第151話 分かったことを並べたなら、次は何を確かめるかを選ばなければならない
朝の学院には、夏へ向かう気配が少しずつ濃くなっていた。
数日前まで雨の名残を抱えていた中庭の石畳はすっかり乾き、東側校舎の窓から差し込む朝日は、細長い窓枠の影を廊下の奥まで伸ばしている。早朝訓練へ向かう生徒たちの足音が遠くで幾つも重なり、開けられた高窓からは、まだ涼しさを残した風と一緒に鳥の声が流れ込んでいた。
生活観測区画にも、その朝の気配は届いている。
けれど、アリシアは目を覚ましてからしばらく、窓の外を見ていなかった。
机の上には、いつものように三種類の報告が置かれている。
東側地下区画。
西側地下区画。
そして、昨夜までの生活観測区画の記録。
普段なら起きて間もなく手を伸ばしているはずの紙を前にして、今朝のアリシアは一枚も開かずに座っていた。
『どうしたのよ』
床へ敷かれた柔らかな布の上で丸くなっていたノアが、片目だけを開ける。
『いつもなら起きて三分もしないうちに紙へ手を伸ばしてるでしょう』
「三分って決めてないよ」
『体感よ』
「適当じゃん」
『だいたい合ってるわ』
アリシアは少しだけ唇を尖らせたものの、それでも報告書には触れなかった。
ノアも本気で急かしているわけではないらしい。黒い尻尾の先だけを布の上でゆっくり動かしながら、アリシアが口を開くのを待っている。
『読まないの?』
「読むよ。その前に、昨日までのこと思い出してた」
『紙を開けば全部書いてあるでしょう』
「そうじゃなくて……」
アリシアは言葉を探しながら、窓際から棚の方へ視線を移した。
朝の光の中に、木箱がある。
最初は見える場所へ置いておくことさえ難しかった箱だ。
子供は何日もかけて、その存在に少しずつ慣れてきた。木へ触れ、金具へ触れ、留め具を少しずつ動かし、外し、そしてとうとう蓋をほんのわずかだけ持ち上げるところまで進んだ。
怖くなくなったわけではない。
けれど、怖いからといって箱の存在そのものを消そうとはしなくなった。
それでも、中身はまだ分からない。
同じ棚には、もう花弁をほとんど残していない白い花と、その花を子供自身が描いた二枚の絵が置かれている。
一枚は、まだ白かった頃の花。
もう一枚は、花弁をほとんど失った今の姿。
どちらも同じ白い花であり、同時に、同じではなかった。
隣の寝台には、顔のない存在がいる。
胸に宿る十一の淡い光は、その日ごとに明るくなる数も位置も変わる。歩く日もあれば、一日ほとんど寝台を離れない日もある。
以前なら、それらの違いへ「良くなった」「悪くなった」と名前を付けたくなっていた。
けれど今は、その日の状態をその日のものとして残す。
その見方を、子供自身も少しずつ覚えていた。
そして東側。
名前のない光。
壁を隔てた小空洞。
さらにその奥で確認されている、別の微弱な反応。
西側には、旧排水坑、第二排水支路、点検口候補、排水圧に関係している可能性のある古い設備がある。
そこから離れたところには、いまだ閉じたままの古い扉と、水没区画も残っていた。
調べるほど、見つかるものは増えた。
記録も増えた。
そして、分からないことまで増え続けた。
それ自体は悪いことではない。
むしろ、分からないものを勝手に一つの答えへまとめずに済んだという意味では、必要な時間だった。
ただ。
「……もう、増えたって言ってるだけじゃ駄目なんだと思う」
アリシアが小さく呟くと、ノアのもう片方の目も開いた。
『何が?』
「東も西も。今までは、分からないのに意味を決めないようにしてきたでしょう?」
『そうね』
「近いから関係があるとか、同じ時間に動いたから同じ仕組みだとか、新しいものが出たから前に見てたものはいらないとか。そういう決め方をしないで、一つずつ記録してきた」
アリシアはようやく机へ近づき、閉じたままの報告書へ指を置いた。
「でも、分からないって記録するだけをずっと続けてたら……結局、何も確かめられない」
ノアはすぐには返事をしなかった。
朝の風が高窓から入り込み、机の端に置かれた紙をわずかに揺らす。
少しして、布の上で黒い尻尾が一度だけ動いた。
『ようやく、そこまで来たのね』
「何?」
『分からないものを、分からないまま置いておけることと、分からないことを理由に何もしないことは違うって話よ』
アリシアは少し目を見開いた。
「……前から思ってた?」
『当然でしょう』
「言ってよ」
『自分で気づいた方がいいと思ったの』
「本当に?」
『半分はね』
「残り半分は?」
ノアの耳がわずかに前へ向く。
『前のあなたに言ったら、「じゃあ私が見に行けばいい」って、そのまま地下へ走っていきそうだったから』
「行かないよ」
『今ならね』
「前だって……」
そこまで言って、アリシアは言葉を止めた。
思い当たる。
以前の自分なら、分からないことがあればあるほど、自分が前へ出ようとしただろう。
誰かへ危険を任せるくらいなら、自分が行けばいい。
自分が見ればいい。
自分が耐えればいい。
自分なら、闇の神器がある。
そうやって何度も、選択肢を自分一人へ集めようとした。
