第154話 動かない日にしか見えないものもある
翌朝、アリシアは目を覚ますと、ほとんど反射的に胸へ手を当てた。
痛みはない。
苦しさもない。
冷たい感覚も、昨日まで何度か感じた小さな震えもない。
静かだった。
あまりにも静かで、かえって少し物足りなく感じるほどに。
窓の外には薄い雲が広がっていた。朝日は雲越しに柔らかく、生活観測区画の床へ落ちる光も輪郭が淡い。庭の植え込みでは、葉の間に隠れた鳥が時折短く鳴いているが、姿までは見えなかった。
『朝から確認が早いわね』
寝台の足元で丸くなっていたノアが、顔も上げずに言った。
「昨日、明日は東へ行かないって決めたから」
『それと胸を触るのに何の関係があるのよ』
「行かなくても何かあるかもしれないでしょう」
『なるほど。休む日も観測日に変えたわけね』
「休むって言っても、何もしないわけじゃないし」
『昨日の学院長と同じこと言ってるわ』
「悪い?」
『別に。ただ、あなたの場合はそのまま“じゃあ休みながら全部考えよう”になりそうだから言ってるの』
アリシアは少しむっとしながら身体を起こした。
「ちゃんと休むよ」
『信用は六割』
「昨日より低い」
『昨日、東へ行きたい七まで上がってた人に何を期待しろっていうの』
「覚えてるの?」
『当然でしょう』
アリシアは返事をしながら寝台を降り、机の上を見る。
朝の報告書は、いつも通り置かれていた。
東側。
西側。
そして昨夜の生活観測区画の記録。
ただし、その横にもう一枚、見慣れない薄い紙が置かれている。
「これ何?」
『私に聞かないで』
手に取る。
表には、学院長の字で短く書かれていた。
――北側管理廊下・旧導線関連資料、朝会議前の暫定整理。
「もう調べたんだ」
『夜のうちに誰か働いてたのね』
「学院長かな」
『寝てない疑惑がまた濃くなるわね』
「あとで聞く?」
『聞いても“必要な情報か?”って返されるだけでしょう』
アリシアは少し笑い、紙を開いた。
昨日、北側管理廊下で六つ目の神器だけが弱く反応し、東側奥部反応には対応変化が出なかった地点。
そこを通る古い導線について、現時点で分かったことが簡潔にまとめられている。
導線そのものは完全に死んではいない。
魔力残留は極めて弱い。
現在の学院設備には接続されていない。
古い図面上では、東側北寄りの管理区画へ向かう線として途中まで確認できる。
しかし、その先は現行図面から消えている。
そして、もう一つ。
「……西?」
『何?』
「古い図面の別紙に、同じ記号の線が西側にもある」
ノアがようやく頭を上げた。
『同じ記号?』
「うん。でも、同じ導線って意味とは限らないって書いてある」
『ちゃんと予防線まで入ってるのね』
「最近みんな慣れすぎ」
『あなたたちが何度も先走った結果でしょう』
「私だけじゃない」
『若い観測員もいるものね』
「仲間にしないで」
『向こうも同じこと言いそう』
アリシアは紙をもう一度読む。
東側北管理線。
西側旧制御区画付近にも、同一記号を使った管理線表記。
記号の意味は未解読。
施設全体で共通規格だった可能性もある。
東西を直接つないでいた可能性もある。
まったく別系統へ同じ分類記号が使われていただけの可能性もある。
まだ分からない。
けれど昨日より、調べる対象ははっきりした。
「今日、これ見るんだ」
『あなたは行かないけどね』
「分かってる」
『本当に?』
「分かってるってば」
そこで、隣の寝台から布の動く音がした。
子供が目を覚ましている。
「……アリシアいる?」
「いるよ」
「東行った?」
「まだ朝だよ」
「今日行かない?」
「うん。今日は行かない予定」
子供は目を擦りながら天井を見る。
「行きたい?」
「行きたい」
