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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第153話 同じ近さでも、同じ場所から近づかなければ同じとは限らない


 翌朝、アリシアが目を覚ましたとき、東側へ向かう準備はまだ何一つ始まっていなかった。


 昨日の段階的接近試験では、第一地点では変化なし。第二地点へ進むと胸の奥へ弱い冷たさが現れ、その後に小さな震えが一度。さらに第三地点手前まで近づくと冷感も震えも強くなり、最後に一歩だけ距離を縮めたところで、これまでで最もはっきりした反応が起きた。


 同じ時間帯。


 東側奥部で続いている新しい微弱反応は、アリシアが近づくほど大きく低下し、彼女が後退すると少しずつ基準値へ戻った。


 偶然だけでは説明しにくい。


 けれど、何が何へ作用したのかは分からない。


 六つ目の神器が奥側反応へ干渉しているのか。


 奥側反応が六つ目の神器へ何かを返しているのか。


 それとも、両方がまだ見えていない別の何かへ反応しているのか。


 昨日までより明らかに線は濃くなった。


 それでも、線の向きまでは分からなかった。


 アリシアは寝台の中で目を開けたまま、天井を見ていた。


 窓から入る光は少し弱い。


 薄い雲が広がっているらしく、室内には晴天の日ほど強い影ができていなかった。換気術式の低い音に混じり、遠くの中庭から何人かの生徒の声が聞こえてくる。


『今日は起きてから何分考えるつもり?』


 枕元で丸くなっていたノアが、目も開けずに言った。


「まだ一分くらい」


『嘘ね』


「本当に」


『少なくとも三分は経ってるわ』


「測ってたの?」


『猫の勘』


「便利すぎるでしょ」


『人間の時計より優秀よ』


「絶対適当」


 言いながら、アリシアはゆっくり身体を起こした。


 胸へ手を当てる。


 痛みなし。


 苦しさなし。


 冷たさなし。


 震えもない。


 昨日、第三地点手前から戻ったあとに残っていた違和感も、今朝には完全に消えている。


 寝台脇の練習帳を開いた。


 昨夜最後に書いた一文がある。


 ――進むことだけが、確かめる方法ではなかった。


 読み返しても、今朝は昨日ほど悔しくなかった。


 あと一歩。


 第三地点まで、本当にあと一歩だった。


 行きたかった気持ちは今もある。


 けれど、そこで戻ったからこそ、距離を離したときに奥側反応が回復していくところまで記録できた。


「今日、東行くかな」


『行きたい?』


「行きたい」


『怖い?』


「二」


『知りたい?』


「五」


『そこだけ昨日から変わってないわね』


「むしろ六でもいいかも」


『上限いくつなのよ』


「十?」


『今決めたでしょう』


「分かりやすければいいの」


 ノアがようやく目を開いた。


『で、昨日と同じ道をまた進みたいの?』


「……それなんだけど」


 アリシアは練習帳へ目を落とした。


「同じ道を行って、昨日と同じところで同じ反応が出たら、昨日の結果がもう一回増えるよね」


『そうね』


「それも大事だと思う。でも……」


『何か足りない?』


「昨日は、東側奥部に近づいたから反応が強くなったって考えたでしょう?」


『少なくとも、そう見える結果だったわね』


「でも、同じ通路を奥へ進んだからかもしれない」


 ノアの耳が少し立った。


『続けて』


「距離だけが理由なら、別の場所から同じくらい近づいても似た反応になるはず」


『ならなかったら?』


「距離だけじゃない可能性が増える」


『方向とか』


「うん。通路そのものとか、その間にある設備とか」


『ずいぶん観測員みたいになったじゃない』


「褒めてる?」


『七割』


「また微妙」


『三割は、朝から勝手に次の実験を組み始めてるから』


「勝手じゃないよ。考えてるだけ」


『そのまま会議へ持っていく気でしょう』


「相談はする」


『なら八割』


「一割増えた」


 そんなやり取りをしていると、隣の寝台から小さく布の擦れる音がした。


 子供が目を覚ましている。


 まだ眠そうな顔で何度か瞬きをしたあと、最初に見たのは窓だった。


 今朝は鳥が一羽、石畳の端を歩いている。


「いる」


「うん」


「一羽」


「うん」


「昨日、朝はいなかった」


「見えなかったね」


 子供はしばらく鳥を見る。


「今日の一羽」


「うん」


 それで窓の確認を終えた。


 次に隣の寝台へ視線を移す。


 顔のない存在は、まだ横になっている。


