第13話 最初の授業
通常授業初日の朝は、入学式の朝よりも少しだけ重かった。
式典の日には、まだ特別な空気があった。
制服を着ること。
講堂へ向かうこと。
学園長の言葉を聞くこと。
それらは緊張するものだったけれど、どこか儀式めいていて、日常とは少し違っていた。
けれど、今日からは違う。
今日から本当に授業が始まる。
生活基礎。
戦闘基礎。
魔法基礎。
班分け。
課題。
訓練。
教室。
同級生。
そのすべてが、これから毎日続いていく。
アリシアは制服に袖を通しながら、鏡の中の自分を見つめた。
昨日よりは少しだけ、制服の着方に慣れた。
リボンも一度で結べた。
少し曲がっている気がして直そうとしたが、寝台の上からノアが言った。
「それ以上触ると逆に崩れるわよ」
「う……」
アリシアは手を止めた。
「大丈夫?」
「許容範囲ね」
「許容……」
「褒めてるわよ」
「それ、褒めてるの……?」
「私にしては」
ノアは当然のように言った。
アリシアは少しだけ笑った。
朝の笑いは小さかったけれど、胸の緊張をほんの少し緩めてくれた。
机の上には、昨日書いた練習帳が置いてある。
入学式のこと。
戦闘基礎三班のこと。
木刀を認めてもらえたこと。
祖父に話したいこと。
その文字を少しだけ見てから、アリシアは練習帳を閉じた。
今日は、新しいことを書く日になる。
怖いことかもしれない。
嬉しいことかもしれない。
まだ分からない。
「ノア」
「何?」
「今日も……一緒に来てくれる?」
「当たり前でしょう」
ノアは寝台から床へ飛び降りた。
首には登録札。
やはり不満そうだが、今日は昨日ほど文句を言わなかった。
アリシアが黒い首輪に指を添える。
「きつくない?」
「平気よ」
「痛くない?」
「平気」
「本当に?」
「しつこい」
「ご、ごめ……」
アリシアは言いかけて止まった。
ノアが満足げに尻尾を揺らす。
「学習してるわね」
「うん……たぶん」
「たぶんを減らしなさい」
「うぅ……」
その時、扉が叩かれた。
「アリシアちゃん、おはよう」
メリルの声。
アリシアは扉を開けた。
メリルも制服姿で、杖を持っていた。
昨日より少し表情が引き締まっている。
「おはよう、メリルさん」
「今日から授業だね」
「うん……緊張する」
「私も」
メリルは苦笑した。
「でも、昨日よりは少しだけ平気かも。アリシアちゃんがいるし」
その言葉に、アリシアは胸が温かくなった。
自分も同じだった。
メリルがいるから、少し平気。
でも、それを言葉にするのは少し恥ずかしい。
アリシアは小さく頷いた。
「私も……メリルさんがいるから、少し」
メリルの顔が柔らかくなる。
「じゃあ、一緒に頑張ろう」
「うん」
廊下へ出ると、昨日よりも動きが整っていた。
新入生たちは、それぞれ案内紙を手に教室や演習室へ向かっている。
まだ迷っている者もいるが、入学式前のような浮つきは少ない。
皆、これから始まる授業に向けて、少し緊張している。
アリシアはノアとメリルと一緒に食堂へ向かった。
朝食を食べる。
その流れも、少しずつ覚えてきた。
席を探す。
トレーを取る。
パン、卵、スープ、果物。
ノアの小皿を頼む。
職員に礼を言う。
たった数日前には全部が初めてだったことが、今は少しだけ手順になっている。
ガレスとミランダも、いつもの壁際の席にいた。
「おはよう!」
ミランダが元気よく手を振る。
「お、おはよう」
「今日から授業だな!」
ガレスは朝からよく食べていた。
山盛りのパンと卵料理。
相変わらずの量だ。
「ガレス君、朝からすごいね」
メリルが言うと、ガレスは胸を張った。
「授業があるからな! 食わないと動けん!」
「昨日も同じくらい食べてなかった?」
「昨日も動いた!」
ミランダも頷く。
「私も食べる! 戦闘基礎一班、今日も走るかな!」
