第二十四章 王のくちづけは内緒で
夜の帳が降りきる前、城の最上階の回廊にはまだ薄く青い光が残っていた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、遠くの噴水の音だけが規則正しく響く。
高窓から吹き込む風が、アリアの髪をさらりと揺らした。
「ここにいたのか」
振り返ると、ルーカスが立っている。
上着を脱ぎ、執務後の軽い装いのまま、肩の力を抜いた姿で。
その視線が合った瞬間、昼間よりもずっと柔らかく笑うのがずるい。
「探していた」
たったそれだけで、胸がくすぐったくなる。
「お忙しいのでは?」
「今はただの男だ」
歩み寄りながら言う声音が低く、近づくほどに鼓動が騒ぐ。
昼間はあれほど堂々と隣に立てたのに、二人きりになると足元が落ち着かない。
「……昼間は、あんなに堂々としていらしたのに」
思わず漏らすと、彼は小さく笑った。
「堂々としなければ、奪われそうだからな」
「奪う?」
問い返した瞬間、彼の指がそっと顎に触れる。
「お前をだ」
夜気よりも熱い視線が落ちる。
「俺以外の誰かに、政治だの理だのと言いくるめられる未来など、想像したくもない」
言葉は穏やかだが、奥に滲む独占欲は隠れていない。
アリアの頬がゆっくりと染まる。
「……私は、物ではありません」
かすかな抗議に、彼の目が愉快そうに細まる。
「知っている。だから困る」
「困る?」
「自分の意思で、俺を選び返してくれる」
その声は誇らしげで、どこか甘えるようでもある。
回廊の柱に背を預ける形で、アリアは彼を見上げる。
夜風が二人の間をすり抜けるが、距離はすでに十分近い。
「本当に、後悔されませんか」
また同じ問いを口にしてしまう自分が、少しだけ情けない。
それでも確認せずにはいられない。
ルーカスは息を吐き、彼女の額に軽く触れる。
「……安心したいのです」
正直な言葉がこぼれた瞬間、彼の表情がほどける。
「いくらでも言う」
囁きと同時に、彼の指が頬をなぞる。
触れられた場所が熱を持ち、視線が絡まったまま逃げ場を失う。
「お前が好きだ」
飾らない告白が、夜に落ちる。
「王である前に、男として」
アリアの喉が小さく鳴る。
胸の奥が甘く痺れ、指先まで熱が満ちていく。
「……私も」
言いかけて、言葉が詰まる。
ルーカスがわずかに身を屈める。
「聞こえないな」
意地悪く囁かれ、アリアは思わず彼の衣を掴む。
「好きです」
小さな声。
それでも確かに、彼の胸に届く。
その瞬間、彼の腕が腰に回る。
引き寄せられ、息が触れ合う距離になる。
「今さら引き返せないぞ」
「引き返しません」
反射のように答えると、彼の目が熱を帯びる。
次の瞬間、そっと唇が触れた。
深くはない。
けれど確かに、王としてではなく、一人の男としてのくちづけ。
離れたあと、アリアは目を見開いたまま固まる。
「……へ、陛下」
「今はただの男だと言った」
涼しい顔で言いながらも、耳の先がわずかに赤い。
「ルーカス、ここ、回廊です……」
「誰もいない」
「かもしれませんけど」
焦る彼女を見て、ルーカスは楽しそうに笑う。
「では、次は部屋で」
「つ、次は……?」
動揺がそのまま声に出る。
彼はそれを面白がるように、もう一度額を合わせた。
「安心しろ。泣かせるようなことはしない」
その言い方が、余計に心臓に悪い。
アリアは彼の胸に顔を埋める。
鼓動が速いのはどちらなのか、もう分からない。
「本当に……ずるい方です」
「今さらだ」
夜風が二人の間を優しく撫でる。
王としての重責も、聖女としての過去も、今は遠い。
あるのは、絡めた指と、胸に満ちる甘い熱だけ。
「離れないでください」
小さく零れた願いに、彼の腕が少しだけ強くなる。
「離さない」
短い約束が、夜に溶ける。
星がひとつ瞬き、城の上に静かな光を落とす。
その下で、二人はもう一度だけ、確かめるように唇を重ねた。




