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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第15話 水の少女と夜の断片


 翌朝、アリシアは練習帳の一文を何度も見返していた。


『名を持たぬ夜の守り手』


 古い口承記録の注釈に、ほんの小さく残されていた言葉。


 たったそれだけ。


 六つ目の神器とも、闇の聖人とも、黒猫の神獣とも書かれていない。


 けれどアリシアにとっては、中央学園へ来て初めて見つけた、自分たちに繋がるかもしれない痕跡だった。


 机の上に広げた練習帳。


 横には昨日借りた図書館の写し書き。


 窓の外からは朝の光が入り、紙の上に淡い白を落としている。


 アリシアは指先で、その一文をそっとなぞった。


「……夜の守り手」


 声にすると、不思議な響きがあった。


 怖いような。


 懐かしいような。


 自分とはまだ遠い言葉なのに、どこか胸の奥を引かれるような。


 寝台の上で丸くなっていたノアが、片目を開けた。


「朝からそれ?」


「うん……気になって」


「気になるでしょうね」


「ノアは……その言葉、知ってた?」


 ノアはすぐには答えなかった。


 黒い尻尾が、寝台の端でゆっくり揺れる。


 アリシアはその沈黙を待った。


 最近、少しだけ分かってきた。


 ノアがすぐに答えない時は、ただ意地悪をしているわけではない。


 言葉を選んでいる。


 あるいは、まだ言えないことを抱えている。


「似た言葉なら、聞いたことはあるわ」


 やがてノアが言った。


「似た言葉?」


「千年前の戦いは、今の本に載っているほど綺麗じゃなかった」


 ノアの声は静かだった。


「表に立つ者がいれば、影で支える者もいた。勝利の歌に名を残す者がいれば、歌われないまま消えた者もいた」


「……それが、夜の守り手?」


「さあね」


 ノアは視線を逸らした。


「今は、断片を集めなさい。勝手に答えを決めるのは早いわ」


「うん……」


「それと」


「うん?」


「朝食に遅れるわよ」


「あっ」


 アリシアは慌てて立ち上がった。


 制服のリボンを確認し、木刀を腰に差し、練習帳を閉じる。


 ノアは寝台から軽く飛び降りた。


「今日は生活基礎と戦闘基礎、その後は?」


「午後は……魔法基礎の保留時間で自習。メリルさんは魔法基礎があるから、私は図書館に少し行こうかなって」


「一人で?」


 ノアの目が細くなる。


 アリシアは少し固まった。


「……一人は、まだ怖いけど」


「でも、行きたい?」


「うん」


 ノアはアリシアを見た。


 アリシアは小さく拳を握る。


「昨日はメリルさんと一緒だったから聞けたけど……今日は、自分でも少し探してみたい」


 言ってから、少し驚いた。


 自分で探したい。


 そんな言葉が自然に出てきた。


 少し前まで、知らない場所へ一人で行くなんて考えられなかったのに。


 ノアは尻尾を揺らした。


「なら、行きなさい」


「うん」


「ただし、分からなければ司書に聞くこと。棚の前で固まって時間を溶かさない」


「う……気をつける」


 その時、扉が叩かれた。


「アリシアちゃん、おはよう」


 メリルの声だった。


 アリシアは扉を開ける。


 制服姿のメリルが立っている。


 今日も杖を持っていた。


「おはよう、メリルさん」


「昨日の図書館のこと、まだ考えてた?」


「えっ……分かる?」


「うん。顔が考え事してる感じだった」


 メリルは少し笑った。


 アリシアは頬を赤くする。


「夜の守り手のこと、気になって……」


