第12話 木刀の少女
小演習室の中は、思っていたよりも広かった。
扉をくぐった瞬間、アリシアはまず天井の高さに驚いた。
外から見た時は、普通の教室より少し大きいくらいの建物だと思っていた。けれど中に入ると、そこはほとんど小さな訓練場だった。
床は硬い木材で組まれている。
壁際には模擬剣、木槍、訓練用の盾、短弓、打撃用の人形が並んでいた。
窓は高い位置にあり、昼の光が斜めに差し込んでいる。光の帯の中を、細かな埃がゆっくり舞っていた。
山の稽古場とは違う匂いがする。
磨かれた木の匂い。
革の匂い。
金属の匂い。
そして、人の緊張が混ざった匂い。
アリシアは木刀の柄に触れたまま、一歩だけ中へ入った。
その瞬間、数人の視線がこちらへ向く。
制服姿の黒髪の少女。
腰の木刀。
足元の黒猫。
昨日の黒い属性反応。
見られる理由は、いくつもあった。
アリシアの肩が自然と縮みそうになる。
けれど、足元から短い声がした。
「背筋」
ノアだ。
小さな声。
周囲には聞こえない声。
アリシアは唇を結び、少しだけ背筋を伸ばした。
隣にいたメリルが、そっと小声で言う。
「一緒に入ろう」
「うん……」
二人と一匹は、壁際に近い場所へ移動した。
すでに十数人ほどの生徒が集まっている。
戦闘基礎三班。
その名前の通り、ここには戦闘訓練を受ける新入生が集められている。
剣を持つ少年。
槍を持つ少女。
盾を背負った大柄な男子。
短弓を持った小柄な女子。
杖を持っているが、近接訓練用なのか短剣も腰に差している生徒。
皆、それぞれの武器を持っていた。
アリシアは無意識に自分の木刀を見下ろす。
刃はない。
金属でもない。
ただ、祖父が渡してくれた木刀。
山の中で何度も握ってきたもの。
けれど、この場にいると、それだけがひどく頼りなく見えた。
近くにいた男子生徒が、ちらりとアリシアの腰元を見た。
「木刀……?」
小さな声だった。
悪意があるわけではない。
ただ、珍しさが勝った声。
隣の生徒も見る。
「模擬武器じゃなくて、自前?」
「訓練用かな」
「でも入学式の日から持ってるよな」
声が広がる前に、メリルがアリシアの隣へ少し寄った。
アリシアはそれに気づき、少しだけ息を吸えた。
ノアは足元で静かに座っている。
普通の黒猫の顔。
けれど、尾の先が床を一度だけ叩いた。
気にするな。
アリシアは小さく頷いた。
しばらくして、演習室の入口が大きく開いた。
ざわめきが止まる。
入ってきたのは、一人の女性教師だった。
年齢は三十代半ばほどに見える。
短く切った灰色の髪。
鋭い目。
学園の教師用制服の上から、動きやすそうな革の胸当てをつけている。
腰には細身の剣。
歩く姿に無駄がなかった。
足音は軽いのに、空気が引き締まる。
アリシアはその人を見た瞬間、背中に緊張が走った。
強い。
言葉にされなくても分かる。
祖父と同じ種類ではない。
けれど、戦い慣れている人だ。
女性教師は演習室の中央に立ち、全員を見渡した。
「戦闘基礎三班、全員いるな」
声は低すぎず、高すぎず、よく通った。
「私は担当のエレナ・ヴァイスだ。これから一年、お前たちの戦闘基礎を受け持つ」
生徒たちが自然と姿勢を正す。
アリシアも慌てて背筋を伸ばした。
「まず言っておく。この授業は、強者をさらに威張らせるための場ではない」
エレナ教官は淡々と言った。
「そして、弱者を笑う場でもない」
その言葉に、アリシアの胸が少し揺れた。
「戦闘基礎とは、自分の体を知り、自分の武器を知り、相手の動きを知り、危険から身を守るための最初の土台だ」
エレナ教官の視線が、生徒たちを一人ずつ撫でるように動く。
「剣を持つ者。槍を持つ者。弓を持つ者。盾を持つ者。魔法を主とするが護身術を学ぶ者。理由はそれぞれだろう」
