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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第147話 似ているものを並べたからといって、同じ名前で呼ばなくてもいい


 翌朝、生活観測区画の窓へ差し込んだ光は、昨日より少し柔らかかった。


 空には薄い雲が広がっている。雨を降らせるほど厚くはないものの、強い朝日を幾重にも薄め、庭の石畳や植え込みの葉へ淡い灰色の影を落としていた。ここ数日よく見えていた鳥の姿はなく、代わりに遠くの木立から短い鳴き声だけが断続的に届いている。


 室内では、前日の夜から位置を変えていないものが幾つもあった。


 白い花の茎。


 二つに分けられた小皿。


 子供が描いた絵。


 留め具を外した木箱。


 ただし木箱だけは、以前のように正面を部屋へ向けてはいない。昨日、子供が裏側を見たあと、その黒い小さな跡が横から見える角度のまま残されていた。


 顔のない存在は、隣の寝台で横になっている。


 十一の光は、朝の薄明かりの中で三つだけ他より少し明るく見えた。


 アリシアは目を覚ましてから、一度だけそれらを順に見た。


『数えた?』


 床からノアの声がした。


「何を?」


『全部』


「数えてない」


『花、皿二つ、絵、箱、黒い跡、十一の光。目が順番に動いてたわよ』


「見るのと数えるのは違うでしょ」


『あなたの場合、そのうち数え始める』


「始めない」


『今日は?』


「今日は」


『限定されたわね』


 アリシアは小さく息を吐き、机へ向かった。


 朝の報告書は三枚に増えていた。


 東側。


 西側。


 そして東側の追加比較記録。


「増えてる」


『紙が?』


「うん」


『見るものが増えたからでしょう』


「昨日の子供みたい」


『あなたがそれを言うの?』


「何で?」


『少し嬉しそうだから』


「嬉しくないよ。大変そうだなって思っただけ」


『はいはい』


 アリシアはまず東側の夜間記録を開いた。


 名前のない光は、昨日午後に横方向へ移動した位置から大きく変わっていない。


 小空洞側にも新しい周期反応はなし。


 さらに奥の微弱反応も、低い値を維持したまま。


 三者とも、夜間に明確な変化はなかった。


 ただし追記として、名前のない光の横移動後、小空洞との直線距離が以前よりわずかに増し、新反応との距離はほぼ変化していないことが整理されている。


 そして比較記録。


 小空洞。


 新反応。


 名前のない光。


 三つの波形、発生時刻、距離、変化量が別々の線として並べられていた。


「色分けしてる」


『見やすいじゃない』


「うん。でも同じ紙にあると、やっぱりつながって見える」


『なら線を勝手に結ばないことね』


「分かってる」


 西側の記録には、第二排水支路点検口候補内部の丸型設備について、さらに一つだけ新しい事実が追加されていた。


 右壁側へ伸びる細管の先にある小空間は、完全な空洞ではなく、内側に細かな凹凸がある可能性が高い。


 水反応は少量。


 圧力変化なし。


 丸型設備は未操作。


 点検口は閉鎖状態維持。


「凹凸」


『何か思った?』


「網みたいなものかなって」


『事実?』


「違う。想像」


『なら好きにしなさい』


「今日は厳しくないね」


『あなたが先に分けたからよ』


 アリシアが少し満足そうに報告書を閉じたところで、寝台から布の擦れる音がした。


 子供が目を覚ました。


 今朝は、最初に窓へ顔を向けた。


「鳥、いない」


「見える範囲にはいないね」


「声はする」


「うん」


 子供は少しだけ耳を澄ませる。


 遠くから、一度。


 少し間を置いて、もう一度。


「一羽?」


「声だけだと分からないな」


「二羽かも?」


「うん」


「もっとかも?」


「あるかもね」


 子供は窓を見たまま考える。


「見えないけど、鳥がいるかもしれない」


「うん」


「声はある」


「うん」


「じゃあ、今分かるのは鳥の声がする」


「そうだね」


 それで確認を終え、今度は隣の寝台を見る。


「おはよう」


 顔のない存在へ声をかける。