「私も少し気になったよ。今日の魔法基礎が終わったら、また見に行く?」


「あ……午後、メリルさんは授業だよね」


「うん。でも終わった後なら行けるよ」


 その言葉が嬉しかった。


 けれど、アリシアは少し迷ってから言った。


「私……授業の間に、一人でも少し探してみようかなって」


 メリルの目が少し丸くなる。


「一人で?」


「うん……ノアもいるし。怖いけど……探したいから」


 言い終えると、胸がどきどきした。


 変に思われるだろうか。


 無理しない方がいいと言われるだろうか。


 けれどメリルは、嬉しそうに笑った。


「すごいね、アリシアちゃん」


「す、すごくないよ……」


「ううん。自分で調べたいって思えるの、すごいと思う」


「……ありがとう」


 今度は、否定しすぎずに受け取れた。


 ノアが足元で尻尾を一度揺らす。


 加点。


 そんな気がした。


 朝食の食堂では、ガレスとミランダが今日も元気だった。


「アリシア、昨日図書館行ったんだって?」


 ミランダが目を輝かせて聞いてきた。


「う、うん」


「本いっぱいあった?」


「すごく……いっぱい」


「私、本棚見ただけで眠くなりそう!」


「ミランダらしいな!」


 ガレスが笑う。


 メリルが苦笑した。


「でも、歴史の本は面白かったよ」


「歴史か!」


 ガレスはパンを頬張りながら頷く。


「五聖人の話なら俺も好きだぞ! 火の聖人が大剣で魔族の軍勢を吹っ飛ばしたところとか!」


「ガレス君、そこなんだね」


「かっこいいだろ!」


 ミランダも頷く。


「土の聖人が大地を持ち上げて砦を作った話も好き!」


 五聖人。


 二人は当然のように語る。


 それは悪いことではない。


 彼らにとって、五聖人は誇りなのだろう。


 アリシアはスープを見つめた。


 五つの英雄。


 五つの神器。


 そこにない六つ目。


 今までは、その欠落を見るたび胸が沈んだ。


 けれど昨日、ほんの小さな注釈を見つけた。


 だから今日は、少し違った。


 ないことが、完全な無ではないかもしれない。


 消されても、残るものはあるかもしれない。


「アリシアは?」


 ガレスが聞いた。


「え?」


「好きな聖人の話はあるか?」


 アリシアは固まった。


 好きな聖人。


 どう答えればいい。


 闇の聖人。


 六つ目。


 でも、そんなものは表の歴史にはない。


 アリシアが言葉に詰まっていると、メリルがそっと助け舟を出した。


「アリシアちゃんのところは、山の伝承が多いって言ってたよね」


「あ……うん」


「山の伝承?」


 ミランダが身を乗り出す。


 アリシアは少し迷った。


 全部は話せない。


 でも、少しなら。


「祖父が……表に残らなかった人たちの話も、大事だって言ってた」


 食堂の喧騒の中、その言葉だけが自分の耳に大きく聞こえた。


 ガレスは少し考え込む。


「表に残らなかった人か」


「うん……」


「確かに、戦いって聖人だけで勝ったわけじゃないよな」


 思いがけない言葉だった。


 アリシアはガレスを見る。


 ガレスは真剣な顔で続けた。


「火の国の騎士団にも古い戦歌がある。名もない兵が道を開いたから聖人が進めた、って歌だ」


「……そうなんだ」


「おう! 強いやつが目立つけど、支えるやつも強いって兄貴が言ってた!」


 ミランダも頷く。


「土の国でも、砦を作った職人たちの話があるよ。聖人が大地を動かしても、そこに住める場所を作るのは人の手だったって」


 アリシアは胸が少し温かくなった。


 五聖人の国にも、表に残らなかった人たちの話はある。


 それが、夜の守り手と同じかは分からない。


