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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第150話 分かっていることを増やすために、分からないものへ勝手な名前を付けなくてもいい


 翌朝、西側地下区画では、古い保守記録を読み直すところから一日が始まっていた。


 夜のあいだに追加で見つかった記述は二つ。


『第二支路 圧逃部上管清掃』


 そして。


『第二支路圧逃部 上管閉塞時、水位上昇あり』


 どちらも短い。


 細かな構造図もない。


 作業方法も記されていない。


 けれど、昨日まで現地で確認してきた幾つかの事実と重なる部分はあった。


 第二排水支路と読める表示板。


 その近くにある点検口候補。


 部分開放した先の小さな点検空間。


 古い配管。


 奥壁にある丸い金属蓋状の設備。


 その周囲に残っていた「排水圧」と読める文字。


 さらに、別の位置で確認されている右壁側の小空間と上向き細管。


 古い高水位跡。


 弱い排水。


 どれも、まだ一枚の図面へ完全には収まらない。


 それでも昨日よりは、同じ設備群へ属している可能性を考えやすくなっていた。


「……圧逃部」


 若い観測員が、写し取られた古記録を見ながら呟く。


「昨日の丸い金属蓋、排水圧って読めたんですよね」


「一部だけな」


 副学院長が答える。


「全部読めたわけじゃない」


「でも、圧って文字はある」


「ああ」


「古記録にも圧逃部」


「ああ」


「じゃあ、あの丸いのが圧力調整設備?」


「候補の一つだ」


「かなり強い候補?」


 副学院長はすぐに否定しなかった。


「昨日までよりは強い」


 若い観測員の顔が少し明るくなる。


「お」


「何だ」


「最近、そこまで言ってくれること少なかったから」


「事実が増えれば言える範囲も増える」


「じゃあ、今日は名前付けてもいい?」


 その言葉に、魔導具教師が顔を上げた。


「何へ?」


「点検口の奥の丸い設備です。いつまでも“丸い金属蓋状設備”って長くないですか?」


「長いですね」


「じゃあ“圧力弁”とか」


 副学院長は腕を組んだまま、しばらく黙った。


 若い観測員が、その沈黙だけで少し身構える。


「……やっぱり早い?」


「圧力調整設備候補ならいい」


「候補付き」


「弁だとは確定していない」


「でも設備ってことは?」


「古い配管と接続していて、文字に“排水圧”が含まれる。人工設備であること自体は、かなり確度が高い」


「じゃあ、“排水圧設備候補”?」


「それなら記録上使える」


 若い観測員はすぐ記録板へ書き込んだ。


「名前が短くなった」


「仮称だぞ」


「分かってます」


「仮称を事実にするな」


「分かってますって」


 年長の観測員が少し離れた机から笑う。


「昨日まで“分からないなら名前付けるな”だったのに、今日は名前付けてもいいんですね」


「呼び分ける必要が出たからな」


 副学院長が言う。


「調査対象が増えれば、全部を“あれ”で呼ぶ方が危険だ。大事なのは、名前を付けることじゃない。その名前の中へ、分かっていないことまで勝手に詰め込まないことだ」


「排水圧設備候補」


「そうだ」


「圧力弁ではない」


「今はな」


「でも、人工設備らしい」


「ああ」


「配管と関係している」


「ああ」


「排水圧って文字もある」


「ああ」


 若い観測員は一度頷く。


「分からないところだけ残す」


「それでいい」


 魔導具教師が古記録をもう一枚めくった。


「それと、“上管”についてですが」


「何かあったか?」


「清掃周期らしき記述があります。ただ、欠損が多い」


 紙の端。


 半分消えた文字列。


『上管 ……季……確認』


「季節ごと?」


「そう読めなくもないですが、断定できません」


「定期点検だった可能性?」


「あります。少なくとも、一度きりの設備ではなさそうです」


「じゃあ、今見つかってる上向き細管が本当にそれなら、定期的に掃除してた」


 若い観測員が言う。


「“それなら”を忘れないでください」


 魔導具教師が釘を刺す。


「はい」


「ただし、古い施設で圧力や水位を逃がすための上向き管を定期清掃する、という構造自体には不自然さはありません」


「じゃあ、ますますそれっぽい」


