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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第152話 近づくと決めたからこそ、どこまで行くかは先に決めておかなければならない



 翌朝、生活観測区画の窓には薄い雲を通した柔らかな光が差し込んでいた。


 昨日ほど強い朝日ではない。中庭の石畳には木々の影がぼんやりと落ち、葉の間を抜ける風が、窓越しにも分かるほど枝先をゆっくり揺らしている。遠くでは訓練場へ向かう生徒たちの声が聞こえていたが、この区画まで届く頃には意味のないざわめきへ変わり、換気術式の低い音へ溶け込んでいた。


 アリシアは目を覚ましてから、すぐには身体を起こさなかった。


 胸の中央へ手を置く。


 痛みはない。


 苦しさもない。


 昨夜二度目に感じた冷たい震えの名残も、今は残っていない。


 ただ、何も残っていないからこそ、本当に昨夜のあれが起きたのだという感覚が少し遠くなる。


 午前。


 夜。


 二度。


 自分の胸の奥で、六つ目の神器と思われる場所が短く震えた。


 そのほぼ同じ時間帯に、東側の奥側反応が短時間だけ低下した。


 偶然かもしれない。


 まだ知らない別の要因かもしれない。


 それでも、一度目より二度目。


 二度目より、もし三度目が同じ条件で起きたなら。


 確かめたい。


 その気持ちは、眠っても消えていなかった。


『起きてるなら起きなさいよ』


 枕元からノアの声がした。


「起きてる」


『目は開いてるけど、頭だけ地下へ潜ってるじゃない』


「まだ地下には行ってないよ」


『そういう意味じゃないわ』


 アリシアはゆっくり上体を起こした。


 寝台脇の小机には、昨夜書いた練習帳が置いてある。


 開いたままの頁。


 最後に残した一行。


 ――私は、東へ行って確かめたいと思った。


 朝になって読み直しても、その言葉を消したいとは思わなかった。


『気持ち変わった?』


 ノアが尋ねる。


「少し」


『どっちに?』


「行きたいは、昨日よりはっきりしてる」


『怖いは?』


「ある」


『数字』


 アリシアは少し考えた。


「二」


『昨日の夜と同じね』


「うん。でも種類が違うかも」


『どう違うの?』


「昨日は、また来たって怖さ。今は……行ったら何が起きるんだろうって怖さ」


 ノアは数秒黙った。


『それ、書いた方がいいわね』


「今?」


『忘れる前に』


「起きてすぐ?」


『自分の記録を残すって昨日決めたんでしょう』


「そうだけど」


『決めた翌朝からさぼる人って結構いるらしいわよ』


「どこ情報?」


『猫社会の統計』


「絶対嘘」


 それでも、アリシアは練習帳へ手を伸ばした。


 短く書く。


 朝。


 神器反応なし。


 痛みゼロ。


 苦しさゼロ。


 怖さ二。


 昨日より、東へ行きたい気持ちははっきりしている。


 怖さは「何が起きるか分からない」方へ変わった気がする。


 そこまで書いたところで、隣の寝台から小さな声がした。


「アリシア、書いてる?」


 子供が目を覚ましていた。


「うん」


「自分?」


「自分」


 子供はまだ布団の中にいたが、その返事を聞いて少し笑った。


「残した」


「うん」


「昨日言ったから?」


「それもあるけど、私が残したかったから」


「そっか」


 その答えが気に入ったらしい。


 子供は布団を押し下げながら、今度は隣の寝台を見る。


 顔のない存在は、静かに横になっている。


「おはよう」


 声をかける。


 少し待つ。


 一つ。


 間を置いて、二つ。


 さらに今日は、そのあと三つ目も淡く明るくなった。


「今は三つ」


 子供は数秒見ていた。


「昨日の夜は二つだった」


 言ったあと、自分から続ける。


「でも、今日は今日の三つ」


「うん」


「増えた数は一つ。でも、いいが一つ増えたじゃない」


「そうだね」


 アリシアは少し笑った。


 子供は寝台を降り、自分の足を確認する。


 足裏。


 指。


 足首。


 今朝も異常はない。


「今日も大丈夫」


「セレナにも?」


「見るだけ」


「うん」


 そのあと子供は、すぐには木箱へ行かなかった。


 白い花の棚へ向かう。


 花は、もはや最初の姿をほとんど残していない。


 細い茎。


 乾いて縮れた残り。


 小皿の中に置かれた茶色い花弁。


 そして二枚の絵。


「今日もある」


「うん」


 子供は新しい方の絵を少し持ち上げた。


「昨日描いた」


「うん」


「今日、また違う?」


「少し変わってるかもしれないね」


「三枚目描く?」


 自分へ聞くように言う。


 しばらく考える。


「今はいい」


「うん」


「昨日描いたから、今日も描かなきゃじゃない」


「そうだね」


「でも見たい」


 子供は花をしばらく眺める。


 それだけで終える。


 次に木箱へ向かう。


 蓋は閉じている。


 留め具は外れたまま。


「昨日から閉じてる」


「うん」


「今日、開けるかまだ分からない」


「うん」


「でも、アリシアは東行くか今日決める?」


 突然そちらへ話が移り、アリシアは少し目を瞬いた。


「たぶん」


