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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第14話 図書館の五聖人



 授業二日目の朝、アリシアはいつもより少し早く目を覚ました。


 鐘が鳴る前だった。


 窓の外はまだ薄暗く、中央学園の校舎は朝靄の中に沈んでいる。中庭の木々も、噴水も、昨日までの白い石畳も、淡い灰色に包まれていた。


 山の朝に少し似ている。


 そう思った瞬間、胸がきゅっとなった。


 祖父は今頃、起きているだろうか。


 薪を割っているかもしれない。


 お茶を淹れているかもしれない。


 家の外に立って、山の霧を見ているかもしれない。


 アリシアは寝台の上で膝を抱えた。


 帰りたい、という気持ちはまだ消えない。


 けれど、昨日ほど強くはなかった。


 ここにも朝がある。


 ここにも、自分が起きる場所がある。


 そう思えるようになったことが、不思議だった。


「早いわね」


 枕元でノアが目を開けた。


「起こしちゃった?」


「猫は眠りが浅いのよ」


「猫じゃないって……」


「今は猫で通してるでしょう」


「あ、そっか」


 ノアは起き上がり、前足を伸ばした。


 小さな体がしなやかに伸びる。


 それから、アリシアを見上げた。


「再測定のことを考えてた?」


 アリシアは少し黙った。


 三日後の再測定。


 昨日、教務主任から渡された紙。


 魔法演習棟第二測定室。


 立ち会いは教務主任と測定担当教師のみ。


 その文字は、何度も頭の中に浮かんでいた。


「……少し」


「でしょうね」


「また黒いのが出たら、どうしよう」


「出るでしょうね」


 ノアはあっさり言った。


 アリシアは目を丸くする。


「そ、そうなの?」


「契約の影が反応したなら、条件が同じならまた反応する可能性が高いわ」


「じゃあ……また、変に思われる?」


「今度は個別測定でしょう。少なくとも大勢の前ではない」


「でも、先生たちは見るよね」


「見るわね」


「……怖い」


「怖いでしょうね」


 ノアの答えは、やはり優しい嘘ではなかった。


 けれど、その正直さが今は支えになった。


 怖いことを怖いまま認めても、ノアは離れない。


 それが分かってきたからだ。


「でも、今日は再測定の日じゃない」


 ノアは続けた。


「今日は授業二日目。生活基礎の続きと、戦闘基礎。それから、メリルと図書館に行く約束をしていたでしょう」


「あ……うん」


 図書館。


 昨日、メリルと約束した。


 授業が落ち着いたら行こう、と。


 完全に落ち着いてはいない。


 けれど、今日は午後に少し空き時間がある。


 魔法基礎が保留のアリシアは、その時間に自習扱いとなっていた。


「図書館……行ってもいいかな」


「行きたいんでしょう?」


「うん」


「なら行きなさい」


「でも……五聖人の本を見たら、また落ち込むかも」


「落ち込むかもね」


「ノア……」


「でも、知らないまま怖がるより、知って落ち込む方がましなこともあるわ」


 アリシアはその言葉をゆっくり受け止めた。


 知って落ち込む。


 確かに、怖い。


 でも、知らないまま想像だけで怯えるのも苦しい。


 中央校舎の廊下に飾られていた五聖人の絵。


 五つの神器。


 五つの神獣。


 そこに六つ目はなかった。


 でも、もしかしたら図書館には何かあるかもしれない。


 祖父が言っていた六聖人。


 ノア。


 黒月。


 その痕跡が、ほんの少しでも。


「……行く」


「よろしい」


 ノアは満足げに頷いた。


「まずは制服」


「うん」


 アリシアは制服に着替えた。


 昨日よりリボンはうまく結べた。


 ノアの確認も短かった。


「まあ、いいわ」


「昨日よりいい?」


「昨日よりは」


「少し進歩?」


「少しね」


 その少しが嬉しかった。


 朝食の食堂では、ガレスとミランダがいつもの席を取っていた。


 メリルもほぼ同時にやって来る。


