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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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148/188

第148話 見えている部分が増えたからといって、見えていないところまで同じ形だとは限らない


 朝になる少し前、東側中継観測室では、昨夜記録された「東奥側微弱反応、単独微増」という一行が、何度目かの確認を受けていた。


 部屋の窓はまだ暗い。地上では夜と朝の境目が近づいているはずだが、東の空が白み始めるにはもう少し時間がある。中継観測室の中では、魔導灯の柔らかな明かりだけが三つの観測盤と机の上の記録紙を照らしていた。


 小空洞周期反応。


 東奥側微弱反応。


 名前のない光。


 三つは昨日から意識的に別の盤面へ分けられている。


 昨夜、変化したのは東奥側微弱反応だけだった。


 小空洞には反応なし。


 名前のない光にも位置、接続値、輪郭光量の明確な変化はない。


「単独、ですね」


 夜勤の若い観測員が、少し眠そうな目で三枚の記録を見比べた。


「今記録できている範囲では」


 サーラはそう答えた。


 結局、昨夜も遅い時間まで残っていたらしい。何度か休憩へ下がってはいるものの、机の端には冷めた飲み物が置かれ、記録板には彼女の細かな文字が続いている。


「前回は、小空洞の五度目反応から五呼吸くらい遅れて東奥側が強くなった」


「はい」


「昨日昼の六度目では、東奥側は動かなかった」


「はい」


「夜は東奥側だけ動いた」


「そうです」


 若い観測員は腕を組んだ。


「別物っぽくなってきた気がします」


 言ってから、ほんの一拍置く。


「……別の反応源として扱う理由が、前より増えた、ですね」


「その方が正確です」


「最近、言い直しが先に出るようになってきました」


「良いことでは?」


「たまに自分で何を言おうとしてたか分からなくなります」


 記録係の一人が吹き出した。


「それは単に眠いんじゃない?」


「否定できません」


「交代したら寝てください」


「はい」


 小さな笑いが起きたあと、サーラは東奥側微弱反応の推移を指で追った。


 昨夜の単独微増は、十呼吸にも満たない短いものだった。


 強度も低い。


 危険値は変わらない。


 その前後に人間側の作業もない。


 だからといって、「自然に動く独立反応源」と決めるにはまだ足りなかった。


「位置精度は上がりましたか?」


「昨夜の微増時に少し取りやすくなりました」


 別の観測員が答える。


「これまで“壁の裏か床下に小空間がある可能性”としていましたが、床下ではなさそうです」


「壁側?」


「はい。名前のない光がいる左側通路から見て、さらに奥の右手壁面。その裏側に小さな空間がある可能性が高いです」


 若い観測員が地図を覗き込んだ。


「小空洞と似た場所ですね」


「何が?」


「通路から直接見えない壁裏の小さな空間」


「構造上は似ていますね」


「大きさは?」


「まだ正確ではありません。小空洞より少し細長い可能性があります」


「じゃあ、小空洞二号?」


「呼びません」


 サーラの返事が早かった。


「ですよね」


「形が似ている可能性があるだけです。反応波形も違いますし、位置も別です」


「でも、設備の作り方が同じなら?」


「それは今後の比較材料になります」


「同じ施設で同じような小空間を複数作った可能性」


「あります」


「用途が全部違う可能性も?」


「あります」


 若い観測員は少し笑った。


「三つの反応だけじゃなくて、空間の方まで増えてきた」


「まだ増えたと決めないでください」


「え?」


「新しい反応源側に“小さな空間がある可能性が高くなった”段階です。内部形状まで確定したわけではありません」


「ああ……」


 若い観測員が額を押さえる。


「朝から難しい」


「寝不足ですね」


「それもあります」


 サーラは地図へ新しい印を書き込んだ。


 ただし、小空洞と同じ円形記号は使わない。