「それっぽいは増えていますね」


 副学院長は資料を閉じた。


「今日は、点検口候補の再確認をする」


「開けます?」


「昨日、数寸だけ開けただろう」


「今日はもう少し?」


「そこを決めるための再確認だ」


「中へ入る?」


「まだ決めていない」


 若い観測員が肩を落とした。


「全部、一段ずつですね」


「一段飛ばす理由がないからな」


     ◇


 生活観測区画では、朝の光が棚の上まで届いていた。


 白い花の絵。


 小皿。


 茎。


 名前のない細い欠片。


 そして、棚の前には木箱。


 どれも昨日と同じ場所にある。


 ただし、子供の見え方は昨日とまったく同じではなかった。


 目を覚ました子供は、まず窓を見た。


 曇り気味の空。


 庭には鳥が二羽いる。


 一羽は石畳。


 もう一羽は植え込みの縁。


「二羽」


「うん」


「昨日朝は一羽」


「そうだね」


「昨日の一羽いる?」


「分からない」


「似てる?」


 アリシアは窓の外を見る。


「一羽は昨日見た鳥に似てる気がする」


「同じ?」


「そこまでは分からない」


「じゃあ今日は二羽」


「うん」


 子供は少し笑った。


「分からないところ残せた」


『朝から復習熱心ね』


 ノアが床から言う。


 アリシアが伝えると、子供は少し首を傾げた。


「復習?」


「昨日の話を今日も使ってるって」


「昨日の話使ったら駄目?」


『駄目じゃないわよ。同じ答えに無理やり当てはめなければ』


「ノア、毎回それ言う」


『大事だからよ』


「ノアも復習してる」


 少し間があった。


『……この子、最近返しが早くなったわね』


 アリシアが笑う。


「ノア負けた?」


『何の勝負よ』


 子供まで笑った。


 隣の寝台へ視線を向ける。


 顔のない存在は、今朝も横になっている。


「おはよう」


 十一の光。


 少し待つ。


 一つ。


 二つ。


 さらに三つ目。


「今は三つ」


「うん」


「昨日夜も三つだった?」


「そうだったね」


「同じ三つ?」


 子供は自分から聞き、すぐに人影の胸をじっと見る。


「位置、似てる?」


 アリシアも確認する。


「似てるけど、完全に同じかは分からない」


「じゃあ、今の三つ」


「うん」


「数同じって分かる」


「うん」


「同じ光かは分からない」


「そうだね」


 子供は少し満足したように布団から出た。


 足の確認。


 歩行。


 痛みなし。


 赤みなし。


「今日も大丈夫」


「セレナには?」


「あとで見るだけ」


「うん」


 そのあと、子供は木箱へ行かなかった。


 まず白い花の棚へ向かう。


 茎に残っているものは、もう花弁とは呼びにくい小さな乾いた欠片ばかりだった。


 昨日描いた、名前のない細い欠片の絵も残っている。


 子供は実物と絵を見比べる。


「絵と同じ?」


「形は似てるね」


「昨日描いたから?」


「昨日見えてた形を描いたからね」


「今日、実物変わった?」


 アリシアも見比べる。


「少し乾いた気はする」


「気?」


「大きく変わったとは言えないくらい」


「じゃあ、変わってない?」


「それも言い切れないかな」


 子供が少し眉を寄せる。


「難しい」


「うん」


「昨日より乾いて見える。でも、大きくは変わってない」


「それなら言えると思う」


「それでいい?」


「うん」


 子供は実物へ触れなかった。


「名前、まだ付けない」


「うん」


「茎かもしれない。でも違うかもしれない」


「うん」


「細い欠片」


「仮の呼び方?」


「うん」


 アリシアが少し笑う。


「それなら名前付けた?」


 子供が驚いたように目を見開く。


「付けた?」


「“細い欠片”って呼んでるから」


「……でも、本当の名前じゃない」


「うん。呼び分けるための言葉だね」


 子供は少し考える。


「じゃあ、仮の名前?」


「そう言ってもいいと思う」


「本当の名前分かったら変える?」


「変えてもいいし、記録には“前は細い欠片って呼んでた”って残してもいいね」


「消さなくていい?」


「うん」


 子供は絵を見る。


「じゃあ、細い欠片」


「うん」


「茎って決めたわけじゃない」


「うん」


「呼ぶため」


「そうだね」


 子供は少し嬉しそうに笑った。


