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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第146話 分からないものが増えたからといって、急いで一つにまとめなくてもいい


 朝の生活観測区画には、昨夜から持ち越されたものが幾つも残っていた。


 棚の上には、ほとんど花弁を失った白い花の茎と、小皿へ集められた乾いた花弁、その隣には子供自身が描いた白い花の絵がある。棚の下では、留め具の外れた木箱が閉じたまま置かれており、昨日ほんの少しだけ蓋を持ち上げた痕跡は、外から見ただけでは何も分からない。


 隣の寝台には、顔のない存在が横たわっていた。


 昨日は十歩。


 窓辺へかなり近いところまで、自分の足で進んだ。


 けれど今朝はまだ動いていない。


 胸にある十一の光も、朝日の中では淡く、どれが昨日の夜に明るくなった二つなのか、アリシアにはすぐ判別できなかった。


 窓の外では、乾いた庭へ鳥が二羽降りている。


 一羽は石畳を歩き、もう一羽は植え込みの根元を何度もつついていた。昨日の朝に見えた一羽と同じなのかは分からない。姿は似ているが、似ていることだけで同じ個体だとは決められない。


『朝から全部見てる顔ね』


 床の布の上で丸くなっていたノアが、欠伸混じりに言った。


「全部って?」


『花。箱。十一の光。鳥。ついでに机の報告書』


「報告書はまだ見てないよ」


『見たい顔はしてる』


「顔で決めるのやめてって何回言えばいいの」


『顔に書くのをやめればいいのよ』


「書いてない」


『自然発生ね』


 アリシアは少しだけ頬を膨らませたものの、机へ向かう。


 東側と西側の夜間報告は、今日も分けて置かれていた。


 まず東側。


 昨夜、小空洞で五度目の周期反応が発生した。


 開始から五呼吸ほど遅れて、さらに奥側にある新しい微弱反応が一時的に強まった。


 小空洞の反応が終わったあとも、新反応だけは少し高い状態を保ち、およそ十呼吸ほど遅れて元の水準へ戻った。


 名前のない光は、その間も大きな変化なし。


 位置変化なし。


 接続値変化なし。


 輪郭光量も、今回は明確な変化が確認されていない。


 昨夜の時点では、三つの観測対象のうち二つが時間差を伴って変化し、一つだけ目立った変化を見せなかった。


 それだけだ。


 そこから先はまだ書かれていない。


 関連性あり。


 連動。


 同系統。


 そうした言葉は、報告書のどこにもなかった。


「ちゃんとしてる」


『誰が?』


「記録」


『当然でしょう』


「でも、私だったら“同時っぽい”って書きたくなるかも」


『だからあなたは記録係じゃないのよ』


「ひどくない?」


『適材適所』


 アリシアは少し笑い、西側の報告へ移る。


 第二排水支路点検口候補。


 昨日は部分開扉を行い、その内側へ人が入らない範囲で観測を実施した。


 内部は小さな点検空間。


 古い配管。


 泥。


 奥壁に丸い金属蓋状の設備。


 周囲に残る文字の一部は「排水圧」と読める。


 生命反応なし。


 急激な魔力反応なし。


 設備自体へ手は触れていない。


 再び点検口は閉じ、仮留めされた。


 今朝の予定は、内部の丸型設備へ直接触れず、その周囲の配管と圧力経路だけを外側から追加確認すること。


「開けたのに、また閉じたんだ」


『必要な分だけ見たからでしょう』


「うん」


『不満?』


「ないよ」


『顔がちょっと残念そう』


「ノア」


『はいはい』


 報告書を閉じたところで、寝台から布が擦れる音がした。


 子供が目を覚ました。


 今日は起きてすぐ窓を見なかった。


 しばらく天井を眺め、それから自分の手を見た。


 右手。


 昨日、木箱の蓋を持ち上げた手。


 指を一度開き、閉じる。


 痛みも異常もないらしい。


 それからようやく窓へ顔を向けた。


「二羽」


「うん」


「昨日は一羽見えた」


「そうだね」


「増えた?」


 言ってから、すぐ自分で少し眉を寄せる。


「見える数が二になった」


「うん」


「昨日の一羽が今日もいるかは分からない」


「そうだね」


「でも今日は二羽見える」


「うん」


 子供は満足したように頷いた。


 次に隣の寝台へ目を向ける。


「いる」


 顔のない存在は今朝もそこにいた。


「おはよう」


 十一の光へ向けて声をかける。


 すぐには変わらない。


 子供は待つ。


 一つ。


 少し遅れて、二つ。


 さらに、離れた位置にある三つ目が淡く明るくなった。


「三つ」


 子供はしばらく胸の光を見る。


「昨日夜は二つだった」


「うん」


「朝は?」


「昨日の朝は三つだったよ」


「同じ数」


「そうだね」


