第155話 確かめるために近づくなら、どこで止まるかも先に決めておかなければならない
翌朝、アリシアが最初に確認したのは胸の奥ではなかった。
目を開ける。
天井を見る。
窓から入る朝の明るさを眺める。
それから一度だけ深く息を吸い、身体を起こした。
胸へ手を置いたのは、そのあとだった。
痛みはない。
苦しさもない。
冷たさもない。
昨日一日、生活観測区画から東側へ近づかずに過ごしたあいだ、六つ目の神器らしい震えは一度も起こらなかった。そのまま夜を越え、今朝もまだ静かなままだ。
『今朝は順番を変えたのね』
足元の布の上で、ノアが身体を伸ばした。
「何が?」
『昨日までは目を覚ますなり胸を触ってたでしょう』
「昨日、気にしすぎると自分で探しにいっちゃうって分かったから」
『多少は学習するのね』
「多少って何」
『褒めてるのよ』
「絶対違う」
窓の外では、昨日より雲が少なかった。
東の空から入る朝日は強く、庭の石畳へ木の葉の影を細かく落としている。雨のあとに残っていた湿り気もほとんど消え、植え込みの土だけが少し濃い色を残していた。
鳥の声がする。
姿は見えない。
けれど今朝のアリシアは、どこにいるのか探そうとは思わなかった。
「声だけ」
『何が?』
「鳥」
『それが?』
「子供、昨日言ってたでしょう。見えなくても声があるって」
『ああ』
「ちょっと分かる気がした」
『あなた最近、何でも子供から学ぶわね』
「悪い?」
『全然。ただ、どっちが観察されてるのか分からなくなってきたわ』
「それは私も思う」
アリシアは少し笑い、机へ向かった。
報告書は四枚あった。
東側。
西側。
生活観測区画。
そして、昨日から追加された「補助連絡線比較記録」。
最後の一枚だけ、紙の端へ赤い小さな印が付いている。
「何かあった?」
『まだ読んでないのに私へ聞かないで』
「赤いから」
『赤い紙を見ただけで異常だと思う癖も直した方がいいわね』
「印だよ。紙全部赤いわけじゃないし」
『細かい』
アリシアは椅子へ座り、まず補助連絡線の記録を開いた。
昨夕から夜にかけて、東側北管理廊下付近に残る古い補助連絡線と、西側旧制御区画付近の同種導線を同時測定した結果が整理されている。
双方に、非常に弱い共通周期がある。
完全一致ではない。
振幅も異なる。
東側の方が少し強く、西側はほとんど残留魔力に近い。
ただし、周期の山が来る時刻は長時間にわたって近い状態を保っていた。
そして赤い印の意味。
「……途中でずれた?」
アリシアが紙へ顔を近づける。
『何が?』
「東と西の波。夜中に一回だけ、東の方が先にずれたみたい」
記録を追う。
深夜。
東側補助連絡線の共通周期が、通常よりわずかに早く山を作った。
その後。
七呼吸ほど遅れて、西側の同種導線にも似た変化が出ている。
変化量は小さい。
一度だけ。
再現なし。
人間側の操作なし。
周辺設備の稼働変更なし。
生命反応なし。
危険値変化なし。
「七呼吸」
『近いわね』
「うん」
『つながってる?』
「って言いたくなる」
『言わないの?』
「まだ」
『成長したじゃない』
「今のは褒めてる?」
『八割』
「残り二割は?」
『もう頭の中では一本の線にしてる顔だから』
「してない」
『してるわね』
「可能性として考えてるだけ」
『それを忘れなければいいわ』
アリシアは一度紙を置いた。
東側で変化。
七呼吸ほど遅れて西側でも似た変化。
もし同じ補助連絡網だったなら、情報や状態値が伝わったようにも見える。
けれど、それだけではない可能性もある。
地盤全体の魔力変動。
同じ外部要因。
計測誤差。
残留魔力の自然な揺らぎ。
何も決まっていない。
それでも昨日より、次に何を調べるのかは見え始めていた。
東と西を別々に眺めるだけではなく。
本当に片側の変化が、もう片側へ届くのか。
それを確かめる。
「……今度は、人間側から少し動かす?」
『どうでしょうね』
「でも、昨日までずっと自然変化見たし」
『だから刺激する理由が出てきた?』
「うん。たぶん」
『その“たぶん”は会議で言いなさい』
「分かってる」
そこで寝台から小さな声がした。
「何が七?」
アリシアが振り返る。
子供が布団から顔だけ出している。