 でも、何かを支えた名もなき存在を大切にする考えは、ここにもある。


「……いい話だね」


 アリシアが小さく言うと、ガレスは笑った。


「だろ!」


 ミランダも胸を張る。


「職人さんはすごい!」


 メリルが微笑む。


「今度、そういう本も探してみたいね」


「うん」


 食堂の席で、アリシアは初めて五聖人の話を聞いても、ただ苦しくなるだけではなかった。


 それぞれの国に、それぞれの伝え方がある。


 その中に、消されたものの欠片もあるかもしれない。


 そう思えた。


 午前の生活基礎では、学園での礼法と報告の仕方を習った。


 セリア先生は穏やかに説明する。


「学園では、身分の上下よりも、状況に応じた礼を重んじます。相手を敬うことと、自分を必要以上に低く扱うことは違います」


 アリシアの手が止まった。


 相手を敬うこと。


 自分を低く扱うこと。


 違う。


 まるで、自分に向けられた言葉のようだった。


 セリア先生は続ける。


「謝罪が必要な場面もあります。ですが、何でもすぐに謝れば良いわけではありません。感謝、確認、報告、相談。言葉には役割があります」


 アリシアは必死にメモした。


 謝罪。


 感謝。


 確認。


 報告。


 相談。


 ノアが机の下の籠からこちらを見ている。


 ほら見なさい。


 そんな顔だった。


 授業では、実際に短い会話練習も行われた。


 ペアになり、困っていることを教師へ伝える練習。


 アリシアはメリルと組んだ。


「えっと……課題の提出場所が分からない時」


 メリルが設定を読む。


「先生にどう聞く?」


 アリシアは少し緊張しながら言った。


「す、すみません……課題の提出場所が分からなくて……」


 言った後、セリア先生の話を思い出す。


 すみませんから始める必要があっただろうか。


 メリルが優しく言う。


「謝らなくてもいい場面かも」


「うん……」


 アリシアは言い直した。


「あの……課題の提出場所を確認したいです」


「うん、分かりやすい」


「本当?」


「うん。謝ってないし、何を聞きたいか分かる」


 アリシアは少し嬉しくなった。


 ほんの小さな会話練習。


 それでも、自分には必要な授業だった。


 戦闘基礎では、昨日の外を取る動きに加え、相手の動きを見る練習が始まった。


 エレナ教官は、生徒たちを半円形に並ばせる。


「攻撃の前には必ず兆しがある。肩、腰、膝、視線、呼吸。初心者ほど腕だけを見る。腕を見てから反応しても遅い」


 アリシアは真剣に聞いた。


 祖父も同じことを言っていた。


 刃を見るな。


 刃を動かす体を見ろ。


 体を動かす呼吸を聞け。


 エレナ教官は一人ずつ簡単なフェイントを見せ、生徒にどこを見ていたか答えさせた。


 カイルは剣先。


 ミーナは肩。


 メリルは足。


 アリシアの番になった。


「アリシア。今、私はどこから動いた?」


 エレナ教官が短く踏み込む動作を見せた。


 アリシアはその動きを思い返す。


 剣先ではない。


 肩でもない。


 足だけでもない。


「……息が、少し変わりました」


 演習室が静かになる。


 エレナ教官の目が細くなった。


「続けろ」


「息を吸うのが浅くなって……その後、右膝に重さが乗って……それから肩が動きました」


 言い終えてから、自分が細かく言いすぎた気がして不安になる。


「あ、えっと……違っていたら……」


「違っていない」


 エレナ教官は言った。


 周囲がざわめく。


「呼吸まで見たのか?」


「そんなの分かる?」


「木刀の子……」


 エレナ教官は全員へ向き直った。


「良い観察だ。だが全員が最初から呼吸まで見る必要はない。まずは腰と膝を見ろ。アリシア、お前は見えすぎる時がある。情報に溺れるな」