「同じ三つ?」


「私には断言できない」


 子供は少し考える。


「じゃあ、今日の三つ」


「うん」


 それで確認を終える。


 布団から出て、足裏と足首の状態を自分で確かめる。今日も赤みも痛みもなく、立って数歩歩いても違和感はなかった。


「セレナ?」


 アリシアが聞く。


「あとで見るだけ」


「分かった」


 そのあと、子供は木箱へ向かった。


 アリシアは少し意外に思った。


 昨日ほんの少しだけ開けたばかりだから、今朝は遠ざけるかもしれないと思っていた。


 子供は箱の前へしゃがみ込む。


 留め具は外れたまま。


 蓋は閉じている。


「昨日、開けた」


「うん」


「少しだけ」


「うん」


「中、見えなかった」


「うん」


「夜、勝手に開かなかった」


「うん」


「今日……」


 右手が少し浮く。


 けれど、蓋へ触れない。


「開けたい?」


 アリシアは聞かずに待った。


 子供の方から言葉が出る。


「ちょっと見たい」


「うん」


「ちょっと怖い」


「うん」


「昨日より?」


 そこで自分で止まる。


「比べなくていい?」


「比べたいなら比べてもいいよ」


「でも昨日の怖いと今日の怖い、同じか分からない」


「うん」


 子供は箱を見る。


「じゃあ今は、少し怖い。少し見たい」


「うん」


「でも朝ごはん前に開けたいほどじゃない」


「そっか」


 立ち上がる。


「朝は見ただけ」


「うん」


「昨日開けたから、今日も開けるじゃない」


「うん」


 その言葉を確認するように、子供は一度だけ箱を振り返った。


 そして、今度は白い花の棚へ向かう。


 茎はさらに乾いていた。


 先端近くから、昨日分けて置いた小さな茶色い欠片がある。


 花弁とは別の小皿。


 子供は二つの皿を見比べた。


「花弁と、こっち」


「うん」


「同じ白い花の一部」


「うん」


「でも同じじゃない」


「うん」


「昨日分けた」


「そうだね」


 子供は小皿を少しだけ位置調整し、二つを近づけすぎないように並べた。


「一緒に置く?」


 自分で言い、少し考える。


「……今は分ける」


「どうして?」


「見たとき、どっちだったか分かるから」


「そっか」


「あとで一緒にしたくなるかも」


「うん」


「なら、そのとき変えていい」


「うん」


 白い花の絵も見る。


 紙は昨日と大きく変わらない。


 けれど、角がほんの少し反っていた。


「あ」


「どうしたの?」


「ここ」


 子供が紙の角を指さす。


「少し曲がった」


「湿気かな」


「絵も変わった」


「うん」


「本物よりゆっくり」


「そうかもしれないね」


「残したものも、変わる」


「うん」


 子供は紙を撫でず、見るだけにした。


「でもまだ読める」


「うん」


「白い花」


 不揃いな文字を確認し、少し笑う。


     ◇


 朝食の時間になった頃、学院長が扉の外から声をかけた。


「東側と西側、今朝の報告を聞くか?」


 子供は麦粥の器へ匙を入れたところだった。


「聞く」


「どっちから?」


 少し考える。


「東」


「分かった」


 学院長は昨夜の五度目反応について、できるだけ短く説明した。


 小空洞。


 五度目の反応。


 その約五呼吸後、さらに奥の新しい反応が少し強くなった。


 小空洞が元へ戻ってから、新反応も少し遅れて戻った。


 名前のない光は、そのあいだ大きな変化なし。


 子供は匙を持ったまま、しばらく考えていた。


「二つ動いた」


「そう見える」


「一つ動かなかった」


「ああ」


「じゃあ、小空洞と新しいの、関係ある?」


「可能性を考える材料は増えた」


「でもまだ?」


「まだだ」


「光は関係ない?」


「それもまだ言えない」


 子供は眉を寄せる。


「一個動かなかったのに?」


「動かなかったことも情報だ。ただ、それだけで無関係とは決められない」


「どうして?」


「反応の仕方が違うかもしれない。時間差がもっと長いかもしれない。そもそも関係がないかもしれない。今は候補が残っている」


「また増えた」


「そうだな」


「新しいの増えたら、考えるのいっぱいになった」


「うん」


 子供は麦粥を一口食べる。


「人間、三つ全部見る?」


「見る。ただし、同じようにずっと人が見張るわけじゃない」


「どうする?」


「変化の多いものは人が確認する回数を増やす。動いていないものは自動記録を使って、必要なときに詳しく見る」


「置いとく?」


「記録を続けながらな」


「忘れない?」


「忘れないように記録する」


 子供は少し納得した。


「全部手で持たない」


「うん?」


「昨日言った。全部持ったまま走らなくていい」