「……たぶん、行ってた」
『でしょうね。何か起きたら、どうせ一人で前へ出る』
「うん」
『だから、今ならいいんじゃない?』
「何が?」
ノアは少しだけ目を細めた。
『確かめるために動くこと』
その言葉は、思っていたより深く胸へ落ちた。
止まらない。
けれど、急がない。
分からないから、決めつけない。
それでも、分からないことを理由に、永久に同じ場所へ立ち続けるわけでもない。
今まで集めてきた情報を使って、次に何を確かめるのかを選ぶ。
そのために必要なら、進む。
進む必要がなければ、待つ。
止まることも、進むことも、それ自体を正解にしない。
アリシアがようやく東側の報告書へ手を伸ばしかけたとき、背後の寝台から布の擦れる音がした。
「……朝?」
まだ眠気を残した子供の声が聞こえる。
アリシアは紙から手を離し、振り返った。
「うん。おはよう」
「おはよう」
子供はしばらく天井を見たあと、ゆっくり窓へ顔を向けた。
今朝は鳥の姿がない。
「今日は見えない」
「今はね」
「声もない」
「うん」
子供は数秒だけ庭を眺めたものの、窓の端から端まで探そうとはしなかった。
「今は、いないじゃなくて、見えない?」
「そうだね」
「うん」
それだけ確認すると、次は隣の寝台へ視線を移した。
顔のない存在は、今朝もそこに横たわっている。
「おはよう」
胸の十一の光へ向けて、静かに声をかける。
すぐには変化しない。
子供は待った。
以前なら、その数呼吸の沈黙のあいだに、指先へ力が入り、何も起きないことへの不安を顔に出していた。
今朝は、ただ待っている。
少しして一つ。
さらに遅れて、もう一つ。
「今は二つ」
淡い二点をしばらく見つめ、それから子供は首を傾げた。
「昨日と同じ?」
「二つの日は前にもあったけど、今日は今日の二つだね」
子供はその言葉を一度、自分の中で転がすように黙った。
「うん。今日の二つ」
比較はそこで終わった。
寝台を降りた子供は、自分で左右の足裏を確認する。
赤みはない。
指で押しても痛くない。
足首をゆっくり回したあと、床を二歩、さらに二歩だけ歩いた。
「大丈夫」
「あとでセレナにも見てもらう?」
「うん。見るだけ」
確認を終えたあと、子供は白い花ではなく木箱の方へ向かった。
箱の前へしゃがみ込み、蓋、金具、木目を順番に見ていく。
昨夜、自分で閉じ直した箱は、留め具を外したまま静かに閉じていた。
「昨日のまま?」
「私が起きてからは誰も触ってないよ」
「夜は?」
「記録を見れば確認できると思う」
「見る?」
「子供が見たいなら」
少し考えてから、子供は首を横へ振った。
「今はいい」
箱へ手も伸ばさない。
「今日、開ける?」
それはアリシアへの質問ではなく、自分自身へ向けた言葉だった。
しばらく箱を見たあと、子供は小さく息を吐く。
「……まだ分からない。でも、分からないから今日はずっと触らない、でもない」
アリシアの目が少し動いた。
子供は箱から視線を外さずに続ける。
「あとで触りたいってなったら触る。開けたいってなったら、そのとき考える。怖くなったら、やめる」
自分の中にある選択肢を一つずつ確かめる。
どれか一つを、今ここで決める必要はない。
それが分かったらしい。
子供は少しだけ笑った。
「今は朝ごはん」
『ずいぶん健全な結論になったじゃない』
「ノア、何て?」
「朝ごはんは大事って」
『かなり意訳したわね』
「違う?」
『まあ、間違ってはいないけど』
子供は楽しそうに笑いながら食卓へ向かった。
◇
朝食が始まってしばらくした頃、生活観測区画の扉の外へ聞き慣れた足音が止まった。
最近では、子供もその足音だけで学院長だと分かるらしい。
「学院長?」
「いるぞ」
「朝から?」
「朝だからいるんだ」
「寝た?」
扉の向こうに一瞬の沈黙が生まれた。
「……少し」
『怪しいわね』
ノアの呟きは、今度は訳さなかった。
子供は麦粥を一口飲み込んだあと、少し不満そうに首を傾げる。
「少しって、どのくらい?」
「それは今必要な情報か?」
「気になる」
「気になるだけなら、答えなくてもいいだろう」
「学院長、いつもそれ言う」
「人に言ってることは、自分にも使える」
子供は少し考えたあと、笑った。
「じゃあ聞かない」
「助かる」
軽いやり取りが終わったところで、学院長の声から冗談めいた色が少し消えた。
「アリシア。食事が終わったら、少し時間をもらえるか?」
「私?」
「ああ」
匙を持っていた手が止まる。
「東側?」
「東と西、両方だ」
胸の奥に、わずかな緊張が走った。
これまでにも調査報告は受けてきた。
意見を聞かれることもあった。
けれど、今の学院長の声には、単なる報告とは少し違う響きがある。
「何かあった?」
「新しい異常が出たわけじゃない。そろそろ、人間側から何を確かめるのか決めたい」
アリシアの目が少し大きくなる。
ほんの少し前、ノアと話していた内容と重なった。
「……私も、同じこと考えてた」
「何を?」
「分からないって記録するだけじゃなくて、次に何を見るのか決めないとって」