 細い破線で囲い、その横へ「奥側空間候補」とだけ記す。


 見えている部分が似ていても。


 まだ見えていない部分まで、同じ形だとは限らない。


 今は、それで十分だった。


     ◇


 生活観測区画では、薄い朝日が窓へ届く頃になっても、木箱は昨夜と同じ向きで置かれていた。


 留め具は外れている。


 蓋は閉じている。


 裏側の黒い跡が少し見える角度。


 そして、その中には昨日初めて見えた「布のようなもの」がある。


 もちろん、箱を閉じた今は見えない。


 アリシアが目を覚ましたあと、最初に箱へ目を向けたのは、そこに何か危険な変化がないかを確認するためだった。


 魔力感知。


 変化なし。


 蓋。


 閉じている。


 箱そのものの位置。


 昨夜と同じ。


『中が気になる?』


 ノアが寝台の足元に近い布の上から尋ねた。


「気にはなるよ」


『昨日見えたもの?』


「うん」


『布』


「布“みたいなもの”」


『細かいわね』


「昨日、子供とそう決めたから」


『決めたというより、分からないところを残したんでしょう』


「そうとも言う」


『その言い方、サーラに聞かれたら直されるわよ』


「ここにいないから大丈夫」


『油断ね』


 アリシアは少し笑いながら、机へ向かった。


 報告書を開く前に、寝台の方で布が動く。


 子供が目を覚ました。


 今朝はしばらく天井を見ていたあと、窓へ顔を向ける。


 空は昨日より少し曇っている。


「今日は白い」


「空?」


「うん。青い少ない」


「薄い雲が多いね」


「雨?」


「今のところ降りそうには見えないかな」


「分からない?」


「天気のこと?」


「うん」


「予報では降らないみたい。でも絶対とは言えないね」


 子供は少し考えた。


「じゃあ、今は曇ってる」


「うん」


 庭には鳥がいない。


 今朝は声も聞こえない。


 子供は少しだけ耳を澄ませたが、探そうとはしなかった。


「今日は鳥分からない」


「うん」


 次に、顔のない存在を見る。


「おはよう」


 人影は横になったまま。


 胸の十一の光は、朝の明るさの中で一つだけ少し明るく見えた。


 子供は待つ。


 二つ目。


 さらに三つ目が来るかと思ったが、変わらない。


「今は二つ」


「うん」


「昨日夜は三つ」


「うん」


「朝は?」


「昨日の朝は三つだったね」


「今は二つ」


 少しだけ口元が下がる。


「二つ、嫌?」


 アリシアが尋ねる。


「嫌じゃない。でも三つだったから、二つになると少し気になる」


「うん」


「気になるだけ」


「うん」


「悪くなったって決めない」


「そうだね」


 子供は自分で足の状態を確かめた。


 左右の足裏。


 足首。


 数歩の歩行。


「痛くない」


「あとでセレナにも?」


「見るだけ」


「うん」


 そのあと、子供は白い花の棚へ向かった。


 本物の白い花は、もはや茎と乾いた残りだけになっている。


 小皿には、花弁。


 もう一つの小皿には、細かな欠片。


 隣には絵。


 昨日「名前を付けずに置いておく」と決めた小さな欠片も、今朝はまだそこにあった。


「あった」


「うん」


「なくならなかった」


「今朝はね」


 子供は小皿へ顔を近づける。


「これ」


 一つを指さす。


 細長い欠片。


「昨日、何か分からないってした」


「うん」


「今日見たら、茎の近くのやつに見える」


「そう思う?」


「うん。でも、違うかも」


「じゃあどうする?」


 子供はしばらく考えた。


「まだ名前なし」


「うん」


「でも、昨日よりちょっと分かった?」


「どういうところ?」


「茎の近くに似てる」


「うん」


「分かったじゃなくて、似てるって分かった?」


「それなら言えそうだね」


「じゃあ、それ」


 子供は満足すると、今度は木箱へ向かった。


 昨日より足取りが少し慎重になる。


 箱の前へしゃがむ。


「中、ある?」


「昨日見えたもの?」


「うん」


「箱を開けないと見えないね」


「勝手に動いてない?」


「外から見える範囲では変化なさそうだよ」


「魔力は?」


