目を覚ますと天使が降臨していた件③
最近は授業中に睡魔に襲われることが増えていたが、今日は特に重症だ。
「つまり~◯◇▲※?$=!+Σ~」
睡魔のせいで脳がやられてしまっているのか、先生が何を話しているのかさっぱり理解できない。視界もぼやけていて、最早自分が今何の授業を受けているのかもわからないぐらいだ。
午前中はまだなんとか耐えられたが、昼飯を食べて少しお腹が満たされたことで眠気が増したような気がする。
くそっ、こうなるとカフェインも全然効いているような感じがしない。
「────くんっ」
ダメだ、もう気合や根性で乗り切れそうにない。
「──いき、くん!」
そして、俺が睡魔に負けそうになった時──。
「えいっ」
「ぴょえぇっ!?」
何かが右手の甲にズブリと突き刺さったようで、その鋭い痛みで反射的に俺はビクッと体を震わせ、情けない声を出しながら飛び起きたのだった。
当然、先生やクラスメイト達が一斉に俺の方を振り向き、先生が板書の手を止めて、訝しげな様子で口を開く。
「ど、どうしたんだ才木?」
「しゃっくりです」
「しゃ、しゃっくり?」
「はい、しゃっくりです。ぴょえっ」
俺がそんな強引な誤魔化し方をすると、先生は若干呆れているように見えたが、俺の誤魔化し方が意外とウケたのか、そんな弁明が滑稽に見えたのか、クラスメイト達はクスクスと笑っていた。
まぁ、変に怒られるよりかは笑われる方がよっぽど良い。今日から俺のしゃっくりはぴょえっだ。ぴょえっ。
そんな醜態を衆目に晒されたからか、俺は世界をいくらかはっきりと捉えることが出来たのだが、ふと隣の席に目をやると、小日向が体を小さく震わせながら、口を手で押さえて必死に笑いを堪らえようとしていた。
小日向の右手にはシャーペンが握られている。まぁ授業中だから当たり前なのだが、俺はきっと手の甲をシャーペンの先で刺されたのだろう。
「なぁ、小日向が起こしてくれたのか?」
俺が小さな声でそう問うと、小日向は未だに必死に笑いを堪えながらコクコクと頷いた。
どうやら彼女のツボにはまったようだ。俺の強引な誤魔化し方か、俺の情けない声のどちらがおかしいのかわからないが。ぴょえっ。
「ありがとな、起こしてくれて」
「……ぷふっ」
「そんなに面白いか」
もしかして俺が寝ている間に顔に落書きでもされたのかと怖くなったが、ようやく落ち着いたらしい小日向が小声で言う。
「ねぇ、良い夢見れた?」
「見る前に起こされたんだよ。でもびっくりするから、次はもっと優しく起こしてくれないか?」
「何度も呼んだけど全然起きなかったから」
「そうだったのか。それはすまなかった」
名前を呼ばれても気づかないとはよっぽどだ。先生にバレる前に起きることが出来て良かった……小日向には感謝しないとな。
そう思いながら、眠気が覚めた俺はちゃんと授業を受けようとしていたのだが、小日向が話しかけてきた。
「ね、才木君はどういう起こされ方が良い?」
「まぁ、起こしてくれるだけでありがたいし、こっちから注文はしないが」
「じゃあ、耳に息を吹きかけても良い?」
「普通の起こし方で頼む」
「耳を舐める?」
「俺の耳を執拗に狙うのはやめてくれ」
小日向に耳に息を吹きかけられたり耳を滑られたりしたら、もう驚きとドキドキで心臓が止まってしまうに違いない。流石に冗談だろうが……え、冗談だよな?
そして、その後は睡魔に襲われることなく──なんて甘い話はなく。
「才木君?」
もうすぐ授業も終わって放課後になると油断していた俺は、最早抗う力を失ってしまっており……。
「ねぇ、才木君ってば」
寝不足気味な俺は再び睡魔に襲われ、自分でも気づかぬ間に夢の世界へと誘われてしまったのだった……。
◇◇◇
『──こんにちは、迷える仔羊さん』
今でも、あの夏を忘れはしない。
海岸沿いの小高い丘の上にひっそりと佇む古い教会、教会を取り囲む青々とした木々、眼下に広がる海岸線──そんな美しい景色ですらかき消してしまう、一人の少女がいた。
木陰のベンチに腰掛けていた、綺麗な銀色の髪の少女は、小高い丘を駆け上がって吹き付ける潮風に白いワンピースをなびかせ、風に飛ばされないよう麦わら帽子を押さえながら、彼女はまるで聖女のようにニコッと微笑んでみせた。
俺と歳はそう変わらないはずなのに、まだ幼いはずの彼女に大人びた印象を受けるのはどうしてだろう?