扉の向こうが一拍静かになった。
「そうか。なら、ちょうどいい」
二人の話を聞いていた子供も、匙を器へ戻す。
「人間、動く?」
学院長はすぐに「動く」とは答えなかった。
「動くかもしれない。ただし、動くことを先に決めるんじゃない。何を知りたいのかを決めて、そのために必要なら動く」
「東?」
「候補だ」
「西も?」
「ああ」
「両方今日?」
「それを含めて、これから決める」
子供は少し眉を寄せた。
「また分からない」
「会議する前だからな」
「会議したら?」
「分からないことが、一つくらい減るかもしれない」
「増えるかも?」
「それもある」
頬を膨らませた子供を見て、学院長が扉の外で笑った。
「地下調査は、なかなか思い通りにならないんだ」
◇
午前の会議は、学院長室ではなく、生活観測区画から近い小会議室で行われた。
アリシアが長時間区画を離れずに済むようにするためだった。
参加者は学院長、副学院長、サーラ、魔導具教師、土の神器継承者、安全管理担当、そしてアリシア。
ノアも当然のようにアリシアの隣の椅子へ座っている。
「猫も参加者なんですか?」
資料を運び込んできた若い観測員が、思わず口にした。
『何か文句ある?』
ノアの低い声を聞き、アリシアが小さく咳払いする。
「ノア、怒ってる」
「いや、ぜひ参加してください」
『物分かりがよくて助かるわ』
「参加していいって」
「俺、今、猫へ許可を出した側ですよね?」
「たぶん」
「たぶんなんだ……」
副学院長が資料を受け取りながら呆れた顔をした。
「お前は資料を置いたら観測室へ戻れ」
「はい」
「余計なものまで置いていくなよ」
「何ですか、余計なものって」
「好奇心」
「置けるなら置いていきたいですよ」
魔導具教師が吹き出し、サーラも小さく笑った。
緊張する話へ入る前の、短い緩みだった。
若い観測員が部屋を出たあと、学院長は机の中央へ大きな地下図面を広げた。
何度も追記された紙には、東西それぞれの調査地点、古い導線、閉鎖区画、現在の観測対象が細かく書き込まれている。最初に見た頃の地図より、印も線もずっと多い。
「先に、今日ここで決めたいことを言う」
会議室の空気が引き締まり、全員の視線が地図へ集まった。
「東も西も、十分に情報が増えた。ここから先、同じ場所から同じ方法で観測だけを続けても、得られる情報は少しずつ減っていく」
サーラが頷く。
「東側では、名前のない光、小空洞、奥側反応について、それぞれ記録量はかなり増えています。ただし三者の関係を確かめるには、現在の遠隔感知精度では不足する部分が出始めています」
副学院長が手元の資料を開く。
「西側も同じだ。第二排水支路、点検口候補、排水圧関連設備候補まで位置を絞った。水没区画や古い扉との位置関係も、以前よりかなり整理できている。ただし、設備が今もどの程度生きているのかは分からない」
学院長が図面へ両手を置いた。
「つまり、ここからは『見つけたから見る』じゃない。『何を確かめたいのかを決めて、そのために見る』へ移る」
アリシアは地図へ目を落とした。
東。
西。
中央。
何度も見たはずの線なのに、今は以前よりずっと多くの意味候補が重なっている。
「何を確かめるの?」
「大きく分けて、候補は三つだ」
学院長が一本目の指を立てる。
「東側の小空洞と奥側反応が、同じ設備系統に属しているのか」
二本目。
「西側の第二排水支路と排水圧設備候補が、現在も水没区画へ物理的、あるいは魔術的につながっているのか」
そして三本目。
学院長の指が、地図上で東と西の間をなぞった。
「東側と西側で見つかっているものが、そもそも同じ施設運用の一部だったのか」
空気が少し変わった。
アリシアも無意識に息を浅くする。
これまでは、東と西に似たものが見つかっても、同じものだとは決めなかった。
似ている。
時間が近い。
言葉が近い。
だから同じだ。
そんな短い結び方をしないために、長い時間をかけて別々に記録してきた。
「……今度は、つながってるかどうかを調べる?」
「そうだ」
学院長ははっきり頷いた。
「つながっていると決めるんじゃない。つながっているかを確かめる」
サーラが古い施設図面をもう一枚広げる。
「過去資料を再整理したところ、東西の双方に、現行図面では途中で途切れている古い管理線が複数残っています」
「管理線?」
「魔力導線、通信線、制御線のどれかはまだ判断できません。ただ、配置だけを見ると、東側と西側が完全に独立した設備として作られていたとは考えにくい部分があります」
副学院長が西側の一点を指した。
「第二排水支路も、単に水を流すだけのものとは限らない。点検口候補付近に、かなり弱いが制御系と思われる残留魔力がある。水量や圧力を遠隔管理していた可能性もある」
「東にも同じような制御がある?」
「そこはまだ分かりません」
サーラが答える。
「だから、そこを調べる価値があります」
アリシアは地図へ並ぶ印をしばらく見つめた。
「でも……三つ全部を一度にやったら、また見るものがいっぱいになる」
「その通りだ」
