第147話 似ているものを並べたからといって、同じ名前で呼ばなくてもいい
翌朝、生活観測区画の窓へ差し込んだ光は、昨日より少し柔らかかった。
空には薄い雲が広がっている。雨を降らせるほど厚くはないものの、強い朝日を幾重にも薄め、庭の石畳や植え込みの葉へ淡い灰色の影を落としていた。ここ数日よく見えていた鳥の姿はなく、代わりに遠くの木立から短い鳴き声だけが断続的に届いている。
室内では、前日の夜から位置を変えていないものが幾つもあった。
白い花の茎。
二つに分けられた小皿。
子供が描いた絵。
留め具を外した木箱。
ただし木箱だけは、以前のように正面を部屋へ向けてはいない。昨日、子供が裏側を見たあと、その黒い小さな跡が横から見える角度のまま残されていた。
顔のない存在は、隣の寝台で横になっている。
十一の光は、朝の薄明かりの中で三つだけ他より少し明るく見えた。
アリシアは目を覚ましてから、一度だけそれらを順に見た。
『数えた?』
床からノアの声がした。
「何を?」
『全部』
「数えてない」
『花、皿二つ、絵、箱、黒い跡、十一の光。目が順番に動いてたわよ』
「見るのと数えるのは違うでしょ」
『あなたの場合、そのうち数え始める』
「始めない」
『今日は?』
「今日は」
『限定されたわね』
アリシアは小さく息を吐き、机へ向かった。
朝の報告書は三枚に増えていた。
東側。
西側。
そして東側の追加比較記録。
「増えてる」
『紙が?』
「うん」
『見るものが増えたからでしょう』
「昨日の子供みたい」
『あなたがそれを言うの?』
「何で?」
『少し嬉しそうだから』
「嬉しくないよ。大変そうだなって思っただけ」
『はいはい』
アリシアはまず東側の夜間記録を開いた。
名前のない光は、昨日午後に横方向へ移動した位置から大きく変わっていない。
小空洞側にも新しい周期反応はなし。
さらに奥の微弱反応も、低い値を維持したまま。
三者とも、夜間に明確な変化はなかった。
ただし追記として、名前のない光の横移動後、小空洞との直線距離が以前よりわずかに増し、新反応との距離はほぼ変化していないことが整理されている。
そして比較記録。
小空洞。
新反応。
名前のない光。
三つの波形、発生時刻、距離、変化量が別々の線として並べられていた。
「色分けしてる」
『見やすいじゃない』
「うん。でも同じ紙にあると、やっぱりつながって見える」
『なら線を勝手に結ばないことね』
「分かってる」
西側の記録には、第二排水支路点検口候補内部の丸型設備について、さらに一つだけ新しい事実が追加されていた。
右壁側へ伸びる細管の先にある小空間は、完全な空洞ではなく、内側に細かな凹凸がある可能性が高い。
水反応は少量。
圧力変化なし。
丸型設備は未操作。
点検口は閉鎖状態維持。
「凹凸」
『何か思った?』
「網みたいなものかなって」
『事実?』
「違う。想像」
『なら好きにしなさい』
「今日は厳しくないね」
『あなたが先に分けたからよ』
アリシアが少し満足そうに報告書を閉じたところで、寝台から布の擦れる音がした。
子供が目を覚ました。
今朝は、最初に窓へ顔を向けた。
「鳥、いない」
「見える範囲にはいないね」
「声はする」
「うん」
子供は少しだけ耳を澄ませる。
遠くから、一度。
少し間を置いて、もう一度。
「一羽?」
「声だけだと分からないな」
「二羽かも?」
「うん」
「もっとかも?」
「あるかもね」
子供は窓を見たまま考える。
「見えないけど、鳥がいるかもしれない」
「うん」
「声はある」
「うん」
「じゃあ、今分かるのは鳥の声がする」
「そうだね」
それで確認を終え、今度は隣の寝台を見る。
「おはよう」
顔のない存在へ声をかける。
胸の十一の光は、すぐには変わらない。
子供は待つ。
一つ。
二つ。
そして、少し離れた位置にある三つ目。
「三つ」
今朝は最初から三つだったようにも見えるが、朝日の加減でそう見えていただけかもしれない。
子供は以前より少し長く見た。
「昨日夜は二つ」
