第二十一章 差し出されるもの
昨夜の熱は、朝の光の中では跡形もなく消えているはずだった。
謁見の間に射し込む白い陽光は硬質で、玉座に座すルーカスの輪郭を冷ややかに縁取っている。
重臣たちの報告は淀みなく続き、彼は短く的確に判断を下し、指先一つの動きにさえ無駄がない。
その姿は揺るぎなく、昨夜アリアの肩に顔を埋めていた男と同一人物だと知るのは、ここでは彼女ひとりだけだった。
斜め後ろに控えながら、アリアはただその横顔を見つめる。
視線が交わることはない。
それでも、ときおり彼の声の端に混じるわずかな低さが、耳の奥でまだ温もりを保っているようで、胸の内に静かな波紋が広がる。
やがて一通の書状が差し出された。銀盆の上で封蝋がかすかに光を返す。
隣国からの正式な使者による、縁談の打診。
読み上げられる文面は整然としていた。
国境の安定、交易路の拡張、相互不可侵の誓約。
どれも理に適い、余計な感情を挟む隙のない言葉ばかりが並ぶ。
その端正さがかえって重く、謁見の間の空気は目に見えぬ布でゆるやかに覆われたように静まり返った。
「陛下、前向きにご検討を」
誰かの声が慎重に落ちる。
ルーカスは最後まで目を通し、何も言わずに書状を閉じた。
卓上に置かれたそれが微かな音を立て、その音だけがやけに鮮明に響く。
「検討する」
短い言葉は平坦で、そこに私情を探すことはできない。
会議は続き、別の議題へと移っていく。
だがアリアの耳には、さきほどの一節だけが何度も反芻されていた。
検討する、と。
断るでも、受けるでもなく。
指先が知らず強く重なり、薄い布越しに脈が早まるのを感じる。
終議の鐘が鳴り、人払いが済み、重厚な扉が閉じられたとき、ようやく緊張が目に見えぬ形でほどけた。
広い空間に二人分の呼吸だけが残る。
ルーカスは玉座から立ち上がり、数歩で距離を詰める。
その足取りに迷いはないはずなのに、アリアの前でわずかに速度を落としたのが分かる。
「聞こえていただろう」
低い声は責める響きを持たず、ただ確認のように落ちた。
「はい」
アリアは目を伏せずに答える。
声は思いのほか静かで、震えはない。
そのことに自分で少しだけ驚きながら、胸の奥で小さな痛みが遅れて広がっていく。
ルーカスの視線が、彼女の指先に留まる。
白くなるほど力が入っていることに気づき、アリアはそっと力を抜いた。
「……断る」
即座に落ちた言葉は重く、揺るぎない。
その響きに胸が熱を帯びるのを感じながらも、アリアはゆっくりと首を振る。
「まだ、お決めにならないでください」
窓から差し込む光が彼女の横顔を淡く照らし、睫毛の影が頬に落ちる。
「国にとって、良いお話なのでしょう」
理を述べる声は穏やかで、どこまでも柔らかい。
それでも、その奥に隠したものを、彼は感じ取っている。
「私は、陛下の隣に立たせていただいているだけの身です」
その一言が空気をかすかに震わせる。
ルーカスの眉が寄り、次の瞬間には彼女の手首が包まれていた。
強くはないが、逃さない温度。
「だけ、とは何だ」
低く抑えた声の奥に、昨夜の熱がまだ燻っている。
アリアはその手の中で指をそっと動かす。
拒まないことが、答えの代わりになる。
「昨夜のお言葉は……本当に、嬉しかったです」
視線を上げると、彼の瞳がわずかに揺れる。
「だからこそ、陛下が後悔なさらない道を選んでほしいのです」
それは自己犠牲を誇る声音ではなく、ただ静かに差し出された祈りだった。
自分を含めた未来を、彼の選択に委ねる覚悟が、言葉の端に滲む。
ルーカスは目を閉じ、短く息を吐く。
昨夜、溢れるままに口にした想いが胸の奥でまだ熱を持ち、王としての責任と絡み合ってほどけない。
国と、彼女と。
二つを天秤にかける発想そのものが、どこか間違っている気がして、苛立ちにも似た感情が喉元までせり上がる。
やがて彼は目を開き、今度はためらいなくアリアの両手を取った。
掌の中の体温が確かで、それだけで思考が静まっていく。
「後悔はしない」
その声は昨夜よりも低く、しかし揺るぎがない。
「お前を選ぶことも、この国を守ることも、どちらも俺の意思だ」
指先に込められた力が、決意を伝える。
完璧な答えなどないと知りながら、それでも逃げないと示すその姿に、アリアの胸がゆっくりと満ちていく。
目の奥が熱を帯び、視界が滲むのがわかる。
縁談はまだ白紙のまま卓上にある。
未来もまた、形を持たない。
それでも、繋がれた手の温度だけは確かで、そのぬくもりが二人の間を満たしている。
窓の外で風が揺れ、遠くで鐘が鳴っている。
世界が変わらず回り続ける中で、ルーカスの指がほんの少し強く彼女を引き寄せた。
選ぶということは、何かを手放す覚悟も含む。
けれど今この瞬間、彼は手を離さない。
アリアもまた、そっと指を絡め返す。
波のように押し寄せた不安はまだ胸の奥に残っているが、その上を温かな決意が静かに覆い、二人の呼吸が重なったところで、ようやく鼓動が落ち着いていった。




