第149話 分からないところを残したままでも、分かっているところまで疑わなくていい
朝の東側中継観測室には、昨夜のうちに書き足された一行が残っていた。
名前のない光、奥側へ微移動。
距離にすれば一歩にも満たない。
小空洞周期反応なし。
東奥側微弱反応、明確な変化なし。
接続値にも危険値にも大きな動きはない。
それだけの記録だった。
けれど、サーラは朝の引き継ぎでその一行を消さなかった。
当然といえば当然だ。
移動量が小さかったからといって、起きたことが起きなかったことになるわけではない。反対に、記録へ残したからといって、その小さな移動へ特別な意味があると決まるわけでもなかった。
中継観測室の窓からは、薄い雲の向こうに朝の光が見えている。
昨日より少し風が強いらしく、学院の庭にある木々の枝先が揺れ、その影が窓の下へ何度も横切っていた。
「ここです」
朝勤の観測員が地図を指した。
名前のない光。
昨夜より、わずかに奥。
東奥側空間候補との距離は少し縮まり、小空洞からは少し離れた。
「遠隔感知の精度は?」
「まだ許容範囲です。ただ、壁を二枚挟む位置に近づいているので、このまま奥へ進めば落ちます」
「人間側観測点は?」
「狭窄部の補強まで完了。向こう側へ一人通過させる案は出ていますが、まだ実施していません」
若い観測員が記録板を抱えたまま口を挟む。
「今なら、まだ遠隔で見られる」
「はい」
「でも、見られるうちに人を入れた方がいい?」
サーラは彼を見る。
若い観測員は少し考えたあと、すぐに付け加える。
「……光を追うためじゃなくて、観測精度を落とさないために」
「理由としては成立します」
「じゃあ入れる?」
「それだけで決めません」
「また一個じゃ足りない」
「人を向こう側へ出すなら、退路、通信、滞在時間、持ち込む装備、戻る基準まで必要です」
「光が止まってる今の方が安全そう?」
「それも推測です」
「ああ」
若い観測員が小さく息を吐く。
「止まってる光の方が、人間の都合に合わせてくれるみたいに思いそうになる」
「そうですね」
「でも待ってるわけじゃない」
「少なくとも、それは分かりません」
サーラは昨夜までの三つの記録を並べた。
小空洞。
東奥側空間候補。
名前のない光。
「今日は、まず人間側の観測点移動案を詰めます。ただし、東奥側空間候補へ近づくことそのものを目的にはしません」
「はい」
「光がさらに奥へ進む前に追いつこう、という理由でもない」
「はい」
「今後も観測を続ける必要があるなら、そのために必要な位置を確保する」
「それが目的」
「そうです」
若い観測員は頷き、記録板へ書き込む。
その横で、別の観測員が昨夜の微移動を見つめていた。
「一歩未満でも、近づいたんですね」
サーラが少しだけ視線を向ける。
「距離は縮まりました」
「でも、近づいたから関係が強くなった、とは書かない」
「はい」
「近づいたこと自体は疑わない」
若い観測員が、その言葉に顔を上げる。
「そこ、大事ですね」
「何が?」
「最近、何でも決めつけないようにってやってたら、逆に“何も分からない”って言いたくなるときがあって」
室内が少し静かになる。
サーラは急かさず、続きを待った。
「でも、位置が変わったのは分かる。距離が縮まったのも分かる。反応しなかったのも分かる。全部分からないわけじゃない」
「そうです」
「分からないところがあるからって、分かってるところまで疑わなくていい」
「ええ」
サーラは小さく頷いた。
「断定しないことと、事実をぼかすことは同じではありません」
若い観測員は、少しだけ真面目な顔になった。
「難しいけど、前より分かる気がします」
「なら、朝からいい仕事です」
「今、普通に褒めました?」
「はい」
「怖いな」
「なぜですか」
記録係の一人が笑い、朝の空気が少しだけ柔らいだ。
◇