「うん」
「今は三つ」
「うん」
「増えたって言っていい?」
「明るく見える数ならね」
「でも、良くなったじゃない」
「うん」
「同じ三つかも分からない」
「うん」
子供は少し笑う。
「いっぱい言わなくても分かってきた」
「そうだね」
『言ってるけどね』
ノアの言葉をアリシアが伝えると、子供が頬を少し膨らませた。
「分かるために言ってる」
『ならいいわ』
「ノア、今日は優しい」
『今日“も”よ』
「昨日は?」
『必要な程度には』
子供が笑いながら布団を出る。
足裏。
足首。
歩行。
今日も問題なし。
「あとでセレナに見るだけ」
「うん」
それから子供は木箱へ向かった。
昨日、裏面を見える角度にしたままの箱。
黒い小さな跡。
蓋は閉じたまま。
留め具は外れている。
子供は今朝もすぐ触らなかった。
「黒い」
「うん」
「昨日見つけた」
「うん」
「朝見てもある」
「あるね」
「増えてない?」
アリシアは少し近づき、目で確認する。
「私には昨日と同じくらいに見える」
「黒いの、何?」
「まだ分からない」
「魔力じゃない?」
「強い魔力反応はないよ」
「焦げ?」
「そうかもしれないし、汚れかもしれない」
「古い?」
「箱自体が古いから、跡も古い可能性はあるね」
子供は少し考え、今度は白い花の小皿を見る。
「こっちも茶色」
「うん」
「同じ色?」
「似てるね」
「同じもの?」
「違うと思う」
「花と箱だから?」
「少なくとも、花の欠片と木箱の跡は別のものに見える」
子供は茶色く乾いた花弁と、木箱の黒褐色の跡を交互に見る。
「色似てる」
「うん」
「でも同じじゃない」
「うん」
「似てるから、同じ名前にする?」
アリシアは少し考えた。
「子供はどうしたい?」
「……しない」
「どうして?」
「花は白い花の欠片。箱は黒い跡」
「うん」
「似てるだけ」
「そうだね」
子供は満足そうに頷いた。
「でも、あとで同じって分かることある?」
「何か共通の原因があるって分かることはあるかもしれないね」
「そのとき変える?」
「必要なら」
「今は別」
「うん」
子供はそこで初めて木箱へ手を伸ばした。
蓋ではない。
黒い跡の近く。
触れる寸前で止める。
「触る?」
自分に聞く。
「……今日は見ただけ」
「うん」
「黒い跡は、今は見つけたもの」
「うん」
「中身は、まだ分からないもの」
「そうだね」
「同じ箱にある」
「うん」
「でも別の分からない」
「うん」
子供は少し嬉しそうに笑った。
「一個の箱でも、分からないいっぱいある」
「そうだね」
『それを嬉しそうに言えるようになったのは大したものね』
ノアの声には、本当に少し感心した響きが混じっていた。
アリシアが伝えると、子供は照れたように視線を逸らした。
「いっぱい分からないの、まだ嫌」
「うん」
「でも、全部同じにしなくていいって分かった」
「うん」
◇
東側中継観測室では、朝から三つの反応を別々の記録板へ表示していた。
昨日まで、一枚の大きな盤へまとめていた時間帯もあった。
だが今日は、サーラの提案で三つの盤を少し離して配置している。
「見た目から分けたんですね」
若い観測員が言う。
「はい」
「つながって見えすぎるから?」
「それもあります。同じ画面へ重ねると、時間差が分かりやすい反面、同じ仕組みの一部であるように錯覚しやすい」
「錯覚まで考えるんですか」
「人が見る以上は」
サーラは小空洞側の盤を指した。
「こちらは周期反応」
次に、新反応。
「こちらは低い継続値の中に、不定期な微増」
最後に名前のない光。
「こちらは位置、輪郭光量、接続値」
「測ってるもの自体が違う」
「はい」
「同じ紙にすると、三本の線になる」
「はい」
「でも、その三本は同じ種類の線じゃない」
「そういうことです」
若い観測員は少し考えた。
「名前つけた方がいいですか?」
「何に?」
「新しい反応。ずっと“新反応”だとややこしい」
「記録上の仮称なら必要ですね」
「第六反応とか?」
「何を基準に六番目ですか?」