「大きな変化なし」


 子供は蓋へ手を置いた。


 すぐには持ち上げない。


「昨日、布みたいなの見えた」


「うん」


「今日も布みたいなのだったら?」


「同じものが残っている可能性は高いと思う」


「本当に布になった?」


「昨日よりよく見えたら、そう言えるかもしれないね」


「じゃあ、見る?」


 自分へ聞く。


 少し長い沈黙。


 手が蓋から離れた。


「朝はいい」


「うん」


「昨日見えたからって、今日すぐ確かめなくていい」


「うん」


「でも気になる」


「うん」


「気になるの置いとく」


「そっか」


 子供は木箱をそのままにした。


 昨日のように、見えたものへすぐ続きを求めることはなかった。


     ◇


 朝食の途中。


 学院長から東側の新しい整理について聞いた子供は、果実を一つ口に入れたまま、少し難しい顔になった。


「奥の新しいの、空間ある?」


「壁の向こうに、小さな空間がある可能性が高くなった」


「小空洞みたい?」


「似ているところはある」


「同じ?」


「まだ分からない」


「形は?」


「正確には分かっていない。小空洞より細長い可能性がある」


「じゃあ、小空洞じゃない?」


「“小さな空間”という意味では似ている。ただ、今記録上は別の場所として扱っている」


「名前?」


「東奥側空間候補」


 子供の動きが止まる。


「長い」


 アリシアが吹き出した。


 学院長も扉の外で少し笑ったようだった。


「記録だからな」


「サーラ?」


「ああ」


「やっぱり」


 子供は麦粥を一口食べる。


「小空洞と東奥側空間候補」


「うん」


「二つとも壁の向こう?」


「そうだ」


「二つとも小さい?」


「そう見える」


「二つとも魔力ある?」


「反応はある。ただし波形は違う」


「じゃあ似てる」


「うん」


「でも同じじゃないかも」


「うん」


「同じ施設のものかも?」


「それもある」


「全然違うものかも?」


「ある」


 子供は頬を少し膨らませた。


「見えてるところだけ似てる」


「そうだな」


「見えてないところ分からない」


「ああ」


 子供は木箱を見る。


「箱も同じ?」


「何が?」


「昨日、布みたいなの見えた」


「うん」


「上だけ」


「うん」


「下、分からない」


「そうだね」


「上が布みたいだから、箱全部布じゃない」


「うん」


「当たり前?」


「かなり」


 子供が少し笑った。


「でも昨日、布見えたら中身が布って思いそうだった」


「うん」


「中の一個かもしれない」


「そうだね」


「布の下、別のものあるかも」


「うん」


「何もないかも?」


「あるかもね」


「見えてるところだけで、全部決めない」


「うん」


 子供は少し考え、そのまま西側についても尋ねた。


「西は?」


「昨日見つけた古い図面の“圧逃室”候補と、点検口の右壁側小空間が同じ設備かどうかを調べている」


「同じかもしれないが増えた?」


「昨日よりは」


「名前変えた?」


「まだ」


「どうして?」


「現地で構造を十分確認できていないからだ」


「見えてるところは似てる」


「うん」


「見えてないところ、まだある」


「そういうことだ」


 子供は少し満足そうに麦粥へ戻った。


「東も西も箱も似てる」


「何が?」


「見えてるところ増えた。でも全部じゃない」


「そうだね」


     ◇


 西側では、その頃、右壁側小空間の輪郭をもう少し詳しく取るための調査が始まっていた。


 点検口候補は開けない。


 丸型設備にも触れない。


 昨日までと同じく、外側からの弱い感知だけ。


 土属性の術師が壁面へ手を触れず、数寸離れた位置から魔力を薄く広げる。


「上側」


「反応なし」


「下」


「水分あり」


「奥行き?」


 術師は目を閉じた。


「……昨日より少し取れます。右壁側小空間は、横幅より縦方向が少し長い」


「古図面は?」


 魔導具教師が資料を見る。


「圧逃室候補の記号も縦長です」


 若い観測員が顔を上げる。


「また一致」


「一つ増えましたね」


