15. アパルトマンの住人たち
片手にハサミ。片手にコーム。
ヘアピンよし。ブラシよし。ちりとり箒、よし。
引っ越して来る前から存在した、大きな姿見の前に立ったアルマは、真剣な眼差しで鏡に映った自分を睨めつけた。
――これから、前髪を切る。
たったそれだけと言えばそれだけだが、アルマにとっては重大事。自分と真っ向から向き合うという決意表明、謂わば儀式のようなものなのだ。
(大丈夫。大丈夫。胸を張っていい。いいんだから)
顔を隠すため――誰にも顔を見られないよう、誰の顔も見えないよう、酷く後ろ向きな理由で伸ばしてきた前髪。
切ってしまえば、もう後には退けない。とは言え失敗が怖いので、睫毛にかかる程度の長さにしておこうと思う。前世では美容院に行くお金もないし親も切ってくれないしで、前髪を切るくらいは自分でやっていた。十六年のブランクはあれども、慎重にやれば大きな失敗はないだろう。きっと。
器用に前髪とコームを押さえ、小刻みに震えるハサミを構える。
(……えいっ)
最後の瞬間は敢えて何も考えず、アルマは思い切ってハサミを閉じた。
ばさりと、横一直線に断たれた前髪が床へ落ちる。耳をすっかり隠すくらい伸びていたので、思ったより重たい音がした。
(本当にやってしまった……)
やっぱり止めておけばよかったと、恐怖にも似た後悔が襲ってくる。一種の高揚感に釣られて、現実感というものが見えていなかった。今日からは明るい視界の中で過ごさなければならないのだ。その現実が、鏡の中から自分を見つめ返している。
しかし、今更引き返せもしない。
真っ青になりつつ残りの前髪を切ると、今度はハサミを縦にして梳いていく。レイに貰った髪飾りを付けてみると、まあまあ良い仕上がりにはなった。
(見られないこともない、かな)
右を向いたり左を向いたり、矯めつ眇めつチェックする。
アルマは自分の容姿に対して、かなり卑屈だ。以前は人並み以上に自信を持っていたのだが、夏のパーティーでシャーリーズに言われた、「あなた、自分で思ってるほど可愛くないわよ」の一言が大いに効いた。ぐっさりと心に深く突き刺さって、今でもたまに思い出してはヘコむくらいだ。
それもあって人に見られることを極端に怖がるようになっていたのだが、そろそろ忘れてもいい頃だろう。
「大丈夫。黒尽くめで顔を隠してるから見られるのであって、怪しい格好じゃなければ誰も私なんか見向きもしないよ。うん。大丈夫」
誰もが自分を見ている気がしてしまうのは、ネガティブな人間にありがちな思い込みだ。実際は、赤の他人に興味のある人なんてそんなにいない。通行人をじっと注視する人なんて、人間観察が趣味の人かスリくらいなものだろう。
ともあれ出勤時間も迫っていたので、アルマは簡単に床を掃除した後、鞄を取って部屋を出た。
一階に降りてアパルトマンの外へ出ると、ぽかぽかと暖かい陽気が降り注ぐ。十月も半ばを過ぎているが、王都ではこんな日も珍しくない。朝は実に過ごしやすくていいのだが、下手すると日中は暑くなるので、服選びを間違えると汗を掻くことになる。
今日のアルマは、薄手のケープを羽織っている。色は灰色。スカートはいつもの黒で、地味なことこの上ない。自分でもどうかと思ったが、似たような服しか持っていないのでどうしようもなかった。
(……帰りにお店に寄ってみようか。先送りにするのも何だし)
考えてみれば、この街の服屋のこともよく知らない。どこの品揃えがいいとか、どこが安いとか、そういうことを知っていそうな職場の人に聞いてみるべきか。いきなり聞いたら、変に思われるだろうか。
そんなことを考えていたアルマは、アパルトマンの壁に沿って設えられた花壇の前に人影を認め、足を止めた。
レンガの花壇を覗き込んでいるのは、亜麻色の髪を簡単に結い上げた穏やかな雰囲気の女性だ。
一階に住んでいるアパルトマンの住民で、名はルイス・ハーディ。夫のユアンと二人暮らしで、談笑しながら歩いているところを何度か見たことがある。アルマとは、すれ違えば会釈する程度で知人とも呼べない。