それはきっと、彼女自身が醸し出す人間離れした不思議な雰囲気によるものだったのだろう……。
『見てください、この綺麗な海を。心が洗われるようではないですか?』
彼女の隣に腰掛けると、白波が押し寄せる松楠海岸や桜が咲き誇る櫻ノ島、その向こうには雄大な山々を望むことが出来た。
だが、やはり俺の心が晴れることはない。
『だから、何だって言うんだよ……』
俺にだって、そんな景色を綺麗だと思える心はあったはずだ。
でも、そんなことがどうでもよく思えてしまうぐらいに、そんな小さな幸せを見つけられなくなってしまうぐらいに、人は疲れてしまうことがある。
そんな俺の反応を見て、流石の聖女も呆れるかと思いきや──。
『では、こんなのはいかがでしょうか』
女の子はそう言って、いきなり俺を抱きしめてきたのだった。
優しく、俺を包み込むように……。
『むぐっ。い、いきなり何すんだよ!』
『貴方には今、何が見えますか?』
『な、何も見えねぇって!』
俺は彼女の胸に顔を埋めるような形になり、彼女を引き剥がそうと俺は抗ったのだが、意外にも彼女の力は強く……やがて、俺は抗う気力さえ削がれていたのだった。
『感じますか、この温もりを……』
そう、俺が忘れかけていた人の温もりを、彼女は俺に与えてくれたのだった。
『この世界は汚れている部分も多いかもしれませんが、貴方が思っている程この世界は悪くないものですよ。この世界を見て感じる努力をすれば、こんな世界にも幸せが溢れているのだと気づけるはずです』
今は、何も見えない。
だが、感じることは出来る。
そして、気づくことが出来る。
自暴自棄になっていた俺を、助けてくれる人がいるのだと────。
◇◇◇
「うーん……」
俺は目を覚まし、目をこする。
まだ寝ぼけていて視界もぼやけているため、今の自分がどういう状況なのか理解することが出来ない。
机に突っ伏して寝ていて腕を枕にしていたから、腕が若干痺れている。どうやら、俺は結構がっつりめに寝ていたらしい。
そして段々と視界が鮮明になると、俺の視線の先──隣の席で俺と同じように机に突っ伏している銀髪の少女と目が合って。
「あ、起きた」
「……ん?」
「おはよう、才木君」
「…………んん!?」
そして、俺はようやく飛び起きた。
周囲をキョロキョロと見回すと、教室には俺と小日向しか残っておらず、カーテンの隙間からは赤い夕陽の光が差し込んでいた。
「お、俺は寝てたのか? いつから寝てたんだ?」
「授業が終わる直前ぐらい。後ちょっとだったのに、最後の最後で完全に寝ちゃってたよ」
「マジか……ていうか、起こしてくれよ!」
「才木君の耳を舐めてもいいなら起こしてあげたけど、ダメって言われたから」
「いや、それは流石にダメだ……」
もしも小日向に耳を舐められていたら、俺は変な性癖に目覚めていたかもしれない。想像するだけで何だか変な気分になってしまう。
「それに、才木君の寝顔を眺めてるのも楽しかったし」
そう言って、小日向は愉快そうに微笑んだ。
一体、俺の寝顔鑑賞なんてどこが面白いのだか……。
「もし今度小日向が寝ていても、起こしてやらないからな」
「お、そんなに私の寝顔を眺めたいの?」
「あ、あぁ、おうともさ。写真に残してやる」
「ちなみに、私も才木君の寝顔撮ってるから」
「マジ!?」
小日向は携帯の画面を俺に見せてきた。その画面には、見事に俺の寝顔が映し出されていた。なんて間抜けな顔だ。
どうしても俺は小日向に敵わないのだと悟って、抵抗するのを諦めた。
「もういい、好きにしろ。待ち受けにでも何にでも使ってくれ」
「うん。プリントしてお風呂の壁に貼り付ける」
「いや、もっと使い方考えろ」
「これで擬似的に私の入浴を覗けるね、才木君」
「俺を犯罪者に仕立て上げるのはやめてくれないか」
人の家の浴室に勝手に自分の写真を貼られた上に覗き魔扱いされるなんて冤罪が過ぎる。
と、俺は小日向と呑気に話をしていたが、用事を思い出して慌てて教室の時計を見た。
「って、もう六時なのか!? まずい、早く教会に行かないと──」
どうやら俺は想像以上に居眠りしてしまっていたようで、慌てて席から立ち上がって教会に行こうとしたのだが──。