「おはよう」


 十一の光は、すぐには反応しなかった。


 少し待つ。


 一つ。


 もう一つ。


 今日はそこで止まった。


「今は二つ」


 子供はしばらく待ったが、三つ目を求めるような顔はしなかった。


「昨日、途中で四つになった」


「うん」


「今日は今二つ」


「うん」


「少ない?」


 自分で言ってから、少し眉を寄せる。


「……明るい数は昨日の途中より少ない。でも、悪いじゃない」


「そうだね」


「今の二つ」


「うん」


 子供は布団を押し下げた。


 足裏を確認し、足首を回し、床へ立つ。


 痛みなし。


 赤みなし。


 違和感なし。


「大丈夫」


「あとでセレナ?」


「見るだけ」


「うん」


 そこまで終えると、子供は木箱へ向かった。


 蓋は閉じている。


 留め具は外れたまま。


 昨日はアリシアを待つ一日になり、箱へはほとんど触れていない。


 子供は正面にしゃがみ込んだ。


「昨日開けなかった」


「うん」


「今日どうする?」


 少し考える。


 手を伸ばす。


 けれど蓋には触れず、箱の右側へ手を置いた。


「ここから見ると違う」


「何が?」


「箱」


 アリシアも少し位置を変えて見る。


 正面からは見えにくかった側板に、小さな擦り傷が幾つもある。


「あ」


「前からあった?」


「たぶんね」


「見えてなかった」


「正面からは見えにくかったね」


 子供は箱を動かさず、自分が少し横へ移った。


「同じ箱」


「うん」


「でも違うところ見える」


「そうだね」


 アリシアの頭の中で、さっきノアと話していたことが重なった。


 同じもの。


 同じ距離。


 でも、見る方向が違えば見えるものも違う。


 子供は箱の左側へも回った。


「こっちは?」


「何かある?」


「小さい穴」


 よく見ると、針先ほどのへこみが一つある。


「虫?」


「分からない」


「最初から?」


「それも分からないね」


 子供は少し考えた。


「正面だけ見てたら、知らなかった」


「うん」


「開けなくても分かった」


「そうだね」


 子供は満足したように箱の前へ戻る。


「今日はまだ開けない」


「うん」


「横見た」


「うん」


「それで今はいい」


 アリシアは思わず笑った。


「どうした?」


「いや……私も今日、似たこと聞こうと思ってたから」


「何?」


「東側。昨日と同じ方向から近づくんじゃなくて、別の場所から同じくらい近づいたらどうなるかなって」


 子供は箱を見る。


 それからアリシアを見る。


「横から?」


「そういう感じ」


「東の反応、横からでも同じ?」


「分からない」


「見る?」


「できるなら」


 子供は少し考えたあと、真面目な顔で言った。


「でも横、危なくない?」


「そこも調べてもらう」


「先に?」


「先に」


「ならいい」


『完全に保護者側になってるじゃない』


「ノア何て?」


「ちゃんと安全確認しなさいって」


『珍しくほぼ合ってるわね』


     ◇


 朝食の頃になると、学院長から昨夜の解析途中結果が届いた。


 昨日の接近試験では、アリシアが東側奥部へ近づくにつれて、六つ目の神器付近の冷感と震えが強くなり、奥側新反応は逆に弱くなった。


 距離と変化量には、少なくとも昨日の範囲では対応が見られる。


 名前のない光は大きく動かなかった。


 小空洞にも周期反応は出なかった。


 そのため、昨日一日の記録だけを見るなら、最も直接的に対応していたのは「アリシア側」と「奥側新反応」だった。


 だが、それが距離だけによるものか。


 同じ東側通路上を進んだからなのか。


 特定の設備線を跨いだことで変化したのか。


 まだ分からない。


「アリシア」


 扉の外から学院長の声がした。


「うん」


「朝食後、昨日の解析結果を確認したい」


「私も一個聞きたい」


「何だ?」


「別の方向から同じくらい近づける場所ある?」


 扉の向こうが少し静かになる。


「……どうしてそう思った?」


「昨日、距離が近くなるほど反応が強くなった。でも、同じ通路を進んだからかもしれないでしょう?」


「続けろ」


「もし違う場所から、第二地点とか第三地点手前と同じくらいの距離まで近づいても同じ反応が出るなら、距離が関係してる可能性が上がる」


「出なければ?」


「距離以外が関係してるかもしれない」


 子供が横から言う。


「箱、横から見たら違うの見えた」


 学院長が少し笑った気配がした。