「配管方向、水反応、位置、縦長」


「はい」


「かなり同じっぽい」


 副学院長が腕を組む。


「可能性は高い」


「でもまだ右壁側小空間」


「そうだ」


「どこまで分かったら名前変えるんです?」


「現地の構造が古図面と十分一致するか、別の名称表示が見つかるか。少なくとも、今より一段は欲しい」


「一段」


「急いで統合する理由がない」


「確かに」


 術師が再び感知する。


「待ってください」


「何だ?」


「小空間の奥側に、さらに細い抜けがあります」


 全員の表情が変わる。


「管?」


「たぶん。空間そのものが続いている感じではありません」


「方向は?」


「上向きです」


 魔導具教師が古図面を確認する。


「圧逃室候補の記号上部にも細い線があります」


 若い観測員が思わず身を乗り出した。


「じゃあ――」


 そこで自分で止まる。


「……一致点がまた一つ増えた」


「そうだ」


 副学院長が頷く。


「上向きの細線、行き先は?」


「古図面だと、途中で消えています」


「天井側設備?」


「可能性はあります」


「今の学院図面には?」


「記載なしです」


 若い観測員が少し考える。


「これ、同じ設備だと分かったら、その上の線も調べる?」


「必要なら」


「見つけたから全部追う、じゃない」


「そうだ」


「でも圧力逃がしなら、上側の出口重要そう」


「“圧力逃がしなら”な」


「あ」


「まだ名前に引っ張られるな」


「はい」


 若い観測員は少し恥ずかしそうに頭を掻いた。


「かなり同じっぽくなったら、逆に危ないですね」


「何が?」


「もう同じだろって思いたくなる」


「そうだな」


「見えてないところまで図面通りだって思いそう」


「それが一番危ない」


 副学院長は古い図面を指で軽く叩いた。


「昔の図面と今の現物が似ていても、途中で改修されている可能性がある。塞がれた可能性も、別の設備へつなぎ直された可能性もある」


「だから、上の線の先も図面通りとは限らない」


「そういうことだ」


     ◇


 昼前。


 東側では、名前のない光が久しぶりに動いた。


「位置変化」


 中継観測室の声が少し緊張する。


 サーラが三つの盤へ視線を移した。


「方向は?」


「左側通路の奥です」


「小空洞方向?」


 若い観測員が聞き、すぐに地図を見る。


「……直線では少し離れる」


「はい」


「東奥側空間候補は?」


「距離は少し縮まります」


 観測室の空気が変わった。


「新しい方へ行ってる?」


 若い観測員が言った。


 サーラはすぐに否定しない。


「位置としては、東奥側空間候補との距離が縮まる方向です」


「目的は分からない」


「はい」


 光はゆっくり進む。


 一歩相当。


 二歩。


 三歩。


 そこで止まる。


「東奥側微弱反応?」


「変化なし」


「小空洞?」


「反応なし」


「光側接続値?」


「低いまま」


 若い観測員は地図を見る。


「昨日まで小空洞に近かった」


「はい」


「今は新しい方に少し近づいた」


「はい」


「じゃあ光が探してるのは新しい方だった?」


 自分で言いながら、少し苦笑する。


「また作ってる」


「早いですね」


「だって、分かりやすい話になるから」


「どういう?」


「最初、小空洞が目的だと思った。でも実はその奥に本当の目的があった。光はそっちへ向かってる」


「物語としては分かりやすいですね」


「ですよね」


「記録には書きません」


「はい」


 サーラは地図へ新しい位置を書き込む。


「今分かるのは、名前のない光が三歩相当奥へ移動し、小空洞との距離が増え、東奥側空間候補との距離が少し縮まったことです」


「それだけ」


「はい」


「でも、人間の頭では“本当の目的”って言葉が出てくる」


「出てくることはあります」


「前のものが偽物みたいになる」


 若い観測員は、そこで自分の言葉に少し引っかかったようだった。


「小空洞が途中だったとしても、偽物じゃないですよね」


「何をもって偽物とするのですか?」


「……確かに」


「小空洞は小空洞です。これまで六度反応した事実も変わりません」