 四人と一匹。


 いつの間にか、それが当たり前の形になりつつあった。


「アリシア、今日も戦闘基礎あるんだろ?」


 ガレスがパンを大きくちぎりながら聞いた。


「うん……足運びの続きだと思う」


「足は大事だ!」


「ガレス君、昨日も走ったんだよね」


 メリルが言うと、ガレスは頷く。


「今日も走りたい!」


「私は走るより斧を振りたい!」


 ミランダが元気よく言う。


「二人とも元気だね……」


 メリルが苦笑する。


 アリシアはそのやり取りを聞きながら、スープを少し飲んだ。


 周囲の視線はまだある。


 けれど、昨日より薄い。


 黒い反応の噂は消えていないが、戦闘基礎での動きの話も混ざっているらしい。


 近くの席から聞こえてくる声も、少し変わっていた。


「木刀の子、今日も三班だろ?」


「昨日カイルに教えてたって」


「黒い反応の子だよな?」


「でも剣はちゃんとしてるらしい」


 黒い反応だけではない。


 木刀。


 剣。


 基礎。


 その言葉が混じるだけで、アリシアの胸の痛みは少し和らいだ。


 ノアが椅子の上で小皿の魚を食べながら言う。


「噂は止められないわ」


「うん……」


「でも、噂の中身は少しずつ変えられる」


 アリシアはノアを見た。


 ノアは何でもない顔をしている。


「今日も、あんたがやることをやればいい」


「……うん」


 朝食後、生活基礎の授業では、学園内の施設見学があった。


 セリア先生に連れられて、一年生たちは中央校舎、医務室、課題提出室、相談窓口、図書館前、訓練場、食堂裏の連絡掲示板などを回った。


 アリシアは必死に場所を覚えた。


 特に相談窓口と医務室。


 そして図書館。


 図書館の前に来た時、思わず足が止まった。


 大きな建物だった。


 白い石壁。


 高い窓。


 重厚な木の扉。


 入口の上には、本を開いた形の紋章が彫られている。


 五大国の紋章ではない。


 中央学園独自の、知識を示す印らしい。


「図書館は、学園生なら基本的に自由に利用できます。ただし、禁書庫や上級資料室は許可が必要です」


 セリア先生が説明する。


「一年生の皆さんは、まず一般閲覧室から使ってください。歴史、魔法基礎、戦闘理論、地理、神話、文学など、幅広い本があります」


 歴史。


 神話。


 その言葉に、アリシアの胸が動いた。


 ノアも足元で図書館を見上げている。


 セリア先生は柔らかく続けた。


「分からない本を探す時は、司書の先生に聞いてください。図書館で迷子になる一年生は毎年いますから、恥ずかしがらなくて大丈夫ですよ」


 何人かが笑った。


 アリシアは少し安心した。


 図書館で迷うのは自分だけではない。


 午後に来よう。


 そう決めた。


 戦闘基礎の時間。


 小演習室に入ると、昨日より少し空気が違った。


 アリシアを見る視線はある。


 だが、昨日のような珍しさだけではない。


 カイルが近づいてきた。


「アリシア」


「は、はい」


「昨日教えてもらった足の残し方、朝少し練習してみた」


「え……」


「まだ全然だけど、前に流れにくくなった気がする。ありがとう」


 アリシアは驚き、少し慌てた。


「そ、そんな……私、少し言っただけで……」


「それでも助かった」


 カイルは素直に言った。


 その横から、槍のミーナも声をかけてきた。


「私も昨日の足運び、少し見てた。剣と槍だと違うかもしれないけど、後ろ足の残し方って大事なのね」


「あ……たぶん、槍はもっと距離があるから……でも、前に行きすぎると戻れないのは同じ、だと……思います」


 また「たぶん」と「思います」が出た。


 アリシアは少し焦った。


 だがミーナは真剣に頷く。


「ありがとう。今日意識してみる」


 誰かに聞かれる。


 答える。


 礼を言われる。


 それが続くと、アリシアはどうしていいか分からなくなった。


 嬉しい。


 でも怖い。


 間違っていたらどうしよう。


 偉そうに見えたらどうしよう。


 ノアが壁際から見ている。


