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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第156話 行きたいと決めたからこそ、どこで止まるかも先に決めておく



 翌朝、アリシアが目を覚ましたとき、胸の奥に昨夜の冷たさは残っていなかった。


 痛みも、息苦しさもない。闇の神器が普段そこにあるときの、言葉ではうまく説明できない静かな存在感だけが、いつも通り胸の内側へ収まっている。それでも目を開けて最初にしたのは、昨日二度目の冷たい震えを感じた場所へ右手を当て、自分の身体を確かめることだった。


 ゆっくり息を吸い、吐く。


 もう一度繰り返してみても、何も起こらない。


『朝から自分で確認できたのは偉いけど、そのまま三十分くらい胸へ手を当て続けるつもりじゃないでしょうね』


 枕元近くで丸くなっていたノアが、まだ眠たげな声を出した。


「してないよ」


『今、何秒?』


「知らない」


『自分で分からないくらいなら十分長いのよ』


「それ、適当じゃない?」


『猫の体感を侮らないで』


 アリシアは少しむっとしながらも手を離した。


 窓の外はよく晴れている。ここ数日で夏の気配はさらに濃くなり、朝早い時間だというのに陽射しにはすでに白い強さが混じっていた。庭の植え込みでは風を受けた葉が重なり合い、乾いた石畳の上へ細かな影を揺らしている。


 机の上には、今朝も何枚かの報告書が並んでいた。


 ただし、一番上に置かれているのは通常の東側地下区画の朝報告ではない。薄い青色の紙へ、今日予定されている段階的接近試験の条件がまとめられていた。


 アリシアは椅子へ腰を下ろし、紙を手に取る。


 昨夜、学院長たちと相談して決めた内容だ。


 東側地下区画へ続く廊下の入口を第一地点とする。第二地点は、過去にアリシアが通った際、六つ目の神器に目立った変化が確認されなかった中間地点。第三地点は、それよりさらに奥、以前弱い違和感を申告した場所より一歩手前まで。


 ただし、それらは「今日必ず到達する地点」ではない。


 第一地点で反応が出たなら、前進はそこで終了する。何も起こらなかった場合も、そのまま流れで第二地点へ進んではいけない。身体の状態、神器の反応、怖さ、そしてアリシア本人がまだ進みたいと思っているかを、一地点ごとに確認してから次へ移る。


 さらに、その下には昨日アリシア自身も同意した停止条件が書かれていた。


 痛み、または苦しさを一以上感じた場合は、その時点で申告する。神器に何らかの変化を感じた場合も同じ。怖さが五になれば、その場で継続について相談し、六になった場合は試験を止める。


 そして最後には、もう一つ。


 数値とは別に、本人が「今日はここまで」と言った場合、その理由を問わず終了する。


 アリシアは、その一文だけを少し長く見つめた。


『そこ、そんなに気になる?』


「うん」


『不満?』


「違うよ」


 紙の端を指で撫でながら、アリシアは少し考える。


「理由がなくても止まっていいって書いてあるから」


『そうね』


「でも、本当に何も理由がないのに止まりたくなることってあるのかな」


『あるんじゃない?』


「どんなとき?」


『知らないわよ。そのときのあなたに聞きなさい』


「今の私なんだけど」


 ノアは欠伸を一つしてから、金色の目を細めた。


『今ここで紙を読んでいるあなたと、実際に地下へ行ったあとのあなたは同じ人だけど、同じ状態じゃないでしょう』


 アリシアは紙から顔を上げた。


「子供みたいなこと言うね」


『あの子から学んだのは、あなただけじゃないのよ』


「ノアも?」


『私は元々賢いから、学んだというより再確認しただけ』


「ずるい」


『猫だから』


「便利だね、それ」


 どこかで何度も聞いたような言い訳に、アリシアは小さく笑った。


 その声で目を覚ましたのか、隣の寝台から布の擦れる音がする。


「……今日?」


 子供が、まだ眠気の残った目をこちらへ向けていた。


「うん。今日だよ」


「東、行く日?」


 アリシアは少しだけ考えてから、首を横へ振る。


「行くかもしれない日」


「まだ決まってない?」


「昨日の夜は行きたいって言った。でも、昨日の私がそう思ってたからって、今朝の私も同じだって決めないで、もう一回確かめることになってる」


「今は?」


 聞かれた瞬間、「行きたい」と答えそうになった。


 けれど、アリシアはそこで一度止まった。


 昨日の自分は確かに東へ行きたいと思っていた。昨夜も、その気持ちは変わらなかった。それでも、今朝の自分に同じ答えを押し付ける必要はない。


 身体はどうか。


 怖さは。


 知りたい気持ちは。


 そして、今この瞬間、本当に行きたいのか。


 順番に自分へ尋ねてから、アリシアは答えた。


「行きたいは八」


「昨日も八?」


「うん。でも、これは今日の八」


 子供の目が少し明るくなる。


「怖いは?」


「今は三」


「知りたいは?」


「九」


『相変わらず知識欲だけ突出してるわね』


「ノア何て?」


「欲張りだって」


『雑な翻訳やめなさい』


 子供がくすくす笑った。


「じゃあ、今は行きたい?」


「うん」


「途中で変わったら?」


「言う」


「怖さ五?」


「止まって相談する」


「六?」


「前へ行くのをやめる」


「痛い一?」


「すぐ言う」


「苦しい一?」


「それもすぐ言う」


 子供は、自分が条件をちゃんと覚えていたことに少し満足したように頷いた。


 そのあと、隣の寝台へ顔を向ける。


「おはよう」


 顔のない存在の胸にある十一の光は、すぐには変わらなかった。


 子供は急かさず待つ。


 しばらくして一つが淡く明るくなり、それから少し遅れてもう一つ。


「今は二つ」


 それだけを口にした。


 今日アリシアが東側へ行くかもしれないことと、顔のない存在の胸で二つの光が明るいこと。それらを結びつける言葉は付け加えなかった。


     ◇


 朝食のあと、正式な意思確認が行われた。


 場所は生活観測区画だった。


 特別な会議室を用意しなかったのは、アリシア自身の希望でもある。試験を行うからといって、朝から知らない部屋へ移され、大勢に囲まれた状態で「行きたいですか」と聞かれるより、普段過ごしている場所で確認した方が、自分の気持ちを確かめやすいと思ったからだ。


 学院長はいつも通り扉の外にいる。


 サーラと安全管理担当は、アリシアの許可を取って室内へ入った。治療教師も普段の観察時と変わらない距離に座り、ノアは当然のような顔で机の上に陣取っている。


「では、改めて確認します」


 サーラが記録板を開いた。


「昨日、東側への段階的接近試験を候補として決めました。ただし、実施するかどうかは今朝のアリシアさん本人の意思を確認したあとで決めることになっています。現在、参加したいと思っていますか?」