「なるほど。朝からもう相談してたのか」


「私じゃなくて、子供が先に横見た」


「アリシア負けた?」


「何でそうなるの」


『また負けたわね』


「ノアまで」


 子供が楽しそうに笑う。


 学院長は少し間を置いてから、真面目な声へ戻った。


「別方向から同程度の距離まで近づける経路は、候補がある」


「本当?」


「ああ。ただし昨日の第三地点ほど奥ではない」


「安全?」


「だから候補止まりだ。確認が必要になる」


「今日できる?」


「できるかどうかを、これから決める」


「うん」


「それと」


 学院長の声に、少しだけ注意を促す色が混じった。


「別経路を使えば、条件が一つだけ変わるわけじゃない」


「どういうこと?」


「壁の枚数。地下深度。間にある古い導線。通る設備区画。全部変わる可能性がある」


「あ……」


「同じ距離でも、完全に同じ条件にはならない」


 アリシアは少しだけ肩を落とした。


「難しい」


「そうだな」


「じゃあ意味ない?」


「逆だ」


 学院長はすぐ答えた。


「全部同じにできないからこそ、何が違うかを記録する。それでも比較できることはある」


「完全じゃなくても?」


「完全な条件を作れない調査の方が多い」


「そっか」


 子供が麦粥を食べながら言う。


「箱も、横に行ったら私の位置変わった」


「うん」


「光も違う」


「そうだね」


「でも同じ箱」


「うん」


 学院長が扉の外で少し笑った。


「今日も良い観測員がいるな」


「私?」


「子供」


「私じゃないんだ」


『二連敗ね』


「うるさい」


     ◇


 午前の小会議室には、昨日より少ない人数が集まっていた。


 学院長、サーラ、安全管理担当、魔導具教師、アリシア、ノア。


 副学院長は西側の資料整理へ戻っている。


 東側を優先しているとはいえ、西側を止めているわけではない。今朝も第二排水支路と水没区画の標高差、旧制御系統の図面照合が続けられていた。


 サーラは昨日の結果を大きな紙へ整理していた。


 横軸が推定距離。


 縦軸の一つがアリシア側の冷感・震え。


 もう一つが奥側新反応の強度。


 正確な数値へできないアリシアの感覚は、申告した段階値として別記号になっている。


「昨日だけを見ると」


 サーラが線を指す。


「接近に伴って、アリシアさん側の自覚症状は強くなっています。一方で、奥側反応は低下しています」


「逆」


「はい」


「離れたら?」


「どちらも元の状態へ近づきました」


「だから距離」


「距離が関係している可能性は高いです。ただし――」


「昨日と同じ経路を進んでる」


「はい」


 アリシアが先に答えると、サーラが少しだけ笑った。


「その通りです」


 学院長が別の地図を広げる。


「今朝アリシアが言った別経路について、候補を確認した」


 東側地下の地図。


 昨日使った経路は、生活観測区画から東へ向かい、地上中継観測室、旧連絡廊下、地下観測点へ進む線だった。


 それとは少し北寄り。


 旧講義棟の下を通る古い管理廊下がある。


「ここ」


「遠回り?」


「歩く距離は長くなる」


「でも奥側反応との直線距離は?」


「この地点なら、昨日の第二地点とほぼ同じだ」


 サーラが印を付ける。


「誤差は七歩相当以内です」


「かなり近い?」


「比較地点としては使えます」


「第三地点手前と同じくらいは?」


 安全管理担当が首を横へ振った。


「現時点では無理です。北側管理廊下のさらに先は、床面補強が未完了です」


「じゃあ今日は第二地点くらいまで」


「今日実施すると決めるなら、ですね」


 アリシアは地図を見る。


 昨日と同じ場所へ進むのではない。


 別の方向から。


 ほぼ同じ直線距離。


「これで反応が出たら?」


「距離、あるいは距離に近い何らかの条件が関係している材料になります」


「出なかったら?」


「昨日の経路固有の条件を調べる理由が強くなります」


「どっちでも情報増える」


「はい」


 アリシアは少しだけ胸が高鳴った。


 そこでノアが尻尾で彼女の腕を叩いた。


『顔』


「何?」


『行きたくて仕方ない顔になってる』


「だって、これなら昨日より分かるかもしれない」


『数字』


「知りたい六。怖さ一」


『上がってるじゃない』


「知りたいだけ」


 学院長が聞いていたらしく、少し眉を上げる。


「それだけで行く理由にはしないぞ」


「分かってる」


「身体状態」


「痛みゼロ。苦しさゼロ。神器反応なし」


「昨日の疲労は?」


「一くらい」