「七?」
アリシアは固まった。
ノアの尻尾が楽しそうに動く。
『覚えられてるじゃない』
「誰が教えたの」
「昨日言ってた」
「忘れていいよ」
「八?」
「増やさないで」
子供が小さく笑った。
その笑いが落ち着いたあと、窓へ目を向ける。
「鳥、いる?」
「声はしたけど見えない」
「今日は声だけ」
「うん」
少し待つ。
もう一度、短い鳴き声。
「今、聞こえた」
「うん」
「見えないけど、声ある」
「そうだね」
子供はそれ以上鳥を探さず、隣の寝台を見る。
顔のない存在は横になっている。
「おはよう」
胸の十一の光へ声をかける。
少し待つ。
一つ。
二つ。
さらに少しして、三つ目が明るくなった。
「今は三つ」
「うん」
子供はしばらく見た。
「昨日朝は二つ」
「うん」
「今日は三つ」
「うん」
「良くなった?」
そこまで口にして、自分から少し首を傾げた。
「……明るい数が一つ多い」
「そうだね」
「それだけ」
「うん」
「でも、ちょっと嬉しい」
「それもいいと思うよ」
子供は少し笑い、布団を押し下げた。
足裏。
足首。
歩行。
いつもの確認を自分で行う。
「痛くない。赤くない」
「あとでセレナ?」
「見るだけ」
「うん」
そのあと、子供は木箱へ向かわず、机へ行った。
昨日描いた、箱の右側の擦り傷。
左側の小さなへこみ。
紙に残した二つの記録が、白い花の絵の隣に置かれている。
「今日は箱見ない?」
アリシアが尋ねる。
「今は見なくていい」
「そっか」
「昨日、横見たから」
「うん」
「今日また横見ても、同じかもしれない」
「うん」
「変わってるかもしれない」
「うん」
「でも今は、見たいが小さい」
子供は自分の胸へ手を置くようにして少し考える。
「朝ごはんの方が大きい」
『健全ね』
「ノアも朝ごはん?」
『私はもう食べたわ』
「早い」
『あなたたちが起きるの遅いのよ』
「普通だよ」
アリシアが言い返す。
子供はそのやり取りを聞きながら、食卓へ向かった。
◇
朝食の途中で、学院長が来た。
いつものように扉の外。
「学院長」
「いるぞ」
「寝た?」
子供がいきなり聞いた。
一拍。
「昨日も聞かなかったか?」
「昨日は聞くのやめた」
「なら今日も――」
「今日必要?」
「何にだ」
「アリシアが今日東行かないから、学院長も休む?」
扉の外が少し静かになった。
アリシアは思わず匙を止める。
ノアは床で耳を立てている。
「……休まない」
「じゃあ寝た?」
「少しは」
「何時間?」
「必要な情報か?」
子供が笑った。
「やっぱり言った」
「分かってたなら聞くな」
「確認」
「何の確認だ」
アリシアまで笑いそうになる。
学院長は小さく咳払いしてから、本題へ移った。
「アリシア。昨日の北側管理廊下について、朝の時点で少し分かった」
「紙見た」
「早いな」
「机に置いてあった」
「そうだったな」
「同じ記号、西にもあるって」
「ああ」
「同じ線?」
「まだ分からない」
「同じ種類?」
「その可能性もある」
「東と西をつないでる?」
「それも候補だ」
子供が麦粥を食べながら口を挟む。
「いっぱい候補」
「そうだな」
「今日は何する?」
「まず、古い記号の意味を調べる。それから西側に残っている同記号線が、東側のものと同じ構造か確認する」
「アリシア行く?」
「今日は行かない」
子供はアリシアを見る。
「嫌?」
「ちょっと」
「何する?」
「私はここで、何も起きないか見る」
「何も起きないを見る?」
「うん」
子供は不思議そうな顔をした。
アリシア自身も、言ってから少し変な言い方だと思った。
「昨日まで、東へ近づいたときに反応したでしょう?」
「うん」
「今日は近づかない。普通にここで過ごす」