「はい」


 答えると、胸の奥へ少しだけ緊張が入った。


 それでも声は、自分で思っていたより落ち着いていた。


「理由を話せますか?」


 安全管理担当に尋ねられ、アリシアは少しだけ目を瞬いた。


 昨日の確認票には、「止めたいときは理由がなくてもよい」と書いてあった。それなのに始めるときには理由を聞かれるのかと、一瞬だけ引っかかったらしい。


 その表情を察したのか、学院長が扉の向こうから補足する。


「行きたい理由を証明しろという意味じゃないぞ」


「あ……」


「何を知りたいと思っているのか、今のお前自身がどう考えているかを共有しておきたいだけだ。それが途中で変わっても構わない」


「うん」


 アリシアは自分の胸へ手を置いた。


「六つ目の神器が、東側の補助連絡線とか、奥側新反応と関係してるのか確かめたい」


 昨日までに起きたことを、頭の中で一つずつ思い返す。


「東側で変化が出た時間と、私が冷たさとか震えを感じた時間が何回か近かった。でも、そのとき私は生活観測区画にいたでしょう?」


「はい」


「今日は私の場所を少しずつ変えて、そのとき六つ目と東側の両方がどうなるかを見たい」


「それだけですか?」


 サーラの問いに、アリシアは少し俯いた。


 次の言葉は、今でも口に出すと少し恥ずかしい。


「……私が、何に選ばれたのかも知りたい」


 昨日、練習帳には書けた。


 だから今日も隠す必要はない。


「六つ目が何をする神器なのか。私が『つなぐものかもしれない』って思ったのが少しでも近いのか、それとも全然違うのか。今日全部分からなくてもいいけど、今より材料を増やしたい」


 サーラは何も評価せず、そのまま記録した。


 続いて安全管理担当が、身体状態を確認していく。


「痛みは?」


「ゼロ」


「苦しさ、頭痛、腕の重さ」


「全部ゼロ」


「神器周辺の違和感は?」


「今はないです」


「疲労」


「一」


「怖さ」


「三」


「参加したい気持ち」


「八」


「知りたい気持ちは?」


 アリシアは少し笑いそうになりながら答えた。


「九」


『そこまで正式記録に残すの?』


「ノアが知りたい気持ち高すぎるって」


『私はそんな言い方してないでしょう』


「今してるじゃん」


『意味が違うのよ!』


 子供が小さく笑い、サーラの口元もわずかに緩んだ。


 安全管理担当は記録を続けながら言う。


「途中で数値が変わっても、それを悪いこととは扱いません。参加したい気持ちが八から五へ下がったとしても、戻さなければならないとは考えないでください」


「うん」


「怖さ五で相談、六で停止。ただし、怖さが三でも止まりたいなら止めて構いません」


「分かってる」


「二でも?」


「止めていい」


「ゼロでも?」


 そこでアリシアは少し目を瞬いた。


「ゼロでも?」


「身体上の問題や明確な恐怖がなくても、『今日はここまで』と思ったなら止められます」


 アリシアは少し考え込んだ。


 頭では分かる。


 けれど、まだ「何も問題がないのに止める」ことには違和感がある。


 せっかく準備したのに。


 皆が付き添ってくれているのに。


 危険でもないのに。


 そういう理由が頭へ浮かびやすい。


 その表情を見ていた子供が、机の上の木箱へ目を向けながら口を開いた。


「箱、怖さ五じゃなくても閉じたことある」


 皆の視線が子供へ集まる。


「見たくなくなったから?」


 アリシアが聞くと、子供は首を横へ振った。


「見たいはあった。でも、その日はもうここまでって思った」


「怖さは?」


「たぶん四」


「四でも閉じた?」


「うん。六になるまで待たなくていい」


 アリシアはしばらく子供を見つめた。


 自分が教えてきたつもりだった。


 けれど今は、その子供の言葉を自分が受け取っている。


「そっか」


『完全に教えられてるわね』


「うん」


 今度は否定しなかった。


「じゃあ、ゼロでも止めていい」


 安全管理担当が頷く。


「その理解で大丈夫です」


     ◇


 東側地下区画へ向かう通路へ入ると、生活観測区画にあった朝の明るさはすぐに遠ざかった。


 地上階の窓が減るにつれ、陽射しの代わりに壁へ埋め込まれた魔導灯の白い光が足元を照らすようになる。石壁は朝でもひんやりとしており、奥へ進むほど空気へ土と古い金属、それから長く閉じた場所に残る水分の匂いが混じっていった。


 同行する人数は、できるだけ絞られている。


 アリシアとノア。


 学院長。


 サーラ。


 安全管理担当。


 治療教師。


 それから記録と通信を担当する観測員が二人。


 土の神器継承者や魔導具教師は必要な場所で待機しているが、アリシアの周囲には集まらない。人数そのものが緊張度へ影響する可能性もあるし、何よりアリシア自身が大人数に囲まれて平静でいられる性格ではなかった。