「は、はい」


 褒められた。


 でも課題も出された。


 見えすぎる。


 情報に溺れる。


 確かに、アリシアは人混みでも音や視線に溺れやすい。


 戦闘でも同じことが起こるのかもしれない。


 ノアが壁際で静かに頷いていた。


 授業後、ミーナが近づいてきた。


「アリシア、さっきの呼吸ってどうやって見たの?」


「え、えっと……見たというより、聞いたというか……」


「聞いた?」


「山だと、相手が動く前の音が少し変わるから……祖父に、耳も使えって」


「なるほど……」


 ミーナは真剣に聞いている。


 カイルも横から言う。


「俺、剣しか見てなかった」


「私も昔は木刀ばっかり見て、よく叩かれて……」


 そこまで言って、アリシアは少し笑った。


 祖父に木刀で軽く頭を叩かれた記憶。


 痛くはない。


 でも悔しくて、涙目になった。


『刃を見ていたら、もう斬られているぞ』


 祖父の声が蘇る。


 カイルが興味深そうに言う。


「アリシアの祖父って、すごい人なんだな」


「うん……私には、すごい人」


 今回は、まっすぐ言えた。


 自分のことではないからかもしれない。


 でも、祖父を誇れることが嬉しかった。


 午後、メリルは魔法基礎へ向かった。


 アリシアはノアと図書館へ向かう。


 一人で。


 正確には一人と一匹だが、メリルはいない。


 図書館までの道を歩く間、緊張で手が少し汗ばむ。


 すれ違う生徒たちの声。


 中庭の風。


 校舎の影。


 全部が少し大きく感じる。


 でも、足は止まらなかった。


「入口で固まらない」


 ノアが先に言う。


「まだ固まってない……」


「固まりそうな顔をしてた」


「うぅ……」


 図書館の扉の前に着く。


 深呼吸。


 一回。


 二回。


 アリシアは扉を開けた。


 紙の匂い。


 静けさ。


 高い本棚。


 昨日と同じ空気が迎えてくれる。


 受付の司書が顔を上げた。


「こんにちは。今日も調べ物ですか?」


「あ、はい……」


「昨日の続きですね」


 覚えられていた。


 アリシアは少し驚く。


 司書は静かに微笑んだ。


「熱心な一年生は覚えます」


「そ、そうですか……」


「今日は何を探しますか?」


 聞かれた。


 逃げたくなる。


 でも、聞くと決めていた。


 アリシアは小さく息を吸う。


「昨日の……『夜の守り手』という注釈について、もう少し詳しい資料があるか知りたいです」


 言えた。


 司書は少しだけ目を細めた。


 その反応に、アリシアの胸が跳ねる。


「夜の守り手」


「は、はい……」


「珍しいところに興味を持ちましたね」


「す、すみ……」


 謝りかけて止める。


「えっと……気になったので」


 司書は満足そうに頷いた。


「気になったものを調べるのは良いことです。ただ、その項目は一般資料ではかなり少ないですね」


「少ない……」


「関連しそうなものなら、地方伝承、山間部信仰、魔族大戦の周辺記録。あとは……」


 司書は少し間を置いた。


「禁書庫ではありませんが、上級資料室に一冊、近い記述があったはずです」


「上級資料室……」


 生活基礎で聞いた場所。


 一年生は許可が必要。


「一年生でも、担当教師の許可があれば閲覧できます。今すぐは難しいですが、必要なら申請方法を教えましょう」


 アリシアの胸が高鳴った。


 近い記述。


 上級資料室。


 そこに、夜の守り手に繋がる何かがあるかもしれない。


 でも、教師の許可。


 誰に頼めばいいのか。


 セリア先生?


 エレナ教官?


 教務主任?