 治療教師の記録も確認される。


 心拍正常。


 体温正常。


 魔力量も昨日の試験前と大きな差はない。


 安全管理担当が北側管理廊下の確認結果を読む。


「比較地点までは安全確認済み。崩落危険なし。古い導線が一本ありますが、現在ほぼ休止状態。生命反応なし。危険魔力値なし」


「人数は?」


「昨日と同程度で問題ありません」


 学院長が最後にアリシアを見る。


「行くか?」


「行きたい」


「途中で変えていい」


「うん」


「比較地点まで行かなくても?」


「うん」


「昨日と違う反応が出ても?」


「止まって記録する」


「何も出なくても?」


「それも記録」


「よし」


 学院長が地図を閉じた。


「午後、北側経路比較試験を行う」


     ◇


 昼までの時間、アリシアは生活観測区画へ戻った。


 昨日と同じように、出発前の基準値を取る。


 ただし今日は、何もしない時間を「待っていれば何か起きるかもしれない」と期待しすぎないようにしていた。


 子供は机で、白い花の二枚の絵を並べている。


 アリシアも隣で練習帳を書く。


「今日、違う道行く」


 子供が紙を見たまま言う。


「うん」


「東には行く?」


「行くけど、昨日と違う方から」


「遠く歩く?」


「歩く距離は昨日より長いかも」


「でも東の奥には同じくらい近い?」


「昨日の二番目の場所と同じくらい」


「変」


「何が?」


「いっぱい歩くのに、同じ近さ」


「道が遠回りだからね」


「近いって、歩いた数じゃない」


「そうだね」


 子供は箱を見る。


 朝、横から確認した擦り傷。


「箱も、正面から一歩と横から一歩、違う」


「うん」


「同じ一歩でも」


「そうだね」


 少しして、顔のない存在が寝台で身体を動かした。


 子供はすぐにそちらを見る。


 人影は上体を起こす。


 足を床へ下ろす。


 立つ。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 今日は昨日より少し遅い。


 四歩。


 そこで止まった。


 子供は声を出さない。


 人影はしばらく立っていたが、そのまま床へ座った。


「今日は四」


 座ったあとで、子供が言う。


「うん」


「昨日は九」


「うん」


「半分より少ない」


 子供は少しだけ寂しそうにした。


「窓から遠い」


「うん」


「昨日、近かった」


「うん」


「今日、戻った?」


 自分で口にしてから、少し考える。


「違う。昨日の九から後ろに歩いたわけじゃない」


「うん」


「今日は四歩歩いた」


「そうだね」


「でも……ちょっと残念」


「うん」


「九まで行ってほしかった」


「うん」


 その気持ちを消そうとはしない。


 子供は顔のない存在を見つめた。


「昨日九だったから、今日も九って思ってたかも」


「そっか」


「言ってなかったけど」


「うん」


「昨日近づいたから、今日もそこからじゃない」


「そうだね」


 アリシアは、思わず地図のことを考えた。


 昨日、第三地点手前まで進んだ。


 だからといって、今日もそこから始める必要はない。


 昨日進んだ分が、今日の出発地点になるとは限らない。


 人影も。


 自分も。


 毎日、その日の場所から始まる。


 子供は胸の十一の光を見る。


「今は三つ」


「うん」


「歩いた少ないけど、光は朝より一つ増えた」


「うん」


「だから、歩数だけで全部決まらない」


「そうだね」


「この人もいっぱい」


「いっぱい?」


「見るもの」


「うん」


「歩いた数。光。寝てる時間。座ってる時間」


「うん」


「全部同じにならない」


「そうだね」


 子供は少し笑った。


「大人の東みたい」


「そうかもね」


     ◇


 午後。


 北側経路比較試験が始まった。


 昨日の道とは、地上からすでに違っていた。


 東側校舎を直接通らず、旧講義棟側へ回る。現在は資料保管や小規模な実習に使われている建物で、生徒の数も少ない。


 古い木の床。


 高い窓。


 壁に残る昔の掲示板。


 そこを抜け、普段は職員しか使わない管理扉から地下へ下りる。


 階段も昨日とは違う。


 幅が少し狭い。


 石材の色も濃い。


 魔導灯は後から追加されたものらしく、壁の古さに対して光だけが妙に新しかった。


「今は?」


 治療教師が尋ねる。


「何もない」


「冷感?」


「ゼロ」


「怖さ?」


「一」


「知りたい?」


「六」


『そこ毎回聞く必要ある?』