水遣り中だったようで、ルイスの傍ら、レンガの縁に小さなジョウロを置いている。いつも綺麗に咲いている花は誰が世話しているのかと疑問に思っていたが、どうやら彼女だったらしい。花壇に植わっている花の種類や色の配置を通して、ルイスの拘りが伝わってくる。
アルマはヘソの下辺りにぐっと力を込めると、勇気を出して一歩踏み出した。
「あ、あの。おはようございます」
ルイスはこちらに気付いていなかったらしく、こちらを振り返ると、まん丸い目をして口に手を当てた。思いもしなかった反応に、アルマもまたびっくりしてしまう。
「ごっ、ごめんなさい。せっかく気持ちの良い朝なのにお邪魔してしまい……!」
「え? いえいえ、邪魔だなんて。こちらこそごめんなさいね。ちょっと驚いただけなのよ。二階のヘンレッティさん、よね?」
「そ。そうです。アルマ・ヘンレッティです。すみません……」
「あらあら」
しょんぼりしてしまったアルマを見て、ルイスはおっとりと微笑んだ。そのアガパンサスのような慈愛に満ちた微笑みに、アルマは一瞬心を奪われる。どこからか安心感に包まれ、自然と肩の力が抜けていった。
「お花のお世話……ずっとしてらしたんですか?」
「ええ。このアパルトマンに引っ越してきてからよ。最初は何となくで水遣りを始めたんだけど、そのうち花をつけるのを見るのが楽しみになっちゃって。今じゃあ市場に行くたびに花の種を見るくらい」
「そうなんですね……。あの、中庭には?」
すっかりレイとの待ち合わせ場所になっているあの場所も、花壇を作ろうと思えば作れる。中庭には手を加えないのかと聞くと、ルイスは苦笑しながら首を横に振った。
「あそこねぇ。庭に時の魔術がかかってるらしくって、私じゃうまく植物を育てられないの。残念だけど。既に植わってる木や花なんかは、季節と一緒に移ろうのにねぇ」
「そ、そうなんですか。そんなに凄い場所だったのですね」
「そうらしいわねぇ」
ルイスは呑気に笑うが、アルマは内心慄いていた。
学校で少し魔術を齧った彼女には分かる。というより、知識としてある。
時属性の魔法は、あらゆる魔法の中で最も希少で強力だ。分類としては高位魔術で、アルマの得意な癒やしという属性も同じ高位魔術だが、希少性は比べることもできない。
そんなものがどうしてただのアパルトマンの庭に、と思ったけれど、目の前のおっとりした女性は、そんなことには一切興味がないようだった。
「ヘンレッティさん、時間は大丈夫なの?」
「は、はい。時間には余裕を持って行動してるので……」
「偉いわぁ。うちの人なんて、いつも朝はギリギリ。ギリギリ過ぎて、遅刻したら困るからって仕事先から帰らない日もあるのよ」
「熱心ですね」
「だったらいいんだけど、単に面倒くさがりなだけなのよ。ただでさえ生活が不規則になりがちな仕事なのに、いつか体を壊すわよって何度も言ってるんだけどね」
ルイスは少し太めの眉を吊り上げて、ぷんすかと怒っている。アルマは彼女が本気で怒っていると思って、内心あわあわしてしまった。
だが、ルイスの怒りは愛情の裏返しであったようだ。少しは休んでほしい、家にいる時くらいゆっくりしてほしい、と夫を案じる言葉を聞く内に、アルマの肩もほっと下がっていく。
そうしてほぼ一人で喋っていたルイスだが、アルマを引き止めていたことに気が付いてハッとした。
「あら! 私ったら、喋りすぎちゃって。ごめんなさいね」
「い、いえ。大丈夫です」
「アルマちゃん熱心に聞いてくれるから、つい話が進んじゃうわぁ」
「ア、アルマちゃん……」
ポヤポヤした仏顔で名前を呼ばれ、アルマは緊張と脱力の狭間で困惑する。
ど、どうしよう。向こうは距離を詰めてくるけど、そのせいで余計に間合いが掴めない。退けばいいのか、こっちも詰めればいいのか、迷っている内に、自動的に話は進んでいく。
「これからお仕事でしょう? 今日も一日、頑張ってね」
「は! はい! ありがとうございますっ」
そう気張って答えたところ――。
「あら、ヘルマンさん。お出掛けですか?」
