傘を差す天使(悪魔)③
「雨って、何だか不思議な感じがするよね」
雨は少し小ぶりになり、シトシト雨の中。
ピチャピチャと、雨に濡れた路面を踏みしめる音で、どうにか心を落ち着かせようとしていた。
もう一年以上同じ道を通って下校しているはずなのに、突然ドラマや映画の世界に迷い込んでしまったかのような、とてつもない非日常感に俺は襲われていた。
「そうだな」
仮に、どこかのタイミングで雪歩と一緒に帰る機会があったとしても、ただ一緒に帰るだけなら──天使たる彼女の隣を歩いて帰るだけでも俺は大きな罪を背負っていただろうに、今日はさらに一味違う。
「色んな言葉に『雨の』って枕詞つけるだけで、何だか情緒的な言葉になりそうだよね。雨の公園とか、雨の敵対的TOBとか、雨のパパゲーノ効果とか」
「そうだな」
相合傘。
そんなシチュエーションに憧れたことがないと言えばウソになるかもしれない。
しかも相手は、まるで天使のような幻想的な雰囲気すら漂わせる美少女、小日向雪歩なのだ。
こんなシチュエーションにドキドキしない程、俺の心は死んでいるわけではない。
「でもね、その言葉が含んでいる侘び寂びの雰囲気って、雪も中々負けてないと思うんだよね。雪の旅館とか、雪のジャイアントキリングとか、雪のジンバブエドルとか」
「そうだな」
俺がいつも使っている大きめの傘ならまだしも、今日使っているのは予備として持っていた折りたたみ傘だ。普通の傘よりもサイズは小さめで、その中に二人入るとなると、どうしても身を寄せ合わせないといけない。
「……ねぇ、和海君。和海君は雨と雪のどっちが好き?」
「そうだな」
正直、俺は右半身か左半身のどちらがどれだけ雨に濡れてしまっても構わない。かなり至近距離で雪歩と隣同士で歩くだけでも心臓が止まりそうなぐらいなのに──俺が離れようとしても、俺が雨に濡れないよう気遣ってくれている天使の優しさなのか、あるいは俺を動揺させようとしている悪魔の企てなのかはわからないが、雪歩はグイグイと俺の方に身を寄せてくるのだ。
「和海君?」
「そうだな」
きっと狂った洗濯機のように脈を打っているであろう俺の心臓の鼓動が雪歩にバレてしまわないか心配だ。
「……和海君って、メグのこと好き?」
「そうだな」
俺達が通う桂岡高校からサク電の最寄り駅まで、いつもなら数分ぐらいしかかからないはずなのに、今日はその時間がやけに長く感じられた。
しかし、まだこの時間を味わっていたいという気持ちも──。
「えいっ」
「ぐわあっ!?」
俺はいきなり頬をつねられた。結構強めに。
驚いて足を止めて隣を見ると、雪歩が少し不満そうな表情で俺の頬をつねっていた。
「私の話、聞いてなかったでしょ」
「ひ、ひや?」
俺は否定したが、雪歩は全然俺の頬から手を離してくれないし、余計に頬をつねる力が強くなった気がする。
……正直、雪歩が何の話をしていたか、全く覚えていない。いや、聞いていたことは聞いていたのだろうが、多分左から右へ通り抜けていったのだと思う。こういう帰り道にウェルテル効果とか香港ドルの話なんてするわけがないだろうし。
「じゃあ、私が何の話をしてたか覚えてる?」
「……しゅまん。おぼえへにゃい」
「正直でよろしい」
俺が正直に答えると、雪歩はようやく俺の頬から手を離し、今度は悪魔のような笑顔を浮かべたのだった。
「でも、良いこと聞けちゃった」
「え?」
「和海君が覚えてないなら良いけど」
「お、俺、何か言ったのか?」
「さぁねー」
俺が無意識のまま雪歩と話している間に、俺は何かとんでもない発言をしていたのか? 実はネット小説を投稿しているだなんて雪歩に聞かれたら俺はこのまま海まで走って飛び込んでくるが。
「な、なぁ雪歩。俺は一体何て言ってたんだ? 何の話をしてたんだ?」
「スクロールして戻ればわかるよ」
「いや何の話だよ!」
そんなこんなで、俺達はサク電の桂岡高校前駅に到着し、櫻ノ島方面へ向かう電車へと乗り込んだ。