「便利」


『学院側と同じことしてるわね』


「何が?」


 アリシアが訳す。


「分からないものへ、分からないまま呼び名つけること」


 子供は少し考える。


「学院も?」


「いっぱいあるよ。名前のない光だってそうだし」


「名前ないのに名前?」


「変だよね」


「名前のない光って名前?」


「呼び分けるための呼び方かな」


 子供はしばらく黙ってから、少し笑った。


「変」


「うん」


『だから人間は面倒なのよ』


「ノアも名前ある」


『私はノアよ』


「誰が付けた?」


 ノアが一瞬黙る。


『……そこは今関係ないでしょう』


「逃げた」


『アリシア、この子の教育どうなってるの』


「ノアの影響だと思う」


 朝から小さな笑いが続いた。


     ◇


 朝食の時間。


 子供は木箱をまだ開けていなかった。


 食卓には麦粥、柔らかく煮た根菜、それから昨日とは違う薄い赤紫色の果実が少量置かれている。


 子供は果実を一つ食べた。


「甘い?」


 アリシアが聞く。


「甘い。ちょっと渋い」


「名前は?」


「赤紫渋」


「長くなったね」


「でも分かる」


「うん」


 二つ目を食べる前に、子供が扉の方を見る。


「学院長」


「いるぞ」


「西、今日どうする?」


「昨日開けた第二排水支路点検口候補を、もう一度外から調べる」


「中入る?」


「まだ決めていない」


「昨日、少し開けた」


「ああ」


「中に丸いのあった」


「覚えてるな」


「排水圧って文字」


「ああ」


「今日、名前ついた?」


 学院長が少し間を置いた。


「仮に“排水圧設備候補”と呼ぶことになった」


 子供の目が大きくなる。


「候補」


「ああ」


「何か分からないのに?」


「全部は分からない。ただ、人工設備らしいこと、古い配管と関係していること、“排水圧”と読める文字があることまではかなり確かだ」


「じゃあ、“何か”より分かる」


「そうだな」


「でも“弁”じゃない?」


「弁の可能性はある。圧力調整用の蓋や別の設備かもしれない」


「だから設備候補」


「うん」


 子供は朝に自分で付けた呼び名を思い出したらしい。


「私も、細い欠片ってした」


「白い花の?」


「うん。茎か分からない。でも、呼ぶため」


「いいと思うぞ」


「学院と同じ?」


「やっていることは似ているな」


「じゃあ私、観測員?」


「そこまでは言ってない」


 学院長の返答が早く、アリシアが吹き出した。


 子供も笑う。


「駄目?」


「駄目じゃない。ただ、今の子供に役職を増やす気はない」


 その言葉を聞き、子供の笑顔が少しだけ静かになった。


「役割じゃない」


「うん」


「ただ呼び方考えた」


「そうだ」


「それでいい」


 子供は麦粥へ戻る。


「東は?」


「昨夜、名前のない光が一歩未満だけ奥へ動いた」


「新しい方へ?」


「少し近づいた」


「反応?」


「昨夜は目立った変化なし」


「小空洞も?」


「なし」


「じゃあ、動いたのだけ分かる」


「そうだ」


「人間、近づく?」


「観測点を一つ奥へ置く準備をしている。昨日、仮の測定具を置いて精度が上がったから、今日はそれを継続できるか確認する」


「光追う?」


「追いつくことが目的ではない」


「見えるようにする?」


「正確には、測れるようにする」


「見えないけど測る」


「ああ」


「名前つける?」


「何に?」


「新しい観測場所」


「番号を付ける予定だ」


「何番?」


「東奥暫定観測点一」


 子供の顔が固まる。


「長い」


 アリシアが笑う。


「学院の名前ってそういうの多いよね」


「間違えにくい方がいいんだ」


 学院長は少し弁解するように言った。


「子供なら何て付ける?」


 アリシアが聞く。


 子供は少し考える。


「奥一」


「短い」


「分かる」


「学院長、どう?」


 扉の外で数秒の沈黙。


「記録には使わない」


「却下された」


 子供が笑った。


     ◇


 西側では、午前中の再確認が始まっていた。


 第二排水支路点検口候補。


 昨日、数寸だけ開けたあと再び閉じ、仮留めしてある。


 内部の小空間。


 古い配管。


 泥。


 奥壁の排水圧設備候補。


 生命反応なし。


 危険値低。


 大きな圧力変動も確認されていない。