「それで震えたら?」
「近づかなくても起きるって分かるかもしれない」
「震えなかったら?」
「今日の間は起きなかったって記録する」
「答え?」
「まだ材料」
「また」
子供が少し笑った。
「でも、動かないのも調べる?」
「うん」
学院長が扉の外から続ける。
「昨日までの反応が、接近試験を続けたことで残っていた影響なのか、それとも離れれば完全に消えるものなのか。その確認も必要だ」
「休むのも試験?」
「試験にするために休むわけじゃない」
子供は少し考える。
「休む必要ある。だから休む。その間も記録できる」
「そういうことだ」
「前の何もしないと同じ?」
「似てるけど、理由は少し違う」
「また違う」
「全部同じにすると危ないからな」
子供は麦粥を飲み込み、納得したように頷いた。
「じゃあ今日は、アリシア動かない日」
「ずっと動かないわけじゃないよ」
「東に動かない日」
「それなら合ってる」
◇
午前。
アリシアは会議へ行かなかった。
学院長たちは北側管理廊下の古い導線と、西側に残る同記号線の資料照合へ移っている。
生活観測区画には、アリシア、子供、顔のない存在、ノア、治療教師が残った。
セレナも一度来て、子供の足とアリシアの身体状態を確認している。
「昨日からの疲労は?」
「一」
「胸の冷感は?」
「ゼロ」
「震え?」
「なし」
「頭痛?」
「なし」
「腕の重さ?」
「なし」
「魔力使用は?」
「朝からほとんど使ってない」
「では通常状態として記録します」
セレナはそれ以上、東側の話を広げなかった。
確認が終わると、いつもの距離へ戻る。
子供が彼女を見た。
「セレナ、今日は東行かない?」
「私は行きません」
「何する?」
「ここにいます」
「ずっと?」
「必要な範囲で」
「アリシア見る?」
「それも仕事の一つです」
子供は少し考える。
「アリシア、観測される?」
「……そうなるね」
アリシアは少し複雑な顔になる。
『今さらでしょう』
「ノア」
『あなた、今まで人を見る側に回りすぎたのよ』
子供が首を傾げる。
「嫌?」
「ちょっと変な感じ」
「私も最初嫌だった」
「うん」
「アリシアも?」
「見られすぎるのは苦手」
「人見知り」
「それ関係ある?」
『大ありよ』
「ノア、うるさい」
子供が笑った。
そのあと、午前中は本当に大きなことが起こらなかった。
子供は白い花の二枚の絵を並べ、しばらく見たあと、今日は新しい絵を描かなかった。
木箱にも触れなかった。
顔のない存在も寝台の上で横になったまま。
アリシアの胸にも変化はない。
一時間。
二時間。
何もない。
最初の一時間は、アリシアも何度か胸へ意識を向けていた。
来るか。
来ないか。
少しでも冷たくならないか。
けれど、それを繰り返すうちに、かえって自分で感覚を探しにいっていることへ気づいた。
「……これ、駄目かも」
練習帳へ向かっていた子供が顔を上げる。
「何が?」
「反応あるか気にしすぎてる」
「見つけたい?」
「うん」
「じゃあ、ないのにあるって思う?」
「そこまではしないつもりだけど……小さい違和感を、これかなって拾っちゃうかもしれない」
ノアが床から言う。
『なら忘れなさい』
「簡単に言うなあ」
『忘れろじゃなくて、別のことしなさいって意味よ』
「何する?」
子供が尋ねる。
アリシアは少し考えた。
「……白い花の絵、見てもいい?」
「いいよ」
「二枚とも?」
「うん」
子供が紙をアリシアの方へ少し動かす。
一枚目。
まだ白い花弁があった頃。
二枚目。
花弁を失い、茎と小皿が中心になった今の姿。
「かなり違うね」
「同じ白い花」
「うん」
「でも違うとき」
「うん」
子供は少し考えてから言う。