「行きたい?」


「うん」


「怖い?」


「二」


「数字にした」


「ノアに言われた」


『人のせいにしない』


「ノア怒ってる?」


「少し」


「一?」


「たぶん一」


『勝手に私まで数値化しないで』


 子供が笑った。


 その笑いが落ち着いてから、またアリシアを見る。


「行くって決めたら、どこまで行く?」


「それも今日決めると思う」


「東の一番奥?」


「たぶん、いきなりそこまでは行かない」


「どうして?」


「安全確認もあるし、どこまで近づいたら神器が変わるかを見るなら、一気に近づいちゃうと途中が分からなくなるから」


 子供は少し考えた。


「少しずつ?」


「うん」


「箱と同じ?」


「似てるところはあるかも」


「少し開けた」


「うん」


「もっと開けられるけど、昨日は閉じた」


「うん」


「アリシアも途中でやめていい?」


 その問いに、アリシアはすぐ頷いた。


「うん」


「東まで行くって決めたあとでも?」


「うん」


「途中で怖くなったら?」


「止まる」


「戻る?」


「必要なら」


「行くって決めたのに?」


 アリシアは少し考えてから答えた。


「行くって決めるのと、何があっても最後まで行くって決めるのは違うと思う」


 子供はしばらく黙っていた。


「……それ、今日学院長にも言う?」


「言った方がいいかな」


「うん」


「どうして?」


「大事そうだから」


 子供は真面目な顔で答えた。


「箱も、開けるって決めたあと閉じてもよかった」


「そうだね」


「アリシアも、東行くって決めたあと戻っていい方がいい」


 その言葉が、アリシアの胸へ静かに残った。


     ◇


 朝食が終わる頃には、生活観測区画の前へ学院長とサーラが来ていた。


 昨夜から決まっていた、本人意思確認と段階的接近試験の検討。


 ただし、最初から会議室へ移動することはしなかった。


 アリシアの状態と気持ちを、まず普段過ごしている場所で確認するためだった。


「入る?」


 子供が扉へ向かって尋ねる。


「今日はアリシアの話が中心だ。子供が嫌でなければ、入口近くまで入らせてもらいたい」


 子供は少し考えた。


「学院長とサーラ?」


「ああ」


「二人だけ?」


「それだけだ」


「セレナは?」


「外にいる」


「治療教師は?」


「もう中にいるな」


 子供が周囲を見る。


 確かに、いつもの治療教師は少し離れた場所にいる。


「じゃあ、入口の近くまで」


「分かった」


 扉が開く。


 学院長とサーラは敷居を越えたあと、子供が許した範囲で止まった。


 ノアはアリシアの横。


 子供は自分の席。


 顔のない存在は寝台。


 いつもの生活観測区画の中へ、少しだけ会議の空気が入ってくる。


 学院長は立ったままではなく、入口近くに用意された椅子へ座った。


「まず、アリシア」


「うん」


「昨夜から今朝まで、三度目の反応は?」


「ない」


「痛み?」


「ゼロ」


「苦しさ?」


「ゼロ」


「怖さ?」


「今は二」


「東へ行きたい気持ちは?」


 アリシアは一拍だけ考えた。


「ある」


「どのくらい?」


「数字?」


「数字でもいいし、言葉でもいい」


「かなり」


「嫌な気持ちは?」


「少しある」


「行きたくないもある?」


 アリシアはそこで少し迷った。


 怖い。


 でも、行きたくないとは違う気がする。


「……行きたくない、ではない」


「うん」


「怖いから止まりたい可能性はある。でも今は行きたい」


 サーラが静かに記録する。


 学院長はさらに尋ねた。


「途中でやめる可能性は?」


「ある」


「それを嫌だと思う?」


「昨日までは、ちょっと思ってたかも」


「今は?」


 アリシアは子供を見る。


 子供は何も言わない。


 ただ待っている。


「今は……途中でやめてもいいって思う」


「理由は?」


「行くって決めることと、何があっても最後まで行くって決めることは違うから」


 学院長の目が少しだけ細くなった。


「誰かに言われた?」


「子供と話した」


 子供が少し姿勢を正す。


「箱の話」


「なるほど」


 学院長が一度頷いた。


「それは大事だ。今日の接近試験も、途中中止を最初から選択肢へ入れる」


「うん」


「中止したら失敗扱いもしない」


「うん」


「何も反応が出なくても?」


「失敗じゃない」


「怖くなって戻っても?」


「失敗じゃない」


「途中で気が変わっても?」


 少しだけ間があった。


「……失敗じゃない」


 自分で言うと、思ったより胸が軽くなった。


 サーラが記録板を一度閉じる。


「では、次に試験そのものの案を説明します」


 彼女は小さな地図を取り出した。


 東側地下区画。


 ただし、名前のない光がいる未確認区画の奥ではない。


 生活観測区画から見ればかなり東。


 だが、安全確認済みの範囲に、段階的に三つの観測地点が設定されていた。


「第一地点は地上側中継観測室です」


「前に子供とサーラに会ったところ?」


「同じ区画です。ただし今回は室内へ入らず、その手前で測定します」


「そこでも反応見る?」


「はい」


 サーラが地図の次の印を指す。