学院長は迷わず認めた。
「だから順番を決める」
「どこから?」
「俺は東側を先にしたい」
副学院長が腕を組んだ。
「理由は?」
「名前のない光がいるからだ」
アリシアの背筋へ、わずかに力が入る。
学院長はその反応に気づいたようだったが、すぐに続けた。
「光を追うためじゃない。光がいる近くで、小空洞と奥側反応という二つの反応が継続している。しかも距離のせいで、遠隔感知の精度が落ち始めている。このまま変化が起きた場合、判断材料が足りなくなる可能性がある」
「緊急?」
「今すぐ危険という意味ではない」
「じゃあ……」
「今しか取れないかもしれない情報がある」
朝、子供と学院長が話していた言葉が浮かぶ。
危険性。
緊急性。
今しか取れない情報か。
人員。
ただ気になるからではなく、行動する理由を並べる。
「西は待てる?」
「現状なら」
副学院長が答えた。
「水流は弱いが安定している。排水圧設備候補も閉鎖状態。生命反応なし、危険値低。昨日までの観測範囲で急激な変化は確認されていない」
「だから、今は東」
「そうだ」
アリシアが少しだけ頷きかけた、そのときだった。
胸の奥に、冷たいものが触れた。
「……っ」
呼吸が、一瞬止まる。
痛みではない。
身体の外から何かに触れられた感覚でもない。
もっと内側。
いつも静かにそこにある、闇の神器のさらに奥。
ほんの一度だけ。
小さく震えたような感覚。
隣のノアが、すぐに椅子の上で立ち上がった。
『アリシア?』
全員の視線も集まる。
「どうした?」
学院長が椅子を引きかける。
「待って」
アリシアは胸元へ手を置いた。
痛くない。
苦しくない。
呼吸もできる。
腕の重さもない。
以前、闇を大きく広げたあとに残った反動とも違う。
「今……」
「神器か?」
学院長の声が低くなる。
アリシアはすぐに頷かなかった。
目を閉じ、一度深く息を吸う。
もう一度、同じ感覚が来るかを待つ。
何も来ない。
冷たさも、震えも、一瞬で消えていた。
「……たぶん」
『たぶん?』
「一回だけだったから。でも、胸の奥。神器があるところに近かった」
ノアが机へ前足を置く。
『どんな感じだった?』
「呼ばれた……は違う」
自分で口にした言葉を、すぐに否定する。
「引っ張られたでもない。痛いでもないし、前に闇を広げたあとの重さとも違う。小さく……震えたみたいな感じ」
「方向は?」
サーラが尋ねた。
アリシアは目を開ける。
今までなら、そこに意味を足すのが怖くて、「分からない」で全部を閉じたかもしれない。
けれど、感じたものを感じなかったことにするのも違う。
「……東」
会議室が静まり返った。
誰も「つながった」とは言わない。
誰も立ち上がって地下へ向かおうとしない。
最初に口を開いたのは学院長だった。
「今の感覚を記録する」
「うん」
「同じ時間帯に東側で何か起きていたか確認する。ただし、現時点で関係があるとは決めない」
「分かった」
サーラはすでに通信具を手へ取っていた。
「東側中継観測室。現在時刻の前後一分、全観測項目を再確認してください」
『了解』
「名前のない光、小空洞、奥側反応。通常記録の全項目です」
『確認します』
返答を待つ間に、アリシアの心臓は少しずつ速くなっていた。
怖い。
それだけではなかった。
自分が期待していることにも、気づいてしまった。
六つ目の神器。
自分自身。
ずっと物語の中心にあるはずなのに、子供や顔のない存在、東西の地下区画を追ううちに、どこか遠くへ置いてしまっていた問い。
なぜ、自分だったのか。
何に選ばれたのか。
忘れられた六つ目とは、いったい何なのか。
『顔色、悪くない?』
ノアが心配そうにこちらを見る。
「大丈夫」
『数字』
「え?」
『大丈夫禁止。いつものやつでしょう』
子供へ使ってきた運用を、自分自身にも使うことが増えていた。
アリシアは少しだけ恥ずかしくなりながらも、自分の身体を確かめる。
「痛みはゼロ。苦しさもゼロ。怖さ……三。びっくりが五くらい」
『よし』
「何がよしなの」
『言えたこと』
そのとき、通信具が淡く光った。
『サーラさん』
「どうぞ」
『該当時刻、名前のない光は位置変化なし。小空洞反応なし。接続値にも大きな変動はありません』
アリシアの胸の奥で、期待していた何かがほんの少し空振りした。
けれど、報告はそこで終わらない。
『ただし、奥側新反応に微小変化があります』
全員の表情が変わった。
「内容は?」
『基準値から、ごく短時間だけ低下。その後、元の水準へ復帰しています』
「低下開始時刻を」
サーラが聞く。
返ってきた時刻は、アリシアが胸の震えを感じた瞬間と、ほとんど重なっていた。
今度こそ、誰も小さな冗談すら口にしなかった。
「誤差は?」
『記録機器上では、一呼吸以内です』
副学院長がゆっくり息を吐いた。
「この形は初めてか?」
『二度目です』
「一度目は?」
サーラが尋ねる。
『昨日です。名前のない光が、現在の奥側反応方向へ接近していた途中で一度だけ確認されています』
アリシアは地図を見る。
奥側新反応。
名前のない光。