「現在の怖さは?」


 最初の階段を下り切ったところで、安全管理担当が尋ねた。


 アリシアは自分の呼吸と足取りを一度確かめる。


「三……より少し低いかも」


「整数にする必要はありませんよ」


「じゃあ、二・五」


『急に細かくなったわね』


「ノアが面倒だって」


『数字を細かくした本人に言われたくないわよ』


 思わず笑えた。


 肩へ入っていた力が、少しだけ抜ける。


 学院長は前を歩いているが、何度も振り返って様子を確認しようとはしなかった。アリシアが止まれば足音で分かる程度の距離を保ち、必要以上に「大丈夫か」と聞かない。


 東側中継観測室に近い場所では、通信具を持った観測員が待っていた。


「各観測値、基準確認済みです」


 サーラがその場で一つずつ確認する。


「名前のない光は?」


「位置変化なし」


「小空洞」


「基準状態。周期反応なし」


「奥側新反応」


「通常範囲です」


「西側補助連絡線」


「西側班と同期済み。基準値取得済みです」


「では、アリシアさん側の継続記録も開始してください」


「了解」


 その言葉を聞いた瞬間、アリシアの胸が少しだけ縮こまった。


 何かに反応したわけではない。


 自分が、今日はこちら側から観察する人ではなく、観察される側でもあるのだと改めて意識したからだ。


「怖さ、三」


 聞かれる前に申告する。


 サーラが顔を上げた。


「身体上の変化は?」


「ない。ただ……観測されてるって思ったら、ちょっと緊張した」


「それも記録しますか?」


 アリシアは少し迷ったあと、頷いた。


「残してほしい」


「分かりました」


 学院長も、横から口を挟む。


「観測されていると意識したこと自体が条件を変える可能性はあるからな」


『それ以前に、人見知りをこれだけの人数で囲んで平常時の値を取ろうとする方が無理あるのよ』


「今日は少ない方でしょ」


『あなた基準では十分多いわ』


「聞こえてますからね」


 観測員の一人が苦笑した。


 その瞬間、アリシアの頬が熱くなる。


「今、怖さ三・五」


『上がったじゃない』


「ノアのせい」


『今のは観測員のせいでしょう』


 周囲から小さな笑いが漏れた。


 それでも、誰も緊張を「なくしてから」試験を始めようとは言わない。


 緊張しているなら、それも現在のアリシアだ。


     ◇


 第一地点は、東側地下調査区画へ続く廊下の入口に設定されていた。


 これより先は、アリシアが生活観測区画から地上の観測室へ移動するだけなら通る必要のない場所だ。


 石床には、以前から安全範囲を示すために引かれている細い白線がある。


 学院長はその少し手前で止まった。


「第一地点だ」


「うん」


「今日は線を越えない。手前に立てばいい」


 アリシアは一歩前へ出る。


 足先が白線の少し前で止まった。


 その瞬間に、何か起きるような気がしていた。


 昨夜までに二度、東側奥部の変化と六つ目の神器の冷たい震えが近い時刻で起きている。ならば、東側へ近づけばすぐ何か感じるのではないか。


 そんな期待が、自分の中にあった。


 けれど実際には、何も変わらなかった。


 胸も。


 闇の神器も。


 身体も。


 目の前の廊下も、ただ静かなままだ。


「第一地点、観測開始」


 サーラの声を合図に、アリシアはその場へ立つ。


 意図的に神器へ魔力は流さない。


 かといって、東側を意識しないよう無理に考えを逸らすこともしない。


 それでも、考えないようにしようとすればするほど、廊下の奥が気になった。


「意識しちゃう」


 アリシアがぽつりと申告する。


「何をですか?」


「奥に何があるのかなって」


「そのままで構いません」


「でも、意識したら条件変わらない?」


「変わる可能性はあります。ただ、『意識しないようにしてください』と指示した時点で、それも別の条件になります」


「じゃあ、どうするの?」


「今は奥が気になっている、と記録します」


「……観測って面倒」


『やっと理解したのね』


「ノアが嬉しそう」


『私は今日は見てる側だもの』


「ずるい」


 一分。


 二分。


 胸部冷感なし。


 震えなし。


 痛みも苦しさもなく、怖さは三から二・五へ少し下がった。


 東側の名前のない光にも変化はない。小空洞も静かで、奥側新反応は通常範囲のまま。西側補助連絡線にも対応する変化は記録されなかった。


「三分経過。予定観測時間終了です」


 サーラの声を聞き、アリシアは少し拍子抜けした顔になった。


「何もなかった」


「現在確認できる範囲では、そうですね」


「本当に?」


 思わず廊下の奥を見る。


「もう少しいたら、何か出るかも」


 学院長がそれを否定せずに尋ねる。


「そう思うか?」


「うん」


「なら、どうしたい?」


 アリシアは少し迷った。


 最初に決めた観測時間は三分。


 ここで何も起きなかった。


 あと一分。


 あと三分。


 反応が出るまで。


 そうやって延ばしていけば、何かが見つかる可能性はある。


 けれど、それでは「第一地点で三分間」という比較条件が崩れてしまう。


「……三分で終わる」


「理由は?」


「最初に三分で比べるって決めたから。あと、反応が出るまで待つことにしたら、いつ終わるか分からない」


 サーラが頷いた。


「第一地点、観測終了とします」


 アリシアは白線から一歩下がった。


 下がった瞬間にも、何も起きない。


「今の気持ちは?」


 安全管理担当に尋ねられ、アリシアは少し苦笑した。


「ちょっと残念」


「反応しなかったから?」


「うん」


「怖さは?」


「二」


「第二地点へ進みたいですか?」


 反射的に「行きたい」と言いそうになる。


 けれど、アリシアは口を閉じた。


 第一地点で出なかった。


 だから第二地点。


 その流れこそ、先に避けようと決めたものだった。


「……休憩してから決めたい」


 学院長が静かに頷く。


「そうしよう」


     ◇


 休憩は五分間だった。


 壁際へ用意された簡易椅子に腰掛け、水を少し飲む。ノアは当然のようにアリシアの膝へ飛び乗り、そこへ丸くなった。


『反応しなくて残念だったんでしょう』


「少し」


『どうして?』


「今日、何か分かると思ってたから」


『第一地点で?』


「どこかでは」


『それなら、残念でもいいんじゃない? 何も起きなかったって情報は取れたんだから』