アリシアの木刀にも、視線が一瞬だけ触れた。
だが、そこで止まらなかった。
笑わない。
驚かない。
ただ、確認しただけ。
それが逆に、アリシアの胸を少し落ち着かせた。
「今日の顔合わせでは、班内の確認と、簡単な基礎動作を見る」
生徒たちの間に緊張が走る。
「模擬戦はしない。まだな」
何人かがほっと息を吐いた。
アリシアも少し安心した。
しかし、ノアは足元で呟いた。
「安心するのは早いわよ」
「え……」
小さく漏れた声に、メリルがアリシアを見る。
「どうしたの?」
「あ、ううん……なんでもない」
エレナ教官は手元の名簿を開いた。
「まずは名前と使用武器、戦闘経験の有無を言え。簡潔に。余計な自慢はいらない」
自慢はいらない。
その言葉に、何人かが気まずそうな顔をした。
エレナ教官は名簿の最初の名前を呼ぶ。
「カイル・ロウ」
「はい!」
剣を持った少年が前に出た。
「カイル・ロウです。使用武器は片手剣。地元の道場で五年ほど習っていました」
「戻れ」
「はい」
次。
槍の少女。
「ミーナ・クラフトです。使用武器は槍。実戦経験はありませんが、家で基礎訓練を受けました」
次。
盾の少年。
弓の少女。
短剣の生徒。
一人ずつ、前へ出て名乗る。
皆、緊張している。
声が大きい者もいれば、小さくなる者もいる。
噛む者もいる。
武器を言い間違えて笑われかける者もいたが、エレナ教官が一瞥しただけで笑いは消えた。
アリシアはそれを見て、少しだけ安心した。
ここでは、笑われにくい。
少なくとも教官は、そういう空気を許さない。
けれど、自分の番が近づくにつれ、胸の鼓動は速くなる。
名前。
武器。
戦闘経験。
それだけを言えばいい。
たったそれだけ。
でも、人前に出て話すことは、アリシアにとってまだ大きな壁だった。
メリルの番が来た。
「メリル・ファーレン」
「はい」
メリルは少し緊張しながら前へ出た。
「メリル・ファーレンです。主武器は杖ですが、護身用に短剣を少し習っています。戦闘経験はありません」
「風属性だったな」
「はい」
「風属性は距離を取る癖がつきやすい。近距離で固まらないように学べ」
「はい」
メリルは真剣に頷き、戻ってきた。
その表情は少しほっとしている。
次。
数人を挟んで。
「アリシア」
名前が呼ばれた。
家名はない。
ただ、アリシア。
その短い響きが演習室に落ちた瞬間、何人かの視線が動いた。
黒い反応の子。
木刀の子。
黒猫の子。
そんな言葉が、声にならずに視線だけで伝わってくる。
アリシアは息を吸った。
足元のノアを見る。
ノアは座ったまま、金色の瞳でこちらを見ていた。
行きなさい。
アリシアは一歩前へ出た。
床板が小さく鳴る。
演習室の中央まで歩く。
エレナ教官の前で立つ。
視線が集まる。
声が出るだろうか。
喉が少し詰まる。
アリシアは木刀の柄に触れた。
祖父の手。
山の稽古。
何度も繰り返した素振り。
怖くても、一歩だけ。
「ア、アリシア……です」
声は震えた。
けれど、消えなかった。
「使用武器は……木刀です」
周囲に、ほんの少しだけざわめきが生まれた。
「木刀……」
「本当に?」
「訓練用じゃなくて?」
エレナ教官が目を細めた。
ざわめきが止まる。
「続けろ」
「は、はい。戦闘経験は……祖父との稽古と、山での魔物相手の護身程度……です」
魔物相手。
その言葉に、また空気が少し揺れた。
今度は驚きが強かった。
「魔物?」
「山で?」
「木刀で?」
アリシアは肩を縮めそうになる。
だが、エレナ教官の声が飛んだ。
「静かに」
一言で演習室が静まる。
エレナ教官はアリシアをまっすぐ見た。
「木刀を選ぶ理由は?」
問われた。