そして、自分。
また、線を引きたくなる。
ここまで重なるなら、何かあるのではないか。
そう考えるのは、あまりにも自然だった。
「……関係ある?」
思わず口から出た。
けれど、以前とは違う。
その言葉だけで結論にしなかった。
「って思う。でも、まだ分からない」
学院長が静かに頷く。
「そうだ」
「でも……これは、調べたい」
胸元へ置いた手はそのままだったが、声には少しずつ力が戻っていた。
「気になるから?」
学院長の問いは、試すためのものではない。
アリシア自身が理由を確かめるためのものだった。
「気になるのもある。怖いのもある。でも、六つ目の神器が反応したかもしれないなら、私自身に関係している可能性がある」
「そうだな」
「今まで東側の反応は、私が近くにいなくても起きてた。でも今は、私がここにいるときに変わったかもしれない。それが偶然なのか、何か関係があるのか……」
アリシアは一度息を吸った。
「もう一度、同じことが起きるか見たい」
サーラが静かに頷いた。
「検証できます」
「どうやって?」
「まずは、何もしません」
アリシアが瞬きをする。
ノアが鼻を鳴らした。
『結局そこからなのね』
「何もしない?」
「今の反応が起きたとき、アリシアさんは神器へ意図的に魔力を流していませんよね?」
「うん」
「なら、最初に確認すべきなのは、通常状態でもう一度起こるかどうかです。そこで再現があるなら、次の段階を考えます」
学院長も続けた。
「だから、いきなりアリシアを東側地下へ連れていくことはしない」
「……うん」
「不満か?」
「少し」
『顔に出てるわよ』
「だって、近くへ行けば何か分かるかもしれないって思ったから」
「俺も思った」
「学院長も?」
「かなりな」
予想外の返答に、アリシアは思わず笑った。
「でも行かない?」
「今はな。理由は二つある」
学院長が地図から顔を上げる。
「一つ目。アリシア自身が観測条件の一つになった可能性がある。なら、意味もなく位置を変えたくない」
「……なるほど」
「二つ目」
学院長の表情が少しだけ柔らかくなった。
「お前が当事者だからだ」
アリシアは顔を上げた。
「私が?」
「そうだ。東側に反応がある。六つ目の神器を持っている。だからアリシアを連れていって試せばいい――そんな扱いはしたくない」
会議室に静けさが落ちた。
その言葉は、子供へしてきたことと同じだった。
必要だから。
役割があるから。
意味がありそうだから。
そんな理由だけで、本人の意思を置き去りにして動かさない。
観測のための対象ではなく。
役割を果たすための道具でもなく。
一人の人間として。
「……私が行きたいって言ったら?」
「そのとき改めて相談する」
「危険確認も?」
「当然だ」
「ノアも?」
『当然行くわよ』
「ノアも行くって」
「それは聞く前から分かっていた」
『失礼ね』
「何が?」
「ノアが怒ってる」
「それも分かってる」
少しだけ空気が緩んだ。
アリシアはもう一度、地図へ視線を戻す。
朝までは、東西の調査をどう進めるかという話だった。
それが今、自分自身がその地図の外側ではなく、調査対象と関係するかもしれない位置へ入り始めている。
まだ一度だけ。
偶然かもしれない。
別の原因があるかもしれない。
それでも。
確かめる理由にはなった。
◇
生活観測区画へ戻ったとき、子供は机に紙を広げ、何かを書いていた。
アリシアが入ってくると、すぐに顔を上げる。
「会議終わった?」
「うん」
「何決めた?」
学院長から説明してもらうこともできる。
けれど、今回は自分自身が関係している。
アリシアは少し迷ったあと、自分の言葉で答えた。
「東側を、少し優先して調べることになった」
「光?」
「光だけじゃなくて、小空洞と、その奥にある新しい反応も」
「三つ」
「うん」
「西は?」
「止めないよ。ただ、今すぐ動く必要は東より低いから、順番を少し後にする」
子供は納得したように頷いた。
「身体一つだから?」
「それもある」
「学院長言ってた」
「思ったより大事な理由みたい」
子供が少し笑う。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
アリシアの胸元へ視線を向けている。
「何かあった?」
「どうして?」
「アリシア、ずっとここ触ってる」
無意識だった。
右手が胸の中央へ置かれたままになっている。
「あ……」
「痛い?」
「痛くない」
「怖い?」
「少し」
子供の表情が真剣になる。
「何?」
アリシアは隠さなかった。
「会議の途中で、六つ目の神器が一回だけ変な感じした」
子供の目が大きくなる。
「声?」
「違う」
「痛い?」
「違う」
「光った?」
「見た目は何も変わってないと思う」
「じゃあ?」
「胸の奥が、小さく震えたみたいな感じ」
「東?」
「そう感じた」
子供は少し黙った。
以前なら、その情報を聞いた瞬間に「何で」「どうして」と続けていたかもしれない。
今は少し考えてから、次の質問を選んでいる。
「東も、同じとき何かあった?」