「起きてたの?」
「途中から」
「おはよう」
「おはよう」
子供は目を擦りながら身体を起こした。
「七、何?」
「東と西に残ってる古い線が、夜中に似た動きをしたんだって」
「同じとき?」
「少しずれた。七呼吸くらい」
「東が先?」
「うん」
「西があと?」
「うん」
子供はまだ眠そうな顔のまま、少し考えた。
「東が西に教えた?」
「そう見える可能性はある」
「でも分からない?」
「うん」
「何で?」
「同じ原因で両方変わっただけかもしれないし、たまたま似た変化が近い時間に出たのかもしれない」
「七呼吸って長い?」
「どうだろう。設備によると思う」
「人が話すなら?」
「七呼吸待ってから返事されたら、ちょっと長いかも」
子供は一度息を吸う。
吐く。
また吸う。
二回目。
三回目。
「七までやる?」
「やらなくていいよ」
「もう三」
『朝から何してるのよ』
「ノア、七呼吸やる?」
『嫌よ』
「嫌だって」
子供は笑った。
その笑いが落ち着いたあと、隣の寝台を見る。
「おはよう」
顔のない存在の胸。
十一の光。
今朝は、声をかけてしばらくしてから一つだけ明るくなった。
さらに少し待つ。
二つ目は来ない。
「今は一つ」
「うん」
子供はしばらく見た。
「昨日朝は三つ」
「うん」
「今日は一つ」
「うん」
「ちょっと少なく見えて寂しい」
「そっか」
「でも、明るいのが一つ」
「うん」
「十一はある」
「そうだね」
子供はそれ以上意味を足さなかった。
足を確認し、寝台を降りる。
今朝も痛みはない。
赤みもない。
歩いても違和感はなかった。
「セレナ?」
「あとで見るだけ」
「うん」
そのあと木箱を一度見た。
昨日は一日触らなかった箱。
留め具は外れたまま。
蓋は閉じている。
子供の視線が少し長く残る。
「今日は?」
アリシアが尋ねずにいると、子供自身が口にした。
「朝は触らない」
そして、少し笑う。
「昨日より、開けたいある」
「どのくらい?」
「四」
「数字にしたんだ」
「アリシアもする」
「私は治療記録でね」
「箱も記録」
『何でも数値化し始めたわね』
アリシアが訳すと、子供は少し考えた。
「でも四って、本当の四じゃない」
「どういうこと?」
「昨日の三と今日の四が、本当に一個違うか分からない」
「うん」
「今の感じを言いやすくした四」
「そうだね」
アリシアは、思わず感心してしまった。
『また子供に先越された顔してる』
「ノア」
子供が笑い、朝食へ向かう。
◇
朝食が終わる頃、学院長から会議の呼び出しが来た。
今日も場所は生活観測区画に近い小会議室。
ただし昨日より人数は少ない。
学院長。
副学院長。
サーラ。
魔導具教師。
安全管理担当。
アリシア。
そしてノア。
若い観測員は資料を置きに来ただけだったが、机へ紙束を置いたあと、少し未練がましく立っていた。
「何だ」
副学院長が聞く。
「いや、今日かなり大事そうだなって」
「観測室も大事だ」
「分かってます」
「なら戻れ」
「一個だけ聞いていいです?」
「何だ」
「今日、動かします?」
副学院長が学院長を見る。
学院長は少しだけ笑った。
「それを今から決める」
「ですよね」
「だから戻れ」
「はい」
『犬みたいね』
ノアが言った。
「ノア何て?」
若い観測員が聞く。
「言わない方がいいと思う」
「余計気になるんですけど」
「戻れ」
副学院長の声で、今度こそ若い観測員が部屋を出る。
扉が閉じると、学院長は昨日の同時観測記録を中央へ置いた。
「まず、昨夜の変化」
東側の補助連絡線。
西側の補助連絡線。
七呼吸ほどの時間差。
一度だけ。
「同じ外部要因は?」
学院長が尋ねる。
サーラが答える。
「確認できていません。学院全体の魔力供給変化なし。地脈変動も通常範囲。東西で同時に稼働した大型魔導具もありません」
「測定誤差?」
「可能性は残ります。ただ、両地点とも別系統の測定具で二重記録しています」
魔導具教師が補足する。
「測定具の時計ずれも確認しました。誤差は一呼吸未満です」
「なら、七呼吸は機器ずれでは説明しにくい」
「はい」
副学院長が腕を組む。
「東側で先に変化し、西側が後から似た変化をした」
「そう見えます」