「面白いから」


『観測項目じゃないでしょう』


 サーラが後ろから答える。


「今回は参考値として残しています」


『残してるの?』


「本人の期待が身体感覚の評価に影響する可能性がありますので」


 アリシアが振り返る。


「私、期待しすぎ?」


「かなり」


 学院長が即答した。


「学院長まで」


「顔に出てる」


『ほら』


「二人とも嫌」


 小さな笑いが起きる。


 昨日より、アリシアの緊張は少し軽かった。


 同じ地下でも、一度経験しているからかもしれない。


 けれど。


 北側管理廊下へ入った瞬間。


 空気が変わった。


 温度ではない。


 匂いでもない。


 胸の奥。


「……待って」


 全員が止まる。


 アリシアは自分から申告した。


「冷たい……一」


「震え?」


「ない」


「痛み、苦しさ?」


「ゼロ」


 サーラが時刻を取る。


「まだ比較地点まで?」


「約三十歩あります」


 学院長が答える。


「昨日の第二地点と同じ直線距離ではない?」


「まだ遠い」


 アリシアは胸へ手を置かず、そのまま立つ。


「昨日はこのくらいの遠さでは何もなかった」


「経路が違います」


 サーラが言う。


「記録して進むか判断しましょう」


 東側へ確認が飛ぶ。


『奥側反応、現時点で大きな変化なし』


「名前のない光?」


『変化なし』


「小空洞?」


『反応なし』


 冷たさは数十呼吸で消えた。


「ゼロになった」


 治療教師が確認する。


「進める?」


 学院長が尋ねる。


 アリシアは少し考える。


「行く」


     ◇


 十歩。


 十五歩。


 北側管理廊下には、途中で一本の古い導線が壁沿いに露出していた。


 現在はほぼ魔力を通していない。


 それでも完全に死んでいるわけではなく、測定具では弱い残留値が出ている。


「これ、昨日の道には?」


「同型はありません」


 サーラが答える。


「何の線?」


「不明です」


「ここ越えたら何か変わるかも?」


「可能性はあります」


「だから止まる?」


「はい」


 導線を跨ぐ手前で、一度基準を取る。


 アリシア側。


 変化なし。


 奥側新反応。


 変化なし。


 名前のない光。


 変化なし。


 小空洞。


 変化なし。


「越えますか?」


 学院長が聞く。


「うん」


 一歩。


 導線の位置を越える。


 何も起きない。


 二歩。


 三歩。


 五歩。


「……冷たい」


 アリシアが言う。


「値?」


「一」


「導線越えてから?」


「五歩くらい」


 サーラが記録する。


「東側?」


『奥側新反応、ごく微小低下。ただし通常揺らぎ範囲との境界です』


「断定できない」


「はい」


 さらに進む。


 比較地点まで、あと十歩。


 冷感は一のまま。


 昨日の第二地点では、この程度の距離へ来る頃には、冷感のあとに震えが起きた。


 今日はまだ震えない。


 あと五歩。


「一のまま」


 あと三歩。


「……二」


 治療教師が記録する。


「震えは?」


「ない」


 そして比較地点。


 昨日の第二地点と、奥側新反応までの直線距離がほぼ同じになる位置。


 アリシアが印の上へ立つ。


 全員が止まった。


 一分。


 冷感二。


 震えなし。


 二分。


 冷感二。


 三分。


 胸の奥で、ごく小さな揺れ。


「……今、一回」


「昨日より?」


「弱い」


「怖さ?」


「二」


「苦しさ?」


「ゼロ」


 東側から通信が返る。


『奥側新反応、低下確認。ただし昨日第二地点で観測した低下量より小さいです』


 会話が止まった。


 サーラがすぐに聞く。


「どの程度?」


『昨日の第二地点低下量を一とした場合、暫定で六割前後』


「距離はほぼ同じ」


「はい」


「名前のない光」


『変化なし』


「小空洞」


『反応なし』


 アリシアは胸へ手を当てた。


「私も昨日より弱い」


 サーラの目が少しだけ鋭くなる。


「冷感二。震え一回、弱い」


「昨日第二地点は?」


「冷感が先に出て、そのあと震え。体感では今日より強かった」


「同距離でも違う」


 学院長が言った。


「はい」


 サーラは地図を見る。


「少なくとも、直線距離だけで変化量が決まっているとは言いにくくなりました」


 アリシアの胸が高鳴る。


「方向?」


「候補です」


「経路?」


「候補です」


「壁の数?」