生活観測区画では、子供が目を覚ますより先に、顔のない存在が寝台の上で身体を少し動かしていた。
昨日は初めて十歩目まで進み、窓際まで自力で辿り着いた。
そのあと自分で戻っている。
胸の十一の光は、今朝はどれも弱い。
アリシアは寝台から起き上がり、少し離れたところからその様子を見た。
『また数えるの?』
ノアが足元から言う。
「今は歩いてないよ」
『光よ』
「あ」
アリシアは思わず口を閉じた。
『昨日五つだったから、朝いくつか見たくなったんでしょう』
「少しだけ」
『見てもいいわよ』
「いいの?」
『数えること自体を悪者にし始めたら、また変な方向へ行くでしょう』
「ノアがまともなこと言ってる」
『失礼ね』
アリシアは少し笑い、十一の光を見る。
今、少し明るく見えるのは一つ。
「一つ」
『だから?』
「だからじゃない」
『よし』
「採点?」
『今日はなし』
「珍しい」
『あなたが欲しがるからしない』
「理不尽」
そんな小声のやり取りの途中で、子供が目を覚ました。
今朝は目を開けてからしばらく動かなかった。
天井。
窓。
少し曇った空。
そこから隣の寝台へ視線を向ける。
「いる」
「うん」
「おはよう」
顔のない存在へ声をかける。
すぐには変化がない。
子供は待つ。
胸の光。
一つ。
少しして、二つ目。
「二つ」
昨日、窓際まで行ったときは五つだった。
子供の目に、その比較が一瞬だけ浮かぶ。
「少ない?」
自分で言ってから、少し眉を寄せる。
「明るい数は昨日の五つより少ない」
「うん」
「でも、今二つ」
「うん」
「昨日十歩行ったことは残ってる」
「うん」
「今日二つだから、昨日の五つが間違いになるじゃない」
「そうだね」
子供は少しだけ安心したように息を吐く。
「じゃあ今は二つ」
足裏の確認。
足首。
数歩。
痛みなし。
そのあと子供が最初に向かったのは、木箱ではなく白い花だった。
茎。
小皿の花弁。
細かな欠片。
絵。
昨日名前を付けなかった細長い欠片も残っている。
「まだある」
「うん」
「昨日、茎の近くに似てるってした」
「うん」
「今日も似てる」
子供は少し近くから見る。
触らない。
「じゃあ茎?」
「そう思う?」
アリシアが聞くと、子供はしばらく黙った。
「……茎の近くに似てる。でも、茎だったって分からない」
「うん」
「昨日と同じ」
「そうだね」
「分からないの変わってない」
「うん」
子供の顔に、少しだけ不満が出る。
「ずっと分からないかも」
「あるかもしれないね」
「嫌」
「うん」
「でも、似てるのは分かる」
「うん」
子供は小皿を見る。
「分からないけど、何も分からないじゃない」
「そうだね」
その言葉を口にしたあと、子供自身が少し驚いたように目を瞬いた。
「今、私言った」
「うん」
「何も分からないじゃない」
「うん」
「分からないのに?」
「分からない部分があるだけだからじゃない?」
子供は少し考える。
「茎かは分からない。でも、細い。茶色い。茎の近くの欠片に似てる」
「うん」
「そこは分かる」
「そうだね」
「じゃあ、それでいい」
名前はまだ付けない。
けれど、見えている特徴まで曖昧にしない。
子供は小皿から離れた。
次に、木箱へ向かう。
留め具は外れている。
蓋は閉じている。
昨日、布の下に「硬そうなもの」が見えた。
子供は箱の前へ座った。
「布、ある?」
「開けないと見えないね」
「うん」
「開ける?」
アリシアは尋ねなかった。
子供が自分で蓋へ手を置く。
「昨日、布って分かった」
「うん」
「下に硬そうなのあった」
「うん」
「今日、硬いか分かる?」
「見ただけでは難しいかもね」
「触る?」
その言葉に、子供の指が止まる。
箱の中身へ直接触れる。
今までとは一段違う。
「……まだ」
「うん」
「見るだけにするかも」
「うん」
子供は蓋を少し持ち上げる。
朝の白い光が箱の隙間へ入る。
灰色の布。