「それは分かってる」


『分かってることと、がっかりしないことは別でしょう』


「……うん」


 アリシアは自分の両手を眺めた。


 指先は震えていない。


 以前の自分なら、反応しなかったことに焦ったかもしれない。


 ここでは足りない。


 もっと奥へ。


 あと少し近づけば。


 そんなふうに、何も起きなかった時間を飛ばして次の地点だけを見たはずだ。


 今も進みたい。


 けれど、第一地点で何も起きなかった三分を、無駄だったとは思わない。


「ノア」


『何?』


「次、行きたい」


『数字は?』


「七」


『朝より下がったわね』


「八だったからね」


『何で? 反応がなかったから?』


「違う……と思う」


 少し考える。


「実際に来てみたら、思ってたより緊張したからかも」


『怖さは?』


「今は二」


『緊張と怖さも、同じじゃないのね』


「うん」


 アリシアは立ち上がった。


「行きたい七。怖さ二。疲労一。第二地点まで進みたい」


 学院長はすぐに歩き出さなかった。


「身体状態は?」


「痛みゼロ。苦しさゼロ。神器の違和感なし。疲労一。怖さ二」


「第一地点で反応しなかったから、次へ行かなければならないと思っているわけではない?」


「うん。今の私が、第二地点までは行ってみたい」


「分かった」


 その確認を終えてから、ようやく一行は再び歩き出した。


     ◇


 第二地点までの距離は、第一地点からそれほど長くない。


 それでも、歩を進めるほどアリシアの中には「地下の奥へ入っている」という感覚が少しずつ強くなっていた。


 壁に並ぶ魔導灯の間隔は変わらない。


 床も同じ石材。


 壁も、見た目だけならさほど違わない。


 それなのに、背後の生活区画から離れていくほど空気が冷たくなったように感じる。


「気温、下がってる?」


 アリシアが尋ねると、観測員が携帯測定具へ目を落とした。


「入口側と比べて〇・三度ほど低いです」


「じゃあ、全部気のせいってわけじゃない」


「はい。ただ、この程度なら通常の地下温度差の範囲です」


「それも記録して」


「了解です」


 第二地点には、床へ小さな黄色い印が付けられていた。


 以前、別件でアリシアがここまで来た際、明確な神器反応が確認されなかった位置だ。その少し先で通路が曲がり、さらに奥へ第三地点がある。


「ここだ」


 学院長が立ち止まる。


 アリシアも黄色い印の上へ立った。


「怖さは?」


「三」


「少し上がった?」


「うん」


「相談基準の五ではない」


「うん」


「続けたい?」


「続けたい」


 サーラが時刻を確認する。


「第二地点、観測開始」


 また、何もしない。


 最初の数十呼吸は変化がなかった。


 アリシアは曲がり角の向こうを見つめる。


 さらに先。


 補助連絡線。


 名前のない光。


 小空洞。


 奥側新反応。


 どれも今いる場所から直接見えるわけではない。


 それでも、地図で何度も確認してきたからか、自分の中では位置の輪郭だけが妙にはっきりしていた。


「……東」


 気づけば、そんな言葉が口から出ていた。


 サーラがすぐに反応する。


「方向感覚ですか?」


「違う……いや、待って」


 アリシアは目を閉じ、胸へ手を当てる。


 痛みはない。


 冷たさもない。


 震えもない。


「なんとなく、向こうって感じた」


「通常の位置認識とは違う感覚ですか?」


「たぶん……でも、自信ない」


 言いながら、自分でも分からなくなってくる。


 東へ向かって歩いてきた。


 地図も知っている。


 廊下の奥に何があるか何度も聞いている。


 その知識を、神器から来た方向感覚と勘違いしている可能性もある。


「分からない」


 アリシアはそのまま言った。


 サーラも無理に分類しようとはしない。


「では、『東側奥部を意識したが、通常の位置記憶によるものか神器由来か判別できず』と記録します」


「うん。それがいい」


 言葉にしてもらったことで、少し楽になった。


 観測は続く。


 一分。


 胸部変化なし。


 二分。


 奥側新反応も通常範囲。


 名前のない光は移動せず、小空洞も静かなまま。西側補助連絡線にも変化は出ていない。


「……何もない」


 第一地点のときより、アリシアの声にははっきりとした落胆が混じった。


『顔に出てるわよ』


「自分でも分かってる」


『反応してほしいの?』


「うん」


 答えたあと、周囲の視線を感じた。


 少し恥ずかしい。


 けれど、今日はそれも隠したくなかった。


「何か感じたい。六つ目が、ここにある何かと関係してるって分かるものが欲しい」


 学院長は「期待するな」とも「そんなことを考えるな」とも言わなかった。


「そう思ってるんだな」


「うん」


「何も反応しなかったら?」


「……がっかりすると思う」


「それでも、反応しなかったことを記録する?」


「する」


「なら、それでいい」


 三分目へ入る。


 残り数十呼吸。


 アリシアは、自分が反応を探し始めていることに気づいた。


 胸。


 指先。


 呼吸。


 皮膚の温度。


 何かないか。


 ほんの少しでも。


 昨日のような冷たさでも。


 その瞬間だった。


 胸の奥へ、冷たい針先がほんの一瞬触れたような感覚が走った。


「……来た」


 小さな声だった。


 けれど、周囲にいた全員の意識が即座にアリシアへ集まった。


「申告をお願いします」


 サーラの声は落ち着いている。


 アリシアは目を閉じ、自分の身体を確かめた。


「冷たい。昨日の夜より弱い。胸の真ん中……少し右寄りかも」


「痛みは?」


「ゼロ」


「苦しさ」


「ゼロ」


「怖さ」


 少しだけ心臓が速くなっていた。


「四」


「震えは?」


「ない。今回は冷たいだけ」


「強さは?」


「一」


「方向感覚」


 答えようとして、一度止まる。


 今度はさっきよりはっきりしていた。


「……東。そう感じる」


「東側各班、同時刻照合を」


 サーラの指示で、二人の観測員が同時に通信具と記録板へ手を伸ばした。


 アリシアはその場から動かない。


 冷たさは、まだ胸の奥に残っている。


 強さ一。


 痛くはない。


 それでも明確に、普段とは違う。


「継続していますか?」


「うん」


