第二十二章 揺らぎの向こう側
縁談の噂は、火のないところに立つ霧のように、静かに城内を満たしていった。
誰が広めたわけでもない。
ただ使者が滞在し、贈答品が運び込まれ、重臣たちの往来が増えれば、それだけで十分だった。
廊下を行き交う侍女たちの声はいつもより低く、不安そうに、そして気遣うようにアリアを見つめる事が増えた。
アリアはそれを咎めない。
微笑みを向けられれば微笑みを返し、祈りを求められればいつも通り手を差し出す。
その指先は穏やかに見えながら、触れた者だけが気づくほどに、ほんの少しだけ冷えていた。
謁見の間では、隣国の使者が深々と頭を下げている。
差し出された宝飾は目を奪うほど精巧で、織物は夜明けの空のような淡い光を宿していた。
祝福と友好を象徴する言葉が丁寧に重ねられ、その中心にあるのが王の婚姻であることを、誰もが理解している。
ルーカスは玉座に座したまま、そのすべてを受け止めていた。
声音は静かで、視線は揺れない。
礼は尽くし、約定の可能性を示し、だが決定だけは口にしない。
その均衡が、かえって場を緊張させる。
斜め後ろに立つアリアは、彼の背を見つめる。
広く、揺るぎなく、孤独な背中。
その背を支えたいと願う気持ちと、自分がそこに立つ資格を問い直す思いが、胸の奥で静かに擦れ合う。
昨夜繋いだ手の温度はまだ確かに残っているのに、ここではそれを思い出すことさえ憚られる。
やがて使者が退き、扉が閉じられる。
重臣たちも去り、広い空間に二人だけが残されたとき、ようやく空気が柔らぐ。
だが沈黙はすぐには解けない。
「……迷っているように見えたか」
不意に落ちた声は低く、疲労を滲ませている。
アリアはゆっくりと首を振る。
「いいえ」
少しだけ間を置いて、続ける。
「迷っていらっしゃるようには、見えませんでした」
それが本心だった。
彼は迷いを見せない。
ただ、その選択が自分を傷つける可能性まで含んで引き受けようとしていることが、痛いほど伝わる。
ルーカスは玉座から降り、段差を一段ずつ踏みしめるように下りてくる。
その足音が石床に小さく響き、やがてアリアの前で止まった。
「迷っていないわけではない」
視線が重なる。
「だが、揺らぐことと、選ばないことは違う」
差し出された手は、命令でも懇願でもなく、ただそこに在るという形をしていた。
アリアはその手を見つめる。
指先に宿る微かな緊張が、王ではなく一人の男のものだと知っている。
自分を選ぶと言った昨夜の声が、胸の奥で静かに反響する。
「私は」
言葉が喉に触れ、淡く震える。
「陛下の重荷になりたくはありません」
それは繰り返し自分に言い聞かせてきた想いだった。
けれど今は、以前のように自分を引こうとするだけの響きではない。
彼の隣に立ちたいと願う心が、隠しきれずに混じっている。
この人の側にいたいのだと。
ルーカスの指が、わずかに強くなる。
「重荷なら、とっくに手放している」
その声に怒気はない。
ただ事実を告げるような静けさがある。
「お前がいない未来のほうが、俺には重い」
言い切ったあと、彼はわずかに視線を逸らす。
覇王の顔の裏で、照れにも似た熱が耳元に差しているのが分かる。
その不器用さが、かえって真実味を帯びる。
アリアの胸に、ゆっくりと何かが満ちていく。
自分には何もないと、そう思ってきた。
名も立場も、誇るべき力も、すべて失った聖女。
けれど今、彼の瞳に映る自分は、欠けた存在ではない。
彼に、選ばれている。
その事実が、足元の揺らぎを少しずつ鎮めていく。
窓の外では、春を告げる風が庭の若葉を揺らしている。
光は柔らかく、石床に淡い影を落とす。
その明るさの中で、ルーカスは改めてアリアの手を取った。
「近く、答えを出す」
低い声が、静かに響く。
「そのとき、お前に隣にいてほしい」
命令ではない。
願いとも少し違う。
ただ未来の光景を共有するような響きだった。
アリアは息を吸い、そっと頷く。
恐れが消えたわけではない。
それでも、逃げずに立つと決めた心が、確かにそこにある。
絡めた指のあいだを、温もりが満たす。
国も、思惑も、縁談も、すべてはまだ動いている。
それでも二人の間に流れる静かな決意だけは、誰にも揺らせない。
揺らぎの向こう側へ踏み出すように、ルーカスがわずかに彼女を引き寄せる。
その距離が縮まった瞬間、胸の奥で波が静かに打ち、ほどけきらない不安ごと包み込むように、二人の呼吸が重なっていった。