「候補です」


「古い導線?」


「候補です」


「また増えた」


『でも大きいわよ』


 ノアが言う。


「何が?」


『同じくらい近ければ同じになる、ではなかった』


「うん」


『距離だけが答えじゃない』


 アリシアはゆっくり頷いた。


「それ、確かめられた」


     ◇


 比較地点には、予定通り十分間滞在した。


 その間、冷感は一から二の間。


 震えは合計二回。


 どちらも昨日の第二地点より弱い。


 奥側新反応も、基準値より低下した状態を短時間示したものの、低下量は昨日より小さかった。


 さらに興味深かったのは、北側管理廊下を後退するときだった。


 比較地点から五歩。


 アリシア側の冷感が一へ。


 奥側反応も少し回復。


 十歩。


 冷感ゼロ。


 奥側反応は基準近くへ。


 ただし。


 古い導線を再び跨ぐ直前。


 アリシアの胸に、ほんの一瞬だけ小さな震えが起きた。


「待って」


 全員が止まる。


「また?」


「一回。すごく弱い」


「冷感?」


「ゼロ」


「位置記録」


 サーラが床へ印を確認する。


「古い導線の五歩手前」


「さっき最初に冷たくなったのも?」


 アリシアが思い出す。


「導線を越える前、一回だけ一になった」


「はい」


「でも東側奥部は?」


 通信確認。


『大きな変化なし』


 アリシアの目が少し大きくなる。


「今の震え、奥側と合ってない」


「そう見えます」


 サーラは即答した。


「じゃあ、六つ目が感じてるもの、奥側反応だけじゃない?」


 誰もすぐには答えなかった。


 学院長が古い導線を見る。


「可能性が出たな」


「この線?」


「決めるな」


「あ」


「ただし、調べる理由にはなる」


「うん」


 サーラは記録を整理する。


「今日の比較地点では、アリシアさん側と奥側反応は弱いながら対応しました。ただし帰路のこの地点では、アリシアさん側だけが変化し、奥側反応には対応変化がありません」


「昨日とは違う」


「はい」


「六つ目の神器の感覚全部を、奥側新反応だけで説明できない可能性があります」


 アリシアは胸の奥へ意識を向けた。


 今は何もない。


 けれど。


 昨日まで。


 東側奥部の反応こそ、自分の神器へつながる大きな答えなのではないかと、どこかで思い始めていた。


 今日の結果は、その期待へ少しだけ横から線を入れた。


 奥側反応とは関係があるかもしれない。


 でも、それだけではないかもしれない。


「……また簡単じゃなくなった」


『最初から簡単だったことなんてないでしょう』


「ちょっとくらい簡単でもいいのに」


『物語が終わるわよ』


「何の話?」


『こっちの話』


     ◇


 生活観測区画へ戻ったとき、子供は木箱の横に座っていた。


 蓋は閉じたまま。


 開けてはいない。


 ただ、朝見つけた右側の擦り傷を紙へ描いている。


「ただいま」


 アリシアが言うと、すぐ顔を上げた。


「おかえり」


「うん」


「違う道行った?」


「行った」


「同じくらい近くなった?」


「うん」


「同じだった?」


 アリシアは少し笑う。


「同じじゃなかった」


 子供の目が大きくなる。


「何が?」


「昨日より、胸の冷たさも震えも弱かった。東側奥の反応も弱くなったけど、昨日ほどじゃなかった」


「近さ同じなのに?」


「だいたい同じ」


「じゃあ、近いだけじゃない」


「そうみたい」


「横から箱見たのと同じ?」


「ちょっと似てる」


 子供は嬉しそうに自分の紙を見せた。


「今日、ここ描いた」


 箱の右側。


 小さな擦り傷。


「正面の絵じゃない」


「うん」


「同じ箱だけど、横から見えた」


「うん」


「アリシアも、違う道から見た」


「そうだね」


「違うの分かった」


「うん」


 アリシアは椅子へ座る。


「でもね、もう一個あった」


「何?」


「帰り道で、胸だけ少し震えた」


「東は?」


「そのとき奥の反応は変わらなかった」


 子供の眉が寄る。


「じゃあ、別?」


「分からない」


「また」


「また」


「でも、前は一緒だった」


「うん」


「今日は一緒じゃないのもあった」


「そう」


 子供は少し考える。


「アリシアの六つ目、東の一個だけ見てるじゃない?」


 その言葉に、アリシアは少し息を止めた。


「そうかもしれない」


「他も?」


「あるかもしれない」


「いっぱい?」


「……増えるかも」


 子供が少し笑った。