「走るの楽しみなんだ……」
メリルが少し遠い目をする。
アリシアは二人の勢いに少し笑った。
昨日より自然に笑えた。
それに気づいたのか、ガレスが満足そうに頷く。
「アリシア、少し元気だな」
「うん……昨日よりは」
「ならいい!」
ミランダが身を乗り出す。
「三班の授業、今日から本格的なんでしょ?」
「うん……たぶん」
「木刀振る?」
「分からないけど……たぶん、振ると思う」
「見たい!」
「ミランダ、授業あるから無理だよ」
メリルが苦笑する。
「じゃあいつか!」
ミランダは昨日と同じことを言った。
アリシアは少しだけ困りながらも、頷いた。
「いつか……なら」
「約束!」
また約束が増えた。
アリシアは、その言葉を少し怖く、少し嬉しく感じた。
食堂の周囲では、まだアリシアへの視線があった。
昨日の黒い属性反応の噂は、完全には消えていない。
近くの席から、小さな声が聞こえる。
「黒い反応の子だ」
「でも戦闘基礎で木刀すごかったって」
「どっちなんだろうな」
「特別推薦だし、何かあるんじゃない?」
アリシアはパンを持つ手を止めかけた。
けれど、昨日ほど刺さらなかった。
黒い反応。
木刀。
特別推薦。
見られている理由は増えた。
でも、その中に少しだけ、自分が積み上げたものも混ざっている。
木刀。
祖父に教わったもの。
それなら、全部が怖いだけではない。
ノアが椅子の上で魚の小皿を食べながら言う。
「食べる手を止めない」
「うん……」
アリシアはパンを口へ運んだ。
朝食後、最初の授業は生活基礎だった。
一年生全員が受ける共通授業で、学園での生活規則や施設の使い方、基本的な礼法、課題の提出方法などを学ぶらしい。
場所は中央校舎の大教室。
アリシアとメリルは一緒に向かった。
ガレスとミランダとは途中で別れる。
「後で食堂な!」
ガレスが言う。
「うん」
アリシアは小さく手を振った。
前よりも、少しだけ自然に。
中央校舎の廊下は広く、石壁には学園の歴史を描いた絵が飾られていた。
千年前の大戦。
五聖人。
五つの神器。
五つの神獣。
絵の中で、火の鳥が空を舞い、水の蛇が大河を守り、風の狼が兵士たちを導き、土の亀が城壁のように立ちはだかり、光の白猫が傷ついた人々へ光を注いでいる。
美しい絵だった。
誇らしい歴史。
けれど、そこに六人目はいない。
黒猫はいない。
闇の少女もいない。
アリシアは足を少し止めた。
ノアも絵を見上げていた。
その金色の瞳は、静かだった。
何を思っているのか、アリシアには分からない。
「ノア……」
小さく呼ぶ。
ノアは絵を見上げたまま言った。
「今は覚えておきなさい」
「……うん」
「いつか、ちゃんと見る日が来るわ」
ちゃんと見る日。
それがどういう意味なのか分からなかった。
けれどアリシアは頷いた。
メリルが少し先で振り返る。
「アリシアちゃん?」
「あ、うん。今行く」
大教室に入ると、すでに多くの新入生が座っていた。
階段状の席ではなく、普通の長机が並ぶ教室。
黒板。
大きな窓。
前方には教師用の机。
新入生たちは自由席らしく、仲良くなった者同士で座っている。
メリルが空いている二人席を見つけた。
「ここ、どう?」
「うん……」
アリシアは壁側の席に座った。
ノアは足元の専用籠に入ることになった。
教室の入口で、従魔連れの生徒には小型籠が配られていたのだ。
ノアは籠を見て、露骨に嫌そうな顔をした。
「屈辱ね」
「授業中だけだから……」
「あとで覚えておきなさい」
「うぅ……」
アリシアはノアを籠に入れ、机の下に置いた。
籠の中でもノアは背筋を伸ばして座っている。
ただの猫に見えない。
アリシアは少しだけ笑いそうになったが、怒られそうなので我慢した。
生活基礎の担当は、柔らかな雰囲気の女性教師だった。
名前はセリア・モートン。