 胸の十一の光は、すぐには変わらない。


 子供は待つ。


 一つ。


 二つ。


 そして、少し離れた位置にある三つ目。


「三つ」


 今朝は最初から三つだったようにも見えるが、朝日の加減でそう見えていただけかもしれない。


 子供は以前より少し長く見た。


「昨日夜は二つ」


「うん」


「今は三つ」


「うん」


「増えたって言っていい?」


「明るく見える数ならね」


「でも、良くなったじゃない」


「うん」


「同じ三つかも分からない」


「うん」


 子供は少し笑う。


「いっぱい言わなくても分かってきた」


「そうだね」


『言ってるけどね』


 ノアの言葉をアリシアが伝えると、子供が頬を少し膨らませた。


「分かるために言ってる」


『ならいいわ』


「ノア、今日は優しい」


『今日“も”よ』


「昨日は?」


『必要な程度には』


 子供が笑いながら布団を出る。


 足裏。


 足首。


 歩行。


 今日も問題なし。


「あとでセレナに見るだけ」


「うん」


 それから子供は木箱へ向かった。


 昨日、裏面を見える角度にしたままの箱。


 黒い小さな跡。


 蓋は閉じたまま。


 留め具は外れている。


 子供は今朝もすぐ触らなかった。


「黒い」


「うん」


「昨日見つけた」


「うん」


「朝見てもある」


「あるね」


「増えてない?」


 アリシアは少し近づき、目で確認する。


「私には昨日と同じくらいに見える」


「黒いの、何?」


「まだ分からない」


「魔力じゃない?」


「強い魔力反応はないよ」


「焦げ?」


「そうかもしれないし、汚れかもしれない」


「古い?」


「箱自体が古いから、跡も古い可能性はあるね」


 子供は少し考え、今度は白い花の小皿を見る。


「こっちも茶色」


「うん」


「同じ色?」


「似てるね」


「同じもの?」


「違うと思う」


「花と箱だから?」


「少なくとも、花の欠片と木箱の跡は別のものに見える」


 子供は茶色く乾いた花弁と、木箱の黒褐色の跡を交互に見る。


「色似てる」


「うん」


「でも同じじゃない」


「うん」


「似てるから、同じ名前にする?」


 アリシアは少し考えた。


「子供はどうしたい?」


「……しない」


「どうして?」


「花は白い花の欠片。箱は黒い跡」


「うん」


「似てるだけ」


「そうだね」


 子供は満足そうに頷いた。


「でも、あとで同じって分かることある?」


「何か共通の原因があるって分かることはあるかもしれないね」


「そのとき変える?」


「必要なら」


「今は別」


「うん」


 子供はそこで初めて木箱へ手を伸ばした。


 蓋ではない。


 黒い跡の近く。


 触れる寸前で止める。


「触る?」


 自分に聞く。


「……今日は見ただけ」


「うん」


「黒い跡は、今は見つけたもの」


「うん」


「中身は、まだ分からないもの」


「そうだね」


「同じ箱にある」


「うん」


「でも別の分からない」


「うん」


 子供は少し嬉しそうに笑った。


「一個の箱でも、分からないいっぱいある」


「そうだね」


『それを嬉しそうに言えるようになったのは大したものね』


 ノアの声には、本当に少し感心した響きが混じっていた。


 アリシアが伝えると、子供は照れたように視線を逸らした。


「いっぱい分からないの、まだ嫌」


「うん」


「でも、全部同じにしなくていいって分かった」


「うん」


     ◇


 東側中継観測室では、朝から三つの反応を別々の記録板へ表示していた。


 昨日まで、一枚の大きな盤へまとめていた時間帯もあった。


 だが今日は、サーラの提案で三つの盤を少し離して配置している。


「見た目から分けたんですね」


 若い観測員が言う。


「はい」


「つながって見えすぎるから?」


「それもあります。同じ画面へ重ねると、時間差が分かりやすい反面、同じ仕組みの一部であるように錯覚しやすい」


「錯覚まで考えるんですか」


「人が見る以上は」


 サーラは小空洞側の盤を指した。


「こちらは周期反応」


 次に、新反応。


「こちらは低い継続値の中に、不定期な微増」