「伝達速度として七呼吸?」
「距離が分かっていません」
サーラが古い図面を示した。
「途中の経路が中央付近で途切れているため、実際の線路長を計算できません」
「直線距離なら?」
「意味が薄いです。地下配線が真っ直ぐとは限りません」
学院長が頷く。
「では、今日の目的を決める」
アリシアは地図を見た。
昨日より、その言葉の意味がはっきり分かる。
見つけたから見る。
ではない。
何を確かめたいのか。
そのために、何をするのか。
「俺は二つ確認したい」
学院長が指を立てる。
「一つ。東西の補助連絡線が、今も何らかの形で影響を伝えるか」
もう一本。
「二つ。六つ目の神器が反応したのは、東側奥部反応そのものなのか、補助連絡線なのか、それとも別の何かなのか」
アリシアの胸の奥が少し緊張する。
「両方今日やる?」
「そこを相談する」
安全管理担当が先に口を開いた。
「同日に二種類の人為操作を重ねるのは避けたいです」
「理由は?」
「結果が出ても、どちらが原因か分からなくなるためです。それと、アリシアさん側の身体負荷が読めません」
アリシアはすぐ頷いた。
「じゃあ一個ずつ」
「そうしたい」
サーラが記録を整理する。
「東西線の伝達確認だけなら、アリシアさんを現地へ連れていく必要はありません」
「人間側から線へ少し刺激する?」
「はい。ただし、極小出力」
魔導具教師が小型の導線試験器を机へ置いた。
「補助連絡線そのものへ魔力を流し込むのではなく、東側線の近くに既知波形を置き、その影響が西側へ現れるか観測します」
「近くに置く?」
「線へ接触させません。誘導反応を見るだけです」
「それなら古い線を壊しにくい?」
「直接流すよりかなり安全です」
副学院長が尋ねる。
「既知波形は?」
「現在の学院で使う簡単な三段周期。短、短、長。自然変動と区別しやすいものです」
アリシアが口にする。
「東で短、短、長を出して、西にも同じのが出たら?」
「伝わった可能性がかなり上がります」
「時間差も見る?」
「もちろんです」
「出なかったら?」
「今回の条件では確認できなかった、です」
アリシアは少し笑った。
「もう言い方分かる」
『ようやくね』
「ノアうるさい」
学院長が少しだけ口元を緩めたあと、真面目な顔へ戻る。
「アリシア側は?」
サーラが答える。
「今日は生活観測区画で待機してもらいます」
「また?」
思わず出た。
全員がアリシアを見る。
「……嫌って意味じゃなくて」
『顔は嫌って言ってるけど』
「ノア」
「行きたい数字は?」
学院長が聞いた。
昨日子供に何度も聞かれたせいで、もう逃げられない。
「六」
「怖さは?」
「二」
「知りたいは?」
「八」
「高いな」
「だって」
「分かってる」
学院長の声は優しかった。
「だからこそ今日は行かない」
アリシアは少し口を閉じる。
「東西線が本当に応答するなら、六つ目の神器を現地へ連れていく前に知っておきたい」
「私がいない状態で?」
「そうだ。アリシアが条件へ入る前の基準になる」
「……そっか」
「それと、試験中にアリシアの神器が遠隔で反応するかも記録する」
アリシアの目が少し大きくなる。
「ここにいて?」
「ああ」
「もし反応したら?」
「距離だけでは切れない関係がある可能性が増える」
「反応しなかったら?」
「今回の小出力では反応しなかった」
「うん」
納得はできる。
少し残念でもある。
その両方だった。
「分かった。今日はここにいる」
「本人同意として記録していいか?」
「うん」
「途中で嫌になったら?」
「やめたいって言う」
「よし」
ノアの尻尾が小さく揺れた。
『あなた、自分でやめる条件を言えるようになったのね』
「前から言えるよ」
『前は倒れてからでしょう』
「……それは、やめるって言えてないね」
「何の話だ?」
学院長が聞く。
「何でもない」
『逃げた』
◇
試験は昼前に行われることになった。
東側北管理廊下。
昨日アリシアが六つ目の神器の反応を感じた地点。
ただし今日は、アリシア自身はそこへ行かない。
現地にはサーラ、魔導具教師、二人の観測員だけ。
西側には副学院長、別の魔導具教師、土属性術師、観測員二人。
双方の時計を合わせる。
測定具も二重化する。