 副学院長は、点検口候補の前に立って改めて目的を確認した。


「今日は、内部へ入る必要があるかを判断するための調査だ」


「入るための調査じゃない」


 若い観測員が答える。


「そうだ」


「外から何が取れる?」


「まず奥行きの再計測。配管位置。排水圧設備候補との距離。床面状態。圧力残留の有無」


 魔導具教師が続ける。


「それと、点検口候補の開閉自体が内部値へ影響するか」


「昨日は数寸開けたとき大きな変化なし」


「一回だけですからね」


「今日は同じくらい?」


 副学院長が頷く。


「まず昨日と同程度。そこまでで値が変わらなければ、開口を少し広げるか判断する」


「人は入らない」


「少なくとも最初はな」


 仮留めを外す。


 点検口候補を数寸だけ開く。


 古い金属と石が擦れる鈍い音。


「圧力値?」


「変化なし」


「排水流?」


「変化なし」


「奥の設備候補?」


「魔力残留、昨日とほぼ同じ」


「生命反応?」


「なし」


「臭気?」


「古い水と泥。昨日と同程度」


 若い観測員が少し息を吐く。


「同じ」


「測定上はな」


 副学院長が言う。


「じゃあ少し広げる?」


「その前に奥行き」


 細い測定棒を差し込む。


 内部へ人の手は入れない。


「奥壁まで三歩半」


「昨日と一致」


「左の配管?」


「二本。一本は壁へ入る。一本は排水圧設備候補の下側へつながっているように見えます」


「つながってる?」


 若い観測員が声を上げる。


「見える範囲では、配管が設備候補下部へ続いています」


 魔導具教師が投影像を拡大する。


「ただし途中が泥で隠れています。完全接続かは断言できません」


「でも昨日より分かった」


「はい」


「排水圧設備候補が、配管と無関係な飾りって可能性は下がった?」


「かなり下がります」


 副学院長も頷く。


「記録」


 若い観測員がすぐ書く。


「“左側古配管一本、排水圧設備候補下部方向へ連続。泥中部分未確認”」


「いい」


「褒めた?」


「記録しろ」


「はい」


 もう一本の配管。


 壁の中へ入っている。


「方向は?」


「右壁側小空間候補方向……に見えます」


 室内の空気が少し変わる。


 若い観測員が副学院長を見る。


「圧逃部?」


「まだ言うな」


「はい」


 魔導具教師が地図へ照合する。


「方向だけなら近いです。ただ、壁内で曲がっている可能性があります」


「上向き細管との接続は?」


「現時点では分かりません」


「じゃあ、一つの設備群かも」


「候補としては強くなっています」


 副学院長は少し考える。


「開口をあと一寸」


 点検口を、ほんの少しだけ広げる。


「圧力値?」


「変化なし」


「配管?」


「変化なし」


「設備候補?」


「変化なし」


「床?」


「入口から一歩目に泥。二歩目以降は石床が見えています」


「滑る?」


「かなり」


「人が入るなら?」


「足場板が必要です」


 若い観測員が少し期待した顔になる。


「入る理由、増えた?」


 副学院長は投影像を見たまま答える。


「増えた」


「お」


「ただし、今すぐではない」


「やっぱり」


「配管の接続を外からもう少し取れる。設備候補の表面文字も拡大できる可能性がある」


「入らなくても分かる」


「そうだ」


 魔導具教師が細い鏡を角度調整する。


「文字、追加で見えます」


「何て?」


「“排水圧”の下に……一文字。たぶん“調”」


「調整?」


 若い観測員が反射的に言う。


「候補」


「はい」


「ほかは?」


「腐食が強いです。今読めるのは“排水圧”“調”まで」


「記録」


 副学院長はそこで作業を止めた。


「今日はここまででもいい」


「入らない?」


「外から取れる情報が増えた」


「でも、あと少し開ければもっと見える」


「それが必要か?」


 若い観測員は少しだけ黙る。


 投影像。


 古配管。


 排水圧設備候補。


 泥。


 見えない部分。


「……今の目的には、かなり足りた」


「そうだ」


「内部へ入る理由を判断するための情報」


「ああ」


「じゃあ今日は再閉鎖?」


「仮留めまで」


 誰も反対しなかった。


 点検口候補は再びゆっくり閉じられた。


     ◇


 昼前。


 生活観測区画では、顔のない存在が起き上がった。