「奥にある新しい反応が、ほんの短い間だけ弱くなった」
「同じ?」
「時間はかなり近い」
「じゃあ、関係ある?」
アリシアは思わず少し笑った。
「私も最初にそう思った」
「でも?」
「まだ分からない」
子供は口を尖らせる。
「また」
「まただね」
「でも調べる?」
「うん」
「何する?」
「まず、もう一回同じことが起きるか見る」
「アリシア、東行く?」
「まだ行かない」
「行きたい?」
アリシアは正直に自分の胸へ問いかけた。
「少し」
「怖い?」
「それもある」
「知りたい?」
「かなり」
子供は少しだけ笑った。
「私と同じ」
「箱?」
「うん」
二人の視線が自然に棚前の木箱へ向く。
「見たい。でも怖い。近づいたら分かるかもしれない。でも、近づいたら全部分かるわけじゃない」
「そうだね」
「アリシア、東へ行ったら全部分かると思ってる?」
少し痛いところを突かれた。
アリシアは視線を逸らしかけて、やめる。
「……ちょっと思ってた」
『素直ね』
「ノア何て?」
「馬鹿ねって」
『そこまで言ってないわよ』
子供が笑う。
「でも、アリシアも止まる?」
「今は」
「誰かに止められた?」
「学院長とサーラが、今すぐ行くより先に確認する方がいいって言った」
「怒った?」
「怒ってない」
「行きたいのに?」
「少し残念ではあるよ」
子供は、アリシアの顔をしばらく見た。
「でも、アリシアが行かないって決めた?」
その問いには、すぐ答えられなかった。
学院長が提案した。
サーラが理由を説明した。
けれど、自分も聞いて、納得した。
「……一緒に決めた」
「一緒?」
「うん。私も、今は行くより先に見た方がいいと思った」
子供の表情が少し緩む。
「じゃあ、アリシアの決めたもある」
「うん」
「ならいいね」
その言葉が、思っていた以上に胸へ残った。
決められたのではない。
止められただけでもない。
自分の意志も、その判断の中にある。
アリシアは胸元に置いていた手を、ようやく少し下ろした。
子供は机へ戻る。
「何書いてたの?」
「今日の白い花」
紙には、以前の白い花とは違う姿が描かれていた。
花弁をほとんど失った茎。
その横の小皿。
茶色く乾いた欠片。
「今の白い花?」
「うん」
「前の絵もあるよね」
「ある」
「二枚?」
「うん」
「同じ白い花?」
子供は少し考えた。
「同じ白い花。でも、違うとき」
アリシアは二枚を見比べる。
同じもの。
けれど違う時間。
どちらかが正しい姿なのではない。
「今も残したかったんだ」
「うん。前の絵あるから、今の描かなくていい、じゃない」
「そうだね」
「今のも残したい」
「うん」
「アリシアも?」
「何が?」
「六つ目、前からある。でも今日の変な感じ、新しい」
「あ……」
「前のことなくならない。でも今日のも残す?」
アリシアは、自然に頷いていた。
「残す」
「書いた?」
「会議の記録には」
「自分のは?」
「自分の?」
「アリシアの記録」
少し意外な言葉だった。
「私、最近は自分の練習帳にはあまり書いてない」
「なんで?」
「学院の記録があるから」
言ったあとで、アリシア自身が止まった。
机の上には、学院の正式記録ではない二枚の白い花がある。
誰かのための資料ではない。
子供自身が、自分のために残した記録。
「……そっか」
小さく呟く。
『ようやく気づいた?』
「ノア」
『何よ』
「あとで練習帳取って」
『自分で取りなさい』
「今は子供のところにいたいから」
『仕方ないわね』
子供が声を立てて笑った。
◇
午後。
東側中継観測室では、午前中に起きたアリシア側の違和感と、奥側反応の短時間低下について、照合作業が始まっていた。
サーラは六つ目の神器側の時刻記録を別紙で受け取り、東側の記録とは最初から重ねなかった。
「別々に見るんですか?」
若い観測員が尋ねる。
「最初は」
「どうして?」
「重ねた図だけを先に見ると、対応しているように見えすぎるからです」
「ああ……先に線が見えちゃう」
「そういうことです」
サーラは二枚の記録板を少し離して置いた。
「まず双方の記録に抜けや誤差がないか、別々に確認します。そのあと重ねます」
若い観測員が時刻を一つずつ読み上げる。
奥側新反応。
短時間低下開始。
最小値。
復帰。
アリシア側。
違和感を自覚した時刻。
声へ出した時刻。
記録を開始した時刻。
完全な同時とは言えない。
人間が感覚を自覚し、それを言葉にするまでには、どうしても多少の遅れが生じる。
「だから、一呼吸以内っていうのも、厳密な意味では同時じゃない」
「はい」
「でも、かなり近い」
「それも事実です」
「アリシアさん、今までに同じ感じした記録あります?」
サーラは別資料を開いた。
「神器に関する過去記録では、同型と断言できるものはありません」
「じゃあ初めて?」
「少なくとも記録上は」
「かなり重要じゃないですか」
「重要です」
即答され、若い観測員が少し驚く。
「そこは迷わないんですね」
「重要であることと、原因が分かっていることは別ですから」
「なるほど」