「そうだな」


「人間も?」


「同じだ。全部の紙を抱えて走ったら転ぶ」


 子供が一瞬きょとんとする。


 アリシアが吹き出した。


『急に物理の話になったわね』


「ノア、笑ってる?」


「笑ってる」


「学院長も転ぶ?」


「紙が多すぎればな」


「見たい」


「見たくない」


 扉の向こうから即答が返り、子供が笑った。


 その笑いが収まってから、西側の報告へ移る。


「昨日の点検口は、一度少し開けた。内側に小さな空間と、古い配管、それから“排水圧”と読める文字の近くに丸い金属設備が見つかった」


「排水圧」


「水を流す圧力に関係する設備かもしれない。ただし、まだ正確な用途は分からない」


「触った?」


「触っていない」


「開けたのに?」


「ああ」


「閉じた?」


「調査後に閉じて仮留めした」


「なんで?」


「今の目的は、中に何があるか大まかに確認することだったからだ」


「丸いの調べない?」


「今日は周囲の配管とつながりを外から調べる予定だ」


「押したり回したりは?」


「しない」


「気になる?」


「かなり」


 また迷わない返事。


 子供が笑う。


「でもしない」


「今日はな」


「新しいの見つかっても、すぐ使わない」


「そうだ」


「分からないから?」


「それもある。もし排水圧を変える設備なら、動かした先に水がどこへ行くか分からないと危ない」


 子供の表情が少し真面目になる。


「水没区画?」


「そこへ影響する可能性もある」


「じゃあ、先にどこにつながってるか」


「そういうことだ」


 子供は頷き、朝食へ戻った。


     ◇


 西側地下区画では、朝から第二排水支路点検口候補の再調査が始まっていた。


 昨日いったん開けた縦長の石材は、現在は閉じられ、外側から仮固定されている。完全な封鎖ではないが、自然に動く状態でもない。


 副学院長は、開ける前に周囲の図面を広げていた。


「今日は内部へ入らない」


「はい」


「丸型設備へ触れない」


「はい」


「点検口は?」


「必要なら数寸だけ開ける。ただし、配管経路確認に必要な範囲だけ」


 若い観測員が答える。


「よし」


「今日はかなり優等生です」


「自分で言うな」


「誰も言ってくれないから」


 魔導具教師が笑いながら測定具を準備する。


 昨日内部で確認したものを、紙へ簡単に描き起こした図が机に置かれていた。


 狭い点検空間。


 左右へ走る古い配管。


 奥壁の丸型設備。


 その下側から、さらに細い管が床方向へ伸びている。


「これ、昨日の映像だと床へ入ってましたよね」


 若い観測員が図を指す。


「はい。ただし、その先までは見ていません」


「土感知で追えます?」


 土属性術師が少し考える。


「設備へ触れず、床側からなら短距離だけ」


「やる価値は?」


 副学院長が尋ねる。


「あります。排水圧設備がどこへつながるかの方向だけでも分かれば、操作しない理由や、今後調べる優先順位が整理できます」


「なら先に床側」


 点検口はまだ開けない。


 土属性術師が少し離れた床へ手をつく。


 短い感知。


 一度。


 止める。


 もう一度。


「細い金属管らしき反応が、点検口の下から旧排水坑側へ伸びています」


「水没区画方向?」


「直接ではありません。少し南側へずれています」


「図面上は?」


 魔導具教師が古い配管図を広げる。


「この辺りに、圧力逃がし用の小規模な支管があった可能性があります。ただ、図面が欠けています」


「“可能性”だな」


「はい」


 若い観測員が図を覗き込む。


「圧力を逃がすなら、排水するときに必要?」


「そうかもしれません」


「じゃあこれ動かせば水没区画の水が――」


 途中で止まる。


 皆が彼を見る。


「……動くかもしれない、まで」


 副学院長が小さく頷いた。


「続けろ」


「でも、その先がどこにつながってるか分からないから、今触る理由はない」


「そうだ」


「よし」


「何がよしだ」


「自分で止まれました」


「普通になりつつある」


「それ褒めてます?」


「少しな」


 若い観測員の顔が明るくなり、年長の観測員が呆れたように笑った。


「褒められ慣れてない犬みたいだな」


「誰が犬ですか」


「尻尾見えそうだぞ」


「見えませんよ」


 地下に小さな笑いが広がる。


 そのあと、点検口が昨日と同じく数寸だけ開けられた。


 内部へ細い観測棒を入れ、丸型設備には触れず、その周辺だけを見る。


「文字、昨日より読める?」


 魔導具教師が拡大板を調整する。


「“排水圧”の下に……一文字欠けてます。“逃”……いや、“調”かもしれない」


「決めるな」


「はい。欠損大」


「配管の本数は?」


「丸型設備へ入る太管一本。出る側に細管二本」