 子供は木箱の絵を描いていたわけではない。


 今日は、昨日見えた「木っぽい硬そうなもの」の輪郭を、別の小さな紙へ描くかどうか迷っていた。


「描いたら、木って思い込みそう?」


 子供が聞く。


 アリシアは少し考える。


「“木っぽく見えたもの”って書く?」


「長い」


「じゃあ絵だけ?」


「あとで何描いたか分からない」


「“箱の中”とか」


「中全部じゃない」


「“箱の中の硬そうなもの”」


「もっと長い」


 ノアが床から言う。


『人間、名前付けるの下手ね』


「ノア、考えて」


『黒いやつ』


 アリシアが訳すと、子供が少し笑った。


「黒じゃないかも」


『じゃあ硬そうなやつ』


「雑」


『十分でしょう』


「アリシアは?」


「うーん……“箱中候補一”」


 子供が変な顔をする。


「学院みたい」


『最悪ね』


「ノアひどい」


 子供が笑っている途中で、隣の寝台が動いた。


「あ」


 顔のない存在。


 身体を起こす。


 子供は紙を机へ置き、見守る。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 今日は少し速い。


 四歩。


 五歩。


 六歩。


 昨日止まった位置を越える。


 子供の目が少し明るくなる。


 七歩。


 八歩。


 そこで止まった。


 まだ座らない。


 子供は口を閉じたまま待つ。


 九歩。


 そして。


 十歩。


 窓際。


 昨日ではなく、一昨日に初めて到達した場所。


 子供の顔に、はっきり嬉しさが広がった。


 けれど声は出さない。


 顔のない存在は窓の前で立ち止まり、少しだけ頭を外へ向ける。


 庭には鳥が二羽。


 風で葉が揺れている。


 子供はじっと見ていた。


 胸の十一の光。


 今、明るいのは四つ。


 しばらくして、人影が窓際へ座る。


 そこで子供がようやく息を吐いた。


「今日は十」


「うん」


「また行った」


「うん」


「嬉しい」


「うん」


「昨日六だった」


「うん」


「今日は十」


「うん」


「良くなった?」


 自分で聞く。


 少し考える。


「……分からない」


「うん」


「でも、今日は十歩歩いた」


「うん」


「昨日は六」


「うん」


「今日は窓まで行った」


「うん」


「それは分かる」


「そうだね」


 子供は人影の胸を見る。


「四つ」


「うん」


「十歩だから四つ?」


「どう思う?」


「分からない」


「うん」


「一昨日窓行ったときは五つだった」


「うん」


「今日は四つ」


「うん」


「じゃあ、窓行ったら五つになるじゃない」


「そうだね」


 子供は少し笑った。


「違うの分かった」


「うん」


「四つ明るいのは分かる」


「うん」


「理由は分からない」


「そうだね」


 子供は窓際に座る顔のない存在を見つめる。


「分からないの、前より小さくできる」


「小さく?」


「“全部分からない”じゃなくて、“何で四つか分からない”」


「なるほど」


「十歩歩いたのは分かる」


「うん」


「窓見てるみたいなのは?」


「頭の向きは窓側だね」


「見てる?」


「そこは分からない」


「じゃあ、“窓側向いてる”」


「うん」


「それは分かる」


 子供は満足したように頷いた。


     ◇


 午後。


 東側では、東奥暫定観測点一――子供なら「奥一」と呼ぶだろう場所――の測定具が、継続運用できるか確認されていた。


 狭窄部の向こう。


 壁の窪み。


 小型の位置測定具。


 通信状態は安定。


 名前のない光。


 小空洞。


 東奥側微弱反応。


 三つの値が昨日より鮮明に取れている。


「位置精度、良好」


「光の輪郭?」


「変化なし」


「小空洞?」


「静かです」


「東奥側?」


「弱いまま」


 若い観測員が盤面を見ながら言う。


「これ、観測点の名前長くないですか?」


 サーラが顔を上げる。


「突然何ですか」


「東奥暫定観測点一」


「記録上必要です」


「子供は奥一って言ってました」


「誰から聞いたんですか」


「学院長」


 サーラは数秒黙った。


「……記録には使いません」


「ですよね」


「でも、内部会話なら?」


 別の観測員が口を挟む。