「アリシアも、昨日と今日違う」
「うん」
「昨日は東行った。今日は行かない」
「うん」
「同じアリシア」
「うん」
「胸、今日何もない」
「今はね」
「昨日の震えなくなった?」
「今はない」
「昨日あったこと、消えた?」
「消えてない」
「じゃあ、今日ないも増える」
アリシアは少し目を見開いた。
「何が?」
「昨日は近づいたらあった。今日は近づかないで今ない」
「うん」
「違う日」
「そうだね」
「両方記録」
「うん」
子供は絵を元の位置へ戻した。
「何もないも描く?」
「難しくない?」
「白い紙?」
「何も描かないの?」
「それはただの紙じゃない?」
子供が笑う。
「じゃあ、書く」
「何て?」
子供は小さな紙を一枚取り、そこへゆっくり文字を書いた。
まだ少し歪んでいる。
――今日は、花を描かなかった。
「それも記録?」
「私の」
「そっか」
アリシアは思わず自分の練習帳を開いた。
午前。
接近なし。
魔力使用ほぼなし。
痛みゼロ。
苦しさゼロ。
冷感ゼロ。
震えなし。
そして最後に。
――反応を探しすぎないため、途中から別のことをした。
『それ大事ね』
ノアが覗き込む。
「本当に?」
『観測対象本人が自分の症状を探し続けると、何でも反応に見え始めることがあるでしょう』
「ノア、急に真面目」
『いつも真面目よ』
「嘘」
『失礼ね』
◇
昼前。
学院側の資料室では、別の意味で地味な作業が続いていた。
古い紙。
さらに古い紙。
補修前の図面。
改修後の図面。
管理記号一覧。
使用されなくなった設備分類表。
華やかさはない。
地下へ入るわけでもない。
光が動くわけでもない。
けれど、今日の調査ではそこが中心だった。
「同じ記号、ありました」
若い観測員が大きな帳面を持ってくる。
学院長、副学院長、サーラ、魔導具教師が机を囲んでいる。
「どこだ?」
「百八十七年前の管理設備分類表です」
「古いな」
「最近、二百年前なら新しい気がしてきました」
「戻せ、その感覚」
「無理かもしれません」
副学院長が呆れたように息を吐く。
帳面を開く。
昨日アリシアが反応した北側管理廊下の導線に記されている印。
二重円の内側へ短い横線。
西側旧制御図面にも同じ印がある。
分類表には、その意味が残っていた。
「……補助連絡線」
サーラが読む。
「連絡?」
若い観測員が身を乗り出す。
「通信ですか?」
「まだ決めるな」
「はい」
学院長が下の説明を読む。
「主制御系から独立し、複数の局所設備間で状態値を共有する補助線……」
「状態値?」
魔導具教師が別の欄を見る。
「水量。圧力。魔力残量。開閉状態。警報値……用途は設備ごとに違うようです」
「じゃあ情報線?」
「かなり近いですが、魔力制御も一部返していた可能性があります」
「東と西をつないでた?」
若い観測員が聞く。
サーラが図面を二枚並べる。
「少なくとも、同じ種類の補助連絡線が東西双方にあったことは確認できました」
「同一本?」
「それはまだです」
「でも分類は同じ」
「はい」
副学院長が西側の図面を指す。
「西側の線は第二排水支路点検口候補付近から旧制御区画方向へ伸びている」
「東側は?」
「北側管理廊下から、現在の奥側反応方向とは少しずれた旧設備区画へ」
「じゃあ、アリシアさんが反応したのは東側の補助連絡線」
「そう見える」
「六つ目の神器が、情報線に反応した?」
全員が少し黙った。
若い観測員自身が、今度は慌てずに続ける。
「……という仮説が出る」
サーラが頷く。
「はい」
「でも奥側新反応とも対応した」
「はい」
「奥側反応が、この補助連絡線につながっている可能性?」
「あります」
「じゃあ、昨日の帰路でアリシアさんだけ震えて、奥側反応が変わらなかったのは?」