「怖さは?」


「四のまま」


「止めたいですか?」


 安全管理担当からそう聞かれ、アリシアは少し驚いた。


 今まさに、欲しかった反応が出た。


 当然、もっと見たい。


「……見たい」


「試験条件については?」


 その言葉で、アリシアは我に返った。


 反応が出た地点で、その日の前進は終了する。


 それは今朝も確認した条件だ。


「ここから先には行かない」


「はい」


「でも、ここにいたまま少し見るのは?」


「本人が希望し、身体状態が許容範囲であれば短時間の継続観測は可能です。ただし冷感や怖さが上昇した場合は終了します」


「じゃあ、ここで見る」


「分かりました」


 そのとき、東側観測班から通信が返った。


『奥側新反応、短時間低下を確認』


 アリシアの心臓が大きく一度跳ねる。


「開始時刻を」


『アリシアさんの申告時刻から、記録上二呼吸以内です』


「小空洞は?」


『変化なし』


「名前のない光」


『位置変化なし。輪郭光量も現在のところ変化ありません』


「西側補助連絡線は?」


 返答には少し時間がかかった。


 西側の観測班が時刻を照合しているらしい。


『西側補助連絡線、該当時刻帯に明確な変化はありません。基準範囲内です』


 アリシアはゆっくり息を吐いた。


「東だけ?」


「現時点で対応する変化が確認されているのは東側奥部です」


 サーラが答える。


「じゃあ、六つ目は東だけに……」


 そこまで言って、自分から止まった。


「……は、まだ言えない」


『口が先に出る癖は直ってないわね』


「前より途中で止まれるようになったでしょ」


『そこは認めるわ』


 胸の冷感は、まだ一程度で続いていた。


 十五呼吸。


 二十呼吸。


「少し薄くなった」


「数値にするなら?」


「〇・五くらい」


「東側奥部は?」


『低下継続中。現在、基準値へ戻り始めています』


 さらに少しして、アリシアの胸から冷たさが抜けた。


「……今、消えた」


「時刻を記録」


 数呼吸後。


『奥側新反応、基準値へ復帰しました』


 アリシア側と東側奥部の復帰時刻の差は、記録上三呼吸以内だった。


 誰も大きな声を出さなかった。


 けれど、場の空気は明らかに変わっていた。


 昨日まで、生活観測区画にいるアリシアへ起きていた反応。


 今日は、本人が東側へ近づいた状態でも起きた。


 しかも今回も、奥側新反応の低下と時間帯が近い。


「……三回目?」


 アリシアが尋ねる。


「同型の反応として扱えるなら」


 サーラは慎重に答えた。


「アリシアさん側の神器に関係する可能性がある感覚と、東側奥側新反応の短時間低下が近い時間帯で確認されたのは三回目です」


「今回は、私が近くまで来た」


「はい」


「昨日までは生活観測区画にいた」


「はい」


「じゃあ、距離で起きた?」


「まだ判断できません」


「私がここまで来たから?」


「それも、まだ分かりません」


 分かっていた答えなのに、少しだけ悔しい。


 それでも今日は、昨日にはなかった条件を一つ増やせた。


 自分の位置だ。


「でも、次に比べられる」


「はい」


「第一地点では出なかった」


「今日の三分間では、出ませんでした」


「第二地点では出た」


「今回は、そうです」


「第三地点は?」


 口から出した瞬間、学院長より先に自分で気づいた。


 今日の条件。


 反応が出た地点で、その日の前進は終える。


「……行かない」


 アリシアは自分から言った。


「今日は、第三地点へ行かない」


 学院長が静かに頷く。


「そうだな」


「近いけど」


「ああ」


「行ったら、もっと強く反応するかもしれない」


「かもしれない」


「何も起きないかもしれない」


「それもある」


「知りたい」


「うん」


 アリシアは廊下の先へ目を向けた。


 胸の冷たさは消えている。


 身体も平気だ。


 怖さも四から三へ戻りつつある。


 だからこそ、行けそうだった。


 行けるから。


 あと少しだから。


 行きたかった。


 それでも。


「今日は第二地点で終わる」


 今度は、はっきり声へ出した。


「理由は?」


 学院長の問いに、アリシアは少し考える。


「最初に決めてたから……だけじゃない」


「うん」


「ここで反応が出た。第一地点では出なかった。だったら、今日の条件では第二地点に意味があったかもしれない」


 サーラが静かに頷く。


「第三地点へ行けば、また条件が一つ増えます」


「うん。今日それまでやったら、第二で起きたことを比べる前に、第三のことまで入ってきちゃう」


「そうですね」


「だから」


 アリシアは第三地点へ続く曲がり角を見た。


「行きたいけど、行かない」


 悔しさはあった。


 それでも、「止められた」とは感じなかった。


 自分で選んだ。


 その感覚の方が、今はずっと大きい。


『何点?』


 ノアが不意に聞いてきた。


「何が?」


『自分で止まれた点数』


「採点しないって言ってたでしょ」


『久しぶりにしてあげようかと思ったの』


「いらない」


『成長したわね。満点』


「急に雑」


 アリシアは思わず笑った。


     ◇


 戻る前に、第二地点で終了時の身体状態を確認した。


 痛みも苦しさもなく、胸部の冷感は完全に消えている。怖さは三、疲労は二。頭痛も指先の冷えもなく、自力歩行にも問題はなかった。


「本日の接近試験は、第二地点で終了します」


 サーラが記録板を閉じる。


 アリシアは黄色い印から一歩下がった。


 そこで一度だけ、後ろを振り返った。


 第三地点へ続く曲がり角。


 本当に、あと少しだった。


 以前の自分なら、きっと理由を幾つも作っただろう。


 あと一歩だけ。


 せっかくここまで来た。


 身体は大丈夫。


 今なら確認できる。


 皆もいる。


 けれど今は、近いこと自体を進む理由にはしない。


「明日も来る?」


 アリシアが尋ねる。


「今日の記録を見てから決める」


 学院長が答えた。


「私が来たいって言っても?」


「それも判断材料にする」


「来たいだけじゃ足りない?」


「足りないという意味じゃない。お前が来たいと思っていることは重要だ。ただ、次に取るべき条件が、第二地点での再確認なのか、第三地点への接近なのか、一日空けることなのかは、今日の記録も見て決める」