 最後に名前のない光。


「こちらは位置、輪郭光量、接続値」


「測ってるもの自体が違う」


「はい」


「同じ紙にすると、三本の線になる」


「はい」


「でも、その三本は同じ種類の線じゃない」


「そういうことです」


 若い観測員は少し考えた。


「名前つけた方がいいですか?」


「何に?」


「新しい反応。ずっと“新反応”だとややこしい」


「記録上の仮称なら必要ですね」


「第六反応とか?」


「何を基準に六番目ですか?」


「……勢い」


「却下です」


「ですよね」


 記録係が笑う。


「位置由来なら?」


「東奥側微弱反応」


「長い」


「記録だから構いません」


「子供に言ったら絶対“長い”って言いますよ」


「正式名称ではありません。仮記録名です」


「じゃあ“東奥微弱”?」


「勝手に略さないでください」


「厳しい」


 サーラも少し笑った。


「ただ、名前を付けること自体は必要です。同じ“反応”と呼んでいると、小空洞側と混同します」


「名前つけたら別物になる?」


「いいえ」


「ですよね」


「別物かどうかが分からないからこそ、記録上は分けて扱うための名前です」


 若い観測員が頷く。


「東奥側微弱反応」


「仮称として」


「小空洞周期反応」


「はい」


「名前のない光」


「はい」


「三つ」


「三つです」


「似た動きしたら?」


「似た動きとして比較します」


「同じ名前にする?」


「しません」


「同じ仕組みだと分かったら?」


「その時点で整理し直します」


「なるほど」


 若い観測員は三つの盤を見た。


「今は、似てるところがあっても別々」


「はい」


     ◇


 西側では、第二排水支路点検口候補周辺の再調査が始まっていた。


 今日は点検口そのものを開けない。


 内部へ直接観測具も入れない。


 昨日までに得られた配管方向と、古い学院図面の欠損部分を照合することが目的だった。


 仮設机の上には、年代の違う図面が三枚並んでいる。


 一番古いもの。


 その約四十年後。


 さらに後年の補修図。


 どれも同じ西側地下区画を描いているはずなのに、線の数が違った。


「これ、同じ場所なんですよね?」


 若い観測員が一枚ずつ見比べる。


「そうだ」


 副学院長が答える。


「なのに、この図面には支管が二本。こっちは一本。最後のにはそもそも書いてない」


「撤去されたかもしれない」


「図面から省略された?」


「ある」


「壊れた?」


「ある」


「最初から記録漏れ?」


「ある」


「またいっぱい」


「慣れろ」


「慣れたくないです」


 魔導具教師が横から言う。


「でも、現地には少なくとも二本あります」


「はい」


「だから、図面の一つだけを正解にしない」


「現物が一番?」


「今ある状態については現物が強い情報です。ただ、何のために作られたかは古い図面の方が詳しいこともあります」


「新しい図面だから正しい、でもない?」


「そうです」


「古いから間違いでもない」


「はい」


 若い観測員が腕を組んだ。


「似てるな」


「何が?」


「新しい反応出たから、前の小空洞いらないじゃないって話」


 副学院長が彼を見る。


「東側の話か」


「はい。新しい図面見つけたから古い図面捨てる、じゃない」


「当然だ」


「でも、前だったら俺、一番新しい図面だけ見てたかも」


「今気づいたなら、次からやめろ」


「はい」


 古い三枚を重ねる。


 支管の方向。


 点検空間。


 周辺の壁。


 水没区画。


 少しずつ形が浮かんでくる。


「ここ」


 魔導具教師が指さす。


「一番古い図面にだけ、“圧逃室”と読める文字があります」


「圧逃室?」


 若い観測員が顔を近づける。


「圧力を逃がす部屋?」


「そう読めます。ただし最後の一文字が欠けている」


「部屋じゃないかも?」


「はい」


「昨日見つけた細い空間と同じ?」


 言ったところで、若い観測員が止まる。


「……同じ可能性はある。でもまだ同じって決めない」


 副学院長が少し口元を緩めた。


「続けろ」


「位置は?」