「……勢い」
「却下です」
「ですよね」
記録係が笑う。
「位置由来なら?」
「東奥側微弱反応」
「長い」
「記録だから構いません」
「子供に言ったら絶対“長い”って言いますよ」
「正式名称ではありません。仮記録名です」
「じゃあ“東奥微弱”?」
「勝手に略さないでください」
「厳しい」
サーラも少し笑った。
「ただ、名前を付けること自体は必要です。同じ“反応”と呼んでいると、小空洞側と混同します」
「名前つけたら別物になる?」
「いいえ」
「ですよね」
「別物かどうかが分からないからこそ、記録上は分けて扱うための名前です」
若い観測員が頷く。
「東奥側微弱反応」
「仮称として」
「小空洞周期反応」
「はい」
「名前のない光」
「はい」
「三つ」
「三つです」
「似た動きしたら?」
「似た動きとして比較します」
「同じ名前にする?」
「しません」
「同じ仕組みだと分かったら?」
「その時点で整理し直します」
「なるほど」
若い観測員は三つの盤を見た。
「今は、似てるところがあっても別々」
「はい」
◇
西側では、第二排水支路点検口候補周辺の再調査が始まっていた。
今日は点検口そのものを開けない。
内部へ直接観測具も入れない。
昨日までに得られた配管方向と、古い学院図面の欠損部分を照合することが目的だった。
仮設机の上には、年代の違う図面が三枚並んでいる。
一番古いもの。
その約四十年後。
さらに後年の補修図。
どれも同じ西側地下区画を描いているはずなのに、線の数が違った。
「これ、同じ場所なんですよね?」
若い観測員が一枚ずつ見比べる。
「そうだ」
副学院長が答える。
「なのに、この図面には支管が二本。こっちは一本。最後のにはそもそも書いてない」
「撤去されたかもしれない」
「図面から省略された?」
「ある」
「壊れた?」
「ある」
「最初から記録漏れ?」
「ある」
「またいっぱい」
「慣れろ」
「慣れたくないです」
魔導具教師が横から言う。
「でも、現地には少なくとも二本あります」
「はい」
「だから、図面の一つだけを正解にしない」
「現物が一番?」
「今ある状態については現物が強い情報です。ただ、何のために作られたかは古い図面の方が詳しいこともあります」
「新しい図面だから正しい、でもない?」
「そうです」
「古いから間違いでもない」
「はい」
若い観測員が腕を組んだ。
「似てるな」
「何が?」
「新しい反応出たから、前の小空洞いらないじゃないって話」
副学院長が彼を見る。
「東側の話か」
「はい。新しい図面見つけたから古い図面捨てる、じゃない」
「当然だ」
「でも、前だったら俺、一番新しい図面だけ見てたかも」
「今気づいたなら、次からやめろ」
「はい」
古い三枚を重ねる。
支管の方向。
点検空間。
周辺の壁。
水没区画。
少しずつ形が浮かんでくる。
「ここ」
魔導具教師が指さす。
「一番古い図面にだけ、“圧逃室”と読める文字があります」
「圧逃室?」
若い観測員が顔を近づける。
「圧力を逃がす部屋?」
「そう読めます。ただし最後の一文字が欠けている」
「部屋じゃないかも?」
「はい」
「昨日見つけた細い空間と同じ?」
言ったところで、若い観測員が止まる。
「……同じ可能性はある。でもまだ同じって決めない」
副学院長が少し口元を緩めた。
「続けろ」
「位置は?」
魔導具教師が現地図と重ねる。
「かなり近い。点検口右壁の向こう側と、一致する可能性があります」
「大きさは?」
「古図面の記号だけだと、人が入れる部屋ではありません。小さな緩衝空間に見えます」
「水反応あり」
土属性術師が昨日の記録を確認する。
「それも矛盾しない」
「じゃあ“圧逃室”候補?」
「そうだな」
副学院長が言う。
「ただし仮称は“右壁側小空間”のまま」
「なんで?」
「古図面の文字が完全に読めていない」
「なるほど」
「名前を付けると、その名前に引っ張られる」
若い観測員は少し考えた。
「“圧力逃がす場所”って名前ついたら、みんなそう思う」