ルイスがアルマの肩越しに視線をやり、アルマは気をつけの姿勢のまま硬直した。背後から近付いてくる足音を、繊細な耳で聞いた。
やって来たのは、黒いシルクハットに黒いスーツを決め込んだ、白髭の老紳士だった。いつも厳しい顔が特徴の、アパルトマン三階の住人だ。ルイスのおかげで抜けていた力が、戻ってくる。
ヘルマンはステッキで地面をカツッと鳴らすと、銅像のように綺麗なポーズで立ち止まった。
「やあ、おはようお嬢さん方。これから、息子夫婦の家に遊びに行くところだよ。一週間ほど家を空けるので、郵便物が溜まったらまとめてドアの前にでも置いておいてくれないかね、ルイスさん?」
「いいですよ。ドアの前ですね」
「そう。一週間ほどあけるのでね。ど~あっても、ドアの前に置いておいてくれると、助かるのだよ」
「…………」
アルマは、つい真顔になった。
聞き間違いだろうか、今、変なところにアクセントがあったような気がする。
いやいや、そんなまさかね。いかにも厳格で弛んだ若者を許さないと言った風体のヘルマンさんが、そんな、しょうもない駄洒落なんて言うわけがない。
アルマが必死で現実を否定しようとする中、ヘルマンはどこか期待するような顔でルイスを見つめて。
「どうあね?」
……急に、冬の気配が押し寄せてきたようだ。
アルマはほんの怖いもの見たさで、ルイスの表情を窺った。この、お化け屋敷よりも冷ややかな空気を、どんな顔で受け止めているのか気になった。
そして、少し後悔した。
顔は笑っているのに、目が笑っていない。ゴミ捨て場のシミでも見るかのような醒めた眼差しに、思わずアルマまで小さく悲鳴を上げる。今までおっとりしていただけに、ギャップが物凄かった。
「やっぱりお断りします」
「すまんすまん! 謝るので引き受けてほしい! ついでにその目も止めてほしい! この通りだ!」
にっこりと笑って切り捨てたルイスに、ヘルマンは強く手を組み合わせて懇願する。情けないのに随分と様になっていて、幾度となく似たようなことがあったのだろうと想像させる光景だった。ルイスも、笑みの質が変化して、可愛い孫を見るかのような目になっている。
「あ。督促状の類は捨ててくれて構わんから」
「ヘルマンさん?」
「嘘、嘘。冗談だ」
ヘルマンはカカカと笑うと、ズレた帽子を直してアルマの方へウィンクした。
「どうやら今日は分が悪いようだな。年寄りは退散するとするか。では、一週間後にまた会おう。さようなら、お嬢さん方」
そう言って、流れるように一礼して去っていく。その優雅な背中を、アルマは唖然として見送った。
なんだか、一瞬で一時間分の時を過ごした気がする。それくらい濃かった。雰囲気は薄ら寒かったけど……。
「ったくもう、ヘルマンさんったら相変わらずなんだから。ああやってね、人を困らせるのが好きなのよ。アルマちゃん、これから気をつけなさいね。あなた押しが弱そうだから、下手に取り合うと調子づかせることになるわよ」
「は、はい」
人を困らせるのが好き……と言うより、単に駄洒落が好きなだけにも見えたけど。しかしルイスの忠告はもっともかもしれないと思ったので、アルマは戦々恐々としつつ頷いた。ルイスみたいに追っ払える自信はないけど。
(でも……)
悪い人じゃない。いや、悪い人なんていないのかもしれない。
過去の経験から、他人は皆怖いものだと思い込んでいた。でもそれは皆のことを知らなかったからで、知らなかったのは関わろうとしなかったからだ。
それでいい時期もあった。親の庇護下にある内は、自分が傷つくだけで他に問題はなかった。少なくともアルマの場合はそうだった。
けれど、そういったアルマの態度は、周囲――ハーディ夫妻やヘルマンにとっては、些か困惑をきたすものだった。触れたら勝手に壊れるガラスの彫像みたいな、そんな危うさを感じさせていたのだ。
ルイスたちの困惑にまで気付いたわけではないけれど、アルマは知らず知らず、彼らの動揺を取り去っていた。他ならぬ自らの行動によって。
ルイスに見送られ、一日を踏み出したアルマは、胸に確かな重みを得ていた。
世界は思っていたより優しいのかもしれない、と。