 魔導具教師が現地図と重ねる。


「かなり近い。点検口右壁の向こう側と、一致する可能性があります」


「大きさは?」


「古図面の記号だけだと、人が入れる部屋ではありません。小さな緩衝空間に見えます」


「水反応あり」


 土属性術師が昨日の記録を確認する。


「それも矛盾しない」


「じゃあ“圧逃室”候補?」


「そうだな」


 副学院長が言う。


「ただし仮称は“右壁側小空間”のまま」


「なんで?」


「古図面の文字が完全に読めていない」


「なるほど」


「名前を付けると、その名前に引っ張られる」


 若い観測員は少し考えた。


「“圧力逃がす場所”って名前ついたら、みんなそう思う」


「そういうことだ」


「名前、便利だけど怖いですね」


「便利だから使う。怖いから慎重に使う」


「副学院長、たまに良いこと言いますね」


「たまに?」


 地下に笑いが響いた。


     ◇


 朝食後の生活観測区画では、子供が白い花の二つの小皿を眺めていた。


 一つには乾いた花弁。


 もう一つには、茎から落ちた小さな部分や、花弁とは言い切れない欠片。


「これ、名前つける?」


 子供が呟く。


「小皿に?」


「中のもの」


「今まで何て呼んでた?」


「花弁。こっちは小さい欠片」


「うん」


「でも小さい欠片、いっぱい種類ある」


「そうだね」


 子供は一つを指す。


「これ、花弁の端」


 別の一つ。


「これは茎の近くから落ちた」


 さらに小さいもの。


「これは何か分からない」


「うん」


「全部“欠片”でいい?」


「子供がそう呼びたいなら」


「でも違う」


「うん」


 子供は困った顔になる。


「名前いっぱいにする?」


「必要?」


「分からない」


「じゃあ、今すぐ全部に名前を付けなくてもいいんじゃない?」


「名前ないまま?」


「うん」


「困らない?」


「区別したいときだけ、場所とか見た目で言えるよ」


「小さい茶色いの?」


「うん」


「細いの?」


「うん」


「丸いの?」


「そういう言い方もできる」


 子供は少し考えた。


「名前ないと、なくなる?」


「物はなくならないよ」


「覚えにくくなる?」


「それはあるかも」


「じゃあ記録?」


「必要ならね」


 子供は白い花の絵を見る。


「絵に描く?」


「描きたい?」


「……今日は描かない」


「うん」


「でも、名前ないまま置いとく」


「うん」


「名前つけたくなったらあとで」


「うん」


 子供は少し安心した。


「何でもすぐ名前いらない」


「そうだね」


「でも白い花は名前ある」


「うん」


「箱も木箱」


「うん」


「顔のない人は?」


 アリシアは少しだけ息を止めた。


 子供は顔のない存在を見る。


「まだ名前ない」


「うん」


「“顔のない人”って呼んでる」


「うん」


「それ、名前?」


「名前というより、私たちが区別するための呼び方かな」


「本人の名前じゃない?」


「そうだね」


「本人、名前ある?」


「分からない」


「つける?」


 子供は言ったあと、すぐ黙った。


 顔のない存在を見る。


 十一の光。


 薄い輪郭。


 静かな姿。


「……勝手につけない」


「どうして?」


「私が呼びやすいからって、本人の名前にしない」


「うん」


「でも、呼ぶとき困る」


「今は“この人”でもいいんじゃない?」


「うん」


「記録では顔のない存在って呼んでるけど、それが本人の名前とは限らない」


「うん」


 子供は少し考えてから、静かに言った。


「名前って、難しい」


「うん」


「名前つけると、そういうものになる?」


「そう見えやすくなることはあるね」


「白い花みたいに?」


「うん。白くなくなっても、白い花って呼ぶことで前の姿が残ることもある」


「いいこと?」


「いいときもあるし、困るときもあると思う」


「また」


「まただね」


 子供は少し笑う。


「じゃあ、この人は今はこの人」


「うん」


「名前ほしかったら?」


「本人が選べるなら、その方がいいね」


「選べないかも?」


「そのときは、そのとき考えよう」


「うん」