「そういうことだ」
「名前、便利だけど怖いですね」
「便利だから使う。怖いから慎重に使う」
「副学院長、たまに良いこと言いますね」
「たまに?」
地下に笑いが響いた。
◇
朝食後の生活観測区画では、子供が白い花の二つの小皿を眺めていた。
一つには乾いた花弁。
もう一つには、茎から落ちた小さな部分や、花弁とは言い切れない欠片。
「これ、名前つける?」
子供が呟く。
「小皿に?」
「中のもの」
「今まで何て呼んでた?」
「花弁。こっちは小さい欠片」
「うん」
「でも小さい欠片、いっぱい種類ある」
「そうだね」
子供は一つを指す。
「これ、花弁の端」
別の一つ。
「これは茎の近くから落ちた」
さらに小さいもの。
「これは何か分からない」
「うん」
「全部“欠片”でいい?」
「子供がそう呼びたいなら」
「でも違う」
「うん」
子供は困った顔になる。
「名前いっぱいにする?」
「必要?」
「分からない」
「じゃあ、今すぐ全部に名前を付けなくてもいいんじゃない?」
「名前ないまま?」
「うん」
「困らない?」
「区別したいときだけ、場所とか見た目で言えるよ」
「小さい茶色いの?」
「うん」
「細いの?」
「うん」
「丸いの?」
「そういう言い方もできる」
子供は少し考えた。
「名前ないと、なくなる?」
「物はなくならないよ」
「覚えにくくなる?」
「それはあるかも」
「じゃあ記録?」
「必要ならね」
子供は白い花の絵を見る。
「絵に描く?」
「描きたい?」
「……今日は描かない」
「うん」
「でも、名前ないまま置いとく」
「うん」
「名前つけたくなったらあとで」
「うん」
子供は少し安心した。
「何でもすぐ名前いらない」
「そうだね」
「でも白い花は名前ある」
「うん」
「箱も木箱」
「うん」
「顔のない人は?」
アリシアは少しだけ息を止めた。
子供は顔のない存在を見る。
「まだ名前ない」
「うん」
「“顔のない人”って呼んでる」
「うん」
「それ、名前?」
「名前というより、私たちが区別するための呼び方かな」
「本人の名前じゃない?」
「そうだね」
「本人、名前ある?」
「分からない」
「つける?」
子供は言ったあと、すぐ黙った。
顔のない存在を見る。
十一の光。
薄い輪郭。
静かな姿。
「……勝手につけない」
「どうして?」
「私が呼びやすいからって、本人の名前にしない」
「うん」
「でも、呼ぶとき困る」
「今は“この人”でもいいんじゃない?」
「うん」
「記録では顔のない存在って呼んでるけど、それが本人の名前とは限らない」
「うん」
子供は少し考えてから、静かに言った。
「名前って、難しい」
「うん」
「名前つけると、そういうものになる?」
「そう見えやすくなることはあるね」
「白い花みたいに?」
「うん。白くなくなっても、白い花って呼ぶことで前の姿が残ることもある」
「いいこと?」
「いいときもあるし、困るときもあると思う」
「また」
「まただね」
子供は少し笑う。
「じゃあ、この人は今はこの人」
「うん」
「名前ほしかったら?」
「本人が選べるなら、その方がいいね」
「選べないかも?」
「そのときは、そのとき考えよう」
「うん」
◇
昼前。
東側の小空洞に、六度目の反応が出た。
「小空洞周期反応、開始」
観測員の声が上がる。
サーラがすぐ三つの盤へ視線を走らせる。
「時刻」
「十一時五十七分」
「東奥側微弱反応は?」
「今のところ変化なし」
「名前のない光?」
「位置変化なし。接続値変化なし」
小空洞の反応は、五度目より少し弱い。
継続時間も短い。
十呼吸。
十二。
十五。
「低下開始」
「記録」
十七呼吸で基準へ戻る。
全員が次の盤を見る。
東奥側微弱反応。
変化なし。
名前のない光。
変化なし。
若い観測員が眉を寄せる。
「今回は何もついてこない」
「今のところは」
「前回は五呼吸後に東奥側が上がった」
「はい」
「今回は上がらない」
「はい」
「同じ小空洞反応でも違う」
「そうですね」