「線そのものへの反応だった可能性も考えられます」
「ただし」
魔導具教師が口を挟む。
「補助連絡線が現在も機能しているとは限りません。残留魔力へ神器が反応しただけかもしれない」
「過去の役割と、今の反応を同じにしない」
「その通り」
若い観測員が少し笑う。
「今日、地下行ってないのにかなり進んでません?」
「進んだと言うより、質問が絞れた」
学院長が答える。
「次に確かめるべきは、東側の補助連絡線と奥側新反応が現状でつながっているか。それから西側の同系線が今も何かを共有しているか」
「西側も戻ってきた」
「最初から消えてない」
「はい」
若い観測員は、少し前まで東側ばかり見ていた自分を思い出したのか、苦笑した。
「新しい線見つけたら、西の前の記録も意味変わるかもしれない」
「変わるというより、見方が増える可能性がある」
サーラが言う。
「第二排水支路の排水圧設備候補。旧制御区画。弱い魔力導線。これらが、補助連絡線を通して状態共有していたなら、今まで別々に見えていた記録の一部が説明できるかもしれません」
「答え?」
「候補です」
「ですよね」
◇
昼食時。
学院長から新しい報告を聞いた子供は、今日は少し長く考え込んだ。
「補助連絡線」
「そう呼ばれていたらしい」
「何する線?」
「昔は、別の設備同士で状態を伝えるために使っていた可能性が高い」
「状態?」
「水が多い。少ない。圧力が高い。低い。扉が開いてる。閉じてる。そういう情報だな」
「話す?」
「人みたいに言葉を使うわけじゃないが、設備同士で知らせる感じは近い」
「東と西?」
「両方に同じ種類の線があった」
「同じ線?」
「それはまだ分からない」
子供は麦粥を少し食べる。
「アリシア、昨日その線近くで震えた?」
「うん」
「東の奥、変わらなかった?」
「そのときはね」
「じゃあ、線に反応した?」
アリシアは少し笑う。
「そうかもしれない。でもまだ分からない」
「今日のアリシアは?」
「何もない」
「東行ってないから?」
「それもまだ分からない」
「補助線から遠い?」
「かなり遠い」
「じゃあ近づいたらまた?」
「そうなるかもしれない」
「明日行く?」
アリシアは学院長が答える前に、自分から首を横へ振った。
「まだ決めてない」
学院長の声が少し笑う。
「成長したな」
「何で?」
「昨日までなら先に“行きたい”と言ってた」
「行きたいはあるよ」
「数字は?」
子供がすぐ聞く。
「……六」
「下がった」
「何で覚えてるの」
「昨日七」
『私も覚えてるわ』
「みんな忘れて」
笑いが少し続いた。
それから子供が、ふと木箱を見る。
「箱も連絡する?」
「箱?」
アリシアが聞く。
「外見と中身」
「どういうこと?」
「外から見て、中に何あるか分からない。でも擦り傷とか、穴とかで前のこと少し分かる」
「うん」
「線も、昔の状態残ってる?」
「そうかもしれないね」
「今は使ってない。でも昔使った跡ある」
「うん」
「白い花の絵みたい」
「どこが?」
「今の花と違う。でも前の状態分かる」
学院長が少し間を置いてから言った。
「そういう見方はできるな」
子供は少し嬉しそうに麦粥を食べた。
◇
午後。
生活観測区画では、ようやく顔のない存在が起き上がった。
午前中はほとんど寝台から動かなかった。
子供も何度か見たが、起こそうとはしなかった。
人影が身体を起こし、足を床へ下ろす。
一歩。
二歩。
三歩。
子供は途中では声を出さない。
四歩。
五歩。
六歩。
そこで一度止まる。
以前なら、窓までの距離を見たかもしれない。
今日の子供は、人影そのものを見ている。
さらに一歩。
七。
八。
九。
人影が止まった。