「また頭いっぱい」


「うん」


「でも全部今日やらない」


「やらない」


「明日?」


「明日も全部はやらないと思う」


「身体一つ」


「そうだね」


『学院長の名言みたいになってるわね』


「ノア何て?」


「身体一つは大事だって」


『まあいいわ』


     ◇


 夕方。


 子供は木箱の前へ戻った。


 今日は朝から一度も蓋を持ち上げていない。


 けれど、正面。


 右側。


 左側。


 三方向から見た。


 朝見つけた擦り傷と小さなへこみも、自分の紙へ残した。


「開けなくても、いっぱい見えた」


「うん」


「でも中身は分からない」


「うん」


「ちょっと開ける?」


 自分へ聞く。


 右手が蓋へ伸びる。


 縁へ触れる。


 木の感触を確かめる。


 しばらくそのまま。


「……今日は開けない」


「うん」


「見えたのいっぱいあったから?」


 アリシアが尋ねる。


「それもある。でも」


 子供は蓋を撫でる。


「今日は横見た日でいい」


「そっか」


「中、明日でもいい」


「うん」


「なくなるかも?」


「急に箱ごとなくなる可能性は低いと思う」


「中身変わるかも?」


「可能性はゼロじゃないね」


 子供の顔に一瞬だけ不安が出た。


 けれど、そのまま蓋を持ち上げることはしなかった。


「それでも今日は開けない」


「うん」


「変わったら、そのとき見る」


「うん」


 アリシアは少しだけ胸が温かくなるのを感じた。


 待てるから何もしないのではない。


 今日は別のことを見たから、ここで終える。


 その違いを、子供は自然に使い始めていた。


     ◇


 夜。


 東側中継観測室では、昨日と今日の二つの経路が大きな地図へ書き込まれていた。


 南寄りの昨日経路。


 北寄りの今日経路。


 奥側新反応までの推定直線距離がほぼ同じになる二地点。


 そこで起きた変化は、同じではなかった。


「昨日第二地点」


 若い観測員が記録を読む。


「アリシアさん側、冷感発生後に神器震え。奥側反応、明確な低下」


「今日北側比較地点」


 記録係が続ける。


「アリシアさん側、冷感は一から二。震え二回、いずれも弱い。奥側反応低下あり。ただし昨日より小さい」


「距離差は七歩相当以内」


「はい」


「距離だけじゃ説明しにくい」


 若い観測員が言う。


 今度はサーラもすぐに否定しなかった。


「そうですね」


「方向?」


「候補」


「経路?」


「候補」


「間にある壁や設備?」


「候補」


「古い導線?」


「候補です」


「全部候補」


「だから次に絞ります」


 若い観測員は、少し驚いたように顔を上げた。


「絞れるんですか?」


「絞るために今日の試験をしたんでしょう」


「何から?」


 サーラは北側管理廊下の一本の線を指した。


「帰路で、奥側反応と同期しない神器震えが出た地点」


「古い導線の近く」


「はい」


「そこを見る?」


「まず過去図面を調べます」


「近くへ行かない?」


「今日もう行っています。明日すぐまたアリシアさんを連れていく必要はありません」


「じゃあ線が何か調べる」


「はい」


「もし東西をつなぐ管理線だったら?」


 サーラは少しだけ間を置いた。


「それなら、今日まで別々に見てきたものの一部が、初めて具体的に交差する可能性があります」


 若い観測員の表情が変わった。


「西にも?」


「まだ分かりません」


「でも調べる理由はある」


「あります」


 サーラは別の資料を開いた。


「それと、明日はアリシアさん側の追加接近試験を休止する案を出します」


「どうして?」


「二日続けて神器反応を誘発しています。痛みや大きな消耗はなくても、累積影響が分からない」


「休む」


「はい」


「反応欲しいのに?」


「欲しいからこそ、条件を壊さない方がいいでしょう」


 若い観測員は少し考え、頷いた。


「疲労が入ったら、次の比較が分からなくなる」


「その通りです」


「アリシアさん、嫌がりそう」


「かなり」


「言い切った」


「顔に出ますから」


     ◇


 夜の生活観測区画。


 その予想通り。


「明日、行かないの?」


 学院長から方針を聞いたアリシアは、少しだけ露骨に肩を落とした。


「今の案ではな」


「身体大丈夫だよ」


「今はな」


「痛くない」


「知ってる」


「苦しくもない」


「それも知ってる」


「じゃあ」


「累積影響が分からない」


 アリシアは口を閉じた。


