エピローグ 春の兆し
やわらかな光に満ちた場所で、アリアはひとり立っていた。
見覚えのないはずの庭なのに、どこか懐かしい匂いがする。
若葉の色、遠くで鳴る風鈴のような音、胸の奥をくすぐる甘酸っぱい気配。
少し離れた場所に、ひと組の男女がいた。
少女の面影を残した若い女性が、小さな赤子を抱いている。
その後ろから、青年がそっと腕を回し、包み込むように支えていた。
ふたりは言葉を交わさない。
ただ視線を合わせ、静かに微笑み合っている。
その空気が、まぶしい。
胸の奥がきゅうと締めつけられ、どうしてか涙が滲む。
――ああ。
理由は分からないのに、どこかで知っている気がする。
青春の匂い。
選ばれなかった時間。
それでも確かに、自分の中にあった甘い記憶。
赤子が小さく身じろぎをし、女性が優しく揺らす。
その仕草があまりにも自然で、愛おしくて、アリアの頬を涙が一筋伝った。
その瞬間、光がふっと揺らぐ。
目を開けると、見慣れた天蓋が視界に広がった。
朝の気配はまだ遠く、部屋は影に包まれている。
頬には確かに涙の跡が残り、胸の鼓動が早い。
「……アリア?」
低い声が近い。
振り向くと、ルーカスが身を起こしてこちらを覗き込んでいた。
髪は少し乱れ、寝起きのままの表情なのに、その目だけは真剣で、不安を隠していない。
「泣いている、怖い夢でも見たか」
距離が近い。
本気で心配している顔だ。
覇王と呼ばれる男が、こんなにも無防備に眉を寄せている。
その事実が可笑しくて、胸がじんわりと温かくなる。
思わず笑みがこぼれた。
「怖い夢では、ありません」
声が少し掠れている。
「ではどうした」
問い詰めるのではなく、確かめる声。
ルーカスは額へ手を伸ばし、熱を確かめる。
その掌の温度に、現実が静かに重なる。
アリアは視線を逸らし、枕元の布をきゅっと握る。
自分でも驚くほど胸が高鳴っている。
少女のように、落ち着かない。
その様子に、ルーカスがふと気づく。
彼女の頬が赤いことに。
「ならば俺の夢か?」
半ば冗談のように言う声に、アリアの肩がわずかに震える。
否定しようとしてもできない。
夢の中の温もりは確かに甘かった。
だが今、目の前にある温もりのほうがずっと近く、ずっと深い。
その沈黙をどう受け取ったのか、ルーカスの目が静かに細まる。
ただ――嬉しそうに。
「夢でも俺に会いたいと思ってくれているのか」
その声音は低く、どこか照れを含んでいる。
アリアは小さく息を吐き、彼を見上げると、彼の唇がそっと触れた。
深くはない。確かめるような、やわらかな口づけ。
その瞬間、不思議と夢の中の光景が重なる。
あの微笑む二人も、確かにそこにいる。
けれど、今触れているのは、ここにいる人。
過去でも幻想でもなく、選び続けてきた未来。
唇が離れ、彼の額が彼女の額に触れる。
「何を見たかは知らないが」
小さく笑う。
「今の俺のほうが勝っていると信じている」
その自信に、思わず笑みがこぼれる。
胸の奥で、何かが静かに芽吹いている感覚があった。
理由はまだ言葉にならない。
ただ、身体の奥がやわらかく満ちている。
翌朝、アリアは侍女に静かに告げた。
「宮廷医師を呼んでください」
騒がず、慌てず。
ただ確かめたいという思いだけ。
診察の間、ルーカスは部屋の外で落ち着かない足取りを繰り返していた。
覇王と称される姿は影もなく、ただ一人の夫の顔をしている。
やがて医師が扉を開け、穏やかな笑みを浮かべた。
「おめでとうございます」
その一言で、空気が変わる。
ルーカスの目が大きく開き、次の瞬間には部屋へ踏み込んでいた。
「アリア」
震えを隠さない声。
アリアは頷く。
お腹に手を当てると、そこに小さな未来が宿っているのを確かに感じる。
ルーカスはゆっくりと近づき、彼女の前に膝をついた。
かつてのプロポーズと同じ高さ。
だが今、彼の手はそっと彼女の腹部にある手をその上から重ねて包み込むように触れる。
「……ありがとう」
王ではなく、夫としての言葉。
アリアの目に、再び涙が浮かぶ。
夢で見た光景は、遠い記憶かもしれない。
選ばれなかった時間かもしれない。
本当は願っていた、叶わなかった夢だったのかもしれない。
それでも今、ここにある未来は確かだ。
ルーカスが彼女を抱き寄せる。
絡まる腕の中で、鼓動が三つに増える日を想像する。
春の光が窓から差し込み、やわらかく二人を包む。
選ばれなかった夢も、選び続けた現実も、すべてがひとつの命へと繋がっていく。
アリアは目を閉じる。
今度こそ、涙は静かに、あたたかく頬を伝った。
ここ迄お付き合い頂きありがとうございました。
今作が初めての作品となり読みにくい部分もあったと思われますが最後までお読みくださった事に心より感謝申し上げます。
親バカですがルーカスとアリアがとても愛しいので思いついた時にまた余談を増やす事もあると思います。
良ければその時はこっそり覗いて見てください。
そこで今日もきっと二人が寄り添っていると思います。