「昨日は一本に見えた」


「角度の問題でしょう。もう一本は奥へ回っています」


「方向?」


「片方は床下。もう片方は……点検空間の右壁へ」


 副学院長の表情が少し変わる。


「右壁の向こうは?」


「古い図面だと、第二排水支路の本管に近いです」


「なら、圧力調整系統である可能性は上がる?」


「上がります。ただ、まだ設備名が読めない」


「十分だ。今日はそれ以上開くな」


 若い観測員が丸型設備を名残惜しそうに見ている。


「触りたそうだな」


「かなり」


「触るな」


「分かってます」


「近いぞ」


「何が?」


「手が」


 若い観測員が慌てて両手を背中へ回した。


 年長の観測員が吹き出す。


「そこまでしなくてもいいだろ」


「疑われたので」


「疑ってる」


「ひどい」


 結局、誰も設備へ触れなかった。


 点検口は再び閉じられた。


     ◇


 東側中継観測室では、午前中から三つの反応を同時に追っていた。


 名前のない光。


 小空洞。


 さらに奥の新反応。


 サーラは昨夜の五度目反応を、時間軸へ書き直していた。


 小空洞開始。


 五呼吸後、新反応上昇。


 小空洞終了。


 十呼吸後、新反応低下。


 光、明確な変化なし。


「こうすると、かなり並んで見えますね」


 若い観測員が言う。


「時間の近さは分かりやすくなります」


「やっぱり関係ありそう」


「そう思う材料にはなります」


「でも?」


「まだ一回です」


「小空洞と新反応がこの形で動いたのは、一回」


「はい」


「光は今回は動かなかった」


「はい」


「前回は小空洞のあと光量が少し増えた」


「そうです」


「じゃあ毎回違う」


「今のところは」


 若い観測員が頭を掻く。


「余計分からない」


「その“違う”が大事かもしれません」


「同じじゃないことが?」


「はい。もし全部同じ仕組みなら、毎回似た順序が出る可能性があります。でも違う。だから条件がほかにもあるかもしれない」


「光の位置?」


「候補の一つです」


「時間帯?」


「候補です」


「人間側の作業?」


「候補ですが、昨夜は特別な作業なし」


「小空洞の中身?」


「分かりません」


「新反応の中身?」


「分かりません」


 若い観測員が机へ額をつけた。


「分からないが多い」


「増えましたね」


「サーラさん楽しそうですね」


「調査ですから」


「俺、頭痛くなってきた」


「休憩してください」


「それはそれで悔しい」


「休むのも仕事です」


「子供に聞かれたら怒られそう」


「誰にですか」


「“疲れたのに続けるの、役割?”って」


 サーラが少し黙った。


「それは、かなり効きますね」


「ですよね」


「十五分休んでください」


「はい」


 若い観測員は素直に椅子を離れた。


 残った記録係が少し笑う。


「最近、子供の言葉が職場の規則みたいになってません?」


「規則にはしないでください」


「ですよね」


「役立つ言葉だからといって、全員が同じ使い方をしなければならないわけではありません」


「はい」


「……でも休憩は取ってください」


「そこは命令?」


「勤務管理です」


 今度は記録係が笑った。


     ◇


 昼食前、生活観測区画では顔のない存在が上体を起こした。


 子供はちょうど白い花の絵を眺めていた。


「あ」


 人影が足を床へ下ろす。


 子供は絵を机へ置いた。


 立ち上がる。


 以前なら、歩数を追うためにすぐ視線を足元へ向けていた。


 今日は少し違った。


 まず人影の身体全体を見る。


 立てている。


 ふらつきは大きくない。


 胸の光は三つのまま。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 子供は口に出さない。


 四歩。


 五歩。


 六歩。


 昨日は十まで進んだ。


 けれど、今日は七歩目で止まった。


 人影はしばらく立っている。


 子供の目に、ほんの少しだけ残念そうな色が浮かんだ。


 それでも声を出さない。


 顔のない存在は、八歩目へ進まなかった。


 代わりに身体を少し横へ向けた。


「……そっち?」


 子供が小さく呟く。


 窓ではない。


 木片でもない。


 棚の方でもない。


 部屋の中央寄り。


 昨日まで、人影があまり向かなかった方向。


 七歩目の位置から、横へ一歩。


 さらに一歩。


 歩数をどう数えるか分からなくなり、子供は声を止めたまま見ている。


「窓じゃない」


「うん」


 人影は部屋中央に置かれた小さな椅子の近くで止まった。


 椅子は誰も使っていない。


 特別な意味もない。


 昨日、治療教師が少し位置を動かしたあと、そのまま残されていたものだった。