「新しいのが本命だったとしても?」


「“本命”という言葉自体、まだ人間側の都合です」


「ですよね」


 若い観測員は椅子へ座り直した。


「新しい方へ近づいたからって、前が間違いだったことにはならない」


「そうです」


 名前のない光は三歩進んだ位置で止まり、その後しばらく動かなかった。


     ◇


 昼食の時間。


 学院長から東側の光が動いたことを聞いた子供は、すぐに地図を見たいとは言わなかった。


「新しい方に近くなった?」


「ああ。距離だけなら少し」


「小空洞からは?」


「少し離れた」


「じゃあ、小空洞違った?」


 口にしたあと、子供はすぐに首を傾げる。


「何が違った?」


 学院長が尋ねる。


「光が行きたい場所」


「そもそも、小空洞へ行きたいと分かっていたか?」


「分かってない」


「うん」


「私がそう思ってた?」


「少しはな」


 子供は少し恥ずかしそうに笑った。


「新しいの出たから、そっちが本当?」


「まだ分からない」


「小空洞、嘘?」


「小空洞は別に嘘をついていない」


 学院長の返しが少し早く、アリシアが吹き出した。


 子供も一瞬きょとんとしたあと笑った。


「そうじゃない」


「分かっている」


「でも、小空洞が答えじゃなかった?」


「答えだったと決まっていないし、答えじゃないとも決まっていない」


「じゃあ残る」


「ああ」


「光が離れても?」


「これまでの記録は残る」


「小空洞もそこにある」


「うん」


「新しい方へ近づいたのもある」


「うん」


 子供は少し考えた。


「一個進んだら、前を消さない」


「そうだね」


「箱も?」


「どういうこと?」


「昨日、布みたいなの見えた。今日もっと開けたら、別のもの見えるかも」


「うん」


「別のもの見えたら、布みたいなの消えない」


「そうだね」


「布の下に何かあっても、布が間違いじゃない」


「うん」


 子供は少し安心したようだった。


「じゃあ、あとで見てもいい」


「うん」


     ◇


 午後。


 顔のない存在は、珍しく早い時間に寝台を出た。


 子供は机で白い花の絵を見ながら、今朝名前を付けなかった小さな欠片を紙の端へ描こうか迷っていた。


 人影が立ち上がる。


 子供は気づいたが、すぐには椅子から立たない。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 四歩。


 五歩。


 ここ数日とは少し違い、今日は窓方向へまっすぐ進んでいる。


 子供の指が絵の上で止まる。


 六歩。


 七歩。


 八歩。


 以前にも来たことのある位置。


 そこで一度止まった。


 子供の顔へ期待が浮かぶ。


 窓まで、あと少し。


 けれど何も言わない。


 人影が再び動いた。


 九歩。


 そして、もう一歩。


「……十」


 子供の声が、思わず漏れた。


 人影の足が止まる。


 窓際。


 以前は九歩目で止まり、その一歩手前までしか来なかった場所。


 今日は、初めて窓のすぐ近くまで自分で進んだ。


 子供は立ち上がりかける。


 けれど途中で止まった。


 顔のない存在は、窓へ触れない。


 ただ、そこに立っている。


「行った」


 子供の声が震えた。


「うん」


「窓まで」


「うん」


「十」


「うん」


「私、言っちゃった」


「十って?」


「うん。途中で」


「そっか」


 子供の表情が少し曇る。


「私が言ったから止まった?」


「分からない」


「言わなかったら、もっと行った?」


「窓があるから、これ以上は進めないと思うけど」


「あ」


 子供は窓を見る。


 確かにそうだった。


 顔のない存在は、窓枠から半歩ほど手前で止まっている。


「じゃあ、十で止まる場所?」


「今日の位置ではね」


「昨日までは?」


「七とか八で止まる日もあった」


「今日は十」


「うん」


 子供の顔に、嬉しさが戻る。


「嬉しい」


「うん」


「すごく」


「うん」


「良くなった?」


 口にして、すぐに黙る。