丸い眼鏡をかけ、穏やかな声で話す人だった。
「皆さん、改めて入学おめでとうございます。今日から授業が始まりますが、まずは学園で迷わず、困らず、無事に生活するための基本を確認しましょう」
その言葉だけで、アリシアは少し安心した。
迷わず。
困らず。
無事に生活。
まさに今、自分が一番必要としていることだった。
授業は分かりやすかった。
寮の門限。
食堂の時間。
図書館の利用方法。
訓練場の予約。
医務室の場所。
課題提出箱。
教師への連絡方法。
困った時の相談窓口。
アリシアは必死にメモを取った。
メリルも隣で丁寧に書いている。
途中、セリア先生が言った。
「学園生活で一番大切なのは、困った時に一人で抱え込まないことです」
アリシアの手が止まった。
「学園には教師がいます。寮監がいます。上級生の案内役もいます。もちろん、友人に相談しても構いません。困ったことを言葉にするのは、弱さではありません」
弱さではない。
その言葉が胸に残った。
アリシアはノアを見る。
机の下の籠から、金色の瞳がこちらを見ていた。
聞いたでしょう。
そんな顔だった。
アリシアは小さく頷いた。
授業の後半では、簡単な自己確認用の紙が配られた。
名前。
寮の部屋番号。
現在困っていること。
相談したいこと。
得意なこと。
苦手なこと。
アリシアは紙を前にして固まった。
現在困っていること。
多すぎる。
黒い反応のこと。
属性が分からないこと。
人見知り。
噂。
再測定。
ルシアンのこと。
全部書くわけにはいかない。
得意なこと。
何を書けばいいのだろう。
木刀?
でも、得意と言えるほどなのか。
苦手なこと。
人と話すこと。
人混み。
急に声をかけられること。
褒められること。
これも多すぎる。
アリシアはペンを持ったまま動けなくなった。
ノアが机の下から小さく言う。
「一つずつ」
「……うん」
アリシアはまず名前を書いた。
アリシア。
寮の部屋番号。
第一寮二〇八号室。
現在困っていること。
少し考えてから、こう書いた。
『人が多い場所で緊張しやすいです』
これは本当だ。
そして書いても問題ない。
相談したいこと。
『困った時に、誰に聞けばよいかまだ分からないことがあります』
得意なこと。
手が止まる。
ノアが籠の中で尻尾を動かした。
木刀。
そう言われている気がした。
アリシアは少し迷ってから書いた。
『木刀の稽古を少ししていました』
得意と言い切る勇気はなかった。
でも、書けた。
苦手なこと。
『初対面の人と話すこと』
書き終えると、少しだけ胸が軽くなった。
言葉にすると、怖さが少し形になる。
形になると、ほんの少しだけ扱える気がする。
セリア先生は用紙を回収しながら、優しく言った。
「これは評価のためではありません。皆さんがどんなことに困りやすいか、私たちが知るためのものです。正直に書けた人は、それだけで一歩進んでいます」
一歩。
またその言葉。
アリシアは胸元の守り袋に触れた。
おじいちゃん。
私、今日も一歩進んでいるのかな。
授業が終わると、メリルが隣で伸びをした。
「生活基礎、思ったより助かったね」
「うん……相談窓口とか、知らなかった」
「私も。図書館も行ってみたいな」
「図書館……」
アリシアは少し目を輝かせた。
本。
山の家にも本はあったが、数は限られていた。
中央学園の図書館。
きっと、とても大きい。
知らない本がたくさんある。
少しだけ楽しみになった。
「今度、一緒に行く?」
メリルが聞いた。
アリシアはすぐに頷きかけて、少し照れた。
「うん……行きたい」
「じゃあ、授業が落ち着いたら行こう」
また約束が増えた。
そのことが嬉しかった。
午前の二つ目は、戦闘基礎三班だった。
昨日の顔合わせとは違い、今日は本格的な基礎訓練だ。