「ある」
「うん」
「昨日と同じ布?」
「見える範囲では同じものに見える」
もう少し開ける。
布の下。
硬そうな輪郭。
昨日より朝の方が光が強いため、少し見やすい。
「丸い?」
子供が言う。
アリシアも目を凝らした。
輪郭は完全な四角ではない。
角が丸い。
それは昨日も見えていた。
「少し丸い形に見えるね」
「木?」
「分からない」
「金属?」
「それも分からない」
「色は?」
「暗い茶色っぽい……かな」
「黒じゃない?」
「黒にも見えるところあるね」
子供は少し困った顔をする。
「色も分からない」
「光の当たり方で変わるからね」
「じゃあ何分かる?」
アリシアは答えを渡さなかった。
子供が自分で見る。
「布の下にある」
「うん」
「布とは違う」
「うん」
「角、丸いみたい」
「うん」
「硬そう」
「うん」
「全部は見えない」
「うん」
子供は少し笑った。
「結構分かる」
「そうだね」
蓋を持つ腕が少し疲れてくる。
子供は無理をせず閉じた。
「今日はこれでいい」
「うん」
「触らなかった」
「うん」
「でも見た」
「うん」
「昨日と同じのもあった。新しく分かったのも少しあった」
「うん」
箱はまた閉じる。
留め具は外れたまま。
◇
朝食では、東側の話が最初に出た。
「学院長」
「いるぞ」
「光、夜動いた?」
「ああ。一歩にも満たないくらい、奥側へ動いた」
「新しい方に近い?」
「少し」
「小空洞から遠い?」
「少し」
「新しいの反応した?」
「していない」
「小空洞は?」
「していない」
「じゃあ、動いただけ?」
「今分かる範囲では」
子供は麦粥を一口食べる。
「動いたのは分かる」
「ああ」
「何で動いたかは分からない」
「ああ」
「どこ行きたいかも分からない」
「そうだ」
「でも、何も分からないじゃない」
扉の外で学院長が少し黙った。
「そうだな」
「位置変わった。新しい方少し近い。小空洞から少し遠い。反応はしてない」
「うん」
「それは分かる」
「その通りだ」
子供は少し嬉しそうに匙を持ち直した。
「今日、私も分かった」
「何が?」
「白い花の名前なしの欠片。茎か分からない。でも、細いとか茶色いとか似てるは分かる」
「そうか」
「箱も。硬いもの何か分からない。でも布の下にある。丸いみたい。暗い色」
「うん」
「何も分からないじゃない」
「うん」
子供は少し考える。
「前、分からないって言われると、全部何もないみたいだった」
「何もない?」
アリシアが聞く。
「うん。答えない。分からない。だから、何も分からない」
「今は?」
「小さい分かる、いっぱいある」
その言い方が少し可笑しかったらしく、アリシアが笑う。
「小さい分かる?」
「うん」
「いいね、それ」
「変?」
「分かりやすい」
ノアが床から口を挟む。
『正式な学院用語にしたら?』
「ノア、小さい分かる使いたいって」
『言ってないわ』
「違う?」
『少し面白いとは思っただけ』
「面白いって」
子供が笑う。
「サーラも使う?」
「たぶん使わないと思う」
『賢明ね』
子供は少し残念そうにしたあと、また笑った。
◇
西側では、午前中から右壁側小空間の上向き細管について、さらに古い記録が探されていた。
現地にはまだ手を加えない。
昨日までに得られた情報を、古図面と保守記録へ照合する。
仮設観測室には、古い紙束が幾つも運び込まれていた。
乾燥して脆くなった紙。
欠けた端。
読みづらい文字。
魔導具教師と記録担当が、一枚ずつ内容を確認している。
「これ」
記録担当が声を上げた。
「何かあります」
副学院長が近づく。
「年代は?」
「例の圧逃室候補図面より少し後です」
「内容は?」
紙には水量補助制御系統の保守記録が書かれていた。
その一部。
『第二支路 圧逃部上管清掃』
若い観測員が目を見開く。
「上管」
魔導具教師も紙を覗く。