 嬉しさが大きいからこそ、いつもの言い直しが少し遅れた。


「……違う。今日は十まで行った」


「うん」


「でも私は嬉しい」


「うん」


 子供は胸元へ両手を当てた。


「嬉しいと、良くなったって言いたくなる」


「そうなんだね」


「だって前より窓近い」


「うん」


「この人、窓見たかったなら良くなったかもしれない」


「“見たかったなら”ね」


「分からない」


「うん」


「でも、窓の近くまで自分で行った」


「うん」


 顔のない存在は、しばらくそこに立っていた。


 その胸では、十一のうち五つが淡く明るさを増している。


「五つ」


 子供の目がさらに大きくなる。


「多い」


「今までより?」


「私が見た中では多い」


 アリシアも記憶を辿る。


「そうかもしれない」


「窓まで来たから?」


 言ってから、子供は口を閉じた。


 今度は少し早い。


「分からない」


「うん」


「十まで歩いた。今五つ明るい」


「うん」


「二つ一緒にある」


「そうだね」


 子供は窓へ近づこうとして、一歩だけ進み、止まった。


「私も行っていい?」


「窓へ?」


「うん。でもこの人いる」


「近くへ行きたい?」


「少し」


「この人が嫌かどうかは分からないね」


「うん」


「どうする?」


 子供は考えた。


「ここで見る」


「そっか」


「近くまで行かなくても見える」


「うん」


 窓の向こうには曇った空。


 庭。


 乾いた石畳。


 今は鳥はいない。


 顔のない存在が何を見ているかは分からない。


 外なのか。


 窓そのものなのか。


 光なのか。


 何も見ていないのか。


 子供は少し離れた場所から、ただその姿を見ていた。


     ◇


 夕方になって、木箱の前へ座った子供は、いつもより少し落ち着いていた。


 午後に顔のない存在が初めて窓際まで進んだことが、まだ胸に残っている。


 嬉しさ。


 驚き。


 もっと知りたい気持ち。


 けれど、それを木箱へ急ぐ理由にはしなかった。


「今日、開ける?」


 自分で問いかける。


 蓋へ手を置く。


「少し」


 前日より自然に持ち上げる。


 最初の隙間。


 指二本分。


 昨日見えた布のようなもの。


「ある」


「うん」


「昨日と同じ?」


「同じものに見えるね」


「もっと見る」


 子供の声が少し震えた。


 蓋をもう少し上げる。


 隙間が広がる。


 箱の内部へ夕方の光が入り込む。


 今度は昨日よりはっきり見えた。


 上部にあるのは、確かに布だった。


 灰色がかった薄い布。


 何度も折り畳まれている。


 その端には、細い糸のようなものがほつれている。


「布」


 子供が言う。


 アリシアも確認する。


「今は、布って言ってよさそう」


「布だった」


「うん」


 子供の顔へ少しだけ達成感が出る。


 しかし、布の下には別の輪郭がある。


 硬いもの。


 角が丸い。


 木か。


 金属か。


 まだ分からない。


「下」


 子供も気づいた。


「何かある」


「うん」


「布じゃない?」


「そう見えるね」


「箱の中身、布じゃなかった?」


「布も入っているし、その下にも何かあるみたい」


 子供は数秒、完全に黙った。


 それから小さく笑った。


「本当に、今日の話」


「何が?」


「見えたところ布だった。でも、全部布じゃなかった」


「うん」


「布は間違いじゃない」


「うん」


「下に別のがあっただけ」


「そうだね」


 蓋を持つ腕が少し震えてくる。


「もっと開ける?」


 自分へ尋ねる。


 下の硬い輪郭。


 まだ半分以上は布に隠れている。


「見たい」


「うん」


「でも、腕疲れてきた」


「うん」


「怖いもある」


「うん」


「今日は……閉じる」


「分かった」


 子供はゆっくり蓋を下ろした。


 木と木が触れる。


 箱は再び閉じる。


 留め具は外れたまま。


「布だった」


「うん」


「その下に別の何か」


「うん」


「硬そう」


「そう見えたね」


「何?」


「まだ分からない」