「第二地点は、東側地下へ下りる手前の旧連絡廊下。奥側新反応までの距離は、第一地点より明確に短くなります」


「地下?」


「まだ浅い位置です」


「第三は?」


「安全確認済みの地下観測点です。狭窄部よりかなり手前。名前のない光そのものへ近づくのではなく、東側反応源との距離をさらに縮める位置です」


 アリシアは三つの印を見る。


「その先は?」


「今日は予定に入れません」


「絶対?」


「現時点の計画では」


 学院長が補足する。


「第一、第二、第三。各地点で一定時間止まって、アリシア側と東側の反応を比較する。反応が強くなったり、身体状態に変化が出たら、その場で判断する」


「反応が何もなかったら?」


「それも記録だ」


「第三まで行く?」


「第一、第二で問題がなければ第三まで進む案だ。ただし、アリシアが止まりたいと言えばそこで終了」


「私が大丈夫って言っても、止められることある?」


「ある」


「誰が?」


「治療教師、安全管理担当、俺、サーラ。それからノア」


『最後が一番重要ね』


「ノアも止められるって」


「当然だ」


 アリシアは少しむっとする。


「私の意思は?」


「一番大事だ」


「じゃあ私が行けるって言ったら?」


「それだけで安全条件を上書きはしない」


 学院長は即答した。


「本人が行きたい。身体条件も問題ない。環境も安全。全部揃って進む」


 子供が横から小さく言う。


「一個だけじゃだめ」


「そうだ」


「アリシア、行きたいだけ」


「だけじゃないよ」


「怖いもある」


「ある」


「でも、身体大丈夫もいる」


「うん」


「道大丈夫も」


「うん」


 子供は少し満足したように頷いた。


「いっぱいで決める」


「そういうことだな」


 学院長が言った。


     ◇


 そのあと、アリシアは改めて「行く」と答えた。


 大きな宣言ではなかった。


 英雄らしい言葉もない。


 ただ、自分の胸の内と身体の状態を確認し、説明された条件を聞き、途中で止まれることも確かめた上で。


「行きたい」


 そう言った。


 学院長は一度頷いただけだった。


「分かった。では、準備を始める」


「今から?」


「焦るな。午前中は準備と基準値測定だ」


「すぐじゃないんだ」


『その顔、完全にすぐ行く気だったわね』


「少しだけ」


 サーラが苦笑する。


「アリシアさん自身が比較対象なんです。出発前の値が必要です」


「何測るの?」


「通常魔力量、神器周辺の魔力揺らぎ、心拍、体温、感覚異常の有無。東側も同じ時間帯の値を取ります」


「何もしてないとき」


「はい」


「また基準」


「大事です」


 アリシアは少しだけ肩を落とした。


 子供がそれを見て笑う。


「アリシア、早く行きたい」


「ちょっとね」


「箱開けるときの私みたい」


「それ昨日も言われた」


「同じ」


「完全に同じじゃないでしょ」


「似てる」


『こういうときだけ言い逃れしようとするのね』


「ノアは黙ってて」


     ◇


 午前中は、本当にほとんど「何もしない」時間になった。


 アリシアは生活観測区画で普段通り過ごす。


 軽く練習帳を書く。


 窓を見る。


 子供と話す。


 顔のない存在の様子を眺める。


 魔力を意図的に広げない。


 闇の神器へ意識を集中しすぎない。


 その間、治療教師が一定間隔で身体状態を記録し、東側中継観測室では同時刻の三反応が自動記録されている。


 神器の震えは起きなかった。


 奥側新反応にも、昨夜と同型の短時間低下は出ない。


「何もない」


 昼前、アリシアが呟く。


「うん」


 子供が白い花の絵を見ながら答える。


「残念?」


「少し」


「反応してほしい?」


「……確かめたいから」


「反応したら怖い?」


「それもある」


「じゃあ、何もないの残念と、何もなくて安心、両方?」


「たぶん」


「いっぱい」


「子供に言われると、最近そればっかりな気がする」


「いっぱいあるから」


 子供は当たり前のように言う。


 その横で、顔のない存在がゆっくり上体を起こした。


「あ」


 子供の視線が移る。


 人影が立つ。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 子供は声へ出さない。


 四歩。


 五歩。


 六歩。


 七歩。


 そこで少し長く止まる。


 八。


 九。


 子供の目がわずかに大きくなる。


 それでも、途中では何も言わない。


 顔のない存在は九歩目で止まり、その場へゆっくり座った。


「今日は九」


 座ったあとで、子供が言った。


「うん」


「前より窓に近い」


「そうだね」


「嬉しい」


「うん」


「でも、窓まで行ってほしいって言わない」


「どうして?」


「今、九まで来たの見たいが一番大きい」


 子供は人影の胸を見る。


 十一の光のうち、朝は三つが淡く明るかった。


 今は四つ。


「今は四つ」


 少し間を置く。


「歩いたから四つ?」


 自分で問い。


「分からない」


 すぐにそう続けた。


「でも、歩いたあと四つになってる」


「うん」


「記録できる」


「うん」


 アリシアは、その言葉を聞きながら少し不思議な気持ちになった。


 今日の午後、自分も似たことをする。