窓まで、あとわずか。
昨日は四歩だった。
今日は九。
子供の顔に、はっきり嬉しさが浮かぶ。
けれど言葉はまだ出さない。
人影はしばらく立つ。
そのまま床へ座る。
「今日は九」
子供がようやく言った。
「うん」
「昨日四」
「うん」
「今日は九」
「うん」
「嬉しい」
「うん」
「昨日より進んだ」
「うん」
「でも昨日の四なくなったじゃない」
「そうだね」
「昨日は四歩の日」
「うん」
子供は少し考えた。
「今日、九だから昨日が悪かったにならない」
「うん」
「明日三でも?」
「その日は三歩歩いた日だね」
「ちょっと残念はあるかも」
「うん」
「でも悪いって決めない」
「そうだね」
顔のない存在の胸を見る。
十一の光のうち、今は四つが淡く明るい。
「四つ」
「うん」
「朝は三つ」
「うん」
「歩いたから?」
子供は途中で止まる。
「分からない」
「うん」
「でも歩いたあと四つ」
「そうだね」
「両方書く?」
「書きたい?」
「うん」
子供は自分の紙へ、「九歩」「今四つ」と書いた。
原因は書かない。
それを見ていたアリシアが、少し笑う。
「観測員みたい」
「アリシアも?」
「今日は?」
「うん」
「私は、まだ冷感ゼロ。震えなし」
「書いた?」
「書いたよ」
「何もないいっぱい」
「何もないいっぱいって変じゃない?」
「でも朝からずっとない」
「確かに」
◇
夕方前。
学院長たちは、西側の同系統補助連絡線を直接確認する準備だけを進めていた。
今日は開けない。
掘らない。
排水もしない。
既存の安全確認済み範囲から、測定具で線の残留値を読む。
場所は、第二排水支路点検口候補と旧制御区画の中間。
「反応は?」
副学院長が尋ねる。
「あります」
魔導具教師が測定盤を見る。
「東側北管理線より弱い。ただし完全には消えていません」
「波形比較」
別の観測員が二つの値を並べる。
「似ています」
「どの程度?」
「基礎周期は近い。ただ、振幅が違います」
「同じ線?」
若い観測員が聞く。
「同じ種類の残留状態である可能性は上がった」
魔導具教師が答える。
「直接つながってる?」
「まだ分からない」
「ですよね」
「ただし」
教師は測定盤の一部を指す。
「東側の線にも、西側の線にも、非常に弱い共通周期が一つあります」
「同時?」
「今のところ、位相は近い」
「位相?」
「波の山が来る時刻が近いという意味です」
若い観測員の顔が変わる。
「共有してる?」
「可能性の一つ」
「でも百年以上前の線ですよね」
「だからこそ慎重に見る」
副学院長が通信具を取る。
「東側と同時測定を一時間。人為刺激なし」
「何もしない?」
「今はな」
「また比較」
「そうだ」
若い観測員は少し笑った。
「今日は本当に、動かない調査の日ですね」
「人間が走り回らなくても、調査はできる」
「勉強になります」
「お前は特にな」
「また俺だけ」
◇
夕方。
アリシアの胸には、まだ何も起きていなかった。
午前。
昼。
午後。
冷感なし。
震えなし。
痛みなし。
苦しさなし。
魔力使用も最低限。
身体状態も安定。
最初のうちは、それが少し退屈だった。
正直に言えば、何か起きてほしいと思っていた。
反応が出れば、比較できる。
新しい線が引ける。
昨日までの問いへ、少し近づけるかもしれない。
けれど夕方になる頃には、その焦りも少し落ち着いていた。
アリシアは机で練習帳を書いている。
子供は隣で白い花の二枚の絵と、「今日は花を描かなかった」と書いた紙を並べていた。
「アリシア」
「うん」
「今日、何もなかった?」
「胸はね」
「何もない一日?」
「それは違うかな」
「どうして?」