     ◇


 昼前。


 東側の小空洞に、六度目の反応が出た。


「小空洞周期反応、開始」


 観測員の声が上がる。


 サーラがすぐ三つの盤へ視線を走らせる。


「時刻」


「十一時五十七分」


「東奥側微弱反応は?」


「今のところ変化なし」


「名前のない光?」


「位置変化なし。接続値変化なし」


 小空洞の反応は、五度目より少し弱い。


 継続時間も短い。


 十呼吸。


 十二。


 十五。


「低下開始」


「記録」


 十七呼吸で基準へ戻る。


 全員が次の盤を見る。


 東奥側微弱反応。


 変化なし。


 名前のない光。


 変化なし。


 若い観測員が眉を寄せる。


「今回は何もついてこない」


「今のところは」


「前回は五呼吸後に東奥側が上がった」


「はい」


「今回は上がらない」


「はい」


「同じ小空洞反応でも違う」


「そうですね」


「じゃあ、前回の二つは偶然?」


 言いながら、彼自身が首を振る。


「それもまだ早い」


「はい」


「再現しなかった」


「今言えるのはそこまでです」


 若い観測員が盤面へ顔を近づける。


「名前を分けたの、ちょっと分かる気がする」


「どうして?」


「小空洞が動いたら必ず東奥側も動く、じゃなかった。別々に見てないと、“反応した”って一つにまとめそう」


「その通りです」


「似て見えたから同じ名前にしてたら、違いを見落とす」


「そういう危険はあります」


 サーラは六度目の記録を追加した。


 小空洞周期反応。


 十七呼吸。


 他二対象に明確な追随反応なし。


「新しい材料」


「はい」


「関係ある可能性減った?」


「条件付きかもしれません」


「また増えた」


「そうですね」


「でも、前よりは何を比べるか分かってきた」


「それも前進です」


 若い観測員が嬉しそうにする。


「かなり?」


「普通に」


「普通か」


 記録係が笑った。


     ◇


 昼食時。


 学院長から六度目の反応を聞いた子供は、少し意外そうな顔をした。


「新しいの、動かなかった?」


「ああ」


「前は動いた」


「ああ」


「今回は動かない」


「そうだ」


「じゃあ違うもの?」


「そうかもしれないし、条件が違うだけかもしれない」


「同じものでも、毎回同じ動きじゃない?」


「ある」


 子供は顔のない存在を見る。


「この人みたい」


「どういうところ?」


「昨日は横。前は窓。今日はまだ寝台」


「うん」


「同じ人だけど、毎日同じじゃない」


「そうだね」


「だから、違う動きしたから別物って決めない」


「うん」


「でも、同じみたいな動きしたから同じものも違う」


「そうだね」


 子供は少し頭を抱えた。


「難しい」


「うん」


「似てても同じじゃない。違ってても別じゃないかもしれない」


「うん」


「どうすればいい?」


 アリシアが笑いそうになり、でも真面目に答えた。


「今分かる違いを記録するしかないこともあるんじゃない?」


「名前分ける?」


「必要なら」


「小空洞と新しいの?」


「そうだね」


「学院長、名前ある?」


「記録上は“小空洞周期反応”と“東奥側微弱反応”だ」


 子供が真顔になる。


「長い」


 扉の外で学院長が小さく笑った。


「記録だからな」


「サーラも言いそう」


「実際サーラが決めた」


「やっぱり」


 子供が少し笑う。


「私はもっと短いのがいい」


「付ける?」


 アリシアが尋ねると、子供は少し考えた。


「……付けない」


「どうして?」


「私が呼びやすいだけの名前にしたら、それが本当の名前みたいになるかも」


「さっき、この人の話で考えたから?」


「うん」


「じゃあどう呼ぶ?」


「小空洞の反応。奥の新しいの」


「分かりやすいね」


「それでいい」


     ◇


 午後、顔のない存在が寝台を出た。


 子供は食後に白い花の絵を見ていたが、人影が動いたことに気づき、紙から視線を上げる。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 今日は子供も、歩数を口にしない。