 子供は以前なら不満そうにしていたところで、今日は少し笑った。


「分からない残った」


「うん」


「でも布は分かった」


「うん」


「前より見えた」


「そうだね」


「前に見えた布みたいなの、なくならなかった」


「うん」


「名前変わった」


「“布みたいなもの”から“布”に?」


「うん」


「情報が増えたからね」


 子供は箱へ視線を落とした。


「じゃあ、名前変えてよかった?」


「うん。今は布だと分かるくらい見えたから」


「下のは?」


「まだ名前なし」


「硬いもの?」


「見た目の記録としてなら」


「硬そうなもの」


「それでもいいね」


「じゃあ、それ」


 子供は満足したように頷いた。


     ◇


 夜の報告では、東側の名前のない光は午後に移動した位置で止まったままだった。


 小空洞に七度目の反応はない。


 東奥側微弱反応にも、昼以降の新しい変化はない。


 ただし、名前のない光が三歩相当進んだことで、小空洞との直線距離は少し増え、東奥側空間候補との距離は縮まった。


 人間側は、それを「目的地変更」とは記録しなかった。


 単なる位置変化。


 今は、それだけ。


 西側では、右壁側小空間と古図面の「圧逃室」候補について、位置、配管方向、水反応、縦長形状、上向き細管という一致点が増えた。


 同一設備である可能性はさらに高くなった。


 それでも正式名称はまだ統合されていない。


 現物側に直接の名称表示がなく、上向き細管の先も未確認だからだ。


 そして生活観測区画。


 木箱の中で昨日「布のように見えたもの」は、今日、より広く見たことで布である可能性が十分高いと判断された。


 その下には、布とは別の硬そうな輪郭がある。


 中身は一つではなかった。


 少なくとも、今見えた範囲では。


     ◇


 寝台へ入った子供は、今日は顔のない存在の方を長く見ていた。


 人影は夕方になって自分で窓際から戻り、今は隣の寝台へ横になっている。


「今日、十」


「うん」


「初めて」


「うん」


「窓まで行った」


「うん」


「五つ光った」


「うん」


 子供は少し笑った。


「嬉しい」


「うん」


「まだ嬉しい」


「うん」


「明日、七だったら?」


 少し考える。


「今日の十なくなる?」


「なくならないよ」


「明日五だったら?」


「今日十まで行ったことは変わらない」


「じゃあ、今日の十は今日」


「うん」


「五つ明るかったのも」


「うん」


「明日一つでも?」


「うん」


 子供は少し安心したように息を吐いた。


「箱も今日、布って分かった」


「うん」


「昨日は布みたいなの」


「うん」


「昨日の見え方、間違い?」


「昨日は、布みたいに見えるところまでしか分からなかったんでしょう?」


「うん」


「なら、その時点ではそれでよかったと思うよ」


「今日、もっと見えたから名前変わった」


「うん」


「下に硬そうなのもあった」


「うん」


「布見えたとき、全部布だと思わなくてよかった」


「うん」


「もし思ってたら?」


「今日、違ったって直せばいいよ」


「間違えても変えていい?」


「もちろん」


「名前も?」


「うん」


「考えも?」


「うん」


「記録も?」


「過去の記録を消すんじゃなくて、“そのあと分かったこと”を足す形になると思う」


「昨日は布みたいに見えた。今日は布って分かった」


「そうそう」


「下に硬そうなものも見えた」


「うん」


「昨日の紙、消さない」


「うん」


「続き書く」


「そうだね」


 子供は少し考え、東側の話を思い出したようだった。


「光、小空洞から少し離れた」


「うん」


「新しい方に近づいた」


「うん」


「だから、小空洞が違ったって消さない」


「うん」


「六回反応したの残る」


「うん」


「新しい方も残る」


「うん」


「西も、圧逃室かもしれない増えた」


「うん」


「でも今の名前も残る?」


「記録には、以前どう呼んでいたかも残すと思うよ」


「どうして?」


「あとで、いつ何が分かって名前が変わったのか分かるから」