 顔のない存在は椅子へ手を伸ばさない。


 ただ、その近くで座った。


「今日は……」


 子供が言いかける。


 少し迷う。


「何歩?」


 アリシアに聞く。


「寝台から前へ七歩。そのあと横へ二歩くらいかな」


「九?」


「合計なら九に見える」


「でも昨日の十と同じ道じゃない」


「うん」


 子供は人影を見る。


「じゃあ今日は、七歩進んで横に二歩」


「うん」


「九って言うと、昨日の十より一少ないみたいになる」


「そうだね」


「違う」


「うん」


「今日は、違う方へ行った」


「そうだね」


 少し残念そうだった表情が、別の興味へ変わっていく。


「なんで?」


 言ってから、子供自身が少し笑う。


「分からない」


「うん」


「椅子が気になった?」


「分からない」


「窓に行きたくなかった?」


「分からない」


「疲れた?」


「分からない」


「いっぱい」


「いっぱいだね」


 子供は少し近づきかけ、途中で止まる。


「でも、横に行ったのは本当」


「うん」


「新しいことした」


「そうだね」


「昨日十歩行ったから、今日は十一じゃなかった」


「うん」


「むしろ横」


「うん」


 子供は笑った。


「前だけじゃない」


 その言葉に、アリシアは少し目を細めた。


 顔のない存在が進む先を、いつの間にか窓だけにしていたのは人間側だったのかもしれない。


 窓へ近づいた。


 だから次は窓へ。


 そう考えやすい。


 けれど、本人がそう決めたとはどこにも書かれていない。


『ほら』


 ノアが小さく言う。


「何?」


『また勝手に道を一本にしてたでしょう』


「……ちょっと」


『ちょっとね』


「分かってる」


『ならよし』


 子供が聞く。


「ノア何て?」


「人間が勝手に、この人は窓へ行くって決めそうになってたって」


「アリシアも?」


「少し」


 子供は少し笑った。


「私も」


「そっか」


「窓行ってほしいって思ってたから」


「うん」


「だから、次も窓だって思った」


「うん」


「でも横行った」


「うん」


「外れた」


「外れたね」


「ちょっと面白い」


 子供は人影の近くにある椅子を見る。


「椅子、何もない」


「うん」


「だから余計分からない」


「そうだね」


 顔のない存在の胸で、三つのうち一つが弱くなり、代わりに別の位置の一つが淡く明るくなった。


「今、変わった」


 子供がすぐ気づく。


「数は三?」


「うん。でも場所違う気がする」


「私もそう見える」


「横行ったから?」


 子供はすぐ首を横へ振った。


「分からない」


「うん」


「でも、横行ったあとに変わった」


「うん」


「それは記録できる」


「そうだね」


     ◇


 午後。


 東側の名前のない光にも、小さな変化が出た。


「移動」


 中継観測室へ戻っていた若い観測員が、休憩明け早々に声を上げた。


「方向は?」


 サーラが測定盤へ寄る。


「奥ではありません。少し横です」


「新反応側?」


「……直線距離では、ほとんど変わりません」


「小空洞側は?」


「少し離れます」


 光点がゆっくり横方向へ移る。


 通路の構造上、壁際へ寄っているのかもしれない。


 まだ直接目視できないため、細かな姿勢や輪郭までは分からない。


「新反応?」


「変化なし」


「小空洞?」


「なし」


「接続値?」


「低いまま」


 若い観測員が少し笑った。


「こっちも横」


「何が?」


「いや、生活観測区画の顔のない存在が今日は横へ行ったって、さっき学院長が言ってたので」


 サーラが彼を見る。


「似ている、と言いたい?」


「言いません」


「早いですね」


「ただ、同じ日に違う場所で横に動いた。そこまで」


「それなら事実ですね」


「でも、頭の中ではちょっと面白いです」


「それは自由です」


 光は少し横へ移動したところで止まった。


「距離、変化小」


「はい」


「新反応も小空洞も動かない」


「はい」


「何のために横へ?」


 若い観測員は言い、すぐ自分で答える。


「分からない」


「よくできました」


「今日は普通に褒めました?」


「かなり」


「かなり!」


 記録係が笑う。


「そこ喜ぶところなんですね」


「最近“少し”ばっかりだったので」


「成長の実感がそこ?」


「大事ですよ」


 小さな笑いのあと、サーラは記録板へ書き込んだ。


 位置横移動。


 小空洞との距離、微増。


 新反応との距離、ほぼ変化なし。


 各反応に明確な変化なし。


 理由不明。


 それだけ。


     ◇