アリシアは少し迷った。
祖父からもらったから。
それが一番の理由。
でも、それだけでは授業で通じないのではないか。
木刀で本当に戦えるのかと疑われるのではないか。
考えが絡まりそうになる。
その時、ノアの声が足元から小さく届いた。
「飾らない」
継承の儀の日、祖父が言った言葉にも似ていた。
飾るな。
強がるな。
嘘をつくな。
アリシアは息を吸った。
「祖父に……これで学びなさいと、渡されました」
エレナ教官は黙って聞いている。
「私は、まだ……本物の刃を持つには、未熟なので……まずはこれで、自分をちゃんと扱えるようにと……」
言葉は拙い。
でも、本当だった。
エレナ教官はしばらくアリシアを見ていた。
それから短く頷いた。
「よい答えだ」
アリシアは目を瞬かせた。
「え……」
「武器に振り回される者は多い。刃を持つことを強さと勘違いする者もな」
エレナ教官は演習室全体に向けて言った。
「木刀を侮るな。刃がなくても、打ち所が悪ければ骨は折れる。使い手次第では、真剣より厄介なこともある」
周囲の生徒たちが少し姿勢を正した。
アリシアは胸が熱くなった。
木刀を笑われなかった。
それどころか、教官が認めてくれた。
「戻れ、アリシア」
「は、はい」
アリシアは頭を下げ、戻った。
メリルが小さく微笑む。
「よかったね」
「うん……」
ノアは足元で尻尾を揺らした。
「七十点」
アリシアは小声で言う。
「何が減点?」
「最初に声が震えすぎ。あと、戻る時に足元見すぎ」
「厳しい……」
「でも、言うべきことは言えたわ」
アリシアは小さく頷いた。
その後も自己紹介は続いた。
全員が終わると、エレナ教官は名簿を閉じた。
「よし。次に基礎確認を行う」
演習室の空気がまた引き締まる。
「武器ごとに分かれろ。剣、槍、弓、盾、短武器、杖。アリシア、お前は剣の列でいい」
「は、はい」
木刀だが、扱いは剣。
アリシアは剣を持つ生徒たちの列へ向かった。
片手剣、両手剣、細剣。
それぞれの模擬武器を持つ生徒たちの中で、木刀はやはり目立った。
だが、先ほどエレナ教官が木刀を侮るなと言ったためか、表立って笑う者はいなかった。
基礎確認は、まず立ち方からだった。
「構えろ」
エレナ教官の声が飛ぶ。
生徒たちはそれぞれの武器を構える。
アリシアも木刀を抜いた。
すっと、空気が変わった。
本人は気づいていなかった。
ただ、いつものように木刀を握っただけ。
祖父に教わったように、左足を半歩引き、膝を緩め、肩の力を抜く。
視線は相手を見るのではなく、場全体を見る。
呼吸を落とす。
木刀の切っ先を、わずかに下げる。
山で何度も繰り返した構え。
怖い時も。
泣きそうな時も。
祖父の前に立った時も。
この構えに入ると、心の音が少し遠くなる。
アリシアの表情から、先ほどまでの怯えが薄れた。
黒い瞳が静かになる。
背筋が自然と伸びる。
細い体から、無駄な力が消える。
近くにいた剣の生徒が、ふとアリシアを見た。
何か違う。
そう感じたのか、少しだけ目を見開いた。
エレナ教官も気づいた。
彼女の視線がアリシアの構えに止まる。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
「……」
エレナ教官は何も言わなかった。
そのまま他の生徒の構えを確認していく。
「肩に力が入りすぎ」
「剣先が高い」
「腰が引けている」
「盾持ちは足を止めるな」
「弓は構え以前に視線が散りすぎだ」
一人一人に短く指摘が飛ぶ。
アリシアの前に来た時、エレナ教官は足を止めた。
アリシアは構えたまま、静かに教官を見る。
いや、教官だけを見ているのではない。
教官の肩。
腰。
足。
呼吸。
周囲の気配。