 その視線に気づき、アリシアは小さく息を吸った。


 飾らない。


 分かることだけ言う。


 分からないことは分からないと言う。


 それでいい。


 エレナ教官が入ってきた。


「集まれ」


 全員がすぐに並ぶ。


 昨日より動きが早い。


 エレナ教官はそれを見て、短く頷いた。


「昨日よりましだ」


 それだけで、何人かの生徒が少し嬉しそうな顔をした。


「今日も足運びだ。前後左右に加え、斜めの入りと、相手の外側を取る動きを確認する」


 外側を取る。


 アリシアの胸が少し高鳴る。


 祖父にもよく言われた。


 相手の正面に居座るな。


 強い相手ほど、正面に力が集まる。


 半歩ずれろ。


 ずれた先で打て。


 エレナ教官の説明は、祖父の言葉より理論的だった。


「正面で受けるな。真正面からぶつかるのは、体格と力で勝る者だけが選べる手段だ。小柄な者、軽い者、魔法を併用する者は、外を取れ」


 アリシアは自然と集中した。


 外を取る。


 距離。


 角度。


 踏み込み。


 体重移動。


 木刀を握る手に、少し力が入る。


 訓練が始まった。


 まずは二人組で、相手の正面から半歩ずれる動き。


 メリルと組む。


 メリルは昨日より足元を意識していた。


「こう?」


「うん。でも、右にずれた後、杖を使うなら……たぶん、もう少し肩を残した方が風を出しやすいかも」


「肩?」


「体ごと流れすぎると、魔法を出す時に向き直るのが遅れる……と思う」


「なるほど」


 メリルは試す。


 風属性の魔法はまだ使わないが、杖の向きで感覚を確かめている。


「アリシアちゃん、見るところ細かいね」


「祖父が、足と肩ばっかり見てたから……」


「いいおじいさんだね」


 その言葉に、アリシアの胸がじんわり温かくなる。


「うん……すごく」


 自然に答えられた。


 訓練の途中、エレナ教官が全体を止めた。


「アリシア、カイル。前へ」


 突然呼ばれ、アリシアの体が固まった。


「は、はい」


 カイルも少し緊張した顔で前に出る。


 エレナ教官は二人を向かい合わせた。


「軽い確認だ。打ち合いではない。カイルが正面から踏み込む。アリシアは外を取って、木刀を止める位置まで動く。接触は最小限。分かったな」


「はい」


「は、はい」


 周囲の生徒たちが注目する。


 アリシアの心臓が跳ねる。


 見られている。


 また。


 けれど、木刀を構えると、少しずつ音が遠くなる。


 カイルも剣を構えた。


「よろしく」


「……よろしく」


 エレナ教官の声。


「始め」


 カイルが踏み込む。


 昨日より足が残っている。


 アリシアはそれを見た。


 正面から受けない。


 半歩、外へ。


 木刀の切っ先を上げすぎない。


 肩を回しすぎない。


 カイルの剣が通る線から、ほんの少し外れる。


 木刀が、カイルの手首の手前で止まった。


 打っていない。


 触れる寸前。


 しかし、もし本当に振っていれば、カイルの剣の動きは止まっていただろう。


 カイルは息を飲んだ。


 周囲も静かになる。


「止め」


 エレナ教官の声で、二人は動きを解いた。


 アリシアは集中が抜けた瞬間、周囲の視線に気づいて顔を赤くした。


「す、すみ……」


「謝るな」


 エレナ教官が即座に言う。


「今のは良い例だ。大きく避ける必要はない。必要な分だけ外に出る。無駄に動けば戻りが遅れる」


 教官はカイルを見る。


「カイル、昨日より足はましだ。だが踏み込みに意識が行きすぎて上体が素直すぎる」


「はい」


「アリシア、お前は外を取る感覚は良い。ただし相手が二手目を持っていた場合、止めた後の位置が少し近い」


「はい」


 アリシアは頷いた。


 具体的な指摘。


 それが嬉しい。


「戻れ」


 二人は列へ戻った。


 カイルが小声で言う。


「今の、全然見えなかった」


「えっ」


「気づいたら外にいた」


「そ、そんな……」


「また教えて」


「わ、分かる範囲なら……」


 カイルは笑った。


 その笑顔に悪意はない。


