やっちゃったやっちゃった【Side:雪歩】
やっちゃったやっちゃった。
どうしようどうしよう。
やっちゃったやっちゃった。
どうしようどうしよう。
逃げるように学校を飛び出して、ひたすらに歩道を駆ける私の頭に、ついさっきのことが何度もリフレインする。
『──なぁ……俺と、付き合ってくれないか?』
びっくりした。驚いた。びっくらこいた。たまげた。驚嘆した。意表を突かれた。仰天した。耳を疑った。面食らった。思考が止まった。脳がフリーズした。度肝を抜かれた。目玉が飛び出そうだった。心臓が止まりそうだった。
まさか、和海君からそんなことを言われるなんて。
あんなに真っ直ぐな男の子の目、初めて見た。
『──そ、それはっ、流石に、無理っ』
やっちゃった。
私は、どうしてあんな風に言ってしまったんだろう。
違う。別に和海君のことが嫌いというわけじゃない。
ただ、心の準備が出来ていなくて、いや、そういうわけじゃなくて、ただびっくりしちゃっただけで────。
「あ、雪ちゃんだ。どうしたのそんな慌てて──って、雪ちゃーん!?」
サク電の駅へ向かう途中で偶然遭遇した海夏に声をかけられたけど、私には海夏と話すような余裕なんてなくて、そのまま海夏の横を走り抜けた。
「雪ちゃん雪ちゃんっ、どうしたのそんな慌てて走っちゃってさ! 今までに見たことないぐらい豪快なフォームで走ってるけど!?」
海夏は運動神経が良いから、走っている私にすぐに追いついて隣に並んで走っているけれど、今の私には自分の走るフォームなんて気にしている余裕なんてなかった。
「今、ちょっとヤバいの」
「ど、どうしたの、何かあったの!?」
「ううん、とにかくヤバいの!」
「どういうことなの!? って、雪ちゃーん!」
丁度交差点の信号が切り替わるギリギリのところで私は横断歩道を渡ったけれど、海夏は律儀に信号を守ったから、私はそのまま海夏を置いて駅へと向かったのだった。
どうしようどうしよう。
どうすればいいんだろう、私は。
サク電の電車に乗ってからも、私は全然落ち着けなかった。
いつもなら席が空いていたら座っていたのに、私はジッとしてられなくて車両の中をあっち行ったりこっち行ったりと、ずっとウロウロしていた。
ずっとソワソワしていて落ち着きのない私は他の乗客達に奇異の目で見られていたけれど。そんなことも気にしていられずに、電車が最寄りの櫻ノ島駅に到着すると私は家へと──駅から見える、あの教会へと走り出したのだった。
どうしようどうしよう。
私は教会の中を走り回りながら、必死に自分を落ち着かせようとしていた。
どうして、私は逃げちゃったんだろう。
でも逃げなかったら、それはそれで私は恥ずかしさに耐えられずにオーバーヒートしていただろう。
その末に私がなんて答えていたのか、自分でも想像つかない。
この体の火照りはきっと、ただ走り回っていることに起因しているだけじゃないはず……。
「つ、疲れた……」
自分が一体どれだけ走り回っていたかわからない。自分では全速力で走り回っていたつもりだったけれど、傍から見ればそうでもなかったかもしれない。
ゼェゼェと息を切らして、私は教会の長椅子に腰掛けた──。
「そんなに慌ててどうしたのかな、お嬢ちゃん」
「うひゃあっ!?」
突然誰かの声が聞こえてきて、私は飛び上がるように驚いてしまう。
「おや、儂の存在に気づいてなかったのかい。余程慌てていたと見える」
見ると、通路を挟んで向かいの長椅子に、ド派手なアロハシャツに白のハーフパンツ、そして麦わら帽子にサングラスといういかにもこの松楠らしいファッションで、真っ黒に肌を焦がし、まるで亀◯人のように立派な髭を携えたお爺さんが座っていたのだった。
こんな近くにいたのに、何ならこのお爺さんの前を何度も行ったり来たりしていたはずなのにその存在に気付けないぐらい、私は周りが見えなくなっていたのだろう。
「あっ、えっと、すみません。あの、この教会に礼拝にいらっしゃったのですか……?」
「いやいや、ただ散歩のついでにフラッと立ち寄っただけの、しがない耄碌ジジイじゃよ」
と、お爺さんはガハハと笑っていた。結構ご高齢みたいだけど、何だか若々しい人だ。
「して、どうしたのじゃお嬢ちゃん。何か困ったことでもあったのかい」
「いえ、その……ちょっとびっくりするようなことがあっただけで、大丈夫です」
「そうかいそうかい。若い子は元気なのが一番じゃ」
お爺さんがいてくれたおかげで、私はどうにか落ち着きを取り戻していた。
それにしても、このお爺さんはどういうお方なのだろう。こんな寂れた教会に来る人なんて、それこそ和海君ぐらいなのに。
「お嬢ちゃんも。よくこの教会に来るのかい?」
「この教会の裏手に、私の家があるんです」
「おぉ、じゃあ君がここの神父のお孫さんかい? 最近また入院したと聞いたが、彼は元気でやってるかの?」
「はい、病院でも元気ですよ」
どうやら私のおじいちゃんと知り合いみたいだけど、今までこんな人が教会に来たことあったかな?