「……またいっぱいある」


「だから比べるんだ」


 アリシアは小さく息を吐いた。


「でも今日、比べられるもの増えた」


「ああ」


「第一では何も起きなかった。第二では起きた。昨日までは遠くにいても起きた」


「そうだ」


「同じような反応なのに、条件が違う」


「うん」


「じゃあ距離だけが原因じゃないかもしれない」


「その可能性はある」


「でも距離も関係してるかもしれない」


「ある」


「……難しい」


『やっといつもの結論ね』


「ノアうるさい」


 地下の冷たい通路へ、少しだけ柔らかな笑い声が残った。


     ◇


 生活観測区画へ戻ると、子供は木箱の前へ座っていた。


 蓋は閉じたまま。


 留め具は外れている。


 右手だけが、箱の縁へそっと置かれていた。


 アリシアの姿を見ると、子供は手を離す。


「帰った」


「ただいま」


「東、行った?」


「うん」


「どこまで?」


「第二地点」


「第三は?」


「行かなかった」


 子供の目が少し大きくなる。


「怖さ六?」


「違うよ。一番高かったときで四」


「痛い?」


「ゼロ」


「苦しい?」


「それもゼロ」


「じゃあ、どうして止まった?」


 アリシアは子供の近くへ座った。


「第二地点で六つ目が反応したから」


「冷たい?」


「うん。弱い冷たさ」


「東も?」


「奥の新しい反応が、ほぼ同じくらいの時間に弱くなった」


 子供はすぐに眉を寄せた。


「関係ある?」


「近い時間で起きたのは、同じ種類として数えるなら三回目」


「三回」


「うん。でも三回だから答え、にはしない」


「でも前より?」


「関係あるかもしれないって考える理由は増えたよ」


「じゃあ第三まで行けば、もっと分かったかも?」


「うん。分かったかもしれない」


「なのに行かなかった?」


「うん」


「約束だったから?」


「それもある。第二地点で反応が出たら、今日はそこまでって決めてたから」


「それだけ?」


 子供の問いに、アリシアは首を横へ振った。


「第三まで行ったら、今日の条件が増えすぎると思った」


「条件?」


「今日は第一と第二を比べられるでしょう。でも第三まで行ったら、第三の場所で起きたことまで今日に入る」


「いっぱいになる」


「うん。第二で起きたことをちゃんと見てから、その次を決めたいって思った」


 子供はしばらく黙っていた。


「行きたかった?」


「かなり」


「何点?」


「そのとき八くらい」


「今は?」


「七」


「怖さは?」


「二くらい」


 子供が首を傾げた。


「怖くないのに止まった」


「うん」


「昨日、ゼロでも止まっていいって言ってた」


「うん」


「本当にした」


「怖さはゼロじゃなかったけどね」


「でも六じゃない」


「うん」


 子供は木箱へ視線を戻す。


「私、今、開けたい五」


「そっか」


「怖い三」


「うん」


「開けてもいい?」


「子供がそうしたいなら」


「開けなくても?」


「いいよ」


 子供はしばらく箱へ手を伸ばさなかった。


 それから、アリシアを横目で見る。


「アリシアが止まったから、私も止まる?」


「それは違うよ」


「うん」


「私が東で止まった理由と、子供が箱をどうするかは別だから」


「分かってる」


 子供が少しだけ笑う。


「聞いてみただけ」


『試されたわね』


「ノア何て?」


「油断できないって」


『まあ近いわ』


 子供は木箱へ右手を乗せた。


 蓋の縁へ指をかける。


 少し力を入れると、木と木が擦れる音がして、蓋がほんのわずかに浮いた。


 前回とほとんど同じ程度。


 まだ中身は見えない。


 子供はそのまま呼吸を一つ置いた。


「今日は……ここまで」


 ゆっくり蓋を戻す。


「開けたい五のまま?」


 アリシアが尋ねると、子供は少し考えた。


「今は四」


「下がった?」


「少し開けたから」


「満足した?」


「少し」


「怖さは?」


「二」


「怖くないのに閉じた?」


 今度は子供が笑った。


「アリシアと同じ」


「真似した?」


「違うよ」


 少し真面目な顔になる。


「今、もっと見たいより、今日はここまでの方が大きかった」


「そっか」


「明日開けるかもしれない」


「うん」


「開けないかもしれない」


「うん」


「それでいい」


「うん」


     ◇


 午後の照合作業では、午前中の接近試験で得られた記録が、一つずつ別々に並べられた。


 第一地点では三分間観測したが、アリシア側に神器反応はなく、東側奥部、小空洞、名前のない光、西側補助連絡線にも対応する変化はなかった。


 第二地点では、観測開始からおよそ二分半後。


 アリシアが胸部冷感一を申告。


 方向感覚は東寄り。


 それとほぼ同じ時間帯に、東側奥側新反応が短時間低下した。


 両方とも三十呼吸未満で元の状態へ戻っている。


 小空洞に変化なし。


 名前のない光にも、位置や輪郭光量の変化なし。


 そして西側補助連絡線にも、その時間帯の明確な変化は記録されていなかった。


「西、出ませんでしたね」


 若い観測員が机へ並べた資料を見ながら言う。


「はい」


「昨日の誘導刺激では東側から西側へ遅れて対応波形が出た」


「はい」


「そのときアリシアさんにも冷感があった」


「そうですね」


「でも今日は、アリシアさんが反応して、東側奥部も下がった。でも西側には出なかった」


 若い観測員は少し考える。


「じゃあ、アリシアさんが東から西へ何かを中継してるって仮説は、弱くなる?」


 サーラはすぐには答えなかった。


 昨日の記録。


 今日の記録。


 刺激条件。


 アリシアの位置。


 それらを見比べてから答える。


「少なくとも、『アリシアさんが神器反応を示すと、その反応が必ず西側へ伝わる』という単純な形には合いません」


「消します?」


「修正します」


「どういう形に?」


「昨日の西側変化は、東側補助連絡線へ加えた刺激そのものが既存経路を通って伝わった可能性があります。アリシアさんは中継点だったのではなく、その変化を別の形で感知しただけかもしれません」