 アリシアは少しだけ安心した。


 授業が終わる頃には、三班の中でアリシアへの見方が少し変わっていた。


 黒い反応の子。


 木刀の子。


 それに加えて、足運びが上手い子。


 そういう空気が混ざり始めていた。


 もちろん全員が好意的ではない。


 少し警戒している生徒もいる。


 遠巻きに見る者もいる。


 だが、昨日よりは確かに違う。


 アリシア自身も、それを感じていた。


 食堂でガレスとミランダに会うと、ミランダがすぐ聞いてきた。


「今日どうだった?」


「足運びをして……少し、前でやった」


「前で! すごい!」


 ガレスが目を輝かせる。


「外を取るやつか?」


「うん……」


「いいな! 俺は正面から行きすぎるって言われた!」


「ガレス君らしい……」


 メリルが笑う。


 ガレスは真剣だった。


「でも、外を取るのも鍛える! アリシア、今度教えてくれ!」


「えっ」


 ガレスに教える。


 火の継承者候補に。


 アリシアは固まった。


「わ、私が?」


「おう!」


「でも、ガレス君の方がずっと強いし……」


「強い弱いと、知ってる知らないは別だろ!」


 ガレスは当然のように言った。


 アリシアは言葉を失った。


 その通りかもしれない。


 自分はガレスより弱い。


 でも、外を取る動きなら、少しだけ知っているかもしれない。


 ミランダも元気よく言う。


「私も知りたい! 正面から行くと、よく止められるんだよね!」


「二人とも……正面から行きそう」


 メリルが言うと、二人は同時に頷いた。


「行く!」


「行くよ!」


 アリシアは思わず笑ってしまった。


 その笑い声は、以前より少しだけはっきりしていた。


 午後。


 魔法基礎の時間、メリルは自分の班へ向かった。


 アリシアは保留のため、自習時間となった。


 約束通り、メリルは授業後に図書館へ一緒に行くことになっている。


 それまでの間、アリシアは部屋で少し休んだ。


 ノアは机の上で毛づくろいをしている。


「午後の魔法基礎……行けないの、少し変な感じ」


 アリシアが呟くと、ノアは顔を上げた。


「行きたいの?」


「怖いけど……みんなが行くのに、私だけ行かないのも……」


「置いていかれる感じ?」


「……うん」


 ノアは少し黙った。


「今のあんたが通常の魔法基礎に出ても、混乱するだけよ」


「分かってる」


「でも寂しい?」


「うん……少し」


「なら、その分、別のことを学びなさい」


「別のこと?」


「図書館に行くんでしょう」


 アリシアは頷いた。


 そうだ。


 魔法基礎には出られない。


 でも、その時間があるから図書館へ行ける。


 五聖人のことを調べられる。


 六つ目の痕跡を探せる。


 寂しさを全部消すことはできない。


 でも、別の一歩にはできる。


 授業が終わる時間になると、メリルが部屋を訪ねてきた。


「アリシアちゃん、図書館行ける?」


「うん」


「魔法基礎、ちょっと難しかったよ。風の出力確認だけだったけど、リーネさんとか本当にすごかった」


「リーネさんも同じ授業?」


「合同だったの。属性ごとに別れる前の説明で」


「そうなんだ……」


 少しだけ胸がちくりとする。


 自分はそこにいなかった。


 でも、メリルは気まずそうにしなかった。


 ただ自然に話してくれる。


 それがありがたかった。


「図書館、行こう」


「うん」


 ノアも一緒に行く。


 登録札をつけ、アリシアの足元を歩く。


 図書館へ向かう道は、生活基礎で一度通った。


 それでも、実際に利用者として向かうと緊張する。


 大きな扉の前で、アリシアは一度立ち止まった。


「大丈夫?」


 メリルが聞く。


「うん……ちょっと、大きくて」


「私も緊張する。中、すごそうだよね」


 ノアが足元で言う。


「入口で固まらない」


「うん……」


 アリシアは扉を押した。


 重い木の扉が、静かに開く。


 中に入った瞬間、空気が変わった。


 食堂の賑わいとも、訓練場の熱気とも違う。


 静けさ。


 紙の匂い。