「やめてください。後で正式記録へ混ざります」


「厳しい」


「呼び方は管理です」


 若い観測員が少し笑う。


「今日、西でも仮称付けたらしいですよ。“排水圧設備候補”」


「それは必要でしょう」


「名前付けると、分かった感じしません?」


 サーラは一度だけ盤面を見る。


「しますね」


「やっぱり」


「だから、名前の意味を広げすぎないことです」


「名前のない光も?」


「そうです。“光”と呼んでいますが、光だけの存在なのかも分からない。“名前のない”と呼んでいますが、本当に名前が存在しないかも分からない」


 若い観測員が少し驚く。


「そこまで?」


「人間側が適切な名称を知らないから、そう呼んでいるだけです」


「じゃあ、“名前のない光”ってかなり仮」


「かなり」


「ずっと使ってたから、正式名みたいに思ってました」


「慣れるとそうなります」


 その言葉の途中。


 測定盤の一つが小さく揺れた。


「東奥側、変化」


 全員の視線が戻る。


「強度?」


「微増。危険値低」


「小空洞?」


「反応なし」


「光?」


「……位置変化」


「どちらへ?」


「東奥側へ近づく方向です」


 若い観測員が息を呑む。


「どのくらい?」


「一歩程度」


「反応開始と同時?」


「東奥側微増が先です。光移動開始は約四呼吸後」


 サーラがすぐ記録を指示する。


「順序を分けて」


「はい」


「東奥側微弱反応が先に増加。約四呼吸後、名前のない光が東奥側方向へ一歩程度移動」


「小空洞は?」


「変化なし」


 光が止まる。


 東奥側反応は少し高い状態を保つ。


「これ……呼んだ?」


 若い観測員が言いかける。


 自分ですぐ口を閉じた。


「……呼んだ、は違う」


「はい」


「東奥側が強くなったあと、光がそっちへ動いた」


「それは事実です」


「近づいた」


「はい」


「関係ある?」


「材料は増えました」


「また」


「またです」


 若い観測員は少し悔しそうに盤面を見る。


「でも今度は順番ある」


「あります」


「前は光が近づいたあと反応したこともあった」


「はい」


「今回は東奥側が先」


「はい」


「じゃあ、一方向じゃない?」


 サーラは少し考える。


「そういう可能性を考える材料にはなります。ただし、両方とも第三要因へ反応している可能性もあります」


「また増えた」


「増えますね」


「何でも増える」


「調査ですから」


 東奥側反応はしばらくして元へ戻る。


 名前のない光は、新しい位置で止まった。


 小空洞は最後まで静かなままだった。


     ◇


 夕方。


 学院長から東側の報告を聞いた子供は、木箱を開ける前に長く考えていた。


「新しい方が先に強くなった」


「ああ」


「四呼吸あと、光がそっち行った」


「ああ」


「小空洞は何もなし」


「そうだ」


「じゃあ、新しいのが光呼んだ?」


「まだ分からない」


「でも、順番は分かる」


「うん」


「新しいのが先。光あと」


「そうだ」


「そこは疑わない?」


「記録上はな」


「四呼吸、合ってる?」


「測定誤差はある。ただ、ほぼその順序で確認されている」


「じゃあ、“先とあと”は分かる」


「うん」


「理由は分からない」


「そうだ」


 子供は木箱を見る。


「箱も、先とあと分かる」


「何が?」


「私が蓋開ける。布見える。もっと開ける。硬そうなの見える」


「うん」


「布が勝手に先に見えるじゃない」


「うん」


「私が開けたから見えた」


「それは、かなり確かだと思う」


「そこは言える?」


「箱についてはね。蓋を開ける前は見えず、開けたあとに見えた。行動と結果が直接つながっているから」


「東と違う?」


「違うね」


「何で?」


「光が東奥側反応を見たり感じたりして動いたかは、人間には分からない。でも箱は、子供が蓋を動かしたことで視界が開いて中が見えた。仕組みが直接確認できる」


 子供は少し考える。


「同じ“先とあと”でも、関係の強さ違う」


「うん」


「難しい」


「うん」


「でも、全部同じじゃない」


「そうだね」


 子供は蓋へ手をかけた。


 今日は少し迷う。


 それから開ける。


 灰色の布。


 その下の木っぽいもの。


 夕方の斜めの光。


「見える」


「うん」


 昨日より少し高く開ける。


 布の端。