人為刺激前に一時間の基準値を取る。
短。
短。
長。
それを一度だけ。
結果が分かりにくくても、同日中に何度も繰り返さない。
生活観測区画では、アリシアの身体状態も同時記録する。
「大掛かり」
子供が治療教師の用意した記録板を見た。
「ちょっとね」
「アリシア何する?」
「たぶん座ってる」
「それだけ?」
「それだけ」
『一番苦手そうね』
「ノア」
「何で?」
「何もしないで待つの苦手だから」
「昨日やった」
「昨日ちょっと慣れた」
「今日も?」
「今日も」
子供は少し考えた。
「私も見る?」
アリシアは答えず、治療教師と学院長を見る。
学院長は扉の外から尋ねた。
「試験結果を?」
「アリシア」
「私?」
「胸、震えるか」
アリシアは少し驚いた。
「見たいの?」
「うん。でも近く行かない」
「ここにいる?」
「うん」
「怖くなったら?」
「見ない」
「分かった」
学院長が言う。
「それならいい。ただし子供は観測員ではない。見ていなくても何も困らない」
「うん」
「途中で別のことしたくなったら?」
「する」
「よし」
「みんな、同じこと言う」
子供が笑った。
試験開始までの時間。
顔のない存在は寝台から動かなかった。
胸の光は二つ。
子供は木箱を一度見たが、触れなかった。
代わりに白い花の絵を出し、二枚を並べている。
アリシアは練習帳へ現在値を書いた。
痛みゼロ。
苦しさゼロ。
冷感ゼロ。
神器震えなし。
怖さ二。
期待六。
「期待も数字?」
子供が聞く。
「書いてみた」
「知りたい八は?」
「それも書く?」
「いっぱい数字」
『増やしすぎると数字を書くための記録になるわよ』
アリシアが少し止まる。
「ノア、正しい」
『いつも正しいわ』
「それは違う」
子供が笑った。
◇
時刻が来た。
通信具が開く。
『東側、基準値安定』
『西側、基準値安定』
学院長は生活観測区画の外で記録を取っている。
治療教師はアリシアの斜め前。
子供は自分の椅子。
ノアはアリシアの膝の横。
「始めます」
サーラの声。
『第一短波、三呼吸後』
アリシアは胸へ手を置かなかった。
昨日決めた。
探しにいかない。
感じたら言う。
それまでは普通に座る。
三。
二。
一。
『第一短波』
東側。
試験器がごく小さな魔力周期を作る。
生活観測区画には何も聞こえない。
アリシアにも何も起きない。
『東側線、微小誘導確認』
西側は沈黙。
『第二短波、五呼吸後』
待つ。
『第二短波』
また東側。
『誘導確認』
アリシアの胸は静か。
子供も黙っている。
顔のない存在の胸の光も、今のところ変わらない。
『長波、八呼吸後』
これが最後。
アリシアの喉が少し乾いた。
期待している。
反応してほしい気持ちがある。
けれど、それを起こすために魔力を使わない。
『長波開始』
三呼吸。
四。
五。
六。
東側から報告。
『長波誘導、正常』
その瞬間。
胸の奥が。
ほんの少しだけ。
冷えた。
「……今」
治療教師がすぐ記録する。
「冷感?」
「一。震えじゃない。冷たいだけ」
「痛み?」
「ゼロ」
「方向?」
アリシアは目を閉じる。
「……東、っぽい。でも昨日より弱い」
「継続?」
「まだ少し……今、消えた」
そのとき。
通信具の向こうで、西側の観測員が声を上げた。
『西側、変化』
生活観測区画の空気が張り詰める。
「内容」
学院長が即座に尋ねる。
『共通周期に一時的な振幅上昇。現在低下中』
「波形」
『……確認します』
数呼吸。
『短、短――』
誰も声を出さない。
『長』
子供の目が大きくなる。
アリシアの指先も僅かに強張った。
東側で人為的に作った。
短。
短。
長。
西側に。
似た並びが出た。
「時間差は?」
『第一短波相当から西側変化まで……六呼吸。第二も六から七。長波は七呼吸』
昨夜。
自然変化。
七呼吸ほど。
今日。
人為試験。
六から七呼吸。
サーラの声が入る。
『東側線への直接注入はしていません。誘導刺激のみです』
「他の設備変化」
『東側なし』
『西側もなし』
「地脈?」
『通常範囲』
アリシアは息を吸った。
「……伝わった?」
自分で聞いた。
学院長は少し間を置いた。
「伝わった可能性は、かなり上がった」