「次回、同じことが起きた場合に備えて、記録項目を増やします」
「何を?」
「アリシアさんの身体状態。神器の感覚。方向感覚。継続時間。直前の魔力使用。感情状態。周囲の魔導具反応」
「多いな……」
「東側はこれまで通り、名前のない光、小空洞、奥側反応を同時記録します」
若い観測員は少し考える。
「もしまた重なったら?」
「二回目の材料になります」
「二回でも、まだ材料?」
「まだです」
若い観測員が机へ額をつけそうになった。
「いつ答えになるんですか」
「必要なところまで情報が揃ったら」
「その必要なところが、まだ分からない」
「だから調べるんです」
「強いなあ……」
隣の記録係が笑った。
けれど、若い観測員も本気で不満を言っているわけではない。
以前なら、二つの時刻がほぼ重なっただけで「関連あり」と口にしていたかもしれない。
今は、材料が増えたことと、答えが出たことを分けて考えられている。
その違いを覚えたからこそ。
次に何を取れば、材料が答えへ近づくのかを考える段階へ来ていた。
◇
夕方。
生活観測区画の窓から差し込む陽射しが、少しずつ橙色へ変わっていた。
子供は昼に描いた二枚目の白い花を、以前の絵の隣へ並べている。
その横では、アリシアも久しぶりに自分の練習帳を開いていた。
誰かに提出するためではない。
学院の正式記録を補うためでもない。
自分自身のために残す記録。
午前。
会議中。
胸の奥。
小さく震えるような感覚。
痛みではない。
引かれる感じでもない。
方向は東に感じた。
怖さ三。
驚き五。
継続は一瞬。
そこまで書き、アリシアは筆を止めた。
書いたものを読む。
学院の記録にも同じ内容はある。
けれど、そこには「怖さ三」や「私は東へ行きたいと思った」という自分だけの感覚までは、細かく残らない。
少し迷ったあと、最後に一行を付け加えた。
『私は、東へ行って確かめたいと思った』
『ずいぶん正直ね』
机の横からノアが覗き込む。
「自分の記録だから」
『行きたいの?』
「うん」
『怖いのに?』
「うん」
『何が一番知りたい?』
アリシアは、自分で書いた文字をしばらく見つめた。
「六つ目が、何に反応したのか」
『それだけ?』
すぐには答えられなかった。
もっと奥にある問いへ、自分で触れるのが少し怖かった。
それでも。
「……私が、何に選ばれたのか」
今度はノアが黙った。
その問いは、ずっとあった。
忘れられた六つ目の神器。
大勢の前へ出ることが苦手で、人と話すだけでも緊張して、英雄になりたいと強く願ったことなど一度もない少女。
それでも、自分は選ばれた。
なぜ。
何をするために。
何を求められて。
それとも、何かを求めるためではなく。
「ずっと、六つ目って何なんだろうって思ってた」
『ええ』
「でも最近、子供とか、顔のない人とか、地下のことばっかりだった」
『悪いことじゃないわ』
「分かってる。でも……」
アリシアは筆を握り直した。
「私の話も、ちゃんと見たい」
ノアの尻尾が、机の脚へ一度だけ触れた。
『ようやく言ったわね』
「何?」
『ずっと人のことばっかりだったでしょう。子供。この顔なし。東の光。学院。みんなを守ることばっかり』
「でも……」
『別に、それをやめなさいとは言ってないわ』
ノアがアリシアを真っ直ぐ見上げる。
『あなた自身のことも、その中へ入れなさいって言ってるの』
アリシアは言葉を失った。
守る。
見守る。
助ける。
待つ。
誰かの意思を尊重する。
ここしばらく、自分が覚えてきたことの多くは、いつも誰かへ向けられていた。
その中に、自分自身を入れる。
当たり前のように聞こえるのに、今までほとんど考えていなかった。
少し離れた場所で絵を並べていた子供が、いつの間にかこちらを見ている。
「アリシアも残す?」
「何を?」
「自分」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
けれど、目の奥が少しだけ熱くなる。
「うん」
今度は迷わない。
「残す」
◇
その日の夜。
東側では、名前のない光に大きな移動はなかった。
小空洞にも、新しい周期反応は出ていない。
奥側新反応も、午前の短時間低下以降は落ち着いた状態が続いている。
西側でも、追加の開扉や排水操作は行わなかった。
第二排水支路。
点検口候補。
排水圧関連設備。
既存の水没区画。
それぞれの位置関係と、古い資料との照合作業へ時間を使っている。
何か大きな扉が開いた一日ではなかった。
地下から新しい存在が現れたわけでもない。
けれど、学院側の動きは確かに昨日までと変わっていた。
ただ増え続ける情報を受け取るだけではなく。
今まで積み上げた記録から、次に何を確かめるべきかを選び始めている。
東側を優先する。
名前のない光へ追いつくためではない。
光、小空洞、奥側反応。
その三つの関係を今より正確に確かめるため。
西側を捨てるわけでもない。
今すぐ動く必要性が東側より低いから、順番を後へ置く。
止めたのではない。
選んだだけだった。
そして、その判断の中へ。