 古い木の匂い。


 魔導灯の柔らかな光。


 高い天井まで届く本棚。


 並ぶ本。


 本。


 本。


 アリシアは息を忘れた。


 山の家にあった本の何十倍、何百倍。


 いや、比べること自体が間違っている。


 ここには、世界が文字になって積まれているようだった。


「すごい……」


 メリルも呟いた。


 アリシアはただ頷くことしかできなかった。


 正面の受付には、年配の女性司書が座っていた。


 銀色の髪をきっちりまとめ、細い眼鏡をかけている。


 彼女は二人と一匹を見ると、静かに微笑んだ。


「一年生ですね。初めての利用ですか?」


「は、はい」


「では利用札を出してください」


 アリシアは慌てて学生用の札を取り出した。


 メリルも同じように出す。


 司書は確認し、頷いた。


「一般閲覧室は自由に利用できます。資料を探す時は、分類札を見てください。歴史は右奥、神話と宗教はその隣。魔法基礎は左奥です」


 歴史。


 神話と宗教。


 アリシアは反応した。


 司書はノアを見た。


「従魔は静かに。棚に登らせないように」


「は、はい」


 ノアの耳がぴくりと動いた。


 アリシアは小声で言う。


「棚、登らないでね」


「登らないわよ」


「本当に?」


「失礼ね」


 メリルが不思議そうに見る。


「ノアちゃん、棚に興味ありそう?」


「あ、えっと……高いところ好きかなって」


「猫だもんね」


 ノアは不満そうだったが、鳴き声一つ出さなかった。


 二人は歴史の棚へ向かった。


 背の高い本棚には、古い歴史書がずらりと並んでいる。


 世界史概論。


 五大国建国史。


 魔族大戦記。


 聖人伝。


 神器と神獣の系譜。


 中央学園創立史。


 タイトルを見るだけで、胸が高鳴り、同時に少し怖くなる。


 メリルが一冊を手に取った。


「『はじめての五聖人』……一年生向けかな」


「五聖人……」


 アリシアは本の背表紙を見つめた。


 五。


 やはり五。


 メリルは何気なくページを開く。


「子ども向けっぽいけど、分かりやすそう。読む?」


「うん……」


 二人は近くの閲覧席に座った。


 ノアはアリシアの足元。


 アリシアは本を開いた。


 最初のページには、五聖人の絵が描かれていた。


 火の聖人。


 水の聖人。


 風の聖人。


 土の聖人。


 光の聖人。


 それぞれが神器と神獣を従え、人類を導く姿。


 美しい絵だった。


 けれど、やはり六人目はいない。


 文章にはこう書かれていた。


『千年前、人類は魔族の侵攻により滅亡の危機に瀕しました。その時、神々は五つの神器と五つの神獣を人類へ授けました。選ばれし五人の聖人は、それぞれの力で人々を導き、魔王を退けました』


 アリシアは指を止めた。


 五つ。


 五人。


 どこにも、六はない。


 メリルは隣で静かに読んでいた。


「やっぱり五聖人って習うよね」


「うん……」


「アリシアちゃんのところでは、違った?」


 アリシアの心臓が跳ねた。


 メリルは何気なく聞いたのだろう。


 地域によって伝承が違うこともある。


 それくらいのつもりかもしれない。


 アリシアは答えに迷った。


 祖父は六聖人と言っていた。


 でも、それを言っていいのか。


 ノアを見る。


 ノアは足元で静かに座っている。


 金色の瞳がアリシアを見上げた。


 隠しすぎるな。


 でも、全部は言うな。


 そんな目に見えた。


 アリシアは小さく息を吸う。


「祖父は……五だけじゃないかもしれない、って言ってた」


 メリルは目を丸くした。


「五だけじゃない?」


「うん……古い伝承には、違う話もあるかもしれないって」


 嘘ではない。


 全部でもない。


 メリルは興味深そうに本を見る。


「そうなんだ。地域伝承かな。面白いね」


「面白い……?」


「うん。歴史って、場所によって伝わり方が違うことあるって聞いたことあるよ。風車町にも、風の聖人が最初に立ち寄った場所って伝承があるけど、別の町も同じこと言ってるし」


