聖女と少年
『こんなところで、何をしてらっしゃるのですか?』
──彼女との出会いは、今でも忘れない。
それはギラギラと容赦ない日差しが照りつける、ある夏の日のことだった。
『……なんだ、お前』
教会のそばにあるベンチに座っていた俺の前に、ニコニコと微笑む少女が現れたのだ。
腰ほどまで伸びた長い銀髪、サイドに留めた黒いリボン、この松楠の海によく映えるであろう淡い水色のワンピースを潮風になびかせ、そして夏らしく麦わら帽子を被った少女。
歳は……あの時の俺と同じ七歳ぐらいか、上だとしてもそう遠くないだろうとは思っていたが、それにしてはかなり大人びた雰囲気の少女だった。
そして彼女は俺に断りも入れずに、ニコニコと微笑みながらベンチの隣に座ってきたのだった。
『綺麗な眺めですね。松楠の海や櫻ノ島がよく見えます。この景色を眺めていたんですか?』
『……知るか』
そして、俺が彼女にかなり悪態をついたことも覚えている。
彼女は驚いたような表情をしていたが、構わずに俺に話しかけてきたのだ。
『あらま。もしかして記憶喪失なのですか?』
『いや、そうじゃないだろ』
本当に、変な奴だったと思う。
あの時の俺を見て、おかしそうにクスクスと笑える奴なんてそうそういないだろう。
『貴方も、この近所に住まわれているのですか?』
『……そこだよ』
当時の俺が住んでいた、いや預けられていたのは、今よりは多少綺麗な形を残して佇んでいた教会だった。
『も、もしかして貴方は神父様の隠し子なのですか……?』
『いや、なんでそうなる』
『実は、私の祖父がそこの教会の神父なのですが、私達以外にも孫がいるとは知らなかったもので……』
あぁ、そうか。
コイツが、あの神父がよく嬉しそうに話してる孫娘のことか、と俺は合点がいった。
そして、俺は彼女を睨みながら言ったのだった。
『違う。俺は、そこの孤児院の新入りだよ』
あの教会は、ただ祈りを捧げるためでも、ただ罪を告白するためだけの場所ではなかった。
何らかの事情で親を失ったか、あるいは親と離れざるを得ない理由を持った孤児達が集まる児童養護施設が併設されていたのだ。
人数はさほど多くはないが、様々な事情を抱えた俺と同じぐらいの幼い子どもらが、『家族ごっこ』という名の共同生活を送っていた。
『あらま。それは失礼しました』
そして、彼女は俺を哀れむような顔で、口に手を当てながらそう言ったのだ。
やはり、だ。
どいつもこいつも、似たような目で俺達のことを見ているんだ。
あの時の俺は、そんな連中が憎くて憎くてしょうがなかった。
『でも、他の子ども達はあちらの施設で遊ばれているのでは? どうして貴方はここに?』
『別に良いだろ、一人でここにいたって』
『寂しくないのですか?』
『寂しくない』
『強がってはいけませんよ。寂しいなら寂しいと、辛いなら辛いとちゃんと言わなければ────』
と、一人でべらべらと喋り続ける少女を力強くギロッと睨みつけて、俺は叫んだ。
『お前に俺の何がわかるんだ!!!』
俺がベンチから立ち上がって力いっぱいそう叫ぶと、彼女は驚いた様子で身を仰け反らせた。
怯んでもいたのだろうが、それでも構わずに俺は怒りに任せて叫び続ける。
『お前も、俺のことかわいそうだと思ってるんだろ!』
『いえ、私は別に嫌味とかそういう意味では……』
『でも、言ってることがあの大人達と一緒じゃねぇか! どいつもこいつも勝手に俺のことをかわいそうだと思って、あんなボロっちい家に住まわせて、美味しくもねぇご飯を食わせて、よくわかんねぇ子どもと仲良くしろだとか一緒に遊べだとか命令してくるんだ! 俺は平気なのに、どいつもこいつもしつこいんだよ!』
俺は、これでもかというぐらい怒鳴り散らした。