小演習室に入ると、エレナ教官はすでに中央に立っていた。
「時間通りだな。よし、始める」
無駄がない。
生徒たちはすぐに並ぶ。
アリシアも木刀を持ち、メリルと隣に立った。
ノアは壁際の指定された場所に座っている。
籠ではなく、従魔待機用の小さな敷物が用意されていた。
ノアは籠よりはましと言いたげだった。
「今日は足運びだ」
エレナ教官が言った。
「武器を振る前に、まず足だ。立てない者は打てない。動けない者は避けられない。派手な技を求める者ほど、足元が雑になる」
足運び。
アリシアは少しだけ安心した。
祖父との稽古でも、最初はいつも足だった。
木刀を振りたいとせがんだ幼い頃も、祖父はまず立てと言った。
立つ。
歩く。
下がる。
回る。
足が乱れれば、剣は乱れる。
エレナ教官は床に線を引き、全員に基本の前進、後退、横移動をさせた。
最初は武器なし。
次に武器を持って。
さらに相手を想定して。
地味だった。
地味すぎて、何人かの生徒は少し退屈そうな顔をした。
だが、エレナ教官はすぐに見抜いた。
「退屈そうだな、カイル」
「い、いえ!」
「では前へ」
呼ばれた剣の少年カイルが前へ出る。
エレナ教官は木剣を持ち、軽く構えた。
「私を打つつもりで一歩踏み込め」
「はい!」
カイルが踏み込む。
その瞬間、エレナ教官はほとんど動いていないように見えた。
だが、カイルの剣は空を切り、次の瞬間、彼の足元が崩れた。
「うわっ」
カイルは尻もちをつきかけ、どうにか踏みとどまる。
エレナ教官は言った。
「足が雑だと、こうなる」
演習室が静まり返る。
「派手な打ち込みより、今の一歩を直せ」
「は、はい……」
誰も退屈そうな顔をしなくなった。
アリシアも息を飲んだ。
今の教官の動き。
わずかな体重移動。
カイルの踏み込みの外側へ、ほんの少しずれただけ。
それだけで、相手の力を空にした。
祖父の動きに似ている。
少しだけ。
いや、方向は違うけれど、考え方が似ている。
アリシアは自然と目が鋭くなった。
もっと見たい。
どう動いたのか知りたい。
恐怖よりも、興味が前に出る。
ノアが壁際でそれに気づき、尻尾を揺らした。
「アリシア」
エレナ教官が呼んだ。
アリシアははっとする。
「はい」
「前へ」
「……はい」
心臓が跳ねた。
また見られる。
でも、昨日ほど足は止まらなかった。
木刀を持って前へ出る。
エレナ教官は木剣を構えた。
「同じだ。私を打つつもりで一歩踏み込め」
「はい」
返事の声は、少し落ち着いていた。
アリシアは木刀を構える。
その瞬間、空気が変わる。
周囲の生徒たちが気づく。
さっきまでの小さく怯えた少女ではない。
黒い瞳が静かに沈み、肩の力が抜ける。
足元が床に馴染む。
エレナ教官もわずかに目を細めた。
「来い」
アリシアは踏み込んだ。
速くはない。
だが、静かだった。
木刀が真っ直ぐ進む。
エレナ教官はカイルの時と同じように、わずかにずれた。
アリシアの木刀は、空を切るはずだった。
だが。
アリシアの足が止まらなかった。
一歩目の打ち込みが外れると同時に、体がほんの少し沈む。
木刀の軌道が変わる。
追うのではなく、逃げた先へ置くように。
エレナ教官の木剣が、アリシアの木刀を受けた。
乾いた音が鳴る。
かん、と小さく。
演習室が静まった。
アリシアはそこで動きを止めた。
打ち込んだ自分に、少し遅れて気づく。
「あ……」
戦闘の集中が抜ける。
途端に顔が赤くなる。
「あ、あの、すみま……」
「謝るな」
エレナ教官がすぐに言った。
アリシアは口を閉じる。
エレナ教官は木剣を下ろし、アリシアを見た。
「今のは良い反応だ」
「え……」
「外された時に、力任せに追わなかった。足を残し、軌道を変えた。教わっているな」
「祖父に……何度も、外されたので……」
「だろうな」