 四歩。


 五歩。


 昨日横へ進んだ地点より少し手前。


 そこで人影は止まる。


 しばらく動かない。


 子供の目が少しだけ窓へ向く。


 期待。


 でも言わない。


 人影が動く。


 六歩目。


 七歩目。


 そして、今度はまた横へ向いた。


「また横」


 子供が小さく呟く。


 昨日と同じ方向ではない。


 反対側。


 棚のある側へ近づく。


 一歩。


 さらに一歩。


 今度は白い花の棚へ少し近い。


 子供の身体が緊張する。


「花?」


 アリシアも息を潜めた。


 人影は棚から二歩ほど離れたところで止まった。


 白い花。


 二つの小皿。


 絵。


 木箱。


 近くには幾つものものがある。


 どれを見ているかは、顔がないため分からない。


 子供は少しだけ前へ出る。


 すぐ止まる。


「何見てる?」


 返事はない。


「花?」


 人影は動かない。


「絵?」


 動かない。


「箱?」


 動かない。


 子供は自分で口を閉じた。


「分からない」


「うん」


「近いものいっぱいある」


「うん」


「棚の方来たからって、白い花見てるじゃない」


「そうだね」


「箱かもしれない」


「うん」


「何も見てないかも」


「あるかもね」


 人影はその場へ静かに座った。


 胸の十一の光。


 今は四つが少し明るい。


「四つ」


 子供が見る。


「朝は三つ」


「うん」


「棚来たから増えた?」


 少し考える。


「分からない」


「うん」


「増えたんじゃなくて、明るい数が四つ」


「うん」


「場所も違うかも」


「そう見えるね」


 子供は人影と棚を交互に見た。


「似てるのいっぱいあると、どれ見てるか分からない」


「うん」


「近いからって、それ見てるとは限らない」


「うん」


「東の光と小空洞みたい」


「少し似てるね」


「でも同じじゃない」


「うん」


 子供が笑う。


「これ、最近いっぱい言う」


「“同じじゃない”?」


「うん」


『便利だからって使いすぎると、また何でもそれで終わらせるわよ』


 ノアの忠告を伝えると、子供は少し考えた。


「じゃあ、違うところも見る」


「うん」


「この人は人。東の光は光」


「うん」


「棚はここ。小空洞は地下」


「うん」


「白い花は私のもの?」


 そこで少し止まる。


「私が見てるもの」


「うん」


「箱も」


「うん」


「違うところいっぱい」


「そうだね」


 子供は少し満足した。


     ◇


 西側では、午後になって右壁側小空間について、新しい推測材料が見つかっていた。


 古図面の「圧逃室」と読める文字の周囲に、小さな記号が二つある。


 一つは水流を示す古い記号。


 もう一つは、圧力調整系統で使われた可能性のある符号だった。


「これ、かなり近いですね」


 若い観測員が言う。


「何が?」


「右壁側小空間と古図面の圧逃室候補」


「位置は近い」


「配管方向も近い」


「はい」


「水反応もある」


「はい」


「じゃあ、同じ?」


 魔導具教師がすぐには答えない。


 若い観測員も待つ。


「同一設備である可能性は、昨日よりかなり高くなりました」


「お」


「ただし、現地側に名称表示がない。構造も完全には確認していない」


「だから正式には右壁側小空間」


「そうです」


「でも仮説では圧逃室候補」


「はい」


 若い観測員は少し嬉しそうに図面へ印を付ける。


「同じかもしれないって、だんだん言いやすくなることもあるんですね」


「材料が増えれば」


「最初から同じって決めるのが駄目なだけ」


「そうです」


「じゃあ、ずっと分けたままじゃない」


「必要なら統合します」


 副学院長が横から口を挟む。


「逆もあるぞ」


「逆?」


「一つだと思っていたものが、調べたら二つだったと分かれることもある」


「ああ……」


「名前は固定するためだけにあるんじゃない。整理するために使う」


「変えていい」


「当然だ」


 若い観測員は少し考えた。


「人間の名前も?」


「何の話だ」


「いや、子供が顔のない存在に勝手に名前つけないって話を聞いたので」


「本人の名前と設備の仮称を一緒にするな」


「似てると思っただけです」


「似てるところはある。だが同じではない」


「最近みんなそれ言う」


「必要だからな」


 副学院長は少し笑った。


     ◇


 夕方。


 生活観測区画の木箱は、まだ斜めを向いたままだった。


 子供は今日一度も蓋を開けていない。


 黒い跡にも触れていない。


 それでも何度か見ている。


 夕食前、ようやく箱の前へ座った。


「今日、開けなかった」


「うん」


「昨日は開けた」


「うん」


「今日、裏見た」


「うん」


「黒い跡も見た」


「うん」


「今、開ける?」


 自分で聞く。