「補助連絡線のこと分かった。西にも同じ種類があるみたい。顔のない人は九歩歩いた。子供は今日、花の絵描かなかった」
「朝ごはん食べた」
「うん」
「昼も」
「うん」
「ノア寝てた」
『余計な記録ね』
「聞こえた」
『聞かせたのよ』
子供が笑う。
「じゃあ、アリシアの胸は何もなかった日」
「そうだね」
「それだけの一日じゃない」
「うん」
アリシアは練習帳へ書く。
――接近しない状態では、夕方まで神器反応なし。
その下。
――反応がないことを、何もなかったことと混ぜない。
筆を止める。
『いいじゃない』
ノアが横から見る。
「褒めてる?」
『今日は八割』
「高い」
『残り二割は、まだ“夜に一回来ないかな”って思ってる顔してるから』
「……ちょっとだけ」
『正直でよろしい』
◇
夜。
東側と西側の補助連絡線について、一時間の同時観測結果がまとまった。
どちらも極めて弱い。
現在の設備として正常に機能しているとは言いにくい。
ただし。
双方に見られた共通周期。
完全一致ではない。
それでも、無関係な残留魔力として片づけるには少し気になる程度には近い。
さらに、古い施設図面を重ねると、東側の北管理線と、西側の旧制御区画付近の線は、それぞれ中央方向へ向かって途中で記録が途切れている。
中央。
かつて第一、第二、第三、第四、第五の神器運用に関わる設備が集中していた学院旧中枢区画。
そして、現行図面では大規模改修によって構造が変わり、古い線の大半が追えなくなっている場所。
若い観測員が地図を見て、珍しく慎重に言った。
「東と西が、中央でつながってた可能性あります?」
サーラが答える。
「あります」
「同じ補助連絡網だった可能性も?」
「あります」
「六つ目の神器が、その網に反応した可能性?」
「あります」
「でも全部まだ可能性」
「そうです」
「じゃあ、次は中央?」
学院長が首を横へ振った。
「まだ早い」
「どうして?」
「中央へ行けば一気に分かりそうに見えるからだ」
若い観測員が少し笑う。
「近い答えに飛びつくな、ですね」
「それもある」
学院長は東西の地図を指す。
「まず、東側補助線と奥側新反応が本当に接続しているか。それから西側補助線と排水圧設備候補が関係しているか。両端を少しずつ確認する」
「中央はそのあと?」
「必要なら」
「行かない可能性も?」
「ある」
「中央が答えじゃないかもしれない」
「そうだ」
若い観測員は少し遠い目をした。
「物語なら中央行けば絶対何かあるのに」
サーラが眉を上げる。
「何の話ですか?」
「いえ、独り言です」
「最近多いですね」
「疲れてるんです」
◇
同じ頃。
生活観測区画では、子供が寝台へ入る前に木箱の前へ座っていた。
今日は朝から一度も開けていない。
蓋へ触れてもいない。
ただ、横から見た記録は昨日残してある。
子供はしばらく箱を見る。
「今日、開けなかった」
「うん」
「触らなかった」
「うん」
「昨日は横見た」
「うん」
「一昨日は少し開けた」
「うん」
「今日、何も進んでない?」
アリシアは少し考えた。
「子供はどう思う?」
「……中身には近づいてない」
「うん」
「でも、開けたい気持ち今日は小さかった」
「うん」
「それ分かった」
「そうだね」
「じゃあ、何もじゃない」
「うん」
子供は箱から離れた。
「明日開ける?」
「どうしたい?」
「明日にならないと分からない」
「うん」
「それでいい」
「うん」
子供が寝台へ戻る。
顔のない存在は、九歩目まで進んだあと、すでに自分の寝台へ帰っている。
胸の十一の光。
今は三つ。
「朝も三つ」
「うん」
「途中四つ」
「うん」
「今三つ」
「うん」
「同じ一日でも変わる」
「そうだね」
子供は布団へ入った。
「アリシア、今日東行かなかった」
