第二十三章 選ぶということ
答えは、ある朝、静かな形で示された。
謁見の間には重臣たちが並び、隣国の使者もまた定位置に立っている。
磨き上げられた床に射し込む光は冴えわたり、その明るさがかえって空気を張りつめさせていた。
ルーカスは玉座に座し、手元の書状に最後の視線を落とす。
卓上に置かれたそれは、縁談に際し友好と繁栄を約束する美しい言葉で満ちていた。
理は揃っている。
誰が読んでも賛同するだろう、正しい提案だった。
少しの沈黙の後、やがて彼は書状を閉じ、静かに顔を上げた。
「此度の縁談の件――」
低く響く声が、石壁を伝って広がる。
「感謝する。だが、受けることはできぬ」
ざわめきが波のように広がり、すぐに抑え込まれる。
使者の顔に一瞬だけ走った驚きも、外交官らしい微笑みの下に隠された。
「理由を伺っても」
礼を失わぬ問いかけ。
ルーカスはわずかに視線を動かす。
その先に、斜め後ろに立つアリアがいる。
白い衣は光を受け、淡く揺れている。
彼女は俯かず、ただ静かに立っていた。
「すでに、共に歩むと決めた者がいる」
その言葉は過不足なく、飾りもない。
謁見の間の空気が凍りつく。
重臣たちの視線が一斉にアリアへと向けられ、その中心に立たされる感覚が足元を揺らす。
それでも彼女は動かない。
逃げるように視線を落とせば、彼の決断まで軽くしてしまう気がした。
ルーカスは玉座を立ち、段を下りる。
一歩ごとに、王としての威厳ではなく、一人の男としての選択が形を帯びていく。
その歩みがアリアの前で止まり、差し出された手が視界に入る。
昨夜と同じ温度。
けれど今は、無数の視線の中で差し出されている。
胸の奥で、不安が最後の抵抗を見せる。
自分は何も持たない聖女だと、囁く声がかすかに残る。
それでも、彼の手は揺らがない。
選ぶということは、誰かに選ばれるだけでは終わらない。
自分もまた、選び返さなければならない。
アリアは息を吸い、指先を伸ばす。
触れた瞬間、彼の手がわずかに力を込める。
その確かさが、迷いを溶かす。
「……お側に」
声は大きくない。
それでも静まり返った空間には十分だった。
「立たせていただきます」
形式ばった言葉の奥に、震えよりも強い決意が滲む。
ルーカスの口元がわずかに緩む。
その表情を目にした重臣の何人かが、静かに息を吐いた。
王がここまで公に想いを示したことは、これまでなかった。
使者は深く一礼する。
「承知いたしました。貴国のご決断に敬意を」
外交の礼節は保たれ、場は整えられていく。
だが空気の奥底では、確かに何かが変わっていた。
やがて謁見が終わり、人払いがなされる。
広い空間に残ったのは、繋がれたままの手と、まだ高鳴る鼓動。
「後悔はないか」
ルーカスの問いは低く、わずかに掠れている。
アリアは首を振る。
恐れが消えたわけではない。
これから向けられる視線も、責任の重さも、想像できないほどだ。
それでも今は、逃げなかった自分を誇りに思えた。
「陛下こそ」
問い返すと、彼は小さく笑う。
「ない」
即答だった。
その単純さに、胸の奥で波が弾ける。
涙が滲みそうになり、アリアは瞬きをひとつ落とす。
零れはしない。
ただ光を受けて、瞳がわずかに揺れる。
窓の外では風が強まり、庭の若木がしなやかに揺れている。
折れそうで折れない、その姿がどこか自分たちに重なる。
ルーカスは繋いだ手を離さず、ゆっくりと彼女を引き寄せる。
額が触れそうな距離で止まり、互いの息が混ざる。
「これからは、公に隣に立て」
囁く声は命令の形をしていながら、その奥に安堵が滲む。
アリアは頷き、指を絡め返す。
足枷ではないかと迷った日々が、遠くに霞む。
何も持たないと思っていた手の中には、今、確かな温もりがある。
選ばれ、そして選び返した。
その事実が胸の奥で静かに脈打ち、二人の間に流れる空気を満たしていく。
国も未来も、まだ揺れ続けるだろう。
それでも、繋いだ手だけは離れない。
波が静かに岸へと寄せるように、二人の呼吸がゆっくりと重なり、揺らぎの向こう側へと歩み出す決意が、確かな形を持ちはじめていた。
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縁談の辞退が正式に告げられた日の夕刻、城は不思議な静けさに包まれていた。
