天使の寝顔、悪魔の所業③
「和海って、いつも掃除ばっかりしてるわね」
放課後、俺が体育館の壁を高圧洗浄機で洗っていると、通りがかった姉貴が半ば呆れた様子で呟いた。
「皆が面倒くさがる仕事だからこそ、そういう仕事ばっかり俺のところに巡ってくるんだよ。でも意外と楽しいぞ。やっぱ高圧洗浄機って爽快感あるし」
「そういうのって業者がやってくれるもんだと思ってたんだけどねぇ」
「本来はそっちに回すはずだったお金を他の所に還元してくれるなら、俺はそれで満足だ。姉貴からも言っておいてくれ、教室のエアコンの効きが悪いって」
「いうて私にもそんなに権限あるわけじゃないんだけどなー」
姉貴は良いお嬢様学校に通っていたから学校の清掃なんて業者に任せっきりだったのかもしれないが、この公立の桂岡高校ではそうもいかない。今日は俺と用務員の先生の二人で体育館の壁を綺麗に洗浄している所なのである。
「で、姉貴はこんな所まで来て何してるんだ? またサボりか?」
「職員室の窓から可愛い弟が高圧洗浄機をぶん回してるのが見えたから、私は姉として可愛い弟を褒めてやるべきだって思い立ったわけよ」
「教師としての仕事を放置してか?」
「今日は文芸部も休みだし、おっさんばっかりのむさ苦しい職員室にいたって気が滅入るだけだし、やっぱり若者から生気を吸い取らないとやってられないのよね。というわけで和海、アンタ何か青春しなさいよ。それを見たら私も少しは若くなれるから」
「どういうメカニズムだよ……」
俺と姉貴は十歳も年が離れているとはいえ、姉貴もまだ若い部類に入るはずだ。本人はもうそう思っていないのかもしれないが。
すると、姉貴は途端にニヤニヤしながら口を開く。
「そういえば、最近和海のことが噂になってるわよ、先生達の間でも」
「へ? 俺って何かやらかしてたか?」
「ううん、小日向ちゃんと最近イチャイチャしてるって噂」
俺は驚いて思わず高圧洗浄機を落としそうになった。
「な、なんでそんな噂が職員室で流れてるんだよ!」
「そりゃ、そういう若い子のゴシップネタが日頃の疲れを癒してくれるからよ! 羨ましいわ~私もそんな青春してみたかった……」
先生達にもネタにされてしまうとは、まさかそれも雪歩の策略か? そんな噂されるほど、俺は雪歩とそんなわかりやすくイチャイチャしていただろうか?
そんな雑談を交わしながらも俺が壁の洗浄を続けていると、姉貴は大きな溜息をついてから口を開いた。
「あーあ、私も今から青春出来ないかなー。女子校なんかじゃなくて共学に行きたかったわ」
「制服でも着て、女子高生の中に混ざってプリクラでも撮ってみたらどうだ?」
「いや、もう今の私が制服着たって、そういうお店の従業員にしか見えないのよ」
「そういうお店とか言うな、学校で」
「もっとVRとかの技術が発達したら、私も仮想現実の世界で爽やかなイケメン達とパラダイス出来る少女漫画みたいな恋愛してみたい……。ほら、少女漫画の主人公って、弟とかいがちじゃない? しかも結構キャラ濃いめの」
「俺ってそんなに濃いか?」
「一ヶ月溜めた分ぐらいの……」
「何だ? もしかして俺にセクハラしてるのか?」
何のことだか、と姉貴はかっかっかと高笑いしていた。まぁ深くは考えないでおこう、俺の邪悪な心はこの高圧洗浄機で全て洗い流してくれる。
「まぁ、雑談はここまでにして、本題ね」
俺の前ではいつもおちゃらけている姉貴が、急に真面目な表情をする。
その大人びたミステリアスな雰囲気こそ、この学校の生徒達が想像する才木琴子という国語教師のイメージかもしれないが……弟である俺にとっては、そうではないのだ。
あまり向かい合いたくない現実と、向き合わなければならなくなるからだ……。
「お昼に父さんから連絡があったんだけどね。今夜遊びに来ないかって」