「そうなんだ……」


「だから、アリシアちゃんのおじいさんが知ってる話も、何か古い伝承なのかも」


 メリルは疑わなかった。


 否定しなかった。


 ただ、興味を持ってくれた。


 アリシアは少しほっとした。


 ノアは何も言わない。


 でも、尻尾が静かに揺れている。


 二人は本を読み進めた。


 五大国の成立。


 聖人たちがそれぞれの地に国を建てたこと。


 中央に中立地を置き、五大国の均衡を保ったこと。


 神器は神殿と王家によって管理され、継承者は時代ごとに選ばれること。


 神獣は神器と共に眠り、契約者の資質によって姿を現すこと。


 アリシアはその記述で手を止めた。


 神獣は、契約者の資質によって姿を現す。


 ノアは継承の儀の後に現れた。


 そして、アリシアが名前を与えた。


 同じだ。


 けれど、違う。


 この本には黒猫はいない。


 闇の神獣はいない。


 黒月もない。


「『神器は火の大剣、水の槍、風の弓、土の斧、光の杖』……」


 メリルが読み上げる。


「五つだけだね」


「うん……」


 アリシアは小さく頷いた。


 その時、ノアが足元で低く言った。


「その本ではね」


 アリシアはノアを見る。


 メリルには聞こえていない。


「他の本なら……?」


 小声で聞く。


 ノアは答えない。


 その代わり、視線を歴史棚の奥へ向けた。


 アリシアは立ち上がった。


「メリルさん、もう少し……別の本も見ていい?」


「うん。探そう」


 二人は歴史棚をさらに探した。


 より詳しい本。


 古い本。


 魔族大戦に関する記録。


 聖人伝の異本。


 けれど、一般閲覧室にある本は、どれも五聖人の記述だった。


 五つの神器。


 五つの神獣。


 五つの大国。


 時折、記述の差はある。


 火の聖人の性格が勇猛と書かれていたり、激情家と書かれていたり。


 水の聖人が賢者とされたり、戦略家とされたり。


 風の聖人が自由人とされたり、斥候王とされたり。


 土の聖人が守護者とされたり、開拓王とされたり。


 光の聖人が慈愛の人とされたり、裁定者とされたり。


 でも、数は五。


 六にはならない。


 アリシアの胸は少しずつ重くなった。


 やはり、ない。


 自分たちの痕跡は、どこにもない。


「アリシアちゃん、大丈夫?」


 メリルが心配そうに聞く。


 アリシアは本を閉じた。


「うん……少し、探してた話が見つからなくて」


「司書さんに聞いてみる?」


 アリシアは迷った。


 六聖人の本はありますか。


 そう聞けばどうなるだろう。


 変に思われるだろうか。


 黒い反応の子が、六聖人なんて言い出した。


 また噂になるかもしれない。


 でも、聞かなければ見つからない。


 ノアが足元で言う。


「聞き方」


「……」


 聞き方。


 そのまま聞かない。


 少し広く。


 古い異伝。


 五聖人以外の地域伝承。


 それなら、不自然ではないかもしれない。


 アリシアは小さく頷いた。


「聞いてみる」


 受付へ向かう。


 司書の女性は静かに顔を上げた。


「資料は見つかりましたか?」


「あ、あの……五聖人の……地域によって違う伝承とか、異伝の資料はありますか?」


 声は小さい。


 でも、言えた。


 司書は少し考える。


「一般閲覧室ですと、『地方伝承に見る聖人信仰』がありますね。あとは、少し難しいですが『大戦期口承記録集』も参考になるかもしれません」


「口承記録……」


「ただし、古い伝承には後世の脚色も多いので、正史とは分けて読む必要があります」


「はい……」


 司書は棚の場所を教えてくれた。


 アリシアは礼を言い、メリルと一緒に向かった。


 指定された棚は、歴史と神話の境目にあった。


 そこには少し古い本が並んでいる。


 地方伝承。


 民間神話。


 聖人信仰。


 失われた神殿。


 口承記録。


 アリシアは『大戦期口承記録集』という分厚い本を手に取った。


 重い。