こんな目立つ格好のお爺さんなら、流石に覚えてそうなものだけど……。
「それより、この教会は綺麗じゃな」
「そ、そうですか?」
「少しガタも来ているようじゃが、見事な造りじゃ」
この教会は戦前に建てられたらしいけれど、今はろくに改修とかもしていないから、大分ボロボロになってきてしまっている。どれだけ和海君が補修してくれても、追いつけるようなものじゃない。
「お嬢ちゃんや。君は、この教会を遺すつもりはあるかい?」
「の、のこす、ですか?」
「そうじゃ。儂はの、明治維新の折に日本に存在した数多の名城が廃城となって取り壊され、そして戦火による破壊もあって遺構が殆ど現存しとらんことが残念でたまらない。それは城やこういう教会といった建造物に限らず、絵画だとか書物だとか、歴史的、文化的に価値あるものもそうじゃ」
お爺さんはステンドグラスを眺めながら語り続ける。
「じゃがの、いざそういった数多の名城を遺すとなったら、どれだけの労を要すると思う? 櫓や門、石垣は時が経つにつれやがて朽ち果てていくじゃろう。そして敷地内の植物の手入れも必要じゃ。そのための費用を民間が捻出するのも一苦労、行政が捻出するには民意を納得させるための理由が要る。そういった人類の歴史を後世に伝えるために遺すという行為は、儂らには想像つかんほどの、たゆまぬ努力で成り立っているのじゃよ」
現に、私はこの教会を遺すことがどれだけ大変なことかを思い知らされている。
おじいちゃんはもう潮時だなんて言っているけれど……私は、そんな簡単に思い出の場所が無くなってほしくない。
「お嬢ちゃんにはちと想像つかん話かもしれんがね。でも、これを身近なものに例えて考えてご覧なさい。お嬢ちゃんにも、ずっと覚えておきたい良い思い出もあれば、忘れてしまいたい悪い思い出もあるじゃろう。良き思い出をいつまでも良き思い出とするのも一苦労、そして悪い思い出とも付き合っていくのも一苦労じゃ」
お爺さんが言うように、たった十七年ぐらいしかない私の人生の中でも、良い思い出も悪い思い出もある。
そして今の私は、悪い思い出になるかもしれない出来事と、向き合わなければいけない状況にある……。
「人間関係もそうじゃ。人生にはいくつもの転機があり、新たに築かれる関係もあれば、廃れていく関係もあるものじゃ。自分にとって良い人間関係が必ずしも良い結果を導くこと限らず、自分にとって悪い人間関係が必ずしも悪い結果を導くとも限らぬ。人生のどこかで、細々と繋いでいた縁が自分を助けてくれることもある。じゃがな、お嬢ちゃんがいつか学校を飛び出て社会の海に迷い込んだ時、昔から繋いでいた縁を保つのは大変なことなのじゃよ」
進学、転校、就職、引っ越し。人生には色んな転機があって、それまで親しかった人と物理的な距離が離れてしまうことも多々ある。
そして……身近な存在であっても、心の距離が離れてしまうこともある。
それが、悪い思い出になることだって……。
「若い内はな、大いに迷いなさい。人生に正解も不正解もない。それがわかるのは、きっと自分が死ぬ時じゃろうな。儂の人生も色々なことがあったがの、儂も死ぬ時には、良い人生だったと思いたいものじゃ」
そう言って、お爺さんはガハハと笑っていた。
このお爺さんはいずれ自分が死ぬ時が来ても「最高の人生じゃった!」と叫んでそうな、そんな雰囲気がある。
それを見て、私は……少し、羨ましいと思った。
「さて、儂の暇潰しに付き合ってもらって悪かったの。歳を取るとついつい長話をしてしまう、これが若い子に嫌われる所以なのかもしれんな。またな、お嬢ちゃん」
「は、はい……さようなら」
お爺さんは杖をつきながら帰っていったけれど、その足取りを見るに全然杖なんていらなさそうだった。
お爺さんが帰った後、一人残された私は、教会のステンドグラスを眺めながら考えた。
私は、和海君と向き合わなければならない。
今回の出来事、元はと言えば、私に原因がある。
そして、私は──懺悔室の中へと入った。
今日も、和海君が来てくれると信じて。
一体、どれだけの時間が経ったのだろうか。
ギィィッと、教会の重い木の扉が開く音が聞こえた。
コツ、コツ、と聞き慣れた上靴の足音が、ゆっくりと、そしてまっすぐにこの懺悔室へと近づいてくる。
私は胸の前で手をギュッと握りしめ、祈るようにその時を待った……。