やはりその話か、と俺は姉貴から目を逸らして、体育館の壁で跳ね返った水しぶきが作り上げた小さな虹を眺めていた。
「……用件は?」
「上等な松阪牛を仕入れたから、一緒に食わないかってさ。家に職人を呼んでパーティーするって言ってたけど、どう?」
わざわざ家に職人を呼んで、か。
あの人らしい豪勢さである。
「俺は良い。俺もそんなに暇じゃない」
「えー、良いの? 父さんって結構目利き良いから、もう目玉が溶けるぐらい美味しいわよ絶対」
「美味しい牛肉と引き換えに目玉を失いたくないんだが」
「まぁ、あんなもの食べたらそこら辺で売ってるお肉なんて食べられなくなっちゃうし、ガキンチョに食わせるには上等過ぎるかもしれないわね。私はたっぷりいただいてくるけど! ステーキとかあったらタッパーに詰めて持ち帰ってくるから期待してて!」
名店の職人が来るような場所でタッパーを持ち出してしまう人なのである、この才木琴子という人は。
きっと俺には想像もつかないぐらい高級なマグロを食べられる機会なのだろうが、俺はそんな餌では釣られない。
……腹はめっちゃ減ってきたが。
「たまには父さんにも会ってあげなさいよ、和海」
去り際に、姉貴は俺にそう言った。
「長生きするだろ、あの人は」
違いないわね、と姉貴は笑いながら去っていった。
しかし、肉か……。
少し惜しいことをしてしまったような気分だが、だからといって解決できないような、色々と複雑な事情があるのである、俺とあの人の間には。
こうして、わざわざ姉貴が間に入って仲介役に入るぐらいには……。
体育館の壁の洗浄を終えて、用務員の先生から御駄賃としてコーラを奢ってもらい、俺は鞄を取りに教室へと戻った。
もうそろそろ部活動生達も帰り始める時間で、二年生の教室がある校舎に人気はなく、廊下では誰ともすれ違わなかったが──静かな教室に入ると、一人の生徒が残っていた。
「……雪歩?」
俺の隣の席に彼女は座っていた。持参のタオルを枕にして、なんとスヤスヤと眠っているのである。
俺は雪歩を起こさないよう忍び足で教室の中を進み、自分の席まで移動する。
俺が側に来ても雪歩は目覚めることなく、すぅすぅと可愛らしい寝息を立てている。
天使の寝顔、とはよく言ったものだ。
確かにと俺は納得させられる、悔しいが。
一度それを視界に捉えると、もう目を離せなくなってしまう。周囲の状況も、時間も気にならなくなってしまうぐらい、夢中にさせられてしまう。
最早、その存在は天使を通り越して女神とも呼べるのかもしれない。実際、二年生になって雪歩と同じクラス、ましてや隣同士になってから、俺は今までと変わりないはずの日常に充実感を覚え始めている。
もし、雪歩が悪魔のように俺をからかってこなければ、俺も他のクラスメイト達と同じように彼女のことを天使だとか女神だと崇めていたかもしれない。
だがどうして、雪歩はこんなにも俺に絡んでくるのだろう?
隣の席だから?
それだけか?
それ以外に何かあるのか?
ふと、頭の中にとある可能性が思い浮かぶが、俺はすぐにそれを取り払う。
まさか、そんなはずは……。
あるいは、雪歩もまた、過去に俺に助けられたことがある?
しかし、俺にそんな記憶はない。今までに雪歩のような人と出会っていたなら、きっと嫌でも覚えているはずなのに。
もしくは……単純に俺の反応を楽しんでいるだけなのかもしれない。
それが、天使天使と崇められてきっと生きづらい思いをしているであろう雪歩のためになるのなら、俺もやぶさかではないが……。
……せっかくだし、日頃からかわれている仕返しに、彼女の寝顔を写真に収めてみようか。前に俺の寝顔も勝手に撮られているんだし、おあいこのはずだ。
俺は携帯を取り出してカメラを起動し、構える。
とても現実とは思えない天使の寝顔が、今現実として写真に収まろうとしている。
だが、なぜだか妙に手が震えてしまう。
俺は、一体何を恐れているんだ?
