも今、反応出なかったの悔しいから、第三なら出るか確認したいって思ってる」
「それをどうする?」
アリシアは曲がり角を見る。
行ける。
身体は平気。
怖さも低い。
今日の試験条件として、第三地点へ進むこと自体は朝の時点で完全に禁止されていたわけではない。
ただし今日の目的は、第二地点の再確認だった。
「……今日は行かない」
言った途端、昨日より強い悔しさが胸へ残った。
「昨日より嫌」
「止まるのが?」
「うん」
「どうして?」
「昨日は反応したから、今日はここまでって思えた。でも今日は何も出なかった」
「だから、結果が欲しい?」
「うん」
「その気持ちは悪い?」
「悪くないと思う」
「俺もそう思う」
学院長は曲がり角を見た。
「結果が欲しい。第三へ行けば何か起きるかもしれない。全部、進む理由にはなりうる」
「じゃあ行ってもいい?」
「今日の目的と比べて、お前が決めろ」
アリシアはしばらく黙った。
第二地点の再確認。
同じ場所。
同じ観測時間。
昨日は反応あり。
今日はなし。
それだけで、もう昨日とは違う大きな情報が取れている。
「……同じ場所でも、毎回出るわけじゃない」
「そうだな」
「距離だけじゃないかもしれない」
「その可能性は昨日より上がった」
「だったら」
アリシアは第三地点から視線を外した。
「今日、もう目的はできてる」
「うん」
「反応しなかったのが結果」
「そうだ」
「嫌だけど」
「うん」
「すごく嫌だけど」
「それも記録するか?」
「落胆九で入ってる」
周囲から小さな笑いが漏れた。
アリシア自身も、少し笑う。
「今日は帰る」
今度は自分で言えた。
◇
生活観測区画へ戻ったアリシアの顔を見て、子供はすぐに何かあったと気づいたらしい。
「第三行った?」
「行ってない」
「第二?」
「行った」
「冷たい?」
「今日は出なかった」
子供の目が少し大きくなった。
「昨日出たのに?」
「うん」
「同じ場所?」
「同じ」
「同じ時間?」
「三分っていう長さは同じ」
「でも出なかった」
「うん」
子供は少し考える。
「がっかり?」
「かなり」
「何点?」
「九」
「行きたいと同じ」
「今は行きたい八くらいまで下がった」
「がっかりの方が大きい」
「うん」
アリシアは子供の隣へ座った。
「私、今日も出ると思ってたんだと思う」
「決めてた?」
「言葉では決めてないつもりだった。でも、かなり期待してた」
「出なかったから、昨日のなくなった?」
「なくならない」
答えるまでに迷わなかった。
「昨日は出た。今日は出なかった。両方ある」
「じゃあ、どっちが本当?」
「両方」
子供の眉が寄る。
「変」
「変だね」
「同じ場所なのに」
「うん」
「白い花みたい?」
「どういうところ?」
「同じ白い花。でも昨日と今日違う」
アリシアは棚を見る。
乾いた茎。
小皿。
二枚の絵。
「少し似てるかも」
「同じものでも、同じじゃない?」
「条件が変わればね」
「アリシアも?」
「昨日の私と今日の私は、同じ私だけど状態は違う」
「ノア朝言ってた」
「言ってたね」
『もっと感謝なさい』
「ノアが威張ってる」
「ノアだから?」
『そうよ』
子供が笑った。
そのあと木箱へ視線を移す。
「私、昨日少し開けた」
「うん」
「今日同じくらい開けたら、同じ怖い?」
「どうだろう」
「同じじゃないかも」
「うん」
「じゃあ今日は?」
子供は箱へ手を伸ばしかけた。
けれど途中で止める。
「……今日は触らない」
「どうして?」
「今、箱よりアリシア気になる」
思いがけない言葉だった。
「私?」
「がっかり九」
「もう少し下がったよ」
「いくつ?」
アリシアは少し考える。
「七」
「まだ高い」
「うん」
「隣いる?」