 西側では、午後の追加解析によって丸型設備周辺の配管について、さらに一つ分かったことがあった。


「右壁側へ出ていた細管、第二排水支路本管には直接つながっていません」


 魔導具教師が図面へ新しい線を引く。


「途中で別の細い空間へ入っています」


「何の空間?」


 副学院長が尋ねる。


「細すぎて人は入れません。圧力逃がし用の空洞か、小規模な貯留部かもしれません」


「水は?」


「少し反応があります」


「量?」


「多くない」


 若い観測員が図を見る。


「じゃあ、丸型設備を動かしたら、その小さい空間へ水か圧力が逃げる?」


「可能性の一つです」


「水没区画へ直接つながるんじゃない?」


「少なくとも今確認できる配管では、直接ではありません」


「前より分かった」


「はい」


「でも、設備が何するか全部は分からない」


「はい」


 副学院長が腕を組む。


「操作はまだしない」


「ですよね」


「不満か?」


「いえ。むしろ今日は、そう言うと思ってました」


「慣れたな」


「でも、いつか触るかもしれない」


「必要になればな」


 若い観測員は丸型設備の図を見た。


「新しいもの見つけたら、すぐ触りたくなるのに」


「それはお前が特に強い」


「副学院長だって気になるでしょ」


「かなり」


「ほら」


「気になるのと触るのは別だ」


「はいはい」


「返事が軽い」


「内容は分かってます」


 魔導具教師が笑った。


     ◇


 夕方の生活観測区画。


 子供は木箱の前へ座っていた。


 今日は朝から一度も開けていない。


 留め具は外れたまま。


 蓋は閉じている。


 顔のない存在は、部屋中央の椅子近くへ座ったまま動いていない。


 子供はその二つを交互に見る。


「箱、開ける?」


 自分で呟く。


 右手が蓋へ触れる。


 昨日はほんの少し。


 今日はどうするか。


 蓋を持ち上げる力を入れる前に、子供が顔のない存在を見る。


「この人、今日は横行った」


「うん」


「昨日十だった」


「うん」


「今日は窓じゃない」


「うん」


「昨日の続きしなかった」


「そう見えるね」


「私も?」


「何が?」


「昨日箱少し開けた。今日、続きしなくてもいい」


「もちろん」


「でも、してもいい」


「うん」


「横行っても?」


 アリシアは少し笑った。


「箱で横って?」


 子供も少し笑う。


「違うことする」


「例えば?」


 子供は考える。


 蓋から手を離す。


「今日は、箱の中じゃなくて、外見る」


「外?」


「裏」


 アリシアが少し驚いた。


「箱の裏側?」


「うん。今まで正面ばっか見てた」


「見たい?」


「うん」


「動かす?」


「少し」


 子供は箱の両脇へ手を添える。


 重さを確認する。


 以前、棚の下から引き出したときほど緊張していない。


 それでも急がない。


 ゆっくり箱を少し回す。


 木の底が床を擦り、小さな音を立てた。


 裏面が見える。


 特別な金具はない。


 木目。


 小さな傷。


 角の一部に、黒っぽい染み。


「何もない?」


「大きなものは見えないね」


 子供が顔を近づける。


「ここ、黒い」


「うん」


「焦げ?」


「分からない」


「汚れ?」


「それもあるかも」


「魔力?」


 アリシアが弱く感知する。


「強い反応はないよ」


「じゃあ、黒い跡」


「うん」


 子供は少し笑った。


「中、開けなかった。でも新しいの見つけた」


「そうだね」


「箱の後ろ」


「うん」


「これ何か分からない」


「うん」


 笑いが少し苦くなる。


「また分からない増えた」


「増えたね」


「でも、前の中身分からないも残ってる」


「うん」


「今日、そっちじゃない方見た」


「うん」


 子供は箱を元の向きへ戻さない。


 裏面が少し見える角度のまま置く。


「今日はこれ」


「この向き?」


「うん」


「夜も?」


「今はそうしたい」


「分かった」


 子供は箱から離れた。


「前に進むだけじゃない」


「うん」


「横見ることもある」


「そうだね」


「この人と同じ?」


 アリシアは一度考える。


「似て見えるところはあるね。でも同じ理由かは分からない」


「うん」


 子供は満足そうに頷いた。


     ◇


 夕食後、学院長から東側と西側の追加報告が届いた。


 東側の名前のない光は、午後に少し横方向へ移動した。


 小空洞からはわずかに離れ、新反応との距離はほぼ変わらない。


 その移動中、ほか二つに目立った反応なし。


 西側では、「排水圧」と読める丸型設備から延びる細管の一つが、第二排水支路本管へ直接入らず、別の細い空間へ続いている可能性が高まった。