 席に戻り、慎重に開く。


 中は文字が細かく、読みづらかった。


 メリルも覗き込む。


「難しそう……」


「うん……」


 ページをめくる。


 火の国北部の伝承。


 水辺の村に伝わる蛇神の話。


 風の聖人が狼と共に嵐を裂いた話。


 土の亀が山を支えた話。


 光の白猫が病を祓った話。


 やはり五つ。


 アリシアは少し肩を落とした。


 その時、ノアが机の下から前足でアリシアの靴を軽く叩いた。


 アリシアはノアを見る。


 ノアの視線は、本の下の方へ向いている。


 アリシアはページの末尾へ目を落とした。


 小さな注釈。


 そこに、短い一文があった。


『一部山間部の伝承には、五聖人の戦いの陰に「名を持たぬ夜の守り手」がいたとする断片が残る。ただし、後代の創作または魔族信仰の混入と見る説が一般的である』


 アリシアの呼吸が止まった。


 名を持たぬ夜の守り手。


 夜。


 闇。


 陰。


 これは。


 アリシアはその一文を何度も読んだ。


 六聖人とは書いていない。


 神器とも、神獣ともない。


 むしろ、後代の創作、魔族信仰の混入とされている。


 それでも。


 初めて見つけた。


 五つではない何かの痕跡。


「アリシアちゃん?」


 メリルが小声で聞く。


 アリシアは慌てて指を少しずらした。


「ここ……夜の守り手って」


 メリルも読む。


「本当だ。珍しいね。五聖人以外にも、民間伝承では補助的な存在が語られることがあるのかな」


「補助的……」


「たとえば、聖人を助けた村人とか、案内人とか、守護者とか。正史には残らないけど、地元では伝わってる人みたいな」


「……うん」


 アリシアは曖昧に頷いた。


 メリルの解釈は自然だった。


 普通ならそう読む。


 でも、アリシアにとっては違った。


 夜の守り手。


 名を持たぬ。


 陰にいた存在。


 胸の奥で、何かが静かに震えた。


 ノアは机の下で黙っている。


 けれど、その尻尾は動いていなかった。


 アリシアは小さく聞いた。


「ノア……これ」


 ノアは答えない。


 図書館だから、というだけではない気がした。


 その沈黙は重かった。


 メリルが本を見ながら言う。


「これ、もっと調べたら面白そう。山間部の伝承って書いてあるし、アリシアちゃんのところのおじいさんが言ってた話とも繋がるかも」


「……うん」


「また一緒に探そうか」


 アリシアはメリルを見た。


 また。


 一緒に。


 その言葉が嬉しかった。


 秘密を全部話せない罪悪感はある。


 でも、メリルは一緒に探そうと言ってくれる。


 アリシアは小さく頷いた。


「うん……探したい」


 その後、二人は本の該当箇所を書き写した。


 アリシアは練習帳に、慎重に一文を写す。


『名を持たぬ夜の守り手』


 その文字を書いた時、胸が不思議に熱くなった。


 自分は、名を持っている。


 アリシア。


 そして、ノア。


 忘れられていても、名はある。


 そう思った。


 図書館を出る頃には、夕方近くになっていた。


 外の光は柔らかく、白い校舎が橙色に染まっている。


 メリルは本を返しながら言った。


「図書館、すごかったね。また来よう」


「うん」


「次は風属性の本も探したいな」


「私も……歴史をもう少し」


「じゃあ、また一緒に」


「うん」


 ノアはアリシアの足元を歩きながら、ずっと黙っていた。


 部屋に戻るまで、ノアはほとんど話さなかった。


 二〇八号室に入る。


 扉を閉める。


 ノアは首輪を外し、机の上へ飛び乗った。


 アリシアは練習帳を開き、写した一文を見る。


「ノア」


「何?」


「あの夜の守り手って……」


 ノアは窓の外を見たまま、少し黙った。


 夕日が黒い毛並みの輪郭を照らしている。


「断片ね」


「断片?」


「消された歴史は、完全には消えない。歌や噂や祈りの端に残ることがある」


 アリシアは息を飲んだ。


「じゃあ、あれは……」


「六つ目に触れている可能性はあるわ」