「じゃあ、前回の二つは偶然?」
言いながら、彼自身が首を振る。
「それもまだ早い」
「はい」
「再現しなかった」
「今言えるのはそこまでです」
若い観測員が盤面へ顔を近づける。
「名前を分けたの、ちょっと分かる気がする」
「どうして?」
「小空洞が動いたら必ず東奥側も動く、じゃなかった。別々に見てないと、“反応した”って一つにまとめそう」
「その通りです」
「似て見えたから同じ名前にしてたら、違いを見落とす」
「そういう危険はあります」
サーラは六度目の記録を追加した。
小空洞周期反応。
十七呼吸。
他二対象に明確な追随反応なし。
「新しい材料」
「はい」
「関係ある可能性減った?」
「条件付きかもしれません」
「また増えた」
「そうですね」
「でも、前よりは何を比べるか分かってきた」
「それも前進です」
若い観測員が嬉しそうにする。
「かなり?」
「普通に」
「普通か」
記録係が笑った。
◇
昼食時。
学院長から六度目の反応を聞いた子供は、少し意外そうな顔をした。
「新しいの、動かなかった?」
「ああ」
「前は動いた」
「ああ」
「今回は動かない」
「そうだ」
「じゃあ違うもの?」
「そうかもしれないし、条件が違うだけかもしれない」
「同じものでも、毎回同じ動きじゃない?」
「ある」
子供は顔のない存在を見る。
「この人みたい」
「どういうところ?」
「昨日は横。前は窓。今日はまだ寝台」
「うん」
「同じ人だけど、毎日同じじゃない」
「そうだね」
「だから、違う動きしたから別物って決めない」
「うん」
「でも、同じみたいな動きしたから同じものも違う」
「そうだね」
子供は少し頭を抱えた。
「難しい」
「うん」
「似てても同じじゃない。違ってても別じゃないかもしれない」
「うん」
「どうすればいい?」
アリシアが笑いそうになり、でも真面目に答えた。
「今分かる違いを記録するしかないこともあるんじゃない?」
「名前分ける?」
「必要なら」
「小空洞と新しいの?」
「そうだね」
「学院長、名前ある?」
「記録上は“小空洞周期反応”と“東奥側微弱反応”だ」
子供が真顔になる。
「長い」
扉の外で学院長が小さく笑った。
「記録だからな」
「サーラも言いそう」
「実際サーラが決めた」
「やっぱり」
子供が少し笑う。
「私はもっと短いのがいい」
「付ける?」
アリシアが尋ねると、子供は少し考えた。
「……付けない」
「どうして?」
「私が呼びやすいだけの名前にしたら、それが本当の名前みたいになるかも」
「さっき、この人の話で考えたから?」
「うん」
「じゃあどう呼ぶ?」
「小空洞の反応。奥の新しいの」
「分かりやすいね」
「それでいい」
◇
午後、顔のない存在が寝台を出た。
子供は食後に白い花の絵を見ていたが、人影が動いたことに気づき、紙から視線を上げる。
一歩。
二歩。
三歩。
今日は子供も、歩数を口にしない。
四歩。
五歩。
昨日横へ進んだ地点より少し手前。
そこで人影は止まる。
しばらく動かない。
子供の目が少しだけ窓へ向く。
期待。
でも言わない。
人影が動く。
六歩目。
七歩目。
そして、今度はまた横へ向いた。
「また横」
子供が小さく呟く。
昨日と同じ方向ではない。
反対側。
棚のある側へ近づく。
一歩。
さらに一歩。
今度は白い花の棚へ少し近い。
子供の身体が緊張する。
「花?」
アリシアも息を潜めた。
人影は棚から二歩ほど離れたところで止まった。
白い花。
二つの小皿。
絵。
木箱。
近くには幾つものものがある。
どれを見ているかは、顔がないため分からない。
子供は少しだけ前へ出る。
すぐ止まる。
「何見てる?」
返事はない。
「花?」
人影は動かない。
「絵?」
動かない。
「箱?」
動かない。
子供は自分で口を閉じた。
「分からない」
「うん」
「近いものいっぱいある」
「うん」
「棚の方来たからって、白い花見てるじゃない」
「そうだね」
「箱かもしれない」
「うん」
「何も見てないかも」
「あるかもね」