いつもの「まだ分からない」だけではなかった。
アリシアの目が少し大きくなる。
「かなり?」
「ああ」
サーラも否定しない。
『自然変動だけでは説明しにくいです。人為的に設定した短、短、長の周期が、時間差を伴って西側へ現れています』
「同じ線?」
『直接一本でつながっているかまでは分かりません。ただ、少なくとも何らかの経路で影響が伝達されたと考える理由は増えました』
「補助連絡網」
若い観測員の声が、東側から小さく入った。
『本当にまだ生きてる?』
サーラが訂正する。
『“正常稼働している”とは言いません』
『はい』
『ただ、完全に死んだ残留線だけではない可能性は高くなりました』
生活観測区画では、子供がじっとアリシアを見ている。
「アリシアも冷たくなった」
「うん」
「長いとき?」
「たぶん。時刻確認しないと」
治療教師が記録を見る。
「冷感申告は長波開始から五呼吸後です」
学院長がすぐ聞く。
「西側変化より前?」
「一から二呼吸前です」
部屋の空気がさらに変わる。
アリシアは自分の胸へ視線を落とす。
「私が先?」
「記録上は」
「東で長いの出た」
「うん」
「私が感じた」
「うん」
「そのあと西?」
「今の記録ではそうなる」
線を引きたくなる。
東。
アリシア。
西。
順番があるように見える。
けれど学院長は、そこで強い言葉を使わなかった。
「まず試験終了」
『了解』
「今日は追加刺激なし」
『了解しました』
若い観測員が少し残念そうに『一回だけですか』と言いかけたが、途中で自分から黙った。
副学院長の声が西から聞こえる。
『言わなくても分かるようになったか』
『分かってますよ』
『ならよし』
試験は、本当に一度で終わった。
◇
終了後。
アリシアは少し疲れていた。
身体的な疲労ではない。
期待。
緊張。
結果が出たかもしれない興奮。
その全部が重なっている。
治療教師の確認では、身体値に異常はない。
胸の冷感もすでにゼロ。
震えなし。
頭痛なし。
魔力量の低下もなし。
「今、行きたい数字は?」
子供が聞いた。
アリシアは思わず笑う。
「上がった」
「いくつ?」
「八」
「昨日七より高い」
「昨日じゃなくて今朝六」
「じゃあ二つ上がった」
『数字にすると煽られるわね』
「ノアは黙ってて」
子供は少し笑ったあと、真面目な顔になる。
「行く?」
「今すぐは行かない」
「八なのに?」
「うん」
「どうして?」
アリシアは少し考えた。
「今の記録を見たいから」
「行った方が分かるかも」
「そうかもしれない」
「でも?」
「今、東へ行ったら、今の反応が何だったのか整理する前に次の条件が増える」
自分で言って、少し驚いた。
以前なら。
結果が出た。
なら次。
もっと近くへ。
もっと強く。
もっとはっきり。
そう動いていた気がする。
「だから今日は、ここまで」
「アリシアが決めた?」
「うん。学院長にも止められると思うけど、私もそう思う」
子供は少し嬉しそうに頷いた。
「一緒じゃなくて、自分も」
「うん」
「それいい」
「うん」
子供は木箱を見る。
「私、開けたい四」
「朝言ってたね」
「今、五かも」
「増えた?」
「アリシア見てたら」
「何で?」
「分かったこと増えたら、次見たくなる」
「……分かる」
二人で少し笑う。
「でも今開ける?」
アリシアが尋ねる。
子供は木箱をしばらく見た。
「今は見ない」
「五なのに?」
「アリシア八で行かない」
「真似した?」
「少し」
「理由は?」
「今、アリシアの話見たい」
その答えに、アリシアは少し言葉を失った。
「私?」
「うん」
「箱より?」
「今は」
「そっか」
胸の奥が少し温かくなった。
◇
午後の会議では、試験結果が慎重に並べられた。
東側。
既知波形。
短、短、長。
線へ直接魔力注入はしていない。
誘導刺激のみ。
西側。
六から七呼吸の遅れ。
短、短、長に対応する振幅変化。
再現試験は未実施。
アリシア。
長波開始五呼吸後。
胸部冷感一。
方向感覚は東寄り。
震えなし。
痛みなし。
西側変化より一から二呼吸早い。
「仮説は?」
学院長が尋ねる。
サーラが三つ挙げる。
「第一。東西の補助連絡線は、途中経路を介して現在も弱く接続している」
「第二」