 再測定前に、そんなことを聞いても大丈夫だろうか。


 考えが一気に溢れそうになる。


 ノアが足元で尾を揺らした。


 一つずつ。


 アリシアは小さく頷く。


「あの……申請方法だけ、教えてもらえますか」


「もちろんです」


 司書は申請用紙を一枚出してくれた。


 閲覧希望資料。


 目的。


 担当教師の署名。


 許可印。


 アリシアはそれを両手で受け取った。


「ありがとうございます」


「焦らず調べなさい。古い伝承は、急いで読むと大事なところを見落とします」


「はい……」


 その言葉は、何だかノアの言葉にも似ていた。


 アリシアは一般閲覧室で、昨日の続きの資料を探した。


 山間部信仰。


 地方の夜祭。


 魔族大戦期の避難民の歌。


 どれも直接的ではない。


 けれど、時折「夜」「影」「名なき守り」「黒い獣」といった言葉が出てくる。


 それらが本当に六つ目に関係あるのかは分からない。


 後世の創作かもしれない。


 ただの民間信仰かもしれない。


 でも、アリシアは一つずつ練習帳に書き写した。


『北方山村の夜祭では、五色の灯火の外側に黒い布を置く風習があった』


『大戦期の避難民の歌に、夜道を導く黒き小影という表現あり』


『一部地域では、聖人たちの勝利前夜に名もなき守護者が魔族の追跡を退けたと伝わる』


 断片。


 断片。


 断片。


 まだ形にならない。


 でも、確かにいくつかの欠片があった。


 気づくと、時間が過ぎていた。


 メリルが魔法基礎を終えて図書館へ来た時、アリシアは本に囲まれていた。


「アリシアちゃん、すごい量……」


「あっ、メリルさん」


 アリシアは慌てて顔を上げる。


 メリルは驚きながらも笑った。


「一人で大丈夫だった?」


「うん……司書さんに聞けた」


「すごい!」


「す、すごくは……」


 否定しかけて、止めた。


「……少し、頑張った」


 そう言うと、メリルの顔が明るくなる。


「うん。すごく頑張った」


 アリシアは恥ずかしくなりながらも、小さく頷いた。


 メリルは申請用紙を見る。


「上級資料室?」


「夜の守り手に近い記述があるかもしれないって……でも、先生の署名が必要で」


「誰にお願いする?」


「分からなくて……」


「セリア先生なら相談しやすいかも。生活基礎で相談窓口の話もしてくれたし」


「セリア先生……」


 確かに。


 いきなり教務主任に行くより、セリア先生の方が話しやすい。


 でも、夜の守り手の資料を見たいと相談したら、どう思われるだろう。


 メリルはアリシアの不安を察したように言った。


「歴史の地方伝承を調べたい、でいいと思うよ」


「うん……」


「アリシアちゃんのおじいさんの伝承と関係あるかもしれないから、調べたいって。変じゃないよ」


 変じゃない。


 その言葉が背中を押した。


 ノアも足元で頷いたように見えた。


 夕方、アリシアはセリア先生の職員室前に立っていた。


 手には申請用紙。


 隣にはメリル。


 足元にはノア。


 職員室の扉が大きく見える。


「ノック……」


「できるよ」


 メリルが小声で言う。


「うん……」


 アリシアは拳を軽く握り、扉を叩いた。


 こんこん。


 中から声がする。


「どうぞ」


 扉を開ける。


 セリア先生が机から顔を上げた。


「あら、アリシアさん、メリルさん。どうしました?」


 アリシアは一歩前に出た。


 怖い。


 でも、言う。


「あ、あの……図書館の上級資料室の閲覧申請について、相談したいです」


 言えた。


 セリア先生は穏やかに微笑んだ。


「もちろん。入りなさい」


 アリシアは胸の中で、小さく息を吐いた。


 今日も一歩進めた。


 そう思った。


 職員室の中で、アリシアは申請用紙を差し出した。


 セリア先生は内容を見る。


「地方伝承と聖人信仰の調査……夜の守り手?」


 アリシアの心臓が跳ねる。


「は、はい。祖父から、山間部に伝わる古い話を聞いたことがあって……それに似た言葉を図書館で見つけたので、調べたいと思って……」


 声は少し震えた。


 でも、止まらなかった。


 セリア先生は真剣に聞いてくれた。


「なるほど。自分の故郷や家族から聞いた伝承を、学園の資料で調べるのは良い学びですね」


「いいんですか……?」


「もちろんです。ただし、上級資料は難しいものも多いので、最初は司書の先生に相談しながら読むこと。危険な資料ではありませんが、誤読には注意しましょう」


 セリア先生はさらりと署名欄に名前を書いた。


 アリシアは目を丸くした。


「あ……」