人影はその場へ静かに座った。
胸の十一の光。
今は四つが少し明るい。
「四つ」
子供が見る。
「朝は三つ」
「うん」
「棚来たから増えた?」
少し考える。
「分からない」
「うん」
「増えたんじゃなくて、明るい数が四つ」
「うん」
「場所も違うかも」
「そう見えるね」
子供は人影と棚を交互に見た。
「似てるのいっぱいあると、どれ見てるか分からない」
「うん」
「近いからって、それ見てるとは限らない」
「うん」
「東の光と小空洞みたい」
「少し似てるね」
「でも同じじゃない」
「うん」
子供が笑う。
「これ、最近いっぱい言う」
「“同じじゃない”?」
「うん」
『便利だからって使いすぎると、また何でもそれで終わらせるわよ』
ノアの忠告を伝えると、子供は少し考えた。
「じゃあ、違うところも見る」
「うん」
「この人は人。東の光は光」
「うん」
「棚はここ。小空洞は地下」
「うん」
「白い花は私のもの?」
そこで少し止まる。
「私が見てるもの」
「うん」
「箱も」
「うん」
「違うところいっぱい」
「そうだね」
子供は少し満足した。
◇
西側では、午後になって右壁側小空間について、新しい推測材料が見つかっていた。
古図面の「圧逃室」と読める文字の周囲に、小さな記号が二つある。
一つは水流を示す古い記号。
もう一つは、圧力調整系統で使われた可能性のある符号だった。
「これ、かなり近いですね」
若い観測員が言う。
「何が?」
「右壁側小空間と古図面の圧逃室候補」
「位置は近い」
「配管方向も近い」
「はい」
「水反応もある」
「はい」
「じゃあ、同じ?」
魔導具教師がすぐには答えない。
若い観測員も待つ。
「同一設備である可能性は、昨日よりかなり高くなりました」
「お」
「ただし、現地側に名称表示がない。構造も完全には確認していない」
「だから正式には右壁側小空間」
「そうです」
「でも仮説では圧逃室候補」
「はい」
若い観測員は少し嬉しそうに図面へ印を付ける。
「同じかもしれないって、だんだん言いやすくなることもあるんですね」
「材料が増えれば」
「最初から同じって決めるのが駄目なだけ」
「そうです」
「じゃあ、ずっと分けたままじゃない」
「必要なら統合します」
副学院長が横から口を挟む。
「逆もあるぞ」
「逆?」
「一つだと思っていたものが、調べたら二つだったと分かれることもある」
「ああ……」
「名前は固定するためだけにあるんじゃない。整理するために使う」
「変えていい」
「当然だ」
若い観測員は少し考えた。
「人間の名前も?」
「何の話だ」
「いや、子供が顔のない存在に勝手に名前つけないって話を聞いたので」
「本人の名前と設備の仮称を一緒にするな」
「似てると思っただけです」
「似てるところはある。だが同じではない」
「最近みんなそれ言う」
「必要だからな」
副学院長は少し笑った。
◇
夕方。
生活観測区画の木箱は、まだ斜めを向いたままだった。
子供は今日一度も蓋を開けていない。
黒い跡にも触れていない。
それでも何度か見ている。
夕食前、ようやく箱の前へ座った。
「今日、開けなかった」
「うん」
「昨日は開けた」
「うん」
「今日、裏見た」
「うん」
「黒い跡も見た」
「うん」
「今、開ける?」
自分で聞く。
少し考える。
蓋へ手を置く。
力を入れる。
木がほんの少し動く。
昨日と同じくらいの隙間。
子供の呼吸が浅くなる。
「見えない」
「うん」
「昨日も見えなかった」
「うん」
「もっと開けたい」
声が少し震える。
「うん」
「怖い」
「うん」
数呼吸。
子供はそのまま持っている。
「昨日と似てる」
「うん」
「でも今日」
「うん」
「同じ怖い?」
アリシアは答えない。
子供自身が考える。
「……昨日は、開いたことが怖かった。今日は、もっと開けたら見えるかもしれないのが怖い」
「そっか」
「違う」
「うん」
蓋がほんの少しだけ上がる。
昨日より。
指二本分ほど。
中へ光が少し入る。
子供の目が大きくなる。
「何かある」