全部をぼんやりと、しかし広く捉えている。
エレナ教官の目が細くなった。
「誰に習った」
「祖父です」
声は、先ほどよりも落ち着いていた。
メリルはその声に驚いた。
いつものアリシアとは少し違う。
震えが少ない。
短く、静か。
エレナ教官はさらに問う。
「流派は?」
「分かりません」
「型の名は?」
「祖父は……山の剣、とだけ」
「山の剣」
エレナ教官は小さく繰り返した。
そして頷く。
「面白い」
その言葉に、周囲の剣の生徒たちが少し反応した。
面白い。
教官がそう言った。
アリシアは構えを崩さない。
戦闘の空気の中では、褒められたことへの照れも遅れてやってくる。
今は、ただ立つ。
それだけ。
「よし。次、素振りだ」
エレナ教官は全体へ向き直った。
「各自、正面打ち十回。速度より正確さを重視しろ。始め」
生徒たちが一斉に武器を振る。
空気が動いた。
剣の音。
槍の風切り音。
弓持ちたちは弓を置き、短剣で基礎動作をしている。
アリシアも木刀を振った。
一振り。
音が小さい。
派手さはない。
だが、切っ先の軌道がまったくぶれなかった。
二振り。
三振り。
呼吸と動きがずれていない。
速くはない。
力強くも見えない。
でも、静かに正確だった。
隣で片手剣を振っていたカイルが、ちらりと見て手を止めかける。
「止めるな」
エレナ教官がすぐに言った。
「は、はい!」
カイルは慌てて素振りに戻る。
アリシアは周囲に気づいているのかいないのか、ただ木刀を振った。
十回。
最後まで、軌道は乱れなかった。
「止め」
エレナ教官の声で、全員が止まる。
何人かは息が上がっていた。
アリシアは静かに木刀を下ろす。
その瞬間、少しずつ意識が戻ってくる。
周囲の視線。
自分が見られていること。
エレナ教官がこちらを見ていること。
隣のカイルが驚いた顔をしていること。
メリルが目を丸くしていること。
それに気づいた瞬間、アリシアの顔が赤くなった。
戦闘の空気が抜ける。
肩が少し縮む。
「あ、あの……何か、変でしたか……?」
いつもの声に戻った。
小さく、少し怯えた声。
その変化に、何人かの生徒がさらに驚く。
今の静かな構えと、目の前のオドオドした少女が繋がらない。
エレナ教官は口元をわずかに動かした。
笑ったのかもしれない。
「変ではない。むしろ基礎はかなり良い」
「え……」
「胸を張れ。褒めている」
「は、はい……」
アリシアは慌てて背筋を伸ばした。
ノアが壁際から見ている。
尾がゆっくり揺れていた。
満足しているようだった。
エレナ教官は全員に向けて言った。
「見た目で判断するな」
演習室が静まる。
「大剣を持っているから強いとは限らない。木刀だから弱いとも限らない。体が大きいから耐えるとも限らない。小柄だから動けないとも限らない」
生徒たちは真剣に聞いていた。
「戦闘で最初に死ぬのは、相手を見誤る者だ」
重い言葉だった。
アリシアはその言葉に、ぞくりとした。
祖父も似たことを言っていた。
敵を決めつけるな。
獣も、人も、魔物も、見た目で動きを決めるな。
そう何度も教えられた。
「次に、二人組で間合い確認を行う」
エレナ教官が続けた。
「打ち合いではない。互いに一歩踏み込み、届く距離と届かない距離を確認する。力を入れるな。勝ち負けではない」
生徒たちが少しざわつく。
二人組。
アリシアの胸が跳ねた。
誰と組むのだろう。
自分から声をかけるのは苦手だ。
余ったらどうしよう。
考えた瞬間、メリルが近づいてきた。
「アリシアちゃん、組もう」
「え……いいの?」
「うん。私、近距離苦手だから、教官にも練習しろって言われたし」
「でも……私、木刀で」
「打ち合いじゃないんでしょ?」
「うん……」