エレナ教官は少し口元を緩めた。
「だが、二手目に意識が寄りすぎる。初手を外される前提にすると、初手が軽くなる。そこは直せ」
「はい」
指摘が嬉しかった。
おかしな感覚だった。
注意されているのに、嬉しい。
見てもらえている。
ちゃんと、自分の動きを見てくれている。
アリシアは木刀を握り直した。
「戻れ」
「はい」
列に戻ると、周囲の視線が変わっていた。
昨日の木刀への珍しさ。
黒い反応への警戒。
それらに加えて、今は明らかな驚きがあった。
「今の……反応した?」
「エレナ先生の動きに?」
「木刀で?」
「いや、木刀だからとかじゃなくて……」
声が聞こえる。
アリシアはまた肩を縮めそうになる。
しかし、メリルが小声で言った。
「すごかった」
アリシアはメリルを見る。
メリルは目を輝かせていた。
「本当に」
「……ありがとう」
今度は、ほんの少しだけ受け取れた。
訓練は続いた。
足運び。
前進。
後退。
斜めの移動。
相手の武器の届く距離。
攻撃を外された時の戻り。
地味な反復が続いた。
生徒たちは汗をかき、息を上げる。
アリシアも疲れた。
けれど、木刀を握っている間は不思議と心が乱れなかった。
何度も祖父に教わったこと。
山の朝。
土の上。
木漏れ日。
祖父の低い声。
膝を緩めろ。
肩を落とせ。
見るな、感じろ。
怖い時ほど息を止めるな。
それらが体に残っている。
授業が終わる頃、アリシアの額には汗が滲んでいた。
でも、胸の中は少し澄んでいた。
エレナ教官が全員を見渡す。
「今日はここまで」
生徒たちが一斉に息を吐いた。
「明日も足運びを続ける。武器を振りたい者ほど、まず足を鍛えろ」
「はい」
返事が揃った。
授業後、カイルが少し迷いながらアリシアへ近づいてきた。
昨日、木刀を見ていた剣の少年だ。
アリシアは少し身構える。
カイルは頭をかいた。
「あのさ」
「は、はい」
「さっきの二手目……どうやったんだ?」
「え……」
「俺、先生に外されたら完全に崩れたから。アリシアは崩れなかっただろ」
アリシアは驚いた。
質問された。
馬鹿にするのではなく、教えてほしいという声だった。
どう答えればいいのか分からず、少し目が泳ぐ。
ノアが壁際からじっと見ている。
アリシアは木刀を軽く持ち上げた。
「えっと……外された時に、手だけで追わないで……足を残して、体を少し沈めると……たぶん、次に動ける……と思います」
「足を残す?」
「うん。踏み込みすぎると、戻れないから……」
アリシアは床に足を置いて、ほんの少し示した。
「ここで全部乗ると、前に流れる。でも、少しだけ後ろに残すと……」
軽く木刀を動かす。
カイルは真剣に見ていた。
「なるほど……だから先生に外されても崩れなかったのか」
「私は、祖父に何度も転ばされただけで……」
「それでもすごいよ。ありがとう」
ありがとう。
教えてくれて。
そう言われた。
アリシアは胸がくすぐったくなった。
「い、いえ……」
カイルは少し笑って、自分の剣を持ち直した。
「また聞いてもいい?」
アリシアは驚いた。
でも、嫌ではなかった。
「私で、分かることなら……」
「助かる」
カイルは去っていった。
メリルが隣でにこにこしている。
「アリシアちゃん、先生みたいだった」
「そ、そんなことない……」
「でも、分かりやすかったよ」
「うぅ……」
アリシアは顔を赤くした。
ノアが近づいてきて、尻尾で足首を叩く。
「七十八点」
「え、何の点?」
「教え方」
「微妙に細かい……」
「最初に『たぶん』が多い。声が小さい。でも説明自体は悪くなかった」
「……ありがとう」
ノアはふん、と鼻を鳴らした。
演習室を出ると、廊下には他の班の生徒たちもいた。
一班から戻ってきたガレスとミランダが、こちらを見つけて駆け寄ってくる。
「アリシア! 三班どうだった!」