どうして、こういう時に限って勇気が出ない!?
いや、こういうときこそ思いきりが大事だと、俺がシャッターを押した瞬間────天使が、目を覚ました。
携帯の画面越しに、俺と雪歩の目と目が合う。
なんだろう、このデジャヴは。
「……おはよ、和海君」
目覚めたばかりで頭が覚醒しきっていないのか、少しふにゃっとした感じで雪歩は言う。
「あ、あぁ、おはよう」
そして、彼女の目の前で俺が携帯を構えているという状況をようやく理解したのか、雪歩は目をパチクリと開いて言う。
「もしかして……ね、寝顔、撮った?」
俺は携帯の画面の左下を見る。そこには、今撮ったばかりの雪歩の寝顔がバッチリと映っていた。
「あぁ、バッチリな」
どうせからかわれるぐらいなら、動揺を感じられないよう堂々と俺は振る舞ってみせた。
一方で雪歩とはいうと、ガバッと起き上がって、俺がそれにびっくりしている間に、彼女は顔をりんごのように真っ赤にして口を開いたのだった。
「と、撮ったの!?」
雪歩が今までに出したことのないぐらい大きな声を出したので、俺はますます驚いた。
「あ、あぁ、撮ったとも。見てみるか、自分の寝顔」
「だ、ダメッ」
雪歩が慌てた様子で手を伸ばしてきたので、俺はびっくりして反射的に携帯を持った手を引っ込めた。
それでも雪歩が必死に手を伸ばしてくるので俺が立ち上がって避けようとすると雪歩も立ち上がるが、身長差のせいか届かない雪歩は、ぴょこぴょこと跳ねながら俺の携帯を奪い取ろうとしていた。
「だ、ダメなんだからっ!」
わかりやすく、顔を紅潮させながら。
……もしかして、恥ずかしがっているのか?
あの雪歩が?
「も、もしかしてお前、恥ずかしいのか? あんだけ俺の寝顔をからかっておいてか?」
「べ、別にっ、恥ずかしいわけじゃ……ないもん」
雪歩は俺の携帯を奪い取るのを諦めて、俺からプイッと顔を背ける。
「良いもんだ。私は和海君に寝顔を撮られても、その写真をどう使われても恥ずかしくないからね」
「じゃ、じゃあ、携帯の待ち受けにしてもか?」
「うん、全然平気」
そんな耳まで真っ赤にしていると全然平気そうには見えないが、ならば、と俺は早速携帯の待ち受けに雪歩の寝顔を設定した。
「見ろ、これでも恥ずかしくないのか?」
「ぜ、全然。ラーメンの出汁に使われたって平気だから」
「どんな出汁が出るんだよ」
「じゃ、じゃあねっ。いつか和海君の寝顔で映画を撮ってあげるから!」
と、妙な捨て台詞を吐いてから雪歩は鞄を持ってタタタッと教室から飛び出てしまったのだった。
雪歩がいなくなり、教室に一人残された俺は、初めて雪歩に勝ったという優越感に浸る──わけでもなく、またしても動揺させられていた。
『べ、別にっ、恥ずかしいわけじゃ……ないもん』
俺は、初めて目にした。雪歩が動揺する姿を。
いつも天使天使と崇められても飄々としている雪歩が、まさか動揺するなんて……。
そして、雪歩が自分の寝顔を写真に撮られて恥ずかしがる姿を見せられた俺も動揺しているのだ。
どうして、俺もこんなに動揺させられているのだろう?
どうして……顔を真っ赤にして慌てふためいている雪歩の姿を見て、俺もドキドキさせられているのだろう?
俺は、自分の携帯の画面を見た。画面には、待ち受けにした雪歩の寝顔がデカデカと映っている。
そして俺は、携帯の待ち受けを元の教会の写真に戻したのであった。