 東へ近づく。


 神器が反応するかもしれない。


 何も起きないかもしれない。


 起きたとしても、近づいたからだと即座には決めない。


 けれど。


 近づいたあとに何が起きたかは残す。


 子供が今していることと、形は違っても考え方は近かった。


     ◇


 昼食後。


 アリシアの東側段階的接近試験の準備が整った。


 同行者は多くしなかった。


 学院長。


 サーラ。


 治療教師。


 安全管理担当一名。


 そしてノア。


 土の神器継承者は先行して各地点の安全確認を終えたあと、第三地点の少し手前で待機する。


 子供は生活観測区画に残る。


「行ってくる」


 アリシアが言うと、子供は少しだけ眉を寄せた。


「帰ってくる?」


「うん」


「途中でやめても?」


「帰ってくる」


「第三まで行っても?」


「帰ってくる」


「何も分からなくても?」


「帰ってくるよ」


 子供はその答えを聞き、少しだけ表情を緩めた。


「じゃあ、行ってらっしゃい」


「……うん」


 アリシアは一瞬だけ驚いた。


 行ってらっしゃい。


 今まで子供が、こんなふうに誰かを送り出すことはあまりなかった。


 離れる。


 見えなくなる。


 それが必ずしも、いなくなることではない。


 少しずつ覚えてきたからこそ、出てきた言葉なのかもしれない。


「行ってきます」


 アリシアも、きちんと返した。


『私にもないの?』


 ノアが子供を見る。


「ノアも行ってらっしゃい」


『よし』


「満足なんだ」


『当然でしょう』


 小さな笑いが起きる。


 それから、アリシアは区画を出た。


     ◇


 第一地点は、以前子供が白い花の絵をサーラへ見せた中継観測室の手前だった。


 昼の廊下は静かで、窓から差し込む光が床を明るくしている。あの日と同じ場所なのに、今日はまったく違う目的で立っていた。


 アリシアは指定された印の上へ立つ。


「ここ?」


「はい」


 サーラが測定具を確認する。


「ここで十分間。普段通りにしてください」


「普段通りって、意識すると難しい」


『呼吸でもしてれば?』


「それはいつもしてる」


『ならちょうどいいじゃない』


 学院長が少し笑う。


「無理に神器を探すな」


「探さない」


「東側を感じようともしない」


「……それはちょっとしてた」


「やめろ」


「はい」


 アリシアは肩の力を抜いた。


 廊下の窓。


 外の木。


 遠くから聞こえる授業の声。


 ノアの尻尾。


 自分の呼吸。


 胸の奥。


 意識しすぎないようにしても、どうしても少し気になる。


 一分。


 二分。


 三分。


 何もない。


「神器側変化なし」


 治療教師が言う。


「東側?」


 サーラが通信へ確認する。


『名前のない光、位置変化なし。小空洞反応なし。奥側反応、基準値内』


「継続」


 五分。


 七分。


 九分。


 十。


「終了」


 アリシアが息を吐く。


「何もなかった」


「それが第一地点の結果です」


「残念?」


 学院長が尋ねる。


「少し」


「怖さは?」


「一」


「下がったな」


「何も起きなかったから」


「第二地点へ進む?」


 アリシアはすぐには答えず、自分の身体を確認した。


 痛みゼロ。


 苦しさゼロ。


 目眩なし。


 腕の重さなし。


「行く」


「分かった」


     ◇


 第二地点へ向かう途中から、周囲の雰囲気が変わった。


 地上校舎の明るい廊下を離れ、石造りの連絡階段へ入る。


 魔導灯の白い光。


 少し低くなる気温。


 湿った石の匂い。


 足音の響き方も違う。


 アリシアは以前にも地下へ入ったことがある。


 けれど今日は、自分自身が観測対象でもある。


 そう考えるだけで、同じ石段が少し違って見えた。


『怖さ』


 ノアが小さく聞く。


「二」


『上がった』


「地下だから」


『戻る?』


「まだ行く」


『分かった』


 ノアはそれ以上何も言わなかった。


 第二地点は、東側地下区画へ本格的に入る前の旧連絡廊下だった。


 人通りはない。


 古い壁に後から付けられた魔導灯が一定間隔で並び、床には新しい安全確認印が刻まれている。


「ここから奥側反応までの距離は?」


 アリシアが尋ねる。


 サーラが答える。


「第一地点よりおよそ四割近くなっています」


「かなり」


「直線距離では。ただし壁を複数挟んでいます」


「うん」


「ここでも十分間」


 アリシアは指定位置へ立った。


 胸へ手を置かない。


 意識的に手を下ろしておく。


 一分。


 何もない。


 二分。


 三分。


 四分。


 そのとき。


 胸の奥が、ほんの少し冷えた。


「……待って」


 全員が動きを止める。


 アリシアは自分の感覚へ集中する。


 昨日の震えとは違う。


 今は震えていない。


「何です?」


 治療教師が静かに尋ねる。


「冷たい」


「痛み?」


「ゼロ」


「苦しさ?」


「ゼロ」


「震え?」


「まだない」


「方向?」


 目を閉じる。


「東……だと思う」


 サーラがすぐ通信する。


「時刻記録。東側全項目確認」


『了解』


 アリシアは動かない。