六つ目の神器を持つアリシア自身が、初めて明確に入り始めていた。
◇
寝る前。
生活観測区画の灯りはすでに夜間用へ落とされ、窓の外には中庭の輪郭がぼんやりと残っている。
子供は布団の中へ入りながら、まだ眠る前の目でアリシアを見ていた。
「アリシア」
「うん」
「明日、東行く?」
「まだ分からない」
「行きたい?」
「うん」
「怖い?」
「うん」
子供は少し考え、それから小さく頷く。
「じゃあ両方ある」
「あるよ」
「知りたいも?」
「かなりある」
「いっぱい」
「いっぱいだね」
子供は少し笑った。
「明日になったら、違うかも」
「うん」
「それでもいい?」
「いいよ」
「アリシアも?」
アリシアは一度だけ考えた。
朝の自分。
会議中の自分。
夕方、練習帳へ書いた自分。
同じ一日でも、少しずつ気持ちは変わっていた。
「うん。私も」
子供は安心したように布団を胸元まで引き上げる。
隣の寝台では、顔のない存在の十一の光のうち二つが淡く明るい。
アリシアはその数だけを確認した。
昨日より多いか。
朝と同じか。
どの二つか。
そこまでは比べなかった。
今日の夜の二つ。
それで終わる。
そして自分も寝台へ戻ろうと、椅子から立ち上がった。
そのときだった。
胸の奥。
午前と同じ場所へ。
今度は、はっきり分かる冷たい震えが走った。
「……っ」
足が止まる。
『アリシア?』
ノアがすぐに振り返った。
子供も布団から顔を上げる。
「また?」
アリシアは胸元へ手を置いた。
痛みはない。
苦しさもない。
呼吸も乱れていない。
それでも。
午前中に感じたものと、よく似ている。
「……うん」
一度、ゆっくり息を吐く。
「また来た」
扉の外にいた学院長が、すぐに反応した。
「時刻を取れ」
治療教師が記録板を開く。
「痛みは?」
「ゼロ」
「苦しさ?」
「ゼロ」
「怖さは?」
アリシアは、自分の胸の奥を確かめた。
午前よりは、何が起きているのか分からない怖さが少ない。
「二」
「驚きは?」
「三」
「方向は?」
目を閉じる。
今度は、午前中より迷わなかった。
「東」
すぐに通信具が起動する。
東側中継観測室へ、同時刻帯の全記録確認が送られた。
誰も「つながった」とは言わない。
子供も。
ノアも。
学院長も。
アリシア自身も。
ただ結果を待つ。
数十呼吸。
夜の生活観測区画には、換気術式の低い音だけが残っていた。
子供は布団の端を握っている。
学院長は扉の外で一言も発しない。
アリシアは胸へ手を当てたまま、通信具の光だけを見つめていた。
やがて。
『東側より報告』
室内の空気が、わずかに張る。
『奥側新反応に、同時刻帯の短時間低下を確認しました』
アリシアの指が胸元で止まった。
学院長の声が低くなる。
「誤差は?」
『記録上、一呼吸未満です』
二度目だった。
午前。
そして夜。
二回とも。
アリシアが六つ目の神器付近に同型の違和感を覚えた時間と、東側奥部の反応低下がほとんど重なっている。
一度だけなら偶然かもしれない。
二度でも、まだ偶然の可能性は消えない。
まだ知らない第三の要因が、アリシアと奥側反応へ同時に作用している可能性もある。
けれど。
午前より確実に。
次へ進む理由は増えた。
扉の外で、学院長がしばらく黙った。
考えている。
その沈黙の長さを、誰も急かさなかった。
やがて、慎重な声が届く。
「明朝、アリシア本人の意思確認を含めて、東側への段階的接近試験を検討する」
子供の目が大きくなる。
アリシアも、思わず扉を見る。
ノアだけは何も茶化さなかった。
「私も行く?」
「行くかどうかを含めて、明日の朝に決める」
「私が嫌って言ったら?」
「行かない」
「行きたいって言ったら?」
「安全条件を全部確認した上で、どこまで近づくか一緒に決める」
アリシアは胸元へ手を置いたまま、ゆっくり頷いた。
「……分かった」
まだ答えはない。
六つ目の神器が何に反応したのか。
東側の奥に何があるのか。
名前のない光と、小空洞と、奥側反応がどう関係しているのか。
そして。
アリシアが、何に選ばれたのか。
何一つ、決着はついていない。
それでも今夜は。
分からないことを、ただ分からないまま眺めて終わる夜ではなかった。
積み上げてきた記録から。
確かめる価値のあるものを選ぶ。
選んだからといって、すぐ走り出さない。
本人の意思を確認する。
安全を確認する。
その上で、必要な距離だけ近づく。
アリシアは自分の胸へ残る微かな冷たさを確かめながら、棚の近くに置かれた練習帳へ視線を向けた。
そこには今日、自分自身のために書いた一行が残っている。
――私は、東へ行って確かめたいと思った。
行きたい。
怖い。
知りたい。
今は待った方がいいとも思う。
どれか一つだけが、本当なのではない。
どれも今の自分の中にある。
それなら、その全部を持ったまま。
明日の自分が、もう一度選べばいい。
生活観測区画の灯りがさらに落とされ、夜の静けさが部屋へ戻っていく。
東側の奥部反応も、短い低下を終えたあと再び基準値へ戻った。
その夜。
三度目の震えは、もう来なかった。