 少し考える。


 蓋へ手を置く。


 力を入れる。


 木がほんの少し動く。


 昨日と同じくらいの隙間。


 子供の呼吸が浅くなる。


「見えない」


「うん」


「昨日も見えなかった」


「うん」


「もっと開けたい」


 声が少し震える。


「うん」


「怖い」


「うん」


 数呼吸。


 子供はそのまま持っている。


「昨日と似てる」


「うん」


「でも今日」


「うん」


「同じ怖い?」


 アリシアは答えない。


 子供自身が考える。


「……昨日は、開いたことが怖かった。今日は、もっと開けたら見えるかもしれないのが怖い」


「そっか」


「違う」


「うん」


 蓋がほんの少しだけ上がる。


 昨日より。


 指二本分ほど。


 中へ光が少し入る。


 子供の目が大きくなる。


「何かある」


 アリシアも見た。


 暗い箱の中。


 布らしきもの。


 灰色か、薄茶色か。


 折り重なっている。


 その下に何か固い輪郭も見えるが、まだ分からない。


「見える?」


 子供が息を潜めて聞く。


「布みたいなものは見える」


「ほかは?」


「まだよく分からない」


「魔力?」


 アリシアが弱く感知する。


「危険な反応はないよ」


「布」


「そう見えるね」


「中身?」


「中にあるものの一つかもしれない」


「答え?」


「“何か布みたいなものがある”ってことは分かったね」


 子供は蓋を持ったまま、少し困ったように笑った。


「また全部じゃない」


「うん」


「布だから、服?」


「分からない」


「包んでる?」


「それも分からない」


「古い?」


「見た目だけでは」


「また」


「まただね」


 子供の腕が少し震え始める。


「閉じる?」


 アリシアは聞かない。


 子供が自分で言う。


「……今日はここまで」


 蓋をゆっくり下ろす。


 木箱が閉じる。


 留め具はかけない。


 子供は手を離し、すぐには箱から離れなかった。


「見えた」


「うん」


「布みたいなの」


「うん」


「昨日より分かった」


「うん」


「でも、布って決めていい?」


「“布みたいに見えた”なら」


「じゃあ、布みたいなの」


「うん」


「服じゃない」


「まだ分からないね」


「包みでもない」


「うん」


 子供は箱を見る。


「名前つけない」


「うん」


「中の布みたいなの」


「うん」


「長い」


「記録みたいだね」


 子供が笑う。


「サーラみたい」


「確かに」


     ◇


 夕食では、学院長から西側の追加報告が届いた。


「右壁側小空間が、昔の図面にある“圧逃室”かもしれない?」


「可能性はかなり上がった」


「名前変える?」


「まだ変えない」


「どうして?」


「現地側で直接確認できていないからだ」


「でも、同じかもしれない」


「ああ」


「前より?」


「かなり」


 子供は少し考える。


「同じって言っていい日も来る?」


「証拠が足りればな」


「じゃあ、ずっと“同じじゃない”って言うじゃない」


「そうだ」


「分かったらまとめる」


「うん」


「でも、分けた方がいいなら分ける」


「うん」


「名前も変える」


「必要なら」


 子供は少し嬉しそうに頷いた。


「名前、決めたらずっとじゃない」


「ものによるけどな」


「私の名前は?」


 学院長が一瞬黙った。


「子供自身が変えたいなら、話は別だろう」


「今ある?」


「本当の名前を思い出しているかどうかは、俺には分からない」


 子供は少し黙った。


 アリシアも、急いで口を挟まない。


「……今は、言いたくない」


 子供が静かに言った。


「うん」


「あるかもしれない。でも言いたくない」


「分かった」


 学院長の返事は短かった。


「じゃあ今は、子供?」


「記録上はそうしている」


「私が嫌って言ったら?」


「変える方法を考える」


「すぐ?」


「相談して決める」


 子供は少し安心した。


「じゃあ、今は子供でいい」


「分かった」


 その言葉を最後に、話題は食事へ戻った。


     ◇


 夜。


 寝台へ入った子供は、今日は木箱を何度も見なかった。


 一度だけ。


 閉じていることを確認する。


 それで終わり。


「アリシア」


「うん」


「今日、中ちょっと見えた」


「うん」


「布みたいなの」


「うん」


「嬉しかった」


「そっか」


「怖かったもある」


「うん」


「もっと見たかった」


「うん」


「でも閉じた」


「うん」


「布って決めなかった」


「うん」


「服って言わなかった」


「うん」


「名前つけなかった」


「うん」


 子供は少し笑う。


「私、すごい慎重」


『自分で言うのね』


 ノアの声を伝えると、子供が少し恥ずかしそうに笑った。


「でも本当」