「じゃあ大丈夫」
メリルは笑った。
アリシアは胸が温かくなる。
「ありがとう」
「こちらこそ」
二人は向かい合った。
メリルは短剣を抜く。
アリシアは木刀を構える。
ノアが壁際でじっと見ている。
エレナ教官の声が響く。
「まずは互いの武器の長さを見る。踏み込まずに届く距離。半歩で届く距離。一歩で届く距離。それを体で覚えろ」
メリルは少し緊張している。
「アリシアちゃん、よろしく」
「うん……よろしく」
最初は静かに。
アリシアは木刀を前へ出し、メリルの短剣との距離を見る。
短剣は近い。
杖や風魔法を使うメリルにとって、短剣は最後の護身用なのだろう。
踏み込ませない距離を保つことが大事になる。
「メリルさん、少し……右足が前に出すぎかも」
アリシアは自然に言った。
言ってから、はっとする。
自分から指摘してしまった。
偉そうだったかもしれない。
「あ、ご、ごめ……」
「ううん。教えて」
メリルは真剣だった。
「右足?」
「うん。短剣で届かせようとして、体だけ前に行ってるから……戻る時、遅れると思う」
「なるほど……」
メリルは足の位置を直した。
「こう?」
「うん……たぶん」
「たぶん?」
「あ、えっと……私は短剣は詳しくないけど、体の重さが前に行きすぎると危ないって、祖父が……」
「うん。助かる」
メリルは素直に受け取ってくれた。
アリシアはほっとした。
エレナ教官が二人の横を通る。
足を止めた。
「アリシア」
「は、はい」
「今の指摘は悪くない。だが、最後に『たぶん』で濁すな。根拠があるなら言い切れ。自信がないなら、理由を添えて提案しろ」
「は、はい……」
「メリル。指摘を受けた時にすぐ足だけ直すな。なぜそう言われたか考えろ」
「はい」
エレナ教官は二人を見て頷いた。
「続けろ」
去っていく。
アリシアは少し息を吐いた。
厳しい。
でも、理不尽ではない。
ちゃんと見てくれている。
その後、二人で間合いを確認した。
メリルが一歩踏み込む。
アリシアが半歩下がる。
木刀の届く距離。
短剣が届く距離。
風属性のメリルが本来取りたい距離。
アリシアは、戦闘の話になると少しだけ言葉が出た。
「今の距離なら、短剣より先に木刀が届く」
「うん」
「でも、メリルさんが風で足を速くしたら、たぶん……あ、えっと、踏み込みが変わるから、今の距離は安全じゃないかも」
「なるほど……じゃあ魔法ありならもう少し離れる?」
「うん」
「アリシアちゃん、すごいね」
「えっ」
急に褒められて、アリシアの集中が途切れた。
顔が赤くなる。
「そ、そんなこと……」
「だって、すごく分かりやすい」
「わ、私は、祖父に言われたことを……」
「それをちゃんと覚えてるのがすごいよ」
メリルは笑った。
アリシアは視線を落としそうになる。
だが、ノアの視線を感じた。
受け取りなさい。
アリシアは小さく息を吸った。
「……ありがとう」
言えた。
メリルは嬉しそうに頷いた。
間合い確認が終わると、エレナ教官が全員を集めた。
「今日の顔合わせはここまでだ」
何人かがほっとする。
「明日から本格的に基礎訓練へ入る。武器の持ち込みは許可するが、危険と判断した場合はこちらで訓練武器を指定する」
エレナ教官の視線がアリシアにも向いた。
「木刀も同じだ。アリシア、点検を受けろ」
「は、はい」
「授業後、残りなさい」
残る。
その言葉に、アリシアの胸が少し跳ねる。
怒られるのだろうか。
木刀を取り上げられるのだろうか。
不安が顔に出たのか、エレナ教官は少しだけ言い添えた。
「心配するな。武器として危険がないか確認するだけだ」
「は、はい……」
「では解散」
生徒たちが動き始める。
それぞれ感想を話している。