「昨日見つかった上向き細管と一致する可能性がありますね」
「圧逃部」
「“圧逃室”ではなく“圧逃部”」
副学院長が言う。
「名前が違う?」
「時期で呼称が変わった可能性もあります」
「別設備?」
「それも残ります」
若い観測員が紙を見る。
「でも、“第二支路”」
「はい」
「“上管”」
「はい」
「今見つけてる場所、第二排水支路の点検口候補」
「はい」
「右壁側小空間に上向き細管」
「はい」
若い観測員は顔を上げる。
「かなり同じっぽい」
「そうだな」
副学院長も今回は否定しなかった。
「同一系統である可能性はかなり上がった」
「名前変える?」
「まだ保留」
「まだ?」
「“圧逃室”“圧逃部”という二つの呼称がある。現地には名称表示がない。構造の一部は一致しているが、中は未確認だ」
「でも、かなり分かった」
「ああ」
若い観測員が少し嬉しそうに笑う。
「こういうとき、慎重にしすぎて何も分からない扱いにしたら駄目なんですね」
副学院長が彼を見る。
「何が言いたい?」
「現地の場所と古記録がかなり結びついてきた。完全確定じゃないけど、“関係ある可能性高い”までは言える」
「そうだ」
「全部分からないからって、全部不明じゃない」
魔導具教師が笑う。
「ようやく調査員らしくなってきましたね」
「前からですよ」
「前は好奇心担当でした」
「役職じゃないです、それ」
周囲に笑いが起きる。
副学院長は古い保守記録を慎重に別の紙へ写させた。
「追加で、“圧逃部上管”が何をしていたか探せ」
「はい」
「ただし、現地の上向き細管が同じものだと決めた状態で探すな」
「候補として比較」
「そうだ」
「でも一致点は一致点として残す」
「それでいい」
◇
昼前。
生活観測区画では、顔のない存在が寝台を出た。
子供は白い花の絵の端へ、小さな欠片らしき形を描こうとしていた。
実物をそのまま写すのではない。
名前を付けていない欠片。
細い。
少し曲がっている。
茶色い。
子供が今分かっている範囲だけを、紙の端へ小さく描いている。
「あ」
寝台が軋む。
子供の手が止まる。
顔のない存在が立ち上がった。
昨日は十歩。
今日はどうなる。
その期待が子供の顔へ浮かぶ。
けれど、すぐには口にしない。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
五歩。
昨日より少し遅い。
六歩。
そこで止まった。
子供の指が紙の上で動かなくなる。
人影は立ったまま。
一歩進むか。
座るか。
戻るか。
少し長い時間。
やがて、そのまま床へ座った。
「今日は六」
子供の声は、昨日より少し静かだった。
「うん」
「昨日十だった」
「うん」
「今日は六」
「うん」
嬉しくないわけではない。
けれど、昨日の十が大きかった分、少しだけ残念そうな表情がある。
「……ちょっと残念」
「そっか」
「また窓まで行くかと思った」
「うん」
「六で止まった」
「うん」
「悪くなった?」
自分から問いかける。
少し考える。
「分からない」
「うん」
「今日は六まで歩いた。それは分かる」
「うん」
「昨日十。今日は六」
「うん」
「四減った?」
「歩数だけ比べればね」
「でも、この人が四悪くなったじゃない」
「うん」
「何も分からないでもない」
「うん」
子供は少し笑った。
「六歩いた」
「そうだね」
「それは分かる」
胸の十一の光を見る。
今、少し明るいのは四つ。
「四つ」
「うん」
「昨日、窓で五つだった」
「うん」
「今日は六歩で四つ」
「うん」
「関係分からない」
「うん」
「でも四つ明るいのは分かる」
「うん」
子供は嬉しさと残念さが混じった顔で、人影を見つめた。
「小さい分かる、いっぱい」
「今日は使うんだ」
「うん」
『気に入ったのね』
ノアの言葉に、子供が笑った。
◇
午後。
東側の観測点移動案が正式に決まった。
狭窄部の向こう側へ出るのは一名。