「本当だね」


「アリシアも?」


「かなり慎重になってると思う」


『前よりは』


「ノア」


『褒めてるわよ』


「何割?」


『聞いたから七割』


「また七」


 子供が笑う。


 少しして、子供は隣の寝台を見る。


 顔のない存在は、夜になる前に自力で戻っていた。


 胸の十一の光。


 今は三つが淡く明るい。


「この人、今日は棚の方行った」


「うん」


「何見てたか分からない」


「うん」


「でも、私、白い花かなって思った」


「うん」


「箱かもっても思った」


「うん」


「どっちも近かったから」


「うん」


「近いもの、答えに見えやすいって前言った」


「そうだね」


「似てるものも、同じに見えやすい」


「うん」


「名前つけると、もっとそう見える?」


「あると思う」


「じゃあ名前、怖い」


「便利でもあるよ」


「うん」


「“白い花”って名前があるから、前の白い姿も覚えていられる」


「うん」


「“東奥側微弱反応”って名前があるから、小空洞の反応と記録を分けられる」


「長いけど」


「長いね」


 子供が笑う。


「名前、分けるためにも使う」


「うん」


「まとめるためにも?」


「そうだね」


「覚えるためにも?」


「うん」


「本人の名前は?」


「その人自身のものでもあるね」


 子供は少し考えた。


「じゃあ、勝手に使うと違う?」


「呼び方を仮につけることはある。でも、その仮の呼び方を本人の全部だと思わない方がいいと思う」


「顔のない存在」


「うん」


「顔ないから、それだけで呼んでる」


「うん」


「でも、この人は顔がないだけじゃない」


「うん」


「歩く。座る。木片触った。棚の方行った。光ある」


「うん」


「いっぱいある」


「そうだね」


 子供は人影を見る。


「じゃあ、“顔のない人”って呼んでも、顔ないだけの人じゃない」


「うん」


「名前一個で全部じゃない」


「そうだね」


 子供は少し安心したようだった。


「白い花も、白いだけじゃなかった」


「うん」


「木箱も、箱だけじゃない。黒い跡ある。中に布みたいなのもある」


「うん」


「東の光も、光ってるだけじゃない」


「うん」


「小空洞も、反応するだけじゃないかもしれない」


「うん」


 子供は目を閉じる。


「いっぱいあるものを、一個の名前で呼んでる」


「そうだね」


「でも、一個の名前で全部分かったことにしない」


「うん」


「今日は、それ」


「今日の分?」


「うん」


 子供が布団を少し引き上げる。


「おやすみ」


「おやすみ」


     ◇


 その夜半。


 東側の三つの観測対象は、しばらく静かなままだった。


 小空洞周期反応。


 東奥側微弱反応。


 名前のない光。


 三つとも別の盤面。


 三つとも別の記録。


 それでも、必要なときには時間軸を重ねて比較する。


 分けることと、切り離すことは同じではない。


 まとめることと、一つだと決めることも同じではない。


 西側では、右壁側小空間と古図面の「圧逃室」候補が、かなり近い位置と構造を持つことが分かってきた。


 まだ名称は統合されていない。


 けれど、同じ設備である可能性は以前より高くなっている。


 生活観測区画では、木箱の中に初めて「布のように見える何か」が確認された。


 それが布なのか。


 服なのか。


 包みなのか。


 別の素材なのか。


 まだ分からない。


 だから、まだ一つの名前にしない。


 そして名前のないものがあるからといって、すぐ困るわけでもなかった。


 仮の呼び方。


 記録上の名称。


 本人の名前。


 昔から使われていた設備名。


 子供が自分で付けた「白い花」という名前。


 同じ「名前」という言葉の近くにあっても、それぞれ役割は少しずつ違う。


 似ている。


 だから並べて比べる。


 似ている。


 だから同じ可能性を考える。


 けれど。


 似ているからといって、今すぐ同じ名前で呼ばなくてもいい。


 違う名前だからといって、絶対に別のものとも限らない。


 分かったときに変える。


 必要ならまとめる。


 違っていたらまた分ける。


 そのために、今見えている違いを消さずに残しておく。


 深夜を少し回った頃。


 東奥側微弱反応の値が、ごく小さく一度だけ上がった。


 小空洞側は静かなまま。


 名前のない光も動かない。


 夜勤観測員は一瞬だけ三つの盤を見比べ、それから静かに記録板へ書き込んだ。


「東奥側微弱反応、単独微増。ほか二対象に明確変化なし」


 それだけだった。


 同じ名前にはしない。


 同じ話にも、まだしない。


 ただ、似ているところと違うところを両方残しながら。


 新しい夜の一行が、昨日までの記録の続きへ加えられた。

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