「思ったより基礎からだったな」
「エレナ先生、怖いけどちゃんとしてる」
「アリシアの構え、見た?」
「木刀なのに妙に綺麗だった」
「昨日の黒い反応の子だよな」
「戦えるのかなと思ったけど……」
また視線。
また噂。
けれど、さっきまでとは少し違う。
黒い反応だけではない。
木刀。
構え。
基礎。
別の見られ方が混ざっている。
アリシアには、それが良いのか悪いのか分からなかった。
でも、少なくとも「魔族」という言葉よりは痛くなかった。
メリルが近づく。
「アリシアちゃん、私、先に外で待ってるね」
「え……待ってなくても」
「待ってる。終わったら一緒に食堂行こう」
「……うん。ありがとう」
メリルは笑って、演習室を出ていった。
ノアはアリシアの足元に来る。
「木刀点検ね」
「うん……」
「堂々としてなさい。別に悪いことをしたわけじゃない」
「うん」
アリシアは木刀を抱え、エレナ教官の前へ向かった。
演習室には、他の生徒がほとんどいなくなっていた。
エレナ教官は机の上に布を広げ、そこへ木刀を置くよう示した。
「ここへ」
「はい」
アリシアは木刀をそっと置いた。
祖父からもらった大切なもの。
他人に預けるだけで、少し緊張する。
エレナ教官は木刀を手に取り、重さを確かめた。
片手で持ち、軽く振る。
その瞬間、教官の表情が少し変わった。
「……よく馴染んでいるな」
「え?」
「持ち主に合わせて削られている。重心も独特だ。市販品ではない」
「祖父が……作ってくれました」
「だろうな」
エレナ教官は木刀の表面を指でなぞった。
細かな傷。
使い込まれた跡。
手入れされた艶。
「よく稽古している」
アリシアは驚いた。
「分かるんですか……?」
「分かる。飾りで持っている武器と、毎日握られた武器は違う」
エレナ教官は木刀をアリシアへ返した。
「使用を許可する」
アリシアはほっと息を吐いた。
「あ、ありがとうございます」
「ただし、授業中に私が危険と判断した場合は一時的に預かる。いいな」
「はい」
エレナ教官はアリシアを見た。
その目は厳しいが、先ほどより少しだけ柔らかい気がした。
「アリシア」
「はい」
「昨日の属性測定のことは聞いている」
胸が跳ねた。
やはり。
アリシアは木刀を握る手に力を込めた。
ノアも足元で静かにエレナ教官を見る。
「だが、私の授業では測定結果だけで判断しない」
「……」
「ここでは、動きを見る。姿勢を見る。判断を見る。相手への向き合い方を見る」
エレナ教官はまっすぐ言った。
「黒い反応が出たからといって、剣の評価が変わることはない」
アリシアは息を止めた。
その言葉が、胸の奥に深く染み込んでいく。
黒い反応。
保留。
再測定。
噂。
それらとは別に、自分を見てくれる場所がある。
木刀を握る自分を。
動く自分を。
祖父に教わったものを。
「……ありがとうございます」
今度の礼は、自然に出た。
エレナ教官は頷いた。
「ただし」
「は、はい」
「戦闘時と平時の差が大きすぎる」
アリシアは固まった。
「え……」
「構えた時は目が据わる。木刀を下ろすと急に萎む。あれでは相手に隙を読まれる」
「う……」
的確だった。
ノアが足元で小さく鼻を鳴らした。
「言われてるわよ」
アリシアは心の中で、うぅ、と呻いた。
エレナ教官は続ける。
「戦闘の集中を保つことだけが強さではない。戦う前、戦った後も含めて自分を保てるようにしなさい」
「はい……」
「これは今後の課題だ」
「分かりました」
エレナ教官はそれで話を終えた。
「行っていい」
「はい。失礼します」
アリシアは頭を下げ、木刀を腰に戻した。
演習室を出る前に、もう一度だけ振り返る。
エレナ教官はすでに次の書類を見ていた。
厳しい人。