「六つ目の神器は、補助連絡線を流れる状態変化か、それに伴う何らかの魔力変動を感知している」
「第三」
「アリシアさんの反応と西側変化は直接関係せず、どちらも東側刺激へ別々に反応した」
副学院長が頷く。
「三つ目は残すべきだな」
「はい」
「アリシアが中継した可能性は?」
アリシアが思わず顔を上げる。
サーラも少し止まった。
「否定はできません」
「私が?」
「東側刺激。アリシアさんの冷感。西側変化。その順番だけを見るなら、そう見える可能性はあります」
「でも私はここにいた」
「距離の問題ではない接続なら、位置だけで否定できません」
アリシアの喉が少し乾く。
「六つ目が……東と西の間に入った?」
「まだ、その言い方は早いです」
「うん」
自分でも分かっている。
それでも胸が速くなる。
六つ目の神器。
補助連絡線。
状態を共有する設備。
東と西。
自分。
もし。
六つ目が、何かをつなぐためのものだったら。
その考えが浮かぶ。
けれど、アリシアは口にする前に一度止まった。
「……今、六つ目が“つなぐ神器”なんじゃないかって思った」
学院長がアリシアを見る。
「思ったんだな」
「うん」
「記録するか?」
「仮説として」
「そうしよう」
「でも、答えじゃない」
「ああ」
ノアが机の下から静かに言う。
『言えるようになったじゃない』
「うん」
今度は否定しなかった。
学院長が次へ進む。
「明日について」
全員の視線が集まる。
「今日の試験をそのまま再現する案が一つ」
「もう一回、短短長?」
アリシアが聞く。
「ああ。ただし、再現を先にするか」
学院長は東側北管理廊下の地図を指す。
「アリシア本人を、補助連絡線へ段階的に近づける案もある」
アリシアの胸が跳ねる。
昨日から待っていた言葉だった。
「行く?」
「まだ決めない」
分かっていた。
それでも少しだけ頬が膨らむ。
『子供みたいな顔してるわよ』
「うるさい」
安全管理担当が説明する。
「現地へ行く場合、昨日までの接近試験より条件を細かくします。補助連絡線そのものへ近い三地点を設定する」
「三つ?」
「第一地点。廊下入口。線から十分離れた位置」
「うん」
「第二地点。昨日までに反応がなかった中間位置」
「うん」
「第三地点」
担当者が地図へ印を置く。
「昨日、六つ目の神器が反応した位置より一歩手前」
「昨日の場所には行かない?」
「最初は」
「どうして?」
「一歩手前で反応するなら、昨日の位置まで行く必要がないからです」
アリシアは少し考え、頷いた。
「近づく距離も必要な分だけ」
「そうです」
「反応したら?」
「そこで停止」
「もっと強い反応見たくても?」
「その日は進めません」
アリシアは少し黙った。
行きたい八。
知りたい。
かなり。
だからこそ、その条件を先に決める意味がある。
「……分かった」
「反応しなかった場合」
「昨日の場所?」
「行くかどうか、その場で再確認します」
「最初から行くって決めない」
「はい」
「私が行きたいって言っても?」
「身体状態、周辺値、本人の意思を全部見て判断します」
「うん」
学院長が尋ねた。
「参加したいか?」
アリシアは地図を見る。
昨日。
反応地点。
今日。
遠隔試験。
東から西へ伝わったように見える短、短、長。
その途中で、自分の胸に現れた冷感。
怖い。
でも。
「行きたい」
「数字は?」
「八」
「怖さ」
「三に上がった」
「知りたい」
「九」
『上がってるじゃない』
「だって、私が途中に入った可能性あるって言われたから」
「嫌ならやめられる?」
学院長が聞く。
「うん」
「途中で、反応は出ていないけど怖さだけ上がった場合は?」
少し考える。
「止まりたいって言う」
「誰かに言われる前に?」
アリシアはそこで少し笑った。
「努力する」
「努力じゃなくて約束できるか?」
学院長の声は穏やかだった。
けれど、そこだけは曖昧にしなかった。
アリシアは数秒黙った。
以前の自分なら。
平気。
まだ行ける。
大丈夫。
そう言っただろう。
今は。
「……怖さ六になったら、自分から言う」
「五は?」
「相談する」
「痛み?」
「一でも言う」
「苦しさ?」
「一でも言う」
「神器反応?」
「出た瞬間に言う」