アリシアも見た。
暗い箱の中。
布らしきもの。
灰色か、薄茶色か。
折り重なっている。
その下に何か固い輪郭も見えるが、まだ分からない。
「見える?」
子供が息を潜めて聞く。
「布みたいなものは見える」
「ほかは?」
「まだよく分からない」
「魔力?」
アリシアが弱く感知する。
「危険な反応はないよ」
「布」
「そう見えるね」
「中身?」
「中にあるものの一つかもしれない」
「答え?」
「“何か布みたいなものがある”ってことは分かったね」
子供は蓋を持ったまま、少し困ったように笑った。
「また全部じゃない」
「うん」
「布だから、服?」
「分からない」
「包んでる?」
「それも分からない」
「古い?」
「見た目だけでは」
「また」
「まただね」
子供の腕が少し震え始める。
「閉じる?」
アリシアは聞かない。
子供が自分で言う。
「……今日はここまで」
蓋をゆっくり下ろす。
木箱が閉じる。
留め具はかけない。
子供は手を離し、すぐには箱から離れなかった。
「見えた」
「うん」
「布みたいなの」
「うん」
「昨日より分かった」
「うん」
「でも、布って決めていい?」
「“布みたいに見えた”なら」
「じゃあ、布みたいなの」
「うん」
「服じゃない」
「まだ分からないね」
「包みでもない」
「うん」
子供は箱を見る。
「名前つけない」
「うん」
「中の布みたいなの」
「うん」
「長い」
「記録みたいだね」
子供が笑う。
「サーラみたい」
「確かに」
◇
夕食では、学院長から西側の追加報告が届いた。
「右壁側小空間が、昔の図面にある“圧逃室”かもしれない?」
「可能性はかなり上がった」
「名前変える?」
「まだ変えない」
「どうして?」
「現地側で直接確認できていないからだ」
「でも、同じかもしれない」
「ああ」
「前より?」
「かなり」
子供は少し考える。
「同じって言っていい日も来る?」
「証拠が足りればな」
「じゃあ、ずっと“同じじゃない”って言うじゃない」
「そうだ」
「分かったらまとめる」
「うん」
「でも、分けた方がいいなら分ける」
「うん」
「名前も変える」
「必要なら」
子供は少し嬉しそうに頷いた。
「名前、決めたらずっとじゃない」
「ものによるけどな」
「私の名前は?」
学院長が一瞬黙った。
「子供自身が変えたいなら、話は別だろう」
「今ある?」
「本当の名前を思い出しているかどうかは、俺には分からない」
子供は少し黙った。
アリシアも、急いで口を挟まない。
「……今は、言いたくない」
子供が静かに言った。
「うん」
「あるかもしれない。でも言いたくない」
「分かった」
学院長の返事は短かった。
「じゃあ今は、子供?」
「記録上はそうしている」
「私が嫌って言ったら?」
「変える方法を考える」
「すぐ?」
「相談して決める」
子供は少し安心した。
「じゃあ、今は子供でいい」
「分かった」
その言葉を最後に、話題は食事へ戻った。
◇
夜。
寝台へ入った子供は、今日は木箱を何度も見なかった。
一度だけ。
閉じていることを確認する。
それで終わり。
「アリシア」
「うん」
「今日、中ちょっと見えた」
「うん」
「布みたいなの」
「うん」
「嬉しかった」
「そっか」
「怖かったもある」
「うん」
「もっと見たかった」
「うん」
「でも閉じた」
「うん」
「布って決めなかった」
「うん」
「服って言わなかった」
「うん」
「名前つけなかった」
「うん」
子供は少し笑う。
「私、すごい慎重」
『自分で言うのね』
ノアの声を伝えると、子供が少し恥ずかしそうに笑った。
「でも本当」
「本当だね」
「アリシアも?」
「かなり慎重になってると思う」
『前よりは』
「ノア」
『褒めてるわよ』
「何割?」
『聞いたから七割』
「また七」
子供が笑う。
少しして、子供は隣の寝台を見る。
顔のない存在は、夜になる前に自力で戻っていた。
胸の十一の光。
今は三つが淡く明るい。
「この人、今日は棚の方行った」
「うん」