でも、ちゃんと見てくれる人。
アリシアはそう思った。
演習室の外に出ると、メリルが本当に待っていてくれた。
壁際で案内紙を見ながら立っている。
アリシアを見ると、ぱっと顔を上げた。
「終わった?」
「うん。木刀、使っていいって」
「よかった!」
メリルは自分のことのように喜んでくれた。
その反応に、アリシアの胸が温かくなる。
「エレナ先生、怖かった?」
「怖いけど……ちゃんと見てくれる人だと思う」
「うん。私もそう思った。足のこと言われたの、すごく納得したし」
二人は並んで歩き出した。
ノアはアリシアの足元を歩く。
廊下には、他の班の生徒たちも行き交っていた。
遠くから、ガレスの声が聞こえる。
「一班、初日から走らされたぞ!」
ミランダの声も続く。
「楽しかった!」
「楽しかったのか……」
メリルが苦笑する。
アリシアも少し笑った。
その笑いは、午前よりずっと自然だった。
食堂へ向かう途中、メリルがふと言った。
「アリシアちゃん」
「うん?」
「木刀を構えた時、すごかったよ」
アリシアは足を止めかけた。
「え……」
「なんていうか、空気が変わった」
「そ、そうかな……」
「うん。私、ちょっと緊張した。でも怖いだけじゃなくて……綺麗だった」
「綺麗……」
また、受け取り方の分からない言葉。
でも、メリルの声は本気だった。
アリシアは視線を落としそうになり、ノアに見られている気がして、どうにか顔を上げた。
「ありがとう……まだ、よく分からないけど」
「うん」
「でも……祖父に教わったものだから、そう言ってもらえると、嬉しい」
言えた。
祖父に教わったものを褒められるのは、自分を褒められるよりも素直に嬉しかった。
メリルは微笑んだ。
「いつか、アリシアちゃんのおじいさんの話も聞きたいな」
アリシアは少し胸がきゅっとなった。
祖父。
山にいる祖父。
今頃、何をしているだろう。
「うん……いつか」
そう答えた。
食堂に着くと、ガレスとミランダがすでに席を取っていた。
ガレスは少し汗をかいている。
ミランダはなぜか元気いっぱいだった。
「アリシア! メリル! こっち!」
ミランダが手を振る。
アリシアは手を小さく振り返した。
昨日よりも少しだけ自然に。
席に着くと、ガレスがすぐ聞いた。
「三班どうだった?」
「基礎確認をしたよ」
メリルが答える。
「エレナ先生、厳しいけど分かりやすかった」
「一班の先生も厳しかったぞ! いきなり走った!」
ガレスは嬉しそうだった。
ミランダも頷く。
「走った! 楽しかった!」
「二人とも楽しそう……」
アリシアは少し笑った。
ガレスがアリシアを見る。
「アリシアは木刀振ったのか?」
「うん……少しだけ」
「どうだった?」
「えっと……教官に、基礎は良いって……」
言うのが恥ずかしくて、声が小さくなる。
しかし、ガレスは目を輝かせた。
「おお! すごいじゃないか!」
ミランダも身を乗り出す。
「見たかった!」
「そ、そんなにすごいものじゃ……」
「エレナ先生に褒められるのはすごいよ」
メリルが言う。
「うん。本当に綺麗だった」
また言われて、アリシアは顔を赤くした。
ノアは椅子の上で魚の小皿を待ちながら、尻尾を揺らしている。
誇らしげに見えた。
アリシアはそれに気づき、少しだけ嬉しくなる。
食事の途中、近くの席から声が聞こえた。
「あの子、黒い反応の子だよな」
「でも三班で木刀すごかったらしいぞ」
「へぇ」
「魔法は変だけど、剣はできるってこと?」
「木刀で?」
アリシアの手が止まる。
また噂。
けれど、内容が少し変わっている。
黒い反応だけではない。
木刀。
剣。
基礎。
自分が今日見せたものが、少しだけ噂の中に混ざっている。