 冷たさは、数呼吸ほど続いた。


 そして。


 小さく。


 あの震えが来た。


「……来た」


 ノアの耳が立つ。


『同じ?』


「似てる。でも昨日より弱い」


「継続?」


「一瞬」


「怖さ?」


「三」


 学院長が低く尋ねる。


「ここで止めるか?」


 アリシアはすぐ答えなかった。


 自分の身体。


 胸。


 呼吸。


 足。


 全部を確認する。


「……まだ大丈夫」


「大丈夫じゃなくて数字」


「あ」


 治療教師に言われる。


「痛みゼロ。苦しさゼロ。怖さ三。行きたい……四くらい」


『行きたいまで数字にしたのね』


「今は分かりやすいから」


 通信が返る。


『奥側新反応、短時間低下確認。開始時刻、アリシアさん側の冷感申告から二呼吸後。最小値は震え申告時刻とほぼ一致です』


 廊下の空気が静まる。


「名前のない光は?」


『位置変化なし』


「小空洞?」


『反応なし』


「奥側だけ」


『はい』


 アリシアは胸へ手を当てた。


「近づいたら、先に冷たくなった」


 サーラは記録する。


「昨日は?」


「震えだけだったと思う」


「同じとは言えない」


「うん」


「ただし、昨日までなかった冷感が第二地点で出た」


「うん」


 学院長がアリシアを見る。


「ここで終了でも十分に新しい情報は取れた」


 その言い方で、アリシアは自分が試されていないことを感じた。


 進めと言われているわけではない。


 止まれと言われているわけでもない。


「第三に行きたい」


「理由は?」


「距離がさらに近くなったとき、冷たさや震えが変わるか確かめたい」


「気になるだけ?」


「気になるもある。でも、第二で変化が出たから比較できる」


 サーラが学院長を見る。


「検証理由としては成立します」


「身体状態は?」


 治療教師が確認する。


「問題ありません。心拍は上がっていますが、緊張範囲内です」


「安全管理?」


「第三地点まで異常なし」


 学院長が最後に尋ねる。


「アリシア」


「うん」


「本当に行くか?」


 アリシアは一度だけ深く息を吸った。


 怖さは三。


 でも。


「行く」


「分かった」


     ◇


 第三地点へ向かう通路は、さらに静かだった。


 地下特有の冷たさが強くなり、壁には古い補修跡が増える。ところどころに新しい支柱が入れられており、最近学院側が安全確認を進めた跡が分かった。


 土の神器継承者が途中で待っていた。


「ここから先、第三地点まで再確認済みです」


 アリシアを見る。


「無理はしないでください」


「うん」


「地面は大丈夫?」


「現時点では」


『土の人が言うと妙に安心するわね』


「ノア何て?」


「褒めてます」


『今度は正確ね』


 アリシアたちはさらに進む。


 あと二十歩。


 胸の奥が、少し冷たい。


「冷たさ、今一」


 自分から言う。


 治療教師が記録する。


 あと十五歩。


「二」


 学院長が足を止めた。


「上がった?」


「うん」


「震えは?」


「ない」


「戻る?」


「まだ」


 さらに五歩。


「二のまま」


 第三地点が見える。


 床へ新しい観測印。


 小型測定具。


 通信石。


 狭窄部までは、まだかなり距離がある。


 名前のない光のいる場所など、直接はまったく見えない。


 それでも。


 そこへ一歩近づいた瞬間。


 アリシアの胸の奥で、今までより明確な震えが起きた。


「……っ!」


 足が止まる。


『アリシア!』


 ノアが声を上げる。


 学院長が即座に前へ出ようとするが、アリシアは片手を上げた。


「待って」


「痛いか?」


「痛くない」


「苦しい?」


「ない」


「冷感?」


「四」


「震え?」


「今……二回」


 短い。


 けれど、昨日よりはっきりしている。


 一度。


 間。


 もう一度。


 胸の奥。


 東へ向かって。


 何かが触れているような。


 それでも、呼ばれていると決めるにはまだ違う。


「時刻」


 サーラが通信する。


「東側、全項目」


『確認中』


 アリシアは観測印の手前で立ったまま、呼吸を整える。


「第三地点、まだ踏んでない」


 治療教師が言う。


「手前二歩です」


 アリシアが床を見る。


 本当にあと二歩。


「どうする?」


 学院長が尋ねる。


 ここで進む。


 戻る。


 止まる。


 全部選べる。


 アリシアは胸へ手を置いた。


 冷たさ四。


 怖さ四。


 痛みゼロ。


 苦しさゼロ。


 そして。


 知りたい。


「……一歩だけ」


「第三地点まで二歩だ」


「だから、一歩」


 学院長が少し目を細める。


「第三地点へ到達することが目的じゃない?」


「うん」


 アリシアは自分でも少し驚いていた。


 以前なら、あと二歩なら行っていた。


 決めた地点まで。


 予定通り。


 最後まで。


 でも今日は。


「一歩進んだとき、変わるか見たい」


 サーラが頷く。


「それでいいと思います」


「安全は?」


「問題なし」


 学院長が道を空ける。


「一歩だけ」


「うん」


 アリシアは足を出した。


 たった一歩。