 子供は話を聞いたあと、木箱の裏面にある黒い跡を見る。


「東も横」


「ああ」


「顔のない人も横」


「ああ」


「私も箱の横じゃなくて裏見た」


「そうらしいな」


 学院長の声が少し笑っている。


「全部同じ?」


「違うだろうな」


「早い」


「場所も理由も違いすぎる」


「でも、“前じゃない方見た”は似てる?」


「そう言えば似てる部分はある」


「じゃあ、似てるけど同じじゃない」


「そうだな」


 子供は少し考える。


「新しい反応見つけたときも、前の小空洞消えなかった」


「ああ」


「横行っても、昨日の十歩消えない」


「ああ」


「箱の裏見ても、中身分からない消えない」


「そうだ」


「見るもの増える」


「増えるな」


「大人、また大変」


「かなりな」


 子供が笑った。


     ◇


 夜。


 子供は寝台へ入る前、木箱を元の向きへ戻さなかった。


 少し斜め。


 裏面の黒い跡が、横から見える。


 留め具は外れたまま。


 蓋は閉じている。


 白い花の棚には二つの小皿。


 花弁。


 別の小さな欠片。


 その隣に絵。


 顔のない存在は、椅子近くから夜になって自力で寝台へ戻っていた。


「アリシア」


「うん」


「今日、この人窓行かなかった」


「うん」


「横行った」


「うん」


「私、ちょっと残念だった」


「そっか」


「窓まで行くと思ってたから」


「うん」


「でも、横行ったの面白かった」


「うん」


「両方」


「そうだね」


「東の光も横行った」


「うん」


「でも、同じ理由じゃないかもしれない」


「うん」


「西の丸いのは?」


「今日は動かしてないよ」


「前に進んでない?」


「調査として?」


「うん」


「配管のつながりが少し分かったから、知ってることは増えた」


「触ってないのに」


「うん」


「じゃあ進むって、動かすだけじゃない」


「そうだね」


 子供は布団を胸元まで引き上げた。


「私も箱開けなかった。でも裏見た」


「うん」


「中身には近づいてない?」


「どうだろう」


「黒い跡見つけた」


「うん」


「中身の答えには近づいてないかも」


「うん」


「でも箱については一個増えた」


「そうだね」


 子供は少し笑う。


「前だけ見てたら、見えなかった」


「うん」


「横とか裏もある」


「あるね」


「でも、横見れば答えあるでもない」


「うん」


「また」


「まただね」


「何でも正解にならない」


「そうだね」


 子供は少し不満そうに鼻を鳴らした。


「難しい」


「うん」


「でも、今日はちょっと面白い」


「何が?」


「思ってた道じゃない方行くの」


「そっか」


「怖いときもあるけど」


「うん」


「この人が横行ったのは、ちょっと面白かった」


「うん」


「箱の裏も」


「うん」


「東の光は?」


「子供はどう思う?」


「分からない。直接見てないし」


「うん」


「でも、報告聞くのは面白い」


「そっか」


 子供は隣の寝台を見る。


 顔のない存在の胸では、十一のうち二つが淡く明るい。


 昼に位置が入れ替わったように見えた三つから、今は二つ。


「今は二つ」


「うん」


「昼は三つだった」


「うん」


「減った?」


 少し考える。


「明るい数が一つ少ない」


「そうだね」


「でも今日横行ったことは残ってる」


「うん」


「昨日十歩も残ってる」


「うん」


「いっぱい残る」


「そうだね」


「頭いっぱいになる?」


「なることもあるね」


「そういうとき、一個ずつ見る」


「うん」


「忘れないように残す」


「うん」


「でも、全部同じ話にしない」


「うん」


 子供は目を閉じかけた。


 けれど、また開く。


「アリシア」


「うん」


「六つ目の神器も、そう?」


「どういうこと?」


「分からないこといっぱいある」


「うん」


「第三の器とか、第四の声とか、光とか、この人とか、私とか」


 アリシアの胸が少しだけ重くなる。


 子供は続ける。


「全部六つ目の神器の答え?」


「分からない」


「関係あるかも?」


「うん」


「ないのもあるかも?」


「うん」


「二つだけとか?」


「あると思う」


「じゃあ、全部一個にしない?」


 アリシアは少し時間を置いてから頷いた。


「しない」


「どうして?」


「一個にした方が分かりやすいけど、違っていたら、それぞれが本当は何だったのか見えなくなるかもしれないから」


「新しい反応が出たから、小空洞忘れるみたいに?」


「そう」


「顔のない人が窓行ったから、窓が目的って決めるみたいに?」


「うん」


「箱開けたいから、裏見ないみたいに?」