大きな波が過ぎ去ったあとの海のように、空気は凪いでいるのに、どこか熱を孕んでいる。
公の場では揺るがぬ王として立ち切ったルーカスも、執務室へ戻る頃にはさすがに肩の力が抜けていた。
重厚な扉が閉まり、足音が遠ざかると、ようやく一人分の息を吐く。
その部屋の奥、窓辺にアリアが立っている。
西日が彼女の髪を淡く透かし、白い衣の裾が金色に縁取られている。
振り返った瞬間、ほっとしたように微笑むその顔を見て、ルーカスの胸に張り詰めていたものがほどけた。
「……逃げなかったな」
からかうでもなく、ただ確かめるような声。
アリアは小さく首を傾げる。
「逃げたほうがよろしかったですか?」
ほんの少しだけ唇を尖らせる仕草が、謁見の間では決して見せなかった表情で、ルーカスは思わず目を細める。
「いや。逃げられたら困る」
そう言って歩み寄る足取りは、王のそれではなく、ようやく肩書きを脱いだ一人の青年のものだった。
アリアは視線を落とす。
昼間は迷いなく取れた手が、今は妙に意識されて、指先がそわそわと落ち着かない。
あれだけの人前で繋いだというのに、二人きりになると急に鼓動が騒ぎ出す。
「……あの時」
彼女がぽつりと呟く。
「とても、怖かったのです」
責める響きはない。
ただ正直な告白が、夕暮れの光に溶ける。
「でも、陛下の手が見えたら……」
そこで言葉が止まり、代わりに頬がほんのりと染まる。
「安心しました」
ルーカスは、短く笑う。
「それは光栄だな」
彼は彼女の前に立ち、そっと両手を包む。
昼間よりも、今のほうがずっと近い。
指と指の間に自然に隙間がなくなり、体温がゆっくりと移っていく。
「俺のほうこそ、助けられた」
低い声が、耳に近い。
「お前が手を取らなければ、あの場はただの我儘で終わっていた」
アリアは驚いたように瞬く。
自分は守られる側だと思っていた。
支えられているだけだと。
それなのに、彼は当たり前のように“共に立った”と言う。
胸の奥で、くすぐったいような温かさが広がる。
「では……」
ほんの少し勇気を出して、彼女は問いかける。
「少しくらい、誇ってもいいですか?」
その声音は慎ましいのに、目だけが期待を滲ませている。
ルーカスは一瞬だけ黙り、そしてわざとらしく考える素振りを見せた。
「少しでは足りないな」
そう言って、彼は彼女の手を引き寄せ、額をそっと重ねる。
「もっと誇れ」
吐息が触れる距離で囁かれ、アリアの肩が小さく跳ねる。
「……近いです」
「今さらだろう」
彼は離れない。
むしろ絡めた指にわずかに力を込め、逃げ道を塞ぐように引き寄せる。
強引ではない。
ただ離したくないという気持ちが、そのまま形になったような抱き寄せ方だった。
アリアの額が彼の胸元に触れる。
規則正しい鼓動が、布越しに伝わってくる。
「本当に、よろしかったのですか」
小さな問い。
「私を選んで」
その声はまだ少しだけ不安を抱えているが、昼間のような自嘲はない。
ただ確かめたいだけの響き。
ルーカスは彼女の顎に指をかけ、そっと顔を上げさせる。
「何度でも言う」
視線が絡む。
「俺が欲しいのは、お前だけだ」
飾らない言葉が、真っ直ぐに落ちる。
アリアの瞳が揺れ、次の瞬間、堪えきれないように笑みが零れる。
その笑顔は聖女のそれではなく、年相応の少女のものだった。
「ずるい方です」
「そうか?」
「はい。こんなふうに言われたら、もう離れられません」
頬を染めたまま告げるその言葉に、ルーカスの喉がわずかに鳴る。
「最初から離すつもりはない」
今度は彼が引き寄せられる番だった。
アリアの指が、ぎこちなくも確かに彼の衣を掴む。
選ばれ、選び返し、そのうえで甘えることを許される距離。
窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいく。
長く伸びた影が床に重なり、二人の輪郭をひとつに溶かす。
「これから、忙しくなりますね」
「覚悟しておけ」
「お側で、支えます」
「支え合うんだ」
訂正する声が優しい。
絡めた指先に、未来が宿る。
大きな責任も、不安も、きっと消えはしない。
それでも今は、胸の奥に甘い熱が満ちている。
アリアがそっと目を閉じると、彼の額がもう一度触れる。
その静かな触れ合いの中で、二人の鼓動が少しずつ同じ速さへと近づいていった。