 硬そうなものの表面。


 細い線。


 今日、もう一つ見えた。


「穴?」


 子供が目を細める。


 硬そうなものの端に、小さな丸い窪みがある。


 アリシアも見る。


「穴に見えるね」


「貫いてる?」


「そこまでは分からない」


「模様?」


「それも分からない」


「でも丸い」


「うん」


「一個」


「見える範囲では」


 子供は少し笑う。


「小さい分かる」


「増えたね」


「硬そう。木っぽい。線ある。丸い穴みたいなの一個」


「うん」


「何かは分からない」


「うん」


 指が布へ近づく。


 触ればもっと分かるかもしれない。


 けれど途中で止まる。


「触る?」


 自分へ聞く。


 長い沈黙。


「……今日は、布だけ触る?」


 アリシアは答えない。


 子供が自分で考える。


「布触ったら、下のもの動く?」


「可能性はあるね」


「布取ったら?」


「もっと見えると思う」


「でも今のままじゃなくなる」


「うん」


「戻せる?」


「戻せるかもしれないけど、同じ位置へ完全に戻るかは分からない」


 子供の指が少し引いた。


「じゃあ、今日は触らない」


「うん」


「見えたところまで」


「うん」


 蓋を閉じる。


「分かること増えた」


「うん」


「でも、全部分かるために全部動かさなくていい」


「そうだね」


 子供は少し満足そうだった。


     ◇


 夜。


 西側の報告では、第二排水支路点検口候補の内部について新たに三つの情報が追加された。


 一つ。


 左側古配管のうち一本が、排水圧設備候補の下部方向へ続いている。


 二つ。


 別の一本は、方向上では右壁側小空間候補に近い側へ入っている。


 三つ。


 排水圧設備候補の表面には「排水圧」に続き、「調」と読める可能性のある文字が確認された。


 まだ、「排水圧調整弁」とは呼ばない。


 まだ、「圧逃部の主設備」とも決めない。


 けれど。


 単なる丸い蓋かもしれない、という段階からは進んでいる。


 副学院長は会議の最後に、その点を明確にした。


「慎重にすることと、情報を弱く扱いすぎることは違う」


 若い観測員が頷く。


「排水圧設備候補が、排水系統の人工設備らしい可能性はかなり高い」


「そうだ」


「圧力調整に関係する可能性も上がった」


「ああ」


「でも具体的な方式は分からない」


「そうだ」


「右壁側小空間との配管接続は未確認」


「ああ」


「古記録の圧逃部と同じものかも、まだ候補」


「その通りだ」


 若い観測員は少し笑う。


「ちゃんと分かってるところ言うと、気持ちいいですね」


「調子に乗るな」


「そこはいつもの副学院長だ」


 周囲に小さな笑いが広がる。


     ◇


 生活観測区画では、子供が寝台へ入る前に今日一日のことを思い返していた。


 窓際では、顔のない存在が昼に十歩目まで進んだあと、夕方には自分で寝台へ戻っている。


 胸の十一の光は、今は二つ。


 朝は三つ。


 昼は四つ。


 夜は二つ。


「いっぱい変わった」


「うん」


「歩いたのは十」


「うん」


「今は二つ」


「うん」


「だから何?」


 自分から聞き、少し考える。


「分からない」


「うん」


「でも、十歩歩いた。窓行った。昼四つだった。今二つ。それは分かる」


「うん」


「全部分からないって言わなくていい」


「そうだね」


 子供は布団を少し整える。


「東は?」


「東奥側の反応が少し強くなって、その約四呼吸後に光が一歩くらいそっちへ動いた」


「小空洞は何もなし」


「うん」


「関係分からない」


「うん」


「でも順番は分かる」


「うん」


「西は、排水圧設備候補」


「うん」


「名前増えた」


「うん」


「本当の名前じゃない」


「仮の呼び方」


「私の細い欠片と同じ」


「似てるね」


「箱は?」


「今日は丸い穴みたいなものが一つ見えたね」


「うん」


「何か分からない」


「うん」


「でも見えた」


「うん」


 子供はしばらく天井を見ていた。


「名前付けると、分かった気になる」


「そうだね」


「細い欠片ってしたら、少し分かった気した」


「うん」


「でも茎って決めてない」


「うん」


「排水圧設備候補も、弁って決めてない」


「うん」


「名前のない光も、本当に名前ないか分からない」