 子供はその答えを気に入ったようだった。


「名前変わる前も残す」


「うん」


「私も?」


 その問いに、アリシアは少しだけ目を動かした。


「子供の呼び方?」


「うん」


「もし、いつか別の名前を使いたくなったら?」


「うん」


「今“子供”って呼んでいた時間も、なくならないと思う」


「本当の名前あったら?」


「それも、子供が言いたくなったときでいいよ」


「今は言わない」


「うん」


「でも、あるかもしれない」


「うん」


 子供は布団の端を指で撫でる。


「見えてないところある」


「うん」


「私にも?」


「誰にでもあると思う」


「アリシアにも?」


「あるよ」


「ノアにも?」


『私は深淵のように奥深い猫だから当然よ』


 アリシアがそのまま伝えると、子供が笑った。


「ノア、見えてないところ多そう」


『どういう意味よ』


「秘密いっぱい」


『品格と言いなさい』


「品格は見えてる?」


『アリシア、この子最近ちょっと口が悪くなってない?』


「ノアの影響じゃない?」


『失礼ね』


 子供の笑い声が少し長く続いた。


 その笑いが落ち着いてから、子供はもう一度天井を見る。


「見えてるところ増えても、全部じゃない」


「うん」


「でも、見えてるところは本当?」


「見間違いや勘違いもあるから、絶対とは言えないけどね」


「また難しくした」


「ごめん」


 アリシアが少し笑う。


 子供も困ったように笑った。


「じゃあ、今見えてるところを、今分かるように残す」


「うん」


「あとで違ったら直す」


「うん」


「見えてないところは、勝手に埋めない」


「うん」


「でも想像してもいい」


「うん」


「箱の下の硬そうなの、私は木かもって思う」


「そっか」


「アリシアは?」


「金属かもって少し思った」


「違う」


「違うね」


「どっちも外れるかも」


「あるね」


 子供は楽しそうに少し笑った。


「明日分かる?」


「明日開けたら分かるかもしれない」


「開けないかも?」


「うん」


「じゃあ、今は木かもと金属かも」


「そうだね」


「二つあっていい」


「うん」


 子供は目を閉じた。


「今日は十歩もあった。布もあった。分からないのもあった」


「うん」


「いっぱいの日」


「疲れた?」


「少し。でも嫌じゃない」


「そっか」


「おやすみ」


「おやすみ」


     ◇


 夜半を回った頃。


 東側中継観測室では、名前のない光の位置を示す点が、またほんの少しだけ動いた。


「移動」


 夜勤観測員が記録板へ手を伸ばす。


「距離?」


「一歩相当未満です。奥側」


「東奥側空間候補との距離は?」


「さらに少し縮まります」


「小空洞側?」


「少し増えます」


「反応は?」


「どちらもありません」


 観測員はしばらく三つの盤を見た。


 そして、余計な言葉を足さずに書き込む。


 名前のない光、奥側へ微移動。


 小空洞周期反応なし。


 東奥側微弱反応、明確変化なし。


 それだけだった。


 見えている動きは増えた。


 距離の違いも増えた。


 けれど、その先にあるものが何なのかは、まだ見えていない。


 西側では、古図面と現物の一致点が増えている。


 それでも、見えない配管の先まで昔と同じだとは決めていない。


 生活観測区画では、閉じた木箱の中に、布と、その下の硬そうな何かがある。


 昨日は布らしきものしか見えなかった。


 今日、少し広く見たことで、一つではないことが分かった。


 見えている部分が増えれば、分かった気持ちも強くなる。


 けれど。


 見えた部分が増えたからといって。


 まだ見えていないところまで、同じ形で続いているとは限らない。


 だから、今夜も。


 見えたところだけを残す。


 見えなかったところには、まだ空白を残しておく。


 その空白が埋まるのが明日なのか。


 もっと先なのか。


 あるいは最後まで埋まらないのか。


 それさえも、今はまだ分からなかった。

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