「二日続けて、神器反応を意図的に起こす条件を作った。明日は一度通常状態へ戻す」


「……比較のため?」


「それもある」


「私のためも?」


「当然だ」


 アリシアは少しだけ唇を尖らせた。


「行きたい」


「知ってる」


「七くらい」


「上がってるじゃないか」


「今日また分からないこと増えたから」


 子供が寝台から口を挟む。


「アリシア、知りたいだけだと走る」


「走ってない」


「行きたい七」


「数字覚えなくていいから」


『私は覚えておくわ』


「ノアもやめて」


 学院長の小さな笑いが扉の外から聞こえた。


「明日は東へ行かない代わりに、今日震えが出た古い導線の記録を調べる」


 アリシアの表情が少し変わる。


「何の線か?」


「それを確認する」


「西とつながってる可能性も?」


「現時点では候補に入っている」


「じゃあ、私は行かなくても調査は進む」


「そうだ」


「……そっか」


 まだ少し残念そうではある。


 けれど、納得はできたらしい。


     ◇


 寝る前。


 アリシアは練習帳を開いた。


 今日のページには、昨日より多くのことを書いた。


 昨日と違う道。


 歩く距離は長かった。


 奥側反応までの直線距離は、昨日の第二地点とほぼ同じ。


 でも。


 冷たさは弱かった。


 震えも弱かった。


 奥側反応の低下も小さかった。


 同じ近さでも、同じ反応ではなかった。


 そして帰り。


 古い導線の近く。


 自分の神器だけが弱く震えた。


 東側奥部反応には、対応する変化がなかった。


 そこまで書いて、アリシアは筆を止める。


「何書く?」


 隣の寝台から子供が尋ねた。


「最後?」


「うん」


 アリシアは少し考える。


 それから書いた。


 ――近づけば答えへ近づくと思っていた。


 ――でも、どこから近づくかでも見えるものが変わった。


 ――六つ目の神器が見ているものは、一つだけではないのかもしれない。


 子供が覗き込む。


「いっぱいになった」


「うん」


「嫌?」


「ちょっと」


「でも知りたい?」


「かなり」


「明日行かない」


「うん」


「嫌?」


「ちょっと」


「でも調べる?」


「うん」


 子供は少し笑った。


「いっぱい」


「またそれ」


「本当だから」


 少しして、子供は隣の寝台を見る。


 顔のない存在は、今日は四歩目で座ったあと、夜まで大きく動かなかった。


 胸の十一の光。


 今は二つ。


「今日は四歩」


「うん」


「昨日九」


「うん」


「今は二つ」


「うん」


「朝も二つ」


「そうだね」


「同じ二つ?」


「分からない」


「今日の二つ」


「うん」


 子供は布団へ潜り込む。


「明日、この人九行くか分からない」


「うん」


「アリシア東行かない」


「うん」


「箱開けるか分からない」


「うん」


「でも、明日何もないじゃない」


「そうだね」


「違うことするかも」


「うん」


「それでいい」


「うん」


「おやすみ」


「おやすみ」


 部屋の灯りが夜間用へ落とされる。


 アリシアは練習帳を閉じた。


 昨日は、同じ方向へ近づくほど、六つ目の神器と東側奥部反応が強く対応して変化した。


 今日は、違う方向からほぼ同じ距離まで近づいた。


 そこで起きた変化は、昨日より弱かった。


 さらに、東側奥部反応と一致しない神器の震えまで一度確認された。


 分からないことは、また増えた。


 けれど、それは昨日までと同じ増え方ではない。


 距離だけではないかもしれない。


 経路。


 方向。


 途中にある設備。


 古い導線。


 確かめる対象は、少しずつ具体的になっている。


 明日は、アリシア自身は東へ近づかない。


 だからといって、止まる日ではない。


 彼女が今日通った北側管理廊下。


 そこで反応した古い導線が、かつて何をつないでいたのか。


 東だけなのか。


 西へも続いていたのか。


 六つ目の神器が感じたものは、奥側新反応そのものだったのか。


 それとも。


 もっと広い何かの一部だったのか。


 アリシアは目を閉じる前に、胸へ一度だけ手を当てた。


 今は冷たくない。


 震えもない。


 ただ静かだった。


 静かなまま。


 まだ名前の付いていない次の問いだけが。


 今日までより、少し輪郭を持ち始めていた。

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