「何見てたか分からない」
「うん」
「でも、私、白い花かなって思った」
「うん」
「箱かもっても思った」
「うん」
「どっちも近かったから」
「うん」
「近いもの、答えに見えやすいって前言った」
「そうだね」
「似てるものも、同じに見えやすい」
「うん」
「名前つけると、もっとそう見える?」
「あると思う」
「じゃあ名前、怖い」
「便利でもあるよ」
「うん」
「“白い花”って名前があるから、前の白い姿も覚えていられる」
「うん」
「“東奥側微弱反応”って名前があるから、小空洞の反応と記録を分けられる」
「長いけど」
「長いね」
子供が笑う。
「名前、分けるためにも使う」
「うん」
「まとめるためにも?」
「そうだね」
「覚えるためにも?」
「うん」
「本人の名前は?」
「その人自身のものでもあるね」
子供は少し考えた。
「じゃあ、勝手に使うと違う?」
「呼び方を仮につけることはある。でも、その仮の呼び方を本人の全部だと思わない方がいいと思う」
「顔のない存在」
「うん」
「顔ないから、それだけで呼んでる」
「うん」
「でも、この人は顔がないだけじゃない」
「うん」
「歩く。座る。木片触った。棚の方行った。光ある」
「うん」
「いっぱいある」
「そうだね」
子供は人影を見る。
「じゃあ、“顔のない人”って呼んでも、顔ないだけの人じゃない」
「うん」
「名前一個で全部じゃない」
「そうだね」
子供は少し安心したようだった。
「白い花も、白いだけじゃなかった」
「うん」
「木箱も、箱だけじゃない。黒い跡ある。中に布みたいなのもある」
「うん」
「東の光も、光ってるだけじゃない」
「うん」
「小空洞も、反応するだけじゃないかもしれない」
「うん」
子供は目を閉じる。
「いっぱいあるものを、一個の名前で呼んでる」
「そうだね」
「でも、一個の名前で全部分かったことにしない」
「うん」
「今日は、それ」
「今日の分?」
「うん」
子供が布団を少し引き上げる。
「おやすみ」
「おやすみ」
◇
その夜半。
東側の三つの観測対象は、しばらく静かなままだった。
小空洞周期反応。
東奥側微弱反応。
名前のない光。
三つとも別の盤面。
三つとも別の記録。
それでも、必要なときには時間軸を重ねて比較する。
分けることと、切り離すことは同じではない。
まとめることと、一つだと決めることも同じではない。
西側では、右壁側小空間と古図面の「圧逃室」候補が、かなり近い位置と構造を持つことが分かってきた。
まだ名称は統合されていない。
けれど、同じ設備である可能性は以前より高くなっている。
生活観測区画では、木箱の中に初めて「布のように見える何か」が確認された。
それが布なのか。
服なのか。
包みなのか。
別の素材なのか。
まだ分からない。
だから、まだ一つの名前にしない。
そして名前のないものがあるからといって、すぐ困るわけでもなかった。
仮の呼び方。
記録上の名称。
本人の名前。
昔から使われていた設備名。
子供が自分で付けた「白い花」という名前。
同じ「名前」という言葉の近くにあっても、それぞれ役割は少しずつ違う。
似ている。
だから並べて比べる。
似ている。
だから同じ可能性を考える。
けれど。
似ているからといって、今すぐ同じ名前で呼ばなくてもいい。
違う名前だからといって、絶対に別のものとも限らない。
分かったときに変える。
必要ならまとめる。
違っていたらまた分ける。
そのために、今見えている違いを消さずに残しておく。
深夜を少し回った頃。
東奥側微弱反応の値が、ごく小さく一度だけ上がった。
小空洞側は静かなまま。
名前のない光も動かない。
夜勤観測員は一瞬だけ三つの盤を見比べ、それから静かに記録板へ書き込んだ。
「東奥側微弱反応、単独微増。ほか二対象に明確変化なし」
それだけだった。
同じ名前にはしない。
同じ話にも、まだしない。
ただ、似ているところと違うところを両方残しながら。
新しい夜の一行が、昨日までの記録の続きへ加えられた。