ガレスがそちらを見ようとしたが、アリシアは小さく首を横に振った。
「大丈夫……」
本当に大丈夫かは分からない。
でも、今はそう言えた。
ガレスは少し迷い、それから頷いた。
「そうか」
ミランダが明るく言う。
「次、三班の授業見学できないかな!」
「見学は無理だと思う」
メリルが笑う。
「じゃあアリシアがいつか見せて!」
「えっ」
アリシアは固まった。
人前で木刀を振る。
想像すると緊張する。
けれど、今日のように授業ならできるかもしれない。
戦う空気に入れば、少しだけ。
「いつか……なら」
小さく答えた。
ミランダはぱっと笑った。
「約束ね!」
「や、約束……?」
「うん!」
また一つ、未来の言葉が増えた。
また明日。
一緒に食堂。
いつか見せて。
約束。
アリシアはその言葉たちを胸の中でそっと抱える。
怖いことは消えない。
黒い反応も、再測定も、ルシアンへの警戒も、噂も。
でも、それだけではない。
木刀を認めてくれた教官がいた。
待ってくれるメリルがいた。
喜んでくれるガレスとミランダがいた。
そして、足元にはノアがいる。
昼食後、部屋へ戻ると、アリシアは練習帳を開いた。
今日のことを書きたかった。
『入学式がありました。制服を着ました。ノアに悪くないと言われました。メリルさんにも似合っていると言われました。恥ずかしかったけど、嬉しかったです』
ペンが進む。
『戦闘基礎三班で、木刀を見てもらいました。エレナ先生は怖いけど、ちゃんと見てくれる人でした。木刀を使っていいと言われました。祖父に教わった構えを、基礎は良いと言われました』
そこで手が止まる。
胸が熱くなる。
祖父に伝えたい。
おじいちゃん。
木刀、使っていいって。
山で教えてくれたこと、ちゃんと見てもらえたよ。
そう言いたい。
アリシアは目元を押さえた。
ノアが机の上から見ている。
「泣く?」
「……少しだけ」
「なら少しだけにしなさい。午後もあるんだから」
「うん」
アリシアは少しだけ泣いた。
悲しい涙ではなかった。
寂しさと、嬉しさと、安心が混ざった涙だった。
ノアは何も言わず、机から膝へ降りてきた。
アリシアはノアを抱きしめる。
「ノア」
「何?」
「今日……何点?」
ノアは少し考えた。
「八十五点」
アリシアは目を丸くする。
「高い……」
「制服を着た。入学式に出た。三班で名乗った。木刀を振った。教官とちゃんと話した。噂に少し耐えた」
「減点は?」
「リボンに負けかけた。何度も萎みかけた。あと、私を見て泣きそうになりすぎ」
「最後は……ごめん」
「謝らない」
「うん……」
ノアは少しだけ声を柔らかくした。
「でも、今日はよくやったわ」
アリシアはノアを抱く腕に少し力を込めた。
「ありがとう」
「礼はいいって言ってるでしょう」
「でも、言いたいから」
「……本当に頑固ね」
ノアの声は呆れていた。
けれど、逃げなかった。
アリシアはノアの温もりを感じながら、窓の外を見る。
中央学園の午後。
白い校舎。
中庭。
遠くの訓練場。
ここはまだ怖い場所だ。
でも、少しだけ、自分が歩ける場所にもなり始めている。
アリシアは木刀に視線を向けた。
祖父から受け取った木刀。
黒月はまだ眠っている。
神器はまだ現れない。
魔法も分からない。
それでも、自分にはこの木刀がある。
積み重ねた時間がある。
怖がりながらでも歩いてきた一歩がある。
明日から授業が始まる。
また怖いことがある。
また噂されるかもしれない。
また失敗するかもしれない。
それでも。
アリシアは小さく呟いた。
「明日も、一歩だけ」
ノアの尻尾が、アリシアの腕を軽く叩いた。
それはまるで、仕方ないから付き合ってあげる、という返事のようだった。