「うん」


 子供は少しだけ笑った。


「いっぱい似てる」


「うん」


「でも同じじゃない」


「うん」


「そこ大事?」


「たぶん、かなり」


 子供は満足したように目を閉じた。


「じゃあ今日は、横の日」


「横の日?」


「いっぱい横行ったから」


「それはちょっと雑じゃない?」


「でも同じじゃないって分かってる」


「ならいいのかな」


『雑な題名ね』


 ノアが呟く。


「ノア何て?」


「“雑な題名”だって」


「でも覚えやすい」


『そこは認めるわ』


 子供が小さく笑った。


「おやすみ」


「おやすみ」


 少しして、呼吸が穏やかになる。


     ◇


 同じ頃。


 東側の中継観測室では、名前のない光が午後の横移動後、その位置を保っていた。


 小空洞は静か。


 新反応も弱いまま。


 三つとも、夜へ入ってから大きな変化はない。


 若い観測員が記録を見ながら言った。


「今日は五度目みたいな反応、出ませんね」


「今のところは」


 サーラが答える。


「光は横へ動いた」


「はい」


「でも小空洞は動かない。新反応もほぼ同じ」


「はい」


「じゃあ、光の移動と二つの反応は関係ない?」


 言ってから、自分で笑う。


「言わない」


「よく分かってきましたね」


「もう先に自分で止められます」


「でも考えたこと自体は残していいですよ」


「仮説欄?」


「必要なら」


「“光の横移動時、ほか二反応に明確変化なし”」


「それは事実欄です」


「なるほど」


「その事実を、過去の移動時と比較できます」


「前に近づいたときは?」


「小空洞反応なしの時間帯もあった。その後反応したこともあった」


「今回横へ行ったときは何もなし」


「はい」


「移動方向だけじゃ足りない」


「そうですね」


「距離?」


「それも見る」


「時間帯?」


「見る」


「人間側作業?」


「見る」


 若い観測員が頭を抱えかける。


「また増える」


「全部今夜やらなくていいですよ」


「それ、子供の言葉みたいですね」


「影響されていますかね」


「たぶん」


 サーラは少し笑った。


「でも、悪くはないと思います」


「役割にしなければ?」


「そうですね」


     ◇


 西側では、丸型設備へ続く細管の行き先について、追加の記録だけが行われた。


 点検口は閉じたまま。


 内部へ誰も入らない。


 設備へも触れない。


 それでも午前より図面は一枚増えた。


 排水圧設備候補。


 太管一本。


 細管二本。


 一方は床下。


 一方は右壁の先にある細い空間。


 その先はまだ不明。


 新しい線が一本増えるたびに、古い線が消えるわけではない。


 むしろ全体は少しずつ複雑になる。


 けれど、その複雑さを無理に一本の線へまとめれば、見えていない分岐を消してしまう。


     ◇


 夜が深くなった頃。


 生活観測区画の木箱は、少し斜めを向いたまま眠る子供の近くにあった。


 昨日より開いていない。


 昨日より進んでいない、と言うこともできる。


 けれど今日、子供は箱の裏側を見た。


 黒い小さな跡を見つけた。


 中身とは違う新しい疑問が一つ増えた。


 顔のない存在は、窓へ向かわず横へ進んだ。


 昨日の十歩から十一歩へ伸びることはなかった。


 その代わり、人間側が想像していなかった方向へ動いた。


 東側の光も、奥へ進むのではなく横へ移った。


 西側では丸型設備を操作しなかった。


 けれど配管の一つが、別の細い空間へ続いている可能性が高まった。


 どれも、一直線には進んでいない。


 だからといって、止まっているわけでもない。


 前へ進む。


 横へ動く。


 戻る。


 別の場所を見る。


 何もしない。


 記録だけ残す。


 知るための動きは、一つではなかった。


 そして。


 一つではないからといって、全部を同じものとしてまとめる必要もなかった。


 白い花。


 木箱。


 顔のない存在。


 十一の光。


 東側の名前のない光。


 小空洞。


 新しい微弱反応。


 西側の古い扉。


 第二排水支路。


 排水圧設備候補。


 それぞれが、それぞれの場所にある。


 関係があるかもしれない。


 ないかもしれない。


 一部だけつながっているかもしれない。


 今はまだ分からない。


 けれど、分からないものが増えたからといって。


 急いで一つにまとめなくてもよかった。


 その夜も。


 誰も答えを一つにはしなかった。


 それぞれの記録を、それぞれのまま残しながら。


 次に何が動くのかを、静かに待っていた。

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