滞在は短時間。
大型装備なし。
通信具一つ。
位置測定具一つ。
安全縄を通すことは地形上難しいため、退路を完全に塞がないよう入口側へ補助員を置き、一定時間通信が途切れた場合は即時撤退とする。
目的は、名前のない光へ近づくことではない。
東奥側空間候補へ入ることでもない。
遠隔感知精度が低下しつつあるため、新しい観測基準点を一つ確保できるか確認することだった。
「誰が行く?」
若い観測員が尋ねた。
サーラが資料を見ながら答える。
「今日は地形確認を担当した術師一名です」
「俺じゃない?」
「観測員でしょう」
「俺も観測員ですけど」
「狭窄部の先で通路状態を確認できる人間が先です」
「なるほど」
若い観測員は少し残念そうだった。
「行きたかったですか?」
「少し」
「なぜ?」
「向こう、見たいから」
「正直ですね」
「でも、それが理由じゃ足りないのも分かってます」
「なら大丈夫です」
狭窄部の向こう側。
術師が身体を横にして、補強された隙間を抜ける。
通信が入る。
『通過しました』
「足場は?」
『安定。壁面も問題なし』
「前方?」
『十歩程度までは目視できます。名前のない光そのものは見えません』
若い観測員が少し驚く。
「見えない?」
『壁が曲がっています』
「遠隔感知だといる」
「はい」
サーラは冷静に指示する。
「観測点候補は?」
『狭窄部から五歩先に、壁の窪みがあります。機材一つなら置けます』
「危険反応?」
『なし』
「そこまで」
『了解』
術師は五歩進む。
小型の位置測定具を仮置きする。
中継観測室側の盤面が少し揺れた。
「精度上がります」
観測員が声を上げる。
「名前のない光の位置、これまでより取りやすい」
「東奥側空間候補は?」
「輪郭も少し鮮明です」
「小空洞?」
「こちらも補助的に取れています」
若い観測員の顔が明るくなる。
「全部見やすくなった」
「測定上は」
サーラが釘を刺す。
「見えやすくなったことと、意味が分かったことは別です」
「はい」
新しい観測点。
それは答えではない。
ただ、今までより少し鮮明に見える場所を得ただけだった。
「術師は戻って」
『了解』
人間側はその日、そこへ常駐しなかった。
機材だけを残す。
人は戻る。
光へ追いつこうとはしない。
◇
夕方。
子供は木箱の前へ座っていた。
今日は朝に一度開けた。
布。
その下の硬そうなもの。
少し丸い輪郭。
暗い色。
それ以上は見ていない。
午後、何度か箱へ視線を向けた。
でも触らなかった。
今はもう一度見たい気持ちが少し強くなっている。
「開ける?」
自分へ尋ねる。
蓋へ手をかける。
前より自然に持ち上げる。
灰色の布。
その下。
今日は夕方の光が横から入る。
「あ」
子供の目が少し大きくなる。
「線ある」
硬そうなものの表面。
細い線。
一本。
いや、二本。
交差しているようにも見える。
アリシアも近づきすぎない位置から見る。
「模様かな」
「傷?」
「どっちにも見えるね」
「文字?」
「今はそうまでは見えない」
子供は蓋を少しだけ高く持ち上げる。
布がわずかにずれた。
触れていない。
蓋の動きで空気が動いたのだろう。
その下の硬そうなものが、昨日より少し広く見えた。
暗い茶色。
表面はつやがない。
角は丸い。
細い線。
「木?」
子供が言う。
アリシアも少し考える。
「昨日よりは木っぽく見える」
「金属じゃない?」
「少なくとも光の反射は弱いね」
「じゃあ木?」
「まだ断言はしない方がいいかな」
子供は少しだけ不満そうにする。
けれど、すぐに箱の中へ視線を戻した。
「でも、昨日より木っぽいは分かる」
「うん」
「表面に線ある」
「うん」
「布の下にある」
「うん」
「大きさは?」
「見えてる部分だけなら、手のひらより大きそう」
「箱いっぱい?」
「そこまでは分からない」
「……小さい分かる、また増えた」