 石床を踏む。


 その瞬間。


 胸の奥の冷たさが、明確に強くなった。


「……五」


「止まれ」


 学院長の声。


 同時に。


 震えが一度。


 強く。


 今までで最も分かりやすく。


「来た」


 アリシアはその場で止まった。


 前へは行かない。


「震え一回。強い」


「痛み?」


「ゼロ」


「苦しさ?」


「一……少し息詰まる感じ」


「戻る」


 学院長が即答した。


 アリシアは反射的に前を見た。


 第三地点まで、あと一歩。


 本当に一歩だけ。


 行けば。


 そこまで行けば。


 もっと分かるかもしれない。


「アリシア」


 ノアの声だった。


 強くない。


 怒ってもいない。


『何を決めてきたの?』


 アリシアは止まった。


 行くと決めた。


 第三まで必ず行くとは決めていない。


 途中で戻れると、朝自分で言った。


「……戻る」


 小さく言った。


 そして、一歩下がった。


 さっき進んだ一歩を戻す。


 冷たさはすぐには消えない。


 けれど、少しずつ四へ下がる。


「四」


「さらに戻る」


 もう二歩。


 三歩。


「三」


 治療教師が頷く。


「呼吸も戻っています」


 アリシアは悔しかった。


 第三地点まで、あと一歩だった。


 目の前だった。


 それでも。


 足は前へ出さなかった。


     ◇


 少し離れた安全地点まで戻ったところで、東側から通信が入った。


『報告します』


 サーラが応答する。


「どうぞ」


『アリシアさんが第三地点手前へ接近した時間帯、奥側新反応に段階的な低下を確認しました』


 全員の表情が変わる。


「段階的?」


『はい。第二地点での低下より大きいです。第三地点手前二歩で低下開始。一歩接近時にさらに低下しました』


 アリシアの指が胸元へ触れる。


「私の冷たさと同じ」


「時刻は?」


『記録誤差内です』


「名前のない光」


『位置変化なし』


「小空洞」


『反応なし』


「奥側反応だけ」


『はい』


 サーラは一度深く息を吸った。


「アリシアさんが後退したあとは?」


 少し間があった。


『奥側反応、徐々に基準値へ復帰しています』


 誰もすぐ話さなかった。


 近づけば下がる。


 離れれば戻る。


 一度ではない。


 昨日二回。


 今日第二地点。


 第三地点手前。


 そして一歩近づいた瞬間、さらに大きく低下。


 線を引きたくなるには、十分すぎるほど材料が増えている。


「……関係ある可能性」


 アリシアが言う。


 自分で続ける。


「かなり上がった?」


 サーラは慎重に答えた。


「はい。昨日までより明確に上がったと考えます」


 アリシアは少し驚く。


「そこは言える?」


「距離変化と反応量の変化が複数段階で対応したためです。ただし、仕組みまでは分かりません」


「直接?」


「それもまだ不明です」


「六つ目が奥側反応を弱くしてる?」


「可能性の一つです」


「奥側反応が六つ目に触ってる?」


「それもあり得ます」


「第三の何かが両方に?」


「否定できません」


 アリシアは思わず顔をしかめた。


「また増えた」


『でも昨日とは違うでしょう』


 ノアが言う。


「何が?」


『少なくとも、距離で何かが変わる可能性はかなり高くなった』


 アリシアは黙った。


 そうだった。


 全部が分からないわけではない。


 今日確かめたかったこと。


 近づいたときに変化が出るか。


 それについては。


 出た。


 しかも、一段階ではなく。


 距離を縮めるほど強く。


「今日の目的……できた?」


 学院長を見る。


「十分すぎるくらいだ」


「第三地点まで行ってないけど」


「今日の目的は第三地点へ立つことだったか?」


 アリシアは少し考える。


「違う」


「何だった?」


「距離を変えたとき、私と奥側反応がどう変わるか見る」


「見られたな」


「うん」


「なら終了だ」


 アリシアは第三地点の方を見た。


 もうここからは見えない。


 あと一歩。


 その一歩を進まなかったことへの悔しさは、まだ少しある。


 でも。


「失敗じゃない」


 自分で呟く。


 学院長が聞き返す。


「何が?」


「途中で戻ったこと」


「もちろんだ」


「……うん」


 アリシアはようやく小さく笑った。


     ◇


 生活観測区画へ戻ったのは、夕方近くになってからだった。


 扉が開く前から、子供が待っていたらしい。


「アリシア?」


「ただいま」


「帰ってきた」


「うん」


「ノアも?」


『当然よ』


「ノアもただいまって」


『言ってないけど、まあいいわ』


 子供は立ち上がったものの、走って近づいてはこなかった。


 アリシアの顔。


 歩き方。


 胸元へ置いた手。


 一つずつ見る。


「痛い?」


「ゼロ」


「苦しい?」


「ゼロ」


「怖い?」


「今は一」


「何かあった?」


「いっぱい」


 子供の目が少し大きくなる。


「東行った?」


「うん」


「第三まで?」


 アリシアは一瞬だけ黙った。


「行かなかった」


「途中でやめた?」


「うん」


「怖かった?」