「つまり、道じゃなくて観測する側?」


「そういう可能性は上がりました」


「でも、中継してる可能性がゼロになったわけじゃない」


「はい」


「どうして?」


「今日と昨日では、東側へ入った変化の種類も強さも違います。西側へ届く条件が別にある可能性も残るからです」


 若い観測員が長く息を吐く。


「仮説って、なかなか消えませんね」


「消えるものもありますよ」


「いつ?」


「観測結果と明確に両立しないときです」


「今日のは?」


「単純な形では合わなくなりました。だから、その形のままは使いません」


「じゃあ、『六つ目は何かをつなぐ』っていうのは?」


 サーラは少し視線を上げた。


「まだ残ります」


「中継じゃないのに?」


「『つなぐ』という言葉が、信号や魔力を直接運ぶことだけを意味するとは限りません」


「状態を共有する?」


「可能性の一つです」


「離れた場所の変化を感じる?」


「それも考えられます」


「東西のどちらかに起きたことを、六つ目が拾う?」


「仮説にはできます」


 若い観測員は頭を抱えた。


「また増えた……」


 サーラはその反応を見て、少しだけ口元を緩める。


「でも?」


 最近では、この一言の意味も分かるようになったらしい。


 若い観測員は数秒考えてから答えた。


「……今日の結果があるから、昨日までと全く同じ考え方のままではいられなくなった」


「はい」


「『六つ目が東から西へ直接送った』だけだと、今日の西側無反応を説明しにくい」


「そうです」


「分からないことは増えたけど、使いにくくなった仮説も分かった」


「その通りです」


 若い観測員が少し得意そうに笑った。


「今の褒めます?」


「今日は普通に良かったですよ」


「急に普通に褒められると怖いな」


「なぜですか」


 記録係たちから小さな笑いが漏れた。


     ◇


 夕方。


 学院長から照合結果を聞いたアリシアは、予想していたより複雑な表情になった。


「中継じゃないかもしれない?」


「少なくとも、『アリシアを経由して東から西へ直接伝わった』という単純な形では、今日の結果とうまく合わない」


「そっか」


「残念か?」


 少しだけ迷い、アリシアは正直に頷いた。


「ちょっと」


「どうして?」


「私、『つなぐ』って思ったの、もしかしたら結構近いのかもって思ってたから」


「仮説そのものが消えたわけじゃないぞ」


「でも、形は変わる?」


「そうだな」


 アリシアは胸へ手を置く。


「六つ目が自分で何かを送るんじゃなくて、つながってるものの状態を感じるとか?」


「ありえる」


「離れた場所の変化が分かる?」


「それも候補だ」


「東側だけ?」


「今日の結果を見る限りでは、東側奥部との時間的な対応が一番はっきりしている」


「でも前に西側のことを感じたかもしれない記録もある」


「そうだ」


「……いっぱいある」


 アリシアは少し苦笑した。


 それから、しばらく黙って自分の指先を見た。


「でも」


「何だ?」


「前の私だったら、『つなぐ』って思ったら、それが正解であってほしくて、そのまま六つ目はつなぐ神器だって決めたくなってたかも」


「今は?」


「違ったら少し悔しいけど、違うなら違う方を知りたい」


「うん」


「答えを当てたいんじゃなくて、本当の方を知りたい」


 口にしてから、アリシア自身が少し驚いた。


 以前の自分なら、仮説が外れることは「失敗」に近かった。


 今は少し違う。


 外れたなら、違うと分かった。


 その先に、本当のものがある。


 床に座っていたノアの尻尾が、ゆっくり一度揺れた。


『いいこと言うじゃない』


「ノア褒めた?」


「珍しいな」


『そっちじゃないわよ』


 学院長の笑い声が扉の外から聞こえた。


     ◇


 夜になると、生活観測区画には昼間より少し涼しい風が入ってきた。


 子供は寝台へ入る前、木箱と二枚の白い花の絵を順番に見ている。


 顔のない存在は、午後になってから五歩だけ歩いた。


 子供は歩いている途中では声を出さず、本人が座ってから「今日は五」と記録した。胸の十一の光は、今は三つだけが淡く明るい。


「アリシア」


「うん」


「今日、東で反応した」


「うん」


「第一では何もなかった」


「うん」


「第二ではあった」


「うん」


「じゃあ、第二が答え?」


 アリシアは少し笑った。


「今のところは、『今日の第二地点で反応が出た』までかな」


「第三行ってない」


「うん」


「第三なら違うかもしれない」


「うん」


「第一でも明日なら出るかもしれない?」


「あると思う」


 子供は少し不満そうに天井を見た。


「場所、決まらない」


「まだね」


「でも、今日行った意味あった?」


「かなりあったよ」


「何分かった?」


 アリシアは少し考えてから答える。


「第一地点では、今日の三分間は神器も地下も変化しなかった」


「うん」


「第二地点では、私の冷たさと東の奥の反応低下が近い時間で起きた」


「うん」


「そのとき西側には変化がなかった」


「うん」


「だから昨日考えてた、『私が東から西へ直接何かをつないだのかもしれない』っていう考えは、そのままだと少し合わなくなった」


「間違い?」


「一部は違うかもしれない」


「嫌?」


「ちょっと」


「でも?」


「違うなら、分かった方がいい」


 子供は少し考えた。


「自分が思ったの外れたら嫌。でも、本当と違うままの方が嫌?」


「うん」


「私、箱の中、思ってるのと違ったら嫌かも」


「何が入ってると思ってるの?」


「分からない」


「じゃあ予想外れないじゃん」


「でも……少しいいものだったらいいって思ってる」


「そっか」


「怖いのだったら嫌」


「うん」


「空だったら?」


 その声が少し小さくなった。


「空も嫌?」


「……たぶん」


「どうして?」


「いっぱい考えたから」


 アリシアは棚前の箱へ視線を向けた。


 子供が何日もかけて近づいてきた木箱。


 中身が何であっても、ここまで近づいた時間がなくなるわけではない。


 けれど、それを今言ったからといって、空だったときのがっかりまで消せるわけでもない。


「空だったら、がっかりしていいと思う」


「うん」


「怖いものが入ってたら、怖いって思っていい」


「うん」


「思ってたのと違ったら、嫌って思ってもいい」


「うん」


「そのあとで、どうするかまた考えればいいよ」


 子供は少しだけ笑った。


「アリシアの六つ目も?」


「うん」


「つなぐじゃなかったら?」


「少しがっかりすると思う」


「でも調べる?」


「調べる」


「何だったら嬉しい?」


 アリシアは少し困った。


「分からない」


「強い神器?」


「強いだけなら、別に」


「いっぱいできる神器?」


「それ、すごく疲れそう」


『実にあなたらしいわね』


「ノア笑ってる?」


「うん」


「じゃあ何がいい?」


 アリシアは胸へ手を置いた。


 今日、第二地点で感じた冷たさは、もうどこにも残っていない。


「……私が選ばれた理由を、私自身が聞いて納得できたら嬉しいかも」


「強いからじゃなくて?」


「うん」


「アリシアだから?」


 その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。


「そうだったら……嬉しいと思う」


 子供は頷いた。


「じゃあ、分かるまで見る」


「うん」


「でも今日は第二で止まった」


「うん」


「明日は?」


「まだ決めてない」


「第三、行きたい?」


「かなり」


「何点?」


「今は八」


「怖さは?」


「二」


「じゃあ行く?」


「それは明日の私が決める」


 子供は口を尖らせた。


「数字だけじゃ決まらない」


「うん」


「難しい」


「うん」


 少しして、子供が小さく笑った。


「でも、前より分かる」


「何が?」


「行きたい八でも、行かないことある」


「うん」


「怖さ二でも、止まることある」


「うん」


「数字は命令じゃない」


「そうだね」


「言いやすくするため」


「うん」


 子供は布団を胸元まで引き上げた。


「じゃあ今日は、アリシアが行きたい八で止まった日」


「そうなるね」


「私は箱開けたい五で閉じた日」


「うん」


「顔のない人は五歩の日」


「うん」


「光は?」


「名前のない光は、今日は大きく動かなかったって」


「じゃあ、動かなかった日?」


「今のところはね」


 子供は少し考えたあと、目を閉じた。


「いっぱい違う。でも同じ日」


「そうだね」


「おやすみ」


「おやすみ」


 やがて子供の呼吸が、少しずつ眠りのものへ変わっていった。


 アリシアはすぐには自分の寝台へ戻らず、机の前へ座った。


 練習帳を開く。


 今日の記録を、自分の言葉で残していく。


 第一地点では反応がなかった。


 少し残念だった。


 第二地点では胸の奥に弱い冷感が出た。


 同じ時間帯に、東側奥部の反応も低下した。


 怖さは一番高いときで四。


 第三地点へ行きたいと思った。


 けれど、行かなかった。


 そこまで書き、最後の一文だけ少し長く迷った。


 そして、ゆっくり筆を動かす。


 ――止まったのは、怖かったからではない。今日知りたかったことを、今日の条件で見ることができたと思ったから。


『長いわね』


 横から覗き込んだノアが言う。


「自分の記録だからいいの」


『まあ、それはそうね』


「ノア」


『何?』


「今日、行ってよかった」


『そう』


「反応が出たからだけじゃなくて」


『うん』


「行きたいままでも止まれるって、初めてちゃんと分かった気がする」


 ノアはしばらく何も言わなかった。


 それから黒い尻尾を伸ばし、アリシアの腕へ軽く触れる。


『なら、今日はそれで十分なんじゃない?』


「うん」


 アリシアは練習帳を閉じた。


 東側の第三地点は、今日もその先に残っている。


 明日そこへ行くかどうかは、まだ決まっていない。


 西側の補助連絡線も、旧排水坑も、古い扉も残っている。名前のない光も、小空洞も、奥側新反応も、まだ互いの関係をすべて説明できるほどには分かっていない。


 そして何より、六つ目の神器そのものがそうだった。


 正式な名前も。


 本当の役割も。


 なぜ五つではなく六つ目が存在し、なぜそれが自分を選んだのかも。


 答えはまだ遠い。


 今日一日で分かったことより、分からないまま残ったことの方がずっと多い。第二地点で反応が出たからといって、そこが特別な場所だと決まったわけでもなければ、明日同じ場所へ立てば同じことが起きる保証もなかった。