「よし」
安全管理担当が記録する。
「それなら、現時点では明日の段階的接近試験を実施候補とします」
アリシアはゆっくり息を吐いた。
行くことが決まったわけではない。
明朝、もう一度確認する。
それでも。
今までより一歩。
自分の話へ近づいた気がした。
◇
夕方、生活観測区画へ戻ると、子供が最初に尋ねた。
「明日、行く?」
「候補になった」
「候補?」
「朝、もう一回決める」
「アリシアは?」
「行きたい」
「八?」
「うん」
「怖い?」
「三」
「知りたい?」
「九」
子供が目を丸くする。
「いっぱい」
「増えた」
「何で?」
「今日の試験で、東で出した変化が西まで伝わったかもしれないの」
「短、短、長?」
「知ってるの?」
「学院長が昼に言ってた」
「早いな」
「東が短短長。西もあとで短短長」
「うん」
「アリシア冷たい」
「長いのの途中でね」
子供はしばらく考える。
「アリシア、線の途中?」
「そうかもしれないって話も出た」
「人じゃなくて?」
「人だけど」
「線?」
「線そのものって意味じゃなくて、何かをつなぐ方に六つ目が関係してるかもしれない、って」
「六つ目、つなぐ?」
「まだ仮説」
「仮説?」
「そうかもしれないっていう、確かめる前の考え」
「答えじゃない」
「うん」
「でも、前より大きい?」
アリシアは少し考えた。
「前よりは、調べる理由がある考えになったと思う」
「そっか」
子供は木箱を見る。
朝、開けたい五まで上がったと言っていた。
「箱は?」
アリシアが尋ねる。
「今、六」
「上がってるじゃん」
「アリシア九」
「知りたいの数字でしょう」
「私も知りたい六」
「怖さは?」
「四」
「開ける?」
子供は少し考えた。
「……今日は、蓋触る」
「開ける?」
「そこまで決めない」
「うん」
箱の前へ座る。
留め具は外れたまま。
子供は蓋の縁へ両手を添えた。
持ち上げない。
ただ触れる。
「昨日、一日触らなかった」
「うん」
「今日は触った」
「うん」
「開けたい六」
「うん」
「でも触ったら、今は五になった」
「下がった?」
「うん」
「どうして?」
「近くにいたら、今すぐじゃなくていいって思った」
アリシアは少し目を見開いた。
「近づいたら上がるだけじゃないんだ」
「何が?」
「知りたいとか、開けたいとか」
「うん」
「私も明日、東に近づいたら下がるかも」
「上がるかも」
「うん」
「だから行ってからも言う?」
「そうする」
子供は少し笑った。
「じゃあ一緒」
「何が?」
「途中で変わっていい」
「うん」
子供は蓋を持ち上げなかった。
両手を離す。
「今日は触ったまで」
「分かった」
◇
夜。
顔のない存在は、夕方近くになってから寝台を出た。
今日は六歩。
途中では数えず、座ってから子供が「六」と言った。
胸の十一の光は、その時点で三つ。
朝は一つだった。
子供はその変化を「歩いたから」と結びつけなかった。
「朝一つ。今三つ。今日は六歩」
自分の紙へ、それぞれ別々に書いた。
アリシアも、自分の練習帳へ今日のことを残した。
午前。
生活観測区画待機。
東側から誘導刺激。
短、短、長。
長波開始後、胸部冷感一。
方向感覚、東寄り。
痛みゼロ。
苦しさゼロ。
西側補助連絡線、六から七呼吸遅延で対応波形。
そして、その下へ。
――六つ目の神器が、補助連絡線の状態共有に関係する可能性を考えた。
少し迷ってから、さらに書く。
――私は明日、東側へ行きたい。知りたい九。怖さ三。
『数字まで残すの?』
「今日の私の記録だから」
『明日見たら恥ずかしくならない?』
「なるかも」
『消す?』
「消さない」
『どうして?』
アリシアは練習帳を見る。
「今日、本当にそう思ってたから」
『そう』
ノアはそれ以上何も言わなかった。
少し離れた寝台では、子供が布団へ入っている。
「アリシア」
「うん」
「明日、怖さ六になったら?」
「止まるって言う」
「五?」
「相談する」
「痛い一?」
「言う」
「苦しい一?」
「言う」
「行きたい十になったら?」
アリシアは少し笑った。
「それでも勝手に先へ行かない」
「本当?」
「……本当」
『今、一瞬間があったわね』
「ノア黙って」