子供が尋ねた。
「いていい?」
「うん」
アリシアは子供の隣へ座ったまま、しばらく何もしなかった。
励まされる側になるのは、少し不思議だった。
◇
昼前。
顔のない存在が起き上がった。
子供はアリシアと一緒に机で白い花の絵を見ていたが、寝台が軋む音で顔を上げる。
人影が足を床へ下ろす。
立つ。
一歩。
二歩。
三歩。
昨日は五歩だった。
今日は三歩目で止まった。
子供は黙っている。
人影はその場にしばらく立ったあと、ゆっくり床へ座った。
「今日は三」
座ってから、子供が言った。
「うん」
「昨日五」
「うん」
「少ない?」
自分で聞いて、少し待つ。
「歩数は二つ少ない」
「うん」
「でも今日三歩歩いた」
「そうだね」
「昨日五だったから、今日も五と思ってた?」
アリシアが尋ねると、子供は少しだけ困った顔をする。
「ちょっと」
「私と同じだ」
「第二?」
「うん。昨日出たから今日も出ると思ってた」
「でも出なかった」
「うん」
「この人も、昨日五だから今日五じゃなかった」
「そうだね」
子供は顔のない存在を見る。
胸の十一の光。
今は二つが淡く明るくなっている。
「歩くの三。光二」
「うん」
「昨日と違う」
「うん」
「悪い?」
「どう思う?」
「……分からない」
「それでいいと思う」
子供は少し笑った。
「分からない、前より嫌じゃない」
「私は今日ちょっと嫌」
「がっかり七」
「今は六かな」
「減った」
「子供と話したからかも」
「じゃあ良かった?」
アリシアはすぐに頷かなかった。
「がっかりしたのも、なくしたくない」
「どうして?」
「今日の私が本当にそう思ったから」
子供は少し考えた。
「じゃあ、六残す?」
「記録には九から下がったって書く」
「いっぱい書く」
「最近増えたんだよ」
『感情の数値化だけで紙が一枚終わりそうね』
「ノアは記録されないから気楽だよね」
『私を数値で表現できると思わないことね』
「毒舌九」
『喧嘩売ってる?』
子供が声を上げて笑った。
◇
午後。
中継観測室では、昨日と今日の第二地点記録が並べられていた。
昨日。
第二地点。
観測開始からおよそ二分半。
アリシア側に胸部冷感一。
東側奥部新反応が近い時間帯に短時間低下。
本日。
同じ第二地点。
同じ三分間。
神器反応なし。
奥側新反応も変化なし。
「再現しなかった」
若い観測員が記録を見ながら言う。
「今日の条件では」
サーラが補足する。
「はい」
若い観測員はもう、その言い直しに慣れていた。
「じゃあ、第二地点へ行けば反応する、は違う?」
「少なくとも、場所だけで必ず発生する現象ではなさそうです」
「距離説、弱くなる」
「『一定距離へ入った瞬間に必ず反応する』という単純な仮説はかなり弱くなります」
「でも距離が関係ないとも言えない」
「はい」
「昨日は第二で出た」
「はい」
「遠くにいた生活観測区画でも出てる」
「はい」
「……じゃあ場所じゃないなら、何?」
サーラは答えなかった。
答えがないからだ。
代わりに昨日までの奥側新反応の記録を並べる。
「アリシアさん側の反応が出た三回を見てください」
午前。
夜。
昨日の第二地点。
三つの時間帯。
「奥側新反応が全部低下してる」
「はい」
「でも、今日の第二は奥側も動かなかった」
「そうです」
若い観測員が少し顔を上げた。
「……逆?」
「何がです?」
「アリシアさんが第二へ行ったから奥側が下がったんじゃなくて、奥側が下がったときにアリシアさんが感じてる?」
室内が少し静かになった。
サーラはすぐに肯定しなかった。
「仮説にはできます」
「昨日まで、アリシアさん側が原因かもって考えてた」
「その可能性もまだ残っています」