「うん」
子供は少し笑った。
そのまま見ている。
もっと知りたい。
触れれば材質が分かるかもしれない。
布をどかせば全体が見えるかもしれない。
けれど。
「今日は触らない」
「うん」
「布も動かさない」
「うん」
「見えたところまで」
「うん」
子供は蓋をゆっくり閉じた。
「木かもしれない」
「うん」
「違うかもしれない」
「うん」
「でも、昨日より木っぽい」
「そうだね」
「それは言っていい」
「うん」
◇
夜の西側報告では、古い保守記録からさらに一つの記述が見つかった。
『第二支路圧逃部 上管閉塞時、水位上昇あり』
短い一文。
それだけだった。
副学院長はその記録を見て、すぐ現地作業を命じなかった。
「水位上昇」
若い観測員が言う。
「今見つけてる高水位跡と関係ある?」
「可能性は上がる」
「右壁側小空間が圧逃部なら、上向き細管が詰まって水位上がった?」
「そういう仮説は立つ」
「昔の高水位跡の原因?」
「候補の一つだ」
「かなりつながってきた」
「そうだな」
副学院長は否定しなかった。
「でも、今の上向き細管が詰まっているかは分からない。高水位跡がこの記録と同じ時期のものかも分からない」
「そこは残る」
「そうだ」
「でも、“第二支路”“圧逃部”“上管”“水位上昇”って情報はある」
「ああ」
「全部不明じゃない」
「当たり前だ」
若い観測員は少し笑った。
「今日、同じことばっか考えてます」
「何を?」
「分からないところを残すのと、分かってるところまで消すのは違うって」
副学院長は少しだけ目を細めた。
「それが分かってるなら十分だ」
「褒めました?」
「仕事を続けろ」
「逃げた」
周囲に小さな笑いが起きた。
◇
夜。
生活観測区画では、子供が寝台へ入る前に、今日描き足した白い花の絵を見ていた。
紙の端。
名前のない細い欠片。
形だけが小さく描かれている。
「これ、何か分からない」
「うん」
「でも描けた」
「うん」
「分からないもの、描いていい?」
「もちろん」
「名前なくても?」
「うん」
「あとで分かったら?」
「横に書き足してもいいし、新しく描いてもいいね」
「消す?」
「子供が消したいなら。でも、前にどう見えてたか残したいなら、そのままでもいい」
「残したい」
「うん」
「今は名前なし」
「うん」
「箱の中は?」
「布と、その下に木っぽく見える硬そうなもの」
子供が自分で言う。
「木って決めない」
「うん」
「でも木っぽい」
「うん」
「線もある」
「うん」
「それは分かる」
「そうだね」
子供は寝台へ入り、布団を胸元まで引き上げた。
隣の寝台には顔のない存在。
今日は六歩目で止まった。
胸の十一の光は、今は三つが少し明るい。
「今日は六」
「うん」
「昨日十」
「うん」
「今三つ」
「うん」
「昼は四つだった」
「うん」
「いっぱい変わる」
「そうだね」
「だから全部分からない?」
アリシアは少し考えた。
「全部は分からない。でも、今日六歩だったことは分かるよ」
「うん」
「昼に四つ明るかったことも」
「うん」
「今三つなのも」
「うん」
「それぞれは分かる」
「そうだね」
子供は少し考え込む。
「分からないって、大きすぎる言葉?」
「どういう意味?」
「分からないって言ったら、全部分からないみたいになる」
「そう感じる?」
「うん」
「でも本当は、“ここが分からない”ってできる」
「うん」
「顔のない人が何で歩くか分からない。でも六歩歩いたのは分かる」
「うん」
「光が何で動くか分からない。でも奥へ少し動いたのは分かる」
「うん」
「箱の硬そうなの何か分からない。でも布の下にあるのは分かる」
「うん」
子供は少し笑った。
「小さい分かる」
「また出た」
「便利」
「学院に広める?」
「サーラ使わないんでしょ?」
「たぶんね」
「じゃあ私使う」
「うん」
隣からノアが口を挟む。