「ダメ」
小日向に腕をガシッと強く掴まれて、俺は止められてしまった。
「疲れてるでしょ、才木君」
その目は、いつも飄々としていてどこか掴みどころのないマイペースな小日向とは全然違う、半ば怒りをも含んだような、真剣な眼差しだった。
「いや、しかしだな……」
「その教会のこと、そんなに大事なの?」
「まぁ、そうだな」
俺が毎日のように教会を訪れていることはあまり他人に話したことはないのだが、つい口が滑ってしまった。
事情を全て説明すると長くなるし、小日向にそれを伝えたところで変に気を遣われるだけだろうから、説明する気にもなれなかった。
と、俺が言葉を濁していると、小日向は不安げな表情で口を開く。
「才木君、うなされてたよ。何か悪い夢見てたんじゃない?」
「さぁな……あまり快眠とは言えないかもだが」
何か夢を見ていたような気はするが、その内容は思い出せない。不思議とすぐに記憶から飛んでしまうものだ。
「今日はずっと眠そうだったし、それに悪夢を見ちゃうぐらいなんだから、余程疲れてるんだと思うよ。だから、ゆっくり休んだら?」
「でもな……」
俺にとっては当たり前の日常だから、それを中断して休むということに躊躇いがあった。
すると、小日向は席を立って、俺の頭をコツン、と軽く叩いた。
「な、なんだよ急に」
俺はまた何かからかわれるのかと思っていたが、小日向にいつもの笑顔はなく、俺のことを心配そうな表情で見ながら口を開いた。
「あまり無理しちゃダメだよ。才木君は頑張りすぎなんだから」
そう言って、小日向はなんと俺の頭を撫でてきたのだった。
それはさながら天使かと勘違いしてしまいそうな優しい手つきで、まるで猫をあやすような……って、ついさっきまで不安げな表情を浮かべていた小日向が妙にニヤニヤしていたのが気に入らなくて、俺は彼女の手を振り払った。
「や、やめろよ。別に、それが俺にとっての普通なんだ」
「そう。それは残念」
俺が小日向の手を払いのけると、行き場を失った手を力なく下ろし、彼女は少し残念そうな表情をしていた。
そんな小日向の表情を見ると、それはからかいではなく、俺の頑張りを認めての行動だったのかと思えて、俺の胸にチクリと罪悪感が走る。
「……でも、ありがとな。心配してくれて」
俺は毎日忙しなく誰かの手伝いをしているし、俺もそれを喜んでやっているが、俺のことを褒めてくれる人は少ない。きっと、皆にとってはそれが当たり前のことになり過ぎたからだ。
だから、こうして俺の頑張りを認められるとつい嬉しくなってしまい、それが表情に出そうだから俺は顔を背けたのだが──。
「私、才木君が休んじゃうと寂しいよ」
「え?」
寂しいって、それはどうしてだと思って俺は小日向の方を振り返ったが、やはり彼女は俺をからかうような笑みを浮かべて言った。
「からかう相手がいなくなっちゃうから」
……どうせ、そんなとこだろうと思ったぜ。
最近急に小日向に絡まれるようになってから彼女にはからかわれてばっかりだが、おかげで俺も退屈しない学校生活を遅れている。そのことには感謝しないとな……。
「……わかったよ。今日はちょっと休んどく」
「うん、しっかり休んで。それで明日は一緒にトライアスロンしようね」
「せっかく休んだのに、また休む羽目になりそうなんだが?」
「私はスタート地点で待ってるから」
「せめてゴール地点で待っててくれ」
多分、トライアスロンが始まって俺を見送った後にすぐ帰る気だぞコイツ。
そして、これ以上自分の席で休んでいても体が痛くなりそうだったのでさっさと帰ろうとした時、小日向が口を開いた。
「そういえばさ。教会教会って言ってるけど、才木君にとってそんなに大切な場所なの?」
……俺が教会のことを他人にあまり話さないのは、こうして理由を聞かれると困ってしまうからだ。
「昔、世話になったことがあってな。その恩返しだ」
今となってはただのオンボロな教会だが、今の俺があるのはあの教会のおかげだと言っても過言ではない。
孤独だった俺を、救ってくれた……そんな人との、思い出の場所だからだ。