「うん」
「胸、何もなかった」
「今のところ」
「行かなかったから?」
「まだ分からない」
「明日行ったら?」
「行くかどうか、まだ決めてない」
「行きたい六」
「もう数字言わなくていいよ」
子供が笑う。
「でも昨日七」
「下がった」
「ちょっと」
「うん」
短い沈黙。
「アリシア」
「うん」
「動かない日、嫌だった?」
少し意外な問いだった。
アリシアは窓を見る。
夜の庭。
灯りの届かない石畳。
今日は地下へ行かなかった。
昨日までのような冷たい震えもなかった。
それでも。
「朝はちょっと嫌だった」
「どうして?」
「何か分かりたいって思ってたから」
「今は?」
「今は……行かなかったから分かったこともあったと思う」
「胸、出なかった」
「うん」
「線のことも分かった」
「うん」
「西も見た」
「うん」
「じゃあ動かなかったけど、止まってない」
アリシアは少し笑った。
「そうだね」
「顔のない人も、寝てるとき止まってない?」
「どういう意味?」
「寝てても一日ある」
アリシアは返事を急がなかった。
子供は自分で続ける。
「歩かない日も、その人いる。寝てる。光変わるかもしれない。呼吸してる」
「うん」
「動かないから、何もじゃない」
「そうだね」
子供は目を閉じた。
「おやすみ」
「おやすみ」
◇
夜半。
アリシアは一度だけ目を覚ました。
理由は分からない。
胸が震えたわけではない。
冷たくもない。
ただ、自然に目が開いた。
室内は暗い。
夜間灯の淡い光だけが床へ落ちている。
隣では子供が眠っている。
顔のない存在も動かない。
ノアはアリシアの足元で丸まっていた。
アリシアは胸へ手を当てる。
何もない。
それを確認して、練習帳へ手を伸ばそうとした。
『書かなくていいわよ』
ノアの声が暗がりから聞こえた。
「起きてたの?」
『あなたが動いたから』
「今、何もないって書こうかなって」
『朝でいいでしょう』
「でも時刻」
『何もないたびに起きて記録してたら、寝不足っていう新しい条件が増えるわよ』
アリシアは手を止めた。
「……確かに」
『寝なさい』
「うん」
もう一度布団へ戻る。
目を閉じる前に、ふと今日知った補助連絡線のことを思い出した。
東にもある。
西にもある。
昔は、設備同士が自分の状態を伝え合っていた可能性がある。
水が多い。
少ない。
扉が開いている。
閉じている。
圧力が高い。
低い。
必要なときに、互いの状態を知るための線。
六つ目の神器は、そこへ何かを感じたのかもしれない。
けれど。
もしそうなら。
なぜ。
アリシアなのか。
神器は、何を知ろうとしているのか。
あるいは。
何かへ、自分の状態を伝えようとしているのか。
そこまで考えたところで、アリシアは自分から目を閉じた。
今は答えを作らない。
朝になったら。
今日集まった記録を並べて。
また次に何を確かめるか選べばいい。
東へ行かなかった一日。
大きな反応もなかった一日。
それでも、調査は止まっていなかった。
東西に残る補助連絡線という共通点が見つかった。
アリシアが通常状態では神器反応を示さない時間も、十分に記録できた。
西側の古い設備が、東側とは無関係と決められない理由も増えた。
そして。
動かない日だからこそ。
昨日までの動きが、少しだけ見比べやすくなった。
翌朝。
学院側は、東と西の補助連絡線をそれぞれどこまで追うか。
そして、六つ目の神器をもう一度その近くへ置く必要が本当にあるのか。
そこから決めることになる。
今夜はまだ。
誰も地下へ向かわなかった。
それでも古い線は、東と西の暗い壁の中で。
百年以上前の名残を抱えたまま。
ごく弱く。
同じような周期を刻み続けていた。