『私は使わないわよ』
「ノアは使わないって」
「なんで?」
『響きが可愛すぎるから』
「ノア、可愛いの嫌?」
『私は可愛いではなく美しいの』
子供が笑う。
「黒くて丸い」
『アリシア、この子本当に口が悪くなってるわ』
「誰の影響だろうね」
『あなたじゃない?』
「絶対ノア」
子供の笑い声が続く。
少しして、静かになる。
「アリシア」
「うん」
「分からないの怖いけど、分かってるのもあるって思ったら、少し違う」
「どう違う?」
「全部暗いじゃない」
「うん」
「少し見えるところある」
「うん」
「でも見えてないところもある」
「うん」
「見えてないから、見えてるのも嘘かもってしなくていい?」
「もちろん。新しい情報で間違いだと分かったら直せばいいけど、今ちゃんと確認できていることまで全部疑わなくていいと思うよ」
「間違うことはある」
「うん」
「でも、だから何も信じないじゃない」
「うん」
子供は天井を見る。
「私、ここにいる」
「うん」
「それは分かる」
「うん」
「アリシアいる」
「いるよ」
「ノアも」
『当然よ』
「学院長は扉の外」
「いるぞ」
突然外から声が返り、子供が少し笑った。
「サーラは?」
「今は東側にいるはず」
「見てないけど?」
「今の勤務予定ではね」
「絶対?」
「絶対とは言えない。でも、少なくともさっきの報告では東側だった」
「じゃあ、今分かるのそこまで」
「うん」
子供は少し満足そうに目を閉じた。
「全部分からなくても、分かるところある」
「うん」
「今日は、それでいい」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
◇
夜半。
東側中継観測室では、新しい観測基準点から届く値が安定していた。
遠隔感知の精度は昨日より上がっている。
名前のない光の位置。
東奥側空間候補の輪郭。
小空洞の位置。
三つとも以前より少し見えやすい。
だからといって、三つの関係が分かったわけではない。
光は止まっている。
小空洞も静か。
東奥側微弱反応も、今夜は目立った変化がない。
「何も起きないですね」
夜勤の観測員が言う。
若い観測員は、帰る前の引き継ぎでそれを聞いて少し首を傾げた。
「何も?」
「え?」
「光はそこにいる。新しい観測点の値は安定してる。小空洞は反応してない。東奥側も変化なし」
「ああ」
「何も起きてない、じゃなくて、変化が少ない?」
サーラがそのやり取りを聞き、少しだけ口元を緩めた。
「その方が正確ですね」
若い観測員が得意そうな顔をする。
「今日かなり良くないですか、俺」
「褒めると怖がるでしょう」
「今日は大丈夫です」
「では、かなり良いです」
「……やっぱりちょっと怖い」
観測室に笑いが起こる。
その夜。
大きな答えは出なかった。
東側の三つの対象の関係も。
西側の右壁側小空間が本当に古記録の圧逃部と同一なのかも。
生活観測区画の木箱に入っている硬そうなものの正体も。
顔のない存在が、なぜ昨日十歩で今日は六歩だったのかも。
分からないままだった。
けれど。
何も分からなかったわけではない。
東側では、一歩未満の微移動が記録された。
新しい観測点によって位置精度が上がった。
西側では、「第二支路圧逃部上管清掃」と「上管閉塞時、水位上昇」という古い記録が見つかった。
生活観測区画では、箱の中の硬そうなものが、昨日より木に近い見え方をしていることが分かった。
白い花の名前のない欠片には、細い、茶色い、茎の近くのものに似ているという特徴が残った。
顔のない存在は六歩進み、昼には四つ、夜には三つの光が少し明るかった。
答えではない。
結論でもない。
けれど、確かに見えているもの。
分からない場所を残したまま。
分かっている場所まで暗くしない。
そのための小さな記録が。
今日もまた、一つずつ増えていた。