「でも今日、場所だけ合わせても何も起きなかった」
「はい」
「だったら、六つ目が何かを起こしてるより、起きたものを感じてる可能性が上がる?」
サーラは記録を見た。
「少なくとも、考える価値は昨日より上がりました」
若い観測員が少し興奮した顔になる。
「受け取ってる?」
「その言葉もまだ早いです」
「感知?」
「それも仮の表現です」
「状態共有?」
「候補ですね」
「六つ目が、奥側で起きた変化を――」
「待ってください」
サーラの声が少し強くなる。
「今、話を作り始めています」
「あ」
若い観測員は口を閉じた。
数呼吸後、苦笑する。
「久しぶりに走りました」
「かなり」
「でも、全然駄目ではない?」
「仮説の入り口としては悪くありません」
「じゃあ、どう確かめる?」
「そこです」
サーラは記録板へ新しい欄を作る。
「次はアリシアさんの位置を動かすことより、奥側新反応が自然に変化したときのアリシアさん側を確実に取る方が有効かもしれません」
「生活観測区画で?」
「はい」
「遠いまま」
「遠いままです」
「第三行かない?」
「少なくとも、今すぐ行く理由は少し弱くなりました」
若い観測員が第三地点の印を見る。
「アリシアさん、がっかりしそう」
「かなりするでしょうね」
「サーラさんでも分かるんですね」
「今日、落胆九と記録されていますから」
「正式記録なんだ……」
◇
その日の午後遅く。
アリシアはその提案を聞いて、予想通りかなりがっかりした。
「第三、遠くなった?」
「物理的な距離は変わっていない」
学院長が答える。
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
「明日も行かない?」
「まだ決めない」
「でも、生活観測区画で見る案が先?」
「有力だ」
「……そっか」
アリシアの肩が少し落ちる。
「嫌か?」
「嫌っていうか……」
机の上へ置いた自分の練習帳を見る。
「やっと自分の話を見るって決めたのに、また部屋で待つんだって思った」
学院長は少し黙った。
「待つことは、自分の話を見ないことになるか?」
アリシアは顔を上げる。
「ならない?」
「俺はそう思わない」
「でも地下に行かない」
「六つ目の神器は、地下に置いてあるのか?」
「私にある」
「なら、お前自身を観測するのも六つ目の調査だ」
アリシアは胸へ手を置いた。
「……そうか」
「地下へ近づくことだけを、自分の話へ近づくことにするな」
少し痛い言葉だった。
第三地点。
さらに奥。
名前のない光。
奥側新反応。
そこへ行くほど、答えにも近づく。
いつの間にか、また距離と答えを重ね始めていた。
「私、また近い方が答えって思ってた?」
「少しな」
『かなりね』
「ノア」
『何よ』
「今日は味方して」
『本当のことを言うのが味方よ』
「毒舌黒猫」
『今さらタイトルみたいに言わないで』
アリシアは思わず笑った。
「じゃあ、生活観測区画で待つのも調査」
「そうだ」
「ただ待つ?」
「違う。何を見るか決めて待つ」
学院長は記録用紙を示した。
「奥側新反応が自然変動した時刻と、アリシア側の感覚を継続的に照合する。可能なら、事前に東側の値をアリシアへ知らせない」
「知らないまま?」
「知れば期待が条件へ入る」
「今日みたいに」
「そうだ」
アリシアは少し納得した。
「じゃあ、私が何も知らないときに冷たくなって、それと東が重なったら?」
「新しい材料になる」
「重ならなかったら?」
「それも材料だ」
「……何しても材料」
「観測できればな」
少し悔しい。
けれど。
「分かった」
アリシアは頷いた。
「やる」
◇
夕方。
試験と言っても、生活観測区画の中は普段とほとんど変わらなかった。