 胸が跳ねた。


 初めて、学園の本の中に、自分たちに繋がるかもしれないものを見つけた。


 同時に、怖くもなる。


 魔族信仰の混入。


 そう書かれていた。


「でも……魔族信仰って」


 ノアの目が細くなる。


「勝った側の歴史は、都合の悪いものに名前をつけるのよ」


「都合の悪いもの……」


「異端。迷信。魔族信仰。そう呼べば、誰も深く調べなくなる」


 アリシアは練習帳の文字を見つめた。


 名を持たぬ夜の守り手。


 それがもし、本当に六つ目の痕跡なら。


 なぜ、名を持たないことにされたのだろう。


 なぜ、夜は陰に追いやられたのだろう。


「ノアは……知ってるの?」


 アリシアは聞いた。


 ノアはすぐには答えなかった。


 長い沈黙。


 そして、静かに言う。


「全部はまだ話せない」


「……うん」


「でも、あんたが見つけたことには意味がある」


「意味……」


「誰かに教えられた答えじゃなく、自分で見つけた断片だから」


 ノアはアリシアを見た。


「大事にしなさい」


 アリシアは頷いた。


 練習帳に、今日のことを書いた。


『図書館に行きました。五聖人の本には、やっぱり六つ目はありませんでした。でも、古い口承記録に「名を持たぬ夜の守り手」という言葉を見つけました。ノアは、消された歴史の断片かもしれないと言いました』


 ペンが止まる。


 胸が少し震えている。


 怖い。


 でも、知りたい。


 今までとは違う怖さだった。


 世界が広がる怖さ。


 真実に近づく怖さ。


 でも、その先に何かがあるかもしれない。


 アリシアは続きを書いた。


『私はまだ怖いです。でも、忘れられたものが本当にあったなら、知りたいと思いました』


 書き終えると、ノアが机の上から見ていた。


「今日の点数は?」


 アリシアが聞く。


 ノアは少し考えた。


「八十八点」


「高い……」


「授業で動けた。人に教えた。図書館で自分から聞いた。断片を見つけた」


「減点は?」


「褒められるとまだ縮む。司書に聞く前に三回くらい逃げそうな顔をした。あと、私を棚に登る猫扱いした」


「そこも……?」


「当然」


 アリシアは少し笑った。


 八十八点。


 今までで一番高い。


 それが嬉しかった。


 ノアは練習帳の一文を見た。


「名を持たぬ夜の守り手」


 小さく呟く。


 その声は、いつもの毒舌とは違っていた。


 遠く、静かで、少しだけ寂しそうだった。


 アリシアはノアを見る。


「ノア」


「何?」


「ノアには名前があるよ」


 ノアの耳がぴくりと動いた。


 アリシアは少し恥ずかしくなりながらも続けた。


「私がつけた名前だけど……でも、ノアはノアだよ」


 ノアは黙った。


 夕日の中で、黒猫の金色の瞳が少し揺れる。


 やがて、ノアは顔をそらした。


「……変なことを言う子ね」


「ご、ごめ……じゃなくて……」


「謝らなくていいわ」


 ノアは小さく息を吐いた。


「悪くなかったから」


 アリシアの胸が温かくなった。


 ノアが褒めた。


 たぶん、少し照れながら。


 アリシアは笑った。


 その笑いは静かだった。


 でも、今日一日の中で一番柔らかい笑いだった。


 窓の外では、夕日が沈み始めている。


 中央学園の白い校舎が、夜の色へ変わっていく。


 黒は悪い色ではない。


 夜は、星を抱く色。


 ノアの色。


 そして、忘れられた何かが眠る色。


 アリシアは練習帳をそっと閉じた。


 明日も授業がある。


 三日後には再測定がある。


 まだ分からないことばかり。


 けれど、今日、アリシアは初めて自分から歴史の欠片を見つけた。


 それは小さな一文だった。


 誰にも気づかれず、古い本の注釈に埋もれていた言葉。


 でも、アリシアには確かに聞こえた気がした。


 忘れないで。


 そう、遠い夜の底から呼ぶ声が。

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