「これで申請できます。許可が下りるまで少し時間がかかるかもしれません」


「ありがとうございます……!」


 思わず深く頭を下げる。


 セリア先生は柔らかく笑った。


「アリシアさん」


「は、はい」


「調べたいと思ったことを、自分で申請しに来られたのは、とても良いことです」


 胸が熱くなる。


「昨日の生活基礎で書いてくれましたね。初対面の人と話すことが苦手だと」


 アリシアは顔を赤くした。


「は、はい……」


「でも今、ちゃんと相談できました」


 セリア先生は静かに言った。


「それは大きな一歩ですよ」


 大きな一歩。


 アリシアは申請用紙を胸元に抱えた。


 泣きそうになった。


 でも、今は泣かなかった。


「……はい」


 小さく、けれどしっかり返事をした。


 職員室を出ると、メリルが嬉しそうに言った。


「よかったね!」


「うん……」


「アリシアちゃん、ちゃんと話せてたよ」


「手、震えてたけど……」


「でも言えてた」


 ノアが足元で言う。


「八十九点」


 アリシアは思わずノアを見る。


「今?」


「今よ」


「高い……」


「相談できた。申請できた。逃げなかった」


「減点は?」


「扉の前で三回呼吸しすぎ。あと、頭を下げすぎ」


「うぅ……」


 メリルが不思議そうに見る。


「どうしたの?」


「あ、えっと……ノアが、待ってたから」


 ノアは自然な猫の顔で鳴いた。


「にゃあ」


 メリルは笑った。


 その夜、アリシアは練習帳に今日のことを書いた。


『今日は、夜の守り手について一人で図書館へ行きました。司書さんに聞けました。上級資料室に近い記述があるかもしれないそうです。セリア先生に申請の相談をして、署名をもらえました。怖かったけど、言えました』


 ペン先が止まる。


 アリシアは続きを書く。


『五聖人の国にも、名もなき人たちの話がありました。表に残らなかった人たちも、世界を支えていたのかもしれません。夜の守り手も、そうだったのかもしれません』


 書きながら、胸が静かに震えた。


 ノアは窓辺に座っていた。


 夕暮れの名残は消え、外は夜になっている。


 黒い夜。


 星は山ほど多くない。


 それでも、いくつか光っている。


「ノア」


「何?」


「夜って……全部を隠すだけじゃないんだね」


 ノアはアリシアを見た。


「急に詩人みたいなことを言うわね」


「ち、違うよ……ただ、夜だから見える星もあるんだなって」


 ノアは黙った。


 それから、少しだけ目を細めた。


「悪くない考えね」


「本当?」


「ええ」


 アリシアは嬉しくなった。


 夜は怖い。


 闇も怖い。


 でも、夜には星がある。


 闇には、守れるものがあるのかもしれない。


 まだ分からない。


 でも、少しだけそう思えた。


 ノアは窓の外を見たまま言った。


「アリシア」


「うん?」


「断片を集めるなら、覚悟しなさい」


 声が、いつもより低かった。


「消されたものには、消された理由がある」


「……うん」


「知ることで、怖くなることもある。傷つくこともある」


「うん」


「それでも知りたい?」


 アリシアは練習帳の文字を見た。


 名を持たぬ夜の守り手。


 黒い布。


 黒き小影。


 名もなき守護者。


 怖い。


 でも、知りたい。


 自分が選ばれたものの意味を。


 ノアが背負っているものを。


 祖父が隠れ里で守ってきたものを。


「知りたい」


 声は小さかった。


 でも、震えていなかった。


 ノアは静かにアリシアを見つめた。


 そして、ほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。


「なら、付き合ってあげる」


「ありがとう」


「礼はいいわ」


「でも、言いたいから」


「……本当に頑固ね」


 ノアの声は呆れていた。


 けれど、優しかった。


 アリシアは練習帳を閉じる。


 明日も授業がある。


 再測定の日は近づいている。


 夜の守り手の資料申請も、結果を待たなければならない。


 物語は、少しずつ動いている。


 怖いまま。


 不安なまま。


 それでも、アリシアは昨日より少しだけ前を向いていた。


 夜の窓に映る自分の姿。


 黒髪。


 黒い瞳。


 その隣に、黒猫の影。


 アリシアは小さく呟いた。


「夜の守り手……」


 その言葉は、もうただの古い注釈ではなかった。


 アリシアの中で、静かに形を持ち始めていた。

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