子供が笑う。
「じゃあ約束?」
アリシアは少し止まった。
約束。
自分の身体について。
無理をしないこと。
誰かに止めてもらう前に、自分から言うこと。
以前なら、こんな約束を重く感じたかもしれない。
守れなかったときのことを考えて。
けれど今は。
「うん」
アリシアは頷いた。
「約束」
子供も小さく頷く。
「私も?」
「何を?」
「箱、怖さ六になったらやめる」
「子供がそうしたいなら」
「五は?」
「相談する?」
「うん」
「誰に?」
「アリシア」
「分かった」
子供が少し笑った。
「一緒」
「一緒だね」
◇
同じ夜。
東側と西側では、昼の試験記録をさらに細かく照合していた。
短。
短。
長。
東側誘導。
六から七呼吸後。
西側応答。
偶然としては、少し形が整いすぎている。
けれど、まだ一回。
次に同じ試験をして再現するかは分からない。
途中経路も見えていない。
中央付近で古い線がどこへ消えているのかも未確認だ。
その一方で。
六つ目の神器を持つアリシアは、西側変化よりわずかに前に、胸の冷感を感じている。
サーラは三つの時間軸を重ねた図を見つめていた。
「東」
若い観測員が言う。
「アリシアさん」
「はい」
「西」
「記録順では」
「順番みたい」
「そう見えます」
「でも、アリシアさんが中継したとは決めない」
「はい」
「じゃあ、もし明日、補助連絡線へ近づいたアリシアさんが反応したら?」
「線との関連性はさらに上がります」
「奥側反応も一緒に変わったら?」
「奥側反応、補助連絡線、六つ目の神器の三者関係を考える材料が増えます」
「西も変わったら?」
サーラは少し黙った。
「かなり重要です」
「答え?」
「まだ」
若い観測員が笑う。
「そこは変わらない」
「変える理由がありません」
「でも、前より答えに近い?」
サーラは測定盤の記録を見る。
しばらくして答えた。
「近いかどうかは分かりません」
「ええ」
「ただ」
サーラの指が、三本の時間線を順に追う。
「前より、何を確かめればいいかは、かなり分かってきました」
若い観測員は少し考えたあと、頷いた。
「それなら進んでる」
「そうですね」
◇
生活観測区画の灯りが夜間用へ落とされたあと。
アリシアはすぐには眠れなかった。
明日。
東側。
補助連絡線。
第一地点。
第二地点。
第三地点。
最初から昨日の反応地点へ行くのではない。
一つずつ近づく。
反応したら止まる。
怖さが上がったら言う。
痛みや苦しさが一でも出たら伝える。
途中で気持ちが変わってもいい。
行きたい八。
知りたい九。
怖さ三。
今は、その全部がある。
以前なら。
行きたい気持ちだけを理由に進んでいたかもしれない。
あるいは、怖いことを理由に「大丈夫」と隠したかもしれない。
今は違う。
行きたい。
怖い。
それを両方、明日の判断材料にする。
隣の寝台から、子供の寝息が聞こえる。
顔のない存在の胸には、十一のうち二つの光が弱く明るい。
ノアはアリシアの足元。
木箱は棚の前。
今日は蓋へ触れただけで、開けなかった。
それでも、その触れたことは残っている。
アリシアは胸へ手を置いた。
今は何もない。
冷たさも。
震えも。
呼ばれているような感覚もない。
だから今夜は、その静かさを静かなまま受け取る。
明日。
何か起きるかもしれない。
何も起きないかもしれない。
東側の線が、六つ目の神器へ反応するかもしれない。
アリシアの神器が、線へ何かを返すかもしれない。
奥側新反応が変わるかもしれない。
西側へ影響が届くかもしれない。
あるいは。
昨日までの出来事が、たまたま重なっただけだったと分かるかもしれない。
どれでもいい。
どれが出ても。
そのとき見えたものを残す。
そして。
進む前に、どこで止まるかを決める。
それは、怖いから後ろへ下がるための線ではない。
知りたい気持ちに押されて、自分の意思まで追い越さないための線だった。
アリシアはゆっくり目を閉じた。
その夜。
六つ目の神器は、最後まで震えなかった。
東側の奥部反応も、大きくは動かなかった。
西側の補助連絡線にも、昼の試験波形はもう残っていない。
明日のために。
今夜は。
どこも動かないまま、静かに朝を待っていた。