「うん」


「じゃあ名前って、答えじゃない?」


「そうだね。呼ぶためのものでもある」


「でも、名前で分かることもある?」


「あるよ。“細い欠片”なら、少なくとも子供が細いものとして区別してるって分かる」


「排水圧設備候補は?」


「排水圧に関係する設備かもしれないと、人間側が考えてることが分かる」


「候補って付いてるから、まだ決まってないも分かる」


「うん」


 子供は少し笑った。


「候補、大事」


「大事だね」


『今度からアリシアにも“慎重候補”って付けたら?』


「ノア」


「何て?」


「私を慎重候補って呼べって」


 子供が吹き出した。


「候補なの?」


『たまに暴走するから』


「暴走してない」


『頭の中でしてるでしょう』


「また頭の中」


 子供の笑い声がしばらく続く。


 少しして、静かになる。


「アリシア」


「うん」


「分からないものに名前つけてもいいんだね」


「うん。分からないって分かるような付け方なら」


「勝手な名前は?」


「付けても、自分の呼び方だって分かってればいいんじゃないかな」


「本当の名前って決めない」


「うん」


「じゃあ箱の中のやつ……」


 子供は少し考える。


「まだ名前なし」


「付けないんだ」


「うん」


「どうして?」


「まだ“硬そうなもの”でいい」


「そっか」


「穴みたいなのもある。でも、何か分からない」


「うん」


「明日また見たら、名前付けたいかもしれない」


「うん」


「付けたくないかも」


「うん」


「明日決める」


「そうだね」


 子供は目を閉じる。


「細い欠片は、今日から細い欠片」


「うん」


「本当は違う名前かもしれない」


「うん」


「でも今日は、それで呼ぶ」


「うん」


「おやすみ」


「おやすみ」


     ◇


 夜半。


 東側の中継観測室では、夕方に一歩だけ移動した名前のない光が、その位置で止まり続けていた。


 東奥側微弱反応も、すでに基準近くへ戻っている。


 小空洞は静か。


 新しい観測点から得られる位置精度は安定。


「何か起きそうですね」


 夜勤観測員が言い、すぐ自分で苦笑した。


「……すみません。起きそうは完全に予想です」


「予想することは悪くありませんよ」


 サーラは記録を確認しながら答える。


「でも、静かだから次に何か起きる、とは限らない」


「はい」


「光が東奥側へ一歩近づいたから、そこが目的地とも限らない」


「はい」


「東奥側反応が先に強くなったから、呼んだとも限らない」


「はい」


 観測員は頷く。


「じゃあ、今は?」


 サーラは三つの盤面を見る。


「名前のない光は、夕方の位置に留まっている」


「はい」


「東奥側微弱反応は基準近く」


「はい」


「小空洞は新しい周期反応なし」


「はい」


「新しい観測点は正常稼働」


「はい」


「そこまでです」


 観測員は少し笑った。


「結構ありますね」


「何が?」


「分かってること」


 サーラも少しだけ笑う。


「そうですね」


 大きな答えは、まだない。


 けれど。


 答えがないからといって、空白しかないわけでもない。


 仮の名前。


 測れた位置。


 起きた順番。


 見えた文字。


 触れていないもの。


 確認できた距離。


 何が候補で。


 何がほぼ確かで。


 何がまだ分からないのか。


 それらを分けて残すために、人は言葉を使う。


 時には、まだ本当の名前を知らないものへも。


 ただし。


 呼び名を付けた瞬間に、正体まで分かったつもりにはならない。


 生活観測区画では、子供が「細い欠片」と仮に呼ぶことにした白い花の一部が、小皿のそばに残っている。


 西側では、「排水圧設備候補」と呼ばれ始めた丸い古設備が、点検口候補の奥に閉じられている。


 東側では、相変わらず「名前のない光」と呼ばれている存在が、東奥側微弱反応へ少し近づいた場所にいる。


 どの名前も、答えではない。


 けれど。


 分からないままのものを、分からないまま比べ、記録し、また戻ってくるための目印にはなる。


 その夜。


 三つの場所で、それぞれ仮の呼び名を与えられたものたちは、何も名乗らないまま静かに朝を待っていた。

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