彼女が悪いわけでもないのに、溜まりに溜まっていた鬱憤を吐き出すように──そんなことをしたって虚しいだけだとわかっていても、俺は己の感情に身を任せるしかなかったのだった。
突然両親を失い、望んでもないのに見知らぬ家に閉じ込められて、まずい飯を食べさせられて、同じような境遇のかわいそうな連中と一緒に生きることを強制されているのに、ルールはしっかり守れだとか、かわいそうな連中と仲良くしろだとか毎日大人達に怒られ、学校ではまるで腫れ物を触るように扱われる。
そんな環境の全てが嫌になって、俺はただひたすらに周囲に反抗し、毎日のように施設を飛び出して、一人でベンチに座って時間を潰していたのである。
それが、当時の俺にとって世界に対する必死の抵抗だったのだ。協調性なんて一欠片も持ち合わせていない、大の問題児だったのである。
『何だよ、お前まで……いきなり出てきて、まさかあいつらに言われて来たのか?』
『い、いえ、私はただ貴方が何をしているのだろうと思って声をかけただけで……』
『でも、お前もあいつらと同じようなことを言ってきた! どうして人の心をわかりきってるみたいに話せるんだよ!』
『私は、貴方とお友達になりたいと思ったんです』
『どうせそれもあいつらの命令だろ!』
『きゃっ!?』
俺はついカッとなってしまって、少女の体を突き飛ばしてしまった。
そして、彼女が悲鳴を上げてベンチから落ちて地面に倒れてしまったのを見て、俺はハッと我に返り──。
『だ、大丈夫か──』
反射的に、手を差し伸べようとしてしまった。
しかし、俺の幼い反抗心が邪魔をして、その手をグッと押さえる。
なんて、矛盾した行動なのだろう。
自分で突き飛ばしたくせに、どうしてこいつのことを心配しているんだ……。
『ほら、やっぱり』
すると、彼女はパンパンと土埃を払いながら起き上がった。
『貴方は、強がっているだけですよ』
俺に突き飛ばされたのに、彼女は笑顔を浮かべながら、そう言ったのだった。
『ち、違う……』
『本当ですか?』
『あいつらも、俺のことを「本当は良い子なんだから」とか勝手に言いやがるんだ……俺のこと、何も知らないくせに……』
そして彼女が俺の方へ一歩歩み寄り、俺の頬に手を添えてこようとしてきたので、俺は避けるように後ろへ下がる。
『いえ、貴方はお優しい方ですよ』
しかし、彼女はさらにズイッと迫ってきて、その柔らかく温かな、小さな手で俺の頬に優しく触れた。
『優しくない方は、そんな目をしません。そして、本当に寂しくもなく、辛くもない人は、そんな目をしません……』
なんだよ、こいつも全部わかった風に言いやがって。
そう言葉にしようと思っても口が動かない。
頬に触れる温かな感触が、俺の牙を削いでいく。
俺が避け続けていた、逃げ続けていた人の温もりに、抗えなかったのだ……。
『貴方は、幸せから逃げ続けているんですよ』
『逃げてるんじゃない。無いんだよ、幸せなんか』
『そうですか? では、どうしてここから海を眺めていたのですか?』
俺は、彼女の問いに答えられなかった。
答えこそ思い浮かんでいたが、それを答えてしまうと……入ってほしくない俺の心の領域に、入りこまれそうだったからだ。
俺は何も答えずに、俺の頬に触れる彼女の手を払い、ベンチに座り直して海を眺めていた。
真夏の太陽に照らされキラキラと輝く海を眺めていると、彼女も海の方を眺めながら言う。
『綺麗な海ですね』
『……わかりきってることだろ』
『そうですか?』
『そうだろ』
すると、彼女は俺の隣に腰掛ける。さっきよりも妙に体を近づけてきたが、俺はもう半ば諦めて、ツッコむのもやめた。
『こうして綺麗な海を見ていると、何だか落ち着きませんか?』
『知るか』
『でも、ここから見える海が綺麗だというのは認めましたよね?』