 それでも、今日増えたものは確かにある。


 第一地点で、何も起きなかった三分間。


 第二地点で、胸の奥へ弱い冷たさが現れた時間。


 ほぼ同じ頃、東側奥部の新反応が低下し、けれど西側補助連絡線には明確な変化が出なかったこと。


 そして、第三地点へ進める身体だったのに、進まなかったという自分自身の選択。


 どれか一つだけが大事なのではない。


 反応した場所も、反応しなかった場所も。


 進んだ距離も、進まなかった一歩も。


 知りたいと思った気持ちも、そこで終えると決めた気持ちも。


 全部が今日の記録だった。


 アリシアは寝台へ戻る前に、もう一度だけ練習帳を開いた。


 さっき書いた最後の一文の下へ、何かを付け足そうとして筆を持つ。


 けれど、すぐには書かなかった。


『まだ書くの?』


「少しだけ」


『もう十分長いでしょう』


「でも、今思ったから」


『何を?』


 アリシアは答えず、紙を見つめた。


 以前は、止まることが怖かった。


 自分だけが進めないこと。


 皆が調べているのに、自分だけ休むこと。


 神器に選ばれたのに、その神器について知るための調査から離れること。


 止まれば、誰かに置いていかれるような気がしていた。


 あるいは、自分が役に立たなくなるような気がしていた。


 だから、まだ行けるなら行こうとした。


 痛くなければ。


 苦しくなければ。


 怖さが限界まで上がっていなければ。


 進める理由を探した。


 けれど今日、第三地点を前にして初めて分かった。


 止まる理由は、限界だけではない。


 今日取れたものを、今日取れたものとして残すために止まることもできる。


 次に何を見るのかを選べるように、あえて一つ先を残すこともできる。


 そして何より。


 行きたい気持ちが残っていても、それに従わないことを自分で選んでいい。


 アリシアは筆先を紙へ下ろした。


 ――止まる場所を自分で決めることも、調べることの一つ。


 書き終えてから、少し首を傾げる。


「変かな」


『何が?』


「これ」


 ノアが練習帳を覗き込む。


 しばらく黙ったあと、尻尾の先だけがゆっくり揺れた。


『別に』


「本当に?」


『あなたの記録なんでしょう』


「うん」


『だったら、今日のあなたがそう思ったなら、それでいいんじゃない?』


「……そっか」


 アリシアは今度こそ練習帳を閉じた。


 灯りを一つ落とす。


 生活観測区画の中が少し暗くなり、窓から入る夜の淡い光が床へ細長く伸びた。


 子供はもう眠っている。


 枕元から少し離れた場所には、今日も木箱が置かれていた。留め具は外れているけれど、蓋は閉じたままだ。


 今日はほんの少しだけ開いた。


 けれど中身を見るところまでは進まなかった。


 それを失敗とは、もう誰も呼ばない。


 隣の寝台では、顔のない存在が静かに横になっている。


 胸の十一の光のうち、三つが淡く明るい。


 午後に歩いたのは五歩。


 昨日より多いか少ないかではなく、今日は五歩だった。


 東側の名前のない光は、大きく動かなかった。


 小空洞にも目立った変化はない。


 それもまた、今日の記録として残る。


「いっぱい違う。でも同じ日……か」


 先ほど子供が言った言葉を、アリシアは小さく繰り返した。


『気に入ったの?』


「ちょっと」


『あの子の言葉、最近よく拾うわね』


「ノアだって拾ってるでしょ」


『私は参考にしてるだけ』


「それを学ぶって言うんだよ」


『うるさいわね』


 アリシアは声を抑えて笑った。


 そのまま自分の寝台へ入り、薄い掛け布を胸元まで引き上げる。


 眠る前に、一度だけ右手を胸へ置いた。


 朝と同じ場所。


 けれど、朝の確認とは少し違う。


 冷たさがないか。


 震えていないか。


 痛くないか。


 それだけを探すのではなく、そこにあるものを確かめるように触れる。


 六つ目の神器は静かだった。


 何も答えない。


 今日の反応が何を意味していたのかも教えてくれない。


 東側奥部と本当につながっているのか。


 離れた場所の変化を感じているだけなのか。


 それとも、今考えているどの仮説とも違う役割を持っているのか。


 まだ分からない。


 けれど以前より少しだけ、その「分からない」を急いで埋めなくてもいいと思えるようになっていた。


 明日、第三地点へ行くかもしれない。


 第二地点でもう一度確かめるかもしれない。


 一日空けるかもしれない。


 第一地点へ戻り、今日何も起きなかった三分間と同じ条件を取り直す可能性だってある。


 今のアリシアは第三地点へ行きたいと思っている。


 行きたい気持ちは八。


 怖さは二。


 それでも、その数字だけでは明日の行動は決まらない。


 明日の朝になったら、もう一度確かめる。


 身体を。


 怖さを。


 知りたい気持ちを。


 行きたい気持ちを。


 そして今日得られた記録を見て、皆と相談する。


 それから決めればいい。


 今日の八を、明日の自分へ押し付けなくてもいい。


「ノア」


『今度は何?』


「明日、私が第三地点行きたい十って言ったらどうする?」


『十なんて作ったの?』


「今作った」


『却下』


「なんで」


『上限を勝手に増やすと記録係が泣くでしょう』


「そこ?」


『それに、十だろうが百だろうが、行きたいだけで決めないって今日あなた自身がやったばかりじゃない』


 アリシアは少し黙った。


「……そうだった」


『一日で忘れないでちょうだい』


「忘れてないよ」


『なら寝なさい』


「うん」


 目を閉じる。


 静かな生活観測区画に、夜の音だけが残った。


 風が窓辺の布を揺らす音。


 子供の穏やかな寝息。


 どこか遠くで、夜間観測の担当者が扉を開閉する小さな音。


 そして、自分の呼吸。


 答えはまだ遠い。


 けれど今日、アリシアは答えへ近づくために自分たちで引いた線を、自分の意思で越えずに終えることができた。


 止まるための線は、前へ進むことを拒む壁ではない。


 次に比べるため。


 今日得たものを混ぜないため。


 自分の身体と気持ちを、答えより後ろへ置かないため。


 どこまでを今日の一歩にするのか、自分で決めるためにある。


 第二地点で起きた反応は、夜になっても記録の中に残っている。


 第一地点で何も起きなかった三分間も、同じように残っている。


 どちらか一方だけが価値のある結果ではない。


 反応した場所。


 反応しなかった場所。


 進んだ距離。


 進まなかった一歩。


 行きたいと口にしたこと。


 行きたいまま、今日は行かないと決めたこと。


 その全部を並べた先で、明日また何を確かめるのかを選んでいく。


 六つ目の神器には、まだ名前がない。


 本当の役割も分からない。


 自分を選んだ理由も分からない。


 それでも以前より少しだけ。


 アリシアはその分からないものを、誰かから与えられた役割としてではなく、自分自身の問題として見つめられるようになっていた。


 そして今日。


 前へ進むことだけではなく。


 どこで止まるのかを自分で選ぶこともまた、自分の答えへ近づくための一歩なのだと知った。

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