第二十六章 揺らぎの向こうで
春の気配が城下に満ち始めた頃、城内にひとつの噂が静かに広がった。
隣国が縁談辞退を穏便に受け入れた代わりに、新たな条約の条件を提示してきたという話である。
交易の優遇、軍の一部再編、そして――王妃に相応しき血統の証明。
直接名を挙げられたわけではない。
だが、その言葉が誰を指すのかは、考えるまでもなかった。
回廊の向こうで囁きが止む。
侍女たちの視線が一瞬だけ揺れ、すぐに伏せられる。
その空気の変化を、アリアは敏く感じ取っていた。
自室の窓を開け放つと、柔らかな風が頬を撫でる。
庭では若葉が芽吹き、世界は確かに前へ進んでいるのに、胸の奥だけがひとり取り残されたように静まらない。
“相応しき血統”。
その言葉が、薄く胸を刺す。
何も持たないと、もう口にしないと決めたはずなのに、こうして外から形を与えられると、過去の影がゆっくりと足元へ伸びてくる。
扉が開き、ルーカスが入ってくる。足音だけで分かる。
彼は何も言わずに歩み寄り、窓辺に立つ彼女の隣に並んだ。
外を見つめる横顔は穏やかだが、肩の線にわずかな緊張が滲んでいる。
「聞いたか」
低い声。
アリアは頷く。
「ええ」
それだけで十分だった。
互いに、何が語られているのかを知っている。
しばらく沈黙が流れる。
風が二人の間を通り抜け、彼女の髪を揺らす。
ルーカスの指が無意識にその一房を掬い、すぐに離れる。
「気にするな、と言っても無理だろうな」
ぽつりと落ちた本音に、アリアはわずかに目を細める。
彼は怒っていない。
ただ、悔しさを噛み締めている。
自分の選んだ未来を、外から値踏みされることへの。
「私は」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「陛下の隣に立つ以上、問われることから逃げられません」
声は穏やかで、責める色はない。
だがその奥で、小さな不安が波のように揺れている。
「……もし、私のせいで国が揺らぐなら」
最後まで言い切る前に、彼の手が彼女の腕を掴む。
強くはない。
それでも、確かに止める力。
「それ以上は言うな」
視線がぶつかる。
彼の瞳には、怒りではなく焦りがあった。
失うことへの焦り。
「俺が選んだ」
言葉は静かだが、揺るぎがない。
「国も、お前も、どちらも俺が背負う。お前を“条件”で測らせるつもりはない」
その声に、アリアの胸が熱を帯びる。
彼はいつも守る側に立つ。
そして彼の言葉に何度も揺らぐ感情を支えてもらってきた。
だが今は、その腕の奥に微かな震えがあることを、彼女は知っている。
不安なのは、自分だけではない。
アリアはそっと彼の手を握り返す。
「では、共に背負わせてください」
囁きは小さい。
それでも。
「私は、もう逃げません」
その言葉は宣言ではなく、静かな決意だった。
誰かに証明するためではない。
自分が選んだ未来を、守るための。
ルーカスの指が彼女の手を強く絡める。
春の風が二人の間を吹き抜け、揺れていたものがゆっくりと定まっていく。
「近く、正式に発表する」
彼が言う。
「王妃として、お前を迎えると」
その未来が、はっきりと形を持つ。
「反対は出るだろう。だが、俺が黙らせる」
少しだけ乱暴な言い方に、アリアはくすりと笑う。
「全部を黙らせなくてもよろしいのでは」
「黙らせたい」
即答に、彼の独占欲が滲む。
その幼さが愛おしくて、アリアは彼の胸に額を預けた。
鼓動が耳に届く。
強く、確かで、温かい。
「ありがとうございます」
囁くと、彼の腕が背に回る。
「礼を言うな」
声は低いが、柔らかい。
「俺が欲しくて選んだ」
その単純な事実が、胸の奥で光を灯す。
春の陽が少しずつ傾き、窓辺の影が長く伸びる。
外の世界はまだ揺れている。
けれど二人の間にあるものは、もう簡単には崩れない。
小さな波は確かに立った。
だが、それは二人を引き離すものではなく、並び立つ強さを教えるものだった。
絡めた指をほどかぬまま、ルーカスがそっと彼女の額に口づける。
その触れ方は甘く、しかし決意を含んでいる。
揺らぎは、越えた。
あとは、光の方へ歩くだけだ。