『だから、何だよ』
『この海を見た人全員が、この海は綺麗だという感想を持つとは限らないんですよ。何の変哲もない海だと思うかもしれないし、もっと綺麗な海があると知っている人もいるかもしれないし、もしかしたら汚いと思う人だっているかもしれません。でも……こうして綺麗だと思える海が身近にあるって、幸せなことだと思いませんか?』
海は綺麗だ。
だが、海は常に綺麗だとは限らない。
いや……綺麗だといつも捉えられるとは、限らない。
もっと透明感のある南国の海の方が綺麗だと思う人もいるかもしれないし、都会に近いこの海は汚いものだと決めつける人もいるかもしれないし、そもそもそういうことに興味のない人だって、何も感じない人だっているかもしれない。
『例えば、そちらの花壇に咲いているヒマワリを見てください。とても綺麗に咲いているとは思いませんか?』
『だから、何だよ……』
『ここから見える景色──あの海も、空も、街並みも、ヒマワリも、その景色だけでなく、こうして肌で感じる潮風や海や緑の香りも、それら一つ一つがとても素晴らしいものだとしたら、それはとても幸せなことだと思いませんか?』
海も空も街並みもヒマワリも、全て綺麗なものだとは限らない。それを綺麗だと言う人もいれば、綺麗じゃないと言う人もいるだろうし、どうでもいいと答える人もいるだろう。
だが、それらが綺麗なものだと気づくことが出来たなら……身の回りにある小さな幸せに気づくことが出来たなら、この世界には嫌なことばかりではなく、幸せにも溢れていることに気づく、かもしれない。
幸せは、決して特別なことではないのだと、あの時の俺と歳もそう変わらないはずなのに、彼女は俺にそんな説法をしていたのだ。
『別に、そんな言うほどじゃないだろ』
『じゃあ、どうして貴方はこのベンチから海を眺めていたのですか?』
『それは……』
別に、彼女が言うことを無視しても良かったのだが。
彼女が持つ謎の魔力に、俺は絆されてしまっていたのかもしれない。
『……思い出せるからだよ。父さんや母さん達のことを』
最初は、父さん達のことを思い出したくないぐらい怖かったのに、今では昔のことが恋しく思えるほどだった。
『この海と空だけは、一緒なんだ……昔と』
寂しくないなんて、ウソだ。
辛くないなんて、ウソだ。
何もかもをウソで塗り固めて、俺はただ子どもながらに反抗しているだけだった。
もう人前では泣きたくなかったのに、自然と涙が溢れ出てきていた。止めたくても、一度溢れ出たものを止めることは出来ない。
すると彼女俺のことを抱きしめ、優しくギュッと、俺の頭を胸に抱えた。
『この海を、空を、森を、花を綺麗だと思える貴方なら、人のことも綺麗だと思えるはずです』
あんなに泣いたのは、父さんや母さん達が死んだ時以来だっただろう。
こんなにも、人の温もりが安心できるだなんて……いや、俺は知っていたはずなのに、逃げ続けていたのだ。
両親を失い、施設の職員達からはかわいそうだと過剰に同情され、学校では腫れ物に触れるように扱われ、そんな同情や哀れみに、俺は反抗していたのだ。
未だに両親の死を受け入れられず、新しい環境にも馴染めずにいたストレスを、周囲に当たり散らしていただけだ。
いとも簡単に壊れてしまいそうな、自分を守るために……。
『だから、貴方がたくさんの人を愛せるように、私が貴方のことを愛します』
彼女は、荒んでいた俺を救ってくれたのだ。
聖女のように美しい心と、慈悲深い愛で……。
『そういえば、まだお名前を聞いていませんでしたね。貴方のお名前は?』
『小倉、和海だ』
『和海さん、ですね』
『お前の名前は?』
『私の名前は────』
彼女は、俺の前に降臨した天使か、女神か、あるいは聖女だったのかもしれない……。