「それもある。でも身体の変化が少し出たから、戻った」


 子供はその答えを聞き、すぐに残念そうな顔にはならなかった。


「どこまで?」


「第三地点の、一歩手前」


「一歩?」


「うん」


「近い」


「すごく近かった」


「行きたかった?」


「かなり」


「でも戻った」


「うん」


 子供は少し考える。


「失敗?」


「違う」


 今度は迷わず答えられた。


「ちゃんと確かめたいことが分かった」


「何?」


「近づくと、私の胸の冷たさと震えが強くなった。それと同じように、奥側の新しい反応が弱くなった」


「同じとき?」


「かなり近い時間で」


「近づくほど?」


「今日の範囲では」


 子供の眉が寄る。


「じゃあ関係ある?」


「可能性は、前よりかなり高くなったって」


「答え?」


「まだ仕組みまでは分からない」


「でも前より分かった」


「うん」


「第三まで行かなくても?」


 アリシアは少し笑う。


「うん」


 子供は木箱を見る。


「箱、全部開けなくても、少し開けられるって分かった」


「うん」


「アリシアも、最後まで行かなくても分かった」


「そうだね」


「じゃあ戻ってよかった?」


 アリシアはその問いに、少し長く考えた。


 悔しかった。


 あと一歩だった。


 もっと知りたかった。


 それでも。


「うん。戻ってよかった」


「行けばもっと分かったかも」


「うん」


「でも、戻ったから分かったのもある?」


 アリシアの目が少し大きくなった。


「何?」


「離れたら、東の反応戻ったんでしょう?」


「……うん」


 そうだった。


 近づいたときだけではない。


 戻ったとき。


 アリシアが離れるにつれて、奥側反応も基準値へ戻った。


 もし第三地点へそのまま進み続けていたら。


 後退時の変化は、もっと遅れてしか取れなかったかもしれない。


「戻ったから、離れたときの変化も見られた」


「うん」


「じゃあ、戻るも調べるになった」


 子供が言う。


 アリシアはしばらく言葉を失った。


『また子供に先越されたわね』


「ノア」


『何よ。事実じゃない』


「勝負じゃない」


「また負けた?」


「負けてない!」


 子供が笑った。


 その笑いにつられ、アリシアもようやく大きく息を吐いた。


     ◇


 夕食前。


 顔のない存在は九歩目から動かず、胸の十一の光は三つが淡く明るくなっていた。


 子供は途中で何度か見たものの、窓へ行ってほしいとは言わなかった。


 木箱も今日は開けていない。


 白い花の三枚目の絵も描かなかった。


 けれど、その一日を「何もしなかった」とは呼ばなかった。


「今日はアリシアが行った日」


「うん」


「私は行ってない」


「うん」


「箱も開けてない」


「うん」


「絵も描いてない」


「うん」


「でも、私の一日もあった」


「もちろん」


「待ってた」


「うん」


「待つもした?」


「したね」


 子供は少し満足そうに頷いた。


「行ってらっしゃい言った」


「うん」


「おかえりも言った」


「うん」


「それ、今まであんまりしてない」


「そうだね」


「見えなくなっても、帰ってくるって分かった」


 アリシアの胸が少し締まる。


「うん」


「でも、毎回帰ってくる?」


 急に難しい問いになった。


 アリシアはすぐに「絶対」とは言わなかった。


「帰ってくるつもりで行くよ」


「絶対?」


「絶対とは言えない」


 子供の顔が少し曇る。


 それでも、アリシアは言葉を変えなかった。


「でも、今日みたいに帰れるように準備する」


「途中で戻る?」


「必要なら」


「一歩前でも?」


「うん」


 子供は少しだけ笑った。


「今日みたい」


「今日みたい」


     ◇


 夜。


 東側中継観測室では、今日の段階的接近試験の記録が壁いっぱいの図へ整理されていた。


 第一地点。


 アリシア側変化なし。


 奥側反応変化なし。


 第二地点。


 アリシア側に冷感。


 その後、軽い震え。


 奥側反応は対応する時間帯に短時間低下。


 第三地点手前。


 冷感増加。


 震え二回。


 奥側反応低下量も増加。


 さらに一歩接近。


 冷感五。


 強い震え一回。


 軽い呼吸苦。


 奥側反応、当日最大の低下。


 その後、アリシア後退。


 冷感減少。


 身体状態回復。


 奥側反応も段階的に基準値へ復帰。


「これは……」


 若い観測員が図を見ながら、珍しくすぐには何も言わなかった。


 サーラが横を見る。


「何ですか?」


「いや、今日は言ってもいいかなって思って」


「何を?」


「距離と変化量、かなり対応してません?」


「はい」


 サーラは認めた。


 若い観測員が目を瞬く。


「はいって言った」


「今日は、そのように評価できるだけの記録があります」


「じゃあ関連ある?」


「関連性を示す材料は、かなり強くなりました」


「おお……」


「ただし、因果方向と機構は不明です」


「やっぱりついてくる」


「当然です」


 若い観測員は笑いながら図を見る。


「でも、昨日までとは違いますね」


「違います」


「六つ目の神器と奥側反応。少なくとも距離が変わると、両方の値が対応して変わる可能性が高い」