アリシアには東側の現在値を伝えない。
中継観測室側では継続監視を行う。
アリシアは普段通り過ごし、何らかの神器感覚が出た場合だけ即申告する。
「何してればいい?」
アリシアが尋ねる。
「普段通りで」
「普段通りって難しい」
『意識した瞬間に普段じゃなくなるものね』
「ノア分かってる」
『でしょう』
子供が机で白い花の絵を見ながら聞く。
「遊ぶ?」
「何する?」
「絵?」
「私、下手だよ」
「知ってる」
「ひどい」
子供が笑った。
結局、アリシアも紙を一枚もらい、窓の外の植え込みを描くことになった。
細長い葉。
枝。
石畳。
最初は慎重に描いていたが、途中から自分でも何を描いているのか怪しくなってくる。
「これ葉っぱ?」
子供が尋ねる。
「そう」
「魚みたい」
「葉っぱ」
「魚」
「葉っぱ!」
『泳ぎそうね』
「ノアまで!」
生活観測区画に笑い声が広がる。
アリシア自身、一時は東側のことをほとんど考えていなかった。
だから。
突然だった。
胸の奥へ。
冷たいものが、すっと触れた。
「……あ」
筆が止まる。
ノアの耳が立つ。
子供も笑うのをやめた。
「来た?」
「うん」
アリシアは紙から目を離さず、自分の感覚だけを確かめる。
「冷たい。一」
「痛い?」
「ゼロ」
「苦しい?」
「ゼロ」
「方向」
扉の外にいた治療教師が、記録板を開きながら尋ねる。
アリシアは少し目を閉じた。
「東……だと思う」
「怖さ」
「二」
「継続」
「まだある」
時刻が記録される。
アリシアは東側の値を知らない。
誰も教えない。
冷たさだけを見る。
十呼吸。
「少し強くなった……一・五」
昨日までより、ほんの少しだけ明確だった。
「震えは?」
「ない」
「位置は?」
「胸の中央。少し右」
さらに数呼吸。
「戻ってる。一」
そして。
「……消えた」
時刻。
記録。
それから、東側へ照合が飛ぶ。
返答を待つ間、アリシアの心臓が速くなっていく。
今度こそ。
そう期待してしまう。
『期待してる』
「うん」
『何点?』
「九」
『正直でよろしい』
通信具が光った。
『東側中継観測室より。該当時刻帯、奥側新反応に短時間低下を確認』
アリシアの目が大きくなる。
「本当に?」
『低下開始は、アリシアさんの申告時刻より記録上四呼吸ほど前です』
室内が静まった。
「前?」
アリシアが聞き返す。
『はい。ただしアリシアさんが感覚を自覚して発言するまでの遅れがあるため、現時点で前後関係は断定できません』
「復帰は?」
『奥側新反応が基準へ戻ったのは、アリシアさん側の冷感消失申告より二呼吸ほど前です』
学院長が扉の外から言う。
「小空洞は?」
『変化なし』
「名前のない光」
『位置変化なし。輪郭光量も基準範囲』
「西側」
『明確な対応変化なし』
アリシアは胸へ手を置いた。
今日は第二地点で何も起きなかった。
そして、生活観測区画へ戻って。
東側の値を知らず。
絵を描いて笑っていたときに。
冷たさが出た。
「……場所じゃない」
口から出る。
サーラは通信越しにすぐ答えた。
『少なくとも、第二地点に立つことだけが発生条件ではない可能性が、さらに高くなりました』
「じゃあ、東が先?」
『まだ断言しません』
「四呼吸前」
『発言の遅れがあります』
「でも」
『はい』
サーラの声も、いつもより少しだけ慎重に重くなる。
『六つ目の神器側が東側奥部の変化を“起こしている”という仮説だけではなく、“変化を受け取っている、あるいは共有している”という仮説を、今までより真剣に検討する理由が増えました』
アリシアはしばらく言葉を失った。
「受け取る……」
以前、自分は「つなぐ」と思った。
それを、何かを送り届ける道のように考えていた。