ガレスの声は相変わらず大きい。
でも、アリシアは少し笑って答えられた。
「足運びを……やったよ」
「足か! 大事だな!」
「ガレス君も足運び?」
「俺たちは走った!」
「やっぱり……」
メリルが苦笑する。
ミランダは汗を拭きながら笑った。
「でも楽しかったよ! アリシアは?」
楽しかったか。
アリシアは少し考えた。
怖かった。
見られた。
緊張した。
でも、木刀を握っている時間は、少しだけ自分でいられた。
「……少し、楽しかった」
言うと、ミランダが満面の笑みになる。
「よかった!」
ガレスも頷く。
「いいな! 戦闘基礎は楽しい!」
「うん……」
アリシアは小さく頷いた。
午後は魔法基礎の説明があったが、アリシアは保留のため通常班には参加しなかった。
代わりに、教務主任から個別連絡が来た。
再測定は三日後。
場所は魔法演習棟の第二測定室。
立ち会いは教務主任と測定担当教師のみ。
その紙を受け取った時、アリシアの胸はまた少し冷えた。
けれど、午前の戦闘基礎で得た温かさが、完全には消えなかった。
部屋に戻ったアリシアは、机に向かった。
今日の練習帳を開く。
『最初の授業がありました。生活基礎では、困った時に一人で抱え込まないことを教わりました。戦闘基礎では、足運びをしました。エレナ先生に、木刀の動きを見てもらいました。カイルさんに、足の残し方を聞かれました。少しだけ、誰かの役に立てた気がしました』
そこまで書いて、アリシアは手を止めた。
誰かの役に立てた。
その一文が、少し恥ずかしい。
でも、消さなかった。
ノアが机の上に飛び乗る。
「今日は?」
「何点?」
「先に聞かれると思ったわ」
「うん……気になるから」
ノアは少し考えた。
「八十二点」
「昨日より下がった……」
「昨日は入学式補正よ」
「補正……」
「でも悪くないわ。生活基礎でちゃんと書けた。戦闘基礎で動けた。人に説明もした。食堂も普通に行けた」
「減点は?」
「噂でまだ固まりすぎ。あと、褒められるたびに挙動不審」
「うぅ……」
「でも」
ノアはアリシアの練習帳を見る。
「『誰かの役に立てた』は、悪くないわ」
アリシアは目を丸くした。
「読んだの?」
「見えたのよ」
「ノア……」
「いいじゃない。事実でしょう」
アリシアは少し俯いた。
けれど、今度は恥ずかしさだけではなかった。
嬉しい。
確かに、嬉しかった。
「うん……少しだけ」
「その少しを積みなさい」
「積む?」
「そう。あんたは急に強くならない。でも、少しずつなら積める」
ノアは尻尾を揺らした。
「今日の一歩は、悪くなかったわ」
アリシアは胸元の守り袋に触れた。
今日の一歩。
生活基礎。
戦闘基礎。
木刀。
カイルへの説明。
再測定の通知。
怖いこともある。
でも、怖いだけではない。
アリシアは窓の外を見る。
夕方の学園は、少しずつ橙色に染まっていた。
遠くの訓練場から、まだ誰かの掛け声が聞こえる。
食堂へ向かう生徒たちの声もする。
ここはもう、完全に知らない場所ではなくなってきている。
ほんの少しずつ。
アリシアはペンを持ち、練習帳の最後に一行を書き足した。
『明日も、一つだけできることを増やしたいです』
書き終えると、ノアが満足そうに目を細めた。
「いいんじゃない」
「本当?」
「ええ。ただし、背筋はまだ課題ね」
「そこはずっと言うんだ……」
「当然」
アリシアは笑った。
小さく、けれど昨日より自然に。
明日も怖い。
三日後には再測定がある。
黒い光の意味はまだ分からない。
それでも、今日の自分には、少しだけ積めたものがある。
アリシアは木刀を見た。
祖父から受け取った木刀は、夕日の中で静かにそこにあった。
神器ではない。
伝説の武器でもない。
けれど今のアリシアにとって、それは確かに、自分を支える一本だった。