俺の家の最寄りは櫻ノ島方面とは逆方向の桂岡方面だが、雪歩が友人の三門から傘を借りるついでに食堂に寄っていくことになったのだった。
しかし、試練はまだ続く。
観光地である藤咲や櫻ノ島、桂岡を結ぶサク電は元々観光客も多く、さらには帰宅ラッシュとも重なって、小さな電車は中々のすし詰め状態となるのだ。
そして、先に電車に乗り込んだ俺と雪歩は、後から乗り込んできた人々から押される形で、反対側のドアまで押し込まれ──。
「おっと!?」
「わわっ」
なんと、俺が雪歩を壁ドンするような形になってしまったのだった。
「だ、大丈夫か?」
「う、うん」
今にもお互いの体が密着してしまいそうな距離。
俺は背中から感じる圧力に耐えながら、ドアに両手をつけて踏ん張っていた。
……相合傘していた時とはまた違うドキドキ感。
さっきは隣同士歩いていただけだったが、今度はお互いに向かい合っている形なのだ。
相合傘、そして今度は壁ドンと、こんなにも異性との距離が縮まってしまいそうなイベントが立て続けに起きてしまったのは、神様からのお恵みなのか、あるいは悪魔が俺を悪の道に落そうとしているのだろうか。
さっきまでは悪魔のように俺をからかっていた雪歩も、流石に正面向かって男子から壁ドンされると怖いのか、俯きがちになって黙り込んでしまっている。
目的地である櫻ノ島までそう時間はかからないが、それまでお互いに沈黙しているのも何だか気まずい。こういう時ぐらいは俺が話を回さないと。
「な、なぁ。雨って、何か不思議な感じがするよな」
「そうだね」
俺は雪歩を視界に入れないよう正面を向き、ドアの窓越しに見える海を眺めながら話を続ける。
「よく心が晴れ晴れしているだとか、心が雨模様だとか、心情を天気で表現することもあるが、心の中に雷が落ちているって、どんな気持ちなんだろうな」
「そうだね」
海が綺麗だなぁ。今日は雨模様だから空はどんよりとしているが、梅雨時の海もこれまた風流。何か凄く良い匂いがするけど気のせいに違いない。多分最近の潮の香りってこんなものだ。気のせいだ気のせい。
「あと、心の中に雪が降っているとか、何か幻想的な光景ではあるが、どんな気持ちを表すんだろうな」
「そうだね」
何か視界の下の方に雪歩の銀色の髪が──いや、多分白銀の雪景色に違いない。昨今の地球の異常気象を鑑みるに、梅雨時に雪ぐらい降ったっておかしくないだろう、多分。気のせいだ気のせい。
……いや。
何かさっきから雪歩の答えがイマイチ的を得ないのは、気のせいではないだろう。一応俺の話に相槌は打ってくれているみたいだが、俺の話に全部「そうだね」と返すだけの相槌マシーンになってしまっている。
「な、なぁ、雪歩? 聞こえてるか?」
「そうだね」
うん、このやり取りは絶対におかしい。AIの方がもっと人間らしい受け答えをするはずだ。
多分、今の雪歩は俺の話に全部「そうだね」と返してしまう。
ならば──と、邪な考えが頭をよぎった頃。
電車は、櫻ノ島駅へと到着したのだった。
◇◇◇
俺達のクラスメイト、三門海夏の実家である食堂『みかど家』で雪歩と夕食を済ませ、俺は三門の傘を借りて帰宅する雪歩を見送ってから、いつものように教会に訪れていたのだった。
しかし今日はシスターが不在のようで、俺は懺悔室を出て聖堂に並べられた長椅子の一番前に座った。
外はまだ雨が降っているようだが、こんな雨の夜でもステンドグラスから仄かに光が差し込んでくる。
『いっちゃやだよっ、おにいちゃんっ!』
──いつかの記憶が蘇ってくる。
あの日も、こんな風に雨が降っていた。初夏と晩夏という違いこそあれど、このじめじめした暑さは似ていたように思える。
俺は、この教会に思い出があり過ぎた。こうして教会に足げく通うのも、昔の思い出に未練があるからなのかもしれない。
もう、あの子達はこの場所に戻ってこないかもしれないのに、いつかまた会える──そんな奇跡が起きることを、俺は信じていたかったのだ。
こうして神の導きとも思えるような、不思議で刺激的な日常を味わえるのなら出来るんじゃないのか、神様……。