けれど。
つながるということは。
向こうで起きたことを、こちらが知ることでもある。
「六つ目が……見てる?」
子供が小さく聞いた。
アリシアはすぐには答えなかった。
「分からない」
「感じる?」
「それもまだ」
「でも、アリシアが東動かしたじゃないかも?」
「うん」
その可能性が、昨日より少し大きくなった。
アリシアは胸へ置いた手を見た。
第三地点へ行きたかった。
近づけば分かると思っていた。
でも今日、一番大きな材料が増えたのは。
第三地点でも。
第二地点でもなく。
いつもの生活観測区画だった。
◇
夜。
今日の記録は、昨日までとは少し違う形で並べられた。
第二地点再確認。
神器反応なし。
東側奥部変化なし。
同じ地点だからといって、昨日の反応は再現しなかった。
その数時間後。
生活観測区画。
東側の現在値をアリシアへ知らせない状態。
白い紙へ絵を描いていた最中に、胸部冷感が発生。
東側奥部では、その申告より記録上数呼吸早く短時間低下が始まり、冷感消失申告より少し前に基準へ戻っていた。
ただし。
人間が感覚を認識し、声へ出すまでの時間差は測定できていない。
したがって、東側が先に変化し、その後アリシアが感知したと断定することはできない。
それでも。
距離だけを引き金とする単純な仮説は、さらに弱くなった。
六つ目が東側変化を直接発生させるだけのものだという仮説も、見直す必要が出てきた。
代わりに。
離れた場所の状態を感知する。
状態を共有する。
既存の接続を認識する。
あるいは、まだ言葉にできない何らかの形で「つながっている」。
そんな可能性が、少しだけ重みを増した。
◇
寝る前。
子供は今日は木箱を開けなかった。
朝も。
昼も。
夕方も。
一度も蓋へ手をかけていない。
「今日は箱、何もしなかった」
「うん」
「開けたいは?」
「今は三」
「朝は?」
「四くらいだった」
「下がったね」
「アリシアいっぱいあったから」
「私のせい?」
「せいじゃない」
子供は少し考えた。
「今日は箱より、アリシア見てたかった」
「そっか」
「箱は明日もあるかも」
「うん」
「なくなるかも?」
「可能性はゼロじゃないね」
「でも今日は選ばなかった」
「うん」
子供は布団へ入り、隣の寝台を見る。
顔のない存在は今日は三歩だけ歩いた。
胸の十一の光は、夜になって一つだけが淡く明るい。
「今日は三歩。一つ」
「うん」
「昨日と違う」
「うん」
「明日も違うかも」
「そうだね」
「第二も」
「うん」
「昨日は冷たい。今日は何もない」
「うん」
「でも部屋で冷たい出た」
「うん」
「第三行ってない」
「うん」
子供は少し考える。
「第三行かなかったの、嫌?」
アリシアは正直に答えた。
「朝はかなり嫌だった」
「今は?」
「行かなくてよかったってまでは言わない」
「まだ行きたい?」
「かなり」
「九?」
「八くらい」
「下がった」
「でも」
アリシアは胸へ手を置いた。
「今日、第三へ行かなくても分かったことがあった」
「部屋で」
「うん」
「じゃあ、答え地下だけじゃない?」
アリシアの目が少し動いた。
「そうかも」
「六つ目、アリシアにある」
「うん」
「東の奥は地下にある」
「うん」
「両方見る?」
「うん」
「どっちが答え?」
「たぶん、今はどっちか一つって決めない方がいい」
子供は少し笑った。
「増えた」
「増えたね」
「また?」
「また」
以前なら、アリシアも少し疲れた顔をしていたかもしれない。
今日は違った。
「でも、昨日よりちょっと絞れた」
「何が?」
「第二地点へ行けば必ず反応する、じゃなさそう」
「うん」
「近づけば必ず強くなる、もまだ分からない」
「うん」