「現時点では、その表現が妥当でしょう」


「名前のない光は?」


「今日の試験中、大きな位置変化なし」


「小空洞も?」


「周期反応なし」


「じゃあ今日動いた関係は、アリシアさんと奥側新反応」


「少なくとも観測上は」


 若い観測員は少し考える。


「次、どうするんです?」


 サーラは図へ視線を戻した。


「今日より先へ進む前に、今日の記録を十分に解析します」


「第三地点、あと一歩だったのに」


「だから何です?」


「いや……近いなって」


「近いから進む、ではないでしょう」


「分かってます」


 若い観測員が苦笑する。


「でも気になる」


「私もです」


「サーラさんも?」


「かなり」


「学院長と同じ」


「それを行動理由にしないだけです」


 若い観測員は頷いた。


「じゃあ明日は?」


「まず今日の結果から、次に何を確かめるべきか決めます」


「またそこから」


「今日はそれで一つ進んだでしょう?」


 サーラの言葉に、若い観測員は図を見る。


 確かに。


 昨日までより。


 はるかに。


     ◇


 生活観測区画では、寝る前にアリシアが練習帳を開いていた。


 子供も隣で自分の紙を見ている。


 今日の記録。


 アリシアはゆっくり書いた。


 第一地点。


 何も感じなかった。


 少し残念だった。


 第二地点。


 冷たさ。


 そのあと弱い震え。


 第三地点手前。


 冷たさが強くなった。


 怖かった。


 でも知りたかった。


 一歩だけ進んだ。


 さらに強くなった。


 戻った。


 そこで筆が止まる。


『続きは?』


 ノアが覗き込む。


「考えてる」


『何を?』


「戻ったときのこと」


 子供が横から言う。


「失敗じゃなかった」


「うん」


「東も戻った」


「反応がね」


「アリシア離れたら」


「うん」


 アリシアは筆を動かした。


 ――第三地点まで、あと一歩だった。


 ――行きたかった。


 ――でも戻った。


 ――戻ったことで、離れたときにも奥側反応が元へ戻ることが分かった。


 少し考えて、さらに一行。


 ――進むことだけが、確かめる方法ではなかった。


 書き終えると、胸の奥にあった悔しさが少しだけ形を変えた。


 消えたわけではない。


 あと一歩だった。


 それは今でも思う。


 けれど、あと一歩だったからこそ。


 止まれたことにも意味があった。


「アリシア」


「うん」


「明日また行く?」


「まだ決まってない」


「行きたい?」


 少し考える。


「行きたい」


「今日より?」


「……今日より少し慎重に行きたい」


「怖い?」


「二」


「知りたい?」


「五」


「数字増えた」


「分かりやすいから」


 子供は少し笑った。


「じゃあ、明日決める?」


「うん」


「第三行かないかも?」


「うん」


「行くかも?」


「うん」


「今日より遠く行くかも?」


「可能性はある」


「今日より手前で終わるかも?」


「それもある」


 子供は布団へ入りながら頷いた。


「行くって決めたあとでも、どこまで行くかは変えていい」


「うん」


「最初に決めても?」


「変える理由ができたら」


「怖くなったら?」


「それも理由になる」


「身体変わったら?」


「大事な理由」


「知りたいが増えたら?」


「それだけでは進まない」


 子供は少し笑う。


「覚えた」


「何を?」


「アリシア、知りたいだけだと走るから」


「私そんなに信用ない?」


『ないわね』


「ノア!」


 子供が笑い、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。


 やがて灯りが落とされた。


 顔のない存在の胸では、今夜は二つの光だけが淡く残っている。


 アリシアの胸には、神器の震えはない。


 東側の奥側反応も、現在は基準値へ戻っている。


 今日、第三地点には届かなかった。


 予定していた一番遠い場所まで進めなかった。


 それでも。


 第一地点では何も起きなかった。


 第二地点では弱く変化した。


 さらに近づくと、変化は大きくなった。


 戻ると、両方とも元へ近づいた。


 それだけの違いを、一日の中で確かめることができた。


 進めば進むほど偉いわけではない。


 遠くへ行くほど、正しいわけでもない。


 どこまで行くかを決めることと。


 途中で、その決定を変えること。


 どちらも、調べるために必要な判断だった。


 アリシアは眠る前、練習帳の最後の一文をもう一度見た。


 ――進むことだけが、確かめる方法ではなかった。


 明日。


 また東へ近づくかもしれない。


 今日は届かなかった第三地点へ立つかもしれない。


 もっと手前で止めるかもしれない。


 あるいは、一日まったく近づかず、今日の記録だけを調べるかもしれない。


 そのどれになるのかは、まだ決まっていない。


 けれど今は。


 決まっていないことが、怖いだけではなかった。


 次に選ぶための余白として。


 アリシアは、その未定を残したまま目を閉じた。

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