「私が東を動かしてるだけ、でもなさそうかもしれない」
「うん」
「向こうの変化を私が感じてるかもしれない」
子供は胸元へ自分の手を置いた。
「聞こえない声みたい?」
アリシアは少し考える。
「似てるかもしれない。でも、まだ声とは呼ばない」
「じゃあ何?」
「今は……冷たい感じ」
「そのまま」
「うん。そのまま」
子供は満足したように頷いた。
「名前つけない?」
「まだ」
「六つ目も名前ない」
「そうだね」
「いっぱい名前ない」
「ちょっと困る」
『管理する側はもっと困ってるでしょうね』
「ノア何て?」
「サーラが大変って」
『それは本当にそう』
子供が小さく笑った。
「おやすみ」
「おやすみ」
やがて部屋が静かになる。
アリシアは今日も練習帳を開いた。
朝。
第三地点へ行きたい九。
会議。
第二地点再確認へ変更。
少し悔しかった。
第二地点。
三分。
反応なし。
落胆九。
第三へ進みたかった。
でも進まなかった。
午後。
生活観測区画。
子供と絵を描いていた。
魚みたいな葉っぱ。
『そこまで書くの?』
「大事」
『何がよ』
「普段のことしてたって分かるから」
『なるほど』
アリシアは続ける。
胸部冷感。
一から一・五。
方向は東寄り。
東側現在値は知らされていなかった。
照合後、奥側新反応が同時間帯に低下していたと判明。
今日は第二地点では反応しなかった。
遠く離れた生活観測区画では反応した。
最後に。
少し考えてから、一行を書く。
――近づかなければ分からないと思っていた。でも、離れているから分かることもあるのかもしれない。
ノアが横から読む。
『悪くないわね』
「褒めた?」
『今日は素直に褒めてあげる』
「怖い」
『サーラの観測員みたいな反応しないで』
アリシアは小さく笑った。
練習帳を閉じる。
第三地点は、まだ残っている。
そこへ行く意味がなくなったわけではない。
いつか近づく必要があるかもしれない。
名前のない光のさらに奥を、直接確かめる日も来るかもしれない。
けれど今日。
アリシアは第三地点へ進まなかった。
第二地点へ戻った。
そこで昨日と同じことが起きなかった。
そして、もっと遠い生活観測区画へ戻ってから、新しい材料を得た。
前へ進むことは、必ずしも距離を縮めることではない。
同じ場所へ戻って確かめること。
昨日と今日が違うと知ること。
期待していた結果が出なかったことを、そのまま残すこと。
そして、自分が望んでいない結果からも次の問いを選び直すこと。
それもまた。
答えへ向かうための一歩だった。
東側地下区画のさらに奥では、奥側新反応がすでに通常の水準へ戻っていた。
名前のない光は動かない。
小空洞も静かだった。
西側補助連絡線にも、今夜は目立った変化がない。
生活観測区画では、アリシアの胸から冷たさは完全に消えている。
離れている。
それでも。
何かが同じ時間に変わった。
その事実だけが、今日新しく記録へ加わった。
六つ目の神器が何かを送っているのか。
何かを受け取っているのか。
遠く離れたもの同士の状態を共有しているのか。
それとも、そのどれでもないのか。
まだ答えはない。
けれど。
昨日まで「近づけば分かる」と思っていた問いの形は、少しだけ変わった。
近づくことだけが、確かめる方法ではない。
同じ場所へ戻ることも。
そこから離れることも。
何も起きなかった時間も。
予想が外れたことも。
全部、比べるための材料になる。
その夜。
アリシアは第三地点へ行けなかったことを少しだけ惜しいと思いながらも、昨日より静かな気持ちで目を閉じた。
今日の第二地点では、何も起きなかった。
それは失敗ではない。
昨日と今日が同じではないと分かった、はっきりした一つの結果だった。




